スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ALSOK杯王将戦&神による認識

2023-01-31 19:09:06 | 将棋
 28日と29日に金沢市で指された第72期王将戦七番勝負第三局。
 藤井聡太王将の先手。後手の羽生善治九段は4手目に角道を止めました。居飛車も振飛車も作戦のうちに入っていたと思われますが,おそらく9筋を突き合ったことが理由で居飛車を選択。雁木になりました。先手は早繰り銀で対抗。早い段階で角と銀が交換になり,後手は交換した銀を打って上部を手厚くし,先手の飛車を押さえ込みにいく作戦を選択。後手がその網を食い破れるのかが焦点に。
 2日目の午前中に先手は後手陣に角を打ち込んで馬を作りました。これ自体はすぐに後手玉を寄せるのに役立つというわけではなかったのですが,後手が先手玉を攻めていく手段に乏しかったため,局面をリードするという観点からはかなり有効でした。結局そのまま先手がリードを広げていって快勝という内容でした。
 後手の雁木に対して先手が早繰り銀からこの将棋のような形で玉を構えると,後手は対応が難しいのかもしれません。そうであれば,その形に対する対応策そのものが後手には必要だという結論になりそうです。
                                        
 藤井王将が勝って2勝1敗。第四局は来月9日と10日に指される予定です。

 現実的に存在する個物res singularisの観念ideaそのものを神Deusが認識するcognoscere様式は,アポステリオリな仕方ですが,第二部定理九で示されています。この定理Propositioは,現実的に存在する個物の観念の原因causaが何かを示しているものですが,第一部公理四により,結果effectusの認識cognitioは原因の認識に依存するので,何らかの知性intellectusがある個物の原因を認識しているなら,その結果である個物を認識することになります。第二部定理七系により,そうした原因の十全な観念idea adaequataは神の中にあるといわなければなりませんから,結果である個物の十全な観念も神の中にあることになります。ある知性のうちに何らかの観念があるということは,その知性がそれを認識するということと同じ意味なので,神はその個物の観念を十全に認識します。要するに,個物Aの観念が原因となって個物Xの観念が生じるなら,神はAの観念を有する限りで,第二部定理九のいい方に倣えば,神はAの観念に変状したとみられる限りで,神のうちにXの十全な観念があることになります。
 次に,Xの中に何事かが生じる場合,僕の見解opinioでいえば,Xの本性essentiaならびに形相formaに変化を齎すことが生じる場合は,その中に起こることの観念は,第二部定理九系により,Xの観念を有する限りで神のうちにあるということになります。このとき,もしXの中に起こることに対して,Xが十全な原因causa adaequataである場合は,Xの観念を有する限りでXの中に起こることの十全な観念が神のうちにあることになります。しかしもしXが部分的原因causa partialisとなってXの中に何事かが起こるという場合には,Xの観念と共にほかのものの観念を有する限りにおいて,Xの中に起こることの観念は神のうちで十全であるということになります。
 このようにして,個物であるXの観念そのものについても,またXの中に起こることについても,神のうちにはその認識,十全な認識というのはあるのです。ただそれは上述のような様式で神の中にあるといわれるのであって,無限知性intellectus infinitusがそれらを認識するというわけではありません。いい換えれば神が無限知性に変状した限りで,あるいは同じことですが,無限知性という様態的変状modificatioに様態化した神のうちにそれらの観念があるのではないのです。
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表彰選手&無限知性による認識

2023-01-30 19:44:17 | 競輪
 昨年の競輪の表彰選手は23日に発表されました。
                                        
 MVPは福井の脇本雄太選手。KEIRINグランプリ,日本選手権競輪,オールスター競輪,玉野記念,燦燦ムーンナイトカップ,向日町記念に優勝。GⅠを2勝してグランプリも優勝したのですから当然の選出でしょう。2020年以来となる2年ぶり2度目の最優秀選手賞。
 優秀選手賞は3人。まず大阪の古性優作選手。全日本選抜競輪,高松宮記念杯に優勝。記念競輪は勝てませんでしたが,GⅠ2勝ですからこれも当然の受賞。昨年の最優秀選手賞で優秀選手賞は初受賞。
 ふたり目は広島の松浦悠士選手。サマーナイトフェスティバル,奈良記念,川崎記念,富山記念,岐阜記念,広島記念に優勝。GⅠは勝てなかったのですが,年間を通しての活躍から考えればこれも当然の受賞だと思います。2019年,2020年,2021年に続き4年連続4度目の優秀選手賞。
 3人目は福島の新田祐大選手寛仁親王牌に優勝。グレードレースの優勝がこれだけだったので,3人目は共同通信社杯を勝って記念競輪を3勝した郡司浩平選手との争い。GⅠを勝ったということが選出の決め手となったようです。2015年,2017年の最優秀選手賞で,優秀選手賞は初受賞。
 優秀新人選手賞は岩手の中野慎詞選手。デビューが一昨年の12月。9連勝で昨年の3月にA級に昇級。さらに9連勝で4月にはS級に。S級初出走となったのが6月で9連勝でFⅠを3連続優勝。青森記念を予選から3連勝して決勝で初黒星を喫しました。その後もFⅠでは2回の優勝を飾っていますので,グレードレースの優勝こそないとはいえ格別の成績。当然ながら記念競輪制覇が今年の目標になるでしょう。
 特別敢闘選手賞に北海道の新山響平選手。競輪祭に優勝。これはGⅠ1勝で優秀選手賞を受賞した新田選手との兼ね合いでしょう。2016年に優秀新人選手賞に選出されて以来の表彰です。
 ガールズ競輪と自転車競技はこのブログでは扱っていませんので,これ以外の受賞者については割愛します。

 無限知性intellectus infinitusの本性essentiaならびに形相formaに変化が齎されることがないのであれば,第二部定理九系および第二部定理一二でいわれている,中に起こること,というのを僕のように解釈する限り,無限知性の中には何も起こらないということが帰結します。したがって,たとえば僕たちが僕たち自身の身体corpusの中に起こることを認識するcognoscereようには,無限知性は無限知性の中に起こることというのを認識しないということになるのです。別のいい方をすれば,僕たちの身体の中には,僕たちの身体ならびに精神mensの本性と形相に変化が齎されるような事象が生じるので,僕たちはそのことを認識するのですが,無限知性の中には無限知性の本性と形相に変化を齎すようなことは何も起こらないので,無限知性はそのことについては何も認識することはないのです。
 第二部定理一一系は,人間の精神Mentem humanamが無限知性の一部partem esse infiniti intellectusであるといっています。この人間の精神とかあの人間の精神といわれるような人間の精神,つまり現実的に存在する各々の人間の精神というのは,生成もすれば消滅もします。たとえばXという人間が現実的に存在するようになる,つまり誕生すればXの精神というのは生成します。またそのXという人間が現実的に存在することをやめる,つまりXが死亡すればXの精神は消滅します。このようにして,無数の人間の精神,無限知性の一部としての人間の精神ならびに身体は生成しまた消滅するのですが,それは無限知性の本性や形相に変化を齎すような消滅であったり生成であったりするわけではありません。そして生成と消滅に関してさえそうなのですから,現実的に存在する人間の精神が何事かを認識するというような個々の思惟作用や,現実的に存在する人間の身体が何らかの運動motusをなすといった個々の延長作用の観念は,なおのこと無限知性の本性や形相に変化を齎す影響を与え得るような事象ではありません。したがってこれらのことのすべてを,無限知性が認識することはないのです。
 ただしここで注意しておいてほしいのは,無限知性があることを認識するとかしないということと,神がある事柄を認識するとかしないとかいうこととは,別のことであるということです。
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ちぎり賞争奪戦&必要なこと

