スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

モナドがない場合&憎しみの正当化

2018-03-31 19:00:25 | 哲学
 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがスピノザの哲学に対抗する上で対立軸として設定したのは実体の数でした。ただ,スチュアートがいうように,ライプニッツにとってのスピノザ問題は,哲学問題であったというより宗教問題であった可能性もあるのであって,モナドというライプニッツの哲学の中心的な概念notioは,哲学問題を解消するためにでなく,宗教問題を解消するために創造された可能性があることは僕は認めます。
                                     
 ただ,問題がどちらであったにせよ,ライプニッツがモナドを中心に据える自身の哲学によって,スピノザ問題を解決することができることに自信を持っていたことは僕には確かであると思えます。だから,モナド論の中にスピノザ主義が混在しているかという文通相手の質問に対して,ライプニッツはモナドだけがスピノザ主義を否定できるといい,もしモナドがないならスピノザが正しいだろうといったと僕は思うのです。ところがスチュアートはこの一文は人びとを混乱に陥れる要素が含まれていると書いています。
 モナド論が真verumであるなら,ライプニッツのいっていることは明白です。ライプニッツはその観点からこういったと僕は考えているわけです。しかし,もしモナド論が真であることに確信がない人がこれを読めば,もしモナドが存在しないならスピノザが正しいということが帰結します。確かにライプニッツの文章は,モナドが存在しないならライプニッツ自身の思想が誤りerrorであるといっているのではありません。その場合はスピノザが正しいといっているのです。
 これはライプニッツが自身の哲学を構築するにあたって,ほかのだれよりスピノザを,あるいはスピノザだけを意識していたから発せられたのであり,スチュアートがいうような意味でこの文章を受け止める必要はないと僕は考えます。ただ,スチュアートは,どんなに控えめに見てもここでライプニッツは瞠目するほどスピノザを持ち上げているといっていて,その部分は僕も強ち間違いではないと思います。ライプニッツが意識していたのがスピノザだけであるなら,それは持ち上げているのと同じだと思うからです。

 憤慨indignatioは,第三部諸感情の定義二〇にあるように,その対象が人間であるということによって,ある人間のうちに生じやすいというメカニズムを有しているだけではありません。同時に,この憎しみodiumが正当であると判断されやすい特徴を有しているのです。なぜなら,第三部定理四九備考にあるように,僕たちは僕たちが自由libertasであると表象するimaginariがゆえに,互いに愛し合いまた憎み合うのです。憤慨が感じやすい感情affectusであるのもそのためです。したがって,ある人間が自分の愛する者に害悪を与えた,いい換えれば悲しみtristitiaを齎したと僕たちが表象するとき,それはその人間の自由の裁量の下にその害悪を与えたと表象されやすくなります。よってその人間が愛する者に悲しみを齎すこと自体が不当であると判断されやすくなり,逆に自分のその人間に対する憤慨は正当であると判断されやすくなるのです。
 憤慨は憎しみの一種ですから,これは憎しみの正当化といえます。つまり僕たちの現実的本性actualis essentiaは,ある種の憎しみ,とりわけそれが人間に対する憎しみである場合,その憎しみを正当化しやすくなっているのです。確かに僕たちは,何が正当であり何が不当であるかを判断するとき,それが当人の力potentiaのうちにあるかそれとも力のうちにないかということを比較の材料とします。したがって,もしも愛する者の無能力impotentiaのゆえに愛する者が悲しみを感じたと表象する限りでは,僕たちは悲しみを与えた人間に対して憤慨することはありません。たとえばある棋士のファンが,その棋士との対局で勝った相手の棋士に対して憤慨することは,将棋の内容そのものに関していうならないといって過言ではないでしょう。また逆に,ある人間が愛する者に対して悲しみを与えたとしても,それが悲しみを与えた当人の力のうちにはなかった,他面からいえばその当人の力では避けることができなかったと表象するなら,その人間に対して憤慨することはありません。患者の命を救えなかった医師に対して,その医師が全力を尽くしたと表象するなら,その医師に対して憤慨することはないのです。
 ですがこれらは少数例です。僕たちは憎しみを正当化しやすいと解しておいた方がよいでしょう。
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棋王戦&憤慨の感じやすさ

2018-03-30 19:27:36 | 将棋
 東京将棋会館で指された第43期棋王戦五番勝負第五局。
 振駒渡辺明棋王の先手。永瀬拓矢七段の風変りな序盤戦術から相居飛車の力戦型に進みました。
                                     
 先手が3六にいた銀を引いたところ。ここから後手は☖7五歩☗同歩☖同角とまず7筋を交換し☗3六歩に☖8六歩☗同歩☖同角☗同角☖同飛☗8七歩☖8二飛と角を交換しながら8筋も交換しました。
 たぶんこの将棋はここでの折衝が後手にとって拙かったのではないかと思います。7筋を先に交換しておくことで一歩を手持ちにはできますが,その後で角を交換するのは手損ですし,7筋を交換したことで後にそこを攻められることになってしまったからです。
 先手が☗3七桂と跳ねたのは第1図で銀を引いたときからの狙い。ここから☖3一玉☗5八金☖5二金☗2九飛☖4二金右☗1六歩☖1四歩☗4八王と駒組。先手は盤面の左から攻めることになるので右玉にしたのはいい判断であったと思います。
 後手が☖2四銀と上がったのに対して先手は☗7四歩と垂らしました。成り捨てて☖同桂に☗7四歩と打つ狙いです。後手は☖6二角と打って受けました。
                                     
 自分から交換した角をこのように受け一方に打たざるを得ないのではすでに後手が苦しいのではないでしょうか。後手の序盤に大いに問題があった一局だったという印象です。
                                     
 3勝2敗で渡辺棋王が防衛第38期,39期,40期,41期,42期に続き六連覇で6期目の棋王です。

 第三部定理四九は,愛amorと憎しみodiumについて記述されています。しかしこの定理Propositioは,僕たちが自己嫌悪humilitasという感情affectusを抱く場合とも関連しています。すなわち,僕たちは自分が自由libertasであると表象するimaginariなら,自分は自由ではないと表象する場合より,自己嫌悪を感じやすくなるのです。自己満足acquiescentia in se ipsoは自己嫌悪の反対感情ですから,同様のことは自己満足の場合にも生じます。すなわち自分を自由であると表象する場合には,自分を自由であると表象しない場合より,自己満足を感じやすいのです。
 このために,自分の力potentiaの中にあることによって生じた喜びlaetitiaは,自己満足を伴いやすく,よってその喜びは正当であると判断されることになります。同様に,自分の力の中にあるけれどその力が及ばなかったことによって生じた悲しみtristitiaは,自己嫌悪を伴いやすく,この悲しみは不当であると判断されにくくなるのです。僕がこの感情を説明する例として,将棋の対局を採用したのは,この点と関連します。棋士の指し手はその棋士の力のうちにあると表象されやすい,いい換えればその棋士の自由の範疇にあると表象されやすいと思われるからです。
 この第三部定理四九を受けて,第三部定理四九備考では,人間は人間が自由であると表象するために,自由ではないと表象されるものよりも相互に愛し合いまた憎み合うようになるということがいわれていたのでした。そして僕が排他的思想を産出しやすい感情のふたつめとして検討中の憤慨indignatioは,第三部諸感情の定義二〇でいわれているように,人間に対する憎しみの一種です。よって僕たちは僕たち自身が自由であると表象する限りにおいて,憤慨という感情をとても感じやすいといえることになります。第三部定理二一の様式で僕たちのうちに感情の模倣imitatio affectuumが生じるとき,その愛する者を悲しみに刺激するもののことを僕たちは憎みます。第三部定理二二は悲しみを齎すものが人間に限定されていますが,たとえ人間でなくとも同じ論理が成立しなければならないからです。しかし人間である場合には,その人間がその人間の自由の範疇で悲しみを齎したと表象しやすいのですから,憤慨は人間以外への憤慨に類する憎しみよりも生じやすいのです。
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中日新聞杯名古屋大賞典&正当な悲しみ

