スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

エスサーディー&不成立

2006-09-30 23:00:46 | 血統
 1999年1月31日にフェブラリーステークスを勝ったメイセイオペラ。実はこの馬も母系を辿って(母,母の母,その母という具合)いくと,かなり古い時代に日本に輸入された1頭の牝馬に行き着きます。それがエスサーディー(6-a)という馬。エス・サーディーではなく,エスサー・ディーです。
                        
 この馬は1902年(明治35年)にイギリスで産まれています。輸入されたのは1909年か1910年(明治42年か明治43年)のどちらかと思われます。前にもいったことがあるかもしれませんが,この時代に輸入され,現在でも続いている母系の馬は,小岩井農場の輸入馬が多いのですが,この馬は奥羽種馬牧場というところの輸入馬のようです。繁栄の程度からいえばそう広がっているとは(あくまでもほかの系統との比較の上でのことです)いえないかもしれませんが,メイセイオペラのほかにも,近年,何頭かのGⅠ勝ち馬が出ています。また機会があれば紹介することにします。

 明日は中央競馬の秋のGⅠシリーズの開幕戦,スプリンターズステークスが行われます。現状,日本はスプリンターのレベルが最も低く,外国馬の争いと思うのですが,一長一短あって難しい。一応,テイクオーバーターゲット(テイクオーヴァーターゲットと表記するべきだと思います)◎が中心ですが,この馬,グローバルスプリントシリーズで,各国の初戦より2戦目に成績を落としている点が不安です。能力なら昨年の覇者,サイレントウィットネス○ですが,昨年のこのレースを勝った後,ウイルス性の疾患に冒されたということで,それ以来未勝利。体調がどの程度回復しているでしょうか。イギリスの2頭は日本の馬場でのスピード勝負に不安材料が。一応,来日後,陣営が強気のレザーク▲を上位にみて,ベンバウン△。この2頭は雨が降った方がいいかもしれません。日本馬では先物買いの意味も含んでステキシンスケクン△。揉まれ弱いのですんなりいける1600メートルで結果を残していますが,もし将来大成するならスプリンターとしてではないかと思っています。

 それから向日町記念の決勝(記事は3日を予定)。並びは海老根-高木-海野の南関東,村上-前田の近畿に吉永,北津留-小野の九州で,菊地が単騎(もったいない)。村上選手○の先行から前田選手◎が一応の狙いですが,3日間捲って3連勝の海老根選手△が明日は先行して高木選手▲というケースもあるような気がします。ふたりで意地を張り合えば北津留選手の一発ですね。

 現時点ではという限定でいった方がいいのかもしれませんが,神の実在を人間はそれ自体では知り得ないであろうというのが僕の結論です。
 ところで神は,第一部公理三ふたつの意味のうち,強い意味を成立させるためにその背後でこの公理を前提するものとしてここでのテーマに登場してきたのです。したがって,その存在がそれ自体では知られ得ないのであるとすれば,公理というのはそれ自体で知られ得るものでなければならないというのが僕の考え方ですので,第一部公理三は公理としては成立していないということになります。
 ただ,神の実在は定理としては間違いなく証明し得るものですから,少なくとも第一部定理一一が証明された後では,第一部公理三でいわれている内容については何も問題がないと考えます。したがって,いかにこの公理が公理としては成立していないとしても,この公理に訴えてあることを導いたからといって,それで問題が生じるということはないと思います。
 これで第一部公理三は終りにします。いつものように明日から簡単にまとめていきます。
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朱雀賞&神の実在・結論

2006-09-29 22:52:59 | 競輪
 向日町記念2日目優秀として行われた朱雀賞(ネット上に動画を見つけることができませんでした)。前受けしたのが南関東勢で,村上選手がこれを抑えると,そのまま少しも流さずに先行しました。2分戦でこれは予想通りの展開です。これを海老根選手が捲って出たのですが,最終的に前段を飲み込んで1着でのフィニッシュ。ただし海老根選手を追走した冨田選手は追走で一杯になってしまったようで,2着には先行した村上選手の番手から酒井選手が入り,村上選手が3着に残っています。海老根選手は僕はわりと高く評価している選手で,今日のようにかなり強いレースを見せてくれることもあるのですが,展開の面で失敗してまったくの不発に終ってしまうケースもままあり,高く評価しているだけに逆にそれが不満なところです。どちらかというと,今日のように完全に力勝負となるようなレースの方がよい結果を収めていて,そういうレースに持ち込む技術が必要とされているように思います。勝ったのにちょっと辛口になってしまいました。