2023-01-29 19:06:08 | 競輪
 豊橋記念の決勝。並びは坂井‐久木原の関東,山口‐小堺の中部,脇本‐古性の近畿,片岡‐岩津‐池田の中四国。
 かなりの牽制になった後,古性が誘導を追って脇本の前受け。3番手に坂井,5番手に片岡,8番手に山口で周回。この隊列のままだれも動かずに残り2周のホームを通過。山口が内を上がって片岡の位置を取りにいこうとし,これは取れなかったのですが池田が連結を外したので,6番手以降は山口‐小堺‐池田の順に変化。打鐘を迎えてもまだスローペースで,脇本の成り行き先行のようなレースになりました。古性が少しだけ車間を開けて待ち構えましたが,捲ってくる選手はなし。直線から踏み込んだ古性が脇本の横まではいきましたが差すには至らず。逃げ切った脇本が優勝。マークの古性が8分の1車輪差の2着で近畿のワンツー。先に踏んだ坂井が古性の外から1車輪差の3着まで迫りました。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は前回出走の和歌山記念から連続の完全優勝。連勝を11として記念競輪12勝目。GⅢは13勝目。豊橋記念は2010年以来となる12年ぶりの2勝目。このレースは脇本の脚力が上位なので,これほど楽な先行になってしまえば後ろの自力タイプは手も足も出なくなるのが必然で,古性との直線勝負です。古性も牽制の意味もあったでしょうが,自分が踏み出しやすいくらいの車間を開けていましたので,その差し脚を封じた脇本が強かったといえるでしょう。牽制の末に脇本に前を取らせたほかの選手たちには何か意図があったと思うのですが,このような単調なレース人ってしまうとそれが何であったのかも分かりにくいです。脇本にとっても古性にとっても拍子抜けのようなレースだったのではないでしょうか。

 第二部定理八系でいわれているDeusの無限な観念ideaを,無限知性intellectus infinitusと同一視することができるというのであれば,なぜそれらを同一視することができるのかということの根拠を明確に説明することができるのでなければなりません。一方,それらが同一視することができないという場合には,同一視することができないことの根拠を示すと同時に,ここでいわれている神の無限な観念が何を意味するのかも説明することができるのでなければいけません。
 僕自身は,かつてはこの神の無限な観念を,無限知性と同一視してよいと判断していました。しかし現在は,同一視することができないのではないかという見解opinioに傾いています。傾いているというのは,断定することができるというほどではない,いい換えればそう断定できるほどの根拠を持ち合わせているわけではないという意味であり,同時にしかしそれは同一視することができないという可能性がきわめて高いだろうとみているという意味でもあります。この点に関して詳しい論考を行っているものとしては,『スピノザーナ10号』に収録されている,柏葉武秀の「存在しないものの存在論」があります。この論考は無限知性と神の無限な観念は同一視することができないという立場からのものですが,このことを考える上では間違いなく参考になります。
 もうひとつはっきりとさせておかなければならない点は,第二部定理九系および第二部定理一二で,対象ideatumの中に起こるすべてのこと,といわれているとき,中に起こること,とは何であるのかということについて,はっきりとした見解を示すことです。僕にとってこの点のヒントとなったのは『堕天使の倫理』で,僕はそこで佐藤拓司がいっているように,Xの中に起こることというのは,Xの本性essentiaならびに形相formaに何らかの変化を齎すことというように解しています。そしてこの僕の解釈からは次のことが帰結します。
 無限知性は書簡六十四で明確にされているように,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態です。よってそれは第一部定理二一により永遠aeterunusです。つまり無限知性の本性ならびに形相は,永遠から永遠にわたって存在するのであって,変化が齎されることはありません。
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入ることと出ること&無限知性による説明

2023-01-28 19:03:53 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』の中の,ポドロガが論考している中立的な外界について,ポドロガの論考事態とは別に,僕が考えていることをいくつか述べていきます。
                                        
 ここでポドロガは,小説の世界あるいは物語の世界について,その中に入ることとその外へ出ていくことというのをひとつの論点としています。この論点はポドロガにとってはそれほど大きなものではないのですが,僕はこの部分をもっと広がりをもった形で探求したいのです。というのは,物語の中に入るとか物語の外に出るというのは,一元的な意味をもつ事柄ではなく,多元的な意味をもつものであって,その多元的なものをそれぞれ探求していくことに意味があると思えるからです。
 まず端的にいって,物語の中に入るあるいはそこから出るということは,物語の作者にとってそのようにいわれるのか,それとも物語の読者についてそのようにいわれるのかということで,意味合いは異なってきます。作者は構成を練って小説を書くのが普通であり,その限りにおいて作者は物語の外から物語を綴っているということになるでしょう。しかし実際に小説を書き始めると,小説内の人物たちが,元来の構成とは異なった,あるいはそれを超越した行動をとるということはあり得ることであり,このとき作者は物語の中に入っている,あるいは物語内の世界に取り込まれているといえると僕は考えます。ドストエフスキーのように,登場人物が多岐にわたる長編小説を書く場合には,このようなことがとくに生じやすいといえるかもしれません。実際にドストエフスキーは小説の構想をほとんど一から練り直すということがあったようで,それは構想の段階ですでにドストエフスキーがその小説の世界の中に入っていたからだと僕は思います。
 読者にとって物語の中に入るとは,このようなことを意味することはできません。それは自分で練り上げた世界ではなく,他者が創作した世界の中に入ることを意味するからです。ただ,登場人物のだれかに感情移入しながら物語を読むとき,その読者は小説の世界を出てそれを読んでいるのではなく,小説の世界の中に入って読んでいるということになるでしょう。

 全体が存在することをやめないのであれば,その全体の一部を構成する一部も存在することをやめないというのは,一般論としては当然のことであるように思えます。そして第二部定理一一系にあるように,人間の精神Mentem humanamは,神の無限知性の一部partem esse infiniti intellectus Deiです。そして無限知性は思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態であるのですから,永遠aeterunusから永遠にわたって存在します。つまりその存在existentiaには開始も終焉もないのであって,存在することをやめるということはありません。それでも僕は,この観点から人間の精神も永遠から永遠にわたって存在するということを結論することには懐疑的です。懐疑的であるというのは,そのように結論することはできないと断定しているわけではなく,断定することができるかどうかが分からないという意味ではありますが,おそらくそのようには結論することはできないだろうと思っているという意味でもあります。
 僕がなぜこのことについて懐疑的であるのかということを説明するとあまりに時間が掛かってしまうので,ここではそれについて深く考察はしません。ただここでは,このことが結論できるにしろできないにしろ,断定的な判断を下すためにはふたつの事柄を先に考えておかなければならず,考えておかなければならないというのはそのことについて何らかの結論を下さなければならないという意味ですので,そのふたつの事柄が何であるのかということと,僕自身がその二点に関して現時点でどのような判断を有しているのかということだけいっておきます。こうしたことは断片的にではあっても過去に考察はしてありますので,なぜこれらの二点が結論と関係してくるのかということや,その二点について僕がどうしてそのような判断を下しているのかということについて,詳しく知りたいという場合には,関係する過去の考察を読んで下さい。
 二点のうちひとつめは,第二部定理八系で神の無限な観念ideaといわれるとき,それを無限知性と同一視していいのかどうかという点です。当然ながらこれは,単に同一視することができるのかどうかということについて判断すればよいというものではなく,できるのであれできないのであれ,理由も必要です。
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確知と確実性&欲望の喚起

