良心conscientiaと意識conscientiaが同じ意味をもつことに注意すれば,第三部諸感情の定義一七の場合でいえば,希望spesが叶わなかったときに感じる悲しみtristitiaが意識されると,その悲しみが落胆conscientiae morsusといわれるということになります。一般に僕たちが何事かに落胆するというとき,このことだけを落胆というわけではないことは僕は認めます。しかし一方で,希望が打ち砕かれて落胆するというようないい方は,日本語の使い方として自然であるといえるでしょう。少なくともこの感情を,良心の呵責conscientiae morsusと訳するよりは適切だといえます。希望が打ち砕かれて良心の呵責を感じるといういい方も,日本語として成立するということを僕は認めますが,そのいい方を成立させるためには,希望というのをある特殊な希望に限定させなければならないのであって,どんな希望であってもこのいい方が成立するとはいえません。しかしその定義Definitioから明らかなように,この感情affectusはどのような希望であれ,希望が打ち砕かれるということがあったら,あるいは同じことですが,どのような不安metusであれその不安が的中したときには,すべからく成立するのでなければなりません。希望が打ち砕かれて落胆するとか,不安が的中して落胆するといういい方は,その希望がどんな希望であったとしても,またその不安がどんな不安であったとしても成立するいい方ですから,ここは良心の呵責というより落胆といった方がよく,この観点からも僕は畠中の意訳を支持します。いい換えればスピノザが諸感情の定義の中で示している感情のうち,どれかを落胆というのであれば,第三部諸感情の定義一七の感情か,そうでなければ絶望desperatioと訳されている第三部諸感情の定義一五の感情のどちらかなのであって,第三部諸感情の定義二九の感情ではあり得ないと僕は考えます。
『哲学者スピノザの叡智Think Least of Death』で示されている落胆という感情は,明らかに不適切であって,これもまた訳者や監訳者だけの問題に帰することができるかもしれませんが,むしろラテン語が英語に,そして英語が日本語に訳されるという重訳の問題ではないかと思います。本当のことをいえば,こうした不適切な訳が生じないようにする注意を,出版社はもっとしてほしいです。
次に,『哲学者スピノザの叡智Think Least of Death』では,第四部定義八で定義されているものが,徳virtusではなく美徳と訳されています。これはこの定義Definitioにだけ妥当しているわけではなく,『エチカ』の岩波文庫版で徳と訳されている概念notioが,『哲学者スピノザの叡智』では首尾一貫して美徳と訳されているということです。
この訳し方の相違そのものについては,僕は問題視しません。というのは,スピノザの哲学は唯名論を採用しているとみるべきで,そのために概念がことばの上でどのように記号化されるのかということは重要な問題ではありません。第四部定義八についていえば,ある人間が能動的に,あるいは同じことですがある人間が十全な原因causa adaequataとなる限りにおいての人間の本性natura humanaということが観念ideaとして正しく理解されればよいのであって,その限りにおける人間の本性が徳といわれるか美徳といわれるかは関係ないからです。このことはスピノザが定義の要件として,それが知性intellectusによって十全に認識されることに資すればよいとしていることからもいえることだと僕は考えます。
ただ,日本語において徳といわれるのと美徳といわれるのとでは,美徳といわれる方がより倫理的な色彩が強まるのではないかと思います。ナドラーSteven Nadlerは合倫理性を論考の中心としていますから,その意味では徳よりも美徳の方が適切な訳といえるでしょう。もっとも,それはナドラーの論考に合わせたものであって,ナドラーはナドラーでスピノザが徳といっている概念を利用して論考しているのですから,スピノザの哲学において徳という概念が有する倫理性がどのようなものであるのかということをここで考察しておくことは,徒労ではないでしょう。
僕の考えでは,スピノザの思想における徳という概念には,ふたつの特徴があります。ひとつは第四部定義八で定義されているような,能動的である限りにおける人間の本性ということであって,これは第三部諸感情の定義一で,欲望cupiditasが受動的な限りにおける人間の本性といわれていることと対立します。すなわち人間の本性という観点において,徳は欲望の反対概念であるということが,スピノザの哲学における徳の第一の意味であると僕は解します。
