スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&空虚

2024-02-29 19:31:08 | 将棋
 2月25日に大聖院で指された第50期女流名人戦五番勝負第四局。
 福間香奈女流四冠の先手で中飛車。後手の西山朋佳女流名人が向飛車にしたところで先手は2筋に飛車を戻しました。先手は9筋の位を取り,後手が香車を上がって穴熊を目指したところで仕掛けていく将棋。飛車を戻して9筋に2手をかけていますから急戦はあまり得策とは思えないのですが,ここで戦いになれば後手が香車を上がった手は無駄になるので,成立はしていたようです。後手はもう少し備えてから穴熊を目指した方がよかったのかもしれませんが,仕掛けそのものにはうまく対応しました。
                                        
 ここで☖4九龍としたのですが,これが疑問だったように思います。☖同龍として☖4八とを狙っていけばまだまだ戦えたのではないでしょうか。
 先手は☗4五桂と打ちました。たぶん後手はこの手を軽視していたのではないかと思います。☖4七と☗5九金引☖3九龍☗3三桂成☖同銀は仕方がないと思いますがそこで☗7六歩と突けるのが大きな一手で,駒得の先手がよくなりました。
                                        
 福間女流四冠が3勝1敗で女流名人を奪取第36期,37期,38期,39期,40期,41期,42期,43期,44期,45期,46期,47期に続き3期ぶりとなる13期目の女流名人です。

 同時に第一部定理一五備考でスピノザがいっているのは,空虚vacuumすなわち真空vacuumが存在しないということを認めるのであれば,物体的実体substantia corporeaが無限infinitumであるということも認めなければならないということです。たぶんここではデカルトRené Descartesのことが意識されています。デカルトは空虚が存在しないということは認めます。しかし物体的実体が無限であるとは認めず,それは分割可能であるといいます。スピノザはそれは誤りerrorなのであって,もしも空虚が存在しないのであれば,物体的実体は無限であり,分割不可能であるということが必然的にnecessario帰結されるといっているのです。しかし今は,物体的実体が分割可能であるか分割不可能であるか,あるいは物体的実体が無限であるかないかを探求しようとしているわけではありませんから,これについてはここではこれ以上の考察は進めません。
 重要なのは,少なくとも空虚が存在しないという点については,デカルトもスピノザも認めているという点です。國分はこのような事例は,スピノザがデカルトの物理学に大きな影響を受けているからだと指摘しています。そうしたことが確かにあるのは間違いないところであって,たとえばスピノザがロバート・ボイルRobert Boyleに送った書簡十三では,ボイルが真空すなわち空虚の不可能性に疑念を抱いているというのは不思議に思うといわれています。また,この書簡ではデカルトの『哲学原理Principia philosophiae』への言及もあります。ただしこの引用は,ボイルに対してものというよりは,オルデンブルクHeinrich Ordenburgに対してのものといった方が適切です。ここの部分ではスピノザがいっていることをオルデンブルクが勘違いしていて,そのことが影響しているからです。スピノザがいっているのは,ボイルがデカルトを非難しているとしても,それはボイルの哲学する自由libertas philosophandiからそのようにしているのであって,そのことでデカルトの名誉gloriaを傷つけているわけではないということです。それがなぜかはボイルが書いたものと『哲学原理』とを読めば,オルデンブルクにも分かるであろうというのがその主旨になっていると僕は解します。ただしその部分の自然科学上の立場では,スピノザはボイルの側ではなくデカルトの側にいるのは事実です。
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TOKYO MX賞フジノウェーブ記念&第一部定理一五備考

2024-02-28 19:08:19 | 地方競馬
 第15回フジノウェーブ記念。町田騎手が個人的な事情で騎乗できなくなったため,アポロビビは西啓太騎手に変更。
 スワーヴシャルルとオメガレインボーとトップウイナーが並んで先行する形。1馬身半差でサヨノグローリーとギャルダル。1馬身差でボンディマンシュ。半馬身差でブラックストームとルーチェドーロ。2馬身差でアポロビビとメンコイボクチャンとスナークダヴィンチ。3馬身差でエアアルマスとブラックパンサー。2馬身差でマムティキング。3馬身差でアルサトワ。2馬身差の最後尾にマースインディと,縦長の隊列。最初の600mは36秒1のハイペース。
 前の3頭は併走したまま3コーナーを回って直線へ。単独の4番手になっていたギャルダルは直線でこの3頭の外に持ち出しました。前の3頭の争いから抜け出したのは真中のオメガレインボー。外からギャルダルが徐々に差を詰め,フィニッシュ前に差し切って優勝。オメガレインボーがアタマ差で2着。中団から外を回って追い込んできたルーチェドーロが1馬身4分の3差で3着。
 優勝したギャルダルは昨年末のオープン戦以来の勝利。南関東重賞は昨年のフジノウェーブ記念以来となる2勝目。フジノウェーブ記念は連覇。昨年はフジノウェーブ記念を制した後,休養に入り,年末のオープンが復帰戦。今年は川崎マイラーズを使って2着でしたから,実力は上位。順調に使っていかれるようなら,これからも活躍していけるでしょう。距離は1400~1600mがよさそうです。父はホッコータルマエ。母の父はネオユニヴァース。3つ下の半妹が昨年のローレル賞を勝っている現役のミスカッレーラ。馬名の英語表記はRgyal Dar。チベット語で勝利の旗という意味のようです。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は報知グランプリカップ以来の南関東重賞38勝目。フジノウェーブ記念は第9回以来となる6年ぶりの2勝目。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞33勝目。フジノウェーブ記念は連覇で2勝目。

 物体corpusがない物体を物体がない空間と等置するには,物体と空間が同じことを意味していると解する必要があります。これは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』では,第二部定理二系で示されています。ただしこのことは,第二部定義六に依拠します。そこでは空間は理性的見地によって延長Extensioと区別されるとされています。つまり延長と空間の区別distinguereは理性的区別であるというのが,スピノザの哲学にひきつけたときの意味になります。デカルトRené Descartesは『哲学原理Principia philosophiae』の第二部十節でそういっていますので,これもスピノザの考えではなくデカルトの考えです。
                                        
 物体の本性essentiaは延長にあるのであって,延長と空間の区別は理性的区別です。だから物体と空間の区別も理性的区別になります。いい換えればそれは同じものを別の観点から把握しようとしているにすぎません。よって物体はそのまま空間に置き換えることができます。なので物体のない物体を,物体のない空間と置き換えることができます。そしてそれがデカルトがいう真空vacuumです。ですから真空とは,空気が存在しない空間を意味するのではなくて,空気以外にも一切の物体が存在しない空間というのを意味します。よってそれを真空といいう語で示すのは,現代の日本語で考察する場合にはあまり適していません。よってデカルトがいう真空というのを,ここでは空虚といい換えることにします。デカルトがいっているのは,空虚は存在しないということ,いい換えれば空虚が存在するという主張は自己矛盾であるということです。
 スピノザもデカルトと同様に,空虚の存在を認めません。スピノザは第一部定理一五備考で,物体的実体substantia corporeaが無限infinitumであるということを説明していく中で,次のようにいっています。
 「このことは明晰な推理が誤りないものであることを知るすべての人々,ことに空虚の存在を否定する人々が容認しなければならぬことである」。
 ここでいわれている明晰な推理とは,スピノザの哲学でいう第二種の認識cognitio secundi generis,すなわち理性ratioによる認識を意味します。理性による認識には虚偽falsitasないし誤謬errorが含まれていないことを知っているすべての人が,物体的実体は無限であることを容認しなければならないといっているわけです。
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棋王戦コナミグループ杯&真空

