スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天皇賞(春)&殴打の原因

2023-04-30 20:03:08 | 中央競馬
 第167回天皇賞(春)
 やや押したタイトルホルダーが先頭に立ちましたが,外からさらに押したアフリカンゴールドが前に出ての逃げ。発馬後の3コーナーでリードは3馬身くらい。それが直線の入口では1馬身くらいになったのですが,アフリカンゴールドが心房細動を起こしてしまったために1コーナーを前にずるずると後退。ここからはまたタイトルホルダーが逃げる形になりました。2番手以下はアイアンバローズ,アスクビクターモア,ディープモンスター,ディープボンドの順でその後ろにディアスティマとジャスティンパレスが併走。2馬身差でマテンロウレオ。ブレークアップ,ヒュミドール,ボルドグフーシュの順で続き,4馬身差でシルヴァーソニック。メロディーレーン,トーセンカンビーナと続いて2馬身差でエンドロールとサンレイポケットという隊列。アフリカンゴールドはアクシデントがあってからはレースに参加することができず競走中止。最初の1000mは59秒7のハイペース。
 3コーナーでタイトルホルダーの外からアイアンバローズが前に出ました。タイトルホルダーは跛行したために無抵抗に後退して競走中止。アイアンバローズをマークするようにその外から追い上げてきたディープボンドが4コーナーでは前に出て直線の入口では先頭。ここから抜け出しにかかりましたが,やや外目から楽に追っていたジャスティンパレスが追われて反応。あっさりとディープボンドを差すと抜け出して快勝。ディープボンドが2馬身半差で2着。後方から大外を追い込んだシルヴァーソニックが1馬身差で3着。
 優勝したジャスティンパレスは阪神大賞典からの連勝。重賞3勝目で大レース初制覇。このレースはタイトルホルダーが最有力でしたが,レース中にアクシデントが発生して競走中止。タイトルホルダーが日経賞を勝っていたのに対し,ジャスティンパレスは阪神大賞典の勝ち馬。それらが最大の前哨戦なので,タイトルホルダーにアクシデントがあったのなら,この馬が勝つのも自然といえます。長距離の重賞を連勝ということになりましたが,昨秋の神戸新聞杯もなかなか強い勝ち方でしたから,もう少し短い距離でも戦えるものと思います。父は第133回を勝ったディープインパクトで父仔制覇。9代母がドバイマジェスティの5代母に当たる同一牝系。このレースを走っていたアイアンバローズは2つ上の半兄です。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はドバイシーマクラシック以来の大レース制覇。国内では有馬記念以来。第159回,161回と連覇していて3年ぶりの天皇賞(春)3勝目。第158回,160回,162回,166回も勝っていて天皇賞は連覇となる7勝目。管理している杉山晴紀調教師は2020年の秋華賞以来となる大レース5勝目。天皇賞は初勝利。

 条件と制約が課せられているとはいえ,現実的に存在する人間が何かを殴打する行動は,その人間の身体humanum corpusの現実的本性actualis essentiaのみによって説明することができ,またそう理解することもできる行動です。ではこの行動は殴打をするその人間の能動actioであると解してよいのかといえば,必ずしもそうではありません。なぜなら,第一部公理三から分かるように,現実的に存在する人間が何かを殴打するとすれば,殴打する原因causaがあってその原因から必然的にnecessarioそのものを殴打するのであり,その原因が何であるかということまで合わせて考えなければならないからです。いい換えれば,人間の身体が何かを殴打するということを,その原因を排除してその行動だけを抽出して理解してはいけないのです。よってこの行動を,それ単独で説明するということは,実はできないのです。
 第四部定理五九備考で,人間の身体が何らかのものを殴打することは,人間の身体の機構からみれば人間の身体のvirtusであるという主旨のことをいった後で,スピノザは次のような意味のことをつけ加えています。もしも現実的に存在するある人間が怒りira,この怒りというのは第三部諸感情の定義三六にあるように,憎しみodiumを原因とした欲望cupiditasすなわち第三部諸感情の定義一により,憎しみを感じた当人の現実的本性actualis essentiaそのものですが,こうした現実的本性に駆られて拳を固めて腕を振り下ろすように決定されているならば,そうしたものが外部の物体corpusの表象像imago,この場合はとくに憎しみを抱いている外部の物体の表象像と結合しているがゆえに生じるのです。したがって,外部の物体の表象像という混乱した観念idea inadaequataおよび憎しみという,第三部定理五九によって,能動であることはできない感情affectusと組み合わさったこの行動は,その人間の能動ではなくて受動passioと解されなければなりません。
 現実的に存在する人間の身体が何かを殴打するという行動は,確かにその人間の身体の現実的本性のみによって,いい換えればその人間の身体の現実的本性を十全な原因causa adaequataとして説明することができる場合もあるのであり,その場合にはその人間の身体の能動です。ですが上述の例のように,人間の身体が部分的原因causa partialisである場合もあるのです。
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確知の矛盾&第四部定理五九備考

2023-04-29 19:16:10 | 哲学
 第四部序言確知するcerto scimusといわれているとき,それをどのように解釈するのかがよいのかということを考えていきます。
                                   
 ここでいわれている人間の本性の型は,現実的に存在する人間によって十全に認識されていると仮定します。すると,その本性naturaの型に近づく手段の認識cognitioも,十全な認識であると解さなければなりません。なぜなら,人間の本性の型を十全に認識しているのなら,どうすればその型に近づくかということも十全に認識されなければならないからです。他面からいえば,人間の本性の型に近づく手段の認識というのは,人間の本性の型の認識を原因causaとして生じるある結果effectusの認識です。第二部定理四〇により,十全な観念idea adaequataを原因として生じるいかなる結果の観念も十全な観念です。よって,この序言でいわれている善bonumは,現実的に存在する人間によって確知されるといわれるとき,それは疑い得ないという意味で確知するという意味になるでしょう。善の確知は疑い得ないという場合も含みますので,この部分はこれでいいだろうと僕は思います。
 この論理からいくと,人間の本性の型に一致するのに妨げになるものの認識も,十全な認識であるといわなければなりません。というのは,その認識もまた人間の本性の型の認識を原因として生じる結果の認識であって,第二部定理四〇によって十全な観念であるということになるからです。ところが,悪の確知というのは疑い得ないという意味ではあり得ず,単に疑わないということでなければならないのでした。つまりここには大きな矛盾が含まれているといわなければなりません。ですから今度は,この矛盾というのを,どのような仕方で解消するのかということが課題となります。
 まず考えなければならいのは,一方で人間の本性に型にますます近づく手段といわれ,もう一方でその型に一致するようになるのに妨げとなるといわれているとき,このふたつは善と悪malumとが反対概念であるのと同じような意味での反対概念であり得るのかということです。

