スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

別府八湯ゆけむりカップ&弁明書の内容

2015-06-30 18:55:27 | 競輪
 GⅠから中4日で開幕した別府記念の決勝。並びは浅井-金子の中部に渡辺,川村-川木の近畿に浦川,松岡-井上-橋本の西国。
 井上と浅井が飛び出しましたが,枠の差もあり誘導の後ろは井上が確保し松岡の前受け。4番手に浅井,7番手から川村で周回。残り2周のホームから川村がゆっくりと上昇。バックに入ってから松岡を叩いて打鐘。松岡が引いたので7番手になった浅井が発進。川村の後ろを狙うような動きになりましたが,川木が許さず。それでもホームですんなりと4番手に入ることができました。後方になってしまった松岡が動いたものの,バックの入口で浅井がこれを制して発進。川木の抵抗はあったものの乗り越え,ラインで出切って直線勝負。金子が差して優勝。浅井が4分の3車輪差の2着に粘り,1車身差の3着も渡辺で浅井ラインの上位独占。
 優勝した愛知の金子貴志選手は昨年8月の富山記念以来となる記念競輪8勝目。別府記念は初優勝。ここは浅井の力量が上位で,しかもかなり調子がよさそうでしたから,おそらく差すか残るかの勝負になるであろうと考えられました。打鐘の後,浅井が変に脚を使ってしまった影響もあったと思いますが,4番手からの捲りを楽に差したのですから,金子の調子もなかなかのものであったということでしょう。自力でも戦うことはできますし,強い選手の番手を回れるケースも多いので,優勝回数はまだ増やしていかれるものと思います。

 弁明書の内容については,後の『神学・政治論』に含まれるものが記されていたと考えている識者が多数です。発見されていない,おそらくは今後も発見されることはないであろう文書を詮索することは無意味かもしれません。ただ,僕はそうした推測というのは,妥当で合理的なものであると考えています。
                  
 「シナゴーグ離脱の弁明書」というタイトルから推測できるのは,そこにはスピノザがユダヤ人共同体から離脱する理由が説明されていたであろうということです。そしてその理由というのは,スピノザが重視していた哲学する自由と大きく関係していただろうと僕は考えます。『神学・政治論』は哲学する自由を踏みにじれば,国家の平和も損なわれるということを主張したものです。つまり弁明書のタイトルから連想されるものが『神学・政治論』にはあるといえると思います。
 哲学する自由がそれほど大切なものであるならば,それを認めない組織からはスピノザはむしろ自発的に離脱するでしょう。そして実際にスピノザがシナゴーグから破門された1656年の時点では,アムステルダムのユダヤ人共同体が,スピノザにとってはそういう組織になっていたのだと思います。したがって破門の理由は,スピノザの哲学および神学に関わる思想的側面にあったと僕は理解しています。
 1953年の時点で,ヨハン・デ・ウィットがホラント州の法律顧問となり,実質的にオランダ国家の主権者となっていました。このために当時のオランダは,ほかのヨーロッパ諸国と比較しても,はるかに思想的自由が認められてたといえます。ですから哲学する自由を重視するスピノザが,それを認めようとしないユダヤ人共同体から離脱しやすかった環境にもあったと思います。つまりスピノザは自身の哲学する自由を守るためには,「ユダヤ人」であるよりも「アムステルダム市民」である方が有利であると考えやすかったのだと思います。
 この推測は,ずっと後にスピノザがハイデルベルク大学教授の地位に招聘されたとき,それを断った理由ともリンクするといえるでしょう。基本的にふたつは,同じような原因から生じた結果であると僕は考えます。
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レディチャッター&シナゴーグ離脱の弁明書

2015-06-29 19:19:32 | 血統
 昨日の宝塚記念を勝ったラブリーデイは,1959年にイギリスで産まれ輸入されたレディチャッターという馬が母系の基礎輸入繁殖牝馬にあたります。ファミリーナンバー19。現在に続いている一族は,ほとんどが孫のペルースポートの子孫であると思います。
                         
 一族で最初に重賞を勝ったのはペルースポートの仔のシャダイチャッターで,1985年の小倉記念です。これは僕の競馬キャリアが始まる前年ですので,僕は知りません。シャダイチャッターは牝馬で,孫に2008年のオーシャンステークス,2009年のCBC賞と京阪杯を勝ったプレミアムボックスがいます。
 1989年に京成杯と函館記念を勝ったのがスピークリーズン。この馬はペルースポートの孫世代。1998年の福島記念を勝ったオーバーザウォール,2006年の福島記念と2007年の七夕賞を勝ったサンバレンティン,2005年の京都新聞杯,2007年の朝日チャレンジカップと京都大賞典を勝ったインティライミの3頭はきょうだいで,同じようにペルースポートの孫世代になります。
 2005年の朝日チャレンジカップを勝ったワンモアチャッターと2012年の中日新聞杯を勝っている現役のスマートギアも兄弟。この2頭はプレミアムボックスと同じようにペルースポートの曾孫世代です。
 この兄弟の姉から産まれたアリゼオは2010年にスプリングステークスと毎日王冠を勝ちました。ペルースポートの4代子孫になります。
 ラブリーデイはペルースポートの5代子孫。そしてこの一族から初めての大レースの勝ち馬として名を残すことになりました。
 子孫が勝っているレースからも窺えるように,平坦巧者を多く出している一族です。とくにサンバレンティンが勝った2006年の福島記念は,1着から3着まで,ペルースポートの子孫で独占しています。大レースに手が届かなかったのは,そういう傾向の影響があったかと思いますが,代を経て,底力も伴ってきたのではないでしょうか。ファンシミンがそうであったように,なかなか大レースの勝ち馬が出なかった一族から1頭が出現すると,続々と勝つというケースもあります。レディチャッター~ペルースポートの一族にも,その可能性はあるのではないでしょうか。

 メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがウリエル・ダ・コスタUriel Da CostaのようになりたいのかとバルーフBaruchを恫喝したとき,破門されたいのかという意味を込めていたと僕はみています。なぜならその直後にメナセは,ユダヤ民族に背くという意味において,バルーフをダ・コスタに擬えているからです。
 これに対してはバルーフは,顔色ひとつ変えずに静かに答えたとルイは伝えています。バルーフの答えは,気の毒なダ・コスタの後を追うつもりはないというものでした。ダ・コスタを気の毒といっている点も注目に値すると思いますが,僕が重視したいのは別のところにあります。
 バルーフはダ・コスタの後を追うつもりはないと言っていますが,それは破門されないようにするという意味ではなかったと僕には思えるのです。なぜなら直後にバルーフは,自殺は犯罪だと続けているからです。
 自殺を否定することは,『エチカ』の文脈からも理解可能で,すでにこの時点でスピノザがこうした見解を有していたというのは,スピノザの哲学的思想がかなり若いうちから固まりつつあったということなのかもしれません。しかしそれより,もしもダ・コスタのように自殺するつもりはないとバルーフが答えたのだとしたら,それはもし破門されることになっても自殺はしないと読解できることになります。そして事実,この答えにはそういう意味があったと僕は解するのです。
 スピノザは破門されたとき,スペイン語で「シナゴーグ離脱の弁明書」を書いたとされています。文書は発見されていませんが,これを史実として疑っている識者を僕は知りません。ですから実際にそういう文書はあったのでしょう。
 この文書は,題名からして,ユダヤ人共同体から離脱することを前提しています。つまり改悛の意を示すような内容でなかったと類推されます。いい換えれば破門を解いてもらおうという意志はスピノザには皆無であったと判断するのが妥当です。このことと,まだ破門以前に,仮に破門されてもダ・コスタのように自殺はしないと発言していたことは,符牒が合うように思えます。1950年の時点で,後の弁明書を書く兆しが,僕には垣間見えるのです。
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宝塚記念&ウリエル・ダ・コスタ

