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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

伊藤園お~いお茶杯王位戦&畠中の意訳

2025-08-31 11:48:39 | 将棋
 26日と27日に徳島市で指された第66期王位戦七番勝負第五局。
 永瀬拓矢九段の先手で角換わり。後手の藤井聡太王位が右玉で先手は腰掛銀から穴熊に組みました。
                       
 この局面で後手は☖8六桂と打っていきました。☗同歩☖同歩と進んだところで先手は☗7五歩。後手は☖8七歩成と桂馬を損した代償にと金を作ったのですが,☗8二歩☖同飛☗7四桂と反撃されました。
                       
 これが的確な反撃で,先手が優勢になっています。上図でほかに攻めるとすれば☖9六歩ですが,これは後手が自信がもてないようです。ただ☖4二金☗2三龍☖3二角☗2二龍と進めてから☖9六歩と取り込めば,後に☖2一飛から飛車交換を目指す手が生じ,これは後手も戦えていたとのことです。
 永瀬九段が勝って2勝3敗。第六局は来月9日と10日に指される予定です。

 良心conscientiaと意識conscientiaが同じ意味をもつことに注意すれば,第三部諸感情の定義一七の場合でいえば,希望spesが叶わなかったときに感じる悲しみtristitiaが意識されると,その悲しみが落胆conscientiae morsusといわれるということになります。一般に僕たちが何事かに落胆するというとき,このことだけを落胆というわけではないことは僕は認めます。しかし一方で,希望が打ち砕かれて落胆するというようないい方は,日本語の使い方として自然であるといえるでしょう。少なくともこの感情を,良心の呵責conscientiae morsusと訳するよりは適切だといえます。希望が打ち砕かれて良心の呵責を感じるといういい方も,日本語として成立するということを僕は認めますが,そのいい方を成立させるためには,希望というのをある特殊な希望に限定させなければならないのであって,どんな希望であってもこのいい方が成立するとはいえません。しかしその定義Definitioから明らかなように,この感情affectusはどのような希望であれ,希望が打ち砕かれるということがあったら,あるいは同じことですが,どのような不安metusであれその不安が的中したときには,すべからく成立するのでなければなりません。希望が打ち砕かれて落胆するとか,不安が的中して落胆するといういい方は,その希望がどんな希望であったとしても,またその不安がどんな不安であったとしても成立するいい方ですから,ここは良心の呵責というより落胆といった方がよく,この観点からも僕は畠中の意訳を支持します。いい換えればスピノザが諸感情の定義の中で示している感情のうち,どれかを落胆というのであれば,第三部諸感情の定義一七の感情か,そうでなければ絶望desperatioと訳されている第三部諸感情の定義一五の感情のどちらかなのであって,第三部諸感情の定義二九の感情ではあり得ないと僕は考えます。
 『哲学者スピノザの叡智Think Least of Death』で示されている落胆という感情は,明らかに不適切であって,これもまた訳者や監訳者だけの問題に帰することができるかもしれませんが,むしろラテン語が英語に,そして英語が日本語に訳されるという重訳の問題ではないかと思います。本当のことをいえば,こうした不適切な訳が生じないようにする注意を,出版社はもっとしてほしいです。
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伊藤園お~いお茶杯王位戦&美徳

2025-08-23 11:45:09 | 将棋
 19日と20日に宗像市で指された第66期王位戦七番勝負第四局。
 藤井聡太王位の先手で角換わり相腰掛銀。後手の永瀬拓矢九段が先手の攻めを誘うような順に進めました。
                       
 ここで先手は☗4二馬と飛車を取って☖同金に☗8二飛と角金の両取りをかけました。
 ☖8三角とか☖8三角打と受ける手もあったでしょうが後手は☖4七角成と踏み込みました。☗同金の一手。
 ここで☖3八銀と打つのではなく☖7四桂。
                       
 これが好手ですでに先手が困っているようです。したがって上図から馬と飛車の交換に進めるのは疑問。☗3五歩☖同歩☗3四歩と後手陣を弱体化させてから実戦の手順に進めれば,先手も戦えていたようです。
 永瀬九段が勝って1勝3敗。第五局は26日と27日に指される予定です。

 次に,『哲学者スピノザの叡智Think Least of Death』では,第四部定義八で定義されているものが,virtusではなく美徳と訳されています。これはこの定義Definitioにだけ妥当しているわけではなく,『エチカ』の岩波文庫版で徳と訳されている概念notioが,『哲学者スピノザの叡智』では首尾一貫して美徳と訳されているということです。
 この訳し方の相違そのものについては,僕は問題視しません。というのは,スピノザの哲学は唯名論を採用しているとみるべきで,そのために概念がことばの上でどのように記号化されるのかということは重要な問題ではありません。第四部定義八についていえば,ある人間が能動的に,あるいは同じことですがある人間が十全な原因causa adaequataとなる限りにおいての人間の本性natura humanaということが観念ideaとして正しく理解されればよいのであって,その限りにおける人間の本性が徳といわれるか美徳といわれるかは関係ないからです。このことはスピノザが定義の要件として,それが知性intellectusによって十全に認識されることに資すればよいとしていることからもいえることだと僕は考えます。
 ただ,日本語において徳といわれるのと美徳といわれるのとでは,美徳といわれる方がより倫理的な色彩が強まるのではないかと思います。ナドラーSteven Nadlerは合倫理性を論考の中心としていますから,その意味では徳よりも美徳の方が適切な訳といえるでしょう。もっとも,それはナドラーの論考に合わせたものであって,ナドラーはナドラーでスピノザが徳といっている概念を利用して論考しているのですから,スピノザの哲学において徳という概念が有する倫理性がどのようなものであるのかということをここで考察しておくことは,徒労ではないでしょう。
 僕の考えでは,スピノザの思想における徳という概念には,ふたつの特徴があります。ひとつは第四部定義八で定義されているような,能動的である限りにおける人間の本性ということであって,これは第三部諸感情の定義一で,欲望cupiditasが受動的な限りにおける人間の本性といわれていることと対立します。すなわち人間の本性という観点において,徳は欲望の反対概念であるということが,スピノザの哲学における徳の第一の意味であると僕は解します。
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竜王戦&一元化