 『はじめてのスピノザ』の第三章で自由libertasについて言及された後,能動actioと受動passioについての説明があります。ここで國分がいっているのは,現実的に存在している人間のある行動,とくにその身体的運動は,その運動motusそのものだけで能動であるか受動であるかを判断することはできないということです。要するに他人の行動を観察するだけで,それが能動であるか受動であるかを判定することはできないと國分はいっているわけです。このことはとても重要なことですが,僕はこれまでにこのことを詳しく探求したことがありません。ですからこの機会に,スピノザの哲学において能動と受動をどのように判断するべきかということを考えていきます。
 『エチカ』でスピノザがこれに関連したことを述べているのは第四部定理五九に付せられた備考Scholiumです。そこでは次のようにいわれています。
 「殴打という行動は,我々がこれを物理的に見て,人間が腕を上げ,拳を固め,力をこめて全腕を振り下すということのみを眼中に置く限り,人間身体の機構から考えられる一個の徳である」。
 ここで徳virtusといわれているのは,第四部定義八でいわれている徳と解さなければなりません。したがって,殴打という行為は,殴打するその人間の身体humanum corpusの運動としてみられる限りでは,その人間の身体の力potentiaの発現であって,その人間の身体の本性essentia,これはもちろん現実的に存在する人間が何かを殴打するということをいわんとしているのですから,持続するdurare限りでのその人間の身体の現実的本性actualis essentiaとみられなければなりませんが,殴打するその人間の身体の現実的本性のみによって十全に理解することができる力であるとみることができるわけです。
 このように理解する限り,この人間の殴打という行為は,人間的自由,とくに能動的自由に該当する行為のひとつであるとみることができます。もちろんそこにはまた条件と制約が課せられています。すなわち殴打するこの人間に二本の腕があるのであれば,その二本の腕のどちらかで殴打しなければなりませんし,殴打する対象が殴打する腕の可動域の外にある場合は,そのままでは殴打できないので前もって対象に近づかなければならないからです。
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女流王位戦&スピノザの言及

2023-04-28 19:16:22 | 将棋
 26日に姫路ゆめさき川温泉で指された第34期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が23勝,伊藤沙恵女流四段が9勝。
 振駒で伊藤女流四段の先手。すぐに飛車先の歩を伸ばしていったので後手の里見女流王位はノーマル向飛車に。先手の銀冠と後手の高美濃という形から,先手が穴熊に組むところで後手から仕掛け,そこからは戦いになりました。
                                        
 先手が桂馬を取って飛車を成り込んだ局面。ここで後手は☖4五馬と桂馬を取ったのですが,この手は甘かったという感想が残っています。この局面はそこでいわれている☖7九銀のほかに☖6六桂と打つ手もたぶん有力で,そのどちらかであればまだどちらの勝ちかわからない局面が続いたものと思います。
 先手は☗6一龍と寄りました。これは6筋に龍の利きを通す手で,好手のように思えるのですが,実際は一旦は☗5六歩と打って,☖同馬か☖同飛かを選ばせた方がよかったようです。
 実戦は☗6一龍に対して☖6二歩と打ったので,☗6四桂で先手の勝ちになりました。敗着は☖6二歩で,☖5九飛成☗6九金☖5二銀のように進めれば,まだ難しかったようです。
 伊藤女流四段が先勝。第二局は来月16日に指される予定です。

 それでは最後にスピノザが現実的に存在する人間にとっての自由libertas,とくに能動的自由について言及している部分を再確認しておきましょう。それは第四部定理六六備考です。ここでは自由の人homo liberと奴隷が対置されていて,理性ratioに導かれる人間が自由の人といわれるのに対し,感情affectusおよび意見opinioに導かれる人間が奴隷といわれています。前者は人間の能動actioを意味するのに対し,後者は人間の受動passioを意味します。つまり,能動的であることそれ自体が自由であるとされているのです。また,第五部定理四二備考でスピノザが賢者と無知者を対比するとき,この対比は自由の人と奴隷の対比と同様です。そしてここでは賢者は多くのことをなし得るし,優秀であるといわれています。すなわち,自己の本性naturaの必然性necessitasに従って多くのことをなす人が自由の人であって,自由の人はその点で奴隷および無知者より優れているといわれているのです。
 しかしこれは再三にわたって注意していることですが,一方に自由の人がいて他方に奴隷がいるのではありません。同様に一方に賢者がいて他方に無知者がいるというわけでもありません。現実的に存在する同じ人間が,ときに自由の人となりまたときに奴隷となるのです。現実的に存在する人間は常に何らかの働きを受けているということは第四部定理四系でいわれている通りです。この意味では現実的に存在するすべての人間は奴隷でありまた無知者です。ただその人間が,自己の本性の必然性に従って,いい換えれば理性に従っている限りにおいて,自由の人でありまた賢者といわれるようになるのです。この点でも自由の人あるいは賢者にはある条件と制約があるということは明白であるといえるでしょう。その条件と制約の下において,僕たちは自由の人であることができるし賢者であることができるのです。もしも自分は常に自由の人であると思っている人がいたとしたら,その人は自分が働きを受けているということに気が付いていないだけであって,実際には自由の人ではありません。自由の人は,自身が条件と制約の下で自由であるということを知っている人のことをいうのです。
 自由についての考察はここまでにして次の考察に移ります。
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ヒューリック杯棋聖戦&精神の制約と条件

2023-04-27 19:29:56 | 将棋
 24日に指された第94期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は永瀬拓矢王座が2勝,佐々木大地七段が1勝。
 振駒で佐々木七段の先手となり相掛かり。早い段階で先手が工夫を凝らしたのに対し,後手の永瀬王座が対応に苦慮して時間を使いながらの駒組が長く続きました。
                                        
 第1図となって後手から☖3五歩と仕掛けていくことに。これは放置しておくと先手からの攻めが厳しいとみたための判断で,それ自体は正しかったようです。ただこの局面自体が角の働きと玉の強度に差があって,残り時間も先手の方が多いということで,実戦的には後手の方が厳しかったようです。相掛かりから駒組が長く続くということ自体がそれほど多くありませんが,その駒組の段階で事実上の差がついてしまい,そのまま終局というのはかなり珍しい部類の将棋であったように思います。
 佐々木七段が挑戦者に。タイトル戦出場は初めて。第一局は6月5日に指される予定です。

