スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

サンタアニタトロフィー&前提の条件

2014-07-31 19:22:10 | 地方競馬
 出走した16頭のうち14頭が重賞ないしは南関東重賞の勝ち馬だった昨晩の第35回サンタアニタトロフィー和田譲治騎手が左足の大腿骨骨折という大怪我を負ったため,ソルテは張田京騎手に変更。
 トーセンアドミラルが先手を奪う構え。しかしやや出負けした感のある大外のサトノタイガーが猛然と追い上げ,1コーナーを回ってハナを奪いました。内から外に切り返したセイントメモリーが2番手を取り,その外にやや掛かっていたように思えるゴーディー。控えたトーセンアドミラルとピエールタイガーまでが先行グループ。前半の800mが47秒8でこれは超ハイペースといっていいと思います。しかしその割には馬群は凝縮していました。
 猛ラップを刻んだ先行勢からセイントメモリーがもうひと踏ん張りして直線で抜け出すと,あとの先行勢は総崩れ。後方から早めに追い上げを開始したジョーメテオが外から追い込んできたものの,こちらは早めに動き過ぎたようで直線の半ばでセイントメモリーに追いつく前に同じ脚色に。さらに外から,後から動いたグランディオーソが追い込んだものの,ジョーメテオを交わすのが精一杯。セイントメモリーが2馬身差の快勝。グランディオーソが2着でクビ差の3着にジョーメテオ。
 優勝したセイントメモリーは昨年9月のオーバルスプリント以来の勝利。第34回からの連覇。オーバルスプリント以降は勝てていなかったのは,重賞への出走が多かったことと,体調も完全ではなかったことが要因でしょう。能力はおそらくこのメンバーではトップと思われ,ハイラップを先行しての抜け出しは,着差以上の完勝であったとみてよいと思います。冬場よりは夏場の方がよいタイプであるかもしれません。叔父に1999年の北九州記念を勝ったエイシンビンセンス
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は昨年9月の東京記念以来の南関東重賞制覇。サンタアニタトロフィーは連覇で2勝目。管理している大井の月岡健二調教師は第28回,30回,34回に続き連覇となるサンタアニタトロフィー4勝目。

 第二部定義七の前提に関連して僕が問題にしたいのは,たとえば現実的に存在する人間の身体が,複数の個物res singularisによって組織されている単一のres singularisであるからといって,それだけで複合したres singularisの定義の前提として十分であるのかということです。いい換えれば,あるひとつの複合したres singularisの存在は,複合したres singularis一般の定義の前提となり得るのかということです。
 第二部定義七の前半部分は,res singularis一般を,「解する」という形式で記述しています。検討したようにこれは,res singularisが知性の観念対象ideatumになるならば,その観念のうちにはそれが定まった存在を有するものであることが含まれているという意味です。ですからこの部分は,必ずしも単純なres singularisについて定義されているのではありません。むしろいくつかのres singularisによって構成されるres singularisが存在するなら,それがideatumとなった場合にも妥当するような内容を有しています。
 しかしこのことのうちには,一般にres singularisが他のres singularisと共同してより複雑な単一のres singularisを構成するということは含まれていません。それなのにスピノザはその直後に,そうしたres singularisが存在するということを前提としていなければいえないような,「私は解する」,正確には「私はみなす」という形式の命題を呈示しているわけです。これでみれば明らかなように,これを一般的な複合したres singularisの定義として成立させるためには,現実的にそういうres singularisがひとつ存在するということは十分条件にはなりません。むしろ任意に抽出されたどんなres singularisも,他のres singularisと共に,複合したres singularisを組織するのでなければならないのです。
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王座戦&第二部定義七の前提

2014-07-30 19:27:54 | 将棋
 昨日の第62期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は丸山忠久九段が1勝,豊島将之七段が3勝。
 振駒で豊島七段の先手。丸山九段の一手損角換り4で始まり,後手の腰掛銀に先手が棒銀で立ち向かう図式になりました。
                         
 2七にいた銀が不成で3六に引いたのに対し,歩を打った局面。先手は,△2五銀と逃げられ,▲4四歩△同銀と進むのが嫌だったと感想を残しています。ただ,この局面で2筋に銀を引くというのは相当に指し辛い手で,それなら△3六銀不成とはしなかったように思われます。後手は2五に引く変化は,無限に時間があれば考えるという主旨のことをいっていますので,ほとんど読まなかったと考えていいでしょう。人間が指す以上,それは自然なことであるように僕は思います。
 2七へ戻るのでは何をやっているのか分からないですから,△2五銀以外であり得る手は△4五銀。先手はそれに対しては▲8三銀が用意の手で,△6二飛▲4五角△同歩▲7一銀となりました。
                         
 これで飛車を捕獲できることになり,先手が優位に立ちました。第1図で△4五銀と指すと後手に変化の余地はありません。△2五銀が指しにくい手なので,第1図に至ると後手はよろしくないのではないでしょうか。つまりそれ以前に変化の必要があったと思われます。
 第2図以降,先手の攻め間違いがあり,後手が猛烈に追い込みました。ただ最後に見落としがあって頓死。将棋は先手の勝ちになっています。
 豊島七段が挑戦者に第60期王将戦以来,2度目のタイトル戦登場。第一局は9月4日です。

 スピノザの哲学のうちにある定義と実在性の関係から理解できるのは,第三部定義三で,能動的な感情と受動的な感情について,「私は解する」という形式でスピノザが言及するとき,それを狭い意味で把握しようと広い意味で把握しようと,同じようにスピノザは,それらの感情が実在性を有するということ,いい換えれば現実的に存在するということを前提としているということです。
 このことを前提すること自体は誤りではありません。現実的に存在する人間に能動的な感情が必然的に存在するということは第二部定理三八系を,受動的な感情が必然的に存在するということは岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三を援用すれば,第三部定義二と第三部定義三の主文から帰結させられるからです。各々の訴訟過程はここでの観点とは無関係ですから割愛します。
 僕がここで考えたいのは,このような種類の前提が,第二部定義七で,複数の個物res singularisによって組織される単一の個体に関して,それをres singularisと私はみなすとスピノザがいう場合にも存在しているということです。「私はみなす」というのは「私は解する」というのと同一の形式の定義命題であるからです。
 これについてなぜスピノザはそのように前提することが可能であるのかを問うとすれば,同じく岩波文庫版117ページの,第二部自然学②要請一がひとつの答えになるだろうとは思います。第三部定義三の場合は,それ以前に帰結している事柄が前提とされているという点で問題はないのに対し,第二部定義七の前提に,その後に表明されている事柄を使用してよいのかという疑問は,配置の意図ということを重視するなら出てくるだろうとは思います。ただし,要請というのは公理と同一です。つまりそれはそれ自体で知られる事柄です。実際に人間の身体がきわめて多くのres singularisによって組織される単一のres singularisであるということが,それ自体で知られることであるかどうか問うことも可能ではあると僕は認めますが,『エチカ』の公理系ではそうなっているので,これは僕は問題にはしません。
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五稜郭杯争奪戦&定義と実在性