2015-06-28 18:55:06 | 中央競馬
 中央競馬の上半期の大レースを締め括る第56回宝塚記念
 ゲート内で立ち上がった影響でゴールドシップが大きく遅れての発馬。どうやら今日はあまり走りたくなかったようです。逃げたのはレッドデイヴィス。単独の2番手にラブリーデイ。その後ろはトーセンスターダムとオーシャンブルーの併走。5番手はネオブラックダイヤ。ショウナンパンドラとヌーヴォレコルト,ワンアンドオンリーとトーホウジャッカルがそれぞれ併走で続き,ディアデラマドレが追走。カレンミロティック,ラキシス,トウシンモンステラでここまでほぼ一団。あとはアドマイヤスピカ,デニムアンドルビー,ゴールドシップがぽつんぽつんと追走。最初の1000mが62秒5という超スローペースでした。
 直線に入るとラブリーデイがレッドデイヴィスを追い抜いて先頭に。これらを目標に追ってきた馬たちを置き去りにして一旦は完全に抜け出しました。迫ってきたのは末脚を炸裂させた大外のデニムアンドルビー。しかしぎりぎりで残してラブリーデイが優勝。デニムアンドルビーがクビ差で2着。最内から脚を伸ばしたショウナンパンドラが1馬身4分の1差で3着。
 優勝したラブリーデイは大レース初勝利。デビューから連勝した後,2歳から3歳にかけては重賞2着が3回。4歳の昨年はオープンで1勝。5歳の今年になって中山金杯,京都記念,前走の鳴尾記念と重賞を3勝。ここはゴールドシップ以外は能力的に大差がないメンバー構成。ゴールドシップが走らなければ近況から十分にチャンスがあると思われました。中距離タイプの馬で,これ以上の距離延長がプラスになることはないと思われます。父はキングカメハメハ。母の父はダンスインザダーク
                         
 騎乗した川田将雅騎手は安田記念に続いて大レース制覇。宝塚記念は初勝利。管理している池江泰寿調教師は先月のオークスに続く大レース制覇。第50回,53回に続く3年ぶりの宝塚記念3勝目。

 少年の質問に対してメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelが激怒したのは本当のことだと思います。というのも,「バルーフBaruch」と怒鳴った後でメナセは,すぐに質問には答えず,お前は第二のウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaになりたいのか,と恫喝めいたことを言っているからです。
 ダ・コスタについて書けばそれだけで一冊の本ができ上がります。ここでは簡単な紹介にとどめましょう。
 ダ・コスタは1585年にポルトガルで産まれました。キリスト教徒でしたが,ユダヤ教に心酔。1612年にアムステルダムのユダヤ人居住区に住むようになりました。アブラハムという弟がいて,マアマドという,共同体の理事会の役職を一時的に務めていました。また学校の評議員の経験もあります。これらの役職はスピノザの父も務めていましたので,知り合いであった可能性が高いと思われます。
 アムステルダムに住むようになったダ・コスタは,ユダヤ人居住区のユダヤ教徒たちが,ユダヤ教の真の教えには背いているように思えました。結果的にダ・コスタはアムステルダムの指導的なラビたちに反抗するようになり,一時的にハンブルクに移ってラビを批判する内容の著書を出版,1618年に破門されます。
 ダ・コスタはその後でアムステルダムに戻りましたが,破門が解かれることはありませんでした。1623年にはアムステルダムの共同体によって破門の念押しをされます。その後,一旦は指導者たちと和解し,共同体への復帰を許されましたが,やはり共同体の教えを遵守するということはできず,1633年にそれまでより厳格な破門を言い渡されてしまいます。
 孤立無援となったダ・コスタは,1640年に改悛の意を表明。破門を解かれるのですが,このときの儀式があまりに屈辱的であったため,ピストルで自殺してしまいました。
 「レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt」では,話の流れでファン・ローンJoanis van Loonとメナセがダ・コスタについて話す場面があるのですが,これはユダヤ共同体内の事件ではなく,アムステルダム市民全体にとっての一大スキャンダルであったようです。つまりダ・コスタ事件は一般に広く知れ渡っていたと解してよいようです。
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入団前の鶴田&質問

2015-06-27 19:29:21 | NOAH
 全日本プロレスに入団する以前のジャンボ・鶴田には,運動神経の卓越さを示すエピソードがあります。ですが門馬忠雄の『全日本プロレス超人伝説』を読んだところ,僕はいくつか勘違いしていたことが分かりました。
                         
 鶴田は高校時代はバスケットボールをやっていました。そして受験で中央大学に入学。入学してレスリングを始めたと思っていたのですが,大学1年のときはまだバスケットボールを続けていたそうです。
 鶴田の夢はオリンピック出場。しかし大学1年のときに,バスケットボールでの出場が不可能になり,夢を目指してレスリングに転向。これも僕は大学のレスリング部に移籍したと思っていましたが,中央大学のレスリング部は名門で,未経験の鶴田がすんなり入部できるようなところではありませんでした。そのとき,自衛隊の体育学校が練習生を受け入れていたので,鶴田はそちらでレスリングの手ほどきを受けたそうです。三沢が全日本への入団を希望したとき,鶴田に自衛隊を紹介されたというような話があり,僕はなぜ鶴田と自衛隊に繋がりがあるのか分からなかったのですが,このときに培われたものだったのでしょう。
 鶴田はあっという間に素質を開花させ,大学生の身分で社会人の大会に出場。重量級の人材が少なかったこともありますが,大学2年,3年と100キロ超級でどちらのスタイルも優勝。今度は逆に請われることになり,大学4年で中央大学のレスリング部に入部しました。
 1972年の全日本選手権で優勝。鶴田は念願のオリンピック出場を果たしました。日本のレベルと世界のレベルは圧倒的な差がありましたから,オリンピックで勝利をあげることはできませんでしたが,夢は叶えたことになります。もしこのとき,強力なライバルがいて,鶴田のオリンピック出場を阻むようなことがあったら,鶴田の全日本入団はもっと後になっていたかもしれませんし,あるいはなかったかもしれません。