 神の実在を人間がそれ自体で知ることができるかどうかということについて,エチカあるいはスピノザの哲学に訴えて考える限り,それはできるとも考えられるし,できないとも考えられそうです。したがって,正直なところをいえば,これについてもどちらなのか分からないというのが結論のですが,僕の考えとしては,知ることができないという結論の方に現時点では傾いています。というのは,前にもいいましたが,僕は定義三は名目的な定義であると考えていて,そうであるからには,少なくとも定理一から定理八までは実在的にではなく名目的に証明されていると考えているのですが,これらの名目的な証明の意味というのは,定理一一の証明のための準備であるとしか考えられないのです。とすれば,それらによってようやく定理一一,すなわち神の実在が証明されるわけで,そうである以上は,神の実在がそれ自体で人間に知られることはないと考える方が自然であると思えるからです。なので,これはあくまでも現時点での結論ですが,このことについては,神の実在がそれ自体で人間に知られ得るということはないと考えておくことにします。
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戸塚記念&第一部定理一〇までの意味

2006-09-28 22:50:42 | 地方競馬
 こちらにこのブログのスタイルを説明してあります。
 昨日の戸塚記念。逃げたのはガンファイターで2番手にグッドストーン。ビービートルネードは3番手で,シャイニールックは中団,ステップクローザーは後方の位置取りでレースが進みました。前2頭の脚色が鈍ってきた3コーナー手前からビービートルネードが自然と上昇していくと4コーナーでは早くも先頭に。これを目掛けてシャイニールックが上昇し2番手。直線では叩き合いと思ったらそこからはビービートルネードの土壇場。まったく寄せつけずに8馬身もの大きな差をつけての圧勝となりました。シャイニールックは後方から追い上げてきたステップクローザーにも半馬身交わされての3着。ただこれはビービートルネードがあまりにも強すぎたためで,この2頭は展開ひとつでまた着順も入れ替わるでしょう。さらに半馬身差の4着にキャプテンシーオー。もう1頭の上がり馬として名前を挙げたフィアリストライは8着でした。ビービートルネードは東京ダービー以来で,ここは2・3着馬より2キロ重い58キロを背負ってのものでかなり価値があります。僕もこの馬については少々その実力を見誤っていたようで,あるいは全国レベルでも通用するかもしれません。
 明日は向日町記念の2日目優秀。並びは予想ですが,海老根-冨田-高木の南関東と,村上-酒井-前田-大井の近畿は並ぶ筈。目標がないのが小倉と小野で,このふたりは同期なのであるいは連係かも。場合によっては小野による近畿分断(地元ですが)もあるかもしれません。ラインの長さを生かして村上選手◎から。すんなりなら酒井選手○で,競りなら捲る海老根選手▲。あとは今日の伸びがよかった小倉選手△。
 ディープインパクトの凱旋門賞が迫ってきましたが,特設ブログが開設されたので紹介しておきます。1999年,エルコンドルパサーが2着したときのブログにもそちらからアクセスできます。もうひとつ,紹介しそびれていたJRAの特設サイトも。こちらは動画が充実しています。

 なるべく早く神の観念に到達しなければならないということは,知性改善論だけではなくて,エチカにおいても同じように要請されていると僕は考えます。そしてスピノザはそのために最善の手段をエチカにおいて講じたのではないかと思うのです。ところが,エチカにおいて神の実在が証明されているのが定理一一であるということは,少なくとも僕たちが神の観念に到達するためには,10の定理を必要としたと考えられるのです。また,そう考えなければ,これらの定理のエチカの中に占める意味がなくなってしまうようにも思います。そして,これが本当に僕たちが神の観念に到達するための最善の(最も早くという意味)方法であるなら,少なくともスピノザは,神の観念がそれ自体で人間に明らかであるとは考えていなかったのではないかと思えるのです。ひとつの結論は確かに神の観念がそれ自体で人間に与えられるということを示唆しているように僕も思うのですが,このように考える限りでは,また別の結論も得られると僕は思います。
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王座戦&神に到る道

2006-09-27 23:16:58 | 将棋
 王座戦第三局。
 佐藤棋聖の先手で▲7六歩△3四歩▲2六歩に△9四歩の出だし。その後,後手は9筋の位を取り,先手の▲7八金を見て四間飛車に。2筋の歩は交換させて角は自分から交換しました。中盤に入って後手がその角を打ち,1九の香を取った段階では,駒得して馬を作ったわけですから後手が優勢になったものと思います。その後も続いた中盤の戦いで,さらに後手が駒得になったので,差はもっと広がったのではないかと思います。ただ終盤は一方的に攻め込まれ(受けに回ったからではありますが)ちょっとびっくりしたのですが,凌ぎきって羽生王座が勝ちました。僕なんかだと,投了の局面ではもう一手,▲6七金と指して,次の手を見てから投了したい感じですが…。
 羽生王座はこれで王座戦15連覇。同一棋戦の15連覇は史上初めて(ほかの棋士では大山名人の13連覇が最高)。また,これでタイトル獲得65期となり,歴代単独2位となりました。一方の佐藤棋聖は,過去2回の王座戦挑戦と同様に,今回も羽生王座に1勝もできずに敗退となってしまいました。次の竜王戦はタイトル保持者が異なるので,違った結果が得られるでしょうか。

