スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
昨晩の第24回アフター5スター賞 。
好発を決めたゴーディーがハナへ。横並びの中からスアデラが単独の2番手に浮上。その後ろにサブノジュニア,エイシンヴァラー,バンドオンザランの3頭。6番手にワディ,7番手にアピアが続き,その後ろにキタサンミカヅキとミヤジマッキーが併走。さらにジョーオリオンとサトノタイガーも併走。残る4頭はここまでの一団からは取り残されての追走。前半の600mは34秒5のハイペース。
3コーナーを通過して逃げるゴーディーとマークするスアデラは同じでしたが3番手にはバンドオンザランが上がり,内を追走したのがサブノジュニア。直線に入るとスアデラとバンドオンザランに伸びがなく,逃げるゴーディーに迫ったのは直線でもインを突いたサブノジュニアとバンドオンザランの外から追ってきたアピアの2頭。しかし逃げたゴーディーが直線に入っても二枚腰を使い,この2頭を振り切りました。しかし大外から鋭く伸びたキタサンミカヅキの末脚が優り,最後はゴーディーを捕えて優勝。1馬身4分の1差の2着にゴーディー。4分の3馬身差の3着はアピアでクビ差の4着にサブノジュニア。
優勝したキタサンミカヅキ はここがJRAからの転入初戦。昨年4月にオープンを勝った後は7戦して5着が1度あっただけ。ただそれが今年の4月のレースで,この距離を1分10秒0で走破してのものでしたから,やや頭打ちの状況ではあっても南関東重賞ならば通用する余地はありました。控えて末脚で勝負するタイプの馬ですが,馬群から取り残されることなくレースをすることができたのがこの結果に繋がったものと思います。おそらくこの距離がベストですが,安定した成績を収めるような馬ではないかもしれません。父はキングヘイロー 。母の父はサクラバクシンオー 。母の半兄に1998年の埼玉新聞杯を勝ったキタサンシーズン 。
騎乗した浦和の繁田健一騎手は2014年の鎌倉記念 以来の南関東重賞6勝目。アフター5スター賞は初勝利。管理することになった船橋の佐藤賢二調教師もアフター5スター賞は初勝利。
力potentiaを常に現実的なものとして把握し,可能的なものとみなさないというのは,具体的には次のようなことです。
現実的に存在する人間は,第二種の認識cognitio secundi generis,すなわち理性ratioによってものを認識することがあります。それは普通は人間にはその能力があるという意味です。ですがスピノザの哲学では,この意味においては人間は理性によって事物を認識する力があるとはいわれません。理性は人間の精神mens humanaが十全な原因causa adaequataとなっている場合の認識cognitioですが,第四部定理四 から理解できるように,人間が常に十全な原因であることは不可能です。したがって人間は理性的ではあり得ますが,常に理性的ではあり得ません。このとき,人間が理性的である場合は,人間は理性によってものを認識する力があるといわれるのですが,非理性的である場合,いい換えれば受動的であるpati場合は,人間は理性によって事物を認識する力があるとはいわれないのです。つまりスピノザの哲学における力は,それが発揮されている場合には力ですが,発揮されていない場合には,いかにそれを発揮することが可能ではあったとしても,力とはみなされません。
力の反対概念を僕は無能impotentiaといいます。ただ,たとえば上述の例において,理性が発揮されていない場合について無能であるとは僕はみなしません。確かに理性が発揮されていない限りにおいて人間は理性に関しては無能であるといい得ると思いますが,これはその人間が一般的に無能であるという意味ではないからです。たとえば人間の精神が事物を表象しているときは,人間は理性に関しては無能です。ですが表象imaginatioに関してはむしろその力があるといわなければなりません。第二部定理一七備考 から,人間が事物を表象するimaginariこともまた力であるということは明らかです。よって,人間が事物を表象しているときには,理性に関しては無能であるというなら,人間は理性的に認識している間は表象に関しては無能であるといわなければならないことになるでしょう。それが誤っているとは僕はいいませんが,そのように人間に関して無能であるということは不自然だと僕は考えます。むしろ何らかの力が常に発揮されているというべきではないでしょうか。
徳島市で指された第58期王位戦 七番勝負第五局。
羽生善治王位の先手。菅井竜也七段は阪田流向飛車の出だしから三間飛車 にするという趣向。先手は玉頭位取りで対抗しました。後手がうまく捌いて快勝という将棋だったと思います。
7六の地点で銀の交換がなされたところ。ここで☖5六歩 と垂らしたのが軽妙な一着でした。
☗4二銀と打てば飛車を取ることはできるのですが☖4五歩と突かれて銀の行き場がないために二枚換えになります。なので仕方なく☗同金と取ったのですが☖4五金が後手の駒に活を入れる一手。以下☗同銀☖3七桂成☗2五飛☖4五歩☗3四歩☖同飛☗2三飛成☖3六飛 ☗4六歩☖3八角の捌き合いに進展。さらに☗6七金打の受けに☖2七成桂とこちらに寄って2九の桂馬を取れるようにしたのも好手でした。
部分的な応酬だけでいえば先手がひどく損をしたというわけではないと思います。ただ,玉頭位取りというのは手厚く構えて押さえ込んでいくような戦法なので,第2図のような捌き合いに進展してしまうと,それだけで振飛車の方が有利になる戦型だといえるのではないでしょうか。
4勝1敗で菅井七段が初タイトルとなる王位を奪取 。単に勝敗で圧倒しただけでなく,自己流を貫いての結果なので高く評価するべきだと思います。ただ,目新しさのゆえの対策の困難さというのもあるのでしょうから,真価を問われるのはこれからなのかもしれません。
僕はものが神Deusの力potentiaのうちにあるということと,ものが神の力を分有するということを同一視します。これは,様態modiが神のうちにあるということと,様態とはその様態という様態的変状modificatioに様態化した神であるということが,様態に着目するか神に着目するのかという観点の相違にだけ帰着するように,そのことを力という観点から把握する場合には,これと比例的な観点の相違に帰着すると考えるからです。
河井の論考は,現実的に存在する個物res singularisだけが固有に神の力を分有していると受け取れなくありません。もしも河井が本当にそのように主張したいのであるとしたら,第一部定理一五 にあるようにあらゆるものQuicquidは神なしには存在することができずnihil sine Deo esse,かつ第一部定理三四 により,神の力は神の本性 essentiaそのものなのですから,それを否定します。ただしこれはある意味においては形式上の否定にすぎません。というのも,現実的に存在する個物が分有する神の力というのは,やはり固有のものではあるからです。いい換えれば,個物が神の属性attributumに包容されて存在するといわれる場合においても,その個物は神の力を分有していると解さなければならないと僕は考えますが,その限りにおいて個物が分有している神の力と,現実的に存在する個物が分有している神の力というのは,同じ力であるとはいわれ得ないと考えるからです。実際に第三部定理七 というのは個物が現実的に存在する場合の本性についていわれているのであり,第二部定理四五備考 というのはその現実的本性 actualis essentiaが力であるといっているのですから,この力が現実的に存在する個物だけが固有にあるいは特有に有している力であるということは明白でしょう。