 メナセ・ベン・イスラエルクロムウェルに対する評価を聞いて,黒い瞳の少年が質問します。クロムウェルがユダヤ人の高尚な宗教上の原理のためにユダヤ人を尊敬しているのが事実であるとしても,同時にクロムウェルは,ユダヤ人の商才を,イギリス国家の発展のために利用しようとしているのではないか,というのがルイが記述している質問の内容です。
 ルイは確かにこのように記述しているのですが,僕はこの質問の主意は,ルイの記述とは異なったところにあったのではないかと考えています。ルイの記述ですと,少年は,クロムウェルはユダヤ人の宗教的理念を尊敬し,かつその商才を評価しているというようになっています。でも僕が考える質問の主意は,これらふたつの事柄が,同等にあるのではありません。クロムウェルの真意は,イギリス国家の発展のためにユダヤ人の商才を利用するという部分の方にあるのであって,ユダヤ人を尊敬しているというのは,そのための手段ではないかという意味だったと思います。いい換えれば,もしもユダヤ人のうちに,イギリスを国家として繁栄させるような要素をクロムウェルが発見しなかったとすれば,クロムウェルはその宗教のゆえにユダヤ人を評価することもないだろうという意味が含まれていると思うのです。ルイが記述している内容の通りですと,仮にユダヤ人に商才がなかったとしても,宗教的な側面からはクロムウェルは変わらずにユダヤ人を高く評価することになると読めますから,僕が考える質問の主意とは異なっていることは分かってもらえるものと思います。
 僕が少年の質問の主意をこのように解するのは,後続する部分との関係からすれば,そういう意味であったと理解する方が、辻褄がよく合うように思うからです。ただし,この点はあくまでも僕の解釈ですから,この部分を熟読した上で判断されることを望みます。仮に僕の解釈が誤りであったとしても,今後の探求には大きな影響はない筈です。
 この質問を聞いて,メナセは突然とても怒り始めたとルイは報告しています。そして「バルーフ」と怒鳴るのです。このとき,ルイは少年の名前を知ったものと思われます。
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第三部定理四一&クロムウェル

2015-06-26 19:12:22 | 哲学
 第三部定理四〇と対になるのが次の第三部定理四一です。
                         
 「もしある人が他人から愛されると表象し,しかも自分は愛される何の原因も与えなかったと信ずる場合は(こうしたことはこの部の定理一五の系および定理一六によって可能である),彼はその人を愛し返すであろう」。
 憎しみの原因を与えなかったと確信する相手に憎まれたなら,その人はその相手を憎み返すことになります。であれば,愛する原因を与えなかったと確信する相手から愛されたなら,その人はその相手を愛し返すことになるでしょう。愛と憎しみは反対感情なので,憎しみの発生に関して妥当することは,愛の発生に関しても妥当しなければならないからです。ですから論理的にいえば,憎しみの連鎖が生じ得るように,愛の連鎖も生じ得ることになります。
 ただし,現実的には憎しみの連鎖というのはしばしば起こりますが,愛の連鎖が発生することは稀です。これは論理的にいえば,人間の現実的本性というものがそのようになっているからです。でも,経験的に考えても理解できるところではないでしょうか。というのは僕たちは,他人から愛を受けるであろうという事柄については,概ねそのことを自覚的になすのに対し,他人から憎しみを受けるであろうと明確に意識している事柄を他人になすことはあまりないからです。いい換えれば僕たちは,他者から愛されることは欲望しがちですが,憎まれることを欲望することはほとんどないからです。
 愛される原因を確かに与えたという場合,人は第三部諸感情の定義三〇の名誉を感じます。これは恥辱が滅多に起こらないのと逆にしばしば生じます。一方,愛する原因を与えていない場合の愛し返しについては,スピノザは感謝と定義し,これは滅多に起こりません。人間の現実的本性は,恥辱を感じるよりも名誉を求めることに,そして感謝することよりも復讐することに,大きく傾いているのです。

 メシアの再来が近付いていると考えていたメナセ・ベン・イスラエルは,ユダヤ人をイギリスに連れて行くという計画を立案していました。ルイはメナセがこの計画に夢中になっていると伝えています。
 ここでルイが質問します。イギリスは13世紀の末から,ユダヤ人が国内に入ることを禁じていました。それなのにどうやってそれを実現するのかという質問です。
 この頃イギリスでは,クロムウェルを中心とする清教徒革命が成就していました。クロムウェルが正式に護国卿になるのはこれより後のことですが,すでにイギリスの統治者は実質的にクロムウェルになっていた時代です。メナセは,クロムウェルはユダヤ人の宗教上の原理を尊敬しているから,イギリス入国が許されるようになるという主旨で答えています。この一連の問答は不条理なところがいっかなありません。つまり仮にルイがこの内容に興味を有していなかったとしても,ルイがメナセの話を大筋で正確に把握していたのは間違いないといえるでしょう。後の部分で,メナセはクロムウェルのことを第二のモーセといっています。こういう印象的なことばを聞き違えるとは思えず,確かにメナセがそう発言したと僕は解します。それくらいメナセはクロムウェルを評価していたと考えてよいでしょう。
 世界史的観点からはやや不思議にも思えます。これが1950年の会話であったとして,翌1951年にクロムウェルは航海条例を発布します。これによって最も打撃を受けたのは,輸出入が生業であったオランダの商人たちでした。まだ破門される前のスピノザと貿易に密接な関係があった時代で,スピノザも,あるいはスピノザ一家もこの条例の被害を蒙った可能性が大いにあります。そしてその次の年,1952年からオランダとイギリスで戦争が勃発します。つまり1950年代初頭,オランダとイギリスの関係は,少なくとも良好なものではなく,むしろ険悪だったと考える方が妥当だと思えます。
 もっとも,メナセ自身は国家としてオランダがイギリスとどういう関係かは,ほとんど関心がなかったかもしれません。関心の中心はクロムウェル個人にあったのでしょう。
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イワンの使嗾&メシアの再来

2015-06-25 19:18:05 | 歌・小説
 『カラマーゾフの兄弟』でスメルジャコフがフョードルを殺すのは,イワンの使嗾によるものです。ただ,この使嗾は,『悪霊』のフェージカによるマリヤ殺害がスタヴローギンの使嗾によるものであるというのとは,やや意味合いに異なるところがあると僕は理解しています。
                         
 スメルジャコフは3人の兄弟のうち,イワンに対しては好感を抱いていました。あるいは私淑していたといってもいいでしょう。それでスメルジャコフは,イワンの精神のうちに,フョードルに死んでほしいという願望があるということを確信するに至り,フョードル殺害を実行するのです。テクストとしてこれがはっきり明示されるのは,殺害後に,スメルジャコフがイワンのために殺したのだと明言する部分だと思います。
 イワンはこのスメルジャコフのことばを聞いて,確かにフョードル殺害の実行犯はスメルジャコフだったけれども,事実上の犯人は自分であると思うようになります。あるいは意識するようになります。このためにイワンは罪悪感にひどく苛まれるようになるのです。
 イワンの精神のうちに,フョードルに対する「父殺し」の願望が,前々からあったということは間違いないでしょう。ただ,イワンがそれを自覚していたかといえば,必ずしもそうはいえないと思うのです。むしろスメルジャコフの方が敏感にイワンの無意識を察知し,その願望を代行した後で,そういう願望があったことをイワンにはっきりと自覚させたと読解できるようになっていると思います。
 フョードル殺害に有利な状況をイワンが拵えたのは,イワンの意識下の父殺しへの願望がなしたことだと解することはできます。スメルジャコフの殺人がその欲望の代行であるのも間違いないですが,イワンが意図的にスメルジャコフを唆したというのとは,この使嗾は異なっていると考えます。