2018-03-29 18:58:53 | 地方競馬
 第41回名古屋大賞典。モズライジンが出走取消となり10頭。
 メイショウスミトモが発馬直後に躓いてしまい落馬。サンライズソアがハナを奪い,カツゲキキトキトが2番手という1周目の向正面でしたが,空馬が外から上がってきた影響で,はっきりと隊列が定まったのは正面に入ってから。3番手にキーグラウンドとモズアトラクション。5番手がミツバとおそらく空馬の影響を最も受けたと思われるラインハート。ここまでは一団でやや離れてブランニュー,エーシンマックス。大きく離れて最後尾にドナルトソン。超スローペースだったと思われます。
 2周目の向正面からサンライズソアとカツゲキキトキトは雁行。3コーナーを回って2頭の外にモズアトラクションでさらに外をミツバ。内を回ったキーグラウンドの5頭が密集。直線に入るとカツゲキキトキトは後退し,モスアトラクションも一杯。逃げたサンライズソアを残る2頭が追ったもののサンライズソアが逃げ切って優勝。大外のミツバが半馬身差で2着。内をうまく立ち回ったキーグラウンドが4分の3馬身差の3着。
 優勝したサンライズソアは重賞初勝利。とはいえ前々走の大敗を除けば重賞を含めてダートでは3着以内に入っていたので,ここは有力候補の1頭。実績は落馬してしまったメイショウスミトモと2着のミツバが上ですが,距離適性と斤量面からはこちらの方が有利かと思っていました。大きく崩れてはいない馬ですが,強敵との対戦はなく,今日の斤量と着差から考えても,トップクラスとはまだ差がありそうです。ただ4歳馬ですから,まだ成長の余地は残しているでしょう。父はシンボリクリスエス。母の父はスペシャルウィーク。祖母は2000年にセントウルステークス,2001年にスワンステークス,2002年に京都牝馬ステークスを勝ったビハインドザマスク。10代母がクヰックランチの祖母にあたります。Soarは急上昇する。
                                     
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手は名古屋大賞典初勝利。管理している河内洋調教師も名古屋大賞典初勝利ですが,第20回を騎手として制したことがあります。

 本題へ回帰します。
 僕たちは,ある喜びlaetitiaが自己満足acquiescentia in se ipsoを付随させ得るような喜びである限り,それを不当な喜びとは判断しません。自己嫌悪humilitasは自己満足の反対感情なので,ちょうどこれと逆の関係が成立します。つまり僕たちがある悲しみtristitiaを感じたとき,その悲しみが自己嫌悪を付随させるような悲しみであるなら,僕たちはその悲しみについては正当であると判断する,あるいは少なくとも不当であるとは判断しないのです。
 これは第三部諸感情の定義二六からも明らかだといわざるを得ません。なぜなら,自己嫌悪というのは自身の無能力impotentiaの観念ideaを伴った悲しみであるからです。要するに自己嫌悪を伴うような悲しみというのは,自分の力potentiaが足りなかったという認識cognitioを伴った悲しみです。いい換えればこれは,悲しみの原因として自分自身の観念を伴っているのです。別のいい方をすれば,自分が悪かったがゆえにこの悲しみに自分は襲われたという認識を伴っている悲しみなのです。ですからもしこの悲しみが不当であると判断されるなら,正当であると判断されるような悲しみは存在しません。自分以外の何かのせいで生じた悲しみは正当で,自分自身のせいで生じた悲しみが不当であるというのは,それ自体で不条理であるからです。
 これも自己満足の場合と同じように,必ずその悲しみを僕たちは正当であると判断する,あるいは不当であるとは判断しないというものではありません。ですがそれが自分のせいであるという認識が伴っている限り,その悲しみは正当である,あるいは仕方がないものであるという判断は成立するのですから,このことが悲しみが正当であるのか不当であるのかを判断するときの材料を構成し得るということは明らかです。すなわち,自分が無能力であったということの認識が,悲しみを感じている人間の精神mens humanaのうちにあるかないかということは,その人間がその悲しみを正当であると判断するか不当であると判断するかの比較の材料になり得るのです。
 なお,このことは第三部定理四九といくらかの関係を有します。人間は自分が自由libertasであると思い込むほど,自分が無能力であるということも表象しやすくなる筈だからです。
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京急創立120周年賞京浜盃&謙遜

2018-03-28 19:02:17 | 地方競馬
 第41回京浜盃
 ダッシュがよかったワグナーコーヴがハナを奪いましたが,ヤマノファイトが外に並び,2頭で逃げるようなレースに。やや開いた3番手にクリスタルシルバーで内の4番手にハセノパイロ。ここまでが先行集団で,2馬身ほど開いてフレアリングダイヤとドンビーが好位を追走。4馬身ほど開いてクロスケ。また3馬身ほど開いてリコーワルサー。ツルマルパラダイスとレベルスリーがその直後。4馬身ほど開いて後方からビクトリアペガサス,トーセンブル,マルカンセンサーという隊列。序盤は縦長でしたが,向正面で徐々に凝縮していきました。スローペースに近いくらいのミドルペースであったと思われます。
 このペースですから前の2頭は余力があり,直線に入ると3番手のクリスタルシルバーを引き離して叩き合い。この競り合いは外のヤマノファイトが制して優勝。逃げたワグナーコーヴが4分の3馬身差で2着。クリスタルシルバーの外からハセノパイロとリコーワルサーが追いましたがやや伸びあぐね,それより遅れて2頭の内から追ってきたクロスケの伸びが優って2馬身半差の3着。クリスタルシルバーが4分の3馬身差の4着でハセノパイロはクビ差で5着。さらに半馬身差でリコーワルサーが6着。
 優勝したヤマノファイトニューイヤーカップからの連勝で南関東重賞2勝目。ニューイヤーカップのときは,それを十分に生かしたとはいえなくとも浦和の1600mで内目の枠を引いての優勝でしたから,外枠だった馬たちに対してはっきりとした能力差があったのかどうかについては半信半疑でした。しかし今日も勝ったということは,南関東の牡馬の中ではトップクラスの力がある馬とみていいのではないでしょうか。当然,クラシックの有力候補です。父はエスポワールシチー。母のはとこに2006年に京都新聞杯と中日新聞杯,2008年に京都大賞典を勝ったトーホウアラン。6代母がクレアーブリッジの祖母。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手はニューイヤーカップ以来の南関東重賞14勝目。京浜盃は初勝利。管理している船橋の矢野義幸調教師は南関東重賞14勝目。京浜盃は初勝利。

 謙遜humilitasという語は,大抵の場合は自分についてではなく他人について用いられます。このことは,僕たちは「あの人は謙遜している」といういい方はしますが,「私は謙遜しています」とはいわないということから明白でしょう。そしてこのことは普通は他人の態度について用いられますが,ここではあくまでもそれが感情affectusであると仮定しておきます。
 なぜ僕たちが自分自身について謙遜という語を用いないかといえば,「謙遜する」という語の中には,嘘をついているという意味が含まれているからです。つまり,「私は謙遜しています」というのは,「私は嘘をついています」といっているのも同じであり,そのことを表明するのは理に反します。このゆえに僕たちは他人については謙遜していると表現あるいは形容するのですが,自分についてはそうしないのです。逆にいえば,「あの人は謙遜している」というのは,「あの人は嘘をついている」といっているのと同じです。これは表象imaginatioなので,実際に謙遜していると表象されている人が嘘をついているとは限りませんが,それを表象している人は,その人は嘘をついていると判断しているのです。
                                