さらに,現実的に存在する個物に力の観点を導入することが重要なのは,スピノザの哲学そのものにおいて力というのがどのようなものであるかということと大きく関係すると僕は考えます。スピノザは力というのを常に現実的なものとしてのみ把握するのであって,可能的なものとしては把握しません。つまり第三部定理七でいわれていることが現実的に存在する個物の力であるなら,個物はそれができるという意味ではなく,そうしているという意味なのです。
小田原記念の決勝 。並びは渡辺一成‐高橋の北日本,山岸‐神山の茨城栃木,山中‐渡辺晴智の南関東,岩津‐渡部の瀬戸内で河村は単騎。
渡辺一成がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に河村,4番手に山岸,6番手に岩津,8番手に山中で周回。残り3周のバックに入ると山中が上昇。コーナーで渡辺一成を叩いて前に。これに続いていた山岸がホームで山中を叩くと,岩津ラインも続き,5番手に山中,7番手に渡辺一成,最後尾に河村の隊列に。バックに入って渡辺がインを掬い,渡部の後ろの5番手に入り,続いた河村が7番手,8番手に山中の一列棒状に。渡辺一成はホームに入っても後ろの山中を牽制して発進せず,バックから捲りに出ましたが,3番手の岩津が先捲り。コーナーで渡部に牽制された渡辺一成は苦しくなりました。山岸の番手の神山は直線で山岸のインに進路を取りましたが伸びず,逃げた山岸,捲った岩津とマークの渡部の3人が接戦でフィニッシュ。優勝は逃げた山岸。写真判定の結果,8分の1車輪差で外の渡部が2着。真中の岩津はタイヤ差の3着。
優勝した茨城の山岸佳太選手はこれが記念競輪初の決勝進出での優勝。メンバー的に先手を奪うことはできそうに思われましたが,ほかの選手も強いですから楽な先行にはなりそうもなく,軽視していました。それだけに金星といってもいい優勝だと思います。とはいえほぼ2周を先行して逃げ切ったのですから,少なくとも僕が思っていたよりも力があったということでしょう。山岸があそこから先行するなら何とかなるという思いがほかの選手にもあって,その分だけは有利になったかもしれません。そういう意味では今後は今まで以上にマークされる存在となるでしょうから,そこでどんな結果を残せるかは楽しみにしておきたいところです。もちろんこれを契機に一気に上昇という可能性もあるでしょう。
河井は第二部定理四五備考 のうちに個物 res singularisの現実的本性actualis essentiaと現実的存在が結合する力potentiaを発見しています。ただ,僕はこの点については論評を控えます。河井は第三部定理七 では個物の現実的本性と現実的存在の一致を看取しているわけですが,このときに一致というのがどういう事態を意味し得るのかということが解釈上の問題でしかないように,結合というのも解釈上の問題でしかないと僕はみるからです。
一方,僕は河井がそこに力という観点を見出していることには注目します。第三部定理七は,自己の有に固執する傾向in suo esse perseverare conaturが個物の現実的本性であるとだけいっていて,ここには力の観点というのが見当たりません。ですがこれは確かに力としてみなされるべきであると考えるからです。というか,河井の考察によって僕自身もそのことに気付いたからです。すなわち,僕が以前に自己保存 という語句で示した,現実的に存在する個物が自己の有に固執する傾向というのは,力なのです。
ただし,ここでも僕は次のことはいっておくことにします。第一部定理二五 は,一般にものの存在rerum existentiaeの起成原因 causa efficiensも本性 essentiaeの起成原因も神Deusであるということを示しています。このことはスピノザの証明 Demonstratioにあるように,第一部定理一五 に起因しているといえるでしょう。しかるに,第一部定理三四 で示されているように,神の力というのは神の本性そのもののことです。よって第一部定理一五は,神なしには,というのは神の本性ないしは神の本性の必然性 なしにはというのと同じことですが,何もあることができないということを示しているわけですから,これは神の力なしには何もあることができないというのと同じことです。したがって,あるといわれるものは神の力のうちにあるといわれなければなりません。これは個物の存在ないしは本性が現実的にあるといわれる場合であろうとそうでなかろうと同様でなければならないのです。よって,第二部定理四五備考はとくに現実的に存在する個物が自己の現実的有に固執する力だけを特定して,それが神の本性の必然性すなわち力に由来するといわれていますが,このことは神の本性の必然性から生起する一切のものに妥当しなければなりません。
『エチカ』岩波文庫版 の新版を手にした僕が最初に確かめたのは,旧版において明らかに誤植ではないかと判断していた部分に,修正がなされているのかどうかという点でした。
僕がこのブログを開始したときに使用する『エチカ』 として示したのは,旧版,1975年に改版が出たものです。実際に使っていたのは上巻が1991年5月10日発行の第33刷で,下巻は1990年7月5日発行の第30刷でした。このうち,僕が誤植と判断していた部分が含まれるのは上巻の方です。
その具体的な部分は第一部定理二一証明 の中にあります。旧版のページ数でいえば67ページで,その後ろから4行目です。ここに,神 Deusの属性attributumの絶対的本性から必然的にnecessario生起するものは,定まった持続duratioを有することができ,その属性によって永遠aeterunusであるという主旨の文章があります。ですがこれは明らかにスピノザが主張しようとしていることと食い違っているし,文章自体に齟齬があると僕は考えていました。永遠であるものが定まった持続を有することができるというのは矛盾以外の何ものでもないからです。第一部定理二一 自体は直接無限様態は無限infinitumで永遠であるということをいおうとしているのですから,それが属性によって永遠であるというのは正しいですが,定まった持続を有することができるというのは誤りです。つまりその部分は,定まった持続を有することができず,となっていなければならない筈です。
新版ではこの当該部分は78ページです。そしてこちらの方では確かに,定まった持続を有することができず,となっていて,旧版にあった誤植は修正されていました。
この誤植が,僕が用いていた上巻の第33刷に特有のものであったのか,あるいは旧版はすべて誤植が含まれていたのかは僕には分かりませんが,版型というものがある以上は第33刷だけが特別に誤植を含んでいたとは考えにくいので,旧版には同じ誤植が含まれている刷が存在するものと思います。もし旧版の方を使うあるいは使っているという場合には,きちんと読めば不自然さには気付く筈ですが,一応は気を付けておいてください。
『スピノザ哲学論攷 』で言及されている意味での現実性について考えるための条件は出揃いました。ここからは河井の論考を参照しながら,現実性そのものについて詳細に検討していきます。
スピノザは第一部定理二五 で,ものの存在rerum existentiaeの起成原因 causa efficiensが神Deusであるというだけでなく,ものの本性 essentiaeの起成原因も神であるといっています。このことは個物res singularisが属性attributumに包容されている場合にだけ妥当するわけではなく,現実的に存在しているという場合にも妥当すると考えなければならないでしょう。したがって,神は個物の現実的存在の起成原因であるばかりではなく,現実的本性actualis essentiaの起成原因でもあるということになります。