 気を付けておきたいのは,この種の条件や制約というのは,腕と脚およびその運動motusというような,人間の身体humanum corpusに課せられたものには限らないという点です。人間の精神mens humanaにもこのような条件と制約があるのであって,精神に関連する自由libertasもまた,現実的に存在する人間にとっては,その条件および制約の下での自由です。このことは,人間の精神がその人間の身体の観念ideaであるということから明白です。
 よってここで國分がいっていることは,僕がいう受動的自由ともいくらかの関係を有しているといえます。僕たちはある物体corpusから刺激を受ければその物体を表象します。そしてその表象像imaginesに対して何らかの感情affectusを有することもあります。こうしたことは現実的に存在する人間の身体にとっての条件であり制約であるともいえますが,同時に人間の精神にとっての条件でありまた制約でもあるといえます。いい換えればこうした表象imaginatioとか感情というのは人間の精神のうちに必然的にnecessario生じるものであって,それを現実的に存在するその人間が阻止するということはできません。つまり現実的に存在する人間は何を表象して何を表象しないのかということ,もっと広くいえば何を認識して何を認識しないのかということを自由に選択するということができるわけではありません。同様にあの感情を感じこの感情は感じないというように,自身の感情を自由に制御することができるわけではないのです。したがってこうしたことを現実的に存在する人間に対して禁ずることはできません。現実的に存在する人間に対してある特定の認識cognitioやある特定の感情を禁ずるということは,100m先にあるものを動かずに手を伸ばして取れと命じているのと同じことなのです。
 よって,人間についていわれる自由,これは受動的自由ではなく能動的自由ですが,自分に課せられている条件と制約の下で,それらの条件および制約に従って,自分自身の力potentiaをうまく発揮するということになります。そしてこの力というのは,腕を動かしまた脚を動かすという身体的な力と同時に,自分自身の精神を十全な原因causa adaequataとして事物を認識するcognoscere力との両方を意味します。条件と制約の下での力が,スピノザのいう自由です。
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しらさぎ賞&制約

2023-04-26 19:12:04 | 地方競馬
 第61回しらさぎ賞
 発馬後の正面では隊列が決まりませんでしたが,その後のコーナーで内にいたスティールルージュが前に出ての逃げに。2番手にプリモジョーカーとパワースレイヴ。1馬身半差でジュネスとグランパラディーゾ。2馬身差でトキノゴールド。7番手にセパヌイール。8番手にリネンファッション。3馬身差でティーズハクア。10番手にレディオガガ。5馬身差でロカマドール。5馬身差の最後尾にミスティネイルという縦長の隊列。最初の600mは35秒5のミドルペース。
 3コーナーからはスティールルージュ,パワースレイヴ,グランパラディーゾ,セパヌイールの4頭が雁行で直後にジュネス。この後ろまで追い上げてきたトキノゴールドとは3馬身くらいの差があり,優勝争いは前の5頭。スティールルージュは一旦は外から前に出られそうなところがありましたが,直線に入るとまた伸び,鋭く逃げ切って優勝。外のグランパラディーゾの追い上げを凌いだパワースレイヴが2馬身半差で2着。グランパラディーゾがアタマ差の3着。直線でパワースレイヴとグランパラディーゾの間を突こうとしたジュネスがクビ差の4着で大外のセパヌイールがクビ差で5着。トキノゴールドも首差の6着まで追い上げました。
                                   
 優勝したスティールルージュは昨年の若潮スプリント以来の勝利で南関東重賞は4勝目。このレースは3月の開催で行われたトライアルの上位3頭が揃って出走し,1着,3着,4着。2着馬は今年の2戦を連勝していた上昇馬で,概ね能力が反映された結果にはなっていると思います。スティールルージュはほかの馬に差をつけていますが,これはおそらく雨の中の不良馬場という条件が味方したものであり,差をつけた馬に対して能力で上回っているということではないとみていいでしょう。祖母の12歳上の半兄がサウスヴィグラス
 騎乗した船橋の張田昂騎手は昨年のユングフラウ賞以来の南関東重賞5勝目。しらさぎ賞は初勝利。管理している船橋の張田京調教師は南関東重賞10勝目。しらさぎ賞は初勝利。

 現実的に存在している人間は,2本の腕も2本の脚も動かすことができると僕はいいましたが,この運動motusには可動域が含まれます。可動域というのは腕なり脚なりの運動を限定する要素のひとつであって,これが國分がいっているところの制約に該当します。
 この制約すなわち可動域にはいくつかの意味があります。たとえば,この人間は50m先にあるものを取るためにはそのものに近づく必要があります。腕を動かすことができるからといって,50m先まで腕を伸ばしてそれを取ることができるわけではありません。また近づくために脚を動かして歩くとしても,一歩でそこまで到達することができるわけではなく,何歩かを要します。これらのことは,この人間の脚や腕に可動域が設定されているからなのであって,この可動域を超越して腕や脚を動かすことはできないのです。
 このこと自体は僕たちにとっては自明のことですから,とくにこれを制約として意識することはないだろうと思います。しかしこれは確かに制約のひとつなのです。なぜなら,たとえば僕たちは腕を自由に動かすことができるとか脚を自由に動かすことができるといったります。ですがそれは可動域を超越して動かすことができるということを意味するわけではありません。各々の人間の腕,また個々の人間の脚によって,その腕や脚が現になし得ることは同一ではありません。ある人間の腕にはなし得るけれど他の人間の腕にはなし得ないといいうことはあるでしょうし,このことは脚にも適用することができるでしょう。しかし一般に人間の腕や脚には可動域というものが設定されているのであって,その可動域を超越する事柄は,どんな人間の腕であろうと脚であろうとなし得ることはできないのです。いい換えればどのような人間の腕であろうと脚であろうとなし得ないことがあるのです。
 これが國分のいう制約の意味であって,この制約を超越するような自由libertasは人間には与えられていないのです。つまりここで腕とか脚といっているのはひとつの例であって,その他にも多種多様の制約が人間には課せられていて,その制約を超越する一切の自由は人間には与えられていないのです。
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大楠賞争奪戦&条件

2023-04-25 19:07:54 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは新山‐佐藤‐内藤の北日本,脇本に大川,伊藤‐山田‐橋本‐湊の西国。
 新山がスタートを取って前受け。4番手に伊藤,8番手に脇本で周回。残り2周のホームから伊藤が発進。そのまま新山を叩き,バックに入ると5番手に新山,8番手に脇本という隊列に変化。このまま打鐘。4番手の湊と5番手の新山,7番手の内藤と8番手の脇本との車間がそれぞれ開きました。ホームから新山が発進。バックで山田が番手から出ていきましたが,新山とマークの佐藤はそれを乗り越え,山田は3番手にスイッチする形に。8番手からの捲りになった脇本は直線の入口ではまだ山田の後ろの外でしたが,直線は外から差し切って完全優勝。新山が4分の3車身差の2着に粘り,佐藤が8分の1車輪差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は豊橋記念を完全優勝して以来の優勝で記念競輪13勝目。武雄記念は初優勝。このレースは脇本は8番手になるでしょうから,新山が先行することがあるのかそれとも5番手からの捲りを狙うのかということが展開上の最大の焦点。前受けはいつもの戦法で,伊藤が来たときに無抵抗に引きましたので,出させて5番手からというのが当初からの作戦だったのでしょう。そこから捲って山田の番手捲りを乗り越え,なおかつ佐藤にも差されなかったのですから,作戦としては成功だったと思います。ただ脇本が強すぎたということでしょう。伊藤はすんなり出させてもらったのですから,もう少しペースに緩急をつけてもよかったのではないかという気がします。

