スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

藤井聡太論 将棋の未来&理性の地位

2024-03-15 19:04:33 | 将棋トピック
 十七世名人の谷川浩司は藤井聡太について多くを語っています。その1冊が『藤井聡太論 将棋の未来』です。これは2021年5月19日に講談社@新書から発売になったもの。「おわりに」のところで二〇二一年四月と谷川は書いていますので,原稿はそのときまでにできていました。説明するまでもないでしょうが藤井は現在はすべてのタイトルを保持していますが,谷川がこれを書いた時点では棋聖と王位の二冠でした。つまりそのときまでに書かれた藤井聡太論であって,現時点ではまた谷川は藤井に対して別の見方をしている部分もあると踏まえる必要はあるでしょう。このことは谷川自身がいっていることでもあり,「はじめに」の中で谷川は,現時点での私なりの藤井聡太論を展開していくといっています。それは同時に,藤井の将棋が進化していくのと並行して,谷川自身の藤井聡太論も進化していくであろうということを,その時点で谷川が意識していたということでもあるでしょう。たぶん谷川は藤井の将棋がさらに進化していくであろうということについては,ある程度の確信をこの時点で有していたのだろうと僕は思います。
                                        
 谷川は本書の目的として,藤井聡太という巨大な才能の謎に迫ることを通して,トップ棋士がもつ能力を明らかにしつつ,将棋の現在と未来を展望することをあげています。ですから,藤井聡太論と銘打たれていますが,藤井のことだけが集中的に語られているわけではありません。谷川は自身と藤井の共通点として,中学生のうちに棋士になり,詰将棋を愛好して創作もするという点をあげていますが,そうした観点から谷川自身のことも語られますし,羽生善治をはじめほかの棋士について語られる場面もあります。将棋の現在と未来の展望が目的ですからそれは当然のことであって,藤井聡太論を含む将棋論であるとみた方がよいかもしれません。他面からいえば,藤井聡太があまりにも巨大な才能であるがゆえに,藤井聡太について論じていくことが,将棋そのものについて論じることと相通ずる部分があるということです。
 谷川のように大きな実績を残した棋士が,藤井について考察し,その見解を表明するということは,それだけで大きな意義があることだと僕は思います。学術の世界では先輩が後輩の偉大さについて語るということはきわめて稀といっていいのですが,将棋界にそういう風土があることは,僕たちにとって幸いなことだと思います。

 繰り返しになりますが,フーコーMichel Foucaultは,デカルトRené Descartesやスピノザが真理veritasの探究を始めるときに,それを強い決意decretumと共に開始したのは,そうした強い決意が,狂気を自身から引き剥がすために必要だったからだと指摘しています。他面からいえば,狂気から身を引き剥がすことが,デカルトやスピノザの時代においては重要なことであったとフーコーは指摘しているわけです。
 ここでフーコーがいっている狂気を,どのようなものと解するべきであるのかということははっきりとは分かりません。國分はこれを,理性ratioに対立する状態と解しています。僕は『狂気の歴史Histoire de la folie à l'âge classique』は読んでいませんが,フーコーの全体的な主張からすると,このような解釈は恣意的なものではなく,それが指摘されている文脈において正しいか正しくないかは分かりませんが,少なくともフーコーの全体的な思想から俯瞰してみれば,ひどく誤った解釈を國分がしているということはあり得ないのであって,むしろフーコーの主張に沿ったものであるといえると思います。
 狂気が理性に対立するものであるとすれば,狂気から身を引き離すために強い決意が必要であったということは,理性がもっている地位は,狂気が有していた地位と比較したときに弱小であったということになります。つまりフーコーがここでいいたいのは,デカルトやスピノザの時代は,理性というのが確たる地位を獲得していたわけではないのであって,このような強い決意と共にあるのでなければ,簡単に崩れ去ってしまうようなものであったということであり,デカルトは『方法序説Discours de la méthode』で,スピノザは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で,揃って強い決意を述べているということが,この時代の理性の地位が弱小なものであったということを示しているということなのです。
 理性の地位は,この時代に比べれば現代では確実に強力になっているといえます。そしてそれに比較すれば,狂気の地位はきわめて弱小化しているのであって,排除されるべきものとすらみられているといえるでしょう。デカルトやスピノザは人びとの理性観あるいは狂気観の変貌に大きな影響を与えているといえるかもしれません。とくにデカルトの場合にそれは妥当しそうです。
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