2024-02-27 19:23:48 | 将棋
 25日に北國新聞会館で指された第49期棋王戦五番勝負第二局。
 伊藤匠七段の先手で角換わり相腰掛銀。後手の藤井聡太棋王が6筋の位を取ったところで先手から猛攻する将棋になりました。
                                        
 王手が掛かっているので受けるところ。実戦は☖7二銀でしたが,感想戦の内容では☖8二歩も有力だったようです。
 ☗8五桂に☖7四角と打つのが☖8二歩とはしなかった狙い。先手は☗7三桂成☖同角に☗9四龍と逃げたのですが,☖8四歩と打たれて攻めが簡単には続かなくなってしまいました。
                                        
 龍を逃げずに☗5三金が有力で☖同王☗7二龍なら攻めが途切れてしまうことはなかったようです。
 藤井棋王が勝って1勝1持将棋。第一局が指し直し局なしで完結ということなので,来月3日に指される予定の第三局は藤井棋王の先手となります。

 我思うゆえに我ありcogito, ergo sumという命題と,それに関連する確実性certitudoを中心とした概念notioに関する考察はこれで終了です。次の探求に移ります。
 『スピノザー読む人の肖像』の第1章では,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』に関連する論考が,ニュートンIsaac Newtonの物理学と関連して説明されています。これは考察というほどのものではないのですが,物事の考え方として興味深い点が含まれていますので,このブログでも紹介しておくことにします。
 『デカルトの哲学原理』の第二部定理三に,真空vacuumが存在することは矛盾であるというものがあります。これは『哲学原理Principia philosophiae』では第二部の十六,十七,十八でデカルトRené Descartesが主張していることです。つまりデカルトは真空の存在existentiaを否定しているのであって,そのことをスピノザはこの定理Propositioとして示しているわけです。
 ただし気を付けておかなければならないのは,ここでいわれている真空というのは,僕たちが通常の意味で使用する真空とは意味が違います。僕たちは真空ということで,空気が存在しない空間のことを意味しようとしますが,デカルトが『哲学原理』でいっているのは,そのような意味での真空が存在しないということではありません。『デカルトの哲学原理』では,真空が物体的実体substantia corporeaがない延長Extensioとされています。これは第二部定義五で定義されていますので,公理系で示されている『デカルトの哲学原理』では変更のしようがありません。そしてデカルトは,物体あるいは物質の本性essentiaは延長に属するのであって,それ以外のものには属さないといっています。こちらは『デカルトの哲学原理』では第二部定理二で論証されています。これは『哲学原理』では第二部の四と九で言及されています。つまりこれらはすべてデカルトの思想に合致しているのであって,スピノザが自身の考え方を示しているわけではありません。
 真空が物体的実体がない延長で,物体の本性が延長だけに属するのであれば,真空は物体がない物体を意味することになります。だから自己矛盾だとデカルトはいいます。ただこれは僕たちには理解しにくいでしょう。デカルトは空間と物体は同一だと考えますので,物体がない空間が真空だと理解するのがよいと思います。
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能登半島支援・春日賞争覇戦&規範の探求

2024-02-26 19:17:14 | 競輪
 昨日の奈良記念の決勝。並びは菅田‐守沢の北日本,脇本‐東口の近畿①,三谷竜生‐三谷将太の兄弟,古性‐南‐松岡の近畿②。
 スタートを取りにいったのは三谷竜生と古性と南。古性が誘導の後ろに入って前受け。4番手に三谷竜生,6番手に菅田,8番手に脇本で周回。脇本の上昇は残り2周のホームを過ぎてから。バックで古性を叩きにいったもののすでに打鐘のタイミングであったため古性は引けずに先行争い。ホームで南の牽制を受けた脇本が浮いてしまい不発。このラインに続いていた菅田がそのまま発進していきました。うまく守沢をどかして菅田に追随した三谷竜生もバックから発進。古性も直線の入口までは粘りましたがそこまで。外を回った三谷竜生の捲りが決まって優勝。マークの三谷将太が4分の3車身差の2着に続いて兄弟のワンツー。先に発進した菅田が4分の3車輪差で3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は昨年末の松阪でのFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年の奈良記念以来となる7勝目。奈良記念は2018年にも優勝していて連覇となる3勝目。このレースは脚力上位の古性と脇本で先行争いになりましたので,脚力で劣る三谷竜生と菅田にとっては絶好の展開。菅田は脇本ラインについていったので成り行きから三谷竜生より先に発進することに。そのときに守沢の追走を阻んで自身が菅田をマークする形になったのが,三谷竜生の勝因といえるでしょう。古性は先行を得意としているわけではありませんが,33バンクのあのタイミングでは引けなかったのは仕方がないと思います。脚力がある選手が前受けになったのですから,脇本はもっと早いタイミングで押さえにいくべきだったのではないでしょうか。厳しいいい方ですが,先行争いをすることが最大の目的であったようにみえてしまいます。

 第二部定理三八系は,すべての人間の知性intellectusのうちに共通概念notiones communesがあるという意味のことをいっています。共通概念は第二部定理三七にあるように,個物res singularisの本性essentiaを構成するものの概念ではありません。したがってここでXの観念ideaとかYの観念といわれている観念とは異なるといわなければなりません。しかし第二部定理三八でいわれているように,共通概念は十全にしか考えられることができない概念ですから,思惟の様態cogitandi modiとして真理veritasであるか虚偽falsitasであるかといえば真理であることに変わりありません。そうした真理は,現実的に存在するすべての人間の知性のうちにあるのです。そしてこの真理が真理の規範ですから,現実的に存在するすべての人間は,真理と虚偽を分かつことが一般的にできるのです。
                                   
 実をいうと,僕たちが真理の規範について考察することができるのは,現に僕たちが知性のうちに真理の規範を有しているからではないかと僕は考えています。もし僕たちが真理の規範を有していないなら,僕たちはそれについて考察することができないだろうと僕は思うからです。したがって,僕がこうして真理の規範について探求することができるのは,僕の知性のうちに真理の規範が現に存在しているからであって,またここでいわれている真理の規範を読者が理解することができるのは,読者の知性のうちに真理の規範が現に存在しているからだと僕は考えています。他面からいえば,僕たちが真理の規範について探求することができるということ自体が,僕たちの精神mensのうちに真理の規範が現にあるということの,何よりの論証であると僕は考えます。したがって第二部定理三八系が真理であるということは,僕は僕たちが経験的に知っていることだと思います。ただ僕たちが何か知らないことがあるとすれば,あるいは僕たちがあまり意識していないことがあるのだとすれば,それはこうした真理の規範というものが,いかなる仕方で僕たちの精神のうちに発生しているかということだと思います。よって第二部定理三八および第二部定理三八系の意義は,すべての人間の精神のうちに共通概念があるということより,共通概念が発生する仕組みを明らかにしたことでしょう。
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サウジカップデー&真理の規範

2024-02-25 19:13:58 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜から今日の未明にかけてサウジアラビアのキングアブドゥルアジーズ競馬場で行われたサウジカップデーの諸競走
 サウジダービーGⅢダート1600m。セットアップは3頭が併走した先行集団の真中から3コーナーを回って先頭に。フォーエバーヤングは7番手の外でサトノフェニックスはその後ろから。途中から外を捲ったフォーエバーヤングが,直線もかなり外を回って,抜け出していた馬をぎりぎりで差し切って優勝。サトノフェニックスは10着でセットアップは11着。
                                        
