スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
雲取賞 を逃げ切ったブルーサン の父はモーニン です。英語表記はMoaninで,ジャズの楽曲名。6代母がオールフォーロンドン の3代母にあたる同一牝系です。
デビューは3歳の5月と遅くなりました。そのデビュー戦を勝つと500万,1000万,1600万まで4連勝。重賞初挑戦となった武蔵野ステークスこそ3着に敗れましたが,年が明けて根岸ステークスで重賞初制覇。さらにフェブラリーステークス を勝って7戦6勝という戦績で大レースの勝ち馬になりました。
ところがここから苦難が始まります。かしわ記念 で8着と初の大敗。日本テレビ盃 は2着になったものの武蔵野ステークスが7着でチャンピオンズカップ も7着。5歳初戦のフェブラリーステークス も12着でした。かしわ記念 が3着,さきたま杯 が2着と復調の兆し。しかし秋は日本テレビ盃 が4着で武蔵野ステークスが9着。芝の阪神カップに出走するも6着でした。
6歳初戦も芝の阪急杯で16着。3月にダートのオープンに出走して久々の勝利をあげました。かしわ記念 は6着。9月に韓国に遠征してコリアスプリントを勝ったもののJBCスプリント は4着でした。
7歳も現役を続行。根岸ステークスは4着,フェブラリーステークス も4着。かしわ記念 が7着でさきたま杯 が5着。秋に芝のセントウルステークスに出走して9着。スワンステークスで18着となり,現役を退きました。
デビューしてから翌年のフェブラリーステークスまでと,それ以降では別の馬のようでした。能力のピークをわりと早く迎えてしまい,それ以降は重賞では厳しいというレベルまで落ち込んでしまったという馬です。
スピノザの哲学では,神 Deusが存在するということより,僕たちが神の十全な観念 idea adaequataを有するということが優先されます。優先されるというのは,そちらの方が僕たちにとって重要であるという意味です。なので僕はここではそのスピノザの路線に沿って説明しますが,この場合はデカルト René Descartesの哲学における確実性certitudoは,知性intellectusのうちに神の十全な観念が存在するということに依拠することによって保証されます。つまり,現実的に存在する人間の知性のうちにXの十全な観念があると仮定すれば,ただそのことによってその人間はXについて確実であることはできません。その同じ人間の知性のうちに,神の十全な観念があることによって,その人間はXについて確実であるということを知ることができるというようになっています。繰り返しになりますが,デカルトは神の観念idea Deiを有することの方が神が存在することよりも僕たちにとって重要であるというように考えていませんから,デカルトの確実性の説明がこのようになっているというわけではありません。あくまでもスピノザの哲学に沿った解釈であると理解してください。
スピノザにとっての確実性というのはこのようなものではありません。確かに第二部定理一一系 にあるように,現実的に存在する人間の知性は神の無限知性の一部partem esse infiniti intellectus Deiですから,その点では僕たちにとっての確実性が神に依拠しているといえないわけではありません。ただそれは,たとえばAという人間の精神 mens humanaが存在するなら,それはAの精神という様態的変状 modificatioに様態化した限りでの神の思惟の属性Cogitationis attributumであるという意味なのであって,確実性そのものが神に依拠しているわけではありません。むしろ,Aの知性のうちにXの十全な観念があるのであれば,Xの十全な観念の観念idea ideaeもAの知性のうちにあるのだから,それでAはXについて確実であることができるといわれているのですから,Xについての確実性が,デカルトのいうような意味で神に依拠していないということは明白でしょう。このことは,Aの精神のうちに神の十全な観念があるかないかということとは関係なく成立するからです。つまり神を十全に認識していなくても,僕たちは確実であることができるのです。
ニューイヤーカップ を勝ったギガース の祖母はダイヤモンドビコー です。母はステラマドリッド 。
デビューは2歳10月。デビュー戦は4着でしたが同一開催の折り返しの新馬で初勝利。500万が4着,フェアリーステークスが6着で2歳戦を終えました。
3歳4月に復帰。初戦の500万は2着だったもののその後は500万,900万と連勝。夏の札幌で古馬相手のクイーンステークスで2着になると,ローズステークスで重賞初制覇。秋華賞には出走せず暮れの阪神牝馬ステークスに向かって6着でした。
4歳初戦の京都牝馬ステークスは2着。中山牝馬ステークスで重賞2勝目。新潟大賞典が7着,エプソムカップが10着と,牡馬相手には苦戦しましたがクイーンステークスは2着。さらに府中牝馬ステークスで重賞3勝目をあげました。エリザベス女王杯は2着でしたが阪神牝馬ステークスで重賞4勝目。この年のJRA賞の最優秀4歳以上牝馬に選出されました。
5歳も現役を続行。金鯱賞が8着,函館記念が11着,クイーンステークスが4着,オールカマーが6着,エリザベス女王杯がアドマイヤグルーヴ の6着と,勝利をあげることはできないまま引退となりました。
大レースを勝っているわけではありません。それでも代表馬に選出されたのは,同年に大レースを勝った古馬の牝馬がいなかったためで,幸運な面があったのは確かです。
活躍馬が続出している牝系ですが,ダイヤモンドビコーの子孫はそれほど走れていません。重賞の勝ち馬はいませんし,南関東重賞の勝ち馬もギガースが初めてでした。
6月28日,水曜日。前日にお寺の奥さん から電話で連絡があった御講 の概要は,この日に速達で届きました。御講を行うのに可能な日が何日か設定されていましたので,僕にとって最も都合のよい日をピックアップし,お寺の奥さんに電話をして伝えました。
7月6日,木曜日。2通の郵便物がありました。1通は保険証です。僕は国民健康保険ですが,この保険証が7月31日まででした。8月1日から適用が開始されるものが届いたということです。なお,届いたのは僕のものだけではなく,妹のものも同時に郵送されました。適用開始は8月1日ですが,国民健康保険証は届けば適用開始日以前から使用することができるようになっています。もう1通はマイナンバーカードの交付通知書というものです。6月22日に再申請していたわけですが,それは受理されたということです。ただしこれは交付の通知書であって,マイナンバーカードそのものではありません。マイナンバーカードを入手するには指定された場所に取りにいく必要があり,いつどこに取りにいくのかということを予約する必要がありました。この時点ではこの後の僕の都合に不明な点が残っていましたので,すぐに予約を入れることはできませんでした。
7月7日,金曜日。午後1時15分に地域担当支援主任 のSさんから電話がありました。これは妹が使用している薬剤の説明書を持参してほしいとの依頼でした。この電話の後,通所施設に妹を迎えに行きましたので,通所施設の妹の担当者にその説明書を手渡しました。О眼科に寄り,目薬の処方をしてもらってから家に戻りました。