2014-07-29 18:59:10 | 競輪
 GⅠから中3日での開幕になった函館記念の決勝。並びは竹内に菊地-明田-内藤の北日本がマーク,石丸-白井の中国で,木暮,小埜,三谷は単騎。
 スタートを取ったのは小埜。石丸が外から追い上げましたが譲らずに前受け。2番手に木暮,3番手に三谷と単騎の選手が前を占め,4番手に竹内,8番手から石丸という周回に。残り3周のバックから石丸が上昇。竹内の横に併せると,ホームで竹内が引き,石丸は三谷の後ろに。ここから竹内が上昇,木暮と三谷が反応。打鐘で竹内が前に出てそのまま先行。5番手に木暮,6番手に三谷,7番手に石丸となり,小埜が最後尾の一列棒状に。動いたのは三谷でしたが,これに併せて菊地が番手から発進。直線はひどく内に切れ込んでしまい,番手から明田が差して優勝。妙な走行に感じられましたが粘った菊地が1車輪差の2着で地元のワンツー。いち早く動いた三谷が半車身差で3着。
 優勝した北海道の明田春喜選手は2011年11月の静岡記念以来の記念競輪2勝目。このレースは地元に任された竹内がどういうレースをするのかということと,単騎勢がどういうレースをするのかというふたつが焦点。竹内は気風よく先行。単騎勢の分断策はなし。ということで地元勢には願ってもない展開に。菊地の方が有利だったと思うのですが,竹内が早めに出たためでしょうか,最後は一杯だったようです。となれば番手の明田の出番。展開から生じたチャンスをしっかりとものにしたという優勝だったといえるのではないでしょうか。
 浅井が準決勝で失格の判定になってしまったのが残念でした。

 スピノザの哲学では,ある事物の定義には,定義された当の事物の本性が含まれることになっています。そして定義に含まれる事物の本性とは,第二部定義二の意味により,その本性を有する事物の存在を定立するものなのであり,排除するものではありません。ここからスピノザの哲学に特有ともいうべき,事物の本性と実在性の関係が帰結します。実在性とは,力という観点から把握される限りの,本性にほかならないのです。
 さらにここからは次のことも出てきます。これは『エチカ』ではっきりとした確たる説明が与えられているのではないとしても,スピノザの哲学の定式として成立する事柄です。もしもある事物に本性の矛盾が含まれているのでないなら,その事物は実在性を有します。いい換えれば必然的に存在します。しかしもしも事物の本性が,矛盾を含むものであったとしたら,つまり本性のうちにその本性を有する事物の存在を排除する要素が含まれているとしたら,そうした事物は実在性を有しません。いい換えればこの事物が存在することは不可能です。ここには必然と不可能が対義語であるという関係も含まれていることになります。
 同じことは,客観的にも定式として成立します。もしも知性がある事物の本性を矛盾のないものとして概念conceptusするのであれば,この観念は思惟の様態として実在性を有します。そしてその観念の観念対象ideatumである事物は,この知性の外部に,形相的に存在します。しかしもしも知性が,ある本性を矛盾を含むような仕方で認識したとするなら,それは思惟の様態として実在性を有しません。そしてこの観念対象ideatumの事物が,知性の外に形相的に存在するということもないのです。
 これらのことから理解できるように,もしも事物が矛盾なく定義されるのであれば,その定義された事物は実在性を有します。つまり存在します。逆にいえば,もしもスピノザの哲学において,存在しない事物を定義することを企てようとするなら,それは定義自体のうちに,何らかの矛盾を含ませなければならないのです。よってそこにはこの種類の例外が存在し得ないのです。
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印象的な将棋⑦-7&例外

2014-07-28 19:11:30 | ポカと妙手etc
 ⑦-6の第2図。先手玉を直接的には攻められない後手は,△4八歩と打ちました。
                         
 これは大事な4九のと金を守ると同時に,角の効きを遮断した手。△6九金▲同玉△5九飛までの詰めろです。先手は金を打たれる手を避けるため,▲6九香と打ちました。部分的にはこれも厳しいのですが,この将棋の最終的な敗着。6九に打つなら▲6九桂,そうでなければ▲6八金ととにかく王手をしておくべきでした。後手玉は下の方に逃げられるので,それで先手が勝てるわけではなかったかもしれませんが,少なくともまだ手数を伸ばすことはできたでしょう。
 ▲6九香には△5九銀と打つ手があり,これが決め手でした。
                         
 ▲6八金は△同銀成で詰まされますし,▲6七金は△5八王と入られて後続がありません。手に窮した先手は▲4四角と指し,△6八金で投了となりました。
 序盤,中盤,終盤と見どころが非常に多かった将棋。NHK杯全体の中でも,これは屈指の名局だったと今でも思っています。

 隠れた前提には,しかし次に示すような例外が含まれるということも考慮しておかなければなりません。たとえば事前にAというものが何らかの仕方で定義され,しかる後に,そのように定義されたAなるものは存在しない,あるいは存在し得ないということが,公理系の中で論証される場合です。この場合には,少なくとも公理系の全体のうちにおいては,Aに定義は与えられているけれども,それは存在するものとして定義されているわけではない,いい換えれば,Aは実在性を有し得ないもの,無力であるものとして定義されているということになります。
                         
 スピノザは『デカルトの哲学原理』を執筆するにあたっては,上述の例外を採用しています。第二部定義三では,アトムに定義が与えられています。そして第二部定理五では,アトムが存在しないということが証明されています。また同様に第二部定義五では真空vacumが定義されています。しかし第二部定理三では,vacumが存在しないこと,正確にいえば,vacumが存在するというならそれは自己矛盾であるということが論証されています。つまりアトムもvacumも,実在性を有するものとして定義されているのではありません。第二部はデカルトの物質的諸原理の哲学をスピノザが再構成したもので,その原理を説明するための方法として,便宜的に定義が与えられていると理解しておくのが妥当でしょう。
 なお,念のために説明しておけば,ここでデカルトやスピノザがいっているvacumというのは,僕たちが真空という記号によって表象したり概念したりするものとは違います。これは物体的ではない延長空間というほどの意味で,そうした延長空間は存在しないというのがデカルトの主張,正しくはスピノザが解したデカルトの主張です。デカルトやスピノザが,現代の科学的見地からみた場合に,それと矛盾したことを主張しているのではありません。
 ただし,僕の考えでは,『エチカ』というよりもスピノザ自身の哲学の全体には,このような例外が入り込んでくる余地はありません。なぜそうであるのか,少し詳しく説明していくことにします。
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谷津嘉章&隠れた前提