2025-08-09 12:53:34 | 将棋
 7日に指された第38期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 佐々木勇気八段の先手で角換わり早繰り銀。後手の石田直裕六段も早繰り銀に進め相早繰り銀となりました。
                       
 後手はここで☖3六歩と垂らしたのですが,この手を局後に後悔していました。
 先手は☗4六角と打って局面を動かしにいきました。後手は☖2三歩☗3五銀と退却させて☖8五桂。ここから☗5五歩☖7五歩に☗5八飛と回ったのが秀逸な構想でした。
                       
 こう進んで先手が指しやすいようです。後手は中住いに組んだ場合には実戦のように進めてはいけないということでしょう。
 連勝で佐々木八段が挑戦者に第37期に続いての挑戦。第一局は10月3日と4日に指される予定です。

 ナドラーSteven Nadlerは実用書的な意味をもたせようとしているのですが,この実用的な側面は,合倫理的な側面に一元化することができます。すなわち,どう生きるべきかとかどう死ぬべきかということは,倫理的に生きるためにはどうすればよいのか,また倫理的に死ぬにはどうすればよいのかという意味であると解して問題ありません。
 ナドラーが合倫理的な側面に一元化してスピノザの哲学を援用するのは,『エチカ』を文字通りに倫理学と解するからです。『エチカ』が倫理学の書であるということについては,僕は必ずしも肯定しませんが,これはその内容をどのように受容するのかという相違ですから,『哲学者スピノザの叡智Think Least of Death』を考察するにあたっては意味をもちません。もし時間があれば,最後に僕にとっての『エチカ』とは,あるいはもっと広く僕にとってのスピノザの思想とはという観点から書いてみたいと思っています。あくまでも時間が残っていればということではありますが,その機会が与えられるかもしれませんので,それまでお待ちください。
 合倫理的な側面化してナドラーがスピノザの思想を考察するとき,そこには著しい特徴が含まれています。それは合倫理的であるということが,合理的であるということ,この場合の合理的であるというのは理性ratioに従うことという意味ですが,そのような意味で合理的であるということが,合倫理的であるということと等置されていることです。僕はスピノザの思想における合倫理性というのは,きわめて広くも考えられるし逆にきわめて狭く考えることもできるという見解で,ナドラーのように合倫理性を合理性と等置してしまうことには懐疑的です。ただしこのことについては後で僕の見解を詳しく説明しましょう。現状の残された時間を考慮すれば,その詳しい検討というのが,『哲学者スピノザの叡智』巡るを僕の論考のすべてになります。スピノザは第四部定義八で徳virtutemと力potentiam,いい換えれば徳と能動actioを等置していて,徳に倫理的な意味を見出せば,能動は倫理的であり,よって受動passioは非倫理的であるということになるでしょう。そして理性は精神の能動actio Mentisなので,ナドラーの等置も誤っているわけではありません。
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大成建設杯清麗戦&哲学者スピノザの叡智

2025-08-08 15:06:50 | 将棋
 箱根で指された昨日の第7期清麗戦五番勝負第三局。
 渡部愛女流三段の先手で福間香奈清麗のごきげん中飛車。9筋の突き合いが入りましたが①-Aに進み,4筋で銀が向かい合いました。先手の銀冠に後手の木村美濃で持久戦に。後手がうまく捌いたので,有利に進めていたものと思われます。
                        
 ここで先手は☗3一飛と打ったのですが☖5八銀から攻め合われて一気に敗勢となりました。
 攻め合う判断は悪くなかったのですが,☗3二飛と金銀両取りに打つべきでした。これには☖4二金と飛車に当てて受ける手が目につきますが,これは☗3九歩と打ってから☖3一飛成とすれば先手も戦えそうです。棋譜コメントにあるように☖4二銀打と受けてくれるのであれば,☗3九歩は打てなくなって飛車も捕獲されそうですが,☖5八銀が打てなくなるので,先手がそれなりに戦えたのではないでしょうか。
 3連勝で福間清麗が防衛。第1期,2期,4期,5期,6期に続く四連覇で6期目の清麗です。

 それでは『哲学者スピノザの叡智Think Least of Death』について紹介します。
 すでに紹介したように著者は『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』を書いたスティーヴン・ナドラーSteven Nadlerです。2020年にイギリスで出版されたもの。日本語訳は2023年1月にニュートンプレスから発刊されました。訳者は翻訳を本業としている藍浜かおりで,教育学の専門学者である上野正道が監訳者として名を連ねています。
 「いかに生き,いかに死ぬべきか」という副題が付されていますが,原題はそちらに近いです。つまり原題にはスピノザの名前がないのであって,それはナドラーが,スピノザの哲学の研究書というより,人生の指南書としての実用書的な意味合いを重視しているからだと思われます。ただこの本は,そのような実用書としてはそれほど成功していないと僕はみます。というのもその内容を十全に理解するためには,少なくともスピノザの思想に関する基礎的な理解が必要とされているように思えるからです。なので,もしその理解が不足していたり欠如している人がこの本を読めば,実用書として役に立たないというより,その内容を正確に理解するのが困難でしょう。したがって少なくとも,入門書に示されている程度のスピノザの哲学に対する理解をもった上で読むべきです。ただし,形而上学的部分の理解はさほど必要とされませんので,その点の知識は不要です。
 次に,この本はやや読みにくい部分を含んでいます。ナドラーは自身の見解,すなわちスピノザの哲学の解釈を敷衍していくだけでなく,それを他の学者の見解と比較検討していきます。これは学者として真摯な姿勢というべきなのですが,あまりに頻繁にそれが繰り返されるので,ナドラーの主張の主眼がどこにあるのか,かえって理解しにくくなっています。ナドラーが参照する学者の見解は,ナドラーに同調するものもあればナドラーに反対するものも含まれていますので,場合によってはナドラー自身が部分的に不条理なことをいっていると誤解しかねません。そのように誤解しないために,読み進めていく上での慎重さが求められているといえます。訳文自体は『ある哲学者の人生』とは異なり,理解しにくくはありません。
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お~いお茶杯王位戦&抜歯