7月9日,日曜日。グループホームに妹を送りました。
7月10日,月曜日。この後の予定の目途が立ちましたので,午前中にマイナンバーカードの受け取りの予約をしました。場所を選ぶことができたのですが,磯子区役所にしました。上大岡に専門の受取所があって,妹を通所施設なりグループホームなりに送迎する際には上大岡を経由しますから,そのついでに取りに行くこともできましたが,そうはしませんでした。その方が楽そうに思えるかもしれませんが,実際はそうともいえないからです。
ホープフルステークス を勝ったレガレイラ の父はスワーヴリチャード です。父はハーツクライ 。
2歳9月にデビューして2着。翌月に未勝利で初勝利。東京スポーツ杯2歳ステークスで2着に入って賞金を加算しました。
3歳初戦の共同通信杯で重賞初勝利。皐月賞 は6着に敗れましたがダービー は2着でした。
休養に入って復帰したのがアルゼンチン共和国杯。ここで重賞2勝目。有馬記念 はキタサンブラック の4着でした。
4歳春は金鯱賞で重賞3勝目をあげて大阪杯 へ。ここで大レースを初制覇しました。距離適性からすれば宝塚記念に進むのが普通ですが,コース適性の方を重視して安田記念 に出走。3着と健闘しました。
秋は天皇賞(秋) で復帰。このレースは10着。ジャパンカップ は3着でこの年のキャンペーンを終えました。
5歳初戦は中山記念。4着に入ってドバイシーマクラシック に遠征。3着でした。帰国してこの年は宝塚記念 に出走。これも3着。
この年も天皇賞(秋) が秋初戦となって7着。ジャパンカップ で巻き返して優勝。大レース2勝目を達成。この年は有馬記念 にも出走して12着。これで現役引退となりました。
ファーストクロップが現3歳なのですが,いきなり大レースの勝ち馬が出たように,かなり好調な滑り出しです。産駒が2歳のうちから走ることができるということは,種牡馬として重要な要素ですので,大成功まで期待できそうです。
帰宅しますと後期の三者面談の報告書が郵送されていました。これはグループホーム の分です。
4月1日,土曜日。前日に郵送されていた報告書は,僕のサインを入れて返送しなければならないものでした。なのでこの日のうちにサインを入れて送付しました。
4月3日,月曜日。妹を通所施設に送っていきました。4月からバスのダイヤの改正がありました。最寄りのバス停を出るのがこれまでよりも2分ほど早くなりました。
4月7日,金曜日。3月31日の帰りに妹の目薬 を処方してもらったときに予約を入れておいた歯科検診 でした。この日は午前10時からでした。
4月8日,土曜日。総講の日でしたのでお寺に行ったのですが,この日は総講がありませんでした。これは翌日に開山のお会式が予定されていて,その準備のためでした。
4月9日,日曜日。開山のお会式がありましたので,またお寺に行きました。この日は統一地方選挙の投票日でした。僕が住んでいるところであったのは,神奈川県知事選と神奈川県議会選,そして横浜市議会選です。これはお会式から帰った後で投票に行きました。妹は不在でしたので,棄権ということになりました。
4月10日,月曜日。3月の通院のときに指示をされていたMRIの検査がありました。
予約は午後2時半からだったのですが,病院に到着したのがその5分前くらいになってしまいました。ですからすぐに2階にある放射線科の受付に向かいました。受付で指定された場所で待機していると,検査の担当者が来て,まず事前にもらっていた問診票を渡しました。MRIの検査には金属を身につけていてはいけないのですが,僕は歯にブリッジを入れていて,これは取り外すことができません。その旨を伝えました。それから個室のロッカールームに案内されました。ここで検査着に着替えました。着替えたといっても,僕は着ていたものは下着以外のすべてを脱いで,水色の薄いガウンのようなものを上から羽織っただけです。まだ暖かいといえるような時期ではありませんでしたが,院内は一定の気温に保たれていますから,そのようないでたちでも寒いということはありませんでした。
浦和記念 ,名古屋グランプリ と連勝したディクテオン の母はメーデイア です。
父はキングヘイロー 。6つ上の半姉が2006年に福島牝馬ステークスを勝ったロフティーエイム 。Medeiaはギリシア神話に出てくる王女の名前。
デビューは遅く3歳の4月でこれは大敗。8月の未勝利を3着になった後,9月に初勝利。11月の500万を2着になって3歳戦を終えました。
4歳2月の500万を勝ち上がると3月の1000万は5着。5月に芝の1000万特別に出走して3着になり,当時の制度により降級しました。6月の降級初戦は芝で2着。ダートに戻ると8馬身差の圧勝で夏休みに入りました。
復帰したのは暮れの1000万でこれを勝利。年が明けて1月の1600万特別で2着になり,条件場の身でTCK女王盃 に挑戦すると重賞初制覇を達成しました。続くマリーンカップ も勝って重賞連勝。芝のヴィクトリアマイル に向かって17着と大敗しましたが,スパーキングレディーカップ で重賞3勝目をあげました。さらにレディスプレリュード も勝つとJBCレディスクラシック も勝って大レースを制覇。ジャパンカップダート に進みましたがここは10着でした。
年が明けてTCK女王盃 に出走し連覇を達成。これで現役を退きました。
デビューが遅くなったのは晩成型で,まだ体質がしっかりとしていなかったためでしょう。実際に本領を発揮したのは4歳の秋になってから。それ以降は牡馬には通用しませんでしたが,牝馬戦では無敵状態でしたから,牝馬としてはかなりの能力がある馬であったと思います。
妹が利用しているグループホーム が,経営難のゆえに閉鎖という事態にでも陥れば,僕と妹の日々の生活に支障を来すことになります。実際に経営が困難になりつつあるという前提での依頼でしたから,何らかの仕方で応じる必要がありました。僕がこのときに決定した対応は主に二点です。
ひとつは,妹に帰宅の必要がない場合は,グループホームに滞在させるということです。これまでは,金曜日に妹を通所施設に迎えに行き,何の用事もない週末を家で過ごして,月曜日に通所施設に送っていくということがありました。これは帰宅する必要がないのに帰宅していたという場合に該当します。今後はこのようなことはしないということです。逆にいえば,妹が帰宅を要する場合というのは,通院がある場合とピアノのレッスン がある場合のふたつですから,こういったことが週末に予定されていない場合,妹は原則的にグループホームで過ごすことになります。これで間違いなく妹のグループホームの滞在時間は長くなりますから,経営難を克服するためのいくらかの援助にはなるでしょう。
もうひとつは,これまでは週明けに妹を通所施設に送っていたのですが,家にいなければならない事情がない限り,前日の午後にグループホームに送っていくようにするということです。ピアノのレッスンは日曜に組まれますので,日曜に送っていくことはできませんが,通院だけの場合は日曜に送っていくことができます。そのような場合は日曜にグループホームに送ることにしました。これは滞在時間も長くなりますし,これまでは妹が摂取していなかった日曜の夕食と月曜の朝食もグループホームで摂取することになります。こちらはひとつめほどではありませんが,やはり経営難の克服にいくらか役立つでしょう。
