スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

男性棋士のブログ&限定と否定

2007-08-31 21:05:20 | 将棋トピック
 僕は自分でブログを書くほかに,チェックしているブログ,サイトなどがあります。今日はそのうち,男性棋士のブログを紹介します。
 まず渡辺竜王。これはgooのオフィシャルブログですし,とくに説明の必要はないでしょう。
 僕が最も楽しみにしているのは森七段のブログで,毎日のようにどこかへ出掛けるバイタリティーのある方。将棋の話より紀行の話が多いくらいで,これは将棋ファンでなくとも間違いなく楽しめると思います。ほかにも「あれこれ」ありますが,それにもここからいけます。
 森七段は関西で才気溢れる弟子を多く育てていますが,東で優秀な弟子を多く抱えているのが所司七段。渡辺竜王も所司門下になります。
 森門下では東大卒という片上五段。ほかにオピニオンもあります。山崎七段も森門下ですが,こちらは正確にはブログではないでしょう。
 片上五段と同じC級1組では広瀬五段。ブログでときに垣間見られる棋士としての心情に惹かれるものがありました。窪田六段,神崎七段,上野五段も同じクラスになります。
 編入試験で話題をさらったのが瀬川四段。棋士番号は259ですが,そのひとつ前の258番が遠山四段
 最後に大平五段。明日からメールマガジンを発行するそうです。僕も登録してみましたが,どんなものになるのか楽しみです。
 男性棋士のブログはほかにもあります。興味があれば勝手に将棋アンテナでチェックしてみてください。

 明日から岐阜記念。武田選手が中心でしょうか。

 スピノザの哲学では,肯定と否定ということは,まず事物が実在あるいは存在する力に関連していわれているように思います。これは,第一部定理八の別の証明でスピノザが前提している事柄についてもいえるのではないかと思います。しかし一方で,この事物が実在する力という観点から離れて,ここで無限であるということが絶対的肯定であるとされ,有限であるということが部分的否定であるといわれていることに,僕は少しこだわってみたいのです。というのも,第一部定義六説明で,スピノザが絶対に無限であるということを説明するときに,そこには一切の否定が含まれないといっているからで,これでみると僕には,どうも肯定と否定ということは,実在する力に関係するだけでなく,ここでのテーマである無限と有限にも大いに関係しているように思えるからです。
 単純化していえば,有限であるということは,その事物がほかの事物によって限定されるということであり,無限であるということ,少なくとも同じ属性を有するはほかのものによってはそうした限定を受けないということですから,有限であるということが否定であるとすれば,限定こそが否定であり,一切の限定を受けない無限なものは否定ではない肯定である,すなわち,限定とは否定であるということになると思うのです。つまり,ある事物がほかの事物によって限定されるということは,実はその事物がほかの事物によって否定されるということを意味するのではないでしょうか。逆にある事物が無限であるということは,その事物がほかの事物によって否定されるということがないということを意味するのではないでしょうか。
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王位戦&実際の問題

2007-08-30 21:51:32 | 将棋
 王位戦七番勝負第五局
 注目の封じ手(53手目)は▲6五歩でした。後手の深浦康市八段の攻めを呼び込む可能性もある手と思いますが,先手の羽生善治王位としては,局面をはっきりさせてしまおうという意図があったのではないかと思います。
 ここから後手も苦心して手を繋ごうとしましたが,65手目に▲6五歩と銀を取られた局面では少し切れ模様でしょうか。この後,先手に飛車を切らせて72手目に△3八飛と打ち込みましたが,ここで▲7八金打と受けられた局面では,先手がはっきりと優勢といえそうです。
 この後の先手の反撃が強烈。羽生王位は79手目の△4三歩で勝ちを意識したようですが,全体的にみると,少し攻められはしたものの快勝といえるのではないでしょうか。僕の印象だと,すでに封じ手の局面において厳密には先手の方がよく,そのまま勝ちきったということだと思います。僕は後手が玉が4一のままで攻撃に出たことを不安視しましたが,深浦八段は銀が5三で角道を止めたまま攻めに出たのがまずかったと言っています。
 これで羽生王位の2勝3敗。深浦八段としては,先手となる次の第六局が重要な一番になりそう。その第六局は9月10日と11日に指されます。

 このような実在的視点を導入することによって,事物が無限であるということが,その事物の存在の絶対的肯定であるということを無条件にみなすことができるかどうかということを別としても,スピノザが第一部定理八の別の証明で前提しているこのことに関しては,少なくともその内容,つまり,絶対に無限であれ自己の類において無限であれ,無限であるといわれるものは,自然のうちに実在する限り,永遠なものとして実在するということは明らかであって,仮にそれが自明の前提ではないとしても,永遠なる実在というのが,存在に関する絶対的肯定であるということは覆しようがなく,何らかの誤りが含まれているということではありませんので,実際の問題としては,ここから何らかの不条理な事柄が結論されてしまうというわけでもありません。そこで,この問題に関してはこれくらいにして,ここでスピノザが無限をある絶対的肯定とみなし,有限をある部分的否定とみなしていることに注目を移すことにします。
 ある事物が有限であるということは,第一部定義二により,その事物が,ほかの事物によって限定されるということを意味します。もちろんこれは,とくにスピノザの哲学に訴えなくても,それ自体で明らかだと思います。逆に無限であるものは,そのような限定を受けないのであって,これは無限の性質のひとつです。そしてこのことが,無限であるということが絶対的肯定であり,有限であるということが部分的否定であるということと,関係していると僕は考えているのです。
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罪と罰考&実在的視点