 ファン・ローンがニューヨークに旅立つ前,レンブラントの自宅で初めてメナセ・ベン・イスラエルと会って話をしたとき,ローンは一緒にアメリカに行かないかと誘いました。これは冗談です。ところがメナセは真面目な誘いと受け取ったようです。そして是非そうしたいのだけれどもユダヤ民族が荒野から出る時節はまだ到来していないと答えました。さらに続けて,まだ太平洋が陸地続きだった頃に,行方不明となっているユダヤ民族はアメリカへと渡り,すでに当地で暮らしているという主旨のことを言いました。
 これはローンが記している通り,異常な発言です。その場に居合わせたメナセ以外の人びとが互いに顔を見合わせたといっています。ローンはスピノザとも平然と交際を続けたように,この時代としてはかなりリベラルな思想を有していました。この場にいたほかの人たちがローンほど自由思想の持ち主であったかは分かりませんが,仮にそうでなくてもこのメナセの発言を訝しく思って不思議ではないでしょう。とりわけローンには笑いを堪えなければならないような内容ではなかったかと推測します。
 このうち,行方不明のユダヤ民族がアメリカに渡った云々の話は関係ありません。ローンが,ユダヤ民族が荒野から出る時節がまだ来ていないといっている点に注目します。裏を返せばこれは,いずれはそういう時節が到来するということを,メナセはユダヤ教徒として,あるいは律法学者として確信していたということの証明であるといえるからです。
 渡辺がいっている通り,ジャン・ルイの手紙に書かれている内容が起こったのが1950年であるとするなら、前の発言からは7年後のことになります。そのときにはメナセは,メシアの再来が近付いているという考えを持っていました。だからその機会を逃さないために,なるべく近いうちに,ユダヤ人が世界の各地に定住しなければならないと表明しています。メシアが地上のどの地を選んで降りてくるかは分からないからというのがその根拠です。
 これらはメナセ個人の考えです。当時のユダヤ教徒のすべてが,メナセと同じように考えていたわけではありません。
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農林水産大臣賞典帝王賞&信憑性への疑義

2015-06-24 20:36:02 | 地方競馬
 上半期のダートチャンピオン決定戦,第38回帝王賞
 最内枠に入ったのでホッコータルマエが逃げてしまうこともあり得るとみていましたが,クリノスターオーがハナへ。正面で行きたがったようなクリソライトが競り掛けるような形の2番手となり,向正面に入ったところでは後ろと少し差が開きました。3番手はワンダーアキュートとニホンピロアワーズの併走。この直後の外にホッコータルマエ。また差が開いてハッピースプリント。前半の1000mは59秒9のハイペースになりました。
 3コーナーでクリソライトがクリノスターオーの外に並んでいくとクリノスターオーは後退。外から追い上げたホッコータルマエが2番手に上がって直線。ホッコータルマエはクリソライトを難なく交わし,そのわりに差を広げることはできませんでしたが危ないところはなく優勝。クリソライトが4分の3馬身差で2着。ホッコータルマエをマークするようなレース運びになったハッピースプリントが2馬身半差で3着。
                  
 優勝したホッコータルマエは1月の川崎記念以来の勝利で大レース9勝目。第36回以来2年ぶりの帝王賞2勝目。能力的には負けられないメンバー構成。不安はドバイ遠征以来のレースであった点。昨年はドバイで体調を崩し,この時期はレースに使えないほどでしたが,今年は順調でしたから,たぶん大丈夫であろうと思っていましたが,その思いに応えてくれました。このくらいの距離になると現状は対抗できそうな日本馬は見当たりません。父はキングカメハメハ
 騎乗した幸英明騎手と管理している西浦勝一調教師は川崎記念以来の大レース制覇。第36回以来の帝王賞2勝目。

 メナセ・ベン・イスラエルとスピノザが知己であったことは判明しました。つまりメナセを介することによっても,スピノザとレンブラントは知り合う可能性があったことになります。僕が示したかったことはこれだけですが,ジャン・ルイの手紙の内容についても探求しておきます。これはナドラーが『ある哲学者の人生』でメナセに言及しているある部分と連関しているように思えますし,メナセがどういう人物であったかの一端を明らかにします。これを考えておくことも徒労ではないでしょう。
 この手紙には信憑性を疑わせる部分が含まれています。手紙の最後でルイは,メナセ邸での話題は自分には興味がなかったから,中途で人びとに別れを告げて立ち去ったと書いているからです。興味がない話題をルイが真剣に聞いていたかということを問題としなければなりません。
 ここまでの部分でいえば,メナセが少年をバルーフと呼んだ点は,疑いなく事実でしょう。こうした部分は聞き間違えることはないからです。ましてルイは,少年の姓は知らなかったといっているわけで,逆にいえば少年の名前には注目したということの証拠です。
 次に,僕がこのメナセ邸で行われていたのが私塾であることを推定した部分に関しても,疑う必要はないと思います。なぜならこの部分の話は,バルーフがルイに対して語ったことであって,ルイはそれを聞いていたから記述できたとしか仮定できないからです。いい換えればこの部分は,ルイが自分には興味がないといった話題のうちに含まれていないと考えるべきでしょう。
 最も問題となるのが,おそらくこれから検討する,メナセの発言です。しかしこれに関しても,ルイは大筋では正確にメナセの話を記していると理解して問題ないと思います。というのは,この話題に関しては,ルイ自身が質問をひとつメナセに対してしていて,メナセもその質問に答えているからです。事前のメナセの話,質問の内容,それに対するメナセの解答は,矛盾なく連関しています。メナセのことばがそっくりそのまま記述されていることはあり得ないでしょうが,大筋ではルイは正確なことを記述しているといえるでしょう。
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サンケイスポーツ盃優駿スプリント&ローンの確信

2015-06-23 20:46:54 | 地方競馬
 優勝馬には習志野きらっとスプリントの優先出走権が与えられる第5回優駿スプリント
 コンドルダンスが出遅れ。すっとハナを奪ったのはルックスザットキル。アクティフ,コールサインゼロ,エイシンアクロンの3頭が追走。ハーモニーウィル,メガンテ,ゴーノムラダイオー,ラガッソ,ジャジャウマナラシの5頭が集団,モリデンシーザーが単独でその後ろ。少し差があってカリエンとフィールドスラッピ。後方にキモンダッシュ,コスモグリズリー,アヴァンシア,コンドルダンスの4頭。前半の600mは34秒7のハイペース。
 3コーナーを回るとルックスザットキル,アクティフ,コールサインゼロが雁行で4番手以降との差が開きました。直線に入るとコールサインゼロは脱落。ルックスザットキルがよい手応えで徐々にアクティフとの差を広げ,3馬身差で逃げ切って優勝。アクティフも2着は楽に確保。出遅れての最後尾から内を回って追い込んだコンドルダンスが2馬身半差で3着。
 優勝したルックスザットキルはここまで9戦5勝。前々走まで1200mでは無敗でしたが,前走のトライアルは大敗していました。ただスピード能力が上位であることは疑い得ず,うまくコントロールできればまず勝ち負けと目された馬。今日は変に行きたがらなかったので快勝に。これまでで一番いい内容のレースをしたのではないかと思います。折り合えるならスプリント戦ではかなり上の方までいかれる馬だと思います。JRAの尾関調教師が2月にモトリー・クルーのファイナルツアーをさいたまスーパーアリーナに観に行ったけれども途中からになり,Looks That Killから参加することができたと記事にされていました。僕はバンドのことは何も分かりませんが,その曲を馬名にしたものでしょうか。
 騎乗した大井の早田功駿騎手,管理している大井の中村護調教師は南関東重賞初勝利。