2014-07-27 18:41:46 | NOAH
 1987年のピンチの後,全日本プロレスを活性化すべく天龍源一郎ジャンボ・鶴田と戦う道を選びました。当然ながら両者のタッグはここで解消。新しく鶴田のパートナーになったのは谷津嘉章でした。
 谷津は新日本デビュー。デビュー直後から期待はされていたものの,なかなかトップクラスまでは上れませんでした。頭角を現わしたといえるのは長州力の維新軍に加入し,そこで猪木や藤波と闘うようになってから。自然の成り行きでジャパンプロレスに加入。全日本で仕事をするようになりました。新日本時代は,アニマル・浜口との位置付けにはまだ微妙なところがありましたが,体格は浜口に優っていたためでしょう,全日本で長州の正パートナといえる地位を確保。タッグのチャンピオンにもなっています。
 長州は新日本に戻りましたが,谷津は残りました。インタビューを読むと分かりますが,組んでいたとはいえ,長州と谷津の間にはプロレス観に違いがあったようです。すぐに鶴田のパートナーになったわけではなく,少しの時間が置かれていますが,結果的にいえば,谷津が全日本に残ったのは賢明な選択であったと思います。
 基本的に強く自己主張をするタイプではなく,周囲をみて仕事をする選手であったと僕は思っています。長州とブロディの試合が何とかプロレスの一戦として終ることができたのは,途中から谷津が必死にブロディを抑え込んだからでした。また,天龍が全日本を離脱した直後の東京都体育館の試合で,タイガーマスクが三沢になったとき,不自然にならなかったのは,試合中に谷津が執拗にマスクを剥がそうとする行為に出ていたからです。
 この直後に谷津も全日本を離脱しました。若手を伸ばしていくのに自分は邪魔だったからと谷津は語っています。三沢についていえば,たぶん谷津が残留していてもトップまでいったでしょう。ただこのために鶴田は田上明をパートナーにしたという側面があり,田上のキャリアアップに関しては,このときの谷津と,その後のカブキの離脱は大きかったと僕は考えています。

 第三部定義三の後半部分で,スピノザが何を前提として「私は解する」といっているのかということは,一見した限りでは簡単だと思えます。いうまでもなくそれは第三部定義二です。
 第三部定義三では,単に「解する」という形式を用いて,感情が定義されます。それは人間の身体の活動能力と関係するような身体の刺激状態のことであり,またその刺激状態の観念,このブログでいうところの身体の変状です。一方,第三部定義二では,原因の十全性と能動との間に相関関係があるということが,「私はいう」という形式で定義されています。このことから,ある人間の身体の活動能力に関係する刺激状態が,その人間の身体が十全な原因となって生じるなら,その感情は能動であることになります。しかしもしもそうした刺激状態に対して,その人間の身体が十全な原因ではないなら,いい換えれば部分的原因であるなら,その感情は受動であるということになります。つまりこの点に関しては,スピノザは「私は解する」といっているのですが,その実,だれが解したとしても同一の結論になることは間違いありません。よってそこでスピノザが「私は解する」といっている事柄の内容は真理であると断定して問題ないことになります。
 ただし,僕はスピノザがこの部分で前提していることは,このことだけであるとは考えていないのです。というのは,この部分は能動的感情と受動的感情の定義であるからです。これはスピノザの哲学に限らず,一般的に公理系で何らかの事物が定義されるならば,その事物は存在するものとして定義されます。他面からいうなら,定義される事物にはある実在性が含まれます。ところが第三部定義三のうちにも,またそこでスピノザが「私は解する」という内容を論理的に帰結させる前提となっている第三部定義二のうちにも,能動的感情と受動的感情,より正確にいうなら,人間の能動的感情と人間の受動的感情が,確実に存在するものであるということ,つまりそれらが実在性を有するあるものであるということが含まれているとはいえません。したがって僕はここの部分には,スピノザによる,いわば隠れた前提とでもいうべき事柄が含まれていると理解しなければならないと思うのです。
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下宿部屋&第三部定義三

2014-07-26 19:09:57 | 歌・小説
 先生が戦争未亡人である奥さんの家に下宿することが決まって,与えられた部屋は,八畳の座敷でした。これは先生が奥さんから面接を受けたときの部屋。さらに控えとして四畳間がついていて,後にKも下宿するようになると,本間と控えの間の仕切りとして,例のが立てられることになるわけです。自分に割り当てられたこの部屋について先生は,この家の中で最もよい部屋であり,当時の書生が暮らす一般的な部屋よりもずっと立派であり,自分の身には過ぎるくらいだったといっています。
                         
 先生はただこのように記しているだけですが,よく考えてみたら不自然だといえなくもありません。いくら無人で寂しいという理由で下宿人を探していたとはいえ,その下宿人に,家中で最もよい部屋に住まわせるというのは,常識からは外れているようにも思えるからです。しかし,もしも奥さんが下宿人を探しているという体面で,実際にはお嬢さんの結婚相手を探していたのだというようにテクストを読解するなら,この部分も自然に読み込めるようになります。
 もしも夫が戦死する前にこの家に奥さんたちが住んでいたと仮定すれば,当然ながらこの部屋はその夫が使用することになった筈です。実際には夫の死後に越してきた家ですから,面接をこの部屋で行ったように,客間として利用していたのでしょう。ただ,もしも一家の主が使うべき部屋というのがこの家にあったのなら,それはこの部屋以外になかったと思います。つまり先生が下宿人として割り当てられた部屋は,この家の主人が使用するべき部屋であったことになります。なぜそういう部屋を奥さんが先生に対して与えたのか。それは先生が,後々にはお嬢さんと結婚し,この家の新しい主人となるべき存在であると規定していたからだと理解すれば,奥さんのこの行動も,自然な成り行きとして解釈することができるようになります。
 奥さんは最初からお嬢さんの結婚相手を探していた。そして先生がそれに選ばれた。このように読むと,『こころ』には合点の行く部分が多くなると思います。