 競輪は明日から向日町記念です。京都です。

 『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』は『エチカ』の序論といわれたりしますが,これは未完に終っています。
 そこでは,我々が演繹法によって事物を導くために,なるべく早く神Deusの観念に到達しなければならないとされているのですが,その方法を論じている間に,議論が堂々巡りをしてしまうからです。もちろんそのこと自体は,第五部定理一四,そして第二部定理四七,あるいは単に第一部定理一一に訴えるだけでも,我々が神の観念に到達できることは明らかで,『エチカ』においてはこの困難は解消されていますからさして問題とはなりません。しかし,我々はなるべく早く神の観念に到達しなければならないといい,その最善の手段を考えるということは,裏を返せば,神の観念がそれ自体で人間に与えられることはないとスピノザが考えていたことの証明ではないかと僕には思えるのです。
 これが,僕がスピノザの哲学に訴えて,人間は神の実在をそれ自体で知ることはできないと考える根拠です。
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青森記念&ひとつの結論

2006-09-26 20:29:38 | 競輪
 青森記念(映像)。前受けしたのは西国勢で,これに山口が続き,5番手以下に東日本。残り2周半くらいから山崎選手が上昇しますが三ツ石選手もスピードを上げて前に出させません。打鐘前から再び山崎選手が叩きに出ましたが三ツ石選手もさらに抵抗して先行争いに。結局,三ツ石選手がこの争いを制して突っ張り先行になりました。東日本は隊列が若干入れ替わって,自力で捲って出たのは伊藤大志選手で,これに坂本選手が続きます。しかしこの捲りが前段に届く前の3コーナーあたりから三ツ石選手の番手の合志選手が発進。直線は合志選手の後ろの島田選手が抜け出して優勝。ふたりの中を割った山口選手が2着に届き,合志選手は3着,坂本選手は4着でした。レースは三ツ石選手の頑張りにつきるという感じで,本人は8着でしたが,ラインで上位独占ですから褒めてあげてもいいでしょう。一方の山崎選手は結果的に三ツ石選手を叩けなかったわけで,今日のところは力負けといえそうです。優勝した熊本の島田竜二(りょうじ)選手は32歳の中堅選手。記念競輪はこれが嬉しい初優勝。現在はS級2班ですが,来期からは1班が決定しています。
 明日は王座戦の第三局。佐藤棋聖は一昨日は順位戦を指して負け,昨晩は防衛した棋聖の就位式。相変わらず忙しそうです。羽生王座が勝つと王座戦15連覇となります。
 それから川崎で戸塚記念(記事は明後日)。例年からは考えられないような好メンバー。東京ダービーに続いてシャイニールック◎に期待します。さらに距離が伸びるのはプラスとはいえない感じですが,素質を買います。相手には同厩舎で連対率100%,黒潮盃2着のステップクローザー○。そして敬意を表してダービー馬のビービーバーニング▲。あとはフィアリストライ△とキャプテンシーオー△。

 第五部定理一四第二部定理四七にはそれぞれにそれなりの意義があって,これらの定理から考えて,人間は神が実在するということをそれ自体で知ることができると結論することも可能であるように僕は思います。そしてもしもこの結論が正しいとすれば,公理三は何の問題もないと思います。それはつまり,公理三の内容が正しいという意味にはとどまらず,公理三が純粋に公理として成立しているという意味です。しかし一方で,エチカあるいは広くスピノザの哲学に訴える限り,これとは逆のこと(神が実在することを人間はそれ自体では知り得ないということ)が結論できるようなふしがあるとも僕は思うのです。そこで今度は逆に,なぜ僕がこのひとつの結論とは反することを同時に考えるのかを,順を追ってみていくことにします。
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もうひとりの新チャンピオン&第二部定理四七の意義