2007-08-29 20:52:57 | 歌・小説
 『罪と罰』はそのストーリーの内容と別に,僕にはひとつ思うところがあります。それはこの小説のタイトルが『罪と罰』であるということ,正確にいうならば,この小説のタイトルが『罪と罰』と日本語に訳されていることです。
 単純にいえば,主人公であるラスコーリニコフが殺人を犯し,シベリアへの流刑に処されるわけです。これがこの小説における罪であり罰であるということができます。しかしドストエフスキーは明らかにこの小説をそのようには描いていないように思えます。殺人という行為とそれに対する流刑という処置は,いわば犯罪とそれに対する刑罰であって,ラスコーリニコフにとっての本当の罪,あるいは本当の罰というのは,それとは違うところにあるというような描かれ方をしているように思えるのです。
 ドストエフスキーの小説というのが心理小説であり,僕はその部分に面白さを感じるということは『賭博者』のときにもいいましたが,実は罪とか罰というのも,ラスコーリニコフにとってラスコーリニコフ自身の内面的な問題であり,そしてこうしたことは,小説の登場人物であるラスコーリニコフに特有の事柄ではなく,広く人間一般に妥当するのではないかと,この小説を読んで僕は感じるのです。
 イタリアの刑法学者であるベッカーリアに『犯罪と刑罰』という著書があり,ドストエフスキーはそれを知っていて,この本のロシア語の複数形を単数形に変えて『罪と罰』を書いたそうです。『犯罪と刑罰』ならぬ『罪と罰』。その題名からして見事な作品であると思わずにはいられません。

 王位戦七番勝負第五局は相矢倉。先手の羽生善治王位の森下システム志向に,後手の深浦康市八段は玉を4一のまま攻め,銀桂交換の駒得を果たしました。ただ玉形は弱いですからそう簡単にはいかないでしょう。封じ手が難しそうなのであえて▲4六歩を予想しておきます。

 ある事物が無限であるということが,少なくともその事物が属する属性においては,最高の実在性を有するということを含意するということは問題ないだろうと思います。そこでそれが無限である事物の絶対的肯定であるといえるかどうかということに関しては,次のような実在的視点を導入しなければ,それを正当化することはできないのではないかと思っています。
 ある属性における有限である事物と無限である事物を比較した場合には,無限である事物が有限である事物に対して,より大きな実在性を有します。これは無限である事物が,その属性における最高の実在性を有するということから明らかでしょう。そこでこのとき,第一部定理一一第三の証明で神の実在を証明したときの,神と神以外の事物との関係が,無限である事物と有限である事物との関係にも適用し得ることになります。これは単に事物が実在することをその事物の力とみなすことのみを前提としていますから,ここで適用してもいいと思います。
 したがってこれによれば,ある属性においては,無限なものが存在するか,そうでなければ何も存在しないかのどちらかになります。ところが,一般に事物が有限であるということはその事物の部分的否定,裏を返せば部分的肯定ですので,有限な事物は存在するでしょう。よって無限な事物は必然的に実在することになります。それが必然的に実在するのであれば,それはその事物の存在の絶対的肯定であるといって構わないでしょう。よってこの視点からは,確かに無限であるということが,その存在の絶対的肯定であるといい得るように思います。
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いわき平記念&最高の実在性

2007-08-28 22:18:14 | 競輪
 実に6ものグレードレースが開催された今月のラストを飾ったいわき平記念の決勝(動画)。
 神山選手がSを取って矢口選手の前受け。4番手が村上選手,6番手から菊地選手で周回。残り2周のホームから菊地選手が上昇して前を抑えると,バックですかさず村上選手が巻き返して菊地選手を叩き,打鐘先行。菊地選手が3番手で矢口選手は7番手に置かれました。ホームから菊地選手が巻き返しましたが,山崎選手が離れてしまい,単騎に。いききりましたが村上選手が2番手にはまりました。立て直した山崎選手がバックから自力で捲って出ると,村上選手も合わせようとはしましたが,あっさりと捲りきり,そのまま番手の佐藤選手と抜け出しました。直線も山崎選手は追撃をほとんど許さずに優勝。佐藤選手が2着で,離れはしたものの3着にも村本選手が入り,このラインでの上位独占になりました。
 優勝した福島の山崎芳仁選手は今月上旬のふるさとダービー函館に続いての連続優勝。記念は4月の川崎記念以来。自力を出せば強いということははっきりしていますが,番手を回った選手のレースとしては合格点はあげられないように思います。今後もこういう機会が多くなると思いますので,番手の際にはギアを少し下げるなど,何らかの工夫は必要かもしれません。ただ,地元でワンツーですから,結果としては最高で,これについては文句のつけようもありません。

 明日から王位戦七番勝負の第五局。後手の深浦八段が勝ちますと,新王位の誕生になります。

 それと同一の属性に属するほかのものについては,その本性あるいは実在性をすべて含んでいなければならないということが,ある事物が無限であるということの性質のひとつであるとすれば,少なくとも無限である事物は,その属性においては最高の実在性を有するということになります。したがってある事物が無限であるということは,直ちに,その事物が,少なくともそれが属する属性においては,最高の実在性を有するということを含意していると考えていいだろうと思います。また,第二部定義六により,事物が無限であるということが,その事物が属する属性において最も完全であるということもいえると思います。
 ただ,このことがスピノザが第一部定理八の別の証明でそう前提しているように,事物が無限であるということがその事物の存在の絶対的肯定であるといえるかどうかに関しては,僕は少々の疑問を持っています。というのは,事物が有限であるということは,その事物がたとえば第一部公理七でいう存在しないと考えられるものに該当するという意味から,そのものの存在の部分的否定であることは間違いありません。しかし部分的否定というのは,裏を返せば部分的肯定なのであって,この肯定に比較した場合,無限である事物の存在に関してはさらにそれが肯定されていることは僕も認めます。しかしそれが絶対的な肯定といえるのかどうかは分からないです。ただ,事物が無限であるということが,その事物の存在の絶対的肯定であるということを無条件で前提するためには,こういう方向でしかそれを考えることはできないのではないかと思っています。
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罪と罰&別の観点