 「私はみなす」あるいは「私は解する」というタイプの定義に,第三部定義三があります。この定義の方が,スピノザが何を前提としてそのようにいっているかをより容易に理解できると思います。そこでこれを検討します。
 「感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し,促進しあるいは阻害する身体の変状[刺激状態],また同時にそうした変状の観念であると解する」。
 これがこの定義の主文です。この部分は単に「解する」といわれているので,何も問題を含んではいません。
 これまではここまでの文章を第三部定義三と規定してきました。前述したようにこれが主文なので,それで十分であったからです。でも実際には,この定義には続きの文章があります。
 「そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら,その時私は感情を能動と解し,そうでない場合は受動と解する」。
 「私は解する」という形式のテーゼになっていることはお分かりでしょう。
 現状の観点とは無関係ですが,ここで初めて示した定義の続きの文章自体について,このブログとの関連で,いくつか説明しておきたいことがあります。
 まず,そうした変状といわれているときの変状は,基本的に身体の刺激状態のことです。このブログでいう身体の変状のことではありません。ただ,これまで定義と規定していた主文の方にあるように,感情は身体にも精神にも一様に用いることが可能なので,このブログでいう身体の変状,つまり身体の刺激状態の観念と理解したとしても,大きな間違いが生じるわけではありません。身体の刺激状態と理解しておく方が安全であるというほどの意味だと考えてください。
 それから妥当な原因というのはcausa adaequataの訳語です。これはこのブログでは十全な原因といわれます。単に訳語の違いがあるだけで,概念上の相違は何もありません。これは第三部定義一で定義されている概念で,そこでも妥当と訳すか十全と訳すかの相違が生じているのと同じことです。
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哲学正教授&私は解する

2014-07-25 19:08:51 | 哲学
 ハイデルベルク大学教授への就任の要請をスピノザが断った結果,その地位の不在はその後も長く続くことになりました。それが解消されたのはようやく1816年になってから。結果的には1年間だけだったのですが,その地位に就いたのはヘーゲルでした。
 ヘーゲルは,自身に先行するあらゆる哲学者のうちで,スピノザを特別視していました。哲学を開始するにあたってはスピノザ主義者になる必要があるという主旨のことを公言していたほどです。だからもちろんヘーゲルは,その地位が,かつてはスピノザが断ったものであったということも承知していました。僕は読んでいないのですが,『哲学史講義』というヘーゲルの著書のうちには,スピノザが教授の地位を断ったエピソードが書かれているそうです。
 スピノザが断った地位に自分が就任するということ。それはスピノザの哲学を重視していたヘーゲルにとって,特別の出来事であったと思われます。それはスピノザが果たすことができなかった仕事を,自分が果たすことになるという意味においてです。教授というのは実際の地位ですが,このエピソードのうちには,哲学そのものにおいても,ヘーゲルはスピノザが果たせなかった仕事を完遂したという意味を読み込めます。ヘーゲルの哲学は弁証法です。それに倣っていうならば,ヘーゲルはこの出来事において,スピノザを止揚したということになります。
 しかしそれはヘーゲルの側からみた見方であることも事実。スピノザの哲学は公的機関とは一切の関係をもたない在野の哲学であるということが,すでにその本性のうちに含まれているとみることもできるからです。スピノザが招聘を断った理由のうちに,確かにその性質を看取することは可能でしょう。この場合には,むしろヘーゲルが,哲学者として超えるべきではない一線を踏み越えたということになります。
                         
 『ヘーゲルかスピノザか』は,このエピソードから書き始められています。そこでマシュレがいっているように,この出来事は,単なる瑣末なエピソードとはみなせない一面をもっているといえるでしょう。

 私は解する,あるいは私はみなすというのは,単に「解する」といわれる場合と,「私はいう」といわれる場合との複合形です。ただ,それらふたつが定義のテーゼとして成立するからといって,この複合形も成立するかといえば,僕は必ずしもそうは考えません。これは事物の定義というものを一般的に考えた場合にもそうです。しかしスピノザの哲学においては,さらに別の問題を抱えるだろうと考えます。
 「私はいう」というのは,観念対象ideatumを言語化する場合の約束事です。つまりこの種の定義では,ことばに関して言及されていることになります。しかし「解する」というのは思惟作用です。よって第二部公理三により,この場合には観念について直接的に言及されているのです。このとき,もしも一般的にどんな知性もAをBと解するのであれば,他面からいえば,そのように解釈できるように定義命題が表記されているならば,それは何ら問題になりません。これはAはBであるというのを,Aがideatumであるならその観念はAがBであることを肯定する意志作用であるといっているのと同じだからです。しかし「私は解する」といわれる場合は,このどちらの条件にも該当しません。解するといっている以上,それは言語表記について言及しているのではなく,観念について言及していると理解されなければなりません。しかしスピノザが私はAをBとみなすというなら,スピノザがAをideatumとした観念は,他面からいえばAがBであることを肯定する意志作用であるといっているのすぎません。あるいは解釈を妥協したとしても,一般的にAがideatumとなるなら,その観念はAがBであることを肯定する意志作用と同一であると,スピノザは解するといっているにすぎないからです。したがって,前者のように「私は解する」を狭い意味で把握したとするなら,なぜスピノザはそのように解するのかということが問われなければなりません。また,後者のごとく「私は解する」をより広い意味で解釈した場合でも,なぜ知性が一般的にAがBであることを肯定すると解することが可能なのかが問われなければならないのです。
 どちらの疑問も,問うている内容は本質的に同一だと僕は考えます。そして,こうした問いが可能になるということは,スピノザにはその解答があったと理解しておくのが妥当であるとも考えています。
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王位戦&私はいう

2014-07-24 19:53:36 | 将棋
 徳島市で指された第55期王位戦七番勝負第二局。
 木村一基八段の先手。作戦の選択権は羽生善治王位にあり,相矢倉に進めました。数多く指されている戦型で,研究も行き届いているのでよくあるように前例を踏襲しての進展。88手目に後手が新手を放ちました。
                         
 これがその局面。ここは銀で取ると△6五香が厳しいので▲同歩の一手のようです。そこから△8七歩。僕は▲同王△8五歩が後手の読み筋だったのではないかと思うのですが,先手は▲同金と応じました。そこで△3三王。
                         
 形を乱したのに満足して歩を払ったとみるべきか,こう手を戻さなければならないのでは新手があまり効果的ではなかったとみるべきか難しいところで,今後の研究課題になるのではないでしょうか。
 第2図から先手は▲7五歩と攻め合いにいったので,△2六歩▲2八飛という交換の後,△6五香▲7六金右△6七香成と進み,一応は新手の狙い筋のひとつが実現した形にはなりました。
                         
 以下は激戦が続き,最後は後手が制しました。先手有望という見解の局面もありましたが,極端に後手が悪くなったというようには,僕には感じられませんでした。第3図以下,102手目に△9四飛と逃げた手や,104手目に△6六歩と成香を守った手が,先手玉の寄せに役立ったのは,とても印象的です。
 羽生王位が勝って1勝1敗。第三局は来月5日と6日です。