 僕たちの現実的本性actualis essentiaが,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行することを希求し,より大なる完全性からより小なる完全性へと移行することを忌避するのだとしても,それは僕たち自身に与えられた条件なり制約なりを超越することを希求し,またその条件なり制約なりに隷属することを忌避することを意味するのではないということを,國分は次のような例示で説明しています。
 ここにある人間が現実的に存在しているとして,この人間には2本の腕があってまた2本の脚があると仮定します。これは現実的に存在するすべての人間に妥当する例ではありませんが,あくまでも一例であると理解してください。この人間は2本の腕も2本の脚も動かすことができる,いい換えればこの人間の腕も脚も運動motusをなすのですが,単に2本の腕とか2本の脚とかいう場合には,それがどのような性能を有しているかということは無関係なのであって,腕が2本で脚が2本ということ以上の何かを意味することはできません。これがこの現実的に存在する人間にとっての条件に該当します。そしてこの条件は変化することがありません。つまりこの人間がより小なる完全性からより大なる完全性へと移行することともより大なる完全性からより小なる完全性へと移行することとも関係ないのです。もちろんこの条件の下に,この人間が1本の腕を失うということが生じるとすれば,この人間は大なる完全性から小なる完全性へと移行したのだということが可能ですが,こうしたことは外部の物体corpusから働きを受けるpatiことによって生じるのであって,この人間をこの人間としてだけ見たなら与えられた条件であることは変わりません。いい換えればこの人間をこの人間としてだけみたなら,1本の腕を失うことを忌避するということはできませんし,もう1本の腕を希求するということもできないのです。前もっていっておいたように,この場合の腕とか脚というのは一例にすぎないのであって,この種の条件は現実的に存在する人間にはもっとたくさんあります。最も単純にいえば,人間の身体humanum corpusというのは現実的に存在するその人間にとっての所与の条件であるといってもいいでしょう。
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叡王戦&固有の視点

2023-04-24 19:13:42 | 将棋
 名古屋で指された昨日の第8期叡王戦五番勝負第二局。
 菅井竜也八段の先手でノーマル三間飛車からの振飛車穴熊。後手の藤井聡太叡王も居飛車穴熊に組んでの相穴熊戦になりました。この将棋は序盤から中盤の先手の指し手が冴えわたりました。
                                        
 差し当って7四の歩を守らなければならない局面。☗6八角と引きました。5九ではなく6八に引くのは狙いがあったからです。
 後手は☖5五歩☗6七銀と引かせておいて☖7二飛と寄りました。これは☗7四歩からの歩の交換を受けるための一手。ここで先手は☗9六歩と突いたのですが,これも狙いを持った一着でした。
 後手は☖4三金と上がりました。固めるなら☖4二金寄もありますが,それだとすぐに4二に角を引くことができなくなってしまいます。ただ,疑問手という類の手ではなかったのですが,この後の展開からするとここでは別の手を選択しておいた方がよかったのかもしれません。
 ここで☗7九角と引いたのが,角を6八に引き,9筋の歩を突いておいた効果です。
                                        
 第2図となって形勢に差がついたというわけではありません。ただこの局面は後手が互角を維持していくのは大変な局面で,そのために一方的に時間を使わざるを得なくなりました。戦型に対する経験による理解度の差が顕著に出た一局だったように思います。
 菅井八段が勝って1勝1敗。第三局は来月6日に指される予定です。

 第三部定理七が自由論の起点となるというのは,意外に思えるかもしれません。あるいはこれは國分に固有の視点といえるかもしれません。ですが自由libertasについて考えるために,確かにこのことは踏まえておかなければならないのです。
 第三部定理七がいっているのは,コナトゥスconatusが個物res singularisの現実的本性actualis essentiaであるということです。この現実的本性は,力potentiaとしてみることができます。したがって,自己の有esseに固執するperseverareというのは,自己の力をより小なる状態からより大なる状態へと移行させるように希求すること,あるいは逆に,自己の力がより大なる状態からより小なる状態に移行するのを忌避することというのを含みます。このことは主には感情論と関係するのであって,このために僕たちは喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するようになっています。そしてこのことからこれは善悪論とも関係するのであって,僕たちは僕たちが希求するもののことを善bonumと認識し,僕たちが忌避するものを悪malumと認識するcognoscereようになるのです。
 このことが自由論と関係してくるのは,この力の移行transitioに関連する部分です。僕たちはより小なる力からより大なる力へと移行すること,実際にはこの力は実在性realitasを意味し,実在性は完全性perfectioと同じ意味ですから,より小なる完全性からより大なる完全性へと移行することを希求するのですが,この力の移行というのは,僕たちに与えられている条件なり制約なりを超越するということを意味するのではありません。これは自由論の起点のひとつめと関連しているのであって,現実的に存在する人間にまったく制約がないという状態はあり得ないので,もしも単に制約がないということが自由を意味するのであるとすれば,人間は自由ではないという結論しか出てきません。するとこのことから,自由であるとは与えられた制約なり条件なりを超越することを意味するように思われるかもしれないのですが,そういうわけではないのです。より小なる力を有する状態からより大なる力を有する状態へと移行することを希求するのは僕たちの現実的本性なのですが,この現実的本性は常にある制約なり条件を被っているのであって,それを超越することを力というのではありません。
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フラワーパーク&自由論の起点

2023-04-23 19:04:41 | 名馬
 15日の中山グランドジャンプを勝ったイロゴトシの父は2015年に東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌでその母はフラワーパークです。母の7つ下の半弟に1988年の阪神大賞典と1989年の京都記念を勝ったダイナカーペンター
 デビューは3歳の10月とかなり遅くなりました。このレースは10着でしたが2戦目で初勝利。すると3戦目と4戦目も勝ち,準オープンの初戦は3着。2戦目で準オープンを突破するとオープンで2着。そしてシルクロードステークスに出走するとデビューからわずか半年で重賞を制覇。さらに高松宮記念をレコードタイムで制し,一気に大レース制覇も達成しました。このレースはナリタブライアンの出走で話題を集めたレースです。この後,安田記念に出走しましたがこれは距離が長く9着。
 11月にCBC賞で復帰して2着。当時は暮れに行われていたスプリンターズステークスを勝って大レース2勝目。この年のJRA賞で最優秀短距離馬と最優秀父内国遺産馬に選出されました。
 翌年はマイラーズカップで復帰して4着。距離を戻したシルクロードステークスも4着に敗れると高松宮杯も8着。秋はスワンステークスで復帰してタイキシャトルの6着。CBC賞が4着,スプリンターズステークスもタイキシャトルの4着で現役を退きました。
 デビューした1995年と翌1996年は素晴らしい成績でしたが,1997年はその輝きを失ってしまいました。デビューが遅かったのでやや間隔を詰めて多くのレースを使ったのですが,そのダメージが後に出てきてしまったのではないかと思います。

