スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
優勝候補の一角だった武田が初日に失格という波乱の幕開けとなった富山記念の決勝。並びは新田-菊地の北日本、浅井-金子-北野の中部、川村-村上の京都で野田と松川の九州は連携せず単騎。
金子がスタートを取って浅井が前受け。4番手に川村、6番手に松川、7番手に新田、最後尾に野田で周回。残り3周のホームの出口から新田が野田まで連れて上昇開始。バックで浅井を叩きました。これに川村が松川まで連れて続き、ホームでは新田を叩いて前に。引いた浅井が即座に巻き返し、スイッチした松川まで4人が前に。浅井はそのまま緩めず先行。打鐘前のバックでは松川の後ろに川村、切り替えた野田が村上の後ろに入り、新田が後方という隊列に。新田はこの位置から発進。菊地はマークしきれず単騎に。ほぼ1周かけてバックで前まで迫りましたが、金子に番手発進されて一杯。代わって外から自力を出した村上が襲い掛かりましたが、さすがに楽な競走になった金子に迫るところまではいかれず、振り切った金子の優勝。4分の3車身差の2着に村上。結果的に村上追走になった野田が半車輪差で3着。
優勝した愛知の金子貴志選手は5月の松阪記念以来となる記念競輪7勝目。富山記念は初優勝。浅井の先行はこのメンバーだと考えにくいと思っていた展開。ところが予想外に早い段階で発進。脚力はありますから、あれではほかのラインが追い付くのに力を要します。最大の敵と目された新田に迫られたのも残り半周の付近ですから、そこから出ていけば当然ながら有利。流れ上のものであったのかもしれませんが、浅井の走行が、金子を優勝させるためのものになりました。逆にいうなら金子はそれだけの信頼を得ているということでしょう。
2月1日、土曜日。事前の予定通り、午前10時過ぎに従兄が迎えに来てくれました。同乗してまずは寺へ。同じ区内で、通夜と葬儀を執り行ったセレモニーホールよりも近いですから、10分も後には到着です。法要は11時から。
N伯父の法要をここで行うのは当然ながら初めて。ただ、N伯父の妻で、父の次姉の法要は何度もここで行ったことがあります。そのとき、ここの本堂は畳敷きで、座布団に座る形でした。でもこの日は椅子が用意されていまして、着席しての法要でした。高野山真言宗で読経は35分ほどでした。
続いて納骨のために墓地へ。墓地も同じ磯子区内ですが、金沢区や港南区、栄区とも接している辺り。僕の家は同じ磯子区でも、中区や南区に近いですから、端と端といった関係にあり、かなり遠いです。ここにも何度か来ています。最初に来たのは先述の伯母の納骨のとき。これはアサクサキングスが菊花賞を勝った日でしたから、2007年10月21日だったことになります。墓地までは別の従兄、「永久欠番」で紹介した伯父の次兄の乗用車に同乗させてもらいました。到着したのは正午過ぎ。
納骨を終えて墓地を出たのは午後12時40分頃。この後、精進落しが予定されていました。これは金沢区内にある料亭。建物自体が文化財になっているような立派なところで、おそらくこのようなところで食事をするのはこれが最初で最後になるのではないかと思いました。到着したのは午後1時過ぎ。部屋から見える庭も大変に広いもので、このときは紅梅と白梅が共に咲いていました。
料亭で、この建物と庭ですから出てきたのは日本料理。順に出てきますのでどこで終るかが不明ですし、インスリンを注射する身としては悩ましいところ。ただ、通常の場合、昼は0.08㎎のヒューマログですが、こうしたときはすべてを食せば足りないのが目に見えていますので、少し多めに打つようになりました。U先生はむしろそのようにした方がいいという考え方で、僕もその影響を受けたわけです。
お開きとなったのが午後3時40分頃。寺以降ずっと同乗させてもらっていた従兄に家まで送ってもらいました。帰宅は午後4時20分頃でした。
小説の登場人物は作家本人ではありません。同様に楽曲の歌い手は歌手本人ではありません。たとえその歌の作詞家や作曲家が歌手本人であったとしても。楽曲の創作には、歌い手の創作も含まれると僕は考えます。
ひとりでも私は生きられるけど
でもだれかとならば 人生ははるかに違う
強気で強気で生きてる人ほど
些細な寂しさでつまずくものよ
かつて紹介した「誕生」はこのように始まります。この部分に歌い手の属性の規定が含まれます。この歌い手はひとりでも生きられる、しかしちょっとした寂しさで躓いている人間です。
本当は逆なのかもしれません。寂しさで躓くことを悟られたくないために、強気に、ひとりで生きることを選ぶのかもしれません。どちらが先でどちらが後かは分かりません。けれどこの心情は、一方が他方を他方が一方を、より強めていくことは確からしく思えます。
こうした属性の人間が歌い手であるから、歌そのものの説得力が増すように思えてきます。
Remember 生まれた時
だれでも言われた筈
耳をすまして思い出して
最初に聞いた Welcome
Remember けれどもしも
思い出せないなら
わたし いつでもあなたに言う
生まれてくれて Welcome