2006-09-25 20:44:05 | NOAH
 実はNOAHでは今月,もうひとり新チャンピオンが誕生しています。それが3日の愛知県体育館の試合で,チャンピオンだったスコーピオ選手を破って白のGHC(グローバルハードコア)の新王者になった志賀賢太郎選手。このタイトルはその名称からも推察できる通り,何でもありで,ルールもその時々によって変わるのですが,この日はリングアウトなし,反則OK,時間切れの場合はタイトル移動というルールで戦われました。このルールはスコーピオ選手の得意とするところで,この試合も途中,凶器による攻撃(反則OKなので)で志賀選手は額を割られ,NOAHの試合としては珍しいほど夥しく出血してしまったのですが,最後はスコーピオ選手に手錠を掛け,身動きがとりにくいのをいいことに押さえ込んで勝っています。何となく志賀選手らしい勝ち方という感じ。志賀選手は全日本プロレス時代のデビューですが,タッグを含めてもこれが初めてのタイトルということになります。ところで最近,志賀選手はヘッドシザースを掛けられたときに,倒立して逃れるという技術をみせていて,これは志賀選手の試合の見せ場のひとつになっています。日本では西村選手なども用いますが,これは僕がプロレスキャリアのごく初期にファンであったドリー・ファンク・ジュニア選手がよくみせていたテクニックのひとつです。
 明日は青森記念が決勝を迎えます。並びは山崎-坂本-伊藤大志-渡辺-伊藤公人の東日本と三ツ石-合志-島田の西国で2分戦。山口は単騎です。力は上位の山口選手△の出方が微妙(番手を狙ってくるかも)ですが,普通に考えれば坂本選手◎に絶好のチャンス到来。この場合,八甲田賞と同様に,山崎選手○とのワンツーが濃厚でしょう。あとは伸び脚鋭い合志選手▲。

 第二部定理四七には,ここでのテーマに関して,第五部定理一四とは別の意義が見出せるように思います。というのは,この定理は第二部定理一二をテーマとして扱ったときに少しだけ触れた共通概念からの流れで証明されているのです。非常におおざっぱに説明すると,すべてのものは神のうちにある(神の変状である)ので,どんなものの観念にも神の本性が必ず共通に含まれていて,この神の本性を共通概念として人間は十全に認識することができるという流れです。そして,この共通概念を,スピノザは好んで公理と等置するのです。したがってこの意味では,ここでは公理三の背後にあるものについて考えているわけですから,スピノザ自身が公理と等置する共通概念によって導かれる神の実在の人間による認識を証明しているこの定理にも,僕はかなりの意義があるのではないかと思うのです。
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八甲田賞&第二部定理四七

2006-09-24 22:34:40 | 競輪
 青森記念の2日目優秀として争われた八甲田賞(映像)。
 前受けしたのは山崎選手率いる北日本ラインで,これに村本-渡辺,山口が続いて7番手以下に西国勢。打鐘前に吉岡選手が上昇しましたがこれがちょっと中途半端。山崎選手が楽に突っ張り先行となり,小川選手が山口選手の後ろに切替えたためにバックに入る段階では吉岡選手は一本棒の8番手とほぼ絶望的な位置。途中に動く選手もひとりもいなかったためにかなり淡白なレースとなり,山崎選手の番手の地元の坂本選手が車間を少し開け,直線では差し切って1着。山崎選手が2着に粘り,佐々木選手が3着と北日本の上位独占。以下も,村本選手,渡辺選手,山口選手,小川選手と,道中の順番通りの入線となりました。
 前受けから突っ張るという作戦を採った北日本の作戦勝ちというべき競走で,吉岡選手はもっと早めに上昇するべきであったように思います。それなら山崎選手も無理に突っ張ることはできなかったかもしれず,吉岡選手が一旦は前に出きってしまえば違ったレース展開になったのではないでしょうか。

 神の実在をそれ自体で知ることを『エチカ』に訴えて考える場合に,もうひとつ,鍵となると僕が考えるのが第二部定理四七です。
 「人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する」。
 この定理の場合には本文の中には難しいところは何もないと思いますから,ただそのまま理解すれば問題ないでしょう。
 ところで,神の本性を妥当に認識するということは,神の十全な観念を有するという意味であり,したがってこの定理は,人間は神の十全な観念を有するという意味になります。ところが,神は第一部定義六から実体であり,よって第一部定理七からその本性には存在が属するのです。したがって,人間が神の十全な観念を有するということは,とりもなおさず,人間は神が存在するということを知るということに等しいと僕は考えます。そのゆえに,この第二部定理四七に,人間が神の実在をそれ自体で知り得るということが含まれているのではないかと僕は考えるのです。
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デカルト&第五部定理一四の意義

2006-09-23 22:33:22 | 哲学
 カーリーEdwin Curleyの著書については感想を書きましたが,デカルト哲学についてはほとんど言及していなかったので,補足の意味で少し。
                         
 デカルトの哲学がなければ,スピノザの哲学はあり得ませんでした。また,哲学史という観点からすれば,デカルトが占める地位は,スピノザの地位よりずっと大きいかもしれません。しかし,スピノザの哲学について考えている人間の立場からすれば,デカルトの立場というのは不十分なのであって,全面的にではないとしても修正されるべき哲学としてあるというのが普通の考え方だと思います。そして,スピノザの哲学は,ひとつの方法でデカルトの哲学を乗り越えたものであるということになるかと思います。また,スピノザ自身,『エチカ』の中においても,デカルトの考え方について,それを厳しく非難している部分があります。ですので,デカルト的な立場からスピノザを読むというのは,スピノザの側からいえば本当はあり得ないことであって,それは,乗り越えたものが,乗り越えられたものに再び還元されてしまうということにほかならないのです。これではスピノザがその哲学においていわんとしたことを正しく理解できる筈もないと僕は思います。
 この考え方が一面的であるといえばそうかもしれませんが,デカルトの側からスピノザを読むのではなく,スピノザの側からデカルトを読む(そこにある意味を汲み取る)というのが,スピノザの哲学について考える場合,あるいは『エチカ』を読解しようとする場合には,本来採用するべき手法であると思います。