 ジャン・ルイの手紙の中で,メナセ・ベン・イスラエルによってバルーフと呼ばれている少年がスピノザであると考えて構わないと僕が考える理由は,別のところにあります。
                         
 これは『スピノザの生涯と精神』の中に訳出されたものですから,その部分の内容は,あたかもバルーフ少年が主人公であるかのようになっています。でもルイは,バルーフ少年のことを伝えるという目的でファン・ローンに手紙を送ったのではないと僕は考えます。むしろルイの主目的は,メナセが何を考え,何を計画し,何を実行しようとしているかを伝えるためであったと思うのです。というのは,その部分の内容というのが,ローンがアメリカに旅立つ前に,レンブラント邸で,ローンがメナセにもアメリカ行きを誘ったときのメナセの答えとリンクしているからです。ルイがその場にいたかは不明ですが,ローンがその答えに関してどう考えていたのかは概ね理解していて,それと関係する事柄をローンに伝えようとしたと理解するのが,訳出されている部分から考える限り,最も妥当であると僕は考えます。
 ローンはこの後,すなわち帰国後もメナセに会っています。何よりメナセはレンブラントの親しい知人でしたから,「レンブラントの生涯と時代」というタイトルの手記にこの手紙をそのまま掲載したとしても不思議ではありません。しかしもしも手紙の内容に疑いがあれば,おそらくそうしなかったでしょう。つまりローンはバルーフ少年がスピノザであると確信していたのです。それは手記の別の部分で,ルイから受け取った手紙にあったスピノザといわれていることから明白です。
 ローンとスピノザは親しかったのですから,ローンには何らかの確信の根拠があった筈です。後にスピノザ自身に確認したかもしれません。またそうでなくても,この手紙にはスピノザの瞳に関する記述が二箇所あり,そのうちのひとつでは,バルーフ少年の瞳はルイが見ただれよりも黒かったとされています。こうした記述から,実際にスピノザを知っていたローンが,これは間違いなくスピノザであると確信したかもしれません。なので手紙のバルーフはスピノザだと僕は判断します。
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スピノザと啓蒙思想&バルーフ

2015-06-22 19:13:59 | 哲学
 『スピノザの方法』を読んで,僕はもしかしたら重要であるかもしれないひとつのことに気付きました。それは,スピノザ主義といわゆる啓蒙思想との間には,ある乖離があるということです。
                         
 啓蒙思想をどのように定義すべきかは難しいところがあります。ここでは,自分が獲得した真理を他人に教えることを重視する思想について,それは啓蒙思想であるといっておきます。そしてこの思想を啓蒙思想と定義する限り,スピノザ主義は啓蒙思想ではあり得ないと僕は考えるようになったのです。
 AがBであるということが真理であるとしましょう。もし啓蒙思想家がこれを他者に教えようとする場合,単にAがBであるということを教えただけでは十分ではありません。これは逆に考えれば明白です。なぜならもしこれで十分であるとするなら,人は他人から聞いた事柄がすべて真であると認識するということを前提しなければなりません。これでは偽であることも真であると認識するかもしれませんし,少なくとも不確実であることを真であると認識しなければならないことになります。
 他人の方がAがBであるということを真に認識するとは,その人間がなぜAがBであるかということを理解するということです。したがって啓蒙思想家はこれを教えなければなりません。ところがスピノザ主義では,一般に真理獲得の方法はありません。ですからその他人に対して、AがBであるということを説得力のある方法で説明できたとしても,なぜそれが真理であるかということは教えられません。それがなぜ真理であるのかということは,説明される側の精神ないしは知性に依存することになるからです。
 この種の啓蒙思想が成立するためには,一般的に真理を獲得する方法を,人は他人に教えるということが可能であると前提しておかなければならないのです。ところが,一般的に真理を獲得する方法を知るということは,真理を獲得するのと同時に,またそれによって初めて獲得されるものです。つまり,一般に真理を獲得する方法を,真理獲得以前に教えることはできません。よって個別の真理を教えるために,教える相手の精神のうちの真理の観念に依存しなければならないのです。

 ジャン・ルイの手紙で最も問題としなければならないのは,訳出部分の中身で中心的に語られている少年が,スピノザであると断定できるのかという点だと思います。
 手紙自体のテクストからそれを示すのは,一部分だけです。それはメナセがこの少年のことを「バルーフ」と呼んでいる部分です。たぶんルイがバルーフ少年と会ったのはこのときが初めてであったと思われます。手紙にはこの少年の姓が何であったかは知らなかったと書いてあります。
 奇妙ないい方に聞こえるかもしれませんが,スピノザにはみっつの名前があります。名前自体が意味をもっていて,それが言語別に訳されているからです。喩えていうならタイガー・ウッズを森寅雄と日本語に訳してしまうようなものといえるでしょうか。
 スピノザが産まれたとき,命名された名前はベントーでした。これはポルトガル語です。スピノザの父はポルトガルからオランダに逃れてきましたから,ポルトガル語で命名されるのが自然であったのでしょう。祝福された者,という意味があるようです。
 スピノザがユダヤ教の学校に通うようになると,それがヘブライ語に訳されます。その名前がこの手紙にも出ているバルーフです。つまり祝福された者という意味を有するヘブライ語がバルーフです。
 後にスピノザは自身で同じ意味のラテン語名を名乗ります。それがベネディクトゥスです。スピノザが生存中に発刊された二冊のうち,『デカルトの哲学原理』では実名を明かしていて,ベネディクトゥスが用いられています。
 メナセ・ベン・イスラエルが私塾を開講していたと仮定して,そこで教えられるのは当然ながらユダヤ教神学に関連する事柄です。ですからこの場ではヘブライ語が用いられるのが自然で,スピノザがヘブライ語名のバルーフと呼ばれたという記述には信憑性があります。バルーフという名前を有するユダヤ人がスピノザだけであったとは断定できないでしょうが,有力な証拠となり得るのは否定できないでしょう。
 教師が生徒を名前で呼ぶのは,日本人的感覚では違和感があります。ですが僕はそのこと自体には取り立てて意味はないと考えています。
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高松宮記念杯競輪&ジャン・ルイの手紙