2007-08-27 20:47:03 | 歌・小説
 『賭博者』はギャンブルをやる人にはお勧めで、僕もそうですから楽しめましたが、ドストエフスキーの小説で何が最も面白いかといわれれば、僕は読んだものの中では(当り前ですが)迷わずに『罪と罰』を推します。
             
 これは『カラマーゾフの兄弟』の登場人物でいえば,イワンにあたるような理知的な主人公であるラスコーリニコフが,その理知性のゆえに殺人を犯し,自分では予期しなかった罪の意識に苛まれ,そこから快復していく物語。長編ではありますが,新潮文庫版で上・下巻ですので,『カラマーゾフの兄弟』ほどは長くありません。また主要な登場人物の数も『カラマーゾフの兄弟』ほど多くはありませんので,読みやすいのではないかと思います。
 最も印象に残っているのは,ラスコーリニコフが最初に自分の犯した罪を娼婦であるソーニャに告白したとき,ソーニャがラスコーリニコフに対して言ったこのことば。「いますぐ外へ行って,十字路に立ち,ひざまずいて,あなたがけがした大地に接吻しなさい,それから世界中の人々に対して,四方に向っておじぎをして,大声で《わたしが殺しました!》というのです」。
 この部分は職場に向う途中の朝の電車の中で読んだのですが,この日はこの強烈なことばに打ちのめされ,仕事が手につかないような感じでした。

 明日はいわき平記念の決勝です。並びは菊地-山崎-佐藤の北日本に村本,矢口-神山-小橋の関東,村上-荒井の西日本で変則3分戦。うまく先行争いを誘えれば西の遠征勢ですが,番手がどちらも動けるタイプですから難しいかもしれません。

 ある事物にとって,その本性と実在性というのが,別の観点からみた同じもののふたつの側面であるということは,実は,ある事物とほかの事物の間では,完全性perfectioにおいては一切の優越性が否定されるということ,すなわち一方が他方に対してより完全であるということはあり得ないということから,帰納的にも説明することができるのではないかと僕は考えています。
 たとえば,人間が三角形に対して,より完全であるということができないのは,人間の完全性とは人間の実在性realitasのことであり,三角形の完全性とは三角形の実在性のことであって,各々の実在性が異なる分だけ各々の完全性が異なるということになり,人間の完全性によって三角形の完全性についてそれを測ることはできないということを理由としています。そしてその同じ理由によって,三角形が人間よりも完全であるということもまたできないということになるわけです。
 このとき,人間の実在性と三角形の実在性の相違は,ちょうど人間の本性essentiaと三角形の本性の相違に対応すると考えることができます。第二部定義二により,どんな事物の本性もその事物の存在existentiaを定立するということは明らかで,その限りにおいて,どんな事物の本性にも優劣はつけられないことになります。そしてこれがちょうど,どんな事物の完全性の間にも優劣がつけられないことに対応していると僕は思うのです。よってこのことからも,事物の本性と事物の実在性(完全性)というのが,同一の事柄の異なった側面であるということが導き出せると僕は考えます。
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北京五輪日本選手応援競輪&本性と実在性

2007-08-26 23:11:14 | 競輪
 北京オリンピック日本選手応援競輪の決勝(動画)。並びは岡部-竹内の北日本に鈴木,平原-阿部-川村の関東,前前自在の加藤に西川で,宮越が単騎でした。
 鈴木選手がSを取って岡部選手の前受け。4番手に平原選手が入り,7番手に加藤選手で宮越選手は最後尾で周回。残り3周のバックから加藤選手が上昇すると岡部選手はすんなりと下げて加藤選手が誘導の後ろに。残り2周のホームに入ると平原選手が上昇,加藤選手は平原選手だけを入れて番手戦を挑みました。打鐘でも平原選手は誘導を切りませんでしたが,ホームに入って宮越選手も追い上げ,番手が3人での競りになるとようやく発進。大外の宮越選手は下がりましたが加藤選手と阿部選手の番手戦はなかなか決着がつかず,バックに入ると平原選手からかなり離れてしまいました。ここで岡部選手が捲り発進。平原選手の番手にも入れる形でしたがそのまま一気に捲りきってしまい,ゴールはこのラインの3人による僅差の勝負になりましたが,岡部選手が1着,竹内選手が2着,鈴木選手が3着と,並びのままの決着になりました。
 優勝した福島の岡部芳幸選手は意外にもこれが今年になって初めての優勝。これは協賛競輪なので意味合いが少し異なりますが,GⅢという意味では昨年12月の名古屋記念以来の優勝となります。捲りが得意な選手ですから,予想通りといえばそうですが今日は隊列が短くなったのが最大の勝因。番手戦の決着が長引いたのも幸いしました。逃げた平原選手もかなりの力があると思うのですが,現状ではまだ岡部選手の方が上回るようです。

 同じ属性attributumに属するほかのものの本性natura,essentiaあるいは実在性realitasをすべて含んでいるということが,無限の性質のひとつに数え上げられるということですが,このとき,無限infinitumであるものに含まれなければならないものについては,それを同一の属性に属するほかのものの本性と考えても,また実在性と考えても,どちらでも同じことであると僕は思っています。というのは,ある事物の本性というのと,その事物の実在性というのは,同じ事柄を別の観点から示したものにすぎないと僕は考えているからです。そこでこのことについての僕の考え方を簡単に説明しておきます。
 まず,事物の実在性というのを,僕はある力potentia,その事物が実在する力と考えます。この根拠を『エチカ』に訴えるなら,たとえば第一部定理一一の第三の証明で,スピノザが事物が存在するということを力とみなし,逆に存在しないことを力と反対の意味で無力とみなしていること,また,第三部定理七などで,力を実在の継続と関連付けていることがあげられます。
 ところで,その事物をしてその事物が実在することを定立するものは,第二部定義二によって,その事物の本性essentiaであるということになります。したがって,事物の本性というのを,ある形相的formalisなものであるとみなすとすれば,その事物の実在性というのは,その形相的にformaliterみなされたものが有している力のようなものではないかと思うのです。つまりあるものを単に形相的な側面からみたとき,そのものがある事物の本性とみなされるなら,そのものが有する力という観点からみられる場合には,それはその事物の実在性とみなされると僕は考えているのです。よって,無限である事物に含まれていなければならないものは,同一属性に属するすべてのものの本性であると考えても実在性であると考えても,同じことだろうと思うのです。
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賭博者&無限の性質