 『エチカ』には私はいうという形式の定義命題もあります。たとえば第二部定義二にみられるような命題です。
 その前に,単にいうと記述されるならどうでしょうか。第一部定義二はいわれるとなっていますが,広くいえばこのタイプの定義命題であるといえます。そしてこれが定義命題として成立するのは,当然だと僕は考えます。定義命題として最適なのは,おそらくAはBであるというタイプのものでしょう。実は『エチカ』にはこのタイプは意外に少なく,第二部定義五が最初に現れるこの形式です。ただ,AはBであるというのは,BをAというと換言することができます。つまり単にいうといわれるなら,それは最適な命題を別の仕方に置換しているだけです。BであるものがAといわれるという形式の第一部定義二をみてもそれは分かると思います。なのでこのタイプは事物の定義命題として,何の問題も孕んでいません。
 ここから,私はいうというのがどう把握されるべきかが出てきます。これは私はBをAであるというという意味です。『エチカ』でそう記述されたなら,スピノザは,本性がBであるものをAというという意味です。
 そうであるなら,僕はこれもまた一般的に定義命題として成立すると考えます。これは公理系の作者が,ある約束事を記述していると解釈できるからです。たとえば僕はこのブログでは身体の刺激状態の観念のことを身体の変状といいます。これは身体の変状の定義であるとはいえませんが,僕はただこのブログでの用語の使用法を説明しているのであり,そのことについて正しいとか誤っているとか主張するような要素はまったく含まれません。公理系において私はいうというタイプの命題は,すべてこの規則に準じます。ですからそれが定義であるかどうかを具体的に問うことはできても,一般的に命題として問題を抱えることはありません。
 とりわけスピノザの哲学は,ことばと観念は異なることが強調されます。そのゆえに唯名論的傾向が色濃くなります。したがってBが観念対象ideatumとなったらそれをAということばで表現するという命題は,公理系の理解を深めるために有益だといえます。
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寛仁親王牌・世界選手権記念&解する

2014-07-23 19:11:21 | 競輪
 21日に弥彦競輪場で行われた第23回寛仁親王牌の決勝。並びは深谷-浅井の中部と中川-井上-大塚の九州で,菊地,池田,稲川,野田の4人が単騎。
 牽制になりましたが深谷がスタートを取って前受け。3番手に中川で6番手以降は菊地,稲川,池田,野田での周回に。残り3周のバックの入口付近から最後尾の野田が上昇開始。これに続いたのは稲川。ゆっくり上昇していき残り2周のホームに入ってから深谷に並び掛けると,深谷は一旦は誘導を斬ってから下げました。再びバックに入ると今度は稲川が野田を叩いて前に。そのまま打鐘。ここから中川が発進。かまして出ると稲川は九州分断の狙い。このために開いた内を深谷が上昇。うまく中川の後ろにはまり,浅井も続いてその後ろが井上に。深谷がバックから番手発進。浅井,井上の3人が抜け出して直線。態勢はそのままゴールまでほとんど変わらず,深谷の優勝。4分の3車身差で浅井が2着に続いて中部のワンツー。4分の3車身差の3着に流れ込んだ井上。
                         
 優勝した愛知の深谷知広選手は5月の平塚記念以来の優勝。ビッグは一昨年の西王座戦以来で4勝目。GⅠは2011年の高松宮記念杯以来で2勝目。持っている力をレースで十分に発揮できないケースもあるのですが,ここはよほど単騎の選手に攪乱されない限り,深谷が粘るか浅井が差すかのレースになるだろうと思っていました。打鐘で包まれたところは危なかったのですが,内が開いたとみるやすかさずそこを突いた積極性がもたらした優勝でしょう。番手に嵌っての捲りですから,差される心配もなかったものと思います。まだ2勝目ですが,グランドスラムを狙える選手でしょう。

 一般的にいえば,事物の定義命題は,AはBであるという形式を採用するのが最善だといえると思います。ただし僕自身は,Aの定義命題が,絶対にAはBであるというタイプの言明でなければならないとは考えません。そして『エチカ』にはこれとは異なった形式の命題がいくつもあります。第二部定義七の謎と関連すると思われる,別の形式の命題について,ふたつほど先に検討します。
 『エチカ』には,AをBと解するという形式でAを定義する命題があります。第二部定義七の冒頭はこれに該当します。『エチカ』冒頭の第一部定義一がこのタイプで,第一部の8の定義のうち,実に6までがこのタイプです。
 僕はこの形式がAの定義として十分に成立すると考えます。なぜなら,AをBと解するというのは,精神の知性作用についての言及であるからです。形相的と客観的を分けたとき,AはBであるというのが,Aに関する形相的な定義であるとするなら,AをBと解するというのは,それを客観的にいい直した定義だと僕は理解します。いい換えれば,AをBと解するというのは,Aが観念対象ideatumであるなら,その観念のうちにBが含まれるという意味です。他面からいえば,Aを観念対象ideatumとする観念は,AがBであることを肯定する意志作用volitioであるという意味です。ですからこのようなタイプの定義は,個別の定義の要件といったものを排除する限り,一般的に定義として成立します。要するに『エチカ』でだけ成立するのではなく,あらゆる公理系の定義として成立すると僕は考えます。
 ただしここにはひとつだけ条件が必要とされます。このタイプの定義は,一般的に精神がAをBと解するとかみなすというように理解されるから成立するのです。いい換えればどんな精神であってもAをBと解するがゆえに定義として成立するのだと僕は考えます。これが第二部定義七の後半部分,私はみなすと記述される場合との大きな相違です。
 第四部定理三五は,理性的認識の一致を示します。だからだれがみなしたり解したりするかは,『エチカ』では問題にはなりません。しかし一般的な定義命題には,これは前提できないと思うのです。
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習志野きらっとスプリント&第二部定義七の謎

2014-07-22 19:00:49 | 地方競馬
 地方競馬スーパースプリントシリーズファイナルの昨日の第4回習志野きらっとスプリントには,北海道,愛知,笠松,佐賀からそれぞれ1頭ずつ,4頭が遠征してきました。
 先手を奪ったのはユーリカ。愛知のワールドエンドが追い掛けてこの2頭の先行争い。3番手はショコラヴェリーヌと北海道のアウヤンテプイ。佐賀のエスワンプリンス,ナイキマドリード,コアレスピューマの3頭が5番手集団。最初の400mが22秒3でこれは超ハイペースでしょう。
 直線に入るとユーリカがワールドエンドを振り切って抜け出しを図ります。外を回ったアウヤンテプイは勢いを欠き,その内から伸びたのがショコラヴェリーヌ。しかし大外からこれらをナイキマドリードがまとめて差し切って優勝。逃げ馬を交わしたショコラヴェリーヌが4分の3馬身差で2着。ユーリカは残り200mで一杯になりさらに4分の3馬身差の3着。
 優勝したナイキマドリードは1月の船橋記念以来の勝利。南関東重賞は7勝目でほかに重賞1勝。この距離にも良績はありましたが,本質的には距離適性が高いとはいえないと思っています。ただ,重賞でも勝っているように底力は上位。超ハイペースになり,その力が生きるようなレースになったのが大きかったと思います。揉まれ弱い馬で,わりと外目の枠が当たったことも幸いしたのではないでしょうか。
 騎乗した船橋の川島正太郎騎手は先月のグランドマイラーズに続き,船橋での南関東重賞を連勝。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理しているのは船橋の川島正行調教師。このレースは過去3回,笠松のラブミーチャンが優勝し続けていました。