2023-01-27 19:18:28 | 哲学
 僕がこのブログで確知するcerto scimusというとき,最も気を付けておいてほしいのは,確知するということと確実であるということは,同じ意味ではないということです。いい換えれば現実的に存在するある人間が,Xを確知するということと,Xについて確実であるということとの間には差異があります。
                                   
 Xを確知するということがどのような意味であるのかは説明しましたので,Xについて確実であるということがどういう意味であるのかを説明しておきます。これは,ある人間の知性intellectusのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるということだけを意味します。よってこの人間は第二部定理四三によって,その観念が十全な観念であるということを疑い得ません。このときその人間はXについて確実であると僕はいい,その人間はXについての確実性certitudoを有しているといいます。
 確実とか確実性というのをこのような意味で用いるのは,スピノザの考え方に従っています。第二部定理四九備考でスピノザがいっているのはそういうことであって,ある事柄についてそれを疑わないということと,その事柄について確実であるということとは異なるのです。ある人間がXを確知するというときは,その人間がXについて疑わないということを含むので,確知するということと確実性とは,その分だけ異なることになります。
 確知するということについては,たぶん僕はスピノザに従っているわけではないと思います。僕は確知するということと疑わないということをほぼ同じ意味に解していますが,スピノザはそこに差異を設けているように感じられます。ただ,そこにどのような規準を設定するのが適切なのかが僕には分かりません。疑わないということと疑い得ないということの間には明確に差があることが僕には分かるので,疑わないということが確実性なのではなく,疑い得ないということだけが確実性であると規定できます。しかし,疑わないという場合に,疑い得ないから疑わないのか,疑い得ないわけではないけれども疑わないのかということの差を設けることができるのかは僕には不明です。なので僕は,疑わないということと確知するということをほぼ同じ意味に解します。これはこのブログでの決まりというように理解してください。

 第五部定理二三で,現実的に存在する人間の精神mens humanaの中の永遠なるaeternusあるものaliquidが残存するとスピノザがいうとき,スピノザは人間が共通概念notiones communesに基づいて理性ratioによって何かを認識するcognoscere限りで永遠なるあるものが残存することを想定しているわけではなく,第三種の認識cognitio tertii generisで個物res singularisをあるいは個物の現実的本性actualis essentiaを認識する限りで永遠なあるものが残存するといいたいと推測されます。ただ,だから第二種の認識cognitio secundi generisで事物を認識することが,精神の中のあるものが残存するためにまったく有益ではないかといえば,そういうわけではありません。第五部定理二八にある通り,第二種の認識で事物を認識することは,その精神が第三種の認識で個物を認識する欲望cupiditasを喚起するからです。したがって,第二種の認識で事物を認識するのは,自由の人homo liberではあるけれど賢者ではないとみることができるのですが,自由の人は賢者になる欲望を有しているのであり,この欲望をその人間の現実的本性とみるという条件の下に,自由の人の精神の中のあるものも残存するとみることはできないわけではないでしょう。
 これで,現実的に存在する人間の精神もまた個物の観念であって,その限りで永遠から永遠にわたって存在するということ,つまり第五部定理四二備考でいわれるように,存在することをやめることはないというように解せないこともないということは分かりました。そこでは賢者は賢者としてみられる限りといっていて,やはり第三種の認識で個物を認識することを想定していると思われますが,たとえ第二種の認識で事物を認識するのであっても,そのようにいうことは可能であると僕はみます。一方,このことは,第二部定理一一系からも帰結させられそうなのですが,この点については僕は懐疑的です。
 神の無限知性intellectus infinitusというのは,書簡六十四でスピノザがいっている通り,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態です。よってそれは第一部定理二一によって永遠aeterunusです。つまり存在することをやめません。人間の精神はその無限知性の一部なので,全体である無限知性が永遠で存在することをやめないのであれば,その一部を構成する現実的に存在する人間の精神もまた永遠で存在をやめないように思えます。
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岡田美術館杯女流名人戦&賢者的なもの

2023-01-26 19:18:16 | 将棋
 22日に出雲文化伝承館で指された第49期女流名人戦五番勝負第二局。
 西山朋佳女王・女流王将の先手でノーマル三間飛車。後手の伊藤沙恵女流名人の居飛車穴熊に対して先手が下段飛車から2筋に飛車を回ったので,先手は右玉のような将棋になりました。激しい攻め合いから形勢が揺れ動く終盤が長く続くことに。そのために分岐が多くありましたが,最も大きかったのは第1図の局面であったように思います。
                                        
 この局面で後手は☖8七龍と引きました。先手は後に龍を追い払いにいくために☗6八金。後手はそこで☖4五桂と跳ねました。これは6二の銀が浮くので思い切った一手。先手は☗3六金と逃げて☖2七歩成に☗7七金と上がりました。
 ここで☖3七ととできなければおかしいのですが,それは桂馬を渡すことになるので☗3三桂と☗2三桂が成立してしまい,後手が不利になります。なので龍取りと銀取りを受けて☖8二龍と引きました。
                                        
 第2図のように進むのであれば,第1図ですぐに☖8二龍と引いておく方が優りました。この部分の判断ミスが後手にとって最も痛かったのではないでしょうか。
 西山女王・女流王将の連勝。第三局は来月5日に指される予定です。

 第五部定理二二でスピノザがいっていることは,現実的に存在する個々の人間のコナトゥスを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが,神Deusの中にはあるということです。現実的に存在する人間は,その観念自体を十全に認識するcognoscereことができるわけではありません。このことは,たとえばスピノザが第三部諸感情の定義一で,受動状態における人間の現実的本性actualis essentiaについて,それを欲望cupiditasであるといっていることからも明白です。僕たちは受動passioによって何かを十全に認識するということはないのであって,受動によって何かを認識したならそれは必ず混乱した観念idea inadaequataであるからです。ただ,僕たちが混乱してしか認識することができないような観念が,神の中では永遠の相の下に,いい換えれば永遠から永遠にわたって存在するような観念として表現されるexprimunturということは理解するのです。
 このことを理解したのなら,その理解は第五部定理二三へと進むことができます。僕たちの精神mensのうちには,存在することをやめないようなあるものaliquid,僕たちには十全に認識することができないがゆえにそれが何であるのかは特定することができないようなあるものがあるのです。そしてそれは存在することをやめないのですから,そのあるものというのは,第五部定理四二備考のいい方に倣えば,賢者そのものであるということになるでしょうし,あるいはそうしたものについてそれを賢者ということは不適切であるとしても,賢者的なあるものであることは間違いありません。よって僕たちは,このようなことを認識していく限りにおいては賢者なのであって,存在することをやめないというような解釈ができないわけではありません。こうした解釈もまた,第五部定理四二備考の賢者は賢者としてみられる限りでは存在することをやめないといわれていることの実質的な意味として,成立する余地があると思います。
 僕はここでは第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisとをほとんど分けずに考察してきました。ただ,第五部定理二三を,現実的に存在する人間が賢者であるという場合と関連させて考えるなら,自由の人homo liberと賢者との間には実際には差異がないわけではないということとも関係させる必要があるでしょう。
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農林水産大臣賞典TCK女王盃&理解すること