 本性essentiaに関連する考察はここまでとして,次の考察に移ります。
                                        
 『はじめてのスピノザ』の第三章は自由へのエチカというタイトルになっています。この冒頭部分でスピノザの哲学における自由libertasの概念notioが説明されています。ただしこれは,神的自由についての説明というより人間的自由についての説明であって,かつ人間的自由の中でも僕が能動的自由といっている自由についての説明になっています。僕たちが現実的に存在しているとき,自由という概念が最も意味を成すのはこの意味での自由ですから,國分がこのことについて念入りに説明しているのは当然だと僕は思います。このとき國分の説明が,僕の説明の仕方とは異なった観点からの説明になっていて,それが,國分が意図しているのかどうかということとは別に,スピノザの哲学のほかの部分の原理と関係させることができるようなものになっています。このような方法で能動的自由を説明することは,きわめて意義深いと思いますので,國分の説明というのをさらに深く掘り下げていくことにします。
 僕たちは自由ということを,束縛がないという意味で用います。しかしスピノザは自由というのをそのようには考えません。正確にいうと,第一部定義七でいわれている自由は一切の束縛や制約がない自由といえますが,これは神的自由なのであって,人間についてこれを適用することはできません。むしろ人間が現実的に存在するときには,何の束縛も受けないとか何の制約も受けないということは不可能です。これは第四部定理四から明白だといえるでしょう。ですから人間は何らかの束縛なり制約なりを常に受けつつ現実的に存在していることになります。ですから,束縛がないとか制約がないという状態のことを人間にとっての自由というのであれば,人間には自由はないという結論しか出ないのです。スピノザはこのことを前提として,では人間にとっての自由とは何かということを考えていくことになります。つまりこのことがスピノザの哲学における自由論の起点であるといわなければなりません。
 そしてもうひとつ,起点となることがあります。それは個物res singularisの現実的本性actualis essentiaを示した第三部定理七です。
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マイナビ女子オープン&欲望とコナトゥス

2023-04-22 18:52:27 | 将棋
 19日に甲府で指された第16期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 西山朋佳女王の先手で角道オープン三間飛車。小競り合いから後手の甲斐智美女流五段が攻めていく将棋になりました。
                                        
 この局面は攻め続けるのが困難になっているので,☖6四歩と受けるのが最も自然な手。ただそれでは☗7一歩成とされてじり貧になるとみたようで,攻めの継続に出ました。
 ☖5七桂成☗同金と捨てて☖7五角。間接的な飛車金の両取りですが☗6七飛で受かります。
 ☖8六角で角交換を迫ります。応じては先手の損なので☗7七桂。ここから☖6六歩☗同金☖7七角成☗同角と進めました。
                                        
 ☖8七飛成で龍を作ることはできますが,その代償が角損では割に合いません。ここからは落ち着いて受けに回った後,機を見て反撃に転じた先手の快勝となりました。
 西山女王が連勝。第三局は来月28日に指される予定です。

 コナトゥスconatusは一定の時間tempusおよび場所と関係すると考えられようと,神Deusの中に含まれ神の本性naturaの必然性necessitasから生じると考えられようと,同じように自己の有esseに固執します。しかし自己の有に固執するperseverareそのありようは異なります。なぜなら,コナトゥスが神の中に含まれ神の本性の必然性から生じると考えられるなら,そのコナトゥスを有する個物res singularisは働きを受けるpatiことがないのですから,常に,あるいは永遠aeternumから永遠にわたって,同じように自己の有に固執するでしょう。他面からいえば,この個物の欲望cupiditasは永遠から永遠にわたって変化しないのであって,コナトゥスが同一のままに留まるように,同一のままに留まるでしょう。これに対してコナトゥスが一定の時間および場所と関連して考えられる場合には,このコナトゥスを有する個物は働きを受けることがあるので,常に自己の有に固執するのだとしても,固執するありようはその働きの受け方によって変じてきます。最も分かりやすくいえば,僕たちはあるものを忌避したり別のものを希求したりするということがありますが,それはそのときのコナトゥスによって,いい換えれば自己の有に固執することによってあるものは忌避しまたあるものを希求するのです。したがって,常に一定の仕方で自己の有に固執するということはありません。あるものを忌避したりまた希求したりすることは僕たちの欲望にほかなりませんから,自己の有に固執するコナトゥスは,実は欲望そのものです。よってスピノザはコナトゥスを個物の現実的本性actualis essentiaといい,また人間の欲望を人間の現実的本性というのですが,そこには一切の矛盾が含まれていないということになります。僕たちが意識する僕たちの欲望のありようは,僕たちのコナトゥスのありようそのものなのです。もしも肩に降る雨の冷たさを感じ,それによってまだ生きたいという欲望を感じたとしたら,それ自体がコナトゥスなのです。
 僕たちの欲望というのは移り気なものです。そしてそれが僕たちの現実的本性そのものです。つまり僕たちは一定の時間および場所と関連して存在している限り,確固とした現実的本性を有しているのではなく,現実的本性それ自体が移り気なのです。
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ブリリアントカップ&相違の理由

2023-04-21 19:09:57 | 地方競馬
 昨晩の第6回ブリリアントカップ
 好発はギガキングでしたが外の方から前に出たデュードヴァンの逃げ。向正面に入るところで3馬身くらいのリードになりました。ランリョウオーが2番手に上がり控えたギガキングはゴライアスと並んで3番手。ナッジ,ロードゴラッソ,タイムフライヤーの順で続きここまでが集団を形成。2馬身差でスワーヴアラミス。コスモファルネーゼ,ミヤギザオウの順でこの3頭も集団。3馬身差でジョエル。2馬身差でマンガンとブラヴール。ブリッグオドーンも差がなく続き,2馬身差の最後尾にサルサレイア。最初の800mは50秒1のスローペース。
 3コーナーからランリョウオーがデュードヴァンの外に並び掛けていきました。内の3番手で追っていたギガキングは直線に入るところでこの2頭の外へ。デュードヴァンとランリョウオーの競り合いはランリョウオーが制し先頭に。ギガキングの外からタイムフライヤーが追ってきてさらに外からスワーヴアラミス。早めに先頭に立っていたランリョウオーはそのままフィニッシュまで先頭を譲らず優勝。大外から鋭く伸びたスワーヴアラミスが4分の3馬身差で2着。タイムフライヤーがクビ差の3着で逃げ粘ったデュードヴァンがクビ差で4着。ギガキングはハナ差の5着。
                                   
 優勝したランリョウオー東京記念以来の勝利で南関東重賞4勝目。ここでは能力上位の1頭。ただ昨年は長距離戦を中心に戦ってきたので,1800mの距離には若干の不安がありました。ただかつては1600mでもオープンを勝っている馬で,不安材料ではなかったようです。南関東重賞の4勝はいずれも大井でのものなので,他場でも同じように力を出すということが今後に向けての課題になるでしょう。母の父はシンボリクリスエス。祖母はファビラスラフイン
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は桜花賞以来の南関東重賞32勝目。第4回以来2年ぶりのブリリアントカップ2勝目。管理している浦和の小久保智調教師はクラウンカップ以来の南関東重賞62勝目。ブリリアントカップは初勝利。