ただし,この依頼があったのは3月31日のことです。当然ながらその時点では4月の予定というのはすでにグループホームに提出してありました。ですから実際にこのような対応をするようになったのは,5月に入ってからのことでした。
この日はこの後,眼科で目薬 を処方してもらってから帰りました。僕の4月の歯科検診の予約も同時に済ませました。
勝島王冠 を勝ったサヨノネイチヤ の父はダノンレジェンド です。
母はマイグッドネス 。6つ下の半弟に2019年に共同通信杯と毎日王冠,2020年に中山記念,2021年に安田記念 を勝ったダノンキングリー 。
2歳11月にデビュー戦を勝利。その後は5連敗して3歳の8月に2勝目。さらに3連敗して4歳の3月に3勝目をあげると次のレースも勝ってオープン馬に。オープンの2戦は連敗。降級して初戦が2着で2戦目に勝ち,オープンに戻りました。次のオープンも負けたのですが12月のカペラステークスで目が醒めるような追い込みを決めて重賞初制覇。ここから快進撃が始まります。
5歳初戦の黒船賞 で重賞2勝目。さらに東京スプリント も勝ちました。北海道スプリントカップ は3着だったのですがクラスターカップ で重賞4勝目。さらに東京盃 も勝ちました。JBCスプリント は1番人気に推されたものの2着。
6歳初戦の黒船賞 で連覇達成。東京スプリント は3着でしたが北海道スプリントカップ は勝って重賞7勝目。さらにクラスターカップ も連覇しました。東京盃 は5着に負けたもののJBCスプリント を勝って大レース制覇。これを手土産に引退しました。
徐々に力をつけてオープンに出世し,重賞制覇を達成すると快進撃を開始。大レース制覇を手土産に引退というのはサウスヴィグラスにそっくりです。ダノンレジェンドの産駒は勝ち上がり率が非常に高いのが特徴で,当初の期待よりは種牡馬としてすでに成功しているといっていいと思います。サウスヴィグラスほどの大種牡馬になれるのかは分かりませんが,その可能性はあるかもしれません。
『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』のスピノザの聖書解釈には,いくつかの核があります。そのうちのひとつに,奇蹟miraculumを認めないということがあります。これは,第一部公理三 と関連しているのであって,必然的にnecessarioそのような結果effectusとなる原因causaが与えられていないことは,自然Naturaのうちには生じないという意味をもちます。こうした現象を仮に自然現象といっておくとすれば,奇蹟とは自然現象を超越した現象という意味になるのであって,そういうことが現実的に存在する世界のうちに生じることはあり得ないとスピノザはいうのです。
だからスピノザはいわゆるイエスの復活,死んだイエスが生き返ったということは認めないのであって,書簡七十八 ではそれを比喩的に解するといっているのです。したがって,これはスピノザが直接的にいっているわけではありませんが,マリアが処女のまま懐妊してイエスを出産したということも,自然現象には反することになりますから,スピノザはそれを比喩的に解するというでしょう。
この考察とは関係ありませんが,このことは,新約聖書で奇蹟とされているすべてのことを比喩的に解さなければならないということを意味するわけではないということには注意してください。たとえば新約聖書の中でイエスは様ざまな病人を癒し,それは奇蹟と規定されていますが,その中には,ひどい精神的な抑圧によって身体的に不調を来していた病者に対して,イエスが精神分析のような仕方で抑圧を解放したために身体的な不調も癒されたと解釈することができるものがあるのであって,こうしたことは自然現象として現実的に生じ得ますから,奇蹟と規定されていても現実的に生じたことであると考えることができます。すなわち,スピノザがいっている奇蹟というのは,あくまでも第一部公理三に反するような現象のことをいうのであって,新約聖書の中で奇蹟といわれているすべての事柄を意味するわけではありません。したがって,聖書の中で奇蹟と記述されているすべてのことを比喩的に解さなければならないというわけではありません。自然現象として解せることはそう解せばよいのであって,比喩的に解さなければならないのはそれ以外のことです。
JBC2歳優駿 を勝ったフォーエバーヤング の父はリアルスティール です。父はディープインパクト 。母はラヴズオンリーミー 。4つ下の全妹に2021年のJRA賞 で最優秀4歳以上牝馬に選出されたラヴズオンリーユー 。
2歳の12月に新馬を勝つと2月にドゥラメンテ を2着に降して共同通信杯を勝って2戦目で重賞制覇。スプリングステークスはキタサンブラック の2着で皐月賞 はドゥラメンテの2着。ダービー はドゥラメンテの4着でした。
秋は神戸新聞杯で復帰して2着。菊花賞 はキタサンブラックの2着。3歳の秋シーズンはこれで終了。
4歳になって復帰した中山記念はドゥラメンテの3着。遠征したドバイターフ で大レース制覇を達成しました。帰国すると安田記念 に出走して11着と生涯初の大敗。
ぶっつけで天皇賞(秋) に出走してモーリス の2着。ジャパンカップ がキタサンブラックの5着で4歳の秋も2戦でシーズンを終えました。
5歳も初戦に中山記念を選びましたが8着。これで秋まで休養に入りました。
復帰戦となったのが毎日王冠で重賞3勝目。極悪馬場となった天皇賞(秋) はキタサンブラックの4着。この年も秋は2戦だけ。
6歳初戦となったのが2年前に勝ったドバイターフ 。この年は3着。帰国してまた安田記念 に出走したものの15着に大敗して現役を退きました。
戦った相手がドゥラメンテやキタサンブラック,モーリスといった超一流馬でしたから,国内では大レースは勝てなかったのですが,きわめて堅実に走り,超一流ではなくても一流の能力はもっていた馬です。血統背景はしっかりしたものがありますから,種牡馬としての成功は望めるのではないでしょうか。
このことは,ユダヤ人とは何かという壮大な問題に関連してきます。ユダヤ人がひとつの国家Imperiumで暮らしていたときは,その国家の住民がユダヤ人であったわけですが,その国家が滅ぼされた後は,ただユダヤ民族というだけでその人がユダヤ人であり続けることは簡単なことではなかったし,実際にそういえるわけでもありませんでした。自分たちの国家はないにしても,他国の領土で共同体を形成し,ラビが命じる戒律を遵守しながら生き続けることによって,ユダヤ人はユダヤ人であり続けることができたのです。そういう意味ではウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaというのは,ユダヤ民族が出自ではありましたが,ユダヤ人だったわけではないのであって,だからユダヤ人としてのアイデンティティというものは必要なく,ただモーセの律法が神Deusの法であるということを,自身の方法で信仰することができれば十分であったのです。
スピノザはアムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体の中で産まれそこで育ったわけですから,ダ・コスタとは違ってユダヤ人であったといえます。しかし,ユダヤ人としてのアイデンティティを必要とはしなかったという点では,スピノザはダ・コスタと同様であったのではないかと僕は推測します。
モーセの律法やラビの戒律を遵守することによって,ユダヤ人がユダヤ人であり続けることができたということについては,スピノザも認めていると理解して間違いないと思います。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus 』において,かつてユダヤ人あるいはヘブライ人の国家があった地域へのユダヤ人の帰還 がいずれはなされるであるという意味のことを書いて,後にシオニストたちがこの一文を喜んだというエピソードが残っているわけですが,スピノザがそのようにいったのは,国家を失った後もユダヤ人がユダヤ人としてのアイデンティティを失わずに生きているからであって,これからもそのように生き続けるであろうからということが根拠になっているといえます。つまりスピノザは,モーセの律法を人間の法ではなくて神の法であるとユダヤ人が解することによって,ユダヤ人がそのアイデンティティを保ち続けられたということについては,肯定しているのです。
ハイセイコー記念 を勝ったダテノショウグン の3代母はノースフライト です。
デビューは3歳の5月。当時は未出走馬だけが出走できる未出走戦というのがあり,これを勝ちました。続く特別戦も連勝。3戦目は負けたのですが2勝馬の身で挑んだ府中牝馬ステークスを勝って重賞初勝利。そのまま当時は3歳牝馬限定だったエリザベス女王杯に出走。これは2着でしたが暮れの阪神牝馬特別で重賞2勝目をあげました。
4歳の初戦は京都牝馬特別でこれは6馬身差の圧勝。さらにマイラーズカップもレコードタイムで制して重賞4勝目。そして安田記念も勝利。大レースを制覇しました。
秋はスワンステークスで復帰。ここはサクラバクシンオー のスピードに屈して2着でしたが,距離が延びたマイルチャンピオンシップはサクラバクシンオーを2着に降して優勝。大レース2勝目を達成して現役を引退。JRA賞のこの年の最優秀3歳以上牝馬に選出されました。
デビューは遅く引退は早かったのですが,競走成績はほぼ完璧。クラシックには出走できなかったのですが,同世代の牝馬の中でトップクラスの能力があったのは間違いありません。
子孫はオープンを勝った馬はいるのですが南関東重賞を勝ったのもダテノショウグンが初めて。重賞の勝ち馬はまだ出ていません。
極端ないい方をすれば,祖国を追われた後のユダヤ人たちが,他の民族と同化することなく現在までユダヤ民族として存続し続けているのは,ユダヤ人がユダヤ人としてのアイデンティティを失わなかったからであって,そのことにはモーセの律法や,ラビたちが定めた事細かな規定が大きく貢献したのだと僕は考えているのです。ただこれは事実としてそうであったといっているのであって,だから教会の権力は肯定されるものであるという意味ではありません。ラビたちはたぶんこのようなことを意識して細かい規定を命じたわけではないのでしょう。
ウリエル・ダ・コスタ Uriel Da Costaは,スピノザより少し前にユダヤ教会から破門の宣告を受け,悔悛の意を示したものの復帰するための儀式が屈辱的なものであったために,自殺してしまったのでした。このダ・コスタの破門の例は,ここで僕が示した事情といくらかの関係を有しているのではないかと思います。というのもダ・コスタはユダヤ人の子孫ではあったのですが,祖先の時代にカトリックに改宗していましたし,ポルトガルでカトリックの教育を受けています。つまりユダヤ人共同体でユダヤ教神学の教育を受けたスピノザとははっきりとした違いがありました。後にモーセ五書に触れることによってユダヤ教に憧憬の念を抱き,オランダに移ってユダヤ教に改宗したのです。だからダ・コスタにとって,モーセの律法は重要な教え,すなわち人間の法lexではなく神Deusの法であったのですが,ラビたちが細かく規定した教えは不要なものであって,むしろモーセの律法に反するものと感じられたのです。確かに民族でいえばダ・コスタはユダヤ人であって,改宗者とはいえユダヤ教徒ではあったのですが,だからといってユダヤ人としてのアイデンティティを必要としていたわけではないのです。こういう人物にとってはラビの細かな指導は,ユダヤ教を信仰するにあたっては邪魔なものでしかなかったでしょう。ダ・コスタがラビおよびラビたちの教えを批判するようになり,またその教えを遵守しなくなるのには必然性necessitasがあったのであって,それが破門の宣告から自殺へと至るダ・コスタの人生を決定したように僕には思えます。
ゴールドジュニア を勝ったクルマトラサン の父は,アメリカで産まれて競走馬として輸入されたベストウォーリア です。
2歳11月にデビューして新馬を勝利。500万の特別を2戦した後,3歳の2月に2勝目をあげました。兵庫チャンピオンシップ に出走して2着になった後,ユニコーンステークスで重賞を勝ちました。ジャパンダートダービー は5着。
古馬との初対戦となった武蔵野ステークスは3着。4歳になってオープンを勝ち,フェブラリーステークス に出走して13着。5月にまたオープンを勝ち,6月のオープンは2着でしたが7月にプロキオンステークスで重賞2勝目。そして南部杯 を制して大レースの勝ち馬となりました。JBCクラシック は5着でチャンピオンズカップ はホッコータルマエ の11着。
5歳初戦のフェブラリーステークス は3着。かしわ記念 は2着。プロキオンステークスを連覇して重賞4勝目。さらに南部杯 も連覇して大レース2勝目。この年はJBCスプリント の方に出走して3着でした。
6歳初戦のフェブラリーステークス は4着。かしわ記念 が3着でさきたま杯 が2着。三連覇を狙った南部杯 は2着でJBCスプリント は2着と,この年は大きく崩れることはなかったものの勝ち星は上げられませんでした。
7歳も現役を続行。根岸ステークスが2着でフェブラリーステークス も2着。かしわ記念 が4着でさきたま杯 が3着。秋は南部杯 が6着で武蔵野ステークスが7着と,この馬にしては崩れました。
8歳になって根岸ステークスを出走取消になった後,フェブラリーステークス が10着。かしわ記念 が5着でさきたま杯 が9着。南部杯 も6着と敗れて現役を引退しました。
7歳の秋以降は能力の衰退がありましたが,それまではきわめて堅実に走りました。1400mから1600mを得意とした馬で,コパノリッキーにはまったく勝てなかったように超一流というほどではないのですが,広くそう思われているよりは高い能力があった馬だったと思っています。
同一説を採用する場合の難点は,人間が認識するcognoscereことができるのが物体corpusとその観念ideaだけであるとしても,実際にはスピノザの哲学では,それらが実在的にrealiter区別されるということになっているので,このことを利用して証明されているすべての事柄について,それと同様の仕方で証明することが不可能になってしまうということです。この点については心配される方もいらっしゃるでしょうから前もっていっておきますが,これは単にその形而上学を援用して論証することができないというだけであって,別の方法で証明することができます。