2025-08-01 11:40:32 | 将棋
 7月29日と30日に新千歳空港で指された第66期王位戦七番勝負第三局。
 永瀬拓矢九段の先手で初手は☗7六歩。後手の藤井聡太王位が☖3四歩と指し,先手の矢倉に後手の雁木という戦型になりました。
                       
 先手はここで☗5四歩と突きました。☖同銀に☗2四歩☖同歩と突き捨てて狙いの☗4六角。後手は☖6二金と桂馬を受けました。先手は手筋の☗2二歩を放ち☖同金と形を乱して☗5五銀とぶつけました。後手は交換には応じず☖4五銀。
                       
 こう進んで後手には☖3二王があるのに対し,先手は☗8七銀と立て直す余裕がなく,後手の有利がはっきりしました。先手の攻めは気持ちのよい手順ではあったのですが,上図の局面では性急すぎたようです。
 藤井王位が勝って3連勝。第四局は19日と20日に指される予定です。

 診察室から出てきた妹は平然としていました。知っていなければ歯を抜いたとは分からないくらいの様子でした。この日の夕食もいつも通りに食べることができました。なお,抜歯はしましたが,ほかにも治療しなければならない歯があるとのことでしたので,次の予約も入れています。
 抜歯しましたので,薬は処方されました。この日のうちに飲ませなければならないものでしたから,薬局に寄って帰りました。歯科保健医療センターからだと,妹がいつも利用している薬局がある根岸駅を経由して帰ると遠回りになります。ただいつもと違う薬局を利用するのは嫌だったので,根岸駅を経由して帰っています。横浜市役所前からは根岸駅に向かうバスも出ていますので,根岸駅を経由すること自体はそれほど大変なことではありません。
 処方された薬は2種類です。ひとつはカロナールで,これは痛み止めです。なのでもしも痛みを訴えなければ飲ませなくてよいと言われていました。妹は痛みを訴えませんでしたから,カロナールは処方してもらうことはしましたが,飲ませていません。この薬は妹の発熱に対してとても効果的な薬で,妹が新型コロナウイルスのワクチンを受ける際にも処方してもらったものです。なので処方されて使わなかったとしても,妹が熱を出したときには使うことができるので,常備薬として役立ちます。
 もうひとつはフロモックス錠というもので,これは細菌の感染の治療薬です。こちらは飲ませる必要がありましたので妹も服用しました。実際に細菌に感染したのかどうかは分かりませんが,抜歯したときにはこの種の薬は服用する必要があるということでしょう。
 8月1日,木曜日。妹を通所施設に送りました。これは通所施設に事前に伝達していた通りです。ただ前日が抜歯でしたから,場合によっては行かれないかもしれないとも伝えてあったのですが,妹は抜歯後もいつも通りでしたから,事前の予定通りに送ることができました。6月18日の朝に送ったときに,通所施設に朝のうちに送ったのはそれが最後といいましたが,あれは勘違いで,この日が最後です。
 8月2日,金曜日。総講がありましたのでお寺に行きました。
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竜王戦&2024年6月の通院

2025-07-27 11:52:58 | 将棋
 25日に指された第38期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は佐々木勇気八段が1勝,石田直裕六段が0勝。
 振駒で石田六段の先手となり相掛り。中盤で駒損が確定した後手の佐々木八段が猛攻に出る将棋になりました。
                       
 後手が7筋の歩を取り込んだ局面。数の攻めは受からないので先手は飛車先を連打するほかありません。よって☗7二歩。
 後手も飛車先が止まっては攻めが続かないのでここは☖7七歩成と踏み込む一手。☗7一歩成☖7八とまでは必然の応酬。
 ここで先手は☗6一飛☖4二王☗6四飛成と攻め合いにいきました。
                       
 ところがこの局面は後手玉に詰めろをかけるのがやや難しくなっていて☖6八と以下,駒を取りながら攻めを継続した後手が勝っています。☗6一飛から攻め合ったのが敗着で,☗4六角と逃げておいたらまだ難しかったようです。
 佐々木八段が先勝。第二局は来月7日に指される予定です。

 6月24日,月曜日。内分泌科の通院の日でした。
 病院に到着したのは午後2時でした。中央検査室では4人の患者が採血を待っていました。なので採尿をし,注射針の処理もしてから採血をしました。
 この日は診察の開始が午後4時と遅くなりました。HbA1cは7.1%と5月からは低下していました。その分,低血糖が増加していて,全体の3.5%を占めていました。ただ,低血糖がみられたのはいずれも朝食前でした。この傾向は僕にも分かっていて,とくに睡眠前の血糖値が正常値だと,翌朝は低血糖になりやすくなっていたのです。そしてその傾向がありましたから,僕は睡眠前の血糖値が正常値であったときは,ブドウ糖を摂取して,血糖値を高めてから眠るという工夫を加えていました。この工夫をするようになってからは,低血糖は出にくくなっていました。たぶんこの処置をしていなかったら,HbA1cはさらに下がり,低血糖の割合ももっと増えていたであろうと思われます。傾向が出始めてからこのような対策を取るようにして,この時点ではその対策の効果が出ているということを主治医に説明したところ,それなら注射の量を減らす必要はないとのことでしたので,それまでと同じ処置を継続することになりました。
 この日はこれ以外には異常は出ていませんでした。異常がなかったのは4月以来です。ただし,採尿の混濁というのが2+となっていました。これは通例では-と出るもので,それ以外の結果が出たのは2020年11月に1+というのがあって以来のことです。ただしこのことについて何かを主治医から指摘されたということはありません。
 診察の終了後に,血糖値の測定用のキットを主治医から受け取るのですが,この日は測定用の注射針の在庫が診察室になかったため,受付の前で少し待機しなければなりませんでした。僕がそうであったように入院中の糖尿病患者がいますから,院内に在庫がないということはありません。受け取ることはできました。
 薬局にはインスリンも注射針も処方された分がありました。診察の開始時刻が遅くなった上に,診察後に少し待ったこともあり,帰宅したのは午後5時45分になりました。
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大成建設杯清麗戦&御講室