 優勝したフォーエバーヤング全日本2歳優駿以来のレース。デビューから4連勝で重賞3勝目。父はリアルスティール。3代母がローミンレイチェルでその産駒にゼンノロブロイ。日本馬による海外重賞制覇はゴールデンイーグル以来。格付けのある海外重賞はコリアカップ以来。騎乗した坂井瑠星騎手は昨年の1351ターフスプリント以来の海外重賞3勝目。管理している矢作芳人調教師は昨年のサウジカップ以来の海外重賞13勝目。
 リヤドダートスプリントGⅢダート1200m。ジャスパークローネが2番手,リメイクが7~8番手の内。発馬で立ち上がったケイアイドリーは最後尾を追走。直線に入ってから外に出されたリメイクが,前をいく各馬を差し切って優勝。ジャスパークローネが4着でケイアイドリーは6着。
                                        
 優勝したリメイクはコリアスプリント以来の勝利で重賞4勝目。父は2016年のUAEダービーを勝ったラニでその母がヘヴンリーロマンス。母の父はキングカメハメハ。騎乗した川田将雅騎手はコリアカップ以来の海外重賞6勝目。管理している新谷功一調教師はコリアカップ以来の海外重賞4勝目。
 1351ターフスプリントGⅡ芝1351m。ウイングレイテストが4番手,アグリが6番手,ララクリスティーヌがその後ろで発走後に挟まれてしまったバスラットレオンは最後尾。直線で外から追い込んだララクリスティーヌが2着,一端は先頭に立ったウイングレイテストが4着,アグリが6着でバスラットレオンは10着。
 ネオムターフカップGⅡ芝2100m。キラーアビリティは5番手の内,スタッドリーが後方2番手でハーツコンチェルトが最後尾。内の苦しい位置にいたキラーアビリティが直線で少し外に出されて2着。スタッドリーは9着でハーツコンチェルトは11着。
 レッドシーターフハンデキャップGⅢ芝3000m。発馬後に押していったリビアングラスの逃げ。エヒトは2番手の内でしたが,4番手のアイアンバローズが道中で動いて単独の2番手に。ブレークアップは7番手の外。直線でアイアンバローズの外に出てきたエヒトが5着。ブレークアップは9着。直線入口では先頭を守っていたリビアングラスは10着でアイアンバローズは12着。
 サウジカップGⅠダート1800m。このレースは先行各馬が横にずらりと広がってレースは繰り広げられました。日本馬の中ではレモンポップが最も前にいてクラウンプライド,デルマソトガケの順。馬群から大きく離れた2頭のうちの1頭がウシュバテソーロ。徐々に前との差を詰めていったウシュバテソーロは直線では外目から前にいたすべての馬を差し切ったのですが,並んで最後尾にいて後から動いた馬にはぎりぎりで差し切られて2着。デルマソトガケが5着。クラウンプライドが9着でレモンポップは12着。

 もしXの十全な観念idea adaequataがAの精神mensのうちにない場合には,AはXについて確実ではありません。しかしこのことだけでは,Aは自身がXについて確実ではないということを知ることができません。スピノザの哲学では真理veritasと虚偽falsitasの相違を知性intellectusに教えるのが十全な観念で,混乱した観念idea inadaequataはその役には立たないことになっているからです。ではAがXについて確実ではないということを知るためには,Xの十全な観念を有する必要があるというのかといえば,必ずしもそうではないのです。というか,もしもこの条件の下でしか,AがXについて確実でないということを知ることができないとすれば,十全な観念を有する限りでは確実なのですから,AはXについて確実である場合しか確実でないということになり,これは不条理であるとしかいえません。
 十全な観念が真理と虚偽を分かつ指標となるということは,スピノザの哲学では一般的にいえることです。したがって,仮にAの知性のうちにXの十全な観念がないとしても,別の十全な観念,たとえばYの十全な観念があるのであれば,AはXについて確実ではないということを知ることができるのです。それは,この場合でいえば,AはYについての確実性certitudoを有するようにはXについて確実性を有していないということを知ることができるからです。いい換えれば,AはYについて疑い得ないようにXについて疑い得ないわけではないということを知ることができるからです。したがって,もしも現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに,何らかの十全な観念があるのであるとすれば,その人間は,混乱した観念についてはそれが確実性を有していないということを知ることができるのです。つまりもっと一般的にいえば,現実的に存在する人間の精神のうちに何らかの真理があるのなら,その人間は一般的にすべての真理と虚偽を分かつことができます。スピノザの哲学では真理の規範は真理それ自身であるといわれていますが,これはこのような意味での一般性をもっていると解さなければならないと僕は考えています。
 実はこの条件というのは,スピノザの哲学では,現実的に存在するすべての人間に充足されています。
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妥当性の再考&自説の主張

2024-02-24 19:25:28 | 哲学
 第四部序言の中で,スピノザが人間の本性の型を,善悪および完全性perfectioとどのように関係づけているのかということ,そしてスピノザにおける完全性の考え方は優越性の否定と関連しているということはすべて説明することができました。そこでフロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』でスピノザについて言及している部分の妥当性を改めて考察していくことにします。だいぶ時間が経ってしまいましたので,すでに考察した部分の復習も含めて,言及の全体を最初のところからみていくことにします。
                                        
 まずフロムは,スピノザの自然Naturaにおけるあらゆる事物の際立った働きと目標を考察し,およそそれ自体において存在するものは,その存在existentiaを維持しようと努めるconariものであるという答えを出しているといっています。文章全体は異なっていますが,ここでフロムが援用しているのが第三部定理六であるのは間違いありませんし,実際に脚注もそのようになっています。文章全体の相違は翻訳の問題もあるでしょうからここでは不問に付します。ただし,フロムがこれをあらゆる事物の際立った働きactioと目標の考察であるという点には異を唱えることもできます。ここでフロムが働きということで何をいわんとしているのかは不明ですが,スピノザの哲学では働きというのは能動actioを意味します。しかし第三部定理六のコナトゥスconatusというのは第三部定理七でいわれているように各々の事物の現実的本性actualem essentiamなのであって,それは事物が能動の状態にあるか受動passioの状態にあるかは無関係に成立します。これは第三部定理九および第三部定理一から明白だといえます。
 とはいえ第三部定理六は,能動状態において成立しないというわけではありませんから,そこのところはフロムが大きく間違ったことをいっているとは僕は思わないです。実際に第四部定義八は,徳virtutemと能動を等置しているわけですから,第三部定理六が人間における徳と関連付けて説明される場合には,確かに第三部定理六は.あらゆる事物の働きに関連する考察であるといえるからです。しかしそれが目標に関連する考察であるという点は,もっと考えておかなければなりません。徳が目標であるということは間違っていないとしても,第三部定理六で努めるといわれるとき,それは努力を意味するわけではないからです。