2015-06-21 19:12:15 | 競輪
 岸和田競輪場で開催された第66回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは平原-武田-佐藤の東日本,脇本-稲垣-村上の近畿で石井,岩津,松岡は単騎。
 武田がスタートを取って平原の前受け。4番手に石井,5番手に岩津,6番手から脇本,最後尾に松岡の周回。残り2周のホームで脇本が一気に発進。平原を叩いて前に。松岡が追えなかったため,4番手に平原,7番手に松岡,8番手に石井,最後尾に岩津という一列棒状。そのまま打鐘。平原がホームから発進。これを見た稲垣がバックの入口で番手発進。後ろで村上と平原が絡むと瞬時に自力を出した武田が稲垣の後ろに。直線で粘る稲垣を捕えた武田の優勝。1車身差の2着に稲垣。武田マークの佐藤が半車身差で3着。
                         
 優勝した茨城の武田豊樹選手は4月の西武園記念以来の優勝。ビッグはやはり岸和田競輪場で開催された昨年末の競輪グランプリ以来の優勝で通算14勝目。高松宮記念杯は2012年以来3年ぶりの2勝目。当地ではほかに2009年の日本選手権でも優勝。2011年にはがんばろう日本in岸和田での優勝もあります。平原に任せたレースだったわけですが,バックでやや平原が苦しくなったときに,すかさず動いて稲垣の後ろに入れたところが勝負のポイントでしょう。昨日の準決勝はすごい苦しいレースになったものの3着に入ったように,調子も上向いていたのだと思います。また最近になってとても強い内容の競走をするようになっていますから,まだ中心選手として活躍してくれるでしょう。

 ナドラーが推測したスピノザとメナセの関係のうち,メナセの私塾にスピノザが通っていたということを強く匂わせるような内容が「レンブラントの生涯と時代」に含まれています。ローンは一時期,ニューヨークで暮らしていましたが,その滞在中に,アムステルダムにいた友人のジャン・ルイから何通かの手紙を受け取りました。その手紙の一部が訳出されています。ローンが実際に手記に掲載したのがこの手紙だけであったのか,あるいはほかにもあったのかは僕には不明です。
 この手紙は検証しなければならない事柄を多く抱えています。
 まず,ジャン・ルイというのがどういう人物であったのかは僕には分かりません。訳出されている部分では,この人物についての詳細が何も触れられていないからです。ただ,ローンに手紙を出したくらいですから,ローンとかなり親しかったということだけは間違いないでしょう。
 次に,渡辺は前後の関係からして,この手紙で語られているのは1650年の3月頃のことだと推測しています。真実に近い推測なら,スピノザは17歳か18歳です。手紙の中に登場するスピノザと思しき少年は,16歳か17歳くらいと書かれているので,大きな矛盾はありません。
 手紙の内容の舞台となっているのはメナセ・ベン・イスラエルの自宅です。ルイは,レンブラントのことが気になったので,レンブラント邸の近所にあったメナセ邸を訪ねました。ルイがメナセ邸に入ったとき,メナセは数人の来訪を受けていたと書いています。この数人というのは,メナセが開講していた私塾の生徒であったと推測されます。というのは,手紙の内容の中心となる少年は,ルイに対して,メナセのことを「先生」と呼んでいて,そのときに,一人称単数ではなく一人称複数の主語を使っているからです。ということはこの少年のほかにも先生に対する生徒がいたということの証明であると僕は解します。さらに,「いつも」と語っていますから,授業はこのときだけのことではなかった筈です。よってルイがメナセ邸を訪れたとき,定期的な私塾が開かれていて,何人かの生徒が通ってきていたということだろうと僕は思います。
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幼少期の経験&スピノザとメナセ

2015-06-20 19:07:20 | 歌・小説
 漱石の被害妄想については,幼少期の経験が影響しているのだという論評が数多くみられます。有名なところでは,吉本隆明や江藤淳がこういった見解を示しています。
                         
 漱石は1867年に産まれました。そのとき父が50歳で母が41歳。4人の兄と3人の姉がいました。
 生後間もなく,漱石は古道具屋もしくは八百屋の里子に出されます。しかし籠に入れられて商品と並べられていた漱石を見つけた姉のひとりが不憫に感じて連れ戻されました。
 翌1868年,今度は父の知り合いの家に養子に出されました。この年が明治維新の年。漱石の父は名主で,この知り合いも同じ名主でした。姓を塩原といいました。1872年に明治の戸籍制度が確立され,このとき漱石は塩原の実子として登録されました。すなわち戸籍の上でも夏目姓ではなく塩原姓を名乗ることになったわけです。
 ところが養父が不倫した上に愛人を囲ったため,養父母,戸籍上の実父と実母は1876年に離婚してしまいます。それで漱石は,戸籍上は塩原姓のまま夏目家に戻ることになりました。夏目姓に復籍したのはようやく1888年になってからでした。
 これでみれば漱石が特異な幼少期を過ごしたことは否定できません。それが成人後の精神障害の原因になっているということも,可能性としては否定できないでしょう。養子に出されることは現在よりも多くあったかもしれませんが,離婚率は逆に少なかったと思われます。その両方を経験している人間がそう多いとは思われないからです。
 吉本も江藤も,こうした経験は単に後の精神疾患の原因として作用しただけではなく,漱石が書いた小説にも影響を及ぼしているのだとしています。僕はこの種の心理学的決定論にはやや懐疑的ですが,それは間違っていると主張するつもりもありません。ただし僕は作家論と作品論では作品論の方を重視しますが,この主張は明らかに作家論的視点なので,作品をそういった視点から読むという点について,あまり興味を感じることはできません。しかしもしも作家論的要素を重視するのであれば,この漱石の幼少期の経験は,漱石の作品を読解する上で,避けては通れないものであるといえるでしょう。

 『ある哲学者の人生』を執筆するにあたって,ナドラーはかなり広範で多くの資料を参考にしています。それら複数の資料をもとに,ある事柄が確実であったなら,それは断定的に記述されます。しかしもし不確実であったなら,それを断定的に記述することをナドラーは避けます。これは僕が読んだ限りですが,基本的にこういった方針が貫徹されています。
 一口に不確実であるといっても,そこにはいろいろな不確実があります。すなわち全否定はできないけれども可能性はかなり薄いと思われることも不確実ですし,逆に可能性は非常に高いけれども確たる裏付けは取れないというのも不確実です。ナドラーはこれらさまざまな不確実を,一様には表現せず,いい回しで自身の結論を示唆しているように僕には見受けられます。
 それでいえば,メナセ・ベン・イスラエルが,スピノザの人生のある時点において師であったことがおそらくあり得るといういい回しは,不確実な事柄をいい表す場合には,かなり強い表現です。たとえばスピノザとレンブラントが知り合いであった可能性に関しては,なきにしもあらずといういい方で肯定しているのと比べたなら,もっと確実なこととして,メナセがスピノザの師であった時期があると,ナドラーが考えていることは間違いないでしょう。
 スピノザが通った学校で,メナセは教師をしていたことがありました。しかしナドラーは,スピノザとメナセが学校で親しい間柄になったということには否定的です。メナセは上級学年の授業を担当していたようですが,スピノザがその授業に参加するとすれば早くても1648年で,メナセは1649年にこの学校の教師を辞めているからだそうです。一応は重なり得るのですが,可能性としては低いというのがナドラーの推定なのでしょう。
 メナセは私塾を開校していたようで,そこにスピノザが通った可能性はあるとナドラーはみています。また,スピノザの父が,私的な家庭教師としてスピノザのためにメナセを雇った可能性もあるとしています。あるいは非公式な知的助言者であったかもしれないとしています。いずれにせよ,関係性は肯定するのが妥当でしょう。
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トートロジー&ベルナルド