しかし,河井によればこのことは,個物の現実性について考える場合にはあまり多くの意味をなしません。確かに河井は個物の現実的存在と現実的本性が一致するという見方をしていて,この定理Propositioはその両方の起成原因が神であるといっています。ですが河井がその両者を一致するとみるのは,第三部定理七 においてです。そしてこちらの定理では,ものが自己の有に固執する傾向res in suo esse perseverare conaturが,そのものの現実的本性であるとされています。ですから単に有あるいは本性,より正確にいうならものの現実的有とものの現実的本性の原因 が神であるということより,そこでいわれている自己の現実的有に固執する傾向が何から起因しているかということが重要視されるのです。
もちろんその起成原因も神であるといわなければなりません。そしてスピノザはそれを第一部定理二四系 で示しています。現実性にとって最重要の部分は,実はそちらなのです。そしてこれを補完する役割を果たすのが第二部定理四五の備考です。
「おのおのの個物は他の個物から一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ,各個物が存在に固執する力はやはり神の本性の永遠なる必然性から生ずるからである 」。
これが補完的な役割を大きく果たし得るのは,ここでは個物が存在に固執する傾向が,力 potentiaとして示されているからです。この傾向が現実的本性で,それが現実的存在と結合する力として,河井は神をみるのです。あるいは傾向のうちに神の内在を看取するのです。
Kが奥さんに対して「私は金がない 」からお祝いをあげることはできないと言ったのは,金を持っている先生は静 と結婚できるけれども,自分は金がないから結婚はおろかお祝いもできないという嫌味 であったと解することは可能です。ですが僕はここではKは,先生と静の結婚を祝うことはできないという意味でそう言ったのであり,奥さんや静に対する嫌味ではなかったと読解します。この読解にはふたつの理由があります。
Kとの同居を提案したのは先生でした。Kはあまり乗り気ではなかった筈です。だからこそ最初は大部屋にふたりで暮らしていたのを,襖 を立てて,狭いながらもひとりの部屋を選びました。これは自分の部屋で静とふたりきりになりたかったからだと解せなくはありませんが,たぶんひとりでいたいという単純な理由だったのです。
家賃は先生が一括して支払っていました。ですがそのことをKは気にも留めていません。もしもこれを気にしていたら,裕福な男と困窮した男 という関係をKは日頃から感じていたということになるでしょう。ですがKは先生に無理に同居させられたというふうに思っていたから,そのことで卑屈になる必要はなかったのです。むしろ困窮した生活はKのアイデンティティでさえあったといえるでしょう。そのアイデンティティは,むしろ同居しない方がKを満足させられたろうと思います。
このようなKが,先生と静の結婚を告げられたときだけ,急に自分の困窮を誇りとしてでなく卑屈なものとして意識するとは思えません。だからKのことばは嫌味ではなかったと僕は読解します。
ただしKが,奥さんと静は財産を目当てに先生との結婚を選んだのだと感じたのだとしたら,このときに嫌味を言ったとしても不思議ではありません。ただ僕はそのような解釈は取りません。少なくともこのことばを聞いた奥さんは,結婚は財産目当てだという意味に受け取らなかったことだけは間違いないと確信しています。
現実的であろうとなかろうと同じことになるので,一般的に考えてみます。
ある個物res singularisの存在が,いくつかの個物という部分に分割できるということは,少なくとも論理的には可能です。いくつかの個物によって組織される単一の個物の存在をスピノザは認めていて,たとえば人間の身体corpusというのはまさにそうした個物としてあるからです。これは旧版117ページ,新版140ページの第二部自然学②要請一 から明白であるといわなければなりません。
しかし人間の身体の本性 natura,essentiaが,それを組織している各々の個物の本性に分割できるということは不可能だと僕には思えます。部分の本性の集合が全体の本性であるとは思われないからです。そこでこのことについては,次のように考えておくことにします。
第二部定義七 は,複合の無限連鎖 を前提として個物を定義していると僕はみます。つまり存在するどんな個物もほかの個物と共同して,何らかの全体である個物を構成するという前提です。すると,人間の身体というのはいくつかの個物によって組織された全体であると同時に,ほかの個物と共同してより大きな,というのは物理的な意味において大きいということですが,より大きな個物を組織するということになります。つまり人間の身体というのは,ひとつの全体であるとともにある全体の部分であるとみることもできるのです。それでも人間の身体の本性があるということは,人間の身体の形相formaがある以上は当然のことといわなければなりません。そして第二部定義七というのは,とくに人間の身体に限定して何かをいおうとしているわけではなくて,一般にすべての個物に妥当する事柄を示そうとしているのです。したがって,存在するどんな個物も,ひとつの全体であると同時にある全体の部分であるということが帰結します。
このゆえに,それが全体とみられようと部分とみられようと,ある個物としてみられるのであればその個物に特有の本性があるということになります。したがって人間の身体には固有の本性があり,そのある部分だけを抽出しても,それに固有の本性があります。ただし部分の本性の集合が全体の本性ではないことになります。
昨日の第30期竜王戦 挑戦者決定戦三番勝負第二局。
松尾歩八段の先手。羽生善治三冠が横歩取りに誘導しましたが先手は拒否して2八まで飛車を引き,後手が横歩を取る展開に。中盤は後手の方がうまく進めていたのではないかと思います。
後手が7三に歩を打って先手が7四の飛車を引いた局面。ここで後手は☖8五歩から攻め合いにいきました。ここで攻め合わないのでなければすでに後手が劣勢で,この攻め合いで勝てると後手が踏み込んだのであればおそらくこれが敗着だったのではないかと思います。
☗7四歩☖8六歩☗9八銀☖8七歩成☗9七銀☖7七と ☗7三歩成☖8七飛成と進みました。
途中,先手が銀を引くのは手筋の受け方で,これを見落とすというのは考えにくいのではないかと思います。第2図は先手玉が詰めろではないので☗7二とと取って先手の勝ち。☖8五歩と打ってからは後手はもうどうしようもなかったのではないでしょうか。
松尾八段が勝って1勝1敗 。第三局は来月8日です。
ある事物の形相formaが維持されている限り,その事物の本性essentiaは維持されると考えなければなりません。第二部定義二 から分かるように,ある事物とその事物の本性は一対一で対応し合うので,ある事物の形相に変化がない限り,その事物の本性にも変化はないからです。他面からいえば事物の形相と事物の本性はほとんど同じ意味だといって差し支えないでしょう。
旧版114ページ,新版137ページの第二部自然学②補助定理四 を現実的に存在する人間の身体corpusに適用するなら,ある人間の身体はそれが持続している間に多くの変化を受けたとしても,同一の形相を維持し続ける,つまり産まれてから死ぬまである人間の身体の形相,あえてこういういい方をすれば現実的形相は同一のまま留まるということを引き出せるように思います。その形相が同一なら本性も同一でなければならないので,ある人間の身体の現実的本性actualis essentiaは,産まれてから死ぬまで同一であるということも同時に出てくるでしょう。この見解は第五部定理二二 に合致する,あるいはそれと矛盾しないといえます。そしてその人間の精神 mensはその人間の身体の同一個体なので,原因と結果の連結connexioと秩序ordoは一致します。よってその人間の精神の現実的本性もまた産まれてから死ぬまで同一のまま留まっているということになります。