2025-07-24 11:53:22 | 将棋
 博多で指された昨日の第7期清麗戦五番勝負第二局。
 福間香奈清麗の先手で5筋位取り中飛車。渡部愛女流四段は持久戦にしましたが,駒組のあたりは苦心していた感じがします。
                       
 飛車金両取りがかかった局面。僕には先手が随分とよさそうに思えたのですが,実際はそうでもなかったようです。ただ実戦は☖4二飛と逃げたために☗6三銀成☖3五銀のときに☗2三飛成と切る手が厳しく,先手の勝勢になりました。
 ここは☖4四飛と,6四の銀にひもをつけて逃げるのがよかったとのこと。これにも☗6三銀成の一手。そこで☖3五銀は☗4五金と打って先手の優勢ですが,☖3五角と打っておけば☗4五金☖2六角☗4四金のときに☖同角と取り返せます。先手からは☗4二飛も☗6四成銀もあるのですが,どちらも意外と簡単ではありません。なのでこの図はまだ難しい局面だったということになりそうです。
 福間清麗が連勝。第三局は来月7日に指される予定です。

 この日は点眼薬が変更になりました。ただこれは,ヒアルロン酸から別の薬になったということではなく,容器が変更になっただけです。これまでは,大きな容器に入っていたものを,点眼するたびに使用していたのですが,このときに処方されたのは,ごく小さな容器に1回分が小分けにされていた,使い切りのタイプでした。診察が早くに終わりましたので,その目薬を薬局で処方してもらった後で帰宅し,昼食を済ませてから妹を通所施設に送りました。通所施設の昼食は給食で,事前に食べるか食べないかを決定しておく必要があります。間に合わなければ食べられませんから,僕はこういう場合は必ずキャンセルしておきます。なのでどこかで昼食を済ませてから通所施設に送る必要があるのです。
 5月31日,金曜日。29日に歯科で紹介状を受け取っていましたので,この日に紹介先に予約を入れるための電話をしました。これは横浜市歯科医療センターというところで,ここで横浜市内の障害者の歯科の治療を一手に担っています。僕が電話をしたときにはすぐに予約を入れられなかったのですが,この日のうちに先方から折り返しの電話があり,無事に予約を入れることができました。
 6月1日,土曜日。総講でお寺に行きました。お寺の月始めの総講は2日と決まっているのですが,この月は2日に別の予定が入っていたため,1日に行われたものです。
 6月13日,木曜日。この日も総講でお寺に行きました。
 6月15日,土曜日。この日は御講でまたお寺に行きました。御講は午前11時の開始で,僕もそのつもりで行ったのですが,なぜかこの日に限って午前10時半に開始されていたため,僕は途中からの出席になりました。なぜ変更になっていたのかは僕には分かりません。
 お寺の2階に会堂があるのですが,会堂の入口の前のエレベーターの左側に,御講室という部屋があります。新型コロナウイルスが流行するようになってからは,密を避けるために御講はずっと本堂で行われてきました。それがこの日からは御講室で行われるようになりました。この部屋は本堂と比べたらずっと狭い部屋で,たぶん15畳程度ではないかと思います。
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お~いお茶杯王位戦&高圧洗浄

2025-07-20 11:30:35 | 将棋
 15日と16日に有馬温泉で指された第66期王位戦七番勝負第二局。
 藤井聡太王位の先手で角換わり相腰掛銀。後手の永瀬拓矢九段が先手に角を打たせ,その角を取りにいくという展開で進みました。この将棋は中盤の先手の指し手が見事だったと思います。
                       
 後手が銀取りに歩を打った局面。ここで先手は☗5五桂とただのところに打ちました。
 これは☖4六歩と銀を取ると,☗4三歩成や☗6三桂成があり,どちらも後手が苦しいようです。かといって☖5五同歩と取るのは☗同銀右で銀が生還。これも歩切れが痛く先手が有利。ということで☖4四飛と歩を取りました。
 ☗6三桂成☖同角で先手が駒得に。これは☗7三銀成☖同金で相殺されるのですが,そこで今度は☗5五銀右と,当たりになっている銀をただのところに出ました。
                       
 これで先手の攻めが繋がっていて,やや指しやすいようです。後手は先手が正しく応じるのが難しい局面にはもっていくことができたのですが,そこで先手に正しく応じられてしまったという将棋でした。この将棋は最後も先手玉が打ち歩詰めで逃れるという終局で,今年度の名局賞の候補になるのではないでしょうか。
 藤井王位が連勝。第三局は29日と30日に指される予定です。