ナドラーSteven Nadlerは実用書的な意味をもたせようとしているのですが,この実用的な側面は,合倫理的な側面に一元化することができます。すなわち,どう生きるべきかとかどう死ぬべきかということは,倫理的に生きるためにはどうすればよいのか,また倫理的に死ぬにはどうすればよいのかという意味であると解して問題ありません。
ナドラーが合倫理的な側面に一元化してスピノザの哲学を援用するのは,『エチカ』を文字通りに倫理学と解するからです。『エチカ』が倫理学の書であるということについては,僕は必ずしも肯定しませんが,これはその内容をどのように受容するのかという相違ですから,『哲学者スピノザの叡智Think Least of Death』を考察するにあたっては意味をもちません。もし時間があれば,最後に僕にとっての『エチカ』とは,あるいはもっと広く僕にとってのスピノザの思想とはという観点から書いてみたいと思っています。あくまでも時間が残っていればということではありますが,その機会が与えられるかもしれませんので,それまでお待ちください。
合倫理的な側面化してナドラーがスピノザの思想を考察するとき,そこには著しい特徴が含まれています。それは合倫理的であるということが,合理的であるということ,この場合の合理的であるというのは理性ratioに従うことという意味ですが,そのような意味で合理的であるということが,合倫理的であるということと等置されていることです。僕はスピノザの思想における合倫理性というのは,きわめて広くも考えられるし逆にきわめて狭く考えることもできるという見解で,ナドラーのように合倫理性を合理性と等置してしまうことには懐疑的です。ただしこのことについては後で僕の見解を詳しく説明しましょう。現状の残された時間を考慮すれば,その詳しい検討というのが,『哲学者スピノザの叡智』巡るを僕の論考のすべてになります。スピノザは第四部定義八で徳virtutemと力potentiam,いい換えれば徳と能動actioを等置していて,徳に倫理的な意味を見出せば,能動は倫理的であり,よって受動passioは非倫理的であるということになるでしょう。そして理性は精神の能動actio Mentisなので,ナドラーの等置も誤っているわけではありません。
それでは『哲学者スピノザの叡智Think Least of Death』について紹介します。
すでに紹介したように著者は『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』を書いたスティーヴン・ナドラーSteven Nadlerです。2020年にイギリスで出版されたもの。日本語訳は2023年1月にニュートンプレスから発刊されました。訳者は翻訳を本業としている藍浜かおりで,教育学の専門学者である上野正道が監訳者として名を連ねています。
「いかに生き,いかに死ぬべきか」という副題が付されていますが,原題はそちらに近いです。つまり原題にはスピノザの名前がないのであって,それはナドラーが,スピノザの哲学の研究書というより,人生の指南書としての実用書的な意味合いを重視しているからだと思われます。ただこの本は,そのような実用書としてはそれほど成功していないと僕はみます。というのもその内容を十全に理解するためには,少なくともスピノザの思想に関する基礎的な理解が必要とされているように思えるからです。なので,もしその理解が不足していたり欠如している人がこの本を読めば,実用書として役に立たないというより,その内容を正確に理解するのが困難でしょう。したがって少なくとも,入門書に示されている程度のスピノザの哲学に対する理解をもった上で読むべきです。ただし,形而上学的部分の理解はさほど必要とされませんので,その点の知識は不要です。
次に,この本はやや読みにくい部分を含んでいます。ナドラーは自身の見解,すなわちスピノザの哲学の解釈を敷衍していくだけでなく,それを他の学者の見解と比較検討していきます。これは学者として真摯な姿勢というべきなのですが,あまりに頻繁にそれが繰り返されるので,ナドラーの主張の主眼がどこにあるのか,かえって理解しにくくなっています。ナドラーが参照する学者の見解は,ナドラーに同調するものもあればナドラーに反対するものも含まれていますので,場合によってはナドラー自身が部分的に不条理なことをいっていると誤解しかねません。そのように誤解しないために,読み進めていく上での慎重さが求められているといえます。訳文自体は『ある哲学者の人生』とは異なり,理解しにくくはありません。
ここまでのことを一般的にまとめると,次のようになります。