僕の見解をいえば,このことはひとつだけ弱みを抱えています。というのは,人間の身体というのは多くの個物res singularisによって組織されている単一の個物です。したがってその全体は部分に分割することが,少なくとも論理的には可能です。実際にこの補助定理Lemmaはそのことを前提としているといえるでしょう。なぜなら,現実的に存在するある個物の部分に変化が生じたとしても,その全体には影響しない場合があるということをいっていると解することができるからです。したがってその現実的存在について考える場合には,ある個物は部分から組織される全体であるとみなすことができるのです。
ところが,本性に関してこれをいうことは困難だと僕には思えるのです。ある事物の本性が,いくつかの事物の本性という部分から構成される全体であるというのは不自然と思うからです。
グレフィウスの報知 に対するライプニッツの返事 がいつ書かれたものであるのかは,『宮廷人と異端者 』には記されていません。ただ報知の方は1671年4月で,スチュアートはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがすぐに返事を出したとしていますので,同じ月か遅くとも5月のことだったと思われます。
ライプニッツはそこで『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』に批判的な見解を示していますが,それは宮廷人 としての表向きの態度だったかもしれません。少なくともライプニッツがスピノザに多大なる関心を寄せたのは間違いありません。同じ年の10月に,ライプニッツはスピノザに最初の書簡を送っているからです。それが書簡四十五です。
書簡の冒頭でライプニッツは,著名,卓越の士よと呼び掛け,世間は多方面にわたるスピノザの才能を称えているという意味のことを書いています。これはスチュアートが解するライプニッツのスピノザ評 に合致するとも解せますが,単なる社交辞令かもしれず,僕はこの部分に関してはスチュアートがそうするほどには重視しません。
書簡の内容は光学に関するもので,自身の見解に対する批評を,スピノザおよびフッデ Johann Huddeに求めたものです。つまりスピノザとフッデが親しい間柄であるということを,ライプニッツは知っていたということになります。
この書簡は遺稿集Opera Posthuma に掲載されました。自身とスピノザの間に関係があったことを秘密裡にしておきたかったライプニッツは,編集者のひとりであったシュラー Georg Hermann Schullerに対して激怒したという主旨のことが『宮廷人と異端者』には書かれています。それに対してシュラーは,たとえこの書簡が掲載されても,それは光学にのみ関連することであり,哲学的内容は含まれていないのだから安心していいという主旨の弁明をしたとされています。
確かにこの書簡だけでみればシュラーの弁明にも理があったでしょう。ですがライプニッツの真の目的は,光学の対話をすることではなく,哲学的対話をスピノザとすることにあったと考えていいだろうと思います。
現実性の個別化に関して第五部定理二二 を主軸に置いた暫定的な結論をここでの考察において提出するのには理由があります。
『スピノザ哲学論攷 』では,第三部定理七 において,個物 res singularisの現実的本性actualis essentiaと個物の現実的存在が一致するという見解が出されていました。一致するというのがどういう意味であるかを別にして,この見解そのものには僕も納得することができます。そこでこのときに,もしもある人間の現実的本性が変化するのであれば,その人間の現実的存在はそれと一致するのですから,それと同じだけその人間の現実的存在も変化していると解さなければならなくなります。ですがこの考察ではこの解釈は具合が悪いのです。他面からいえば,たぶん河井の主張では,ある人間の現実的本性が変化し得るという解釈は採用できないものと思われます。
そこで今度は,現実性のうち現実的本性ではなく,現実的存在の方を対象として,それは変化しないということについて有利な材料を『エチカ』の中から提供していきます。なお,僕の個人的な見解をいえば,ある人間の現実的存在が変化し得るという解釈もあり得ると考えていますし,あるものの現実的本性と現実的存在が一致しているのだとしても,現実的本性の方は変化するけれど現実的存在の方は変化しないという解釈も可能だと考えています。ただ河井の論考ではおそらくそれらの解釈が不可能なので,ここではその解釈に有利な点をあげるのだと理解してください。
このことは自然学 においてスピノザが主張している事柄と親和性があります。ここではその中から,旧版の114ページ,新版では137ページの第二部自然学②補助定理四 を援用してみましょう。これでみれば分かるように,いくつかの個物によって組織されている単一の個物の部分にある変化が生じたとしても,その複合的な個物の現実的存在はそのまま維持される場合があります。実際に複合の度合が高い個物にあっては,日常的にこのようなことは生じています。ですがその現実的存在は,同一のものとして維持されるのです。現実的存在が維持される以上,現実的本性もまた同様に維持されていると考えなければなりません。
笠松から1頭,高知から2頭が遠征してきた昨晩の第14回スパーキングサマーカップ 。タマノブリュネットが右の後ろ脚の跛行で出走取消。高知から遠征してきた2頭のうちイッツガナハプンも同じ箇所に同じ症状をみせて競走除外となり12頭。
内の馬がいけそうでしたが外からケイアイレオーネが逃げる構えをみせると引いていき,この馬の逃げに。1コーナーを回るあたりではリアライズリンクスとムサシキングオーの3頭で雁行。その後,ケイアイレオーネとリアライズリンクスの2頭で後ろを引き離していき,向正面では3馬身差の3番手にムサシキングオー。2馬身離れてオーラゼウス。3馬身離れてトーセンハルカゼという具合に,隊列がとても縦長になりました。前半の800mは49秒2のハイペース。
3コーナーを回るとリアライズリンクスが徐々についていかれなくなりました。外を追い上げてきたのがトーセンハルカゼで,直線の入口ではこちらが2番手に。このときの勢いからは差せるのではないかと思えたのですが,直線に入ってから伸び脚が鈍り,最後は逃げたケイアイレオーネと同じ脚色に。一杯になりながらも逃げ切ったケイアイレオーネの優勝となり,トーセンハルカゼは4分の3馬身差で2着。リアライズリンクスの内から追い上げて直線入口で3番手に上がっていたムサシキングオーもそのまま1馬身半差で3着。後方に控えていた高知のミッキーヘネシーが大外を強襲しハナ差の4着まで迫りました。
優勝したケイアイレオーネ はフジノウェーブ記念 以来の勝利で南関東重賞は4勝目。このメンバーでは能力は間違いなく最上位なので,優勝は順当なもの。ペースは厳しくなりましたが,逃げてしまったのもよい判断であったのではないかと思います。多様な距離を使われていて,適性はつかみづらいのですが,間隔を開けつつ大事に使われているので,まだ活躍できるだろうと思います。従姉の仔に2014年のエーデルワイス賞 を勝っている現役のウィッシュハピネス 。Leoneはイタリア語で獅子座。
騎乗した大井の的場文男騎手は黒潮盃 に続いての南関東重賞制覇。スパーキングサマーカップは初勝利。管理している大井の佐宗応和調教師はいずれもこの馬で南関東重賞4勝目。スパーキングサマーカップは初勝利。