2023-01-25 19:04:26 | 地方競馬
 第26回TCK女王盃
 発馬してすぐヴァレーデラルナが先頭に。2番手にグランブリッジで3番手にコスモポポラリタとプリティーチャンスで隊列が決まりかけましたが,外に出されたテリオスベルがぐんぐんと押し上げ,1コーナーで先頭に出ました。ここから3馬身から4馬身くらいのリードでテリオスベルが逃げる競馬に。2番手にヴァレーデラルナ,3番手にグランブリッジ,4番手にコスモポポラリタ,5番手にプリティーチャンスでこの4頭は集団。2馬身差でマルカンセンサー。1馬身半差の最後尾にナンヨーアイボリーという隊列。最初の800mは51秒2のスローペース。
 3コーナーではテリオスベルのリードは2馬身ほど。ヴァレーデラルナは単独の2番手で3番手にコスモポポラリタとグランブリッジ。その後ろにプリティーチャンス。直線に入るとヴァレーデラルナがテリオスベルとの差を詰めていき,残り200m付近でテリオスベルを追い抜いて先頭に。それをマークするように追ってきたグランブリッジがさらに鋭い脚でヴァレーデラルナを差し切って優勝。ヴァレーデラルナが1馬身差で2着。大外を回ることになったプリティーチャンスが2馬身差で3着。
 優勝したグランブリッジブリーダーズゴールドカップ以来の勝利で重賞3勝目。昨秋のこの路線の結果から,4歳馬はレベルが高いと思われましたので,ここは勝ち馬と2着馬が中心。JBCレディスクラシックでは2着馬が勝っていましたが,そのときはグランブリッジには発馬の不利がありました。スローペースの瞬発力勝負になるとこちらの方に分があり,能力もこちらの方が上だとみていますが,絶対に逆転されないというほどの能力差があるというわけではないでしょう。母の父はダイワメジャービューチフルドリーマーワールドハヤブサの分枝。4代母がJRA賞で1981年の最優秀2歳牝馬,1982年の最優秀3歳牝馬に選出されたビクトリアクラウン
                                        
 騎乗した川田将雅騎手は第24回,25回に続く三連覇でTCK女王盃3勝目。管理している新谷功一調教師はTCK女王盃初勝利。

 僕たちの身体corpusは現実的に存在する個物res singularis,延長の属性Extensionis attributumの個物である物体corpusです。そして第二部定理一三によりその身体を観念対象ideatumとした観念ideaがその人間の精神mens humanaです。そうした身体や精神については,僕たちは十全に認識するcognoscereことができません。一方で,第二部定理八とか第二部定理八系については十全に理解するので,僕たちは僕たちの身体が神の延長の属性の中に包容される限りで存在するということを理解します。同様に僕たちの精神がDeusの無限な観念が存在する限りにおいて存在するということを理解します。かつこの観念,つまり神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する僕たちの精神は,神のうちにあるとみられる観念ですから,それは第二部定理七系の意味によって十全な観念idea adaequataであるということも理解します。つまり,僕たちの身体の十全な観念が神のうちにはあるということを僕たちは理解します。そして第二部定理二〇により,この観念と同様の仕方で僕たちの精神の観念も神のうちに生じるのですから,僕たちの精神の十全な観念も神のうちにあるということも理解します。つまり僕たちは自分自身では十全に認識することができない観念,いい換えれば,僕たちのうちには混乱した観念idea inadaequataとしてしかないような観念の十全な観念が,神のうちにあるということを理解するのです。そしてこれらの観念は,神の無限な観念が存在する限りで存在する観念なのですから,永遠aeterunusから永遠にわたって存在する観念なので,存在することをやめない観念であるということもまた理解するのです。
 現実的に存在する各々の人間の本性natura humanaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念が神のうちにあるということは,スピノザが第五部定理二二で主張していることです。この定理Propositioでは人間の身体humanum corpusの本性といわれていて,人間の身体そのものの観念といわれているわけではありません。ただ,この定理でスピノザが,このまたはかの,といういい方をしているのは,各々の人間の本性を,たとえばこの人間とかの人間とでは異なる人間の身体の本性を示そうとしているからであり,すなわちこれは各々の人間の現実的本性actualis essentiaを示します。いい換えればそれは第三部定理七により各人のコナトゥスConatusです。
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NARグランプリ&自分の精神の認識

2023-01-24 19:25:32 | 地方競馬
 昨年のNARグランプリは17日に発表されました。
 年度代表馬は兵庫のイグナイター。黒潮スプリンターズカップ,黒船賞,かきつばた記念に優勝。昨年は大レースを勝った馬が不在でしたので,重賞の勝ち馬から選出されます。この馬の場合,南部杯とJBCスプリントという,ふたつの大レースでの入着があり,そこが評価の対象となりました。果敢に遠征し続けた陣営のチャレンジ精神が実を結んだといえるでしょう。部門別では4歳以上最優秀牡馬と最優秀短距離馬の2部門で選出されました。
 2歳最優秀牡馬は浦和のヒーローコール鎌倉記念に優勝。全日本2歳優駿で地方馬では最先着となる4着に入ったのが決め手でした。
 2歳最優秀牝馬は船橋のメイドイットマム東京2歳優駿牝馬に優勝。エーデルワイス賞をJRA所属馬が勝った場合は,東京2歳優駿牝馬の勝ち馬が選出されるのが自然になります。
 3歳最優秀牡馬は北海道のシルトプレ。北斗盃,北海優駿,ダービーグランプリに優勝。昨年のダービーグランプリは北海道勢のワンツーとなり,レベルの高さをみせつけました。
 3歳最優秀牝馬は浦和のスピーディキック桜花賞,東京プリンセス賞,戸塚記念,ロジータ記念,東京シンデレラマイルに優勝。文句のつけどころがありません。2021年の2歳最優秀牝馬で2年連続の受賞
 4歳以上最優秀牝馬は大井のサルサディオーネさきたま杯とビューチフルドリーマーカップに優勝。重賞でも2着が2回,3着が2回ありました。年間を通してあまり休みなく使われながら,相手が強かった川崎記念以外は大きく負けなかったのは立派です。2020年と2021年も同じ部門で選出されていて,3年連続での受賞。
 ばんえいはこのブログでは扱っていないので割愛します。また,最優秀ターフ馬は該当馬がありませんでした。
                                   
 ダートグレード競走特別賞馬はショウナンナデシコエンプレス杯,マリーンカップ,かしわ記念,スパーキングレディーカップに優勝。上半期に活躍が集中した感があります。
 引退したオメガパフュームが特別表彰馬に選出されました。東京大賞典の四連覇が大きく評価されたということでしょう。