こうしたことをすべての定理Propositioについて説明していくことはできませんから,ここではひとつだけ実例をあげて説明します。
僕は平行論を採用することの利点のひとつとして,第三部定理二 でいわれていること,すなわち人間の身体humanum corpusはその人間の精神mens humanaを思惟作用に決定するdeterminareことはできないし,逆に人間の精神がその人間の身体を運動motusなり静止quiesなりに決定することができないということを,直接的に帰結させることができるということをあげました。このことは,人間の身体と人間の精神が実在的に区別されるということ,つまり現実的に存在するある人間の身体とその人間の精神の間には因果関係が生じ得ないということから証明されるのです。しかし,同一説を採用すると,人間の身体とその人間の精神は同一物の別の側面ということになっていますから,それらが実在的に区別されるということをいうことはできません。なので同一説を採用して第三部定理二を証明しようとするなら,これとは別の方法が必要になります。そしてそういう方法があるのです。
現実的に存在するある人間の身体とその人間の精神は,同一物のふたつの側面です。したがって,もしもその人間の身体が働いているのであれば精神も働いているということになりますし,逆にその人間の身体が働きを受けているのであれば,精神も働きを受けていることになります。もちろんこれは逆からもいえます。つまり,現実的に存在する人間の精神が働いているのなら身体も働いていますし,精神が働きを受けているのなら身体も働きを受けているということになります。
日本ダービー を勝ったタスティエーラ の父はサトノクラウン です。
2歳の10月にデビューして新馬を勝つと続く東京スポーツ杯2歳ステークスで重賞を制覇。十分に賞金を稼いだので休養に入りました。
3歳初戦の弥生賞も制して重賞2勝目。皐月賞 は1番人気に推されましたが,同じ厩舎のドゥラメンテ の6着。ダービー もドゥラメンテの3着でした。
秋は天皇賞(秋) にぶっつけで出走。これはラブリーデイ の17着に大敗。
4歳初戦の京都記念を制して重賞3勝目。遠征したクイーンエリザベスⅡ世カップ は12着と大敗。帰国して出走した宝塚記念 は6着でした。
この年も天皇賞(秋) で復帰。これは同じ厩舎のモーリス の14着。しかし再び遠征した香港ヴァーズ を勝って大レース初制覇を海外で達成しました。
5歳初戦の京都記念で連覇を達成して重賞5勝目。大阪杯 はキタサンブラック の6着でしたが宝塚記念 を勝って大レース2勝目。
また天皇賞(秋) で復帰してキタサンブラックの2着。ジャパンカップ は10着,有馬記念 がキタサンブラックの13着でした。
6歳初戦は遠征したドバイシーマクラシック で7着。帰国して出走した宝塚記念 は12着でした。
秋はジャパンカップ で復帰。9着に敗れて現役を引退しました。
大レースは2勝していますが,大敗も多く,超一流の成績を残した競走馬ではありません。ダービー馬が輩出したように,基本的に中距離から長距離向きの産駒が多くなると思われます。
理性 ratioによって害悪を与えたり親切にすることを断念するとすれば,受動感情によってそうする場合と異なっていると考える必要があります。なぜなら,第四部定理三五 にあるように,理性に従う限りでは人間の現実的本性 actualis essentiaは一致するからです。だからたとえばAという人間が現実的に存在していたとして,AはBを憎んでいるけれど,理性に従うことによってBに害悪を与えることを断念したということが生じたとしても,それがAであることに何らかの意味があるとすれば,そのときにAは理性の指示に従ったということ,いい換えればその限りにおいてAは自由の人 homo liberであったということであって,Bに害悪を与えることを断念したことではありません。理性の指示に従うとすれば,すなわち自由の人でありさえすれば,だれであろうと憎しみのゆえに害悪を与えるということについては断念することになるからです。
ここから理解できるように,もし理性が何らかの意味で悪malumを認識するcognoscereのだとすれば,それは認識したその人間にとって悪であるということを意味するのではありません。それは現実的に存在するすべての人間にとっての悪であって,とくに現実的に存在する人間が理性に従っている限りにおいての悪なのです。よって,理性が何らかの意味で悪を認識するという場合は,だれがそれを認識するのかということは問う必要がありません。このことは主体subjectumの排除と関係していることはいうまでもありません。いい換えれば,理性が何らかの意味で悪を認識するといわれるときの悪は,ある特定の主体にとっての悪というわけではないので,主体が排除されたような意味での悪です。第四部定義二 は,悪とは現実的に存在する人間が確知する certo scimusものであるといっていますが,だれが確知するのかということをこの場合は気に掛ける必要はありません。また,第四部定理八 は,意識された限りにおいての悲しみ tristitiaを悪といっていますが,理性が何らかの意味で認識するような悪は,現実的に存在するすべての人間が同じように感じる悲しみであることになります。いい換えれば第三部諸感情の定義三 により,すべての人間が大なる完全性 perfectioから小なる完全性に移行することになります。
兵庫チャンピオンシップ を逃げて圧勝したミトノオー の父はロゴタイプ です。父は2003年に中山記念とマイラーズカップ,2005年にマイラーズカップ,2007年に中山記念を勝ったローエングリン 。祖母が1993年にローズステークスを勝ったスターバレリーナ 。Logotypeは組み合わせた文字を図案化したような書体。
2歳の6月にデビューして勝利。函館2歳ステークス4着,オープン3着,札幌2歳ステークス4着を挟んで11月に東京の特別戦をレコードタイムで勝って2勝目。そのまま朝日杯フューチュリティステークス も勝って大レースを制覇。この年のJRA賞 で最優秀2歳牡馬に選出されました。
3歳初戦のスプリングステークスで重賞2勝目。さらに皐月賞ではエピファネイア を差し切って大レース2勝目。ダービー はキズナ の5着でした。夏の札幌記念に出走して5着。3歳の秋は出走がかないませんでした。
復帰戦となった4歳春の中山記念はジャスタウェイ の3着。遠征したドバイデューティフリー もジャスタウェイの6着。帰国初戦は札幌記念で8着。毎日王冠が6着,マイルチャンピオンシップ が7着で,4歳時は未勝利。
中山金杯でラブリーデイ の2着になった後,ダートの根岸ステークスに参戦して8着。中山記念が2着,大阪杯が5着でこの春のキャンペーンは終了。秋はオールカマーで復帰して4着。富士ステークスが3着でマイルチャンピオンシップ はモーリス の9着。この年も勝利を飾ることができませんでした。