論理的には同一の人間であっても,その現実的本性actualis essentiaは常に同一であるとは限らない,いい換えればある人間がその現実的存在を持続している間に,その現実的本性は変化すると解することが『エチカ』では可能になっていると僕は考えます。そして僕自身は,現実的に存在しているある人間の現実的本性は,そのようなものであると解するのが適切ではないかとも思っています。ですがこの解釈は明らかに弱点を抱えています。なぜならこの解釈は,第五部定理二二 とは明らかに両立し得ないと思われるからです。
第五部定理二二というのは,人間の精神 mens humanaが永遠aeterunusであることを示す第五部定理二三 を導き出すために言及されているという側面があります。このとき,現実的に存在しているある人間の身体corpusの本性すなわちその人間の身体の現実的本性を表現するexprimere観念ideaが神Deusの中にあるということが重要になってくるのです。しかるにもしその現実的本性が変化するのであったとしたら,それを表現する観念が神の中にあることはできません。あるいはそういう観念が神の中にあるということができるとしたら,それはある人間の身体の本性であるということはできなくなるでしょう。つまりある人間の身体の現実的本性を表現する観念が神の中にあるというのであれば,その人間の現実的本性は変化しないといわなければならないと僕は思います。
最初にいったように,僕はこの現実性の個別化の問題は決着をつけることができないと考えています。『エチカ』の記述は明らかにどちらの解釈にも正当性をもたせることができるようになっていると思うからです。ただ,ここでは暫定的にであれ結論を出す必要があるので,さしあたって第五部定理二二の方を重視し,現実的に存在している人間の現実的本性は変化しないという解釈を採用します。すなわち現実性の個別化は,現実的に存在するある人間,もっと一般化していえば現実的に存在するある個物res singularisというところまでしか個別化することができないとしておきます。ただし,これはあくまでも暫定的な結論であって,スピノザの哲学における現実的本性がこのように考えられなければならないと僕が主張したいわけではありません。
淡路島で指された第58期王位戦 七番勝負第四局。
菅井竜也七段の先手で中飛車。後手の羽生善治王位が向飛車の相振飛車を選択すると9筋の位を取った先手は2筋に飛車を戻し,後手振飛車のような戦型に。端の位を取った先手が中住いに構えたのは個人的に驚きでした。後手の仕掛け が早すぎたために先手の反撃 を招いて苦しくしたのかと思っていましたが,それほどではなかったようです。
後手が☖4九飛 と打って王手を掛け,先手が合駒をした局面。後手は☖4二飛成とと金を取って粘りにいきました。
先手は決め所とみたようで☗9四桂と跳ねました。これは詰めろで☖8二金 の受けに☗8五桂☖9二王☗9三歩☖同桂☗同桂成☖同金☗8二銀とほぼ一直線に攻め立てました。後手は☖9四金と桂馬を払い☗7一銀成と飛車を取った手に対して☖9三角の両取り。
一見すると攻防の好手にも見えるのですが,これが敗着だったよう。☖5一龍と引いて成銀取りにしておけばまだ難しかったそうです。
菅井七段が勝って 3勝1敗。第五局は29日と30日です。
論理的にいうと,個物res singularisの現実的本性actualis essentiaというのは,さらに個別化することもできるように僕には思えます。
第四部定理三三 は,人間は受動 passioに捉われている限りでは同じ人間でさえ変化しやすいし不安定であるという意味のことをいっています。このとき,何が不安定であるのか,あるいは何が変化しやすいのかといえば,それはその人間の現実的本性であると解することができると僕には思えます。実際にこの定理Propositioは,まずある人間と別の人間は,受動に従属している限りでは本性の上で一致しないnatura discrepareといっています。この定理はとくに感情affectusについて言及することを目的としていますが,それを別に考えれば,このことは第四部定理三二 と同じであるといえるでしょう。そしてこのように考えた場合には,この定理の後半部分でいわれていることは,同一の人間であっても受動に捉われている限りでは本性の上で一致していないと解することができると僕は思うのです。
第三部諸感情の定義一 というのは,人間が受動的である限りにおいての本性は欲望cupiditasであるという意味でなければなりません。前にもいったように,僕は受動というのは現実的に存在する場合にのみ発生すると考えます。ですからこの定義Definitioの意味は,欲望は受動的である限りにおいて人間の現実的本性であると解するべきだと僕は考えます。そして欲望は基本感情affectus primariiのひとつです。さらに第四部定理三三は感情についてとくに言及しつつ,それは不安定で変化しやすいといっているのです。したがって現実的に存在する人間の欲望は,その人間が受動に与っている限りでは変化しやすく不安定だということもその意味のうちに含まれていなければなりません。そして欲望はこの限りにおける人間の現実的本性であるのですから,やはり同じ人間の現実的本性は変化しやすく不安定であるという意味がここに含まれていると解せると思うのです。
ここでは人間ついてのみ言及しましたが,このことは一般に個物の現実的本性に関しても妥当する筈だと僕は考えます。つまり個物の現実的本性というのは,現実的に存在する同一の個物にあっても,変化するという意味で,さらに個別化することも可能だと僕は考えます。
豊橋記念の決勝 。並びは阿部‐志村‐磯田の関東,深谷‐金子‐吉田の愛知,河端‐黒田の岡山で伊勢崎は単騎。
志村と河端がスタートを取りにいき,内の志村が制したので前受けは阿部。4番手に河端,6番手に深谷,最後尾に伊勢崎で周回。伊勢崎は地元勢を追走という競走に終始しました。残り2周のホームに入って深谷が上昇を開始。ホームの出口で阿部が誘導を斬ると,コーナーで深谷がその上を叩いて前に。後方になった河端がバックに入って漸進。打鐘が入っても深谷が発進する構えをみせなかったので自ら動き,コーナーで深谷を叩いて先行。3番手に深谷,7番手に阿部の一列棒状に。ホームから阿部が発進していきましたが地元ラインに追いつく前にバックの入口から深谷が発進。黒田が車間を開けていた上に河端も抵抗したので苦しみましたが最終コーナーで捻じ伏せて前に。直線は番手の金子が深谷を差して優勝、深谷が半車輪差で2着,吉田も1車輪差の3着で地元勢の上位独占。
優勝した愛知の金子貴志選手は4月の前橋のFⅠ以来の優勝。記念競輪は一昨年12月の広島記念 以来の優勝で通算10勝目。豊橋記念は2006年 と2013年 に勝っていて3勝目。このレースは決勝のメンバーが確定した時点で深谷に対抗できそうな選手が不在で,大方は地元勢による争いになるだろうと思われました。深谷が河端をいかせて3番手を取った時点でさらにそういう決着が濃厚に。ただ深谷が捲り切るのにわりと力を使うことになったので,番手の金子に有利になったということだと思います。金子も全盛期の力はないと思いますが,こういう展開になれば深谷を差すだけの力は残っているということでしょう。
Aという人間とBという人間が現実的に存在すると仮定します。このとき,AもBも人間ですから,同一の人間の本性 humana natura,natura humanaによって説明されることは疑い得ません。しかしAの現実的本性actualis essentiaとBの現実的本性が同一であるとはいいきれません。