 以前にも指摘したことがありますが,スピノザは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部の緒論において,デカルトRené Descartesとスピノザの間にある確実性certitudoの指標の差異を説明した上で,明らかに自説を主張しているようにみえます。本来は『デカルトの哲学原理』は,デカルトの哲学の解説書ですから,デカルトの主張にそぐわないことがいわれるのは好ましくありません。好ましくないというより,あってはならないといってよいと思います。もちろんスピノザは用心深く,たとえ自説ではあってもそれがデカルトの哲学の中でも成立する説であるというように説明しているのですが,少なくともデカルトが確実性の主張から神の観念idea Deiを除外することはないのであって,僕にはスピノザがデカルトの哲学の解説書としては行き過ぎた地点まで踏み込んでしまっているように思えます。ただしそれはあくまでもデカルトの哲学の解説書としてはという意味で,僕自身は確実性の指標が十全な観念idea adaequataそのものであって,それ以外の観念を必要とはしないというスピノザの主張に同意します。考察の中で例示した,平面上に描かれた三角形の内角の和についていえば,知性intellectusが平面上に描かれた三角形を十全に認識するcognoscereのであれば,その知性は同時にその図形の内角の和が二直角であるということを肯定するaffirmare意志作用volitioを有するのであり,この観念と意志作用のセット,これは第二部定理四九によってセットなのですが,このセットの観念,すなわち平面上に描かれた三角形の十全な観念の観念idea ideaeもその知性のうちにあることになり,そのことでその知性はその知性が形成している平面上に描かれた三角形について確実であることができると僕は考えます。
 スピノザにとっての確実性にはもうひとつだけ残された問題があります。ここまで説明してきたことからいえるのは,知性がXについて確実であるのは,その知性のうちにXの十全な観念があるという場合です。したがって別のもの,たとえばYについて確実であるためには,Yの十全な観念が知性のうちにある場合ということになるでしょう。このことから帰結するのは,何であれ何かについて確実であるためには,そのものを十全に認識しなければならないということです。
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美&確実性の指標

2024-02-23 18:59:28 | 歌・小説
 『ドストエフスキー 黒い言葉』の中で『白痴』の主人公であるムイシュキン公爵と,それを描こうとした作者であるドストエフスキーについて語られているのですが,それについてなるほどと思うことがありました。
                                        
 ドストエフスキーは,『白痴』を書くにあたって,この上なく美しい人物を描こうとしました。それが主人公であるムイシュキンとして結実したのです。そして同時に,ムイシュキンというのはキリストになぞらえられる人物であったわけです。つまりこの上なく美しい人物を描くということは,現代のキリスト,現代といってもそれはドストエフスキーが『白痴』を書いている時代の現代ですが,その現代におけるキリストを描こうという意欲をドストエフスキーはもっていたということになります。
 一方,美という概念は,それ自体が『白痴』の中で,あるいはムイシュキンにとって,意味のあるものになっています。ムイシュキンは美が世界を救うという確信を持った人物であるとされているからです。もちろんこのムイシュキンの考えには,作者であるドストエフスキーの考えが反映されているとみていいでしょう。ただしムイシュキンは,観念的に美が世界を救うと考えていたのではないと亀山は指摘します。これはむしろムイシュキンの信念なのであって,美が世界を救うというのは,神に変わって美が世界を救うのだという考えだったのだと亀山はいっています。
 この信念はドストエフスキーにもあったのだと考えることができます。ただしそれは,僕などからみれば,やや屈折した面をもっているようにみえるのです。ムイシュキンはキリストになぞらえられる人物だったのですから,先述したようにドストエフスキーの本来の意図はキリストをその時代によみがえらせることにあった筈なのです。しかしそれを,美と関連させてドストエフスキーは描きました。他面からいえば,美という観念がなければ,キリストをよみがえらせることはできないという思いが,同時にドストエフスキーのうちにはあったということになるからです。

 このデカルトRené Descartesとスピノザの間の相違は,確実性certitudoのしるしsignumとか確実性の指標といったものを想定し,それはそれぞれにとって何であるかというように考えれば,より容易に理解することができるでしょう。デカルトにとって確実性の指標は,知性intellectusのうちにある神Deusの十全な観念idea adaequataであって,それ以外ではありません。したがって,現実的に存在するAという人間の精神mens humanaのうちに,Xの観念があるというとき,仮にそのXの観念が十全な観念であるとしても,AはXについて確実であるとはいえません。しかしもしもAのうちに神の十全な観念があるのであれば,AはXについて確実であることができます。他面からいえば,Aの精神のうちにXの十全な観念があるとしても,神の十全な観念がないのであれば,AはXについて確実であることはできないのです。そしてこのことが,不確実性にも妥当します。Aの精神のうちにXの十全な観念があっても,神の十全な観念がないのであれば,AはXについて不確実であることになります。そして逆に,Aの精神のうちに神の十全な観念があって,Xの混乱した観念idea inadaequataがある場合にも,AはXについて不確実であるということになります。とくにこの場合は,Aは自身がXについて不確実であることを知ることができるということになるのです。
 スピノザの哲学の場合は,確実性の指標というのは単に観念対象ideatumの十全な観念です。したがって,現実的に存在するAという人間の精神のうちにXの観念があって,その観念が十全な観念であるのなら,それだけでAはXについて確実であることができます。そして同時に自身がXについて確実であるということを知ることができるのです。しかしそれがXの混乱した観念であるなら,この限りにおいてAはXについて確実であることはできません。ただし指標はあくまでもXの十全な観念なのですから,AはXについて不確実であるということは必ずしもできないのであって,AはXについて確実であるか不確実であるか分からないということになります。それが分からないので,AはXについて疑い得るのですが,疑い得るということと不確実であるということが,スピノザの哲学では一致しないのです。
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モーニン&神への依拠

2024-02-22 19:40:42 | 名馬
 雲取賞を逃げ切ったブルーサンの父はモーニンです。英語表記はMoaninで,ジャズの楽曲名。6代母がオールフォーロンドンの3代母にあたる同一牝系です。
 デビューは3歳の5月と遅くなりました。そのデビュー戦を勝つと500万,1000万,1600万まで4連勝。重賞初挑戦となった武蔵野ステークスこそ3着に敗れましたが,年が明けて根岸ステークスで重賞初制覇。さらにフェブラリーステークスを勝って7戦6勝という戦績で大レースの勝ち馬になりました。
 ところがここから苦難が始まります。かしわ記念で8着と初の大敗。日本テレビ盃は2着になったものの武蔵野ステークスが7着でチャンピオンズカップも7着。5歳初戦のフェブラリーステークスも12着でした。かしわ記念が3着,さきたま杯が2着と復調の兆し。しかし秋は日本テレビ盃が4着で武蔵野ステークスが9着。芝の阪神カップに出走するも6着でした。
 6歳初戦も芝の阪急杯で16着。3月にダートのオープンに出走して久々の勝利をあげました。かしわ記念は6着。9月に韓国に遠征してコリアスプリントを勝ったもののJBCスプリントは4着でした。
 7歳も現役を続行。根岸ステークスは4着,フェブラリーステークスも4着。かしわ記念が7着でさきたま杯が5着。秋に芝のセントウルステークスに出走して9着。スワンステークスで18着となり,現役を退きました。
 デビューしてから翌年のフェブラリーステークスまでと,それ以降では別の馬のようでした。能力のピークをわりと早く迎えてしまい,それ以降は重賞では厳しいというレベルまで落ち込んでしまったという馬です。