2007-08-25 22:12:13 | 歌・小説
 『カラマーゾフの兄弟』が面白かったので,ドストエフスキーの小説に関してはその後も読み続けました。僕の印象だとドストエフスキーの小説は心理小説であり,登場人物の心理描写の巧みさ,あるいはそのリアルさという点で,とくに秀でたものがあるように思います。また僕自身,ドストエフスキーの小説のそういった点にとくに面白さを感じ,ほかの作品も読もうと思ったといえるでしょう。ですのでこの面白さというのが分からない場合には,ドストエフスキーの小説には魅力を感じられないのではないかと思います。
 そうして読んでいった小説の中に『賭博者』というのがあります。大作の多いドストエフスキーにあっては比較的短めの作品で,ルーレットで身を滅ぼしていく主人公の作品。ドストエフスキー自身,ルーレットが好きで,旅先で無一文になってしまった経験もあるそうです。
              
 競馬とか競輪などのギャンブルをやる方の多くには経験があると思うのですが,日によってどうしようもなく負けてしまうことがあります。『賭博者』はルーレットの話ですから事情は異なるのですが,ギャンブルで負けていくときの人間の心理というのが実にリアルに描かれています。あるいは自身の経験と重ね合わせることもできるかもしれません。ですからギャンブルをやるという方には,ドストエフスキーの小説の中では最もお勧めできる作品で,きっと面白く読めるのではないかと思います。

 明日は北京オリンピック日本選手応援競輪の決勝。並びは後で平塚競輪のホームページの選手インタビューでアップされると思います。いずれにせよ先行1車ですので平原選手が有力でしょう。発走は午後8時です。

 ここで無限である事物の性質に注目してみると,これは当然といえば当然のことですが,無限である事物というのは,有限ではないので無限であることができるわけです。そこでこれがどういうことかといえば,第一部定義二によって,無限である事物というのは,少なくとも同じ類に属するほかのもの,つまり,同一の属性に属するほかのものによって限定されるということはないということになります。
 するとこのことの帰結として,無限である事物というのは,少なくともそれが属する属性に含まれるほかのすべてのものの本性あるいは実在性においては,これをそのうちに含んでいなければならないということが帰結されると僕は考えます。なぜならたとえばXとAが同じ属性に属すると仮定して,Aに含まれるような本性あるいは実在性がXには含まれていないのであれば,まさにそのことによってXはAによって否定,限定されるのであって,その限りでXは有限である,すなわち無限ではないということになると思うからです。よってこのことを逆に考えたならば,Xが無限であるためには,Aに含まれるような,あるいはA自身を表現するような本性や実在性が,Xのうちにも含まれていなければならないということになると思います。そしてここでいうAとはもちろん任意の対象であって,これはXと同じ属性に属するすべてのものに妥当します。したがって,ある事物が無限であるためには,その事物と同じ属性に属するすべてのものについて,その本性あるいは実在性をすべて含んでいなければならない,そしてこのことが無限である事物に一般的に含まれていなければならない性質のひとつであるということになると僕は考えるのです。
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竜王戦&優越性の否定

2007-08-24 23:09:34 | 将棋
 僕の展望ではこの勝者が挑戦者になる予定の竜王戦の挑戦者決定トーナメントの右の山の準決勝。振駒で先手は羽生善治三冠。佐藤康光二冠はごきげん中飛車を目指しましたが5手目の▲6八玉を見て△3三角。遠山四段によればこの手は本来は成立しない筈だそうで,確かに角交換後に▲2五歩とされると,▲5三角を防げば2筋を突破されますし,2筋を受ければ馬を作られるように思えます。ただ羽生三冠は自重し,後手の向飛車になりました。
 先手はすぐに角を打って,歩得を果たした後,31手目に▲4三角成と強襲。ただ,▲4四銀と打って▲3五銀引となったあたりでは,あまりうまくいったとはいえないような気もします。
 すると今度は42手目に△3五角から後手が強襲。このあたり,隙があるとみればいくタイプの棋士同士の対戦ということもあり,スリリングで非常に面白い将棋と思います。陣形に差があり,飛車を取って打ち込めましたので,この攻めはうまくいったのではないでしょうか。
 この後,せっかく作った龍を自陣に引かされ,ピンチにも思えました。実際,控え室の検討では先手が有望とみられていたようです。しかし81手目に▲2五角と金銀両取りを掛けさせてからの収束が見事。詰めろの連続で先手を投了に追い込みました。最後は後手玉への手掛かりだった角も自陣に戻らざるを得なくなってしまいましたので,投了もやむをえないでしょう。僕の印象だけかもしれませんが,38手目から△8二玉▲5八金という二手の交換が,結果的に勝敗を左右したように感じます。
 勝った佐藤ニ冠は木村一基八段との挑戦者決定戦に進出。これは三番勝負で,第一局は9月4日に指される予定です。