 この年の1月に,下水管の傾きを調整し,新しい下水管に交換する工事を行ったばかりでした。そのときに,僕の家の下水管の配置はどのようになっているのかは説明しましたし,桝がどこにあるのかも説明しましたから,ここではその説明は繰り返しません。このときに汚物が溜っていたのは,1階のトイレの桝で,その次の風呂と2階のトイレの桝にも多少の汚れはありましたが,こちらはさほど問題はありませんでした。したがって,最初の桝から2番目の桝までの間の下水管が目詰まりしていて,2番目の桝まで辿り着いたものはそのほとんどが流れている,つまりその先の下水管には目詰まりはないように思えました。試しに水を流してみましたが,確かにそのようでした。ただ目詰まりしていた下水管の中をすべて洗浄することは僕にはできませんでしたので,業者に依頼するほかありませんでした。
 施工業者の担当者がこの日のうちにやってきました。ただこの業者は配管工事などをする業者であり,水回りのトラブルを専門的に解決する業者ではありません。このために自前の高圧洗浄機がないため,それをリースしなければなりませんから,この日のうちはもちろん,翌日にも洗浄を実行するのは難しいとのことでした。桝から汚物がすぐに溢れてしまうような状況ではありませんでしたが,僕は早めに手をつけたいと思いましたので,この業者に依頼することは断念し,2023年の2月に下水管を高圧洗浄してもらった水道業者に連絡し,洗浄を依頼しました。
 5月19日,日曜日。13日に連絡があった御講の日でした。御講は大抵は午前11時に開始となるのですが,この日は午後1時半からでした。午前中に別の予定があった場合,午後1時半になる場合もあるのです。僕が帰宅したのは午後3時40分で,午後4時半に前日に連絡した水道業者が来て,下水管の高圧洗浄と枡の清掃をしてもらいました。前日の電話ではもっと早い時間の予約も取れましたが,御講がありましたので,その前に始めて,思ったよりも時間が掛かって間に合わなくなってしまうということを避けるために,帰宅した後の時間を予約しておいたものです。1時間半弱で終了しました。
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大成建設杯清麗戦&結果の外在性

2025-07-11 12:37:24 | 将棋
 四谷で指された昨日の第7期清麗戦五番勝負第一局。対戦成績は福間香奈清麗が11勝,渡部愛女流四段が6勝。
 大成建設の専務による振駒で渡部女流四段の先手。この将棋は後手の福間清麗が阪田流向飛車を志向するような手順で始まりましたが,先手がそれを拒否。後手の角道オープン四間飛車のような戦型になりました。先手は中住いにした後で下段に引いた飛車を8筋に回り,後手の玉頭から攻めていく将棋に。おそらく中盤の戦いで差がついたのではないかと思われます。
                       
 ここで☗8五桂と跳ねました。これはこの局面では最も自然な手に思えます。しかし☖4五龍☗9六香☖9五歩☗7三桂成☖同桂☗9五香☖同銀☗6四歩☖同銀と進んでみると,先手は攻め続けるためには☗同角と取らざるを得ず,☗8三銀こそあるものの後手に受け止められてしまいました。
 よってここでは少しひねった手順が必要だったようです。実戦の手順から想定すると,ここですぐに☗9六香と取り,☖9五歩☗6四歩☖同銀と進め,☗6五歩と打っていくのが考えられる手順。これは☖同銀だと☗8五桂があるのでおそらく☖同桂ですが,そこで☗9五香ならば,後で☗8五桂と☗6五桂のよい方を選べる分,まだ攻めが続いたように思います。
 福間清麗が先勝。第二局は23日に指される予定です。

 このようにして,吉田がいう動機の外在性という観点からみた限り,自殺も自然死や事故死といったほかの死と同様に,人間が十全な原因causa adaequataとなって迎える死ではないということが分かります。もちろん自殺と病死を比較すれば,死ぬ人間にとっての部分的原因causa partialisとしての割合は自殺の方が大きくなることはあるかもしれないことは僕は認めます。しかしもし第四部定理三に示されているような事象が現実的に存在する人間に生じないのであれば,その人間が自殺するということはないのであって,この事象が生じるがゆえに人間は死ぬという点では,自殺であろうとそれ以外の死であろうと同様なのです。このことは,同じような苦しみを抱えていても,ある人間は自殺するけれどもほかの人間は自殺しない場合もあるということからも明らかですし,苦しみを抱えながらも生き抜いてきた人間が,不意に自殺してしまうということがあるということからも明らかだといえます。なぜそのようなことが生じるのかということは,ここでは詳しく説明することはしませんが,これについては第三部定理五一を参照してください。
 前もっていっておいたように,この動機の外在性については,僕には吉田の論文を読む前から,もっと極端にいえばスピノザの哲学を詳しく研究するようになる前から,分かっていたことでした。しかしもうひとつの視点は,僕にとっては新鮮なものでした。吉田はこれを,動機の外在性に対比して,結果effectusの外在性といっていますので,これについても吉田に倣い,ここでは結果の外在性ということにします。
 このいい方から何となく類推できると思いますが,これは結果としての自殺そのものが,その人間の本性natura humanaだけでなく,外部の原因causaと関わっているということを意味します。他面からいうと,現実的に存在する人間が自殺することを意志して,それを遂行するとき,たとえその意志voluntasを人間の自由意志voluntas libera,つまりその当人の本性のみによって説明することができる意志であると仮定するとしても,その自殺が遂行されるとは限らないということです。つまり人間は自殺を決行しようと何らかの行動をとれば,それによって確実に死ぬとは限らないということです。
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伊藤園お~いお茶杯王位戦&動機の外在性

2025-07-07 10:21:46 | 将棋
 一昨日と昨日,小牧市で指された第66期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王位が26勝,永瀬拓矢九段が9勝。
 振駒で永瀬九段の先手となり,角換わり相早繰り銀。この将棋は中盤の早い段階で千日手となりました。先手としてはつまらない気もしますが,第一局は先手後手が決まっていませんから,後手での研究の方が厚ければ,それもある選択だとは思います。
 藤井王位が先手となった指し直し局は角換わり相腰掛銀。これは猛烈に難しい終盤戦になりました。
                       
 ここで☖2五歩と取ったのですがこれが失着。☗同桂に☖2四銀と逃げるつもりだったのですが,☗3五金という必殺手があってそれは後手の負けです。
 ここでの正着は☖4三金右または☖4三金直で,これは寄せ合いに進めば後手の勝ち。先手が受けに回っても後手に分がある戦いでした。
 実戦の☗2五同桂の局面でも,☖6九銀の犠打を放って☗同飛に☖4三金右または☖4三金直なら,はっきり先手が勝ちとはいえない局面だったようです。ただそう指すならこの図で☖4三金右か☖4三金直と指しておけばよいということになりますから,☖6九銀を後手が発見できなかったのは致し方ないように思えます。なので☖2五歩が直接的な敗着となったという結論でよいでしょう。
 藤井王位が先勝。第二局は藤井王位の先手で15日と16日に指される予定です。