 それがどのような嘘であるかを感情によって示せば,第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoを感じているのに,それを感じていないふりをしているということになります。すなわち「あの人は謙遜している」という文章が有する意味は,「あの人は自己満足を感じていないように装っている」ということです。繰り返しますがこれは他人についての表象ですから,この文章のあの人が,本当に自己満足を感じていてそれを悟られまいとしているのか,本当は自己満足を感じていないのかは分かりません。しかし語の意味としていえば謙遜というのは,自己満足とともにあり,しかしそれを悟られまいとする欲望cupiditasであるというのが,これを感情としてみた場合の,的確な説明になると僕は考えます。
 このゆえに,第三部諸感情の定義二六の感情を謙遜と訳すのは,日本語の語用として適切ではないと僕は考えます。なぜならそれは自己満足と相反する感情でなければならないからです。よって僕はこれを自己嫌悪humilitasと訳すのです。
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南三条③&自己満足と自己嫌悪の心情の動揺

2018-03-27 19:00:48 | 歌・小説
 で呼び掛けた女は歌い手に会いたがっていました。でも歌い手の方はそうではありませんでした。そのことは歌い手によって歌われています。
                                     

     会いたかったわ会いたかったわと無邪気はあの日のまま
     会いたくなんかなかったわ私は急ぐふり


 そして呼び掛けた女は歌い手に話し出します。それがドラマでそのまま用いられたの部分です。
 歌い手はなぜこの女とは会いたくなかったのか。それは容易に想像できます。そしてその想像通りのことが歌われます。

     なにも気づいてないのね
     今もあの日と同じね
     もしもあなたなんか来なければ
     今もまだ私たち続いたのね


 これでこの楽曲は概ね半分です。そしてここまではひとつの物語として首尾一貫しているといえます。つまり歌い手がかつて付き合っていた男が,呼び掛けた女と出会うことによってその女に乗り換え,しかし呼び掛けた女の方は,かつてその男が歌い手の女と付き合っていたということを知らないがゆえに,歌い手の前で無邪気な態度でいられるということです。
 ところが真相はそうではありません。楽曲はここから意外な方向へと転換していくのです。

 Xに対する自己満足acquiescentia in se ipsoと,Xに対する自己嫌悪humilitasは,単に反対感情であるだけでなく,ひとりの人間のうちで相反する感情であるということは明白と思います。だれも同じ事柄に対して自己満足を感じると同時に自己嫌悪も感じるということは,第三部諸感情の定義二五第三部諸感情の定義二六からあり得ないことが明白であるからです。それがあり得るなら,その人はある事柄に対して自身の働く力agendi potentiaを表象するimaginariと同時に自身の無能力impotentiaを表象していることになり,これはそれ自体で不条理であるからです。
 第三部定理一七は,愛amorと憎しみodiumは反対感情であり,かつ同時にAに対する愛とAに対する憎しみは同一の人間のうちでは相反する感情であるけれど,同じ相手に愛も憎しみも感じてしまう心情の動揺animi fluctuatioが発生し得ることを示しています。自己満足と自己嫌悪の場合は,そういう心情の動揺が生じ得るということは『エチカ』では示されていませんが,やはり生じ得ると僕は考えます。たとえばAという人間がXという事柄について自己嫌悪に陥っているとき,他の人びとがまさにXがAに属するがゆえにAのことを称賛しているのを表象するなら,AはXについて自己満足を感じ得るからです。同様に,AがYについて自己満足を感じているとき,他の人びとがYがAに属するがゆえにAのことを非難するのを表象するなら,AはYについて自己嫌悪に陥ることがあり得るからです。第三部定理一七で示されているように,喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaの大きさについて細かい条件を付さなければならないのですが,Xに対する自己満足とXに対する自己嫌悪が,心情の動揺を起こす場合がないわけではないということは明らかではないでしょうか。
 僕が岩波文庫版のように謙遜という訳語を用いず,それを自己嫌悪と訳すのには,ここまで示してきたように,自己満足と自己嫌悪は単に反対感情であるだけでなく,相反する感情でもあるという点にひとつの理由があるのです。僕たちは謙遜というのを感情affectusとしてよりは態度としてみなすのではないかと思いますが,仮にそれを感情であるとみなしたとしても,一般に謙遜は自己嫌悪ではなく,むしろ自己満足を意味すると僕は解するのです。
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国際自転車トラック競技支援競輪&一般的概念と個別的概念

2018-03-26 19:01:34 | 競輪
 小松島競輪場で行われた昨日の第6回国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは郡司‐神山の東日本,佐々木‐松浦‐池田の瀬戸内,山田‐大塚の九州で川口と藤木は単騎。
 山田がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に藤木,4番手に佐々木,7番手に郡司,最後尾に川口で周回。残り3周のバックの出口から郡司が上昇。山田を叩きにいきましたが山田はそのまま誘導を斬って突っ張りました。引いた佐々木が巻き返し,バックで山田を叩いて打鐘。山田は4番手を確保。藤木も続いて郡司が7番手の一列棒状に。山田がバックの入口から発進。松浦が番手捲りを敢行し,池田が山田を牽制。しかし山田はそれを乗り越え,直線で松浦を捕えて優勝。松浦が4分の3車身差で2着。最終コーナーから外を自力で踏んだ藤木が1車身差で3着。
 優勝した佐賀の山田英明選手は1月の松山のFⅠ以来の優勝。グレードレースは初優勝。以前はFⅠなら優勝候補という選手であったのですが,昨年は優勝が1度だけ。しかし今年は松山の直前の小松島のFⅠも優勝,さらに全日本選抜競輪でも初日から3連勝していて,復調を感じさせていました。ここは自力型としては郡司が最大のライバルで,前を取って郡司には前に行かせないという走行をしたのがいい作戦であったと思います。瀬戸内勢の抵抗はかなり強烈で,それにも屈しなかったところからすれば,記念競輪の制覇は期待できるところまで戻っているとみてよいかもしれません。

 自己満足acquiescentia in se ipsoと自己嫌悪humilitasは反対感情であると同時に,相反する感情でもあります。つまりこの関係は愛amorと憎しみodiumの関係に同じです。ただし,ここでも次の点には注意が必要とされます。
 僕がいう反対感情は,感情affectusを一般的に識別した場合の概念notioです。これに対して相反する感情は,ある感情がひとりの人間のうちにあると識別した場合の概念ですから,一般的概念notiones universalesではなく個別的な概念です。したがって,自己満足と自己嫌悪は反対感情でありますが,Aという人間のうちにある感情としてみた場合は,Xに対する自己満足とXに対する自己嫌悪は必然的にnecessario相反する感情ですが,Xに対する自己満足とYに対する自己嫌悪は,反対感情ではあっても相反する感情とは限りません。これは実際に僕たちは,ある事柄に対しては自己満足を得ることができるけれども,それとは別の事柄については自己嫌悪に陥る場合があるということを経験的に知っているでしょうから,これ以上の説明は不要でしょう。同様にXについては愛するけれどYについては憎むという場合はいくらでもあるのであって,反対感情であるからといって相反する感情ではない場合があるということは,その対象を個別的に識別するなら明白であるといえます。
 このとき,Pという全体があって,そのPの一部はXとYによって構成され,かつXに対する自己満足とYに対する自己嫌悪が,同じ人間のうちで両立する,すなわち相反する感情ではないという場合はあり得ます。したがって,P全体についていえば,その一部が自己満足の原因となり,別の一部が自己嫌悪の原因となるということはあり得るのです。また将棋の例を用いれば,一局の将棋の中で指した手のうち,Xという手には自己満足を感じるけれどもYという手については自己嫌悪に陥るという場合があり得ます。これを一局の将棋全体に対する感情としてみたときに,自己満足と自己嫌悪が両立している,すなわち相反する感情ではないということができないことはないということは僕は認めます。ただ実際にはどちらかの感情が強力になるか,心情の動揺animi fluctuatioが生じるかのどちらかではあるでしょうから,現実的には相反する感情であると考えます。
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高松宮記念&反対感情と相反する感情