 明日は青森記念2日目優秀にあたる八甲田賞があるので予想します。確たるラインはふたつ。山崎-坂本-佐々木の北日本と吉岡-合志-小川の西国。位置のない残りの3選手は村本-渡辺と山口。先行1車のようなものなので山崎選手◎に期待。競られなければ坂本選手○もチャンス。競りで隊列が短くなれば吉岡選手▲と合志選手△で捲り一閃。

 人間というのは本来は受動的なものです(第四部定理四)。これを少々強引ですが,人間は「自然状態status naturalis」にあっては受動的であると考えるならば,そういう「自然状態」の人間の精神mens humanaがまず形成する観念ideaは,自分の身体corpusの受動passioの観念,すなわち,自分の身体が外部の物体corpusに刺激される観念であり,また,それによって,自分の身体を刺激する外部の物体が現実的に存在すると表象するimaginari観念(第二部定理一七)であるということになると思います。
 そこで,もしも人間がそうした「自然状態」にあって第一に形成するようなそうした観念を,神の観念idea Deiと関係させることができるのであれば,それによって人間は,神が実在することを知ることができると考えることは可能だと思います。つまりこの考え方からすれば,人間は「自然状態」において,それ自体で神の実在を認識し得るということになるのです。第五部定理一四が,神が実在するということを人間がそれ自体で知り得るということに対してもつ意義は,僕の考えではこの点にあります。
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カーリー

2006-09-22 23:06:03 | 哲学
 満足してもらえるかどうか分かりませんが,このコメントにレスします。なお,これは長くなりますので,今日は本論(テーマ)については1日だけお休みすることにします。
                         
 まず最初にいっておくと,僕はスピノザの『エチカ』,あるいは哲学には興味がありますが,政治学や宗教学にはさほどの関心がなく,スピノザ自身のそうした著作も読んでいません。このカーリーの本は,そうした部分も含まれていて,それについては僕は言及できません。
 哲学に関係する部分についていえば,この本は『エチカ』の中にある,僕自身が気付いていなかったような問題の発見という意味で僕には大いに役立ったのですが,不満な点もありました。ごく簡単にいうと,カーリーがあまりに常識的な立場からスピノザを解釈しているように感じられたからです。たとえば僕が2回目のテーマにした第二部定理一三備考の解釈もそうですし,第五部の精神の永遠性に関する解釈などもそういった点が見受けられるように思います。あるいはデカルトの哲学というのは,身体と精神の関係に関する限り,スピノザの哲学に比べればはるかに常識的なものであるといえると思いますから,spinach7さんがコメントでご指摘されている点も,そうした中に入れることができるのかもしれません。カーリーの解釈が全面的に誤りであるというつもりはありませんが,『エチカ』を読むというタイトルのわりには(ただし原題はBehind Geometrical Method A Reading of Spinoza's Ethicsです),『エチカ』を読んでそんな結論になるのかなと思ってしまうような部分もありました(第二部定理一三備考の解釈はその典型的な例)。
 ニーチェの哲学を僕はよく効く薬とたとえましたが,そこにも記した通り,よく効く薬は同時に強力な毒でもあって,とくに「常識」というものに捕われている場合にはなおさら薬よりは毒として作用すると思うのです。そしてこれは,文章表現の激烈さという点を別にすれば,スピノザにも同じように当てはまると思います。僕は,もしも「常識」というものに一切の波紋を与えないとすれば,そんな哲学は哲学として価値がないと考えますし,何よりそんな哲学には魅力を感じません。もしもスピノザの哲学がきわめて常識的なものにすぎなかったら,僕は『エチカ』について考えてみようという気にもならなかったでしょう。したがって,スピノザの哲学を常識的な線から解釈することは,スピノザ哲学が本来もっているようなよさを消してしまうと思うのです。僕はカーリーのような方法ではスピノザを解釈できないとはいいませんが,この方法では,僕の立場からみた限りではあるかもしれませんが,スピノザの哲学にある本来の意義を読み取ることは難しいだろうし,かえって見失うことになってしまうのではないかと思います。
 これについては様ざまなご意見やご感想があるかと思います。お聞かせ頂ければ幸いです。

 明日から青森記念が始まります。
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1999年1月31日&第五部定理一四