第三部定理五七 は,ある人間と別の人間の感情affectusの相違は,ある人間と別の人間の本性の相違に対応するという意味のことをいっています。したがってこの例でいえば,Aという人間とBという人間の本性が異なり得ることをスピノザが認めているということは疑い得ません。そしてこのときにいわれている本性は,ここで人間の本性といっている本性のことではなく,人間の現実的本性のことであると僕は解します。なぜならこの定理Propositioでいわれている感情は,能動actioに属する感情ではなく受動passioに属する感情でなければならないからです。というのも,第四部定理三二 では,人間は受動に従属する限りでは本性の上では一致しないといわれているのに対し,第四部定理三五 では,人間が理性 ratioに従う限り,すなわち精神の能動actio Mentisに従う限りでは,本性の上で必然的に一致するといわれているからです。
僕の考えでは,受動というのはあるものが現実的に存在する場合に生じるのであり,それが神Deusの属性attributumに包容されている限りでは生じません。したがって第三部定理五七でいわれている本性の相違は,神の属性に包容されている限りでの人間の本性の相違ではなく,現実的に存在している各々の人間の本性の相違,すなわち人間の現実的本性の相違であると解します。つまり人間の現実的本性は,Aという人間の現実的本性とBという人間の現実的本性というように,さらに個別化され得ると考えます。
同じことは第五部定理二二 からもいえると思います。この定理は明らかにAという人間の身体corpusの本性とBという人間の身体の本性が別個にあるということを含意しているといえるでしょう。そしてそれが永遠の相species aeternitatisの下に表現されるexprimunturといわれているのですから,その本性自体はAの身体の現実的本性でありまたBの身体の現実的本性でなければならないことになります。つまりここでは明らかに身体が現実的本性によって個別化されているのです。
17日のブリーダーズゴールドカップ はマイティティー が勝ちました。この馬の祖母は1997年に産まれたチアズグレイス です。
2歳の6月に1000mの新馬でデビュー。これを勝ちました。8月に1200mの条件戦に出走して4着。9月に1800mのオープンを勝ちました。そのまま休養して暮れの阪神3歳牝馬ステークスに出走して4着。
年が明けて1月と2月に牝馬オープンを連続2着。チューリップ賞は1番人気に支持されましたが10着と競走歴で唯一の大敗。これは不良馬場の影響を受けたものと思われます。賞金は確保できていたので桜花賞へ。前走の大敗で人気を落としていましたが先行して抜け出し,優勝しました。そのままオークスに直行。ここも先行して一旦は先頭に立ったのですが,マークしていた同じ厩舎の馬にクビだけ差されて2着でした。
秋はローズステークスで復帰して5着。秋華賞は4着。その後の活躍も期待されましたが,残念ながらこれで引退となっています。三冠レースでの安定した成績により,この年のJRA賞の最優秀4歳牝馬に選出されました。
この世代で最も能力の高い牝馬であったかはやや微妙なところも残ります。ただスピード面で優れているところがあり,先行する競馬ができたことが,安定した成績を収める要因となったのではないでしょうか。
自身の子孫からは2代を経たマイティティーが最初の重賞勝ち馬です。2002年に共同通信杯と毎日杯を勝ったチアズシュタルク はこの馬の全弟です。
個別化ということで僕が何をいいたいか不分明かもしれないので,まず個物res singularisの本性essentiaが個別化され得るならどう個別化されるかということをいっておきましょう。
個物の本性はすべての個物に妥当しなければなりません。人間も個物であり馬も個物です。このとき人間の本性natura humanaと馬の本性は,同じように個物であるからといって同じ本性であるわけではありません。これは自明でしょう。人間も馬も個物なので,個物の本性として含まれていることはすべて人間の本性にも馬の本性にも含まれていなければなりません。つまり人間の本性と馬の本性のうちには,一致する事柄が含まれていなければならないのですが,完全に一致するわけではないのです。このとき,個物の本性は人間の本性と馬の本性に個別化できると僕はいうというように理解してください。
これと同じことは,個物の現実的本性actualis essentiaの場合にも妥当しなければなりません。人間の現実的本性も馬の現実的本性も,同じように個物の現実的本性ではあり,したがって個物の現実的本性に含まれている事柄はどちらの現実的本性にも含まれているという点で,一致する部分があります。しかし人間の本性と馬の本性が相違するのと同じだけの相違は人間の現実的本性と馬の現実的本性との間にもあるといわなければなりません。つまりここでは個物の現実的本性が,人間の現実的本性と馬の現実的本性とに細分化されていることになります。
次に,人間の本性はどの人間にあっても同一でなければならず,同様に馬の本性はどの馬にとっても同一でなければなりません。これもそれ自体で明らかです。よって何人の人間が現実的に存在しようとも,すべての人間が同じように人間の本性を有しているのでなければなりません。同様に何頭の馬が現実的に存在したとしても,すべての馬が同じように馬の本性を有しているということになります。
だから,個物の本性と個物の現実的本性は同じように個別化できるのかといえば,僕はそうではないと思うのです。個物の本性はこれ以上は個別化できないけれども,個物の現実的本性はさらに個別化が可能だと僕にはみえます。なのでこれを考える必要があるのです。
16日のサマーチャンピオン はラインシュナイダー が勝ちました。この馬の父はヴァーミリアン です。
ヴァーミリアンは2002年産まれ。父はエルコンドルパサー 。3代母がスカーレットインク 。半兄に2005年の東海ステークスとブリーダーズゴールドカップと日本テレビ盃,2008年のマーキュリーカップ を勝ったサカラート ,3歳下の半弟に2010年のシリウスステークスを勝ったキングスエンブレム ,5歳下の半弟に2012年の東海ステークスと日本テレビ盃 ,2013年のマーキュリーカップ を勝ったソリタリーキング がいます。Vermilionは朱色。
2歳10月に芝の新馬でデビュー。これを勝つとオープンを2戦続けて2着した後,暮れのラジオたんぱ杯2歳ステークスで重賞制覇を達成。この成績ですから翌春はクラシックを目指したもののスプリングステークスは大敗,皐月賞もディープインパクト の12着。京都新聞杯も大敗に終わりました。
秋は神戸新聞杯で復帰するもディープインパクトの10着。次にダートのオープンに出走すると僅差で勝利。浦和記念に向かって重賞2勝目をあげました。
4歳初戦の平安ステークスを2着。フェブラリーステークスはカネヒキリ の5着でしたが続くダイオライト記念 で重賞3勝目。東海ステークスは大敗してしまいました。
秋はジャパンカップダート で復帰して4着。暮れの名古屋グランプリ を制して重賞4勝目。
5歳初戦の川崎記念 で大レース初制覇を達成するとドバイワールドカップ に遠征して4着。
帰国初戦は秋のJBCクラシック 。大レース2勝目をあげるとジャパンカップダート をレコードで制し,東京大賞典 も優勝と大レースを3連勝。この年のJRA賞 の最優秀ダートホースとNARグランプリ の特別表彰馬に選出されました。
連覇を狙った川崎記念は取消。しかしフェブラリーステークス を勝って大レース5勝目。この年もドバイワールドカップ に挑戦しましたが12着。
この年も帰国初戦はJBCクラシック でこれをレコードで勝って大レース6勝目。しかしジャパンカップダート は3着,東京大賞典 は2着と,いずれもカネヒキリの後塵を拝しました。
6歳初戦はフェブラリーステークス で6着。休養して出走した帝王賞 は勝って大レース7勝目。