現実的に存在する人間の身体humanum corpusが,外部の物体corpusによって刺激を受けるafficiと,その人間の精神mens humanaのうちには諸々の観念ideaが生じます。そのうちスピノザが知覚perceptioないしは感覚sensusとみなす諸々の表象像imaginesは混乱した観念idea inadaequataで,それは論証Demonstratioには役に立ちません。しかしそれ以外に共通概念notiones communesがあって,これは十全な観念idea adaequataですから,論証にも役立つのです。
このことをデカルトRené Descartesの哲学に寄せて解すれば,スピノザはデカルトが知覚あるいは感覚といっている諸々の観念の中から,共通概念を選り分けたとみることができます。ただデカルトは共通概念というのを哲学に利用していませんから,そのことを『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の中で利用するわけにはいきません。とくにスピノザにとって問題であったのは,なぜ感覚や知覚が混乱した観念であるのかということ,つまりスピノザが第二部定理一六系でいっていることがデカルトの哲学のうちに欠けていたことだったと僕には思えます。それがデカルトの哲学に欠けていたから,知覚や感覚はそのすべてが論証には役に立たたないという自身の考え方を『デカルトの哲学原理』の中では通すほかなかったのではないでしょうか。
このために『デカルトの哲学原理』を,『哲学原理Principia philosophiae』や『省察Meditationes de prima philosophia』と比べたときに,デカルトがある場合には論証に有用であるとしている感覚や知覚を,スピノザは論証には無益だとしてその一切を無視しているという,村上が指摘しているような特徴がより際立つことになっているという一面があるのだろうと僕は思います。スピノザはデカルトが感覚や知覚といっている,人間の身体が外部の物体から刺激されるafficiことによってその人間の精神のうちに発生する観念について,そのすべてが論証のために効果的ではないといっているのではありません。ただデカルトの哲学を規準にすると,その中から論証にも有効な観念を選り分ける術がなかったので,感覚や知覚についてはそのすべてを無視せざるを得なかったのだと思います。そして間違いなくスピノザは,『デカルトの哲学原理』を講義しまた著述しているときには,共通概念の有効性に気付いていたと思います。
村上は一例として『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理二一を示していますので,ここではそれに沿って考えます。ただしその前に,以下の点に留意してください。
『デカルトの哲学原理』は,スピノザがカセアリウスJohannes Caseariusに講義したノートが基になっています。ただしスピノザが講義したのは『哲学原理Principia philosophiae』の第二部と第三部の一部であって,第一部は講義していません。出版する際に第一部もあった方がよいというマイエルLodewijk Meyerの提言があったので,第一部は講義と無関係に書き下ろされました。なので『デカルトの哲学原理』のうち,最も遅く書かれたのがこの部分であることになります。また,『デカルトの哲学原理』は文字通りにデカルトRené Descartesの『哲学原理』の解説書,とくにデカルトが分析的方法で著述したものを綜合的方法に書き改めたものですが,この第一部に関しては,『哲学原理』よりも『省察Meditationes de prima philosophia』の方が多く利用されています。ですからこの部分は総合的にみて,最もスピノザの考え方,デカルトとは異なったスピノザの考え方が入り込みやすくなっていて,かつその対象が『哲学原理』におけるデカルトの考え方に対してというよりも,もっと広くデカルトの哲学の全体に対してというようになっています。
この定理Propositioというのは,「長さ,広さ,深さを持つ延長的な実体が実際に存在する。そして我々はその一部分と結合している」というもので,これは『省察』にも『哲学原理』にもみられる考え方です。そしてこの定理が『デカルトの哲学原理』の第一部の最後の定理となりますから,この定理を証明しようとすれば第一部を遡っていかなければなりません。それをすればとても長くなりますし,そもそも現状の考察にとっては不要でもありますからそれはしません。留意しておかなければならないのは,スピノザがこの定理の証明Demonstratioを終えた後,すなわち第一部の最後に,短い注意,たぶんこの定理だけに妥当するのではない注意を記述している点です。
その中でスピノザはふたつのことを要請しています。ひとつは,身体corpusを離れた思惟する者としてこれを理解することです。もうひとつは,身体が存在するということを信じていた理由を先入見として退けることです。