 第五部定理二九備考にあるように,どんなものであったとしてもそれは二様の仕方で現実的なものとして考えられます。よって個々の人間の現実的本性actualis essentiaも二様の仕方で考えられるのでなければなりません。このとき,ある人間の現実的本性が,神Deusの中に含まれ,神の本性naturaの必然性necessitasから生じるものとして考えられるなら,その現実的本性は変化することはありません。しかしもしその人間の現実的本性が,一定の時間tempusおよび場所と関係して考えられる場合は,その人間の現実的本性というのは一定であるどころか,時々刻々と変化していると考えられなければならないのです。
 なぜこのような相違が生じるのかといえば,ある人間の現実的本性が神の中に含まれ,神の必然性から生じるものとして考えられる限り,その現実的本性が何かほかのものから働きを受けるpatiということはないのに対して,一定の時間および場所と関連付けられて考えられるその人間の現実的本性は,常にほかのものから働きを受けている状態にあるからです。そしてそのような働きを受けることによって,その人間は喜びlaetitiaを感じまた悲しみtristitiaを感じます。いい換えれば第三部諸感情の定義二および第三部諸感情の定義三により,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行したり,逆により大なる完全性からより小なる完全性へと移行するのです。そしてこの移行transitioというのはすでに示した通り,その人間の現実的本性の力potentiaが,より小なる状態からより大なる状態へと,またより大なる状態からより小なる状態へと変化することにほかなりません。そしてその各々の状態において,現実的に存在する人間はそれに見合った欲望cupiditasを有するようになるので,そのときそのときで現実的に存在する人間が有する欲望が,その人間の現実的本性と等置されるのです。僕たちが感じる欲望の変遷は,僕たちの現実的本性の変遷にほかならないのです。
 第三部定理七は,個物res singularisのコナトゥスconatusと個物の現実的本性を等置しています。したがって個物のコナトゥスもまた,二様の仕方で考えられるといわなければなりません。ただし,自己の有esseに固執するperseverareという働きactioそれ自体は,どちらの仕方でみられるときにも同様に成立します。
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東京スプリント&本性の変化

2023-04-20 19:24:04 | 地方競馬
 昨晩の第34回東京スプリント
 好発のギシギシの逃げ。2番手にティアラフォーカス。3番手にリュウノユキナとケイアイドリーとスマートダンディー。6番手にアティードとプライルード。8番手にオーロラテソーロで9番手にサイモンハロルド。やや差があってアポロビビ。また差がある最後尾にエアアルマスという隊列。前半の600mは33秒8のハイペース。
 3コーナーを回るとギシギシの外にティアラフォーカスが並び掛けていきました。その後ろはリュウノユキナ,ケイアイドリー,スマートダンディーの併走。直線に入るとティアラフォーカスは苦しくなり,ケイアイドリーが2番手になり,さらにギシギシの前に出て先頭に。ケイアイドリーが前に出たことで進路が開いたリュウノユキナがケイアイドリーの外に出されて追い上げ,2頭の優勝争い。外から差し切ったリュウノユキナが優勝。ケイアイドリーが4分の3馬身差で2着。前をいく馬たちの外から追い上げてきたオーロラテソーロが1馬身差で3着。離れた最後尾から大外を追い込んだエアアルマスが1馬身4分の1差の4着で逃げたギシギシはクビ差で5着。
 優勝したリュウノユキナは一昨年のクラスターカップ以来の勝利で重賞3勝目。それ以降は勝っていなかったのですが,2着が7回,3着も1回あるように,この路線の安定勢力。逆にいえばこの馬を上回らなければこの路線でトップに立つことはできないという存在で,このレースではそういった馬が不在であったということでしょう。高齢ですから多くを望むのは酷だと思いますが,まだしばらくは大きく崩れることなく走っていくことができそうです。父はヴァーミリアン。母の父はクロフネビューチフルドリーマーワールドハヤブサの分枝。母のふたつ上の半姉に2007年のTCK女王盃を勝ったサウンドザビーチ
 騎乗した横山武史騎手と,今回から管理することになった岩戸孝樹調教師は東京スプリント初勝利。

 現実的に存在する人間の力potentiaすなわち実在性realitasが変化することは,スピノザも認めているといわなければなりません。第三部諸感情の定義二は,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へ移行することが喜びlaetitiaという感情affectusであるといっています。つまりスピノザは完全性が移行することは認めているのです。しかるにこの完全性は,第二部定義六によって実在性のことにほかなりません。よって,完全性が移行するというのと実在性が移行するというのは同じ意味だと解さなければなりません。移行するということは変化するということと同じですから,実在性が移行するということは実在性が変化するということです。そして,この実在性というのは力という観点からみたときの現実的本性actualis essentiaにほかならないのですから,実在性が変化するというのは,力としての現実的本性が変化するというのと同じです。したがって,変化した現実的本性の各々の状態が欲望cupiditasとして作用するという國分の主張は,スピノザの哲学の中では成立する,あり得るという意味で成立することになります。
                                   
 欲望が現実的本性であるということは,第三部諸感情の定義一により明白です。したがって,変化する現実的本性が欲望として作用するという部分はとくに問題視することを何も含んでいないことになります。一方,現実的本性を欲望と等置することができるのであれば,それが変化するということは,論理的に訴えずともそれ自体で明らかだということができます。なぜなら,僕たち自身が意識する僕たちの欲望というものを反省的にみてみれば,それが常に同一の欲望に留まるということはないのであって,むしろ時々刻々と変化しているといわざるを得ないからです。いい換えれば,現に僕たちの欲望が変化しているということ自体が,僕たちの現実的本性が変化しているということの,何よりの証明なのです。
 このことから分かるように,スピノザの哲学においては,持続するdurareといわれるような僕たちの現実的本性というのは,一定のものではありません。國分がいうように,普遍的な本性があってその下で欲望が作用するのではなく,作用している欲望そのものがそのときの現実的本性なのです。
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本性としての善&力の変化

2023-04-19 19:20:22 | 哲学
 僕たちがあるもの,たとえばXをmalumであると認識するcognoscereとしても,それはXの本性essentiaに属するわけではない,いい換えれば事物に固有の本性としての悪はないと僕はいいました。そして僕はこのことを,悪の確知は疑わないということなのであって,疑い得ないということではないということと関連して説明しました。しかしこの説明からは,次のような疑問が生じてくるのではないかと思います。もしもこのふたつのことが関係してくるのであれば,Xが善bonumであるという認識cognitioが疑い得ないということであり得るのならば,善であることがXの本性に属していなければならないのではないか,他面からいえば本性としての善であるものが存在しなければならないのではないかというものです。
                                   