 このようなスピノザの規定に対しては,次のような疑問が寄せられることになります。それは,現実的に存在する人間は自殺をすることがあるというものです。現実的に存在する人間が自ら自身の死を選ぶとき,なぜその人間が十全な原因causa adaequataとはいわれずに,部分的原因causa partialisとみなされなければならないのでしょうか。ここで考察したいのは,この疑問に対してスピノザの哲学はどう解答するかということです。これに対して吉田はふたつの解答を与えています。このうちひとつは僕にも分かっていた解答で,もうひとつは僕には新鮮に感じられる解答でした。このふたつの解答を順にみていきます。
 最初の解答,これは僕にも分かっていた解答ですが,これを吉田は動機の外在性と表現していますので,ここでもそれに倣って,動機の外在性ということにします。この動機の外在性というのは,現実的に存在する人間が自らの死を選択するとき,それを選択する動機はその人間の内部からのみ与えられるのではなく,必ず外部からも与えられているというものです。もし現実的に存在する人間が自らの死を選択するとき,それを選択する動機がその選択をする人間の内部にのみあるとすれば,その自殺に対してその人間は十全な原因であるといえるでしょう。しかしその動機が外部からも与えられているならば,自殺をする当人はその自殺に対して十全な原因であるとはいわれずに,部分的原因であるといわれなければなりません。このことは第三部定義一から明白であるといえます。しかるに現実的に存在する人間が自殺するときには,必ずその自殺の動機が外部から与えられるのだとすれば,自殺に対して自殺する人間は十全な原因ではあり得ず,部分的原因であるといわなければなりません。
 そもそも自殺には動機があるとみなされているのであって,このこと自体が自殺は人間にとって十全な原因ではないことを前提しているのです。自殺の動機というのは何らかの苦しみによるものであって,苦しみというのは人間の内部から与えられるこのではなく,外部から与えられるからです。なので,ある人間の本性natura humanaを研究するだけではその人間が自殺する原因を見出すことはできません。
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王座戦&無視の理由

2025-07-04 11:33:43 | 将棋
 昨日の第73期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は伊藤匠叡王が0勝,羽生善治九段が1勝。
 振駒で羽生九段の先手となって角換わり相腰掛銀。猛スピードで進んで早い時間帯に終盤戦になりました。
                       
 この将棋はここで☗4四桂と打って攻め合いにいったのですが,後手玉が詰まない変化があり,一気に後手の勝ちになりました。
 この局面は攻めるのであれば☗6二銀不成がよかったのですが,これは後手からの猛攻を受け切らなければならない上に持将棋も含みに残って先手が勝つのは大変です。なのでひとまず☗7六玉と受けておくのがよかったようです。これだと先手玉が一時的に安全になるため,持将棋の含みがまだ残るのですが,先手も戦えたようです。
 伊藤叡王が勝って挑戦者に。王座戦五番勝負は初出場。第一局は9月4日に指される予定です。

 ここまでのことを一般的にまとめると,次のようになります。
 現実的に存在する人間の身体humanum corpusが,外部の物体corpusによって刺激を受けるafficiと,その人間の精神mens humanaのうちには諸々の観念ideaが生じます。そのうちスピノザが知覚perceptioないしは感覚sensusとみなす諸々の表象像imaginesは混乱した観念idea inadaequataで,それは論証Demonstratioには役に立ちません。しかしそれ以外に共通概念notiones communesがあって,これは十全な観念idea adaequataですから,論証にも役立つのです。
 このことをデカルトRené Descartesの哲学に寄せて解すれば,スピノザはデカルトが知覚あるいは感覚といっている諸々の観念の中から,共通概念を選り分けたとみることができます。ただデカルトは共通概念というのを哲学に利用していませんから,そのことを『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の中で利用するわけにはいきません。とくにスピノザにとって問題であったのは,なぜ感覚や知覚が混乱した観念であるのかということ,つまりスピノザが第二部定理一六系でいっていることがデカルトの哲学のうちに欠けていたことだったと僕には思えます。それがデカルトの哲学に欠けていたから,知覚や感覚はそのすべてが論証には役に立たたないという自身の考え方を『デカルトの哲学原理』の中では通すほかなかったのではないでしょうか。
 このために『デカルトの哲学原理』を,『哲学原理Principia philosophiae』や『省察Meditationes de prima philosophia』と比べたときに,デカルトがある場合には論証に有用であるとしている感覚や知覚を,スピノザは論証には無益だとしてその一切を無視しているという,村上が指摘しているような特徴がより際立つことになっているという一面があるのだろうと僕は思います。スピノザはデカルトが感覚や知覚といっている,人間の身体が外部の物体から刺激されるafficiことによってその人間の精神のうちに発生する観念について,そのすべてが論証のために効果的ではないといっているのではありません。ただデカルトの哲学を規準にすると,その中から論証にも有効な観念を選り分ける術がなかったので,感覚や知覚についてはそのすべてを無視せざるを得なかったのだと思います。そして間違いなくスピノザは,『デカルトの哲学原理』を講義しまた著述しているときには,共通概念の有効性に気付いていたと思います。
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ヒューリック杯棋聖戦&デカルトの動機

2025-07-02 10:43:44 | 将棋
 6月30日に木更津で指された第96期棋聖戦五番勝負第三局。
 杉本和陽六段の先手で5筋位取り中飛車。中盤で千日手模様となりましたが,後手から回避して攻めていきましたので,藤井聡太棋聖は局面にある程度の自信を持っていたのではないかと思います。ただ終盤で一波乱ありました。
                        