 明日からいわき平記念が始まります。競輪でグレードレースが重複して開催されるのはきわめてまれ。こちらは山崎選手が中心でしょう。

 第二部定義六の意味というのは,たとえば,人間の実在性はどの人間にとっても同一であるから,完全な人間と不完全な人間がいるわけではないということだけに,実はとどまらないのではないかと僕は考えています。というのは,事物の完全性というのがその事物の実在性と完全に同一の意味であるとしたら,各々の事物の完全性というのは,それら各々の事物の実在性が相違するだけ相違するということになるように思うからです。
 僕は以前に,精神の優劣ということに関して,人間の精神というのは人間の身体の観念であって,人間の身体というのは多くの物体から影響され,また多くの物体に対して影響する適正に優れているがゆえに,ほかの物体の精神よりも優れていると考えることができるという意味のことをいいました。ある精神をほかの精神と比較したときに,より多くのことをなし得るということをもって優れているというなら,これは確かに正しいと思います。しかし,だから人間はほかの物体より完全であることにはなりません。なぜなら,各々の物体には各々の物体に特有の完全性があると考えるべきだと思えるからです。
 たとえば,内角の和がニ直角であるという性質を有するのは三角形だけです。しかしだれもこのことをもって三角形がほかのいかなる物体よりも完全であるとはだれも認めないでしょう。人間の本性に属するようなことを理由に,それを事物の完全性の証にするのは,実はこれと同じことだと思います。もしも三角形が喋ることができれば,きっと三角形は三角形が最も完全な物体であるというのではないでしょうか。そうではなくて,人間には人間の,三角形には三角形の完全性があり,それを比較することはできない,つまり事物はその完全性によってあるものがほかのものに対して優越的であることはできないということが,第二部定義六には含意されていると僕は考えています。
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カラマーゾフの兄弟&第二部定義六の意味

2007-08-23 20:16:09 | 歌・小説
 ニーチェの影響でドストエフスキーをもう1度読んでみようと思った僕ですが,最初に手にしたのが『カラマーゾフの兄弟』でした。
             
 僕は読書はほとんど電車の中ですが,読み始めてまあびっくり。おおよそ経験のないくらい退屈な物語でした。僕は読み始めれば最後まで読むことにしていますが,その習慣がなかったら,途中でやめてしまったかもしれません。
 しかし,僕が退屈に感じたのにははっきりとした理由があります。この『カラマーゾフの兄弟』は,登場人物が多く,読んだ後で考えてみれば,その冒頭の部分というのは,ただ登場人物を紹介するということを主目的としてあるようです。実際,僕が退屈に感じたのはこの冒頭の部分のみであって,本編といえるような物語が始まってからは,この後の展開はどうなるのだろうといった具合に,ぐんぐんと読み進んでいきました。
 僕が読んだのは新潮文庫版で,上・中・下と3巻ある話ですから,とても一口で説明できるようなものではありませんが,基本的にはある殺人事件が中心で,それに関わる人物の物語が散りばめられていきます。宗教的な話でもあり,俗世間的な話でもあります。
 僕が最も印象に残っているのは第五編の四でイワンの長い台詞の中にあるこのことば。「俺は,やがて鹿がライオンのわきに寝そべるようになる日や,斬り殺された人間が起き上がって,自分を殺したやつと抱擁するところを,この目で見たいんだよ」。平和ということがどういうことであるか,明確なイメージを持っている人は実は少ないと僕は思っています。しかしこのことばの中には,そのイメージが明示されているように思うのです。

 明日は竜王戦挑戦者決定トーナメント,右の山の準決勝があります。対戦するのは羽生善治三冠と佐藤康光ニ冠。羽生三冠にとって佐藤ニ冠は最も勝ち越している棋士で,対戦成績は羽生三冠の84勝42敗。勝った方が木村一基八段との挑戦者決定三番勝負に進出します。

 明日から平塚で北京オリンピック日本応援競輪。3日制のGⅢで,夜の開催。実力的には岡部選手が中心になりそうです。

 第二部定義六は,事物の完全性perfectioとはその事物の実在性realitasであるという意味ですから,それ自体では難しいところは何もないといえます。ただし,僕たちは普通はこういう意味である何らかの事物についてそれを完全とか不完全といったりはしないので,ここによく注意しなければなりません。
 僕たちが一般的にどういう理由によって事物を完全といったり不完全といったりするようになったのかということについては,スピノザが『エチカ』の第四部の序言で説明していますので,詳しくはそれを読んでいただきたいですが,単純化すれば,まずある何らかの人工物について,その完成型を人は完全とみなし,したがってそれに近いものを完全,かけ離れたものを不完全というようになり,そのことが,単に人工的なもののみにとどまらずに,自然Naturaについてもいわれるようになったとスピノザは考えているようです。この是非については僕はここでは判断を保留しますが,僕にこの考え方がひとつ面白く感じられるのは,この完成型というのはある意味では事物のイデアと考えることができ,このイデアに近いものを完全,イデアからは遠いものを不完全と多くの人がみなしているとスピノザが考え,この考え方を否定している点です。ことによるとスピノザが事物が完全であるということを,その事物自体の実在性に等置したことと,スピノザの考え方が,イデア論に対して唯名論的であるということには,ある関連があるのかもしれません。
 いずれにしてもこのことから理解できるように,たとえば人間の実在性はどの人間にあっても同一ですから,より完全な人間とより不完全な人間がいるというわけではありません。同様に,ある完全な三角形と,それより不完全な三角形が存在するということもないということになります。
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サイレンススズカ&第二部定義六