 スピノザの哲学では,Deusが存在するということより,僕たちが神の十全な観念idea adaequataを有するということが優先されます。優先されるというのは,そちらの方が僕たちにとって重要であるという意味です。なので僕はここではそのスピノザの路線に沿って説明しますが,この場合はデカルトRené Descartesの哲学における確実性certitudoは,知性intellectusのうちに神の十全な観念が存在するということに依拠することによって保証されます。つまり,現実的に存在する人間の知性のうちにXの十全な観念があると仮定すれば,ただそのことによってその人間はXについて確実であることはできません。その同じ人間の知性のうちに,神の十全な観念があることによって,その人間はXについて確実であるということを知ることができるというようになっています。繰り返しになりますが,デカルトは神の観念idea Deiを有することの方が神が存在することよりも僕たちにとって重要であるというように考えていませんから,デカルトの確実性の説明がこのようになっているというわけではありません。あくまでもスピノザの哲学に沿った解釈であると理解してください。
                                   
 スピノザにとっての確実性というのはこのようなものではありません。確かに第二部定理一一系にあるように,現実的に存在する人間の知性は神の無限知性の一部partem esse infiniti intellectus Deiですから,その点では僕たちにとっての確実性が神に依拠しているといえないわけではありません。ただそれは,たとえばAという人間の精神mens humanaが存在するなら,それはAの精神という様態的変状modificatioに様態化した限りでの神の思惟の属性Cogitationis attributumであるという意味なのであって,確実性そのものが神に依拠しているわけではありません。むしろ,Aの知性のうちにXの十全な観念があるのであれば,Xの十全な観念の観念idea ideaeもAの知性のうちにあるのだから,それでAはXについて確実であることができるといわれているのですから,Xについての確実性が,デカルトのいうような意味で神に依拠していないということは明白でしょう。このことは,Aの精神のうちに神の十全な観念があるかないかということとは関係なく成立するからです。つまり神を十全に認識していなくても,僕たちは確実であることができるのです。
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ユングフラウ賞&積極性

2024-02-21 18:57:48 | 地方競馬
 桜花賞トライアルの第16回ユングフラウ賞。保園騎手が10レースで落馬し前頭部擦過傷および頸椎打挫症と診断されアニモは七夕騎手に変更。
 ノースビクトリーは発馬後に右によれて1馬身の不利。先手を奪ったのはミチノアンジュでスティールマジックががっちりとマーク。3番手はトレイルリッジとモノノフブラック。2馬身差でイマヲトキメク。1馬身差でミモフレイバー。1馬身差でファーマティアーズ。1馬身差でプリンセスアリーとスピニングガール。発馬後の不利で後方になっていたノースビクトリーは向正面から追い上げてこの集団の外をさらに上昇。5馬身差でクロスレイジング。1馬身差の最後尾にアニモという隊列。最初の600mは38秒3の超スローペース。
 3コーナーからミチノアンジュとスティールマジックは雁行になり,押してモノノフブラックが追走。その後ろは内がイマヲトキメクで外がノースビクトリー。前の2頭は並んだまま直線へ。このあたりはスティールマジックの方が手応えがよさそうにみえたのですが,直線では逃げたミチノアンジュがまた差を広げて優勝。スティールマジックが1馬身半差で2着。モノノフブラックは追走で一杯になったものの,後続の追撃は凌いで3馬身差の3着。
 優勝したミチノアンジュは南関東重賞初挑戦での優勝。ここまで6戦して2勝,2着が3回,3着が1回と,堅実な成績を残していました。このレースはエーデルワイス賞で2着があるスティールマジックが実績で最上位。それを斥けたのは評価できるのですが,超スローペースでの先行決着という内容なので,展開面の恩恵が大きかったかもしれず,能力をどこまで評価してよいのかというのははっきりと分からないといったところです。母の父はゴールドアリュール。母のふたつ下の半妹が2014年に阪神牝馬ステークス,2016年に東京新聞杯と阪神牝馬ステークス,2017年に京都大賞典を勝ったスマートレイアーで,6つ下の半弟が2017年に京都新聞杯を勝ったプラチナムバレット。Angeはフランス語で天使。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は一昨年のアフター5スター賞以来の南関東重賞16勝目。昨年は浦和記念を勝っています。第12回以来となる4年ぶりのユングフラウ賞2勝目。管理している大井の福田真広調教師は南関東重賞2勝目。ユングフラウ賞は初勝利。

 デカルトRené Descartesの場合は確実性certitudoと不確実性は反対概念です。ですがスピノザの場合は確実性と不確実性は反対概念ではなく,不確実性という概念notioを想定するなら,それは確実であるかないか分からない,いい換えれば確実であるとはいえないというほどの意味です。つまり不確実性の概念が有する内容が,スピノザの場合はデカルトの場合より弱まっています。その分だけスピノザの場合はデカルトの場合より,確実性が有する意味が強まっていて,その分だけ積極的になっているのです。とくに方法論的懐疑doute méthodiqueに注目するなら,それは疑い得ないものを発見する方法であるとはいえ,とりあえずはどんな事柄であっても疑ってみるという方法ですから,むしろ不確実なものを次々と抽出して,最終的に確実なものを発見しようとする方法だといえるでしょう。ですからこの場合は確実性より不確実性の方が重要で,確実性とは不確実であるとはいえない事柄であるというような前提が含まれているといっていいでしょう。このようにみれば,方法論的懐疑に対していかにスピノザが確実性を積極的に規定しているのかということが理解することができるでしょうし,そのように不確実性よりも確実性の方を積極的に規定しているスピノザが,なぜ方法論的懐疑を方法としても批判するのかということも理解できると思います。
                                        
 ただしこれは方法論的懐疑に関わることなのであって,スピノザが最初から規定している積極的な確実性が,デカルトの思想の中には含まれないという意味ではありません。この種の積極性はデカルトの哲学の中にもあるのであって,ただそれは,方法論的懐疑の最終結論,すなわち我思うゆえに我ありcogito, ergo sumという結論が出された後で規定されているものです。しかもデカルトの哲学における確実性は,すでに示したスピノザの確実性とは異なっています。というのは,デカルトは現実的に存在する人間にとっての確実性というのを,神Deusに依拠することによって規定するからです。つまり現実的に存在する人間がある事柄について確実であるということが,神が存在するということと関連させて結論されます。他面からいえばそれがなければ確実であることはできないのです。
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能登半島支援・玉藻杯争覇戦&不確実性

2024-02-20 19:27:04 | 競輪
 高松記念の決勝。並びは菊池の後ろで佐藤と東が競り,浅井に井上,町田‐松浦‐香川‐福島の中四国。
 松浦,菊池,浅井の3人がスタートを取りにいき,松浦が誘導の後ろに入りました。しかし菊池が引かず,ずっと松浦の外で併走を続けたため,町田を迎え入れることができなかったので松浦が引き,菊池の前受けに。その後ろは周回中から内外を入れ替えながらの競り。4番手に浅井,6番手に町田の周回に。残り3周のバックの出口から菊池が誘導との車間を開け始めました。後方になった町田はホームに入ってから発進。菊池はおそらくその腹積もりであったのでしょう,突っ張りました。競っていたふたりが離れてしまったので,菊池の後ろに叩きにいった町田が入って打鐘。離れてしまった佐藤は内から上昇しようとしましたが,位置は取れませんでした。ホームに戻って町田が発進。あっさりと前に出て菊池は後退。バックに入ると浅井が捲り発進。これに合わせて松浦が番手捲りを敢行すると,浅井がうまくスピードを緩めて松浦の後ろに入り,松浦‐浅井‐井上の隊列になって直線。脚を残していた浅井が松浦を差し切って優勝。松浦が4分の1車輪差の2着で浅井マークの井上が半車輪差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は昨年11月の四日市記念以来の優勝で記念競輪33勝目。GⅢは34勝目。高松記念は初制覇。このレースはラインが長い中四国ラインの番手となった松浦が圧倒的に有利。町田は菊池を叩くことはできませんでしたが,番手に入って残り1周のホームからは先行になりましたので,悪い展開ではなかった筈です。浅井はよいスピードで捲っていき,松浦が発進したところで香川を阻んで番手を奪ったのですが,これが見事な走行でした。結果的には町田はもう少し遅めの発進でもよかったかもしれませんが,中四国勢の作戦どうこうよりも,このレースは浅井の走りが素晴らしかったと思います。