 後手が歩を突いて寄せを目指した局面。これは☖3六歩と取り込んでから☖3五桂と打つのを目指した手。実戦はここから☗5七金☖3六歩☗5六金と駒を取りにいくことを目指したので☖3五桂が実現して後手が勝ちました。
 ただこの手は実際は瞬間的に角筋を止めてしまうため危険でした。というのはここでは☗4五歩と突く手が成立しているからです。もしも後手が当初の目的を果たすために☖3六歩と取り込むと☗2四角☖同歩☗3一角と進みます。これは詰めろなので☖2三玉と逃げるのですが,そこで☗4四歩と取り込み☖3六桂に☗4三歩成の局面は先手玉が詰まないため,先手に分がありました。
                       
 3連勝で藤井棋聖が防衛第91期,92期,93期,94期,95期に続く六連覇で6期目の棋聖です。

 ふたつの事柄の順序がどうであったのかは僕には確定できません。ただ,スピノザが論証Demonstratioに対して感覚sensusや知覚perceptioが役には立たないとみることについては,人間の身体humanum corpusが物体corpusの一部であるということと関連させるよりも,以下の手順で確認する方がよいと僕は思います。
 スピノザにとって感覚とか知覚というのは,そうした刺激を受けるafficiのが物体であろうと自分の身体であろうと,第一種の認識cognitio primi generisに属します。第二部定理四一でいわれているように,第一種の認識というのは虚偽falsitasあるいは誤謬errorの唯一の原因causaです。そして第二部定理四〇の4つの意味のうちには,混乱した観念idea inadaequataを原因とすれば混乱した観念が結果effectusとして発生するということが含まれます。したがって第一種の認識に従って論証を進めていくと,虚偽ないしは誤謬だけが抽出されるのです。このゆえに第一種の認識は論証に役立ちません。
 何を第一種の認識とみなすかということを別とすれば,虚偽からは虚偽だけが抽出されるので,それは論証に無益であるということ自体は,デカルトRené Descartesも是認すると考えられます。デカルトが自身の哲学を方法論的懐疑doute méthodiqueから開始する理由は,そこにあったとしか考えられないからです。なので,論証に有効なのは真理veritasだけであるということはデカルトも認めているのであって,スピノザもまたその路線を引き継いでいるのです。スピノザはすべての事柄についてそれを疑ってみるというような方法methodusは,真理の獲得のためには不要であるとしていますが,だからといってデカルトが方法論的懐疑から哲学を開始したその動機まで否定しているというわけではないのです。
 第一種の認識だけが虚偽および誤謬の原因なのですから,第二種の認識cognitio secundi generisおよび第三種の認識cognitio tertii generisは虚偽および誤謬の原因ではありません。なのでそれは論証のために有効であることになります。このことは第二部定理四〇から明白だといえるでしょう。このうち第二種の認識は理性ratioによる認識なのであって,その基礎は共通概念notiones communesによって形成されます。ところでこの共通概念というのは,第二部定理三八第二部定理三九でいわれているように,すべてのものあるいはいくつかのものに共通でありかつ特有であるものの観念です。
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女流王位戦&『デカルトの哲学原理』第一部定理二一

2025-06-27 12:04:21 | 将棋
 25日に指された第36期女流王位戦五番勝負第五局。
 振駒で福間香奈女流王位の先手となって中飛車。後手の伊藤沙恵女流四段が向飛車にしての相振飛車となりましたが,先手は2筋に飛車を戻りました。この将棋はたぶん先手の作戦勝ちで,中盤からはリードしていたのではないかと思います。
                       
 すでに先手がよいかと思いますが,ここから☖6七歩☗同金☖4八角成☗6四歩と進み,先手の優勢がはっきりしました。
 ここでは☖8五香と銀を取ってしまうのがよかったようです。これには☗6七香と打つ手があり,実戦はそれを避けるための☖6七歩だったのですが,☖3三角と引いておけば先手はすぐに☗6三香成とはできず,一旦は☗5五歩と受けに回ります。それなら☖6四歩と打てますから,これはまだ難しいです。なので先手は☗6四歩☖同金としてから☗6七香と打つ方がよいのですが,これも☖3三角☗6四香に☖6三歩と打っておけば,そこまで簡単ではありませんでした。
 福間女流王位が3勝2敗で防衛第23期,26期,27期,28期,30期,31期,32期,33期,34期,35期に続き七連覇で11期目の女流王位です。

 村上は一例として『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理二一を示していますので,ここではそれに沿って考えます。ただしその前に,以下の点に留意してください。
 『デカルトの哲学原理』は,スピノザがカセアリウスJohannes Caseariusに講義したノートが基になっています。ただしスピノザが講義したのは『哲学原理Principia philosophiae』の第二部と第三部の一部であって,第一部は講義していません。出版する際に第一部もあった方がよいというマイエルLodewijk Meyerの提言があったので,第一部は講義と無関係に書き下ろされました。なので『デカルトの哲学原理』のうち,最も遅く書かれたのがこの部分であることになります。また,『デカルトの哲学原理』は文字通りにデカルトRené Descartesの『哲学原理』の解説書,とくにデカルトが分析的方法で著述したものを綜合的方法に書き改めたものですが,この第一部に関しては,『哲学原理』よりも『省察Meditationes de prima philosophia』の方が多く利用されています。ですからこの部分は総合的にみて,最もスピノザの考え方,デカルトとは異なったスピノザの考え方が入り込みやすくなっていて,かつその対象が『哲学原理』におけるデカルトの考え方に対してというよりも,もっと広くデカルトの哲学の全体に対してというようになっています。
 この定理Propositioというのは,「長さ,広さ,深さを持つ延長的な実体が実際に存在する。そして我々はその一部分と結合している」というもので,これは『省察』にも『哲学原理』にもみられる考え方です。そしてこの定理が『デカルトの哲学原理』の第一部の最後の定理となりますから,この定理を証明しようとすれば第一部を遡っていかなければなりません。それをすればとても長くなりますし,そもそも現状の考察にとっては不要でもありますからそれはしません。留意しておかなければならないのは,スピノザがこの定理の証明Demonstratioを終えた後,すなわち第一部の最後に,短い注意,たぶんこの定理だけに妥当するのではない注意を記述している点です。
 その中でスピノザはふたつのことを要請しています。ひとつは,身体corpusを離れた思惟する者としてこれを理解することです。もうひとつは,身体が存在するということを信じていた理由を先入見として退けることです。
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ヒューリック杯棋聖戦&身体の発見