 別の論証は,第一部定理二三の謎を解明するだけではありません。『エチカ』のほかの箇所の謎も,解き明かす要素を含みます。それは第二部定義七と関連します。この論証の有力性は,こちらとの関係の上で,より強化されるのではないかと僕は考えています。
 第二部定義七というのは,res singularisの定義です。しかしそこで何が定義されているのかということとは関係なく,そもそも事物の定義として不自然なところがあるのではないかと僕は思っていました。それはスピノザの哲学において定義の要件がどうあるべきかということとも関係しません。もっと一般的な意味において,この形式の命題が事物の定義として成立するのかという類の疑問でした。
 定義の冒頭で,有限で定まった存在を有するもののことをres singularisと解するとスピノザがいうとき,僕はそれがres singularisの定義として成立するということには納得できます。ただし,一般的にいうならば,やはりこの部分にもいくらかの問題が含まれているだろうとも思います。この形式の命題がなぜ事物の定義として一般的な意味で成立すると僕が考えるのかということは,すぐに詳しく説明します。
 僕がとくに問題意識を有するのは,その後の部分です。複数のres singularisによって組織されたものが,何らかの活動において協力するとき,その複合したもの自体もres singularisと私はみなすとスピノザがいうとき,この命題がres singularisの,正確にいうなら複合したres singularisの定義として相応しい形式を有するといえるのかということについて,僕は疑問を拭えずにいたのです。
 『エチカ』で私はみなすとか,私は解するというときの私というのが,スピノザであることは当然です。つまりこの命題は,ある事柄について,スピノザがそのように解釈するという形式で記述されています。しかしたとえばスピノザがAをBと解釈するからといって,それがなぜAの定義として有効なのでしょうか。事物を定義する命題は,もっと別の形式が採用されるべきなのではないでしょうか。
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農林水産大臣賞典マーキュリーカップ&複数の合理性

2014-07-21 19:09:44 | 地方競馬
 船橋のサミットストーンが重賞でどこまで戦えるかが僕の関心の中心だった第18回マーキュリーカップ
 逃げたのはコミュニティ。サミットストーンが2番手でしたが,外からクリソライトが交わしていき,向正面に入るところで外に切り替えたサミットストーンが3番手に。少し離れてランフォルセとナイスミーチュー。また離れてソリタリーキング,インサイドザパーク,クロスオーバーの3頭。また差があってシビルウォーという隊列。ミドルペースであったと思われます。
 コミュニティは3コーナーで後退。クリソライトが先頭になり,サミットストーンと併走で直線に。2頭の競り合いからサミットストーンがギブアップ。直線入口で3番手に上がっていたナイスミーチューの方が追い掛けてきて,最後はクリソライトを交わしてレコードタイムで優勝。クリソライトが半馬身差の2着。いつものように外から脚を伸ばしたシビルウォーが2馬身半差で3着。
 優勝したナイスミーチューは2012年のシリウスステークス以来の重賞2勝目。成績をみると1800mだと少し忙しく,2400mになると長いという印象。この2000mが最適で,この距離適性が高かったと考えられます。もちろん2着馬と4キロもの斤量差があったことも大きいでしょう。戦績からトップレベルで上位争いできるだけの裏付けはありませんが,2000mであればもしかしたらという可能性は秘めているかもしれません。父はキングカメハメハ。半兄に2007年のスプリングステークスを勝ったフライングアップル
 騎乗した小牧太騎手,管理している橋口弘次郎調教師はマーキュリーカップ初勝利。

 第一部定理二三の証明の最後の部分で,スピノザは間接無限様態が直接無限様態の媒介によって生起すると解釈できるテクストを残しています。第一部定理二八備考の冒頭部分に,それと同じ媒介という語句が出現します。だからこの部分で媒介によって生起するといわれているものは,間接無限様態であると解釈しなければならないという主張には,確かな合理性があるといえます。
 一方,第一部定理二八は,個物res singularisについての言及なのであって,間接無限様態についての言及ではありません。ですからその備考の冒頭部分で,直接無限様態と間接無限様態にだけ言及し,res singularisについては何も言及されないというのは,著しく不自然です。とりわけ第一部定理二八備考の終盤部分では,神をres singularisの遠隔原因であるということは適当ではないとスピノザが主張しているのですから,冒頭の部分にres singularisが含まれないとするなら,備考の文章全体が整合性を欠くことになってしまいます。だから媒介によって生起するといわれているものは,res singularisだと解釈しなければならないという主張にも,やはり合理性があるといえます。
 間接無限様態をres singularisとみなすとか,res singularisを間接無限様態とみなすというのは,いわばこれらふたつの合理的な主張の折衷案であるといえなくもありません。合理的主張を仲立ちする主張ですから,当然ながらこの主張にも合理性があるといえます。
 どの主張を肯定するかは,結局のところ,他の部分の解釈との整合性から結論されることになります。そしてその結論は,ここでは提出する必要はありません。なぜなら,みっつあるいはよっつの合理的な主張のどれを選択することになったとしても,因果性は唯一であるということもまた,抽出できるからです。ただ,僕の考え方は,有限であるものは無限ではないというテーゼは偽の命題であるとみなすので,これらのうち,間接無限様態をres singularisとみなすという選択だけは,あり得ません。
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下宿人&間接無限様態の立場

2014-07-20 18:56:38 | 歌・小説
 Kとの同居には奥さんの拒絶があったのに,先生との同居を奥さんが認めたことに合理的な理由を求めるとすれば,先生がお嬢さんに好意を抱いても構わないけれども,Kに同様の感情をもたれては困ると奥さんが考えていたからだとしか説明できません。これを前提に『こころ』のテクストを読み直すと,読解の可能性が広がるといえるでしょう。
                         