 スピノザがいう確実性certitudoという概念notioが積極的で,デカルトRené Descartesがいっているそれは消極的であるということは,仮にその反対概念を想定してみれば分かりやすく理解することができると思います。確実性の反対概念ですから,ここではそれを不確実性と表現して,それがデカルトおよびスピノザにとって,それぞれどのような概念として想定されるべきなのかということを考えておきましょう。
 デカルトの方法論的懐疑doute méthodiqueは,デカルト自身が疑い得ない事柄を探索する試みです。したがって確実なものは疑い得ないことということになりますから,それとは逆に,疑い得ることは何であっても不確実であるということになります。実際にデカルトは,自分の身体corpusが存在するということはもちろん,平面上に描かれた三角形の内角の和が二直角であるということも,これは当座の事柄としてはという前提をつけるべきかもしれませんが,疑い得ることとしていて,それらを不確実であるとして,疑い得ないこと,いい換えればデカルトにとっての絶対的な真理veritasとは認めなかったのでした。ですから少なくとも方法論的懐疑の過程においては,不確実性はデカルト自身が疑い得ることと等置されているということになります。
                                   
 これに対していえばスピノザの思想にははっきりとした不確実性という概念はないのです。もちろんスピノザも,ある観念ideaについてそれを疑い得るということは認めます。少なくとも混乱した観念idea inadaequataというのは疑い得る観念であるということをスピノザは認めていますが,第二部自然学②要請三によって,現実的に存在する人間の身体humanum corpusは外部の物体corpusによってきわめて多様の仕方で刺激されるafficiのであり,そのときには第二部定理一七によって,自身の身体を刺激するafficere外部の物体の表象像imagoという混乱した観念が自身の精神mensのうちに発生するのですから,そうした疑い得る観念は,現実的に存在するすべての人間の精神mens humanaのうちにあるといわなければなりません。ところがこの場合の疑い得るというのは,それが不確実であるということと等置することができるわけではありません。等置できるとすれば,それが十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念であるか分からないということとです。
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フェブラリーステークス&観念の力

2024-02-19 19:07:33 | 中央競馬
 浦和から1頭,大井から1頭,兵庫から1頭が遠征してきた昨日の第41回フェブラリーステークス
 シャンパンカラーは立ち上がってしまい1馬身の不利。発馬後の加速が群を抜いていたドンフランキーが単独の逃げ。2番手はイグナイター,ドゥラエレーデ,ペプチドナイル,ウィルソンテソーロの4頭の集団。2馬身差で巻き返してきたシャンパンカラーとオメガギネス。2馬身差でガイアフォース。2馬身差でミックファイアとスピーディキック。1馬身差でカラテ。1馬身差でタガノビューティーとキングズソード。6馬身差でセキフウ。2馬身差でアルファマム。2馬身差の最後尾にレッドルゼル。前半の800mは45秒6の超ハイペース。
 直線に入るところでもドンフランキーが先頭でしたが,内を少し開けたのでずっと内を回っていたイグナイターが先頭に。その後からドンフランキーの外を回ったペプチドナイルが追い上げてきて先頭に。これをめがけて追い掛けてきたのはタガノビューティー。さらにタガノビューティーの外からガイアフォースとセキフウが並んで追い込み,タガノビューティーの内からはキングズソード。しかし先に先頭に立っていたペプチドナイルがフィニッシュまで粘って優勝。ガイアフォースが1馬身4分の1差で2着。セキフウがクビ差の3着でタガノビューティーがハナ差で4着。キングズソードが半馬身差で5着。
 優勝したペプチドナイルはこれまでオープンを3勝していましたが,重賞は初制覇での大レース優勝。このレースはチャンピオンズカップから直行してきた実績馬か,前哨戦の根岸ステークスおよび東海ステークスの勝ち馬が勝つという傾向。ところが今年は該当馬がいませんでした。つまり例年ほどのレベルにはなかったといえるメンバー構成なので,勝ったからといって過去の優勝馬ほどの評価はできないかもしれません。ただ超ハイペースで後ろの方にいた馬が有利になったレースを,先行策から抜け出して粘ったという内容は強かったと思います。父はキングカメハメハ。母の父はマンハッタンカフェ
                                     
 騎乗した藤岡佑介騎手は2018年のNHKマイルカップ以来となる大レース4勝目。フェブラリーステークスは初勝利。管理している武英智調教師は開業から6年弱で大レース初勝利。

 十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,第一義的には前者が真理veritasで後者が虚偽falsitasであるということです。したがって,十全な観念は十全な観念と混乱した観念の相違を知性intellectusに教えるけれど,混乱した観念はその相違を知性に教えることがないということは,真理と虚偽の相違を僕たちに教えるのは十全な観念であって,混乱した観念はそのためには何も役に立たないことを意味します。スピノザは第二部定理四二で,真なるものと偽なるものとの相違を教えるのは第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisであって,第一種の認識cognitio primi generisではないといっていますが,第二種の認識と第三種の認識が十全な観念であるのに対し,第一種の認識は混乱した観念ですから,この定理Propositioはまさにこのことをいっていることになります。
 このことは,十全な観念と混乱した観念の関係が,第一義的には真理と虚偽の相違を示すとしても,スピノザの哲学では前者が有esseであって後者が無であるという関係を同時に意味するということから容易に理解できるのではないかと思います。スピノザの哲学では,事物が存在し得るということはその事物に実在性realitasがあるということを意味し,実在性というのは力potentiaという観点からみたときの本性essentiaを意味することになり,逆に存在し得ないということは,その事物には実在性が伴っていないということを意味することになりますから,力と反対の意味において無力impotentiaであることになります。つまり,十全な観念には知性に真理と虚偽の相違を教えるだけの力があるにしても,混乱した観念はそれ自体が無力なので,そのような力をもつことができないのです。
 ここまでの考察から,スピノザがどういう観点から方法論的懐疑doute méthodiqueを批判しようとしているかということも明らかになったといえます。デカルトRené Descartesは,スピノザが中心的な課題として据えた確実性certitudoを,デカルト自身が疑い得ないことと等置しています。しかしスピノザからすれば,ある事柄についてそれを疑い得ないということは,むしろその事柄について確実であるということから帰結するような特質proprietasにすぎないのです。他面からいえば,デカルトにとっての確実性が消極的なものだとすれば,スピノザにとっては積極的なものなのです。
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アミールトロフィー&十全な観念と混乱した観念