秋はJBCクラシック からの復帰で三連覇となる大レース8勝目。ですがジャパンカップダート は8着,東京大賞典 は2着でした。
7歳初戦の川崎記念 をレコードで勝って大レース9勝目。休養して帝王賞 に出走するも9着,また休養して挑んだジャパンカップダート で14着となり,現役を引退しました。
成績から分かるように,絶対能力ではカネヒキリには劣っていたと思います。ただ丈夫さでは上回っていたといえるでしょう。大レース初制覇となった5歳の川崎記念以降は大レースだけに出走したという稀有な馬です。
種牡馬としては一昨年のフェアリーステークスを勝っている現役のノットフォーマル がいて,ラインシュナイダーが2頭目の重賞勝ちの産駒になります。
個物res singularisの現実的本性actualis essentiaについて考える場合には,それを個物の本性と切り離し,単独の現実性として考えなければならない理由はお分かりいただけたと思います。そして第三部定理七 は,個物の現実的本性と個物の現実的存在が一致するという意味を含み得るのですから,個物の現実的存在について考える場合にも,単に個物の存在existentiaについて考えるだけでは十分ではないということは同様です。
『概念と個別性 』においては,一般的あるいは普遍的なものからいかにして個別的なものあるいは特殊的なものが帰結するかということが論点のひとつになっていました。この考察もそういう論点のひとつであると考えることができると僕は思っています。河井が朝倉のような問題意識を有しているとは僕は思いませんが,僕はそういう観点から『スピノザ哲学論攷 』の言及に関心を示します。ただ,河井はとくに現実性ということについて多大な関心を抱いているのは間違いなく,そして僕もそのことについて詳しく考察したことがありませんでした。ですからここでは一般的なこと,いい換えれば個物が神Deusの属性attributumに包容されて存在している場合のことは考察の対象から外します。外すけれども,僕の関心は実際にはそのような点にあるということは踏まえておいてください。
次に,現実性の原因causaについて考察する前提として,考えておかなければならないことがあります。これを僕は,現実性の個別化の問題といいます。というのは,現実性とりわけ個物の現実的本性は,どこまで細分化することが可能なのかということについては,僕はスピノザの哲学の中では決着をつけることができない問題だと考えているからです。個物の現実的本性というのは,すべての個物の現実的本性というように,きわめて一般的に考えることもできます。実際,第三部定理七で示されているような個物の現実的本性というのは,個物が現実的に存在するという場合には必ず共通するような現実的本性であるといえ,それはどの個物が現実的に存在したとしても同様であるといえるでしょう。
しかしこれとは逆に,個物の現実的本性は,細分化しようと思えばいくらでもできるように僕は思うのです。
14日に指された第30期竜王戦 挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は羽生善治三冠が3勝,松尾歩八段が2勝。
振駒 で羽生三冠の先手。松尾八段の横歩取り8五飛 に。
後手が角を打った局面。前例は☖6四角と打っていて,これは松尾八段の新手。こちらに打っておくと後で先手が☗6五桂と跳ねられない分だけ得という判断だったようです。
新手を指されて先手は決断を求められる局面。飛車は逃げずに☗6二角成と切って☖同飛に☗4六銀と受けました。後手は☖6四角。
駒損して銀を打っているので先手は代償が必要。そこで☗3四歩と突いて桂馬を取りにいきました。ここは☖7五歩も有力だったそうですが☖4四歩と突きました。次は逃げられるので☗3三歩成はこの一手。そこで☖同金 と取ったのがいい受け方だったようです。
ここから☗5六歩☖5四歩。この局面で☗5五歩と突いて2九の桂馬を使うのが本筋だったようです。実戦は☗7四歩と取って☖7二飛に☗4八金と固めました。後手は☖2四金。
この局面は先手の駒得ですが銀は打っていて,後手が受け止めることには成功しているようです。ただ,この対応自体は先手としても有力なのではないかと思います。将棋は決着がつく直前まで僅差の競り合いが続いていたものと思われますが,基本的に攻勢をとっていた先手が勝ちました。
羽生三冠が先勝 。第二局は25日です。
なぜ現実性について理解するときに,持続とは無限定な存在の継続であるDuratio est indefinita existendi continuatioという第二部定義五 だけを知っていても十分ではないのかといえば,最も簡潔にいえば,第一部公理四 に関係します。この公理Axiomaによれば結果の認識は原因の認識を含んでいなければなりません。あるものが現実的存在としてあるいは現実的本性actualis essentiaを有するものとしてあるようになるときには,それは結果としてそうなるのです。したがってその認識はその原因の認識を含んでいなければなりません。いい換えればその原因の認識に依存していなければなりません。ところが存在は無限定な継続であるということは,たとえばあるものの現実的存在および現実的本性の原因ではあり得ません。というより,もっと一般的な意味で現実性の原因でもあり得ません。現実性の理解のためにはその原因の認識が不可欠なのであり,これだけでは不十分であることはここから明白でしょう。
このときに,一般に個物res singularisの本性と個物の現実的本性は異なっているということが重要なのです。それは異なったものなので,論理的には一方が原因であって他方が結果であるということができることになります。ところが,一般に個物の本性は個物の現実的本性の原因ではあり得ません。もちろん個物の現実的本性の方が個物の本性の原因ではあり得ないことは明白でしょう。しかるに,第一部公理三 によれば,一定の原因が与えられると一定の結果が生じることになっています。つまり原因が同一であるなら結果も同一であることになります。逆に同一の結果が生じるときには,その原因は同一であるということになります。ところが個物の本性と個物の現実的本性は同一のものではなく異なったものなので,それらが同一の原因によって与えられるということはありません。したがって一般に個物の本性および存在の原因が何であるのかということを知っていたとしても,それで個物の現実的本性および現実的存在の原因を知っているということにはならないのです。なので個物の現実的存在および現実的本性について理解する場合には,それだけを抽出して,個物の本性および存在とは切り離して考えていかなければなりません。
昨晩の第29回ブリーダーズゴールドカップ 。
逃げたのはビービーバーレル。これにマイティティーが絡んでいくような形になり,向正面では3番手以降に5馬身ほどのリードを取りました。単独の3番手にタイニーダンサー。ステファニーランが4番手。発走後の正面では内に押し込められるような形だったクイーンマンボは抜け出して5番手。6番手にジュエルクイーンでその後ろにオージャイトとスルターナ。3番手以降はここまで集団。ハイペースだったと思われます。
逃げたビービーバーレルは3コーナー手前で早くも鞭が入って後退。自然とマイティティーが先頭に。タイニーダンサーとクイーンマンボが追い,ジュエルクイーンも続き,さらにオージャイトとスルターナ。直線に入ると逃げ込みを図るマイティティーと追い縋るクイーンマンボが,追い上げて単独の3番手まで上がったオージャイトを引き離していきマッチレース。クイーンマンボはよく喰らいつきましたが最後の最後まで抜かせず,優勝はマイティティー。4分の3馬身差の2着にクイーンマンボ。6馬身差の3着がオージャイト。