2007-08-22 22:47:49 | 名馬
 先日のことになりますが,動画のトラックバックを頂きまして,ちょうどよい機会と思いますのでサイレンススズカを紹介することにします。
 デビューは遅く3歳2月。新馬を勝って果敢に弥生賞へ。ゲート内で立ち上がってしまい負けました。その後,条件,ダービートライアルのオープンと連勝。ダービーに駒を進めましたがここは9着。秋は神戸新聞杯2着からの始動。距離適性から古馬相手の路線を選択,天皇賞は6着,マイルチャンピオンシップはタイキシャトル(3歳時)の15着でした。
 この後,香港に遠征。レースは5着に破れたのですが,武豊騎手に乗り換って大逃げを打ったレース振りがこの馬の転機となりました。帰国し4歳になり,オープン特別を逃げ切ると中山記念は詰め寄られるところがあったものの一杯に逃げ切って重賞初制覇。さらに小倉大賞典は楽に逃げ切りました。
 そして出走したのが金鯱賞。離して逃げて直線でも差を広げて大差勝ちというのは,おおよそ古馬の中距離重賞では類例がないもの。
 宝塚記念は乗り馬の関係で南井騎手(現調教師)が乗って逃げ切り大レース制覇。秋は毎日王冠からの始動でここも逃げ切りエルコンドルパサーに初黒星をつけました。
 6連勝で迎えた天皇賞。相手関係は毎日王冠より楽なくらいで,当然圧勝する筈だったのですが,3コーナーを回ったところで故障発生。重度の骨折であったためにやむなく薬殺処分。還らぬ馬となってしまいました。
 中距離でみせたスピードの持続力は驚異的なもの。もしこの馬がアクシデントを受けず種牡馬となり産駒を残していたら,間違いなく日本の競馬シーンは変わっていたものと思います。

 存在existentiaの絶対的否定というのも,もしもそれがあるとすればこういった仕方であるということは,僕はこれでいいと思います。そこで最後の問題となるのは,事物が無限infinitumであるということが,直ちにその事物の存在の絶対的な肯定affirmatioであるということを無条件に前提としてよいのかどうかということです。
 もちろんこれを実在的に考えた場合には,絶対に無限absolute infinitumであろうと自己の類において無限であろうと,無限であるといわれる事物が永遠aeterunusのうちに実在するということについてはすでにそれが明らかになっています。だから,無限であるものの存在が絶対的に肯定されるということについては僕も異存はありません。ただこのことが,ここまでに僕がしてきたような検証を経ずに,事物が無限であるということだけから直接的に前提できることなのかどうかといわれれば,僕は少し判断に迷うところもあります。事物が無限であるということが,その事物が持続duratioのうちには拘束されないということは,逆に拘束される場合には明らかにそれは有限finitumであるという意味ですから,何となく分かるのですが,これだけでそれがこの存在の絶対的肯定であるというのは,どことなく腑に落ちないものを感じてしまうのです。
 そこでこれについては,もう少し別の角度から考えてみたいです。そのために,まず第二部定義六から入っていくことにします。
 「実在性と完全性とは同一のものであると解する」。
 この考え方もまた,スピノザの哲学ではある種の独特の考え方ではないかと僕は思っています。
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小田原記念&絶対的否定

2007-08-21 21:49:16 | 競輪
 小田原記念決勝(動画)は,やや牽制になりましたが,意を決した佐藤選手がSを取って前受け。5番手に武田選手,8番手に吉川選手で周回。
 残り3周のホームで早くも吉川選手が上昇し,武田選手の横で併走。武田選手を引かせて中団に入り,武田選手の上昇に乗ってかますような作戦だったと思いますが,武田選手は引かずにむしろ跳ね飛ばして残り2周のホームで自ら前に。今度はこれをバックで吉川選手が叩いたところ,打鐘から佐藤選手がさらに叩いて先行。後方になった武田選手もホームから捲り返そうと発進しましたが,前に届かずに一杯。佐藤選手の番手の岩津選手,3番手の大塚選手と迫りましたが交わすには至らず,逃げ切った佐藤選手が優勝。2着に岩津選手,3着に大塚選手と,並びのままのこのラインの上位独占になりました。
 優勝した岩手の佐藤友和選手は,2月に東王座戦を勝っていて,その直前の奈良記念以来の記念競輪2勝目。今日は結果的に吉川選手の動きにアシストされた面もありますが,完全な即席ラインだったにも関わらず,躊躇せずに打鐘から積極的に先行したのが好判断でした。いつGⅠを勝ってもおかしくない選手のひとりと思います。

 事物が有限であるということが,その事物の存在の部分的な否定であるということはこれで明らかだと思うのですが,それでは,ある事物の存在の絶対的否定ということがあるのかどうかということを考えてみると,これは僕はなかなか判断に迷います。ただ,もしもそうしたことがあるというなら,それはあるものの本性がそれ自体である矛盾を含んでいるような場合であると思います。
 もしもこれをある具体的なことばで示すなら,たとえば角のある円といったものが適切だと思います。角の本性のうちには円を,逆に円の本性のうちには角を,それぞれ肯定する要素がまったく含まれませんので,角のある円というのはその本性自体が矛盾を含むということになり,第二部定義二により,事物の存在を真先に定立するものはその事物の本性ですから,これはその存在が絶対的に否定されているといえると思います。実際,角のある円なるものは自然のうちに実在することがないでしょうし,できないでしょう。
 角のある円については僕たちはそれを表象,とくに想像することすらできないのではないかと思います。しかし,僕たちがある仕方で表象できるものであっても,こりん星とか,ペガサスといったものについても,各々の本性という点から考えた限りでは,その本性が矛盾を含むという点では角のある円に同じであって,こうした無の観念が神のうちにあるとはいっても,やはり存在の絶対的否定であると僕は考えています。実際,単に形相的にそれを考えた限りでは,こりん星もペガサスも,自然のうちに実在しないという点では,やはり角のある円と同じと考えられるからです。
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馬インフルエンザ&部分的否定