 現実的に存在する人間が,自分の精神mensを十全に認識するcognoscereことは生じません。第二部定理二三は,現実的に存在する人間が,自分の精神を認識する様式を示しています。それによれば,現実的に存在する人間は,自分自身の身体の変状affectiones corporis,すなわち自分の身体が外部の物体corpusによって刺激されている状態の観念ideaを認識する限りで自分の精神を認識します。かつこの定理Propositioは,この様式でのみ自分の精神を認識するといっているので,これ以外の様式で現実的に存在する人間が自分の精神を認識することはないのです。しかるにこの観念は第二部定理二九によって,混乱した観念idea inadaequataです。要するに現実的に存在する人間は,自分の身体が外部の物体によって刺激されている状態を認識することによってのみ自分の精神を認識するのですが,その観念は混乱した観念なので,現実的に存在する人間が認識する自分の精神の観念は,混乱した観念でしかあり得ず,十全な観念idea adaequataであるということはないのです。よって第五部定理四二備考で,賢者は存在することをやめることはないといわれるとき,自分の精神を十全に認識するのが賢者であって,賢者が自分の精神を十全に認識する限りで存在することをやめないというように解することはできません。他面からいえば,そのような人間を賢者というのであれば,賢者は現実的に存在し得ないので,賢者を無知者から分かつことが無意味になります。
 人間の精神mens humanaというのは第二部定理一三により,その人間の身体の観念のことですから,同じことは自分の身体についても妥当します。つまり現実的に存在する人間は,自分の身体を十全に認識するということは不可能なのであって,そのような意味で現実的に存在する人間が賢者であるということはできません。このことは第二部定理一九第二部定理二七を援用すれば,自分の精神についてそれを十全に認識することができないということを結論したのと同じ方法で示すことができます。同じようなことを繰り返しても仕方がありませんから,ここでは人間の身体についての論証Demonstratioは割愛します。
 ただし,現実的に存在する人間は,たとえば第二部定理八とか第二部定理八系を,十全に認識することはできます。
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ALSOK杯王将戦&字義通りの解釈

2023-01-23 19:28:43 | 将棋
 一昨日と昨日,花の里温泉で指された第72期王将戦七番勝負第二局。
                                        
 羽生善治九段の先手で相掛り。後手の藤井聡太王将が前例から離れる手を指し,先手が1筋から仕掛ける将棋に。後手の方から先手に角金交換を強要するような手順に進め,先手は取ったその金を8筋に打ちました。これは筋が悪いとされるような手ですが,後手玉が薄かったためになかなか効果的な手になりました。
 勝敗の分水嶺となったのは,2日目の昼食休憩を挟む長考で後手が銀を打って攻めこんでいった手。この局面では後手はまだ受けに回っておく必要があったようです。AIが推奨していたのは1段目に飛車を打つ手です。ただこの将棋は指し手をみれば分かるように,ここから先手玉がかなりきわどい変化の末に詰まないので先手が勝ちになっていますので,銀を打ち込んだ局面で先手の玉が寄るか否かという変化をすべて読み切るのは至難の業で,敗着といえるような手ではないと思います。むしろ藤井王将はこのような手で勝ちを手に入れることが多いので,余計に仕方がなかったのではないでしょうか。ひとつ間違えただけで負けになってしまう変化を,正しく応じることで勝ちにした羽生九段の受けが見事だったと思います。
 きちんと受け切ることができたのは,時間の余裕を十分に残していたためであり,ある意味ではタイムマネジメントの勝利といえます。また,そのように時間を残すことができたのは,そこまでの局園に至るまでの準備が周到であったからだともいえますので,その部分での勝利であるともいえるでしょう。
 羽生九段が勝って1勝1敗。第三局は28日と29日に指される予定です。

 第二種の認識cognitio secundi generisで事物を認識しようと第三種の認識cognitio tertii generisで個物res singularisを認識しようと,同じように精神の能動actio Mentisであって,認識された観念ideaは十全な観念idea adaequataです。ですからおそらくスピノザは自由の人homo liberと賢者の間に,意味の上で差異を与えているものと推測されるのですが,その差異を強調する必要はないだろうと僕は思います。いい換えれば,賢者を自由の人という意味で解しても,大きな問題が発生することにはならないであろうと思います。よって自由の人と賢者の間にあると推定される意味上の差異については,これ以上は追及する必要を感じません。
 第二部定理一一は,人間の精神mens humanaは個物の観念であるといっています。そして第二部定理一三において,その個物というのが,自分自身の身体corpusであることが明らかにされます。したがって現実的に存在するある人間の精神というのは,その人間の身体の観念であることになります。そして,個物の観念はそれが十全な観念であるとみられる限りでは,永遠aeterunusから永遠にわたって存在するのであり,いい換えれば存在することをやめないのでした。僕はこの観点から第五部定理四二備考で賢者は賢者としてみられる限りで存在することをやめないということの意味を探求し,このような意味でその文章を解釈することが可能であると結論しました。しかしながら,現実的に存在する人間の精神がひとつの個物の観念であるとするなら,それが十全に認識される限りでは,やはり永遠から永遠にわたって存在するのであって,存在することをやめるということはないでしょう。よって,もしも現実的に存在するある人間が,自分の身体の観念を十全に認識するcognoscereということがあるなら,その人間は賢者として存在することをやめないということを,本当に字義通りに解釈することができることになります。そして同時に,自分の身体の観念とは自分の精神のことなのですから,その人間は第二部定理二〇によって,その人間は自分の精神,自分の身体の観念という個物の観念をも十全に認識することになり,やはり賢者として存在することをやめないということを字義通りの意味で解せることになります。こうした解釈の可能性についても探っておくべきでしょう。
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東日本発祥倉茂記念杯&自由の人と賢者

2023-01-22 19:11:19 | 競輪
 大宮記念の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,吉田‐平原‐宿口の関東,郡司‐深谷‐萩原の南関東で中本は単騎。
 平原と郡司がスタートを取りにいきました。枠が内だった平原が誘導の後ろに入って吉田の前受け。4番手に郡司,7番手に新山,最後尾に中本で周回。残り2周のバックに入って吉田が誘導との車間を開け始めました。それをみて新山が上昇。打鐘後に吉田を叩いて前に。佐藤が連結を外しそうになったのですが,ホームの入口あたりで吉田が引いたので,新山の後ろに。後ろになった郡司がすぐさま発進。ホームの出口では新山を叩いてかまし先行に。佐藤の後ろに続かなかった中本が,萩原の位置を奪って3番手。バックで吉田が巻き返しにいきましたがこれは不発。直線入口あたりで郡司との車間を開けていた深谷が,郡司の失速をみて踏み込むと,そのまま突き抜けて優勝。深谷マークのレースになった中本が2車身差で2着。直線で外目から伸びてきた佐藤が4分の1車輪差で3着。さらにその外から追い込んだ宿口が半車輪差の4着。
                                         
 優勝した静岡の深谷知広選手は昨年10月の静岡のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年8月の小田原記念以来の優勝で18勝目。大宮記念は2016年以来の2勝目。このレースは地元勢を引き連れた吉田の先行が有力で,新山がどのように抵抗するのか,また平原が番手捲りをしたときに郡司がさらにその上をいくことができるのかが焦点だと思っていました。ところが郡司のかまし先行という,僕が考えていない形のレースになりました。郡司の先行になってしまうと吉田や新山が捲るのはなかなか大変。実際に深谷はだれにも迫られることなく番手を回ることになり,絶好の展開でした。昨年までは深谷が郡司の前を回るケースが多く,それで郡司が恵まれるというケースも多々ありましたので,郡司が深谷の前を回るという場合には,このような展開になることも想定しておかなければならなかったということでしょう。