6歳初戦の中山記念はドゥラメンテ の7着。ダービー卿チャレンジトロフィーで2着になると安田記念 ではモーリスの追撃を封じて逃げ切り,大レース3勝目。毎日王冠が8着,マイルチャンピオンシップ はミッキーアイル の5着。2度目の海外遠征となった香港マイル は5着でした。
7歳も現役を続行。中山記念が3着,安田記念 が2着と,春の2戦を終えて現役を退きました。
大レースこそ3勝していますが,戦績からも分かるように,その時代のトップクラスの実力馬だったわけではありません。ただ2歳のデビューから7歳の春まで,大きく負けるということはほとんどないまま現役を終えました。長期にわたって一定の実力を維持し続けたという点が,この馬の最大のセールスポイントではないかと思います。
AがBを自身の悲しみ tristitiaの原因 causaとして意識しているとき,大きな力 potentiaを表現しているのはBであるというより,Aの精神mensのうちにあるBの表象像imagoであると僕は考えます。つまりAの知性intellectusの外に現実的に存在しているBという人間の力が表現されているというより,Aの精神のうちにあるBの表象像の力が表現されていると僕は考えるのです。
スピノザの哲学でいう表象像は,あるものが現実的に存在していると知覚するpercipere混乱した観念idea inadaequataのことです。したがってこの例でいえば,Aの精神のうちに,Bが現実的に存在するという観念があって,この観念がA自身の悲しみの原因となっているとAは認識しています。この認識cognitio,これはBに対するAの憎しみodiumそのものですが,この認識のゆえにAはBを殴打することになります。したがって単純にAからみれば,Aの精神のうちにあるBの表象像の力と,Bの力を分けることができるわけではないかもしれません。あるいはそれは同じことであるという見解opinioを僕は否定しません。ただそれはあくまでもAからみた場合に限られるのであって,たとえばAとBと別の人間,これはたとえば現にこのことを検討している僕たちという意味ですが,その立場からみれば,Aの精神のうちにあるBの表象像と,Aという人間とは別の人間として存在しているBという人間は,別のものとして解するのが適切であると僕は考えます。よって,AがBに対する憎しみのゆえにBを殴打するというとき,その力がより多く表現されているのは,BではないしAでもなく,Aの精神のうちにあるBの表象像であると僕は解するのです。
このことから理解できるように,第三部定理三九 で言及されていることのうち,ある人を憎んでいるためにその人に害悪を与えるということが現実に生じるという場合には,憎しみのゆえに害悪を与える人間の,憎んでいる相手に対する表象像の力が最も多く表現されることになると僕は解します。したがって一般に憎んでいる相手に対して害悪を与えるような行為は,害悪を与える人間の力であるとは僕は考えません。正確にいえば,それは力であってもそれよりも大きな力が働いているのであって,この限りでは無力impotentiaだと考えます。
15日の中山グランドジャンプ を勝ったイロゴトシ の父は2015年に東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌ でその母はフラワーパーク です。母の7つ下の半弟に1988年の阪神大賞典と1989年の京都記念を勝ったダイナカーペンター 。
デビューは3歳の10月とかなり遅くなりました。このレースは10着でしたが2戦目で初勝利。すると3戦目と4戦目も勝ち,準オープンの初戦は3着。2戦目で準オープンを突破するとオープンで2着。そしてシルクロードステークスに出走するとデビューからわずか半年で重賞を制覇。さらに高松宮記念をレコードタイムで制し,一気に大レース制覇も達成しました。このレースはナリタブライアンの出走で話題を集めたレースです。この後,安田記念に出走しましたがこれは距離が長く9着。
11月にCBC賞で復帰して2着。当時は暮れに行われていたスプリンターズステークスを勝って大レース2勝目。この年のJRA賞で最優秀短距離馬と最優秀父内国遺産馬に選出されました。
翌年はマイラーズカップで復帰して4着。距離を戻したシルクロードステークスも4着に敗れると高松宮杯も8着。秋はスワンステークスで復帰してタイキシャトル の6着。CBC賞が4着,スプリンターズステークスもタイキシャトルの4着で現役を退きました。
デビューした1995年と翌1996年は素晴らしい成績でしたが,1997年はその輝きを失ってしまいました。デビューが遅かったのでやや間隔を詰めて多くのレースを使ったのですが,そのダメージが後に出てきてしまったのではないかと思います。
本性essentiaに関連する考察はここまでとして,次の考察に移ります。
『はじめてのスピノザ 』の第三章は自由へのエチカというタイトルになっています。この冒頭部分でスピノザの哲学における自由libertasの概念notioが説明されています。ただしこれは,神的自由 についての説明というより人間的自由 についての説明であって,かつ人間的自由の中でも僕が能動的自由 といっている自由についての説明になっています。僕たちが現実的に存在しているとき,自由という概念が最も意味を成すのはこの意味での自由ですから,國分がこのことについて念入りに説明しているのは当然だと僕は思います。このとき國分の説明が,僕の説明の仕方とは異なった観点からの説明になっていて,それが,國分が意図しているのかどうかということとは別に,スピノザの哲学のほかの部分の原理と関係させることができるようなものになっています。このような方法で能動的自由を説明することは,きわめて意義深いと思いますので,國分の説明というのをさらに深く掘り下げていくことにします。
僕たちは自由ということを,束縛がないという意味で用います。しかしスピノザは自由というのをそのようには考えません。正確にいうと,第一部定義七 でいわれている自由は一切の束縛や制約がない自由といえますが,これは神的自由なのであって,人間についてこれを適用することはできません。むしろ人間が現実的に存在するときには,何の束縛も受けないとか何の制約も受けないということは不可能です。これは第四部定理四 から明白だといえるでしょう。ですから人間は何らかの束縛なり制約なりを常に受けつつ現実的に存在していることになります。ですから,束縛がないとか制約がないという状態のことを人間にとっての自由というのであれば,人間には自由はないという結論しか出ないのです。スピノザはこのことを前提として,では人間にとっての自由とは何かということを考えていくことになります。つまりこのことがスピノザの哲学における自由論の起点であるといわなければなりません。
そしてもうひとつ,起点となることがあります。それは個物 res singularisの現実的本性actualis essentiaを示した第三部定理七 です。
東京2歳優駿牝馬 を勝ったメイドイットマム の4代母はリンデンリリー です。5代母がシュリリー 。
デビューは2歳の12月。ダート1400mの新馬を勝ちました。年明けに芝1200mのオープンに出走するも大敗。ここから休養に入ります。