2007-08-20 21:29:16 | 中央競馬
 JRA所属馬の馬インフルエンザ感染に伴い,ブリーダーズゴールドカップはJRA所属の4頭が除外になったわけですが,その後この感染(正確には感染した馬の発見)は拡大傾向となり,先週末の中央競馬は開催中止となりました。こういうケースでの開催中止は,僕の競馬キャリアの中では初めて。この週末は個人的にも不思議な感じでした。
 馬インフルエンザは馬に特有の疾病。症状は高熱,鼻水,咳ということで,人間のインフルエンザに似ています。この夏は前から発熱する馬が多かったということで,そのうちの何頭かも,馬インフルエンザを発症したものと推測されます。ただし,感染するのと発症するのは別のようです。疫学には詳しくありませんが,人間の場合もそうなのでしょうか。
 感染源は分かりませんが,状況的にみると,最初の1頭は栗東所属の馬ではないかと考えています。ウイルスは空気感染するということですから,感染の万延を防止するためには移動の制限と消毒しかなく,開催中止は賢明な判断でしょう。ただ16日以前には輸送されていたわけで,すでに金沢,名古屋,北海道の各公営競馬には感染した馬がいるとのことで開催が中止に。大井も症状を見せた馬がいたので土曜の開催は中止になりましたが,この馬は検査したら非感染ということで,南関東は今日からは開催されています。
 夏は基本的に強い馬はお休みですので,多くの馬が放牧に出ています。移動が制限されればこうした馬がトレーニングセンターや各競馬場に帰ってこられなくなります。JRAがいつ開催を再開するか分かりませんが,実際に開始するにあたって僕が心配するのはその点。しばらくは日本の競馬はレベルの低下を余儀なくされるのではないかと思われます。同時に,22日には春の天皇賞を制したメイショウサムソンが凱旋門賞を目指して出国の予定でしたが,自身も感染ということもあって足止め。海外遠征を予定しているほかの馬も,予定変更を余儀なくされると考えられます。

 明日は小田原記念の決勝。並びは武田-飯嶋の茨城栃木に鰐渕,吉川-真原の地元神奈川,佐藤に岩津-大塚-宇根の西国で変則3分戦。ライン的には佐藤選手より武田選手の方が駆けやすそうなので,飯嶋選手を狙ってみたいです。

 事物が有限であるということは,その事物の存在が,時間的な観点においてもある限定を受けるということを意味します。もちろん有限なものとして実在するすべてのものについてそれを逐一確認するというわけにもいかないでしょうが,知性がある事物を有限であると認識する場合には,そのことがそれ自体で含まれていなければならないと僕は思います。するとこのことから,もしも知性がある事物Xを有限なものとして認識する場合には,つまりある知性のうちに有限である事物Xの真の観念がある場合には,その知性はXについて,それを実在し得るものと認識するのは間違いありませんが,同時にそれを永遠のうちには実在しないもの,いい換えれば,この観点からは実在しないと考えることもできるようなあるものとして認識することになると思います。
 そこで第一部公理七に注目するならば,これはまさに実在しないと考えることができるあるものについての認識であるということになりますから,同時に知性による有限である事物Xについての認識は,その本性にそれ自体の存在が含まれないようなあるものの認識であるということになります。したがってこれは,確かにXの存在の部分的な否定であるということができると考えられます。
 ただしこれは,あくまでもその部分的な否定なのであって,無限であるものが存在の絶対的な肯定であると前提されるのに対して,絶対的な否定というわけではありません。永遠ではないが実在し得る,有限なものは正しく把握される限り,常にそのように認識され,かつそれが現実的に実在する場合にもそのように実在する。これが事物が有限であるということが,その事物の存在の部分的な否定であるということの意味であり,この前提は正しい前提であると僕は思います。
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銅門賞&第一部公理七

2007-08-19 22:32:51 | 競輪
 小田原記念の2日目優秀の銅門賞(動画)ですが,並びに予想と異なるところがあり,静岡は山内選手が前で新田選手が後ろでした。
 前受けしたのは佐藤選手。まず残り2周のホームで武田選手が抑えて前に。これを吉川選手がバックで叩くと打鐘から先行。武田選手はインで粘る構えを見せ,番手は高木選手が確保しましたが,出口選手が浮いて3番手に武田選手。この動きで山内選手も浮く格好となり,新田選手は岩津選手を追走する形。佐藤選手は後手を踏み,この時点でアウト。バックから武田選手が発進して捲りきりましたが,このライン追走の形になった新田選手も早めに踏み出し,直線も外を伸びて捕えて1着。武田選手が2着で追走の岩津選手が3着でした。
 新田選手にとって小田原は得意な競輪場のひとつ。それもありますが,ここ最近は好調だとみた方がよいのではないかと思います。山内選手に最後までこだわらなかったのもよかったと思いますし,好調のときは自分で動いた方がよいのではないでしょうか。
 逆に佐藤選手は少しほかの選手の動きを見すぎた感があります。出入りの激しい展開は経験のある選手ほど有利と思いますが,このあたりは克服していかなければならない課題なのかもしれません。

 第一部定理八別の証明の前提となっている事柄のうち,事物が有限であるということが,その事物の存在に関しての部分的な否定であるということについては,『エチカ』の別の部分を検討することによって,正しいことを説明できると僕は考えています。それが第一部公理七。それはこのようになっています。
 「存在しないと考えられうるものの本質は存在を含まない」。
 しかしまず先に,この公理が正当であるということを説明しておく必要があるでしょう。
 もしもあるものがあって,そのものの本性(本質)にそのものの存在が含まれることを知性が認識する場合,その知性は同時にその事物が永遠のうちに存在することを認識します。いい換えれば,ある精神が何らかの事物Xについて真の観念を有し,このときXの本性にXの存在が含まれているならば,この精神はXが永遠のうちに存在するということについては疑い得ないということになるでしょう。このことは,真理というものを一般的に考えた場合には,真理の規範とは真理そのものであるということ,あるいは第二部定理四三から考えてもそうでなければならないことになります。
 このことから,知性がその本性にその存在が含まれているものを概念する場合には,そのものが存在しないと考えることができないということが明らかだと思います。したがってこれを逆に考えれば,もしも知性があるものについて,それが存在しないことを考えられ得る場合には,そのものの本性にはそれの存在は含まれないということになり,この公理の内容の正しさが保証されるといえると思います。
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黒潮盃&第一部定理八別の証明