歌の種別でいえば、「泣きたい夜に」とか「MEGAMI」の系列といえます。それらとの比較でいえば、歌い手の規定が、この歌では際立っています。
1月11日。妹の土曜出勤でした。この日はレクリエーション。午前中がビンゴ大会。昼食を挟んで午後からはカラオケでした。事前に配布されたプリントには、このカラオケは紅白歌合戦と表記されていました。あるいは勝ち負けを競うような内容であったのかもしれません。
1月12日、日曜日。この日は今年最初のピアノのレッスン。午後3時半からでした。
1月14日、火曜日。この日から妹が2泊3日のショートステイに。13日の月曜日が成人の日で休みでしたから、荷物をもっていっておくことができませんでした。なのでこの日の朝に迎えの支援を依頼しました。南区内の施設を利用しています。
1月20日、月曜日。妹が作業所を欠勤しました。気持ち悪さを訴えたためです。この日だけで、翌日からは出勤することができました。
1月25日、土曜日。2度目のピアノのレッスン。この日は午後4時半から。
1月26日、日曜日。この日はガイドヘルパーを利用。カラオケです。いつも行っている本牧町のカラオケボックスは、事前に予約を入れているようです。しかしこの日は入れ忘れてしまい、行ってみたところ満員で入室できなかったとのこと。それで関内まで出向いて、初めての店でのカラオケになったそうです。この日は1月にしてはかなり暖かな陽気でした。ところが午後から急に雲行きが怪しくなりまして、夕方には雨に。まさか降るとは思っていませんでしたから傘を持たせてなく、濡れてしまいました。
1月30日、木曜日。夜になってから僕の従兄、N伯父の長男から電話がありました。翌々日にN伯父の四九日法要と納骨が予定されていまして、その確認の電話です。法要を営む寺は、磯子区内ですが、自動車でないとやや不便な位置で、僕たちはタクシーを利用していました。しかし当日は従兄が迎えに来てもよいとのことでしたので、それに甘えることになりました。実際に詳しい話をしたのは僕ではなく母です。
『漱石日記』の⑧には、皇室関連の言及がいくつかみられます。
1912年6月10日、漱石は能を観ました。明治天皇をはじめ皇室も列席していました。皇后と皇太子が喫煙したことに関連して、我々は禁煙なので、遠慮するか、そうでないならば自分たちにも自由に喫煙させるべきだという主旨のことが書かれています。また、皇室は神の集合ではなく、親しみやすくして国民の敬愛を得るのが、制度が長持ちする方法であるという主旨の記述もあります。
7月20日、明治天皇が昏睡状態になったと報じられました。この日は隅田川の花火大会の予定でしたが、中止になりました。当局からの指令であったようです。これについて漱石は、非常識であると非難しています。天皇の病気に直接的に害を与えないようなすべての行為は許容されるべきであると書かれています。
6月10日の分には、皇室に対して丁寧なことばを用いればよいと思っている人が多いけれども、それは本来の意味で敬愛の情ではない。ぞんざいなことばを用いると不敬罪に問うけれども、これでは本当に不敬な人間を問うことはできないので馬鹿げたことだとあります。
7月20日の方には、当局を恐れたり、野次馬を恐れて物事を自粛するのは、表面上は皇室に敬意を表しているように見えるけれども、その実は心のうちに不平や恨みを蓄えるような結果になりかねないとあり、だから自粛を強要すべきではないとしています。いわんとするところはどちらも似ているように僕には思えます。
日記という、公開することを前提としていないものであるから、漱石がこうしたことを書くことができたのか、それとも一般的に、このような言論というものが許される時代背景であったのかは分かりません。ただ、日記という形式で書かれているのですから、漱石の本音に近いものであったのは間違いないでしょう。当局の強要が何の意味ももたないこと、市民が他に追随して自分の考えを貫かないのは危険であると漱石が考えていたということを、これらの内容がよく表しているといえると思います。
1月5日、日曜日。母と妹は美容院へ。6日の月曜が妹の仕事始めでしたので、これに合わせたものです。
1月8日、水曜日。僕は川崎に出ました。この日、巡回中の警察官に声を掛けられました。こうした経験は2度目。まだ大学時代、アルバイトで遅くなった帰りに、警官から声を掛けられるということがありました。そのときは同じバイト先の高校生と一緒でした。アルバイトに限らず、学生時代はこれくらいの時間に出歩くことはしょっちゅうでしたから、今から考えるとなぜこのときだけ声を掛けられたのか不思議な気がします。もっとも、出歩いたからといって必ず警官に出会うというわけではありませんから、たまたまであったというほかありません。
この日に声を掛けられたのは、事情がありました。前日に、川崎で取り調べを受けていた容疑者が逃げ出すという事件があったのです。このことは大きく報じられましたから、ご存知の方も多いでしょう。その容疑者に関する質問を受けたというわけです。僕は前日は関内でしたので、何も知っていることはありません。数分で警官との話は終りました。