2018-03-25 18:59:54 | 中央競馬
 香港から1頭が遠征してきた第48回高松宮記念
 先手を奪ったのはセイウンコウセイ。ダイアナヘイロー,リエノテソーロ,ブリザード,追い上げていったネロの5頭が先行集団を形成。好位にレッツゴードンキ,ナックビーナス,ファインニードルの3頭。中団にダンスディレクター,ジューヌエコール,レーヌミノルの3頭。以下は,シャイニングレイ,スノードラゴン,キングハート,ラインミーティア,ラインスピリット,レッドファルクス,ノボバカラと続きました。前半の600mは33秒3のハイペース。
 直線に入るところでもセイウンコウセイは先頭でしたが,セイウンコウセイの内から伸びたダンスディレクターとレッツゴードンキの2頭と,外からブリザードとナックビーナスとファインニードルの3頭がセイウンコウセイに並んできて競り合いに。一旦はレッツゴードンキが先頭に立ちましたが大外のファインニードルが追い詰めてフィニッシュ。写真判定となり差していたファインニードルの優勝。レッツゴードンキがハナ差の2着。ナックビーナスが半馬身差で3着。さらに半馬身差の4着がダンスディレクター。クビ差の5着にブリザードで逃げたセイウンコウセイがさらにクビ差で6着。
 優勝したファインニードルは前哨戦のシルクロードステークスから連勝で重賞3勝目。大レースは初勝利。前走が1200mのレースとしては大きな差をつけての快勝でしたからここは候補の1頭。その前走が4ヶ月弱の休み明けで馬体重を18キロも増やしていたのですが,これはここにきてパワーアップしてきたということだと思います。このレースは道中でほぼ同じ位置にいた3頭が上位3着になったように,展開や馬場状態から適切な位置取りをしたことが勝利に大きく影響したという面があったのも事実とは思います。ただ,時計の早い決着にも対応可能なことは過去の戦績から明らかになっていますので,短距離王者になり得る力を有した馬であることは間違いないと思われます。父はアドマイヤムーン。Fine Needleは細い針。
                                     
 騎乗した川田将雅騎手は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース15勝目。高松宮記念は初勝利。管理している高橋義忠調教師は開業から7年強で大レース初制覇。

 スピノザは『エチカ』で相反する感情について説明するとき,反対感情によってそれを説明します。しかし反対感情が必ずしも相反する感情になるとは限りませんし,相反する感情を構成するのが反対感情だけであるわけではありません。このために僕はふたつを概念notioとして使い分けるのです。
 希望spesと不安metusは明らかに反対感情です。ですが第三部定理五〇備考から分かるように,Xに対する希望とXに対する恐怖metusは,必ず同じ人間のうちで両立していなければなりません。ですからXに対する希望とXに対する不安は,反対感情ではありますが,相反する感情ではありません。不安と希望が表裏一体の感情であるというのは,それは反対感情ではあっても相反する感情ではあり得ないという意味なのです。
 一方,Xに対する愛amorとYに対する愛は,同じ愛ですから反対感情ではあり得ません。ですがそれは同じ人間のうちでは両立し得ないという場合があるのであって,この場合に限っては相反する感情であることになります。たとえば『白痴』のムイシュキン公爵のうちでは,アグラーヤに対する愛とナスターシャに対する愛は両立していたのであり,相反する感情ではありませんでした。ですがエヴゲーニイのムイシュキン観のうちにあった誤謬errorは,それはムイシュキンのうちで両立し得ない感情である,すなわち相反する感情でなければならないという認識cognitioのうちにあったといえます。端的にいえばエヴゲーニイにとって,ふたりの女に対する愛はひとりの男のうちでは相反する感情であったのです。同様に,僕たちはカレーも好きだしラーメンも好きということがあり得ます。これは通常は両立し得るのであり,相反する感情を構成しません。しかしもしある食事に,そのどちらかを食べなければならないとなった場合には,一方を選択し他方を捨てなければならないので,途端にカレーに対する愛とラーメンに対する愛は相反する感情になります。このように,反対感情ではあり得ないけれども,相反する感情ではあり得るという例は,いくらでも存在するのです。
 第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoと,第三部諸感情の定義二六の自己嫌悪humilitasは明らかに反対感情です。
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身体の統御&第三部定理一七

2018-03-24 19:00:06 | 哲学
 人間の能動と受動が,精神mensにあっても身体corpusにおいても一律であるということ,すなわち精神が能動的であるときには身体も能動的であり,逆に身体が能動的であるなら精神も能動的なのであり,精神が受動的であるときには身体も受動的で,身体が受動的であるときには精神も受動的であるということは,スピノザの哲学の大きな特徴のひとつと直結します。それは,人間の精神mens humanaは自分の身体を何らかの運動motusや静止quiesに決定することはできないし,人間の身体が自分の精神を何らかの思惟作用に決定することはできないということです。これは第三部定理二でいわれていることです。
                                
 これを知性の失敗と絡めて考える場合には,身体が精神を思惟作用に決定できないということはあまり考える必要はありません。理性と感情の関係についてみたように,知性が犯す失敗は,デカルトの哲学と関連付けられた,理性ratioによって感情affectusを統御することが可能であるとする見解opinioが誤りであるという点と関連するのですが,これは身体が精神を統御するという側面からいわれるのではなく,精神による身体の統御という面から語られる事柄であるからです。つまり端的にいうと,デカルトの哲学では精神が身体を統御することが可能であるということが前提としてあり,そのことが道徳律の基本となっているのですが,スピノザの哲学ではそもそもその前提が成立しないのですから,デカルトが示しているような道徳律は,人間に対して不可能なことを求めているということになるのです。ですからデカルトの道徳律を人間に対して要求する知性があるなら,この知性はすでに失敗を犯していることになります。
 精神が身体を統御することが可能であるなら,精神が能動的に身体に対して働きかけ,身体は精神に命ぜられるままに働きを受けるpatiのでなければなりません。すなわち精神が能動actio状態にあるときに身体は受動passio状態にあるのでなければなりません。ところが精神の能動actio Mentisは身体の能動でもあるのですから,これは不条理です。つまり精神は身体を統御することはできません。このことを前提とした別の道徳律が求められなければならないのです。