 第二種の認識cognitio secundi generisの場合も第三種の認識cognitio tertii generisの場合も,それで認識された十全な観念idea adaequataは,永遠の相species aeternitatisの下に認識されているのであり,したがって永遠から永遠にわたって存在することになります。つまり存在することをやめません。このような意味で,第五部定理四二備考の,賢者は賢者としてみられる限り存在することをやめないということの意味を解することは可能だと僕は考えます。そして字義通りの意味でいえば,こちらの解釈の方が近いといっていいと思います。現実的に存在する人間は,賢者であるか無知者であるかに関係なく,あるいは自由の人homo liberであるか奴隷であるかに関係なく,現実的に存在することをやめます。また,現実的に存在する人間の精神mens humanaが,十全な観念だけによって組織されるということはあり得ず,いくつかの十全な観念と,大抵の場合はそれより多くの混乱した観念idea inadaequataによって構成されます。しかし,賢者が賢者といわれるのは,あるいは自由の人が自由の人といわれるのは,その人が能動的である限りにおいてであり,同じことですがその人が事物を十全に認識するcognoscere限りでのことです。ですから,事物を十全に認識しているとみられる限り,賢者は賢者として存在することをやめないという意味に解することはできるのであり,そして確かに十全な観念は存在することをやめないのです。
 現在の考察からは離れますが,ここで第二種の認識と第三種の認識を考察したことから,スピノザが自由の人という場合と賢者という場合とでは,いくらかの相違があるのではないかということがみえてきます。僕は賢者を自由の人と置き換えた上で,ここまでの考察を続けてきました。このように置き換えて問題はないものと思いますが,実際には自由の人も賢者も同じように能動的に活動し事物を十全に認識するのであるにしても,強調されるポイントには相違があるとみることができます。第四部定理六六備考で自由の人が説明されるとき,理性ratioによって能動的であることとして説明されています。つまり第二種の認識が強調されています。これに対して賢者は,『エチカ』の最後の備考Scholiumでいわれているのであり,そこでは第三種の認識が念頭に置かれていると思われます。
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ジュニアヘビー級&第三種の認識の場合

2023-01-21 19:02:46 | NOAH
 天龍の雑感⑭の中で,小川良成の名前を出しました。小川は全日本プロレスとNOAHの重要な選手のひとりなので詳しく紹介したいのですが,その事前の準備として,小川が主に活躍したジュニアヘビー級の何たるかということを説明します。
 日本のプロレス界でジュニアヘビー級というのがカテゴリーとしてはっきりと確立したのは,初代のタイガーマスクがデビューしてからであると僕は理解しています。僕のプロレスキャリアの開始時点ではタイガーマスクはデビューしていましたが,その直前のことではあるので,僕のプロレスキャリアが始まった頃に,ジュニアヘビー級というカテゴリーが日本プロレス界の中で確立したといっていいでしょう。
 タイガーマスクは新日本プロレスでデビューしました。基本的に新日本プロレスはこのときに確立したジュニアヘビー級というカテゴリーを現在まで堅持しています。いい換えればジュニアヘビー級というカテゴリーは,カテゴリーとして消失することなく現在まで継続しています。
 タイガーマスクがデビューした時期に全日本プロレスにもジュニアヘビー級というカテゴリーが確立していたかというと,そうではなかったと僕は考えています。おそらく全日本プロレスと日本テレビは新日本プロレスのタイガーマスクの活躍をみて,全日本プロレスでもジュニアヘビー級というカテゴリーを確立させようとしました。そのために白羽の矢を立てたのが大仁田厚だったのです。
 大仁田が凱旋帰国してジュニアヘビー級のチャンピオンとして試合をしていた時期は,確かに全日本プロレスにもジュニアヘビー級もカテゴリーとして確立したと僕は思います。しかし全日本プロレスの場合,このカテゴリーは長く続きませんでした。大仁田は膝の怪我で早くに引退してしまい,その後にジュニアヘビー級を牽引することになったのはマイティ・井上ですが,井上が王者として君臨していた時期には僕はすでにジュニアヘビー級はカテゴリーとしては消滅していたと思っています。ただ全日本プロレスにおけるジャンルあるいは部門のひとつとしてジュニアヘビー級は残ったのであり,カテゴリーではなく部門という形のジュニアヘビー級は,NOAHの旗揚げ後も続き,基本的に現在も同じ状況です。
 一口にジュニアヘビー級といっても,新日本と全日本およびNOAHでは違った意味で解するべきだというのが僕の見解です。

 共通概念notiones communesというのは,第二部定理三八第二部定理三九の様式で現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに生じます。そこで,現実的にAという人間が存在して,Aが外部の物体corpusであるXと関係することによって,Aの精神のうちにある共通概念が発生すると仮定しましょう。このとき,この共通概念は,Xの観念ideaが存在する限りで存在することをやめません。その共通概念を構成する要素は,共通概念を認識するcognoscere人間の身体humanum corpusと,Xに共通する要素で,この要素はXが存在する限りでは存在します。したがって共通概念はXの観念が存在する限りでは存在することになるでしょう。このことは,Xという全体に含まれているある一要素が,Xが存在し続けているのに存在しなくなるというのが不条理であることから明白でしょう。よって,第二部定理八系のいい方に倣えば,その共通概念はDeusの無限な観念が存在する限りで存在するといわなければなりません。しかるに神の無限な観念は永遠aeterunusから永遠にわたって存在する観念ですから,共通概念も永遠から永遠にわたって存在します。つまりその存在existentiaをやめるということはありません。第二部定理四四系二が理性Rationisについていっているのは,こうした永遠の相aeternitatis specieの下に理性は共通概念を基礎として事物を認識していくということで,よってそうした認識cognitioもまた,神の無限な観念が存在する限りでは存在します。つまり存在をやめるということはありません。確かに第二部定理三七でいわれている通り,共通概念は個物res singularisの十全な観念idea adaequataではないのですが,それが永遠であるということは,第二部定理八系を援用しても論証することができるのです。
                                    
 現実的に存在する人間が第三種の認識cognitio tertii generisで何らかのものを認識するという場合は,第五部定理二九により,現実的に存在するある人間が,自分の身体の本性essentiaを永遠の相の下で概念することによって事物を認識していることになります。なおかつそれは個物の認識であり,かつ現実的に存在する個物の認識です。再び第二部定理八系のいい方に倣えば,神の属性attributumの中に包容されている限りでの現実的に存在する個物の認識です。よってこの観念は永遠から永遠にわたって存在し,存在をやめることはありません。
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アリョーシャの態度&第二種の認識の場合

2023-01-20 19:11:20 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』に収録されている亀山郁夫と中村文則の対談の中で,アリョーシャも無罪ではあり得ない,つまりアリョーシャも有罪であるというアメリカの研究者の説に亀山が言及しています。このことは対談の主題ではないので軽く触れられているだけなのですが,なぜアリョーシャも有罪といわなければならないのかという理由については,アリョーシャはスメルジャコフに対して冷徹であり過ぎるということがいわれています。これは対談中の発言なので,この理由がアリョーシャ有罪説を唱えたアメリカの学者によるものなのか,亀山の自説であるのかは分かりません。どちらとも受け取れるような発言になっています。
                                        