復帰したのは7月。ダート1700mの特別競走で4着。同じ条件の一般競争を2着になった後,芝2000mの特別戦で2勝目をあげました。そのまま当時は10月に行われていたローズステークスに出走するとこれを優勝して重賞の勝ち馬に。このレースは当時は3歳の限定戦だったエリザベス女王杯のトライアルだったのでそのまま出走。するとこのレースも勝って大レースの勝ち馬となりました。
この後,重度の故障を発症してしまったためこのまま現役を引退。実質的には最後の3連勝のレースしか適した条件に出走しなかったという馬で,その中で大レースまで制したのですから,かなり素質が高かったのだろうと思います。
競走馬としては致命的な重傷を負ってしまいましたが,幸いなことに繁殖牝馬になることはできました。産駒の1頭であるヤマカツリリー は2003年にフィリーズレビューを勝ちました。牝系は広がっていますので,またどこかで活躍馬が出るということがあるかもしれません。
十全な観念 idea adaequataであれ混乱した観念idea inadaequataであれ,人間の精神mens humanaがある特定の単一の観念にとどまるということは現実的に生じません。したがって,第五部定理四二備考 で賢者が存在することをやめないといわれるとき,その賢者がある特定の十全な観念にとどまり,その他の観念に移行することはないといわれていると解することはできません。
では十全な観念から十全な観念へ移行するという意味でそのようにいわれているのかといえば,その解釈にも無理があるように僕には思えます。これもすでに説明しましたが,人間は精神の能動 actio Mentisにあるとみられる状況のときにも,第四部定理四系 は適用されるのであり,いくらかの受動 passioに隷属しているからです。したがって,確かに第二部定理四〇 にあるように,人間の精神のうちにある十全な観念があるとき,その観念を原因 causaとして何らかの観念が生じるなら,その生じた観念もまた十全な観念です。しかしこのことは,だから人間の精神は十全な観念からは十全な観念へのみ移行するということを意味しているわけではありません。集中力の何たるかを説明したときにもいったように,人間の精神のうちに十全な観念があるのだとしても,その人間はその十全な観念を原因とはしないような表象像imagoに移行するということがあるのであって,それは第三部定理七 にいわれている人間の現実的本性actualem essentiamにほかならないからです。いい換えれば人間の現実的本性は,十全な観念から別の原因によって混乱した観念へ移行するようになっているのです。第四部定理一 は,混乱した観念の積極性は十全な観念によって排除されないという意味のことをいっていますが,これは人間の精神のうちに混乱した観念が発生するということは,人間の精神のうちに十全な観念があるというだけでは妨げられないといっているのと同じです。虚偽の積極性 というのはあらゆる混乱した観念に含まれている要素なのであり,混乱した観念に含まれている積極的なものが除去されないというのは,混乱した観念が排除されないといっているのと同じだからです。もしもそれが同じではないとしたら,混乱した観念がなくてもその積極性はあるといわなければならず,不条理だからです。
中山大障害 を勝ったニシノデイジー の3代母はニシノフラワー です。母はデュプリシト 。
2歳の7月に札幌でデビュー。ダート1000mの新馬を4馬身差で勝つと当時は芝の1200mだった札幌2歳ステークスに出走。3馬身半差のレコードタイムで優勝。早々に重賞制覇を達成。さらに11月に行われていた芝1400mのデイリー杯3歳ステークスも勝つとシンコウラブリイ らを相手に阪神3歳牝馬ステークスも勝って大レースを制覇。4戦4勝の成績でこの年のJRA賞の最優秀2歳牝馬に選出されました。
3歳の初戦となったオープンだったチューリップ賞は2着。これにより主戦騎手が変わった桜花賞は3馬身半差の快勝で大レース2勝目。オークスは7着に敗れました。
秋の初戦のローズステークスは4着。当時は3歳牝馬限定であったエリザベス女王杯は3着。この一連の成績を考慮して当時は暮れに行われていたスプリンターズステークスに出走すると中団から差し切って優勝。大レース3勝目をあげました。この年のJRA賞では最優秀3歳牝馬と最優秀スプリンターをダブル受賞。
4歳初戦のマイラーズカップは3馬身半差で快勝。安田記念は着差は大きくはないものの10着に敗れました。なぜか宝塚記念に出走してメジロマックイーン の8着。
秋初戦のスワンステークスと続くマイルチャンピオンシップはいずれもシンコウラブリイの3着と13着。連覇を狙ったスプリンターズステークスは前年は6着に降していたサクラバクシンオー に逆転されての3着。これで競走生活から退きました。
繁殖牝馬としてはオープンの勝ち馬や重賞の2着馬は産んだのですが,重賞勝ちには手が届きませんでした。ニシノデイジーの札幌2歳ステークスが,子孫の初めての重賞制覇でした。
第五部定理四二備考 の無知者について語られている場面で,無知者が存在することをやめるといわれているのがどのような意味を有しているかは,概ね理解することができました。前もっていっておいたように,『はじめてのスピノザ 』の中では,その具体的な事例が著者である國分によって説明されています。ただしここではそのことの前に,國分がそこで語っていない事柄の考察を先に済ませておくことにします。
同じ備考 Scholiumの中で賢者について語られている部分では,賢者は賢者としてみられる限りでは存在することをやめることはないという主旨のことがいわれています。なぜ賢者は存在することをやめないとはいわれずに,賢者としてみられる限りでは存在することをやめないといわれているのかという点についてはすでに考察してありますから,今はそのことは繰り返しません。ただ,ここで存在することをやめないといわれているのは,明らかに無知者が存在することをやめるといわれていることの対比です。この対比をどのように理解すればよいかということが,ここからの考察の中心的課題となります。
まず,受動感情に刺激されているとき,無知者が存在することをやめるといわれるのは,第四部定理七 の様式である受動感情から別の受動感情へ移行するとき,移行する前の感情 affectusについてそれにとらわれるつまり刺激を受けるaffici存在であることをやめるという意味でした。これとの対比で考えると,賢者は,能動的感情から別の能動的感情へは移行することがないので,存在することをやめないという意味になるでしょう。僕はこのように解釈しても間違いではないと思いますが,第四部定理七というのは,受動感情だけに適用される定理Propositioであるというわけではなく,能動的感情にも適用されるのですから,あまり好ましくない解釈であるとも思います。能動的感情が受動的感情を抑制したり排除したりするのは,その能動的感情が受動的感情よりも強力である限りにおいてです。ということは,現実的に存在するある人間が何らかの能動的感情を抱いているときに,それよりも強力な受動感情に刺激されれば,その能動的感情もまた抑制されまた排除されるからです。
中山大障害 を勝ったニシノデイジー の祖母の父はセイウンスカイ という馬です。