 また本題から逸れますが,この部分の考察は,なぜ僕が岩波文庫版の訳語に従わず,自己嫌悪humilitasという訳を与えているのかを説明する絶好の例になりますので,このことについて詳しい説明を付与します。
 まず,僕が反対感情相反する感情を厳密に使い分けているという点に注意してください。すなわち,僕は反対感情を概念notioの上で反対である感情affectusとみなします。第三部諸感情の定義二の喜びlaetitiaと第三部諸感情の定義三の悲しみtristitia,第三部諸感情の定義六の愛amorと第三部諸感情の定義七の憎しみodium,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaと第三部諸感情の定義二九の自卑abjectioなどは,各々の定義Definitioから明らかなように,僕がいう反対感情を構成します。
 これに対して僕が相反する感情という場合は,同一の人間のうちで両立することが不可能な感情を意味します。これは反対感情の場合にも成立します。たとえばAに対する愛とAに対する憎しみは同じ人間のうちでは両立し得ません。
 ただしこのことについては注意も必要です。第三部定理一七では次のようにいわれるからです。
 「我々を悲しみの感情に刺激するのを常とする物が,等しい大いさの喜びの感情に我々を刺激するのを常とする他の物と多少類似することを我々が表象する場合,我々はその物を憎みかつ同時に愛するであろう」。
 この定理Propositioによれば,XがAという人間に一定量の悲しみを与え,YがAにそれと同量の喜びを与えるとき,XとYに類似点があるとAが表象するimaginariなら,AはXを憎みかつ愛することになります。したがってこの限りにおいて,Aの中でXに対する愛とXに対する憎しみが両立しているということになるでしょう。しかし実際にはそれらは両立しているということはできません。この状態は心情の動揺animi fluctuatioといわれる状態であるからです。よって逆にいえば,Aのうちで心情の動揺を発生させるふたつの感情は,相反する感情であるといえます。ですからXに対する愛とXに対する憎しみは,すべての人間にとって相反する感情であることになります。
 しかし,相反する感情は,必ずしも反対感情の間でのみ生じるとは限りませんし,反対感情が必ず相反する感情であるわけでもありません。
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棋王戦&自己嫌悪の付随

2018-03-23 19:10:33 | 将棋
 20日に千代田区で指された第43期棋王戦五番勝負第四局。
 永瀬拓矢七段の先手で相掛かり。先手の早繰り銀に後手の渡辺明棋王が腰掛銀で対抗する戦型。先手の攻めに対して後手が素直に応じたため,後手は危うくサンドバック状態になりそうな将棋に。先手が決めに出たのはおそらくよかったと思うのですが,その後の後手の反撃に対応を誤ったために終盤は混戦になりました。ただ,はっきりと後手がよくなったというところまではいっていなかったようです。
                                     
 後手が☗4四角と攻められるのを防ぐために☖5四金と打ち,6四にいた龍が6二に入ったところ。6一に入る手もありそうですがここに入ったのが最善だったようです。
 後手の手番で☖1七龍と歩を取りました。角取りなので☗3八角。後手は☖7六歩とまた角取り。先手は☗5九角と逃げました。後手は3手連続で大駒に当てる手を放ち,先手はすべて逃げたのですが,この逃げた3枚のすべての大駒が効果的に働くという展開に進むことになります。駒の配置が先手にとって都合よくできていたという将棋だったとの印象を抱きました。
 後手は☖7七銀と詰めろを掛け先手は☗8八歩と受けました。そこから☖8六香☗同金☖5七龍と進んでいます。
 ☖5七龍のところでは☖8六銀成☗同角☖7七銀と進めるのもあり,しかしそれは詰めろではなく,後で角を取るのもあまり効果的ではないという判断だったそうです。ただ,香車を渡して龍が5七に回ったのは負けを早めることになったかもしれず,後手が勝つにはここで何か手があるのでなければならなかったことは確かです。
 先手は☗1五角と王手に飛び出し☖2四歩の受けに☗2二銀☖2三王として☗7四角ともう1枚の角を使いました。
                                     
 これが☗4一角成以下の詰めろで後手は窮しています。☖1四王と逃げましたが☗4八角が詰めろ龍取りとなり,先手が勝ちきっています。
 永瀬七段が勝って2勝2敗。第五局は30日です。

 自己満足acquiescentia in se ipsoが付随する喜びlaetitiaは,その喜びを感じる当人にとっては正当であると判断されます。もしもこの種の喜びが正当であると判断されないのであれば,人は自分の働く力agendi potentiaによって感じることができた喜びを正当であると判断しないということになりますから,正当と判断される喜びが存在しなくなってしまいます。自分の活動能力agendi potentiaによってなした喜びが不当で,外部の力を受けてなした喜びが正当であるというのは,それ自体で不条理であるからです。
 したがって,もしある人間が喜びを感じ,しかしそれを不当であると判断する場合があるとすれば,それはその喜びを自分の力で感じたわけではないと当人が認識している場合であるということになります。よって,それが自分の力のうちにあるか,それとも外部の力のうちにあるかということは,その喜びが正当であるか不当であるかを判断する際の材料になり得ます。あくまでもなり得るのであって,必ずそうなるというわけではありませんが,これが喜びが正当であるか不当であるかを認識する場合の比較の材料であり得るということは間違いありません。
 すると悲しみtristitiaの場合にもこれと逆のことが成立し得ることになるでしょう。喜びの場合と同じように,その他の条件が完全に等しいと仮定するなら,相手に好手を連発されて圧倒されて負ける方が,最後に自分のミスで負けてしまうより,より大きな悲しみとなるのです。なぜなら,後者の場合は最後を除けば自身の働く力を表象するimaginariことは可能ですから,自己満足という喜びが付随し得るのであり,その分だけ大なる完全性perfectioから小なる完全性への移行transitioの量が減じるからです。前者の場合は自己満足が付随する余地はありません。むしろ自分の無能力impotentiaだけが表象されることになるでしょう。
 後者の場合も,最後にミスをしたという仮定になっていますから,無能力は表象されます。しかしどちらがより強く自己の無能力を表象することになるかといえば,前者の場合であるということは明らかです。第三部定理五五は,その表象imaginatio自体が悲しみになるといっています。これは第三部諸感情の定義二六の自己嫌悪humilitasです。つまり自己嫌悪もより大きく付随するのです。
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ウィナーズカップ&自己満足の付随

2018-03-22 19:07:05 | 競輪
 松山競輪場で行なわれた昨日の第2回ウィナーズカップの決勝。並びは平原‐武田の関東,三谷‐村上の近畿,原田‐渡部‐香川‐橋本の四国で浅井は単騎。
 牽制はありましたが平原がスタートを取って前受け。3番手に原田,7番手に浅井,8番手に三谷の周回に。残り3周のバックの出口から三谷が上昇。浅井は村上の後ろにスイッチ。引いた原田がホームで発進。バックに入るところで三谷の前に出ましたが,三谷は引かず渡部の横でイン粘り。浅井も橋本のインに入って原田の後ろで3車が併走のまま打鐘で原田の抑え先行に。ホームに入って平原が発進。バックで原田を捲ると,やや離れてしまった武田も何とか原田の前には出て平原を追走。コーナーから直線に掛けて平原に追いついてきたスピードのまま直線で平原を差した武田が優勝。平原が4分の3車身差で2着に粘り関東のワンツー。バックからは武田を追う形になった原田が流れ込んで4分の3車輪差で3着。
                                     
 優勝した茨城の武田豊樹選手は一昨年9月の岐阜記念以来となる久々の優勝。ビッグは2015年の競輪祭以来の優勝で16勝目。ウィナーズカップは初優勝。松山では2009年9月にオールスター競輪の優勝があります。このレースは先行を得意とするタイプがいないので,4人での連携となった原田の先行が有力。三谷と平原では平原に位置取りでの分があるので,平原と武田に有利な競走になるのではないかと予想。その予想とは違った展開でしたが,三谷がインで粘ったことにより隊列は短くなり,捲りやすくなりました。武田が差すことができたのは,平原の発進が早い段階になったためでしょう。それでも平原を差したことは評価に値するのですが,一時的には離れているので,武田もまだ完調とみることはできないのではないかと思います。原田がもっと器用なタイプであれば優勝は原田だったかもしれません。