 僕は確かにアリョーシャの態度がスメルジャコフに対して冷徹であるということは否定しません。ただスメルジャコフは『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちのほとんどから軽んじられているとみられます。スメルジャコフと最も親しくしているのはイワンだと思いますが,イワンのスメルジャコフに対する態度が,友人に対するあるいは弟に対するそれであるというようには僕には感じられないからです。スメルジャコフに対して愛情を感じるような接し方をしていると僕に感じられるのはグリゴーリーが唯一であり,だから僕はそのグリゴーリーがスメルジャコフの父ではないかと推測したのです。
 アリョーシャのスメルジャコフに対する態度が冷徹になるのは,僕にはむしろフョードルが殺された後であるように感じられます。ドミートリーは無実にもかかわらず連行された上に裁判にかけられたのですから,アリョーシャのドミートリーに対する態度にある種の優しさが滲み出るのは不自然ではありません。ただスメルジャコフにフョードル殺害の使嗾をしたともいえるイワンに対しても,アリョーシャは徹底的に無罪であると強調します。それに対して実行犯であるスメルジャコフは,死んでしまったのにアリョーシャが赦しているようには感じられません。なのでこの観点からアリョーシャを有罪というなら,殺人事件があった後のアリョーシャは有罪であるというように僕には強く感じられます。

 第二部定理八系で示されている個物res singularesのふたつの存在existentiaのあり方のうち,個物が神Deusの属性attributumの中に包容されている限りにおいて存在するというあり方の場合は,この個物は神の属性が存在する限りで存在するといわれなければなりません。しかし神の属性というのは永遠aeterunusから永遠にわたって存在するのですから,個物の観念ideaもまた永遠から永遠にわたって存在するといわれなければならないでしょう。いい換えれば個物の存在がこのあり方で考えられるとき,この個物は存在することをやめないでしょう。したがって,第二部定理八系のいい方に倣えば,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる場合の個物の観念も,永遠から永遠にわたって存在することになります。このことは,ここでいわれている神の無限な観念というのが永遠から永遠にわたって存在するということからも明らかですし,第二部定理七系により,神の属性に包容されている限りで存在するといわれる個物の観念は,その個物が神のうちにあるといわれるのと同じ秩序ordoで神のうちになければならないということからも明白であるといえます。
 現実的に存在する人間がある事物を十全に認識するcognoscereのであれば,この人間は第二種の認識cognitio secundi generisでその事物を認識しているか,そうでなければ第三種の認識cognitio tertii generisでその事物を認識しているかのどちらかです。このうち第二種の認識というのは理性ratioによる認識ですから,第二部定理四四系二により,その人間はこの事物を永遠の相aeternitatis specieの下に認識していることになります。したがってこれを第二部定理八系に合わせれば,神の属性に包容されている限りでの事物を認識しているということになるでしょう。というのも,そうでなければその事物が持続するdurareといわれる限りで認識していることになりますが,持続するものを永遠の相の下に認識するというのは,それ自体で不条理だといわなければならないからです。
 理性による認識というのは共通概念notiones communesに基づく認識です。ですから第二部定理三七によりそれは個物の認識ではありません。よって個物の存在の二通りのあり方について規定している第二部定理八系は,そのまま適用することができるわけではないということは確かです。
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サンケイスポーツ盃船橋記念&二通りのあり方

2023-01-19 19:03:27 | 地方競馬
 昨晩の第67回船橋記念。仲野騎手が2レースで落馬し,右肘を割創し,右足の関節も打撲したため,キャッスルトップは矢野騎手に変更。
 逃げようという構えをみせたのはコウギョウブライト,コパノフィーリング,ブンロート,カプリフレイバーの4頭。コパノフィーリングとブンロートが並んで逃げるような形になり,その後ろをコウギョウブライトとカプリフレイバーで併走。5番手はキモンルビーとティアラフォーカス。7番手にミゲルとビヨンドボーダーズとモズアンビリーバボー。この後ろのマッドシェリーは発馬後の向正面で前の9頭から離されていき,2馬身差でナガタブラック。最後尾のキャッスルトップも徐々にナガタブラックから離されていきました。最初の400mは23秒3の超ハイペース。
 コパノフィーリングとブンロートは併走でコーナーを回っていき,その後ろも変わらずにコウギョウブライトとカプリフレイバーで併走。カプリフレイバーの外からティアラフォーカスが追い上げてきました。直線に入るとコパノフィーリングとブンロートの間に進路を取ったキモンルビーが内外の2頭を差して先頭に。襲い掛かってきたのは大外のティアラフォーカス。一旦先頭のキモンルビーを差し切ってティアラフォーカスが優勝。キモンルビーが半馬身差で2着。盛り返してきたブンロートがクビ差で3着。
 優勝したティアラフォーカスは南関東重賞初制覇。ここ2戦は条件戦で連続2着という格下でしたが,前々走は重馬場だったとはいえ1200mを1分11秒5で走破していて,大井でこの時計は優秀なので,軽い斤量を生かしての勝利もありそうだと思っていました。1000mのレースに出走するのはこれが初めてだったのですが,デビューから1600mで4連敗した後,1200mで6馬身差の圧勝で初勝利を飾った馬ですので,むしろこの距離の方がよかったのかもしれません。2着馬とは2キロ,2着馬が牝馬だったということを考慮すれば実質は4キロの斤量差があっての優勝なので,スピード能力で同等まではまだいっていない可能性も残ります。母の父はフサイチリシャールアストニシメントメリージャパンの分枝。
 騎乗した大井の和田譲治騎手はゴールドジュニア以来の南関東重賞11勝目。船橋記念は初勝利。管理している大井の宗形竹見調教師は南関東重賞4勝目。船橋記念は初勝利。

 現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにある,あるいは同じことですが,現実的に存在する人間の精神の一部を構成しているある十全な観念idea adaequataが,存在することをやめることはないというのは,不条理なことであるように思えます。というのは,現実的に存在する人間の精神は,その人間が現実的に存在することをやめるなら,要するにその人間が死んでしまえば存在することをやめる精神であって,何らかの十全な観念がその人間の精神の一部を構成しているのであれば,少なくともその精神が存在することをやめると同時に存在することをやめなければならないからです。全体が存在することをやめるのに,その全体を構成する一部分は存在することをやめないというのは不条理でしょう。
 このこと自体はその通りです。現実的に存在するある人間の精神の一部を構成する十全な観念は,それもまた現実的に存在するとみられるべきであって,その限りではその人間の精神が現実的に存在することをやめるなら,それと同様に存在することをやめるでしょう。ただ,スピノザの哲学では,事物の存在existentiaは二通りに考えることができます。僕は,ある現実的に存在する人間の精神の一部を構成する十全な観念について,それが現実的に存在するとみられる限りでといういい方をしましたが,このあり方というのはその二通りのあり方のうちのひとつであって,それとは別のあり方というのがあるのです。
                                   
 二通りというのを基本的な仕方で示しているのは第二部定理八系です。すなわち事物というのは,Deusの属性attributumの中に包容されている限りで存在するというひとつのあり方があり,さらに時間的に持続するdurareといわれる限りにおいて存在するという別のあり方があるのです。このとき,十全な観念が現実的に存在するとみられる限りで存在するといわれるのは,後者のあり方です。しかしそれと同時に,その同じ観念は前者のあり方でも存在するといわれなければなりません。なぜならこの系Corollariumは,個物が現実的に存在するようになると,神の属性に包容される限りで存在することをやめるといっているわけではなく,そのように存在しつつ,現実的にも存在するようになるといっているからです。
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確知する&本性と形相