 先に答えだけいっておけば,本性としての悪がないように,本性としての善もありません。あるもの,たとえばXが善であるのは,Xを善と認識する人が,Xによって喜びlaetitiaを齎されるからなのであって,それはXの本性に属するというわけではなく.あくまでもその人とXとの関係において生じる事柄だからです。しかし,善の確知というのは,単にそれを疑わないというだけではなく,疑い得ないという場合も生じ得るのです。このふたつが両立するのは,たとえ善であるということがXの本性に属するのではないとしても,ある人間とXとの関係については,その人は十全に認識することができる,他面からいえば,Xが自分に喜びを齎すということを,Xは自分自身の本性のみによって認識することができるからです。つまり,Xが自分に悲しみを齎すという認識は,自分とXの双方の本性からその人の精神mensのうちに生じる認識であるのに対し,Xが自分に喜びを齎すという認識は,自分とXの双方の本性からその人の精神のうちに生じる場合もあれば,単にその人の本性のみによってその人の精神のうちに生じる場合もあるのです。このとき,前者の場合はその人はXが善であるということを単に疑っていないというだけなのですが,後者の場合はXが善であるということを疑い得ないのです。つまりこのことは,Xの本性に何が属するのかということは重要ではなく,その認識が認識する人間の能動actioであるか受動passioであるかということが重要なのです。
 本性としての悪はありません。それと同様に,本性としての善もないのです。ある事物が善であるか悪であるかは,その事物の本性に属するのではなく,その事物と関係を有する人の認識のうちにあるのです。

 スピノザの哲学では本性essentiaを力potentiaという観点からみたときには実在性realitasとみなされます。つまり現実的にAという人間が存在しているときの本性,Aの現実的本性actualis essentiaを力という観点からみたときには,Aの実在性,いわばAの現実的実在性とみられるのです。ですからAの力が変化するということは,Aの実在性が変化するということです。このとき,Aの実在性は力からみられたときのAの現実的本性ではあるので,Aの実在性が変化するということを,Aの現実的本性が変化することであるというように解釈しても,間違いであるとはいえないのです。ただそれは,Aという現実的本性がBという現実的本性になる,つまりAという人間がそれとは別のBという人間になるというわけではなく,現実的本性が変化しつつAはAであり続ける,他面からいえば,Aという人間が,このようなAからあのようなAになり,また別のそのようなAになるというように,時々刻々と変化するということなのです。
 現実的に存在するAという人間が,あるときはBという人間を愛し,その後にはBという同じ人間を憎むようになるということが現実的に生じ得るということは理解することができるかと思います。この事象はそれ自体でみれば,あたかもBを愛していたAという人間が,Bを憎む別人のようになったと規定することができます。このような意味でAの現実的本性は確かに変化しているのであって,それはAの実在性,力という観点からみたときのAの現実的本性が変化しているということなのです。人間の現実的本性が時々刻々と変化しつつ,各々の状態で欲望cupiditasとして作用するというのは,具体的にはこのようなことだと解するべきです。この事例は愛amorと憎しみodiumという感情affectusによって説明していて,それは欲望ではないのですが,AがBを愛しているときにBに対して抱く欲望と,AがBを憎んでいるときにBに対して抱く欲望が異なるということはとくに説明するまでもなく理解できると思います。したがってこのような変化,Bを愛しているところから憎むようになるときには,AのBに対する欲望は変化するのであり,これがAの現実的本性の変化であって,実在性の変化なのです。
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北条早雲杯争奪戦&形相の変化

2023-04-18 19:22:36 | 競輪
 16日の小田原記念の決勝。並びは新田‐和田の北日本,真杉‐雨谷の栃木,深谷‐郡司‐内藤‐佐々木の南関東で神田は単騎。
 雨谷がスタートを取って真杉の前受け。3番手に新田,5番手に神田,6番手に深谷で周回。残り3周のバックから深谷が上昇開始。だれも抵抗しなかったので,佐々木までの4人が前に。新田がこのラインに切り替え,神田も続いたので,引いた真杉が8番手の一列棒状に。このまま深谷がペースを緩めなかったので打鐘からホームにかけてもだれも動けませんでした。バックに入ってから新田が発進しましたが,これに先んずるように郡司も番手捲りを敢行。新田も展開を考えればよく詰め寄りましたが,内藤の牽制もあって郡司が優勝。新田が1車身半差の2着。新田マークの和田が半車身差の3着。内藤が新田を牽制したときに内にいた佐々木とやや絡んでしまい,郡司マークの内藤は8分の1車輪差の4着で佐々木が半車輪差の5着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は2月の静岡記念以来の優勝で記念競輪16勝目。小田原記念は2016年,2018年,2019年と優勝していて4年ぶりの4勝目。このレースは深谷が駆けてすんなりと回った郡司が番手から発進すればほぼ勝てそうなメンバー構成。なので勝つためには南関東勢を分断するレースをする必要がありましたがそのようなレースにはなりませんでした。ですから郡司の優勝は順当といえるものでしょう。新田は中団になってしまったので飛びつきにくくなってしまったのですが,自力でいいレースをみせました。調子は上がっているのではないかと思います。

 事物の本性essentiaが変化するということは,その事物の形相formaが変化するというのと同じです。僕は現実的に存在するある物体corpusについて,この種の変化が生じないということをいいたいのではありません。おおよそ化学変化として示すことができるような変化は,この種の変化であるといえます。たとえば木は燃えることによって炭になりますが,これは木の本性を有する物体が,何らかの働きを受けるpatiことによって炭の本性を有する物体に変化したということであり,同様に,木の形相を有していた物体が,ある働きを受けることによって炭の形相を有する物体に変化したということです。
 しかしここで重要なのは,これは物体がそのように変化したということなのであって,木の本性が炭の本性になったということを意味するわけではありませんし,木の形相が炭の形相になったということを意味するわけでもないという点です。これは,もしある木が何らかの働きを受けることによって炭になるということが,木の本性が炭の本性になるということを意味するなら,木の本性を有するすべての物体がこのことによって炭の本性を有するようになる,つまり木の形相を有するすべての物体が炭という形相を有する物体になるということを意味しなければならないことになりますが,これをいうのが不条理であることはそれ自体で明らかだといえます。したがって,事物の現実的本性actualis essentiaは変化するといっても,それは力potentiaとして変化をしているのであって,現実的本性がそれ自体で変化する,たとえばAという現実的本性からBという現実的本性に変化するというようには解さない方がよいでしょう。
                                        
 國分がいっているのは現実的に存在する人間についてのことですから,木が炭になるというような変化は考慮に入れなくても構わないですし,まさかAという現実的本性を有する人間がBという現実的本性を有する別の人間になるということを國分はいおうとしているというように解する人もいないでしょう。ただ現実的に存在するAの力というのは変化するのであって,それはAという人間がこのようなA,あのようなAというように,様ざまに変化するということではあるというのも事実です。
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皐月賞&現実的本性の変化