 僕がその他の条件の等しさをいうのは,このような事前の感情affectusの揺らぎを考慮の外に置きたいからです。棋士は人間であるので感情の揺れ動きは必然的にnecessario生じます。ですからこれは現実的には無意味な仮定であるといえるのですが,対局中の感情の振幅が一切ないと仮定するなら,棋士は自ら好手を連発して勝つ将棋の方が,最後に相手のミスに助けられて勝つ将棋より大きな喜びlaetitiaを得ることができるでしょう。
 なぜそれがより大きな喜びとなり得るのかということは,論理的に示すことができます。それを対局の勝利に対する喜びとみなすなら,その他の条件を同一とみなす限り,どちらも同じ大きさの喜びでなければなりません。この場合のその他の条件は,棋士の感情だけでなく外的な状況も意味します。つまり対戦相手がだれであるのかということや,それがどんな対局であるのかということなどです。一般に強いとみなされる相手に対する勝利はそうであると認識されていない相手に対する勝利よりも喜びとして大きくなるでしょうし,トーナメント戦の一回戦での勝利よりも決勝での勝利の方が勝利の喜びとして大きく感じられるであろうからです。こうした条件が一致しないと,これから僕が示そうとする喜びの大きさの比較は成立しないという点に注意してください。
 勝利の喜びが同一である,すなわち第三部諸感情の定義二でいわれている完全性の移行transitio perfectionisの量が同一であるとしても,好手を連発して勝つ将棋には,相手のミスに乗じて勝つ将棋には付随しない別種の喜びが発生します。そしてこの喜びの分だけ,前者の喜びは後者の喜びよりも大きくなり,強く意識されるのです。
 この喜びは,第三部定理五三で示されている喜びの一種です。自ら好手を連発して勝つ場合,そのような手を指すということはまさに自分自身の働く力agendi potentiaであると認識されます。よってこの種の喜びがこの場合は発生します。この喜びは第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoです。しかし相手のミスに助けられるのは自分自身の活動能力agendi potentiaではありません。よってこの自己満足は発生しないのです。なので自己満足が発生する分だけ,好手を指して勝つ方がより大きな喜びとなるのです。
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農林水産大臣賞典桜花賞&勝利の喜び

2018-03-21 18:57:34 | 地方競馬
 北海道から1頭が遠征してきた第64回桜花賞。シェーンリートが右肩を跛行したため競走除外で10頭。
 好枠を生かして1周目の正面に入るところでアンジュキッスが単独先頭。2番手はストロングハート,シングンレガシイ,エターナルモールの3頭。5番手にプロミストリープとグラヴィオーラ。ここまでが先団。後方集団の最前列にプリムラジュリアンとゴールドパテック。9番手がハタノサンドリヨンで最後尾にベニアカリという隊列で1コーナーへ。前半の800mは49秒2のハイペース。とはいえ不良馬場ですからこの程度は当然でしょう。
 3コーナーを回るとストロングハートが単独の2番手になり,この後ろは内からシングンレガシイ,グラヴィオーラ,エターナルモール,ゴールドパテックの4頭。これらの後ろにいたプロミストリープは直線に入ってから外へ。短い直線ながら瞠目の末脚を発揮し前をすべて捕えて抜け出し優勝。逃げたアンジュキッスと追ってきたグラヴィオーラの2着争いは接戦となり写真判定。アンジュキッスが1馬身半差で2着。グラヴィオーラはハナ差で3着。
 優勝したプロミストリープはJRAで2戦2勝。このレースを目標に南関東に転入。その初戦で見事に結果を残しました。浦和の1600mは内枠が断然有利ですが,1枠を生かしての勝利というわけではなく,おそらく外枠でも勝てていたのではないかと思います。もっと広いコースの方がたぶん力を発揮できると思うので,東京プリンセス賞なら断然の主役になりそう。羽田盃にチャレンジすることになっても無視することはできない存在になりそうです。母の父はフジキセキ。祖母の7つ上の半兄に1987年に函館3歳ステークスを勝ったディクターランド。Promised Leapは約束された飛躍。
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は船橋記念以来の南関東重賞制覇で南関東重賞27勝目。桜花賞は初勝利。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞8勝目。桜花賞は初勝利。

 Aに対して何の感情affectusも抱いていなかったのが喜びlaetitiaを感じるようになる場合と,Aに対して悲しみtristitiaを感じていたのに喜びを感じるようになる場合を比較すれば,後者の場合が喜びが大きくなるということであれば,例として掲げた将棋の場合では,次のようなことが生じ得ることになります。それは,もしある棋士が対局の勝敗に関して楽観していて実際に勝利を得て喜びを感じる場合より,勝敗に関して悲観していたのに結果として勝利を得て喜びを感じる方が,より大きな喜びであるということです。こうしたことはこの例に限らず,僕たちは経験によって知っていると思います。当然そうなるであろうと確信めいたものを持っていたことが喜びとして実現するより,半ば諦めかけていた喜びが実現する方が,喜びとして大きく感じられるであろうからです。こうしたことは悲しみの場合にも逆の仕方で成立します。きっとそうなってしまうであろうと思っていた悲しみが訪れるより,生じることを予期していなかった悲しみが訪れる方が,悲しみとして大きく感じられるでしょう。
 このために,好手を連発して勝つより,最後の最後で相手のミスに助けられて勝つ方が,大きな喜びとして感じられるということがあり得ます。逆に,相手に好手を連発されて圧倒されて負けるよりも,途中はずっと優位に進めた末に最後のミスで負けてしまう方が大きな悲しみとして感じられる場合もあるのです。というより,後者の悲しみの場合についていえば,むしろそちらの方が自然であるとさえ思われるかもしれません。なので別の例を示せば,たとえば馬券を買って,それが外れるということで悲しみを感じるとき,買った馬がまったく勝負にならずに負けてしまうより,大接戦の末に小差で負けてしまったという場合の方が,悲しみとして強く感じられるということが僕にはあります。しかし馬券が的中するのを正解とみなすなら,小差で負けてしまう方が勝負にならずに負けてしまうよりも正解に近いところに辿り着いているのですから,本来は後者の悲しみが小さくてしかるべきです。同様に,ずっと優勢に進めて逆転される場合の悲しみは,本来的には小さくてしかるべきなのです。
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農林水産大臣賞典黒船賞&第三部定理四四

2018-03-20 19:04:42 | 地方競馬
 第20回黒船賞
 コパノマイケルが逃げる構えをみせましたが外からグレイスフルリープが強引に先手を奪いました。コパノマイケルが1コーナーで外に膨れたこともあり,リードは5馬身から6馬身ほどに。3番手はエイシンヴァラーと,発走後にコパノマイケルとグレイスフルリープに挟まれる不利があったエイシンスパルタン。5番手にラインシュナイダー,6番手にブルドッグボス,7番手にキングズガードで2番手からここまではさほど差がなく追走。大きく離れてヴィンテージイヤー。また大きく離れてサトノキングリーとワイルドコットン。また大きく離れてディアマルコが最後尾。ハイペースでした。
 3コーナー手前で2番手のコパノマイケルは苦しくなり,その内からエイシンヴァラー,さらに内からブルドッグボスの2頭がグレイスフルリープを追撃。グレイスフルリープも4コーナーでは一杯。最内を回ってやや外に出てきたブルドッグボスが一旦は先頭。これに外からエイシンヴァラー,内からキングズガードが追ってきて,3頭の競り合いに。フィニッシュ直前で外のエイシンヴァラーが前に出て優勝。内のキングズガードがクビ差で2着。真中のブルドッグボスはアタマ差の3着。
 優勝したエイシンヴァラーは重賞初勝利。昨年の4月までJRAで走りオープンを含めて6勝。浦和に転入して南関東重賞を2戦したものの着外。兵庫に移籍しての初戦は6馬身差の圧勝でしたがその後は3戦して2着,5着,6着。戦績からはここで勝つというところまでは予想できませんでした。前走がマイナス13キロで今日もマイナス12キロだったのですが,これはJRAで1600万を勝ったときと同じくらいの馬体重。絞れて上昇があったとみるべきなのかもしれません。2着馬と3着馬はここでは実力上位と目された2頭ですので,それらと伍して走れるだけの力があるとみておいた方がよいでしょう。父はサウスヴィグラス。母の父はシンボリクリスエス。祖母は1999年にチューリップ賞,2001年に中山牝馬ステークスを勝ったエイシンルーデンス。Valorは勇気。
 騎乗した兵庫の下原理騎手は2008年の佐賀記念以来となる重賞2勝目。管理している兵庫の新子雅司調教師は2014年のかきつばた記念以来の重賞2勝目。