2024-02-18 19:05:05 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にカタールのアルライヤン競馬場で行われた2024アミールトロフィーGⅢ芝2400m。
 ノースブリッジがレースの序盤は逃げてサトノグランツが2番手。ゼッフィーロは最後尾に控えました。1周目の正面に入って外から勝つことになるUAEのレベルスロマンスがノースブリッジの前に出て,ここからはレベルスロマンスの逃げに。ノースブリッジが内の2番手になりましたが,行きたがるのをかなり宥めるような形。サトノグランツはその外へ。ゼッフィーロは内を回って最後尾を併走するような隊列になりました。直線を迎える前に外に出されて漸進していたゼッフィーロは直線は大外から追われましたが,すぐに左によれてしまいました。立て直されると再びぐんぐんと追い込んできたのですが,その時点では途中からの逃げになったレベルスロマンスがセーフティリードを築いていて,2着まで。ノースブリッジとサトノグランツで3着争いとなり,外のサトノグランツが3着。ノースブリッジが4着。
 このレースは勝ったレベルスロマンスが一昨年のブリーダーズカップターフなどGⅠで3勝をあげていて実績最上位。大レースを勝っていない日本馬がその後ろを占めたのですから,概ね能力通りの結果で,3頭とも健闘したといっていいのではないかと思います。ただゼッフィーロが最初からまっすぐに伸びていれば,最後の脚からしてもっと詰め寄ることができていた筈で,その点は残念ではありました。

 現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるのであれば,その人間の精神のうちにはXの十全な観念の観念idea ideaeがあり,その観念はXの十全な観念が神Deusに帰せられるのと同じように神に帰せられます。よってこの人間は自身がXの十全な観念を有しているということを知り得るので,そのことを疑うことはできません。一方,Xの混乱した観念idea inadaequataがある場合も,Xの混乱した観念の観念がXの混乱した観念が神に帰せられるのと同じように神に帰せられるので,その人間の精神のうちにXの混乱した観念の観念があることになり,その人間は自身がXの観念を有しているということを知ることはできるのですが,この場合はXの混乱した観念の観念自体が混乱した観念であることになるので,その人間はXの混乱した観念が,十全な観念であるか混乱した観念であるのかは分からないという意味で,それを疑うことができるというのがスピノザの主張です。
                                   
 この主張からいくつかのことが分かります。
 まず,十全な観念は,それ自体が十全な観念であるということを知性intellectusに教えることができるのに対し,混乱した観念は,それが十全な観念であるということを知性に教えることができないのはもちろんのこと,それが混乱した観念であるということも知性に教えることはできないということです。というのは,もしも混乱した観念が,それが混乱した観念であるということを知性に教えることができるのであれば,知性は自身がXの混乱した観念を有しているということを知ることができるでしょう。したがって自身がXの混乱した観念を有しているということ,他面からいえばその観念はXについて確実ではないということについては知ることができる,つまり疑い得ないといわなければなりませんが,スピノザの主張ではそうなっていません。むしろXについて確実であるかどうかを知ることができないとなっています。確実であるかどうかを知ることができないので,そのことについて疑い得るということができるからです。
 ここから分かるように,十全な観念と混乱した観念の相違を知性に教えるのは十全な観念であり,十全な観念だけであることになります。
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外見&混乱した観念の観念

2024-02-17 19:06:00 | 哲学
 オルデンブルクHeinrich Ordenburgはスピノザとの面会のためにレインスブルフRijnsburgを訪れる前に,スピノザがユダヤ教会から破門を宣告され,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体から追放されたユダヤ人であるという情報を知っていたという蓋然性がきわめて高いと僕は考えます。ただこれは僕の解釈ですし,何より蓋然性がきわめて高いというのはその可能性が0であったということを意味するわけではありませんから,そのことを知らずにオルデンブルクがスピノザに会った場合のことも一応は考察しておきましょう。
                                        
 面会した以上はスピノザは自身の身の上話もしたと解釈するのが妥当であって,それによってオルデンブルクはスピノザのそれまでの生い立ちを知ったという可能性が高いです。ただこれも可能性であって,オルデンブルクの役回りはスピノザの生い立ちを知ることではなかったのですから,そのことには何の関心ももたず,そのゆえにスピノザにはそのようなことを何も質問しなかったので,スピノザは質問されなかったことには何も答えなかったということもあり得ない話ではありません。ただ,会ったということ自体は事実なのですから,少なくともオルデンブルクはスピノザがユダヤ人であるということは知り得た筈です。というのは,ユダヤ人はユダヤ人に特有の外見をしているからで,それはスピノザをみたオルデンブルクには一目瞭然であったからです。
 このことは後にスピノザと面会したライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの事例から明らかです。ライプニッツはスピノザがユダヤ人であったということ,そしてユダヤ人に特有の外見をしていたということを事細かにメモしています。いい換えればスピノザはそれくらいライプニッツが日常的に交際している人物たちとは異なった外見をしていたのであって,それはオルデンブルクにも同様であったのは間違いありません。
 なので少なくともスピノザがユダヤ人であるということをオルデンブルクは知っていたのです。その上で,書簡三十三ユダヤ人の帰還についてスピノザに質問したのです。

 さらにもうひとつ,注意しておきたいことがあります。現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの観念ideaがあるということが神Deusに帰せられるのと同じように,その人間の精神のうちにXの観念の観念idea ideaeがあるということも神に帰せられるということが,第二部定理二〇から帰結するのです。したがってこのことは,Xの観念がある人間の精神のうちにあるとき,その観念が十全な観念idea adaequataであろうと混乱した観念idea inadaequataであろうと同じように妥当します。これは,第二部定理一一系により,人間の精神というのは,神の無限知性 infiniti intellectus Deiの一部であって,観念が神の無限知性のうちにあるとみられる限りでは,第二部定理七系の意味によって十全な観念であるということから明らかだといえます。現実的に存在する人間の精神の本性essentiaを構成する限りで神のうちにXの観念があろうと,現実的に存在するある人間の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があろうと,神のうちではどちらも十全な観念であるからです。
 だから,Xの混乱した観念が現実的に存在するある人間,たとえばAの精神のうちにあるなら,Xの観念の観念もAの精神のうちにあるのです。するとこのことをもって,Aは自分の精神のうちにXの混乱した観念があるということを知ることができるということになりそうですが,これはそれ自体では成立しないのです。なぜかというと,Xの観念の観念は,Xの観念が神に帰せられるのと同じように神に帰せられるのですから,それ自体が混乱した観念であるからです。他面からいえば,Xの観念が,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神に帰せられるのと同じように,Xの観念の観念は,Aの精神の観念の本性を構成するとともにほかのものの観念の観念を有する限りで神に帰することができるからです。したがってAは,自分の精神のうちにXの観念があるということは知ることができるのですが,その観念が十全な観念であるか混乱した観念であるかということは,このこと自体では知ることができません。いい換えればAは,Xが十全な観念であるか混乱した観念であるかを疑うということになるといえるでしょう。
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天龍の雑感⑱&スピノザの解答