2015-06-19 19:10:03 | 哲学
 『スピノザの方法』の書評で少し触れたように,『知性改善論』は未完で終っています。そしてその理由を,そこでスピノザが示そうとした方法論に無理があったからだという解釈は,僕は採用しませんが不可能ではありません。そう解釈できる余地がある根拠を示しておきましょう。
                         
 これは,真理獲得の方法に限定して考えた方が分かりやすいと思います。つまり『知性改善論』が,人間の知性が事物の真の認識を獲得する方法を示すことを主目的とした著作であると規定しておくのです。この規定はさほど無理があるとはいえないと思います。
 スピノザの哲学では,事物の真の認識は,神の真の認識から演繹的に流出することになっています。したがって,まずは神を真に認識しなければなりません。こうした理由からスピノザは,神が存在するということを証明することよりも,神を真に認識すること,いい換えれば神の十全な観念を形成することの方が重要であると考えていたのです。第一部定義六が十全に認識されるなら,第一部定理一一第三の証明によって,神の存在は必然的に帰結することになるからです。
 実際に『知性改善論』も,人間の知性がいかにして神を十全に認識し得るかという問題の解決に取り組んでいます。ところがその取組の中途で,断筆されてしまっているのです。しかもその中断のされ方が,いかにもトートロジーに陥っているかのようなのです。このゆえに,方法論自体に無理があるという解釈の余地が発生します。
 取組自体がトートロジーになってしまうのは,ある意味では必然です。というのは,ある方法が神を真に認識するための真なる方法であるとしたら,それが真なる方法であるということが,神の真なる認識から必然的に流出するのでなければなりません。よって神の真の認識以前に,どんな方法がそのための真なる方法であるかということを,知性は認識することができません。ところが取組はあたかもこの方法,神の真なる認識以前には獲得し得ない認識を獲得する方法を探求しているかのようなのです。
 もし方法論に無理があったとするなら,それはこの方法に限定されます。つまりこの方法が無理であるという点は,僕も同意します。

 ファン・ローンメナセ・ベン・イスラエルと会って話をしたのは,このときが初めてでした。ただローンにはベルナルドという名前の友人がいて,この人からメナセの話をよく聞かされていたといっています。
 レンブラントとメナセはかなり親しかった筈で,レンブラントからでなく,ベルナルドからとローンがいっているのは,一見したところ不自然に感じます。でも,その後でローンが付け加えている説明が真実であるなら,僕にはむしろ納得できることです。
 まず,ベルナルドもユダヤ人でした。そして産まれはふたりともポルトガルのリスボンでした。しかしハプスブルク家がポルトガルを支配するようになると,ユダヤ教徒に対する迫害,具体的には宗教裁判が行われるようになりました。そこでメナセもベルナルドも,この迫害から逃れるために,オランダへと移住してきたのです。スピノザの父が同じような理由でポルトガルから逃れてきたように,この時代には多くのユダヤ人がイベリア半島からオランダへと渡ってきています。つまりベルナルドとメナセは同じ苦難の時代を生きたユダヤ人の一世であったわけで,それならばローンにメナセについて詳しい話をするのが,レンブラントではなくそれ以前からメナセを知っていたベルナルドの方であったのは,よく理解できるところではないでしょうか。
 このベルナルドというのがどんな人物であったのかは残念ながら僕には分かりませんでした。単にローンの友人であったのか,それともレンブラントとも見知った人物であったのかも分かりません。ただ,ベルナルドはローンと共にニューヨークに渡ったようです。現地でアメリカ人と結婚し,オランダに戻ることはなかったと『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺義雄は説明しています。
 メナセとスピノザの関係についても,「レンブラントの生涯と時代」の中に出てきます。しかしここでは先に,『ある哲学者の人生』で,ナドラーが示している見解を紹介します。それは,メナセがスピノザの人生のある時点において,師であったということがあり得るというものです。この文章は解釈が必要でしょう。
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プリンスオブウェールズステークス&メナセ・ベン・イスラエル

2015-06-18 19:08:08 | 海外競馬
 イギリス王室が主催するロイヤルアスコット開催2日目のプリンスオブウェールズステークスGⅠ芝1マイル2ハロン。
 スピルバーグは普通の発馬。控えて6番手の外を追走。隊列に変化がないままずっと外を回って直線に。外でしたから前を遮るものはありませんでしたが,伸びはなく,しかしばてるということもなくそのままの位置での入線。勝ち馬から概ね4馬身差の6着でした。
 条件戦では先行したこともありますが,控えて末脚勝負に徹するレースで上位まできましたので,レース振りはこういうふうになるでしょう。追込み馬ですがスローペースの瞬発力勝負はむしろ得意なので,ペースの影響が大きかったとは思いません。ただ,もう少し伸びてもいいかなという印象はあります。ずっと外を回ったロスもあったでしょうし,あるいはもっと控えてしまってもよかったかもしれません。また,良績が東京競馬場に集中しているように,左回りの方が走りやすいのかもしれません。右回りだった前走もそうだったのですが,このレースも直線では内に行きたがる素振りを見せていました。

 「レンブラントの生涯と時代」を読むと,ファン・ローンJoanis van Loonのほかにもスピノザとレンブラントの間に共通の知人が存在していたと分かります。そのうちのひとりは,スピノザの人生の中では,ローンよりも重要だと思われる人物かもしれません。
                         
 ローンは1643年4月から1650年の7月まで,当時はオランダの植民地であった現在のニューヨークで過ごしています。旅立つ前に,レンブラントから会食の誘いがありました。ローン自身の目論見では,これほど長くアメリカに滞在するつもりはなかったのですが,それでも長く会えなくなることは間違いありません。なのでレンブラントは旅立つ前に,ローンに会っておきたかったということだと推定されます。
 ただしこの会食はふたりきりで催されたものではありませんでした。場所に関してはアントニー・ブレーストラートの家と書かれてあります。僕はこれを人の名前と思っていたのですが,どうやら地名のようです。現在はレンブラントハウス美術館となっているとのことですので,おそらくレンブラントが住んでいた家だったのだろうと思われます。
 ローンは予定よりも遅れて到着したようで,そのときにはすでにローン自身の友人やレンブラントの友人が揃っていました.そのレンブラントの友人の中に,一目でラビであると分かったユダヤ人がいたとローンは書いています。それがメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelでした。ローンは有名な律法学者と形容していますので,非ユダヤ人にも名の知れた存在であったのでしょう。
 レンブラントとメナセはやはりとても近くに住んでいたようで,数年前にレンブラントはメナセのエッチングを製作したとローンは記しています。レンブラントの死後,スピノザはレンブラントのエッチングをローンに対して称賛したわけですが,メナセをモデルとしたエッチングは,スピノザ自身も見たことがあった可能性があると指摘できます。というのも,このエッチングはユダヤ教会員の間では飛ぶように売れたとローンは書いているからです。ローンはレンブラントを敬愛していましたから,オーバーな表現かもしれませんが,虚偽ではないでしょう。
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京成盃グランドマイラーズ&ホイヘンスの意図