 先生は長男の悲劇を被った後,下宿を出る決意をします。一戸を構えるつもりでした。ところが駄菓子屋の夫人に,奥さんを紹介されます。奥さんの旦那が日清戦争で死んだこと,相当な人があれば紹介してほしいと頼まれていること,現在の屋敷に住んでいるのは未亡人である奥さんと愛娘,そして一人の下女であることなどを,先生はこの夫人に教えられます。
 相当な人というのは,下宿させるのに相応しい人のことです。奥さんは夫人への依頼の中で,無人で寂しいからだと伝えたそうです。でもこの部分は,お嬢さんの結婚の相手として相応しい人というように読解できなくもありません。戦争未亡人ですから遺族年金があったと思われ,生活には不自由していなかったと推測されますが,将来が確実に保証されているわけではなく,愛娘に相当の結婚相手を探したとしても,不思議な状況ではなかったと解釈できるからです。つまりテクストの表面上は,奥さんは下宿人を探していたということになっています。しかし実際に探していたのは,娘の結婚相手だったと読解できなくないのです。
 その後,先生は奥さんを訪ねます。奥さんは先生の身元,学校,専門などを質問し,すぐに引っ越してきて構わないと答えます。これもテクストの表面上は,下宿人として相応しいと奥さんが判断した,いい換えれば下宿人としての審査に先生が合格したということです。しかし,お嬢さんの結婚相手としての審査に合格したとも読めるようになっています。奥さんが先生に質問した内容は,確かに下宿人として的確であるかどうかを確かめるためのものであったといえますが,娘の結婚相手として相応しい人物であるかを調査するものであったとしてもおかしくないからです。

 第一部定理二八備考の冒頭部分には,畠中尚志の訳注が付されています。それによれば畠中は,神Deusから直接に生じるもののうちに直接無限様態と間接無限様態を含め,媒介によって生じるものは個物であると考えていることが分かります。ふたつの個物に畠中は同一の訳を与えています。つまりこの個物はres singularisでありres particularisでもあるということになります。
 スピノザは第一部定理二三を証明するとき,最後の部分で,間接無限様態は直接無限様態を媒介として生じると解釈できる主旨のことをいっています。それでみれば畠中の見解はそれと齟齬を来しているといえます。ただ僕は,畠中のように解釈することも可能であると思います。というのは,間接無限様態が無限な様態的変状modificatioに様態化した神の属性attributumから生じるということは,無限な様態的変状に様態化した神の絶対的本性から生じると読むことができるからです。つまり無限様態modus infinitusはどちらも神の絶対的本性を直接的な原因とすると理解することは明らかに可能です。これに対して個物が,神の絶対的本性からは生じ得ないことは,第一部定理二一と第一部定理二二から明白だからです。
 僕のように有限finitumは無限infinitumではないというテーゼを偽の命題とみなそうとする場合には,おそらく畠中と同様の解釈をする方が,論理的に一貫性を保つだろうと思います。そして実際に畠中のように解釈をすることは可能だと僕は考えますから,僕は畠中説を支持することになります。
 しかしこの別の論証のように,個物を間接無限様態とみなす場合には,畠中説は受け入れられないことになります。したがって絶対的本性から生起するものは直接無限様態だけであって,その媒介によって生じるもののうちに,間接無限様態と個物の両方を含める必要があります。この論証はそれまでの論証と齟齬を来すと僕はあらかじめいっておきましたが,これはその齟齬のひとつです。
                         
 佐藤一郎は間接無限様態は直接無限様態を媒介して生じるものだと主張し,畠中説を斥けています。「「エチカ」第一部のふたつの因果性がめざすもの」の主旨からして,佐藤は自身の立場から当然のことを主張しているといえます。
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印象的な将棋⑦-6&第一部定理二八備考

2014-07-19 19:07:01 | ポカと妙手etc
 ⑦-5の第2図。反則を回避する必要がある先手は,▲4九銀と打ちました。
                         
 これはただ。△同とと,と金の方で取りました。▲2八龍と王手で引き,△3八香の合駒に▲2六角。△5七王の一手に▲3八龍。
                         
 先手は自玉の詰めろを消すことに成功。双方の玉が接近していて,下手な攻め方をすればかえって自らの玉を危なくしてしまうような局面。先手は手が開けば4四の金を取ることも可能ですし,4九のと金を取れれば危ないところもなくなります。なので観戦しているときは,先手がうまく打開して,簡単ではないながらも勝ちの局面を作ったのではないかと思っていました。

 今回の考察でも問題のひとつとした,媒介ということも,僕は僕の理解によって解釈します。当該の部分,第一部定理二八備考の冒頭部分にまた注目してみましょう。
 「ある種の物は神から直接的に産出されなければならぬ。神の絶対的本性から必然的に生起するものがすなわちそれである。また他の種の物はこの前者の媒介によって生起しなければならぬ」。
 ここでいわれている神の絶対的本性から必然的に生起するもののうちに,直接無限様態が含まれるということは,第一部定理二一から疑い得ないといえます。一方,他の種のもののうちに,個物res singularisが含まれるのかということ,また間接無限様態がどちらに含まれるのかということにはおそらく見解の相違が発生します。ここではこのテクストのうちに,res singularisが直接無限様態の媒介によって生起するという意味が含まれていると前提してみます。
 しかし仮にこのテクストがこのような意味であったとしても,そこに直接無限様態がres singularisの起成原因であるという意味は含まれていないと解釈するのが妥当だと僕は考えます。なぜなら,もしもそうした意味が含まれるのであれば,直接無限様態は,神とres singularisとの間の媒介原因であることになります。そしてそうであるなら,神はres singularisの最近原因ではなく,遠隔原因であるといわれなければなりません。しかし第一部定理二八備考の直後の部分では,神はres singularisの最近原因であるといわれています。そして第一部定理二八備考の後続の説明で,神はres singularisの遠隔原因ではないともいわれているからです。
 つまり,直接無限様態の媒介によってres singularisが生起するとしても,それは媒介原因ではないと解釈しなければ,その後の部分とは辻褄が合いません。したがって,この前提でテクストを理解するなら,ここで媒介ということばが意味しているものは,直接無限様態の存在がres singularisの存在に対して本性の上で「先立つ」ということなのであって,それ以上に何か特別の意味が含まれているわけではないと僕は考えています。
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訪問の意図&僕の理解

2014-07-18 19:09:44 | 哲学
 スピノザのユトレヒト訪問の意図について,『スピノザの生涯と精神』の訳者の渡辺義雄は,リュカスの伝記への訳注で,フランスと和平交渉の余地があるかを確かめ,可能ならば休戦に持ち込みたいと思っていたからだという主旨のことを述べています。コレルスの伝記の方には,スピノザは帰国後,家主に対して,なぜ自分がユトレヒトに行ったのかをよく知っている偉い人がたくさんいるという意味のことを言ったと書かれていて,渡辺の言い分を裏付けているように思われます。
                         
 これに対して,『ある哲学者の人生』のナドラーは,スピノザにそのような意図があったということには懐疑的です。いくらスピノザが高名な哲学者であったとしても,戦争を停止させるような権限があったとは考えにくいというのが,ナドラーがそう考える理由です。
                         