 僕がここでその他の条件が等しいというのは,外的条件に比重を置いているのではありません。むしろ内的条件,とくに身体corpusの刺激状態とその観念ideaとしての身体の変状affectiones corporis,そしてその意識としての身体の変状の観念ideae affectionum corporis,あるいは感情affectusのありようを考慮に置いています。この条件が等しいと仮定しないと,以下の事情が生じてしまうからです。
                                
 スピノザは第三部定理四四で次のようにいっています。
 「愛にまったく征服された憎しみは愛に変ずる。そしてこの場合,愛は,憎しみが先立たなかった場合よりも大である」。
 この直前の第三部定理四三は,AのBに対する憎しみodiumは,BのAに対する憎しみによって増幅され,BのAに対する愛amorによって除去されることを示しています。これは単純に,憎しみは新たな憎しみを産出し,愛は新たな愛を産出するという意味にここでは解しておきましょう。そこで,AがBを愛する場合,もしAがフラットな状態すなわちBに対して何の感情も抱いていない場合にBを愛する場合と,AはBを憎んでいたけれど,BのAに対する愛によって征服されることによってBを愛する場合を比較すれば,後者の方がAのBに対する愛は大であるといっているのがこの定理Propositioであるといえます。
 この定理は愛と憎しみだけを比較していますが,実際には喜びlaetitiaと悲しみtristitiaとの比較でもこれは成立します。すなわちAがXに対して何の感情も抱いていないあるいはすでに何らかの喜びを感じていて,後にまたXについて喜ぶ場合と,Xについて悲しみを抱いていた後にXに対して喜びを抱くようになる場合では,後者の方がより大きな喜びとなるのです。スピノザがこのことも視野に入れていることは,この定理の後に付されている備考Scholiumから明らかと僕は考えます。
 僕たちはXに対して希望spesを感じているとき,不安と希望は表裏一体の感情なので,Xに対して恐怖metusも感じていることになります。このとき,希望の方が大きかったXが実現するより,不安metusの方が大きかったXが実現する場合の方が,喜びとして大きく感じられるのではないでしょうか。前者は単に希望の実現ですが,後者は希望の実現であるとともに恐怖からの解放でもあるからです。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&移行の量

2018-03-19 19:33:39 | 将棋
 第67回NHK杯の決勝は昨日の放映でした。対戦成績は山崎隆之八段が2勝,稲葉陽八段が2勝。
 振駒は歩が3枚で山崎八段の先手。稲葉八段が横歩取りに誘導しましたが先手は横歩を取らずの引き飛車。後手が横歩を取る将棋に。この将棋は中盤のねじり合いで差がついたものと思われます。
                                     
 後手が5五の角で歩を取った局面。ここから☗9五歩☖同金☗8七飛☖3三桂と進みました。
 自ら歩を突いておいて☗同香と取れずに飛車を逃げるのは変で,後手が桂馬を跳ねた手は大きそうなので,この交換は後手の方が得だったように見えます。しかし先手の狙いは金香交換の駒得を果たすことにあったのではなく,☗9二歩で香得を目指すことにあったようです。
 ここで☖9六金と出ましたが,これは失着だったかもしれません。せっかく桂馬を跳ねたのですから☖4五桂と連続で跳ねてしまうのがよかったのではないでしょうか。ここでも先手は金を取らずに☗8五飛と逃げたので,桂馬は跳ねられなくなりました。
 後手は方針を転換して飛車を攻めることに。まず☖5四飛と王手で回って☗6九王に☖8四銀と出ました。先手は☗6五飛。
 飛車がどいたので☖8六金と逃げるのは自然ですが,一手の価値としてはあまり高くなかったかもしれません。先手は取れる香車は取らずに☗3六角と飛車取りを掛けました。
 ここから☖7三桂☗6六飛☖5五角☗5四角☖6六角☗同歩☖5四歩の大捌きに進展しましたが,この手順は後手としては暴発だったかもしれません。手番の先手が☗8一飛と先着。
                                     
 これが☗4一角の王手金取りと☗8二飛成の王手銀取りの両睨みになっていて,後手としては収拾がつかない局面になっていたようです。攻め合いに転じましたが駒が足りず,先手の勝ちになっています。
 山崎八段が優勝。第54回以来13年ぶり2度目のNHK杯優勝。棋戦優勝は今年度の日本シリーズに続き8度目です。

 悲しみtristitiaは必ずしも喜びlaetitiaと比較されることによって,正当とか不当と認識されているわけではありません。これは僕たちが自分の悲しみを認識する場合にも妥当しますし,他人の悲しみを認識する場合にも妥当するのですが,ここでは主体が悲しみを感じている当人の場合についての考察を進めていきます。
 一口に悲しみといっても,大きな悲しみもあれば小さな悲しみもあります。他面からいえば強く意識される悲しみもあればさほど強くは意識されない悲しみもあります。これは悲しみの定義Definitioである第三部諸感情の定義三から明白です。なぜなら,そこでは悲しみは大なる完全性perfectioから小なる完全性への移行transitioであるとされていますが,完全性の移行transitio perfectionisというのは常に一定して生じるわけではないからです。つまり,大なる完全性から小なる完全性へ移行するといわれるとき,この移行を量的に把握するなら,大量に移行する場合もあれば少量しか移行しない場合もあるからです。どちらも移行しているのですから悲しみに違いありませんが,大量に移行すればするほどそれは大きな悲しみでありまた悲しみとして強く意識されるでしょうし,より少量にしか移行しなければしないほど,それは小さな悲しみでありまた悲しみとして強くは意識されないということになるでしょう。
 第三部諸感情の定義二は,小なる完全性から大なる完全性への移行であるといっていますから,同じことは喜びの場合も妥当します。すなわちより大量の移行が発生していればいるほどそれは大きな喜びであり,喜びとして強く意識されることになるでしょう。逆に少量にしか移行していなければいないほど,それは小さな喜びであり,喜びとして強くは意識されないことになるでしょう。
 一例として,棋士が将棋を指して勝ったときの喜びについて考えます。もしその将棋で好手を連発して快勝したという場合と,途中で悪手を指してしまいずっと苦しかったけれど,最後の最後に相手がミスをしてくれたために何とか勝つことができたという場合を比較すれば,その他の条件が等しいのであれば,おそらく前者の方が大きな喜びであり,喜びとして強く意識されることになるだろうと思われます。
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勤勉家&正当化

2018-03-18 18:55:52 | 歌・小説
 十川信介の『夏目漱石』から,十川が作品の批評をしているのではない部分に,どのような形で十川の評価が紛れ込んでいるのかということを,一例だけ示しておきましょう。
                                     