優勝したマイティティー は重賞初制覇。昨年の10月に1600万を勝った後,牝馬重賞を2戦して共に大敗。前走の牡馬相手のオープンもその2戦以上の差をつけられての大敗と,オープンでは頭打ちという状況だったのですが,変わり身をみせました。ただ,牡馬相手に1600万を勝つような牝馬は牝馬重賞では好走できる筈で,それ以降は不可解なくらいの大敗であったと考えてもいいでしょう。一般的にいえばダート戦は3歳馬は古馬相手に最初のうちは苦戦するもので,食い下がった2着馬との力関係は,将来的には逆転していくのではないかと思いますが,3着以下には決定的な差をつけたのも事実であって,大敗続きであったからといってフロック視するのは危険ではないでしょうか。祖母は2000年のJRA賞最優秀4歳牝馬のチアズグレイス 。4人共有の馬で,Tityはその4人の頭文字だそうです。
騎乗した池添謙一騎手と管理している本田優調教師はブリーダーズゴールドカップ初勝利。条件は異なりますが第14回は本田優騎手が制していて,騎手と調教師でのダブル制覇です。
本性が存在を含むessentia involvit existentiamというのは第一部定義一 にあるように自己原因causam suiのことです。ですからこのことはこの意味で解することしか許されません。しかし本性と存在existentiaが切り離されるとか,本性と存在が一致するというのは,スピノザがそれを規定しているわけではありませんから,あくまでも解釈上の問題にしかなり得ません。
第二部定理八系 で個物の存在 が二通りの仕方で示されるとき,個物res singularisが神Deusの属性attributumに包容されて存在する場合には個物の本性と個物の存在は切り離されていて,個物が現実的に存在するといわれるようになるとその個物の本性と存在は,現実的本性actualis essentiaと現実的存在として一致するようになるといっているように,『スピノザ哲学論攷 』の主張は解釈できるようになっていると僕には思えます。もし河井が本当にそう主張したいのであれば,僕はここまで考察してきた事柄から,そのことに同意しません。ですが切り離されるとか一致するというのは解釈上のことでしかないなら,この点について追及する必要を感じません。
一方,河井の論考自体が無意味であるとは僕はまったく考えないです。第三部定理七の意味 のうちに,人間の本性と人間の現実的本性は異なるということを僕は示しました。もちろんこのことは人間にだけ特有に妥当するわけではありません。もっと一般的に,個物の本性と個物の現実的本性は異なると考えなければならないのです。ですから,個物が神の属性に包含されているという場合には個物の本性だけ考えればよいのですが,個物が現実的に存在している場合には,個物の本性について考えるだけでは十分ではなく,個物の現実的本性について考えておかなければならないのです。
このときに重要なのは,現実的本性とか現実的存在といわれる場合に,現実的であるというのはどういうことであるのか,いい換えれば現実性とは何であるのかということを,現実的存在や現実的本性について考える前に知っておかなければならないということです。現実的に存在するということは持続duratioのうちに存在するということであり,したがって第二部定義五 によってそれは無限定なindefinita継続continuatioのことであると解しておくだけでは不十分なのです。
15日にいわき平競輪場 で争われた第60回オールスター競輪の決勝 。並びは新田‐渡辺‐山崎の福島,深谷‐竹内‐浅井‐坂口の中部で脇本と原田は単騎。
新田がスタートを取りにいって前受け。4番手に脇本,5番手に原田,6番手から深谷で周回。残り3周のバックから深谷が発進。新田が一瞬だけ抵抗する素振りを見せたものの叩いた深谷が前に。ただ,竹内が深谷に接触してしまい落車。竹内は再騎乗して最下位で入線はしたものの過失走行で失格。この影響で深谷の後ろは口が開いてしまいましたが,コーナーにかけて浅井‐坂口で追い上げ深谷とドッキング。単騎のふたりが追えなかったので4番手に新田,7番手に脇本,実質は最後尾の8番手に原田という一列棒状に。この隊列のままホームからバックを通過して打鐘。ここから深谷が本格的に踏み込んで先行。脇本は動いたもののほとんど前に出られず,バックに入ったところから新田が発進。浅井はほぼ牽制できず,山崎が追えなかったので渡辺の後ろにスイッチ。直線に入る手前から新田がやや蛇行したので渡辺は新田の内に進路を選択。フィニッシュ寸前で差して優勝は渡辺。4分の1車輪差の2着に新田で地元のワンツー。浅井が3車身差で2着。
優勝した福島の渡辺一成選手は1月のいわき平記念 以来の優勝。ビッグは昨年2月の全日本選抜競輪 以来の3勝目。GⅠは2勝目。このレースは竹内が深谷の前を回るならおおよその展開は予想しやすかったのですが,深谷が前で番手に浅井ではなく竹内ということで,ちょっと読みづらくなりました。先行は深谷の可能性が大で,意外とマイペースになることもあり得そうでしたし,それを嫌って新田の先行になるパターンもありそうでした。深谷の先行は可能性としては最も大きなものでしたが,竹内が不注意で落車してしまったので,事前には予想できない形に。中部が4人いただけでも結果は変わり得ましたし,その場合には単騎のふたりが新田より前にいた可能性も大でしょうから,違った結果にもなり得たのではないかと思います。
第二部定義五 は,持続は無限定な存在の継続Duratio est indefinita existendi continuatioだといっています。個物 res singularisが現実的に存在するとは,その個物が持続のうちに存在するということです。ですがその存在は無限定な継続と考えなければなりません。なので個物の現実的存在とその個物の現実的本性actualis essentiaが一致するのであれば,個物の現実的本性も無限定な継続であると考えなければならないことになります。
これは不条理ではありません。確かに現実的に存在するすべての個物は,いつかは現実的に存在することをやめる,いい換えれば現実的に存在しなくなるのですが,単にその個物の現実的存在すなわち現実的本性にだけ着目するなら,そうしたことがそのうちに含まれているわけではないからです。僕は個物の本性 には個物が持続するものであるということが含まれていなければならないと解釈しますが,その持続は無限定な継続であるとみるなら,それは両立し得るといえるでしょう。
実際に『エチカ』では,個物の現実的本性が無限定な継続を含んでいるというようになっています。第三部定理八で,次のようにいわれているからです。
「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は,限定された時間ではなく無限定な時間を含んでいる 」。
この定理Propositioの最初の部分に示されている傾向が,第三部定理七 で個物の現実的本性と規定されているので,この定理が個物の現実的本性が無限定な持続を含むという意味になることは明白でしょう。
スピノザはこの定理を,第三部定理四 に訴えて証明しています。つまりもし無限定な時間ではなく一定の時間を含んでいるなら,それはそれ自身によって滅ぼされ得ることになりますが,それは第三部定理四に反するという論証です。しかしまたこの定理は,第二部定義二の意味 に訴えることによっても証明できると僕は考えます。個物の現実的本性のうちにその個物の存在の限定determinatioが含まれているのだとすれば,個物の現実的本性は個物の現実的存在を排除し得ることになります。しかし一般に事物の本性は事物の存在を定立するけれども排除することはないのですから,個物の現実的本性にそうしたことが含まれるということは不可能であるのです。