3歳1月にデビュー。このレースを勝つとオープンも勝ちました。弥生賞はスペシャルウィーク の2着でしたが皐月賞を4コーナー先頭の競馬で勝って重賞初勝利を達成するとともに大レースを制覇。このレースは半馬身差の2着がキングヘイロー でさらに1馬身差の3着がスペシャルウィーク。ダービーはスペシャルウィークの4着でした。
秋は古馬相手の京都大賞典で復帰。逃げ切って重賞2勝目。このレースは3着がシルクジャスティス で4着がステイゴールド というメンバー構成で,少頭数でしたが精鋭揃いでした。さらに菊花賞も絶妙のペース配分でスペシャルウィークに3馬身半差をつけて逃げ切り勝ち。大レース2勝目となりました。有馬記念は1番人気に推されたもののグラスワンダー の4着。
4歳春は日経賞で復帰。重賞4勝目をあげて天皇賞(春)へ。ここはスペシャルウィークの3着。
札幌記念に出走するとそれまでとは違う,中団に控える競馬をして重賞5勝目。天皇賞(秋)は1番人気でしたがスペシャルウィークの5着でした。
このレースの後に故障を発生。そこで引退でよかったと思うのですが,復帰を目指し,6歳のときに天皇賞(春)に出走しました。テイエムオペラオー が勝ったこのレースは大差のしんがり負け。そのまま引退となりました。
種牡馬としては大した実績を残すことはできませんでした。父が安定した成績を残すタイプの馬ではなく,この馬は特異に走ったという一発屋タイプ。この馬もおそらくそういうタイプだったのですが,繁殖牝馬と相性で,そういう馬が輩出できなかったということだと思います。
第四部定理四二備考 でスピノザが無知者について,存在することをやめるといっていることを,人間の精神 mens humanaが事物を表象するimaginariということと関係させて正しく理解するためには,人間の精神が事物を表象するということ,とくに第二部定理一七 の様式で,ある表象像imagoから別の表象像へと移行するということと関連付けて正しく理解するためには,この表象像の移行に際して,どのような場合が自由の人homo liberまた賢者といわれ,どのような人が奴隷または無知者といわれるのかということの規準に適合させなければなりません。
この定理Propositioによる表象像の移行は,現実的に存在する人間の精神のうちに必然的にnecessario生じる移行です。したがってその人間が賢者であろうと無知者であろうと関係ありません。いい換えれば,自由の人も事物を表象しかつその表象像から別の表象像へ移行するのですし,奴隷もまた事物を表象し,その表象像からほかの表象像へと移行するのです。ただ自由の人あるいは賢者は,その表象像が表象像であるということつまり混乱した観念idea inadaequataであるということを知っているのに対し,奴隷あるいは無知者はその表象像が表象像であることいい換えれば混乱した観念であるということを知らないのであり,単に知らないというだけでなく,それを真理veritasであると思い込んでいるのです。
よってこの場合も,無知者は無知者としての存在existentiaをやめているわけではありません。ただ,Aの表象像からBの表象像へ移行するときには,その無知者はAに関して無知者であるということはやめるのであって,それをやめたかわりにBに関する無知者に移行するのです。なのでAに関する無知者であることに限定すれば,その無知者は無知者としての存在をやめることになるでしょう。受動感情の場合は,ある感情affectusから別の感情に移行するときは,単にある感情に刺激されているということだけで理解すればよいのですが,表象像から別の表象像へと移行するときには,単に事物を表象しているという点だけで理解すればよいというものではなく,それと同時にその表象像が混乱した観念であることを知らず,十全な観念idea adaequataであると思い込んでいるということも加えて理解する必要があるのです。
朝日杯フューチュリティステークス を勝ったドルチェモア の母はアユサン です。父はディープインパクト 。
2歳10月にデビューして新馬戦を勝利。すぐにアルテミスステークスに出走して2着になりました。賞金を加算できたので阪神ジュベナイルフィリーズ へ。ここは7着でした。
3歳春のチューリップ賞で復帰。このレースは3着でしたが,出走権利を得た桜花賞 で優勝。重賞初制覇を達成するとともに,大レースの勝ち馬にもなりました。オークス は4着。
この後で故障してしまい,復帰したのは4歳3月の中山記念。ジャスタウェイ の勝ったこのレースは最下位。さらにダービー卿チャレンジトロフィーも11着と大敗を喫したため,競走生活には見切りをつけて繁殖牝馬となりました。
繁殖入りして最初の産駒は競走馬としてデビューできませんでした。2頭目は4戦して未勝利。3頭目が2勝あげて,産駒として初の勝ち馬に。この馬はまだ現役です。4頭目は6戦して1勝でこちらも現役。そして5頭目がドルチェモアです。競走馬として超一流であったかといえばそういうわけではありませんが,大レースは勝ちました。そして産駒の1頭がやはり大レースを勝ったのですから,名牝の1頭といってもいいでしょう。
第四部定理四系 は,現実的に存在する人間は常に受動 passioに隷属するといっています。これでみれば,現実的に存在する人間は,常に奴隷であるあるいは同じことですが,常に無知者であることになります。これはこれで重要です。人間が完全な意味で自由の人homo liberであるとか賢者であるとかいうことはないのです。もしある人が『エチカ』を読んで,自分は賢者であると思ったり,自由の人であるといったりするとすれば,それはその人が誤っているということを示します。むしろそのような人は奴隷であり無知者であるというべきでしょう。
しかし,自由の人とか賢者というのが何の意味も持たないというわけではありません。確かに人間は常に受動に隷属しているのですが,その隷属には程度の差があるからです。現実的に存在している人間は,受動に隷属していないのなら能動的であることになります。もっとも,常に受動に隷属しているのですから,現実的に存在している人間は,完全な意味で能動的であるということはできません。これは最も単純にいえば,人間は空気がなければ生きていくことができないというような意味です。現実的に存在している人間は理性ratioに従っている限りでは能動的ではありますが,そのときにも呼吸はしているのであり,その限りでは受動的です。人間が常に受動に隷属しているとは,単純にはこのような意味であって,人間が常に受動感情に隷属しているというようなことを意味しているわけではありません。したがって,受動感情に隷属してばかりいる人間と,理性に従っている人間とを比較すれば,後者は前者よりも賢者ですし,同様に自由の人であることになります。この点で,ある人間が自由の人であるといったり賢者であるといったりすることには意味があるのです。つまり,賢者が存在するとか自由の人が存在するということは,第四部定理四 や第四部定理四系と齟齬を来すことはありません。
なお,受動感情についても,一切の受動感情に隷属しない人間が現実的に存在するということはありません。どんな人間にも受動感情に隷属することはあるのであって,その限りでは現実的に存在するすべての人間は,無知者であり奴隷です。