ここでは,すべてのものが精神mensを有し,その精神という観念の対象ideatumが身体corpusといわれる意味で,すべてのものが身体を有するということについてはとくに気をつけなくても大丈夫です。ただ,デカルトRené Descartesがいうにせよスピノザがいうにせよ,身体ということに,とくに物体corpusと異なった意味での身体であるとか,物体の一部としての身体というようなことが含意されているわけではないという点には留意してください。このことはたぶんここで村上が主張していることと関係を有すると思われるからです。
デカルトの思想について詳述することはこのブログの役割を大きく超越していますので,このことについては村上の論述に照合して簡単に紹介するにとどめます。今回の考察に大きく関係するのは,デカルトが,僕たちの精神にはある特定の物体が他の残りの諸物体よりもいっそう顕密に結合されているのであって,それが人間の身体humanum corpusといわれ,かつこの人間の身体が他の諸物体に先んじて発見され,そのことから僕たちは一般的に物体なるものを知覚するpercipereようになるといっている点です。これはいってみれば,デカルトの思想における人間の身体というのは,もっぱら現実的に存在する各人が知覚する自分の身体というのを意味するのであって,かつそれが,自分の身体以外のすべての物体から独立して,あるいはそれとは区切られて発見されるということです。しかし村上によれば,スピノザは基本的にこの考え方については共有しません。物体の一部という規定についてはスピノザはデカルトの考え方を共有するのですが,身体の区切りについては共有しないのです。スピノザにとって人間の身体というのは,物体の一部として見出されることになるのであって,ほかの物体と区切られて見出されるわけではないのです。
村上はこのことを,スピノザが『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』においてどのように記述しているのかということから詳しく論じています。そこにはデカルトの考え方に依拠しつつも,一部においてデカルトの考え方を共有できないスピノザの観点が含まれているというのです。ただしこのことについてはここでは考察の対象とはしません。村上の論文をお読みください。
久保の論文に関する考察はこれで終了です。続いて続いて村上勝三の「『哲学原理』から『デカルトの哲学原理』へ」の中から,ひとつの部分を探求します。なお,村上の論文の題名は『哲学原理Principia philosophiae』ではなく『哲学の原理』と,また『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』ではなく『デカルトの哲学の原理』となっていますが,ここではこのブログに合わせる形で論文名を改題させてもらいました。
ここで探究したいのは,人間の身体humanum corpusの位置づけが,デカルトRené Descartesの哲学とスピノザの哲学では異なっているということです。そこで村上の論文とは関係ないのですが,前もってひとつだけ留意しておいてほしい点を示しておきます。これは以前にもいったことがあることですし,スピノザの哲学で人間の身体について言及されるときは常に注意しておかなければならないことなのですが,ここではデカルトの哲学との関連で探求しますので,改めていっておきたいのです。というのも,人間の身体といういい方自体はスピノザもするのですが,むしろ好んでこのいい方をするのはデカルトの方であるからです。
スピノザがいうにせよデカルトがいうにせよ,人間の身体といわれるときの身体に,日本語でいわれるような意味があると解さない方がよいと僕は考えています。というのはこの人間の身体というのは,直接的に訳せば人間的物体というほどの意味であって,日本語ではそのようにはいわないので人間の身体と訳されているという面があるからです。したがって,身体というのは物体の一種であって,身体以外の物体と直接的にことばの意味で繋がっているわけではありません。しかしラテン語では人間の身体というときの身体が,身体以外の物体と地続きになっているのです。
スピノザの哲学との関連では僕はこれを,人間的物体といわれているようにたとえば三角形的物体ということができるのであって,それが三角形の身体を意味するというように説明します。というのも第二部定理一三備考でスピノザはすべてのものに精神があるといっているので,それと合一している観念対象ideatumについては身体というのが分かりやすいからです。つまりすべてのものに精神があるように,身体もあるのです。