2023-01-18 18:55:09 | 哲学
 第四部序言の中でスピノザが本性の型と善悪の関係について言及しているとき,僕たちが人間の本性の型に近づく手段と確知するcerto scimusとか,人間の本性の型に近づくことの妨げになると確知するといっている部分の,確知するということが何を意味するのかということは考えておかなければなりません。
                                   
 まず一般的に,僕が確知するという用語をこのブログの中で使用するときに,どのような思惟作用のことを意味させているのかということを説明します。
 AがXであると確知するという言明があったとします。僕がこのようにいうとき,AがXを十全に認識するcognoscereということはその意味の中に入ります。というのは,第二部定理四三により,Xを十全に認識したAは,Xの観念ideaが十全な観念idea adaequataであるということを知り,かつそれが十全な観念であるということを疑い得ないからです。この事象がAの精神mensのうちに生じるとき,AはXを確知するという言明に合致するのは間違いないと僕は考えるからです。ただしこれはこのことが確知するということに含まれるということであって,確知するということとイコールではありません。僕が確知するということにもたせる意味は,さらに広くわたります。
 第二部定理四三で十全な観念についていわれていることが確知するという思惟作用に一致するのは,Xを十全に認識したAが,Xが十全な観念であることを疑い得ないとされているからです。よって,たとえばAがXの混乱した観念idea inadaequataを有しているときに,それがXの十全な観念であると疑わないのであれば,AはXが十全adaequatumであると確知しているといえないこともありません。第二部定理四三は絶対的な意味をもつ,つまり単に疑わないのではなく疑い得ないということを示しているのですが,Xについて疑わないということは,Xの観念が十全な観念であろうと混乱した観念であろうとAの精神のうちには生じ得ます。なので基本的にこの場合も,AがXについて十全であると確知すると僕はいいます。
 したがって,僕はAがXを確知するというとき,AがXを十全に認識するということを前提しているわけではありません。この点に注意しておいてください。

 現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに十全な観念idea adaequataがあるとしても,その十全な観念は神Deusのうちにあるとみられなければならないということは,スピノザの哲学を大きく特徴づける,主体subjectumの排除という思想と関連します。十全な観念が神のうちにあるとみられなければならないのであれば,その十全な観念がどの人間の精神のうちにあるのかはとくに考慮しなくてもよいことになるからです。実際に,たとえばXという人間が現実的に存在しているとして,このXの精神のうちにある十全な観念の本性essentiaも形相formaも神のうちにある十全な観念の本性および形相と同一であるというとき,Xというのは現実的に存在するどの人間であっても構わないので,十全な観念について考察する場合には,Xがだれであるのかということを特定する必要はありません。他面からいえば,現実的に存在するどの人間の精神のうちにあろうとも,十全な観念の本性および形相は同一であると解さなければならないのです。
 したがってこの十全な観念は,神が存在する限りは同一の本性また同一の形相のまま存在することになるでしょう。しかるに神というのは第一部定義六によって実体substantiamですから,第一部定理七によってその本性には存在existentiaが含まれます。いい換えれば第一部定義一により神は自己原因causam suiです。したがって神の本性が与えられれば神の存在も与えられるのであり,よって神の存在は永遠aeterunusです。いい換えれば持続duratioのうちに存在する個物res singularis,たとえば現実的に存在する人間にはその存在に開始と終焉があるのに対し,神の存在には開始もなければ終焉もありません。むしろ神は永遠から永遠にわたって存在することになります。よって何らかの十全な観念が神のうちにあるとみられる限りでは,その十全な観念もまた永遠から永遠にわたって存在するといわれるべきであって,その存在に開始も終焉もないといわれなければなりません。なのでたとえ現実的に存在するある人間の精神のうちに何らかの十全な観念があるのだとしても,その十全な観念自体は永遠から永遠にわたって存在する観念あるいは同じことですが客観的有esse objectivumとみなし得るのです。つまりこの十全な観念は存在をやめることはありません。
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岡田美術館杯女流名人戦&開始と終焉

2023-01-17 19:17:16 | 将棋
 15日に岡田美術館で指された第49期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は伊藤沙恵女流名人が3勝,西山朋佳女王・女流王将が10勝。
 岡田美術館の館長による振駒で伊藤女流名人の先手。西山女王・女流王将のノーマル三間飛車。先手の玉頭位取りのような戦型になりました。
                                        
 第1図から後手は☖4六飛と切り,☗同金に☖6六歩☗5六銀☖6七歩成☗同銀と6筋の歩を消してから☖9九角成と,二枚換えの手順に進めました。
 この後の手順からすると歩はあった方がよかったように思えるので,その点は一歩をもらった先手の方が得をしているかもしれませんが,二枚換えで馬を作った局面は先手に手の施しようがなく,後手が必勝となっていました。
 したがって第1図は後手が優勢です。先手は押さえ込みを狙いに指していましたので,その網が食い破られた時点ですでに厳しかったようです。押さえ込みにいく前にやや動き過ぎたのではないでしょうか。
 西山女王・女流王将が先勝。第二局は22日に指される予定です。

 持続duratioのうちに存在するあらゆる個物res singularisは存在することをやめます。他面からいえば,ある個物が持続するdurareといわれる場合は,その個物の存在existentiaには開始があって終焉があるのです。これは賢者が現実的に存在するといわれる場合,すなわち個物が持続するといわれる様式で存在する場合にも妥当します。だから第五部定理四二備考で賢者は存在することをやめないといわれるとき,賢者が現実的に存在するとみられる限りでは,それを文字通りに賢者には現実的存在の終焉がないというように解釈することはできません。そしてこの備考Scholiumでいわれている賢者は,現実的に存在する人間としてのあり方のひとつを示すので,この部分を字義通りに解釈することはできないのです。
 しかしこれを賢者としてではなく,賢者の精神mensのうちにある十全な観念idea adaequataとしてみるなら,僕はそれを字義通りに近い形で解釈することができると考えます。つまり十全な観念が存在することをやめないというなら,それを字義通りに解釈することができないこともないと僕は考えるのです。字義通りに近い形ということで僕がいおうとしているのはこのことです。
 第二部定理七系の意味は,Deusのうちにある観念はすべて十全な観念であるということです。したがって,現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに,いい換えれば現実的に存在する賢者の精神のうちに何らかの,たとえばXの十全な観念があるなら,このXの十全な観念の本性essentiaも形相formaも,神のうちにあるXの十全な観念と同一です。ただこれは後付けの説明,いうなれば帰納法的な説明なので,スピノザの哲学に即して演繹的にも説明しておきます。
 第一部定理一五により,あるといわれるものは神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのです。したがって現実的に存在する人間の精神あるいは現実的に存在する賢者のうちにXの十全な観念があるというときにも,それは神のうちにあるとみられなければなりません。それを示しているのが第二部定理一一系なのであって,ある人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにXの十全な観念があるというのが,Xの十全な観念が現実的に存在するある人間の精神のうちにあるという場合の,スピノザの哲学での正しい説明です。
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