 第一章の第三節では,漱石の小学生時代の記述があります。それによれば漱石は1874年の暮れから1876年の5月までに下等小学第四級を終了。実家に引き取られた関係から市谷学校の第三級に転校し,1877年12月には下等小学第一級を卒業。1878年の4月には市谷上級小学校の第八級も卒業し,10月には錦華学校小学尋常科第二級後期も卒業しています。当時の小学校には飛び級制度があったので,これほど早いスピードで漱石は次々と卒業していくことができたのでした。これについて十川は,漱石がいかに勉強に打ち込んだかの証明であって,家庭的な愛情を受けることがなかった漱石は,その「牢獄」から脱出するために勉学をせざるを得ない気持ちに追い立てられていたのだろうと書いています。
 このうち,最後の部分が十川の評価であることはテクストから明白です。漱石が家庭的な愛情を受けられなかったということは多分に事実と受け止めていいでしょうが,そのために勉学に打ち込む気持ちになったということは,明らかに十川の推測であるということが文章それ自体から明らかだからです。なのでこういうテクストは問題ありません。
 ではそれ以外がすべて事実かというと,僕はそうは読解しないのです。漱石が異例のスピードで次々と小学校の級を卒業したというのは事実です。だからといって漱石が勉強に打ち込んでいたということが事実だとは僕は解しません。それは事実ではなかったとはいいませんが,事実であったともいいきれないと読解するのです。なので勉強に打ち込んでいたということも,事実であるというより十川の評価であると僕は解します。漱石ほどの才能があれば,大した努力などしなくても,このスピードで卒業を重ねていくことが不可能ではないと僕には思われるからです。
 このように,著者の評価を対象の事実と勘違いしてしまいそうな部分が伝記には往々にして含まれます。これは伝記を読むときには常に注意しておかなければならないでしょう。

 第三部定理九備考では,僕たちはそれが善bonumであるがゆえにそのものを欲望するのではなくて,現実的に欲望しているものを善とみなすということがいわれています。この欲望cupiditasは希求するという意味であり,もし忌避することを欲望であるとみなすなら,それはそれを忌避することが善であるという意味になりますから,忌避しているものは悪malumです。ですから善と同じように,僕たちはそれが悪であるがゆえにそのものを忌避するのではなく,現実的に忌避しているものを悪とみなすということができるでしょう。
 正当と不当の場合にはこれをそっくりそのまま当て嵌めることはできません。ただ,一般的には正当であるとみなされる事柄は善であり,不当であるとみなされるような事柄は悪であると認識されるでしょうから,僕たちは僕たち自身の欲望については,可能な限りでそれを正当化しようとするという現実的本性actualis essentiaを有しているということは否定できないと思います。これは欲望している事柄を何らかの意味で実行しようとする前の段階,あるいは現に実行している段階,または実行してしまった事後の段階においても同様であるといえます。「ノスタルジア」では「人は誰も過ぎた日々に弁護士をつけたがる」と歌われていますが,これは事後の段階において人間は自己のことを正当化しようとするという意味のことをいっていると解せます。
 そのまま該当させられないのは,それでも例外というもの,いい換えればどんなに正当化しようとも正当化できないような事柄は現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに生じるからです。後悔とか反省といった語が意味をなすのは,このような例外が現に存在するからであるといえるでしょう。逆にいうならこうした語が現に意味を有しているということが,僕たちは自分自身の喜びlaetitiaについてそれを不当であると解する場合があるということを示しています。それはつまり,僕たちが自分の喜びを正当であるとか不当であると認識する場合に,一般的な真理veritasとしてそれが必然的にnecessario正当であるとみなせるように,悲しみtristitiaと比較してはいないということです。
 喜びが悲しみと比較されないなら,悲しみも喜びとは比較されません。
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第一部定理二証明&喜びの場合

2018-03-17 19:04:37 | 哲学
 第一部定理二については考察の中で援用するためだけに用い,証明Demonstratioはしていませんので,どのように証明されるのかを別個に示しておきます。
                                
 まず最初に注意しておかなければならないのは,この定理Propositioはあくまでも形而上学的にいわれているのであり,実在的な意味を有しているのではないということです。第一部定理一四が後に示すように,自然のうちに実在する実体substantiaは神Deusが唯一ですから,異なった属性attributumを有する複数の実体が存在するということはありません。つまりこの定理が『エチカ』の全体の中で意味するのは,仮に異なった属性を有する複数の実体があったなら,それらの実体の間には共通点はないということです。
 これを踏まえた上で,ここではXという属性を有する実体Aと,Yという属性を有する実体Bが存在すると仮定してみましょう。定理がいっているのは,AとBの間には共通点がないということです。
 第一部定義三により,実体はそれ自身によって考えられなければなりません。したがってAを十全に認識するのに必要なのはAの観念ideaだけであり,Bを十全に認識するのに必要なのはBの観念だけです。いい換えればAによってBが認識される,つまりBの認識cognitioがAの認識に依存することはありませんし,逆にBによってAが認識されるすなわちAの認識がBの認識に依存することもありません。要するにAの概念はBの概念を含んでいませんし,Bの概念がAの概念を含んでいるということももないのです。
 第一部公理五は,このような関係があるならAとBには共通点は存在しないということを示しています。よってAとBには共通点は存在しません。そしてここでAとかBといわれているのは任意であり,すべての実体についてこのことを適用することが可能です。したがって異なった属性を有する実体には共通点がありません。なお,この定理は実体の定義Definitioに訴求して証明されていますから,その実体がどんな属性を有しているかは無関係に,単に複数の実体の間には共通点がないということも合わせて証明されているといえます。

 たとえば僕たちは,ある人間が不法なあるいは不法とはいわずとも反道徳的な方法によって利益を上げたのを表象するimaginariなら,その人間を非難するのが一般的ではないかと思います。このとき,その利益を上げた人間が喜んでいると仮定するなら,その人間の喜びlaetitiaを不当なものと解しているということです。すべての喜びが正当であり,すべての悲しみtristitiaは不当であるということは,一般的な真理veritasであるのですから,このことは現実的に存在するすべての人間に妥当しなければなりません。ところが僕たちが必ずしも他人の喜びのすべてを正当であるとは認識しないということはこの例から明らかでしょう。そしてこの一般的真理は,喜びと悲しみを比較することによって生じるのですから,少なくとも僕たちは,他人の喜びについては,必ずしもそれをその人の悲しみとは比較していないということは明白です。
 一方で,この例において利益を上げることによって喜んだと仮定されている人間が,しかしその喜びの原因は不法なあるいは反道徳的な行為によるものであるということを同時に認識するということはあり得ます。この場合にはそれを表象した別の人が認識しているのと同じように,その人間もまたその喜びが不当なものであるということを同時に認識しているということになるでしょう。つまりこの場合にはその人間は,不法であるか合法であるか,あるいは反道徳的であるか道徳的であるかという比較によって自身の喜びを判断しているのであり,その喜びを悲しみと比較しているのではないことになります。つまり現実的に存在する人間は,自分の喜びについても,他人の喜びについてと同様に,それを必ずしも悲しみと比較することによって正当であると判断するのではなくて,ほかの比較によって不当であると判断していることになります。
 ただし,次のことはいっておきましょう。喜びを希求し悲しみを忌避するということは,人間の現実的本性actualis essentiaの一部です。つまりたとえ不当であっても人間は喜びを希求しますし,正当であっても悲しみは忌避しようとします。このために,現実的本性によって,正当と不当を判断してしまう場合が人間には生じ得るのです。
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