2024-02-16 19:05:56 | NOAH
 天龍の雑感⑰で示したジャンボ・鶴田に対する評価の後で,鶴田はクールでいるようでもプロレスラーとしてのいやらしさも持ち合わせていたと天龍は語っています。とくに,なめられてはいけないという場面ではそれを見せていたとのことです。そのことを天龍は,鶴田のトップとしてのプライドと関連付けて説明しています。いくら自分がトップであるといったところで,そうしたいやらしさがなければ大したことがないと思われてしまうからです。ずっとトップを張っていくためにはそこに何らかの真実,これは相手に対する真実とファンに対しての真実との両方の意味が含まれていると思われますが,その種の真実がなければいけないのです。鶴田は長い間に渡ってトップに君臨し続けたレスラーでしたから,確かにその種の真実があったと天龍はみているのでしょうし,僕もそれには同意します。いい換えれば,ここでいわれているプロレスラーとしてのいやらしさというのは,そのような真実のことを意味していると解してよいのでしょう。
 その後で,鶴田がほかのレスラーと比較したときの最も優れた点について,身体能力をあげています。そしてこのことについて,天龍は面白い説明をしています。もしもプロレスをマラソンにたとえるならば,鶴田は一番だけれども,もしもプロレスを100m走にたとえたときには,鶴田は後ろから数えた方が早いくらいのレスラーであったというものです。要するに鶴田は,ダッシュはそれほど優れていないのだけれども,高いアベレージの試合を長時間にわたって維持することができる選手だったと天龍はいいたいのです。ただファンの中には100mのダッシュをプロレスに求めるという場合もあるので,そういうファンからみれば,鶴田の評価は善戦マンにとどまってしまうだろうというものです。
 天龍がこれを馬場の教えと関連付けて説明していますが,これは正しいのではないかと僕は推測します。小橋建太は自身に対する馬場の指導について語っていますが,馬場自身は選手に対する指導法を体系づけて語っているわけではありません。ただ馬場は,身体の大きなレスラーには大きなレスラーの,小さなレスらーには小さなレスラーのプロレスというものがあって,それぞれに応じて指導方法も変わらなければならないと考えていたように思われるのです。

 現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの観念ideaがあるのであれば,その同じ人間の精神のうちにはXの観念の観念idea ideaeもまた存在します。スピノザはこのことを利用して,現実的に存在する人間の確実性certitudoとは何かということを,シンプルに解答します。すなわち,Aという人間が現実的に存在して,もしAの精神のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるのであれば,Xの十全な観念を観念対象ideatumとした,Xの十全な観念の観念もまたAの精神のうちにあるのだから,少なくともAはXについて確実であることができるというのがそれです。これをスピノザは,現実的に存在する人間はある事柄を知っているなら,自分がその事柄を知っているということも知ることができるのだから,自分がそれを知っているということを確実に知ることができるという仕方で説明します。そしてその人間は,それを知っているということを知っているなら,それを知っていることを疑うことができないでしょう。なので第二部定理四三では,真の観念idea veraを有する人間は自分が真の観念を有していることを疑い得ず,真の観念が観念対象の真理veritasであるということも疑い得ないという主旨のことをいっているのです。ここでスピノザが,単に確実であるというのではなく,疑い得ないといういい方をしているのは,もしかしたら方法論的懐疑doute méthodiqueを念頭に置いてのことかもしれません。この定理Propositioは明らかにデカルトRené Descartesが採用した方法論的懐疑は誤りerrorであるという意味を含んでいるといえるからです。
                                   
 スピノザの説明から理解できるように,ある事柄を知っていればそれを知っているということを知ることができるという関係は,実際は無際限に連鎖していきます。これは,知っているということを知っているのであれば,そのことを知るということもできますし,さらにそのことを知ることもできるという具合に,無際限に連鎖していくということから明白でしょう。つまり,Xの観念とXの観念の観念が同一個体で,同様の仕方で神Deusに帰せられるように,Xの観念の観念とXの観念の観念の観念も同一個体で,やはり同様の仕方で神に帰せられるのであり,こうした関係が思惟の属性Cogitationis attributumのうちでは無際限に連鎖するのです。
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読売と朝日&同様の仕方

2024-02-15 19:04:25 | 歌・小説
 『なぜ漱石は終わらないのか』のⅡ章で,漱石の朝日新聞入社の経緯について触れられています。漱石は先に読売新聞から入社を誘われ,それを断ってから朝日新聞への入社の依頼を受け,それに応じました。僕はこのことについて,読売新聞が提示してきた条件は漱石には受け入れることができず,朝日新聞は漱石が満足することができる条件を提示したのでそれを受けたというように解釈してきました。しかしこの部分ではこのことが,それとは別の文脈において説明されていますので,ここでも簡単に紹介しておきましょう。
                                        
 ひとつは,朝日新聞の主筆であった池辺三山との関係です。池辺が漱石に注目したのは,漱石が知的商品になり得るからだったと小森はいっています。そして漱石はそういった注目のされ方に心を動かされたのではないかという見方です。漱石と池辺との間にある特別な信頼関係があったのは間違いありません。というのは,後に池辺は朝日新聞を退社することになるのですが,そのときに池辺に誘われて朝日新聞に入社した自分は残ってのよいかという主旨の,事実上の進退伺を漱石は提出しているからです。この場合,たとえば池辺が朝日新聞ではなく読売新聞の主筆であったら,漱石は朝日新聞ではなく読売新聞に入社していたであろうということになります。
 もうひとつ,読売新聞は尾崎紅葉を中心とした硯友社という文学結社系であったという点があげられています。漱石は硯友社の小説には批判的で,たとえば『草枕』では『金色夜叉』を批判しています。この当時の漱石は自身が写生文派の小説家であると自認していて,硯友社系の小説が掲載される読売新聞には入社したくないという気持ちがあったのではないかとのことです。この場合は,当時の読売新聞が,現に硯友社系の小説家を抱えていた新聞社であった以上,漱石はどのような条件を提示されようと読売新聞に入社することがなかったということになるでしょう。
 どの見方が正しくてどれが誤っているということではないと思います。それぞれの状況が輻輳して,漱石は朝日新聞への入社を決断したということなのでしょう。

 ある観念ideaとその観念を観念対象ideatumとする観念の観念idea ideaeは,平行論における同一個体の関係を有します。なのでここでの説明は,やや厳密さを欠くことになります。ある知性intellectusの本性essentiaを構成する限りでの神Deusと,ある知性を観念対象とした観念の本性を構成する限りでの神は,必ずしも同一の神であるということはできないからです。ただ,たとえばある人間の身体humanum corpusとその身体の観念であるその人間の精神mens humanaは,同一個体であるから,ある人間の身体の本性を構成する限りでの神とその人間の精神の本性を構成する限りでの神というのは異なった神であるという場合ほどの差異はありません。なぜなら,これらふたつの神は,前者が神の延長の属性Extensionis attributumを指すのに対して後者が延長の属性を観念対象とする神の思惟の属性Cogitationis attributumを指しますから,実在的にrealiter区別されなければなりません。しかしある人間の精神の本性を構成する神とその人間の精神の観念の本性を構成する限りでの神は,同じように思惟の属性を意味することになるので,身体と精神が実在的に区別されるというのと同じ意味で実在的に区別されるという必要はありません。これは,人間の身体と人間の精神は同一の秩序ordoおよび連結connexioで発生するとしても,前者が延長の属性における秩序および連結で説明されなければならないのに対し,後者は思惟の属性における秩序および連結で説明されなければならないという点に留意すれば,容易に理解することができるでしょう。ある人間の精神とその人間の精神の観念は,同一の秩序および連結で発生しますが,それらはどちらも思惟の属性における秩序および連結で説明することが可能だからです。だからスピノザは第二部定理二〇で,これらが同様の仕方で神の中に生じ,同様の仕方で神に帰せられるといっているのです。
 このことから,もしも現実的に存在するAという人間の知性のうちにXの観念があるのであれば,Aの知性のうちにはXの観念の観念もまたあるということが帰結します。ある人間の知性とその人間の知性の観念が同様の仕方で神の中に生じ,同様の仕方で神に帰せられるのであれば,それはこの条件の下でXの観念とXの観念の観念の間にも適用されなければならないからです。
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