2006-09-21 23:16:06 | 名馬
 全日本プロレスの創設者のジャイアント馬場さんが現役プロレスラーのまま亡くなったのが1999年1月31日。この事実が伝えられたのは翌日の午後7時頃でした。もう7年も前のことですが,その一報を知ったときのことは,僕は今でもありありと思い浮かべることができます。
 ところでこの1999年1月31日というのは,日本の競馬の世界にとっても特別な日です。この日,1月なのにフェブラリーステークスGⅠが東京競馬場で行われ,メイセイオペラという馬が優勝しました。何が特別なのかといえば,このメイセイオペラ,岩手県競馬所属の馬で,JRAのGⅠレースを地方競馬所属の馬が勝ったというのは,日本の競馬の歴史において,現在までではこのときだけなのです。
 メイセイオペラは現在でいう3歳時に,厩舎の中で頭の骨を折るという珍しい怪我を負った馬。その後,徐々に頭角を表し,前年に地元・盛岡の南部杯でGⅠ初制覇。これがGⅠ2勝目でした(その後,同年の大井の帝王賞も勝ってトータル3勝)。
 ジャイアント馬場さんが息を引き取ったのは午後4時過ぎで,まさにこのレースの直後。ジャイアント馬場さんの死とメイセイオペラの勝利。まったく関係のないふたつの出来事なのですが,僕の精神の中では,ふたつの観念が分かち難く結びついています。

 僕は『エチカ』のことは『エチカ』に訴えることによって解決するというのが基本姿勢です。そこで,神が実在するということがそれ自体で知られ得るということを『エチカ』の中から見出そうとするなら,僕にはふたつの部分があげられると思われます。そのうちのひとつが第五部定理一四。
 「精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる」。
 実はこの定理,後続の定理との関係から僕は少し問題があると思っているのですが,これはここでのテーマとはあまりに関係がないので,今はこれは問題にしません。この定理の意味というのは,身体の変状というのをどう考えるかということだと思いますが,この定理に関係する限りでは,これは人間の身体が外部の物体によって何らかの刺激を受けることの観念と考えるのが妥当だと考えます。つまり,人間は,自分の身体が外部の物体によって刺激を受ける観念や,それによって精神の中に生じる物体の観念(正確を期せば,物体が現実的に存在するという観念)を,神の観念と関係させられるというのがこの定理の意味であると思います。
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日本テレビ盃&公理の成立条件

2006-09-20 22:39:11 | 地方競馬
 第53回日本テレビ盃
 逃げたのは高知のビッグフリートで,カイジンクンが2番手。断然の1番人気に支持されたシーキングザダイヤはその外の3番手でレースを進めました。
 3コーナー手前から2番手のカイジンクンが一杯になって後退。それとともにシーキングザダイヤが進出を開始し,持ったままの楽な手応えで直線に入ると,外からスターキングマンが追い上げます。休み明けの場合,手応えが楽でも追ってから伸びを欠くというケースもままあるのでどうかと思っていたのですが,詰め寄られそうになるとさらに伸びるという感じで,最後は4分の3馬身差まで接近したのですが,抜かれるという感じはまったくなく,シーキングザダイヤの快勝となりました。
 とにかくGⅠで2着ばかりを続けていて,勝利自体が久しぶりですが,勝ったということが起爆剤になると,カネヒキリが故障したということもあり,今秋は待望のGⅠ制覇が達成できるかもしれません。
 2着のスターキングマンは2003年の東京大賞典GⅠの勝ち馬で,当時の力はもうないと思う(昨年のジャパンカップダートGⅠだけはやけに激走しましたが)のですが,このメンバーでは2着に入るだけの力はまだあったようです。
 レマーズガールは3着でしたが,今日は内の3番手から一旦後退し,向正面で再び追い上げ,直線は無理に外へ出すという感じで,少し競馬にスムーズさを欠いた印象です。

 一般にある事柄が公理として成立するためには,公理として言明される内容が,それ自体で知られ得るのでなければならないと僕は考えます。
 この一般論から第一部公理三についていえば,僕はあくまでもふたつの意味のうちの強い意味の方は,各々の原因と結果の間にある個々の必然性を,すべて同一の必然性と規定するような何かが背後に前提されていなければ,公理として成立するとかしないとかいう以前の問題として,その内容自体が成立しないと考えますので,それを規定するものの存在,すなわち絶対に無限な実体であると定義されている限りでの神が実在するということで内容が初めて成立し,さらにそのことがそれ自体で知られ得るのでなければ公理としては成立しないと考えます。
 なので,神の実在はそれ自体で知られ得るのかどうか,つまり,ある証明という手続きを経ずとも知られ得るのかどうかということが問題となってくると思います。
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取手記念&第一部公理三の内容