2025-06-21 11:23:33 | 将棋
 18日に淡路島で指された第96期棋聖戦五番勝負第二局。
 藤井聡太棋聖の先手。序盤から双方に駆け引きがあり,後手の杉本和陽六段のノーマル四間飛車で後手が3筋から先行する将棋になりました。この将棋は先手の作戦が秀逸で,中盤早々に有利になりそのまま押し切っています。
                       
 ここまで前例がある将棋。先手が☗6八銀と上がったのが新手です。ここから☖4二飛☗5七銀☖4四銀。後手が4筋からの突破を目指したので一旦は銀の進出を阻むために☗3六歩。後手が☖1四歩と突いて角の引き場所を作ったところで☗8六銀と引きました。
                       
 これで棒銀の要領で☗9五歩からの攻めが後手は防げず,早くも先手が一本取っています。この将棋は早めに9筋の突き合いがあったためにこのようになっています。後手に対応策が求められることになるでしょう。
 藤井棋聖が連勝。第三局は30日に指される予定です。

 ここでは,すべてのものが精神mensを有し,その精神という観念の対象ideatumが身体corpusといわれる意味で,すべてのものが身体を有するということについてはとくに気をつけなくても大丈夫です。ただ,デカルトRené Descartesがいうにせよスピノザがいうにせよ,身体ということに,とくに物体corpusと異なった意味での身体であるとか,物体の一部としての身体というようなことが含意されているわけではないという点には留意してください。このことはたぶんここで村上が主張していることと関係を有すると思われるからです。
 デカルトの思想について詳述することはこのブログの役割を大きく超越していますので,このことについては村上の論述に照合して簡単に紹介するにとどめます。今回の考察に大きく関係するのは,デカルトが,僕たちの精神にはある特定の物体が他の残りの諸物体よりもいっそう顕密に結合されているのであって,それが人間の身体humanum corpusといわれ,かつこの人間の身体が他の諸物体に先んじて発見され,そのことから僕たちは一般的に物体なるものを知覚するpercipereようになるといっている点です。これはいってみれば,デカルトの思想における人間の身体というのは,もっぱら現実的に存在する各人が知覚する自分の身体というのを意味するのであって,かつそれが,自分の身体以外のすべての物体から独立して,あるいはそれとは区切られて発見されるということです。しかし村上によれば,スピノザは基本的にこの考え方については共有しません。物体の一部という規定についてはスピノザはデカルトの考え方を共有するのですが,身体の区切りについては共有しないのです。スピノザにとって人間の身体というのは,物体の一部として見出されることになるのであって,ほかの物体と区切られて見出されるわけではないのです。
 村上はこのことを,スピノザが『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』においてどのように記述しているのかということから詳しく論じています。そこにはデカルトの考え方に依拠しつつも,一部においてデカルトの考え方を共有できないスピノザの観点が含まれているというのです。ただしこのことについてはここでは考察の対象とはしません。村上の論文をお読みください。
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叡王戦&人間の身体

2025-06-20 10:28:18 | 将棋
 14日に柏の葉カンファレンスセンターで指された第10期叡王戦五番勝負第五局。
 振駒で斎藤慎太郎八段の先手となり相掛り。後手の伊藤匠叡王が飛車を切ったのを機に,形勢が揺れ動く将棋になりました。
                       
 実戦はここで☗4一龍と寄りました。これにより☖2五桂☗4四龍と進んだときに☖6四香と打つ手が攻防の好手となり後手の勝ち筋に入りました。
 ここでは☗7五飛と飛車を逃げつつ攻めにも使うのが優りました。これには☖8一歩と龍の利きを止められてしまうのですが,☗5二金☖同王☗7二飛成ともう一枚の龍を作って先手も十分以上に戦えました。
 3勝2敗で伊藤叡王が防衛第9期からの連覇で2期目の叡王です。

 久保の論文に関する考察はこれで終了です。続いて続いて村上勝三の「『哲学原理』から『デカルトの哲学原理』へ」の中から,ひとつの部分を探求します。なお,村上の論文の題名は『哲学原理Principia philosophiae』ではなく『哲学の原理』と,また『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』ではなく『デカルトの哲学の原理』となっていますが,ここではこのブログに合わせる形で論文名を改題させてもらいました。
 ここで探究したいのは,人間の身体humanum corpusの位置づけが,デカルトRené Descartesの哲学とスピノザの哲学では異なっているということです。そこで村上の論文とは関係ないのですが,前もってひとつだけ留意しておいてほしい点を示しておきます。これは以前にもいったことがあることですし,スピノザの哲学で人間の身体について言及されるときは常に注意しておかなければならないことなのですが,ここではデカルトの哲学との関連で探求しますので,改めていっておきたいのです。というのも,人間の身体といういい方自体はスピノザもするのですが,むしろ好んでこのいい方をするのはデカルトの方であるからです。
 スピノザがいうにせよデカルトがいうにせよ,人間の身体といわれるときの身体に,日本語でいわれるような意味があると解さない方がよいと僕は考えています。というのはこの人間の身体というのは,直接的に訳せば人間的物体というほどの意味であって,日本語ではそのようにはいわないので人間の身体と訳されているという面があるからです。したがって,身体というのは物体の一種であって,身体以外の物体と直接的にことばの意味で繋がっているわけではありません。しかしラテン語では人間の身体というときの身体が,身体以外の物体と地続きになっているのです。
 スピノザの哲学との関連では僕はこれを,人間的物体といわれているようにたとえば三角形的物体ということができるのであって,それが三角形の身体を意味するというように説明します。というのも第二部定理一三備考でスピノザはすべてのものに精神があるといっているので,それと合一している観念対象ideatumについては身体というのが分かりやすいからです。つまりすべてのものに精神があるように,身体もあるのです。
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