2007-08-18 21:51:28 | 地方競馬
 公営競技には年に3度の稼ぎ時があります。まず暮れから正月。次にゴールデンウィーク。そしてお盆。ということでこの時期は各地でビッグレースが行われます。そのひとつ,15日の大井の第41回黒潮盃
 最内からベルモントオメガが逃げてイチモンジが2番手。外の3番手に笠松のマルヨフェニックス。発走が悪かったロイヤルボスは,その後の直線で追い上げて先行勢を見る位置。前半の800メートルが50秒3で,スローペースといえると思います。
 結果的に3番手のマルヨフェニックスが直線で追い出されると後続を引き離し,3馬身半の差をつける快勝。後方から追い上げてきたジェイドロボスが2着で,3着には一瞬は見せ場を作ったチェレブラーレ。ロイヤルボスは直線では伸びを欠き4着でした。
 優勝した笠松からの遠征馬,マルヨフェニックスは東海ダービーを制した今年の東海地区№1。ジャパンダートダービーが大敗でしたので,地区のレベルに疑いを抱いたのですが,あのときは初の遠征+初のナイターというのが響いただけのよう。これだけの差をつけましたので,南関東3強に続くレベルにはあるようです。完全に見誤りました。ファミリーナンバー7-cのアストニシメントに遡る牝系出身です。
 ロイヤルボスの方は発走後の追い上げに少し無理があるように感じられましたし,直線もやや包まれるような形になってしまい,十分に能力を発揮することができなかったという印象です。

 明日は小田原記念2日目優秀の銅門賞。並びはおそらく,佐藤-内藤の北日本,吉川-高木-出口の神奈川,新田-山内の静岡,残った武田に岩津の4分戦になるものと思います。

 第一部定理八にスピノザはふたつの備考を付しています。このうちどちらかといえば重要なのは備考二の方なのですが,ここでは背理法を用いた第一部定理八の証明とは別の証明について説明している備考一の方について考えることにします。ここでスピノザはこの定理が,単に第一部定理七から帰結すると主張しています。
 しかしこのためには次の事柄を前提する必要があります。それはまず,ある事物が無限であるということはその事物の存在についての絶対的な肯定を含むということ,いい換えれば,知性がある事物を無限であると認識するとき,その知性は同時に,その事物の存在に関してそれを絶対的に肯定しているということであり,もうひとつはこれと逆に,ある事物が有限であるということは,その事物の存在についての部分的な否定を意味するということです。この前提の妥当性については別の仕方で考えることにして,とりあえずはこれが成立すると考えることにします。
 すると,第一部定理七によれば実体の本性には,その実体が存在するということが含まれています。よって実体は必然的に,いい換えれば永遠から永遠のうちに実在するということになります。今はこれを実在的な意味で解釈するか名目的な意味で解釈するかはさほど重要ではなく,少なくともあるものが必然的に実在するということ以上に,事物の存在を肯定することはできないということが大事であるかと思います。つまり,事物が必然的に実在するということこそ,事物の存在に関する絶対的な肯定であるということです。このことから前提に従えば,実体はその存在が絶対的に肯定されるようなあるものであるから,それは無限であるということが帰結するということになります。
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松戸記念&第一部定理八証明

2007-08-17 22:39:54 | 競輪
 連日の猛暑。バンクというのは熱が逃げにくい構造のように思うので,そこで走る選手というのは大変なのではないかと想像します。その中での松戸記念決勝(動画)。
 Sを取ったのは加倉選手で三ツ石選手が前受け。3番手に金子選手,5番手に石毛選手,7番手から矢口選手で周回。残り3周のバックから矢口選手が上昇していき,残り2周のホームで前に出ると,このラインに乗ってきた石毛選手がバックで矢口選手を叩いて前に。さらに金子選手が打鐘で追い上げ,石毛選手をさらに叩いて先行となりました。矢口選手はこの段階では5番手でしたが,前との間が少し開き,そこに三ツ石選手にも入られて動けず。石毛選手も動かなかったのでそのまま中部両車の争いとなり,山田裕仁選手が金子選手を差し込んで優勝。金子選手が2着に粘り,矢口選手を捨ててバックから自力発進のような形になった神山選手が,直線も外を伸びて3着に食い込みました。
 優勝した岐阜の山田裕仁選手は4月に観音寺のふるさとダービーを勝っていますが,昨年はグレードレースの優勝を果たせず,実に一昨年2月の静岡記念以来となる記念競輪優勝。かつてのような大活躍となるとさすがにもう無理かと思いますが,今年に入って復調傾向にあるのは間違いないでしょう。
 2車ながら金子選手が積極的に出ていったのも作戦としてよかったと思います。スプリンタータイプの選手で,33バンクが合っているという印象です。

 変わって明日からはやはり33バンクの小田原記念。僕の注目は佐藤友和選手です。

 第一部定理八は,これを名目的な定理として理解する限り,次のような背理法によって証明することができます。
 まず,もしも実体というものが実在するとすれば,それは無限なものとして実在するか,そうでなければ有限なものとして実在するかのどちらかです。これはそれ自体で明らかだといえると思います。そこで仮に,実体が有限なものとして実在する場合について考えてみると,第一部定義二により,この実体は同一本性を有するほかのものに限定されるということになります。
 ところで,様態は実体のうちにあるもののことですから,様態が実体を限定することはありません。これもそれ自体で明らかだといえると思います。よって第一部公理一の意味により,自然のうちには実体と様態だけがあるわけですから,仮にある実体が有限であるなら,この実体は同一の本性を有するほかの実体によって限定されるということになります。
 第一部定義四によれば,実体の本性を構成するものは属性です。したがって,ある実体が同一の本性を有するほかの実体に限定されるということは,同一の属性を有する複数の実体があるということを意味します。ところがこれは第一部定理五に反します。つまり実体は有限なものとしては実在できない,すなわち,実在するならば,それは無限なものとして実在するということになるのです。
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