スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

異端の系譜&チルンハウス

2015-07-26 19:09:44 | 哲学
 レッシングGottfried Ephraim Lessingがスピノザを「死んだ犬」といったことを不自然な表現であるとみなしたのはイルミヤフ・ヨベルYirmiyahu Yovelで,それは『スピノザ 異端の系譜Spinoza and Other Heretics : The Marrano of reason』の中に見出せます。今さらという感じもありますが,この本の書評を掲載します。
                         
 まず総量が多いです。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』もかなりの分量がありますが,たぶんこちらはそれ以上。ですからただすべてを読むというだけでもそれなりに大変な作業になります。
 全体は二部の構成になっています。その構成は題名である異端の系譜と関係します。スチュアートMatthew Stewartの『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』というタイトルからも分かるように,スピノザは基本的に異端者とみなされます。ここでヨベルが示しているその異端の系譜というのは,ひとつがスピノザという異端に達する系譜で,もうひとつがスピノザから,あるいはこの場合にはスピノザの思想からという方がより適切でしょうが,それに端を発する系譜です。
 スピノザへと至る系譜のうち,ヨベルが最も重視するのは,スピノザの父がイベリア半島からオランダに逃れてきたユダヤ人であったという点です。このタイプのユダヤ人は,マラーノと称されていました。これはスペイン語で豚という語に関連しますので,蔑称であるといえるかもしれません。高山宏が「豚のロケーション」という論文を書くとき,豚はマラーノを意識していたことになります。このマラーノの性質を抜きに,スピノザの思想,スピノザという人間は考えられないというのがヨベルの見解です。
 スピノザから至る系譜では,幾人かの思想家のスピノザ哲学への取組が検討されています。カントImmanuel Kant,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegel,マルクスKarl Heinrich Marx,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche,フロイトSigmund Freudの5人には1章ずつが充てられ,ほかにハイネChristian Johann Heinrich HeineとヘスMoses HessとフォイエルバッハLudwig Andreas Feuerbachの3人がひとつの章でまとめて語られています。この3人はヘーゲルからマルクスへ繋ぐために必要だったというように僕は解しました。
 読むのは大変ですが,参考になる部分というのが必ずやあるであろう一冊だといえます。

 ライプニッツとレーウェンフックを最初に結び付けたチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは,ドイツ人貴族でしたが,1668年,たぶん数学を学ぶためにライデン大学に入学し,オランダに住むことになりました。1651年産れですから,17歳のときです。オランダが気に入ったようで,1672年にフランスがオランダに侵攻したとき,志願してオランダ軍の一員として戦いました。参戦前か参戦後かは分かりませんが,同じドイツ人でアムステルダムAmsterdamで開業していた医師のシュラーGeorg Hermann Schullerと出会ったと推測されます。ふたりが友人であったことは,シュラーからの『スピノザ往復書簡集Epistolae』書簡七十から確定できます。シュラーはスピノザの信奉者でしたから,チルンハウスはシュラーを通してスピノザを知ったと思われます。
 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の草稿を読ませることを禁じた書簡七十二の内容から,僕はスピノザが草稿を読むことを許可した人物は,少なくとも1度はスピノザと面会していると考えています。チルンハウスがスピノザに送った最初の書簡五十七の内容は,それが書かれた1674年10月8日の時点で,チルンハウスが草稿を読んでいたことを強く窺わせます。ですから少なくともこれ以前に,スピノザとチルンハウスは1度は会っていると僕は考えます。
 スピノザが書簡をやり取りした相手の中で,チルンハウスというのはなかなか有能な人物であったように思えます。なので,チルンハウスが草稿を読んで疑問を感じたならば,それほど時間を置かずに質問するのではないかと思います。したがって,チルンハウスが草稿を入手したのは,書簡五十七の直前,1674年の8月とか9月であったのではないかと僕は考えています。
 チルンハウスの才能に関しては,面会してある程度の話をしたら,スピノザには理解することができたのではないかと僕には思えます。ですからチルンハウスが草稿を入手する以前にスピノザと面会したのが1度だけであった可能性もあると思います。草稿を入手するといっても,現在のように手軽にコピーできるわけではなく,すべてを書写する必要があるのですから,1度だけでも,十分な時間であったと思います。
コメント
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