2023-04-17 19:19:15 | 中央競馬
 昨日の第83回皐月賞
 トップナイフは発馬してすぐに控えました。逃げたのはグラニットで向正面に入るところで2馬身のリード。2番手はタッチウッド,べラジオオペラ,グリューネグリーン,ダノンタッチダウンの4頭の集団。2馬身差でホウオウビスケッツとタスティエーラ。2馬身差でラスハンメル。ここからは差がなくメタルスピード,フリームファクシ,ファントムシーフの順で追走。2馬身差でショウナンバシットとウインオーディンとシャザーン。2馬身差でソールオリエンス。直後にワンダイレクトとトップナイフ。3馬身差の最後尾にマイネルラウレアという隊列。前半の1000mは58秒5の超ハイペース。
 逃げたグラニットは3コーナーを回ると一杯。タッチウッドが先頭に立ちました。追ってきたのはショウナンバシットとタスティエーラ。タスティエーラが外の方から先頭に立つと,その内からショウナンバシット。さらにメタルスピードの追い上げ。しかし後方から最終コーナーで大外を回ったソールオリエンスが直線も大外から伸びてこれらの争いを豪快に差し切って優勝。タスティエーラが1馬身4分の1差で2着。タスティエーラとメタルスピードの間に進路を取ったファントムシーフが1馬身4分の3馬身差の3着でメタルスピードがアタマ差で4着。
 優勝したソールオリエンスは昨年11月にデビュー勝ち。2戦目に1月の京成杯に出走し優勝。ここはそれ以来のレース。これで3戦3勝で大レース制覇を達成しました。後方から大外を回って差し切るというのは能力がなければできない芸当ですからこれは評価しなければなりません。ただ最近の芝の中距離戦としては珍しいくらい早いペースのレースでしたから,本当にほかの馬たちに対してこれだけの能力の差があるとみてよいのかどうかは微妙な面も残ります。それが明かされていくのはこれからのレースになっていくでしょう。父はキタサンブラック。4つ上の半兄に2020年の富士ステークスを勝ったヴァンドギャルド。Sol Oriensはラテン語で朝日。
 騎乗した横山武史騎手は一昨年のホープフルステークス以来の大レース6勝目。第81回以来2年ぶりの皐月賞2勝目。管理している手塚貴久調教師は香港ヴァーズ以来の大レース11勝目。国内では一昨年のオークス以来。皐月賞は初勝利。

 あるものが永遠aeternumから永遠にわたって存在するとか,神Deusの中で永遠の相species aeternitatisの下に表現されるexprimunturとかいわれるとき,もしそのものが何らかの変化をすると主張したなら,そのものが永遠であること自体が不条理になってしまいます。あるものは不変であるから永遠といわれ得るのであって,もし変化してしまうならそれは永遠といわれ得ないからです。よってどのようなものであれ,それが変化するといわれるのであれば,そのものは時間的に持続するdurareといわれる限りで存在していると考えなければならず,そのものの本性essentiaというのは,やはり持続するとみられる限りでの現実的本性actualis essentiaです。よって國分がいっているのは,この種の現実的本性は変化するのであって,変化して辿り着いた先の状態が現実的本性といわれるという意味に解さなければなりません。
                                        
 ただし,ここでも注意しなければならないことがあるのであって,この種の現実的本性は確かに変化するのですが,それは國分がいっている通り,力potentiaとして変化しているのであって,現実的本性そのものが変化するのではありません。つまり,ある現実的本性が別の現実的本性に変化するというよりは,ある現実的本性が,より小なる力を有する状態からより大なる力を有する状態へと,また逆により大なる力を有する状態からより小なる力を有する状態へと時々刻々と変化していくという主旨で解するのが適切です。もちろん,本性というのは必ず何らかの力を有するものなのですから,力の変化自体を現実的本性そのものの変化と解しても大きな間違いであるとは僕は考えませんが,この現実的本性をたとえば現実的に存在するある人間の本性としてみるときには,その人間の現実的本性がそれ自体で変化しているというよりは,その人間の現実的本性が含む力が,大きくなったり小さくなったりしていると解する方が,ここで國分がいわんとしていることを正確に理解することができるでしょう。
 第二部定義二から分かるように,ある事物とその事物の本性というのは一対一で対応し合います。つまりXがAの本性であるなら,Xという本性を有するものはAだけでなければなりません。よってXが変化するならAも変化します。
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オールエイジドステークス&個物の本性

2023-04-16 19:11:09 | 海外競馬
 日本時間で昨日の午後にオーストラリアのランドウィック競馬場で行われたオールエイジドステークスGⅠ芝1400m。
 ホウオウアマゾンは3頭の集団となった6番手の外を追走。隊列が定まった時点では逃げた馬から6馬身ほどの位置でしたが,逃げた馬が2番手以下をぐんぐんと離していくレースになったため,先頭との差は広がっていきました。コーナーを回ると追走に汲々といった様子になり,直線の入口では後方2番手に。そこから外目に出されるとそれまでの感じからはかなり伸びをみせましたが,優勝争いに加わるというところはなく,勝ち馬から概ね6馬身半差の7着でした。
 この馬は一昨年のアーリントンカップを勝って以降は,重賞で2着はありますが勝っていません。どちらかといえば先週のユニコーンライオンの調教パートナーという位置づけでもありましたから,結果は仕方がないものだったと思います。レースぶりをみると,それなりの能力はある馬で,ただ精神面には課題があるというように感じました。

 ここまでの考察の中で示してきた恐竜に共通の本性essentiaは,僕の見解opinioでは神Deusの延長の属性Extensionis attributumの中に含まれている形相的本性essentia formalisで,この観念ideaは神の無限な観念の中に包容されています。ではこの種の恐竜が現実的に存在するのかといえば,現実的に存在するわけではありません。このことは,人間に共通の本性といわれる場合の人間が,現実的に存在するわけではないと僕が考えているのと同じ理由ですから,ここで繰り返して説明することはしません。またこの恐竜に共通の本性といわれるときの恐竜は,第二部定理三七でいわれる個物res singularisではないと考えることができます。これもまた人間に共通の本性といわれる場合の人間は,個物であると考える必要はないということと同じ理由なので,ここでは説明を繰り返しません。恐竜についてこのことが人間についての場合と同じように説明することができるのは,人間も恐竜も,同じ本性を有する複数のものが存在する個物であるからです。したがって,同じ本性を有する複数のものがある個物については,すべからくこのことが妥当すると僕は考えているのです。
                                   
 このことから一般に個物の本性といわれるとき,それをどのように考えればいいのかということが分かります。ひとつは,神の属性の中に含まれているものとしての形相的本性,すなわち,同じ本性を有する複数の個物に共通するような本性です。もうひとつはそうした個物の各々の現実的本性actualis essentiaです。そしてこの現実的本性は,ふたつの仕方で考えられます。そのひとつは,神の中に永遠の相species aeternitatisの下に表現されるexprimuntur現実的本性の観念があるといわれるとき,この観念の観念対象ideatumとなっているような現実的本性であり,もうひとつは持続するdurareといわれる場合の現実的本性です。
 それでは『はじめてのスピノザ』に戻って,そこで力potentiaとしての本性が変化しつつ辿り着く各々の状態が欲望cupiditasとして作用するといわれているときの本性がどれに該当するのかといえば,いうまでもなく個々の個物が現実的に存在する,持続するといわれる形で存在するときの現実的本性です。これはこうした本性について,それが変化するといわれていることから明白です。これ以外のふたつの本性は変化はしないからです。
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