2006-09-19 22:39:23 | 競輪
 昨日,決勝が行われた取手記念(映像)。
 前を取ったのは関東で,以下,西日本,南関東,北日本で周回。残り2周からセオリー通りに佐藤選手が上昇すると吉川選手がこれに続き,バックでは抑えて先行態勢に。残り1周近くから後方の佐々木選手がかましてホームでは先行争いになりましたが,佐々木選手と加藤選手で出きりました。これを2コーナーから8番手の武田選手が捲り発進。このスピードが桁違いであっさりと前段を飲み込んで優勝。後閑選手もしっかりマークしていましたが,抜くというところは少しもなく,流れ込んでの2着。最終3コーナーで佐藤選手が落車したために半ば自力のレースになった岡部選手が大外から,佐々木選手の番手の加藤選手をわずかに捕えて3着に入りました。
 優勝した地元・茨城の武田豊樹選手は,競輪学校は88期ですがすでに32歳。元スピードスケートの選手で,そちらの方で名前をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。現在放映中の競輪のCMに登場している選手。このCMは,井筒和幸監督の作品で,顔を見て即座に起用を決定したそうです。武田選手の記念競輪制覇は昨年11月の一宮記念以来となります。

 明日は船橋で日本テレビ盃。8頭立てと寂しいレースになってしまいました。中心はシーキングザダイヤ◎。2月のフェブラリーステークス以来,それも喉の手術で休んでいたということで不安もありますが,メンバー的には負けられないと思います。2着争いの筆頭はレマーズガール○で,あとはレイナワルツ△とスターキングマン△。

 第一部公理三のふたつの意味のうち強い意味の方が成立するためには,前提としての神の存在が必要であるというのが僕の考えです。
 そこで第一部定理一一をみてきたわけですが,この証明によって,神,すなわち第一部公理三の強い意味を背後で支えるものが実在するということについては明らかになったと僕は思います。なので,第一部公理三でいわれていることの内容が正しいということについては僕は完全に同意します。したがって,これが公理として成立するかどうかということは別としても,ある定理がこの公理を利用することによって証明されるという場合でも,その内容の正しさについては僕は問題がないと考えます。なザなら,たとえ第一部公理三が公理としては成立しないのだとしても,第一部定理一一が証明された後においては,定理として第一部公理三がもっているのと同じ内容のことを証明することが可能であると思うからです。したがって,残る疑問は,果たして第一部公理三の強い意味は,公理として成立しているのかどうかということです。
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ダービーグランプリ&力

2006-09-18 20:10:49 | 地方競馬
 ダービーグランプリ(映像)。
 ここはこれといった先行馬がいない組合せで,バンブーエールが逃げる展開。1~2コーナーで少し離したのですが,向正面に入ると後続も徐々に追い上げました。それでもスローペースは変わらず,馬順もほとんど変わらぬまま。結局,この位置取りが結果のほとんどを左右したような競馬で,2番手につけていたマンオブパーサーが最後の直線で粘るバンブーエールをわずかに交わして優勝。バンブーエールが2着で,道中3番手の地元の上がり馬,サイレントエクセルが3着,4番手のヤマタケゴールデンが4着で5番手のシルクウィザードが5着。以下は離れて,ナイキアースワーク,オウシュウクラウンの順でした。
 僕は競馬では能力を重視し,展開はあまり考えないので,展開面が結果に大きく影響するレースではこういうひどい予想になることがままあります。勝ったマンオブパーサーは2月のヒヤシンスステークスでフラムドパシオンの2着。かえすがえすもあの馬の故障は残念です。

 実在性とは存在する力という観点からみた限りでの本性であるというのが僕の考え方ですが,力というのは僕が思うにスピノザ哲学ではやや特殊な意味があります。というのは,僕たちは一般に,ある事物に力があるというとき,その事物にそのあることをなす潜在的な可能性があるというようなことを意味することがありますが,スピノザはそういう可能的な力というのは一切認めず,力とは常に現実的なものであると考えています。
 したがって,存在する力というのを例にするなら,ある個物が現実的に存在する場合には,それ自体がその個物の力なのであり,逆に何らかの原因によってその個物の存在が排除されている場合(その個物が現実的には存在しない場合)には,それ自体がその個物の無能力(力の反対の意味で)を示しているということになるのではないかと思います。
 そしてこれは,スピノザがあらゆるものは必然であるか不可能であるかのどちらかで,偶然とか可能というものはないと考えていることに関係しているように思います。なぜなら,必然であるものはそれ自体がひとつの力であり,不可能であるものはそれ自体がひとつの無能力であるということになるように思うからです。
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よく効く薬&第三の証明