 渡辺とナドラーでは,ユトレヒト訪問の時期の推定にずれがあります。ただ,渡辺の推定する時期には,政治的にはスピノザと近かったヨハン・デ・ウィットは生きてはいましたが,すでに失脚後で,政治的実権は,好戦的な反動保守派のうちにありました。かれらが休戦を志向するということ自体が考えにくいことであり,仮にそう望んだとしても,スピノザは保守派からすれば目の敵のような存在ですから,スピノザに調停を依頼するなどあり得ないと僕は考えます。つまりコレルスの伝記の内容自体,僕には疑わしく思えます。もし書かれていることが真実であるなら,単にスピノザが家主を安心させるための方便にすぎなかったと推測します。
 ただ,何の目論見もなくスピノザがわざわざユトレヒトまで行ったとも僕には思えません。スピノザが休戦を望んでいたということは間違いないと僕は思います。政治的な意味において自身にそのような力がないということを,スピノザは承知していたと思いますが,それでも自分がユトレヒトまで行くことで,僅かながらでも休戦への道を模索することが可能であるとスピノザは考えていたと僕は思います。招待の理由が何であれ,単に招待されたというだけで,スピノザがユトレヒトまで出向くとは考えにくいからです。

 テクストをこれ以上詮索したとしても,個物res singularisの起成原因causa efficiensに関する明解な答えを見つけ出すことはできません。少なくとも僕には無理です。そこで,僕がどのように考えているのかということだけ,かいつまんで説明しておきます。
 第一部定理二八がある以上,僕はres singularisの起成原因は,それとは別のres singularisであると考えるべきだと思います。そして第二部定理九から推定すると,このことは,第二部定理八系で,res singularisが神の属性に包容されている限りにおいてといわれている場合にも,また時間的に持続するといわれる限りにおいて存在するといわれている場合にも,同じように適用されると考えています。ただし,もしもあるres singularisが神の属性に包容される限りにおいて存在する場合には,その起成原因である別のres singularisも,同様の様式において存在します。そしてこの場合,res singularisには永遠性が含まれます。一方,もしもres singularisが現実的に存在するという場合を射程に入れるなら,その場合にはそのres singularisの起成原因たる別のres singularisも,現実的に存在するres singularisであると考えます。この場合は,単にこのことだけに注目する限り,res singularisの存在に永遠性は含まれません。ただし第二部定理八系が示すように,現実的に存在するres singularisは,永遠性を有するものとして神の属性に包容される限りにおいても存在しますので,そのres singularisが永遠の観点から認識されることは可能です。僕が持続は永遠の特殊な形態であるというとき,それはこの事態を前提としています。
 ただし,どんなres singularisも,その属性の直接無限様態なしには存在することはできません。いわばある属性の直接無限様態は,その属性のres singularisの起成原因ではないけれども,その属性のres singularisに対しては本性の上で「先立つ」存在であると考えます。第一部定理二三から,直接無限様態が間接無限様態に先立つことも明白です。よって直接無限様態は,その属性の第一の様態であるというのが僕の理解です。
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天龍源一郎&個物の起成原因

2014-07-17 19:19:10 | NOAH
 僕のプロレスキャリアが始まったとき,ジャンボ・鶴田はジャイアント・馬場のパートナーを務めていました。これは基本的に1983年夏の,テリー・ファンクの引退まで継続。これに伴い馬場はドリー・ファンク・ジュニアと組むようになり,鶴田のパートナーは天龍源一郎に変りました。暮れの世界最強タッグリーグをみれば一目瞭然で,1982年まで鶴田は馬場と組んで出場,1983年からは天龍と組んで出場しています。
 おそらく思惑の一致から馬場がラッシャー・木村と仲間割れしたのが1984年の最強タッグ決定リーグ。1年以上前のことですが,馬場はこの頃から,自身が一線を引いた後の全日本プロレスのことを考慮に入れていたものと思われます。
 天龍は,僕がプロレスを見始めた頃は,まだプロレスラーとしてのキャリアが浅かったこともあり,トップクラスとは歴然とした差がありました。しかし鶴田と組むようになった頃には,互角か,少なくとも遜色なく闘えるくらいまで成長していました。僕がプロレスを見始めて,最初にトップクラスまで上がっていった日本人レスラーが,天龍だったことになります。
 天龍が輝きをさらに増したのがジャパンプロレスとの対抗戦時代。鶴田はあまり感情を表出するタイプではありませんが,天龍は闘志を剥き出して闘うタイプで,似たようなタイプの長州力と手が合ったのだろうと思います。この頃には人気の面でも鶴田と並び,あるいは追い抜いたといってもいいかもしれません。
 1987年のピンチの後,鶴田を相手に闘うようになると人気が爆発。僕はこの頃が天龍の最良の時代であったと思っています。鶴田のような強大な敵に立ち向かうときに,天龍の魅力は最大限に発揮されたように思うからです。そしてこの時代の全日本プロレスで,最も集客力があったレスラーが,天龍だったことも間違いないでしょう。
 1990年4月に全日本プロレスを退社。ピンチはチャンスということばを地でいった全日本プロレスは,それから最良の時代を迎えました。ただそこに,天龍の遺産が影響を与えたのも,間違いないことだったと思っています。

 第一部定理二八というのは,それ自体でみる限りは,個物res singularisの存在の原因は,それとは別のres singularisであるということを含んでいます。そしてこの存在の原因は,生起の原因,つまり作出原因と起成原因を類別した場合の起成原因causa efficiensに該当すると考えて間違いなかろうと思います。したがってスピノザの基本的な考え方は,どんな属性のres singularisであろうとも,その原因はその属性の直接無限様態ではなく,そのres singularisとは別のres singularisであると理解しなければならないと僕は考えます。
 ところが,この定理をスピノザが証明するときには,スピノザはres singularisの原因を別のres singularisであるといっているのではなく,定まった存在を有する有限な様態的変状様態化した属性であるといっているのです。僕はスピノザがそのように示した意図は,直後の第一部定理二八備考にある,res singularisの最近原因は神であるということを,強調するためであったと考えます。しかし,この別の論証においては,このことが別の意味合いを生じさせてきます。いうまでもなく,定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した神の属性というのは,res singularisでなければならないものであると同時に,間接無限様態がそうであるところのものでもあると把握しなければならないということになっているからです。つまりこの証明の文章は,res singularisの起成原因が,その属性の間接無限様態であるとも理解できるようになっているのです。
 もちろんこれは,res singularisの原因として,その属性の間接無限様態を示しているだけです。ですから直接無限様態とres singularisとの間に,第一部公理三に準じるような因果関係があるというところまで到達できているわけではありません。でも第一部定理二三が,間接無限様態の起成原因が直接無限様態であると明確に示しているということを考慮に入れるならば,直接無限様態とres singularisの間に,起成原因とその結果という関係を見出すことも,あながち無理であると否定できないことになります。第一部定理三二系二は,延長の属性および思惟の属性に関して,そういうことをいっているのだと理解できるようになっているからです。
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