2015-06-17 20:34:35 | 地方競馬
 月曜日に開幕した船橋競馬の夜の開催のメーンは第18回京成盃グランドマイラーズ。昨日の調教中に転倒したインペリアルマーチが競走除外となって13頭。
 セイントメモリーが好発を決めたものの外からノットオーソリティが押して交わしていき先手を奪いました。その流れに乗るようにソルテが2番手に上がり,控えたセイントメモリーはサトノタイガーと並ぶように3番手。トーセンアドミラルとジェネラルグラント,キスミープリンス,グランディオーソと続きました。最初の800mは47秒7のハイペース。
 3コーナーを回るとソルテがノットオーソリティに並び掛けていき,最終コーナーの中途では単独の先頭に。追ってきたのは内からトーセンアドミラル,外からサトノタイガーでしたが,直線では差がぐんぐんと開いていくばかり。ソルテが現在の充実ぶりを見せつけるかのような圧勝。距離のロス少なくずっと内を回ったトーセンアドミラルが8馬身差で2着。大外から追い込んだグランディオーソがクビ差の3着。
 優勝したソルテは前走の川崎マイラーズに続く南関東重賞4勝目。前走に続いての圧勝で,ここにきて完全に一皮むけたという印象。レース振りが安定していますから,今後も大きく崩れることは考えにくそう。この距離なら重賞でもそこそこ走れるのではないかと思えてきました。父はタイムパラドックス。祖母のはとこに2003年の新潟ジャンプステークスを勝ったマルゴウィッシュ。Sorteはイタリア語で運命。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手は川崎マイラーズ以来の南関東重賞制覇。京成盃グランドマイラーズは初勝利。管理している大井の寺田新太郎調教師も京成盃グランドマイラーズ初勝利。

 ホイヘンスがスピノザが磨いたレンズで天体観測をしていたことは間違いありません。今日に残るホイヘンスの業績は,スピノザなしには達成し得なかったといえるかもしれません。
 もしかしたら,このスピノザの技術に対して,ホイヘンスにはスピノザを自身のライバルとみなす余地があったかもしれないと僕は考えるのです。つまり,純粋な知識人としての自然科学者という意味では,たぶんホイヘンスにとってスピノザは,歯牙にもかけないような存在だったと思うのです。このことは今日の両者の業績に対する評価からも,確かなことではないかと思います。でも,レンズを磨かせれば,スピノザの技術が自身の技術を上回っているということを,ホイヘンスは認めざるを得なかったのではないでしょうか。このためにホイヘンスの精神のうちにスピノザに対するやや屈折したような思いが発生し,手紙にユダヤ人と書かせたと解することも可能だと思うのです。
 だからフランスに移ったホイヘンスが,弟にスピノザの動静を尋ねたのには,スピノザが何か新しい技術を導入したかどうかを知るという目的も含まれていたと僕は推測します。もしもそうした技術が存在するならば,自分でもレンズを磨いていたホイヘンスは,それを模倣するという意向があったのではないでしょうか。もちろんホイヘンスがスピノザへの友情から弟にスピノザのことを尋ねたと解することも可能であることは否定できませんが,むしろ自分のための調査という目的の方が大きかったのではないかと僕には思えるのです。
 これで,後にマルタンの推理を検討するための材料は揃いました。なのでここからは,またスピノザとレンブラントの関係についての探求に戻します。なお,もしローンがスピノザに会ったのがレンブラントが死んだ後のことであったとしたら,ローンは単にスピノザとレンブラントの共通の知人であったというにすぎず,ローンを介してスピノザとレンブラントが知己になるという可能性は否定されます。しかしローンがまだレンブラントの存命中にスピノザと知己であったということは確実ですので,その可能性は確かにあったと結論して問題ありません。
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棋聖戦&レンズ

2015-06-16 19:40:22 | 将棋
 辰口温泉で指された第86期棋聖戦五番勝負第二局。
 羽生善治棋聖の先手で相矢倉。先手が早くに☗3五歩と突く将棋。流れから先手が囲いの銀も攻めに使っていく展開になりました。
                         
 豊島将之七段が☖4六歩と突き捨てたのを☗同角と取った局面。後手は☖7三歩と打ちました。
 銀の行き場所がないので先手が忙しくなっているように思います。☗6四歩に悠々と☖7四歩と銀を取り,☗6三歩成の飛車取りに☖9二飛と逃げました。
 ここで☗6四歩と打っています。と金まで取られては先手は駒損だけが残るので仕方ないのでしょうが,少し苦しげな手という印象でした。
 後手は☖4五銀左と出て☗3五角を許し,☖5六銀☗同金に☖4五桂と跳ねていきました。
                         
 この局面ではどうやら後手がリードを奪っているのではないでしょうか。最後はややきわどい攻め合いにはなったものの,後手が勝っています。
 豊島七段が勝って1勝1敗。第三局は来月4日です。

 当時の自然科学者と現代の自然科学者との間にある最大の相違は,当時の自然科学者は,実験や観察のために使う用具を製作するという意味においての,技術者も兼ねていたという点です。当時はそうした用具が普及していませんでしたから,そうした技術を取得することが,自然科学者を志す場合には必須であったからだろうと思います。
 ホイヘンスChristiaan Huygensの場合でいえば,天体を観測するためには天体望遠鏡が必要です。したがってホイヘンスは望遠鏡を製作する必要がありました。とりわけ望遠鏡の性能のために重要なのはレンズですから,可能な限り精巧なレンズを製作する必要があったのです。
 ホイヘンスが実際にレンズを製作していたことは,スピノザがオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てた『スピノザ往復書簡集Epistolae』書簡三十二から確定できます。そこには,ホイヘンスが性能のよいレンズの製作のために機械を作ったとあるからです。この機械とは,レンズを磨くための皿を回転させるためのものであったようです。レンズはガラス製で,それを研磨して製作していました。
 これを報告した後でスピノザは,もし球面のレンズを製作するならば,どんな機械を使うより,手で磨くのが安全だし性能も高くなるという意味のことを付け加えています。それが当時の機械の技術水準であったのでしょう。スピノザがそう書くことができたのは,自身がガラスを研磨してレンズ製作に携わっていたからに相違ありません。スピノザの場合には,自然科学に対する向学心のためであると同時に,生計を立てる手段でもありました。要するにスピノザは自分で磨いたレンズを売っていたのです。
 レンズを売ることができたのは,スピノザが磨いたレンズの性能が高かったからでしょう。自分で磨いた方がよいレンズができるのであれば,だれもスピノザからレンズを買う必要などないからです。これはホイヘンスによって確かめられます。ホイヘンスはユダヤ人の磨いたレンズは性能がよいという主旨のことをはっきりといっているからです。これはホイヘンスがスピノザの磨いたレンズを使用したことの証明でしょう。こう仮定しないと,ホイヘンスはそう断言できないからです。
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