2006-09-17 22:54:55 | 哲学
 よく効く薬。これは,僕のニーチェの哲学に対する印象を一言で示したものです。
               
 ニーチェの文章というのは辛辣なところがあって,俗にいうと毒を吐いているという感じなのですが,強力な毒というのはときに強力な薬としても作用するんですね。とくに精神の状態が鬱屈しているようなときにニーチェを読むと,なぜか分からないのですが回復するような傾向が僕にはあるのです。逆にいうと,精神がきわめて健康であるような場合には,毒はあくまでも毒として作用し,逆にげんなりしてしまうような場合もあるわけですが…。
 それでも,それは毒なのか薬なのかと問われれば,僕は間違いなく薬であると思います。よく,どうでもいいようなものを,毒にも薬にもならないといいますが,毒にも薬にもならないような哲学ほど退屈なものもないように思います。
 そう考えるなら,スピノザの哲学にも,ニーチェの哲学ほど強烈ではないとしても,明らかに毒の要素が含まれています。僕はある意味,その中毒患者なのかもしれません。しかしこの中毒は,僕にはむしろいい影響を与えているのだと僕は思っています。

 明日は盛岡でダービーグランプリがあります。ジャパンダートダービーの2,3,4,6着馬に中央1000万勝ちの2頭が加わって混戦模様。地元の利を見込んでオウシュウクラウン◎を中心に推します。安定性ならバンブーエール○で,能力ならナイキアースワーク▲と思うので,この3頭はほぼ同列に評価したいです。以下,順番をつければヤマタケゴールデン△,マンオブパーサー△,シルクウィザード△ので。

 それから取手記念の決勝(記事は19日)。佐藤-岡部の北日本,武田-後閑の関東,吉川-新田-渡辺の南関東,佐々木-加藤の西日本で4分戦。こちらもすんなりとしたレースになる筈もなく混戦模様。吉川選手の好調さを買って新田選手◎に期待します。強敵は地元の武田選手○。それからこちらも好調な佐々木選手▲と復調が窺える岡部選手△で。

 第一部定義六によれば神は絶対に無限な実体ですから,そこにはありとあらゆる(無限に多くの)本性が含まれるわけです。したがって,実在性というのが存在する力という観点からみた限りでの本性そのものであると考える限り,実在性において神を上回るものは何もないことになります。これが第三の証明で,すでにこのことから神は存在するということが出ているのです。
 なぜなら,もしも神が存在しないなら,それは実在性において最高の(完全な)ものが存在しないという意味ですから,何も存在しないでしょう。実在性が上位のものは存在せず(できず),下位のものだけが存在する(できる)というのはそれ自体で不条理だからです。しかし,何も存在しないということもまたそれ自体で不条理なのは明らかです。したがって神は存在します。
 端的にいえば,第一部定義六からして,神が存在するかそれとも何も存在しないかのどちらかであることが導かれ,何も存在しないということはないから神は存在するということになるのです。実にシンプルな証明で,僕はこの第三の証明に優る神の存在の証明はないと思っています。
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王座戦&第二部定義六

2006-09-16 22:48:38 | 将棋
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 王座戦第二局。羽生王座の先手で▲7六歩△3四歩▲2六歩に△1四歩と変則的な出だし。結局,一手損角換りに落ち着き,先手が早繰り銀。ただこの銀が3五で歩の交換をしたあと,2六に引き,△4二飛にすぐ▲3七銀とまた引くようではあまりよくはなかったような感じです。その後,佐藤棋聖が△7五歩と仕掛けてから飛車を7筋に転換して攻撃開始。右の桂馬を跳ね出し,角金交換の駒損ながら一般に急所とされる5七に成桂を作ったのですが,対する▲7九角~▲5八金の受けが好手だったようでここからは完全に羽生王座のペースに。その後,この成桂で佐藤棋聖が飛車を取りにきたところでこの飛車を見捨てて反撃開始。この厳しい攻めで形勢をはっきりとよくし,,最終盤でややもたつく感はあったものの,そこまでにつけていた差はそれで逆転してしまうほどの差ではなく,最後はきっちり即詰みに討ち取って2連勝。王座防衛にあと1勝としています。第三局は27日です。

 実在性に関するスピノザの定義は第二部定義六ですが,これはごく簡単なものです。「実在性と完全性とは同一のものであると解する」。一般に僕たちがものを完全とか不完全というのは,ある虚構としての思惟の様態にすぎず,むしろ,あるものがほかのものに対して多くの実在性を有する限りでそれは完全といわれるべきであり,逆により少ない実在性しか有しない場合には不完全であるというべきだというのがスピノザの見解と考えていいと思います。これは,どんな事物もその本性においては完全であると考える場合には(僕はそのように考えます),完全性を力という観点からみた本性そのものであると考える僕の見方に一致していると思います。ですから,逆に考えれば,神はその特質として最高に完全でなければならないのですから,そこには最高の実在性が備わっていなければならないということになるだろうと考えます。
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