容疑者に逃げ出されるというのは失態で、建物の構造に問題があるともいえるでしょう。ただ、僕が考えるに、実際に建物が脱出可能になっているかどうかということより、容疑者に逃げ出せそうだと表象させることの方が問題だと思います。建物そのものには問題があったとしても、容疑者が逃げ出すことは不可能だと表象するなら、こうした事件は起きません。なのでこうした場合の対策として、実際に逃げ出せないようにするというのはひとつの方法ですが、むしろ逃げ出すことが不可能だと思わせるように仕向ける方が優れていると思います。たとえ実際には逃げ出せなくても、逃げ出そうとするなら捕まえなければならず、手間が掛かります。しかし最初からその可能性を表象させないでおけば、そうした事態が発生することを防ぐことができるからです。個々の観念と個々の意志作用は同一のものであるとするスピノザの哲学からは、こうした方法の優秀性が導き出せるといえます。
なお、これもご存じの方がほとんどであると思いますが、このときに逃走した容疑者は、翌日となる9日の昼に、横浜市内で身柄を拘束されています。
有馬温泉で指された第55期王位戦七番勝負第五局。
羽生善治王位の先手で角換り相腰掛銀。先手が角を打った手に対応して後手の木村一基八段が反撃にいく将棋に。
後手が8筋を突き捨てたのに▲同歩が封じ手。そして後手が歩を垂らした局面。▲同香と取りました。これには両取りの△6三角しかなさそうです。▲8七金と香車を守るのも当然。以下、△4五銀右▲同銀△同角は一直線。先手は▲8三銀と飛車取りに打ちました。△9三飛と逃げるのも当然に思えます。
ここは先手に二通りの手段がありそうですが、指されたのは▲9四銀成の方。これも逃げるほかなく△7三飛でした。▲8四成銀と追撃。ここは逃げる一手ではなかったようですが△7一飛とまた逃げました。▲9一角成で駒損を回復。△3六角に▲3七馬と引きつけました。
ここは後手が勝つにはとても大変な局面になっているように思えます。先手の手順に対して後手はわりと必然手の多い展開でこのように進みました。もしかしたら後手の仕掛けが無理と結論される一局となるのかもしれません。
羽生王位が3勝目。第六局は来月10日と11日。
今日からしばらくは糖尿病共生記。前回は昨年12月19日、N伯父の葬儀の日まで。そこから開始です。
12月22日の日曜日。妹がガイドヘルパーを利用しました。この日はカラオケでした。
12月27日の金曜日。僕が歯科検診を受けています。年末のことなので、いつまで診療しているか分からず、おそらく24日の火曜日の午前中に本牧へ行った帰りに予約を入れたのではなかったかと思います。27日はまだ開業日で、10時の予約を入れることができました。行ってみたら受付にひとりいて、医師のほか、助手もふたりの4人態勢。大概は3人ですから、それよりも多かったわけで、何時でも予約することができたのではないかと思います。むしろ年末の忙しい時期にわざわざ検診を受ける人は少ないと思われ、時間があるならこういうときの方がよいのかもしれません。施術してくれた助手の方によれば、僕の歯茎は以前より引き締まっているそうです。そのために、それまでは手が届かなかった歯石も除去することができるようになったとのこと。そのためもあったかもしれませんが、この日は通常よりも時間が掛かりました。ずっと口を開け放していますから、施術後は顎に痛みが残るくらいでした。とはいえ、11時過ぎには家に戻っています。午後から長者町に。
12月28日から妹が冬休みに突入。とはいってもこの日は土曜ですから、事実上の冬休みのスタートは30日の月曜日であったというべきでしょう。
年が明けて1月3日の金曜日。母と妹が叔父の運転で墓参りに。大和にある祖母の墓参りだけの予定でしたが、時間に余裕があったので、日野の父の墓にも行ってきたとのこと。僕と母は行っていますが、妹が父の墓参りに行ったのは久しぶりのことでした。僕はこの日は新丸子へ行かなければならず、同行はできませんでした。
この日の夜に、台所の流しが詰まったようで、シンクに水が溜まってしまいました。業者に電話を入れて来てもらったところ、パイプの経年劣化により、油が詰まってしまったようです。午後6時半過ぎに来てもらったのですが、1時間弱の作業で、水が流れるようにはなりました。
JBCスプリントの指定競走になっている第21回アフター5スター賞。
好発はゴーディー。しかし内からコアレスピューマが激しく押して先手を主張。こちらに行かせて併走の2番手に控えました。その後ろはメリーウェザー、サトノタイガー、ハードデイズナイトの3頭。ミヤサンキューティ、ヤサカファイン、ジェネラルグラントも差がなく続き、アルゴリズムはその後ろ。前半の600mは34秒1のハイペース。
直線に入るとすぐにゴーディーが先頭に。その外から追ってきたのはサトノタイガーで、ここからはこの2頭のマッチレース。ほぼ並んでのゴールとなり、写真判定の結果、僅かに差してサトノタイガーが優勝。ハナ差の2着にゴーディー。3馬身差の3着争いも5頭による激戦でしたが、後方2番手から内から2頭目を追い込んだサトノデートナ。
優勝したサトノタイガーは前々走の川崎マイラーズ以来の南関東重賞2勝目。当時の相手関係はさほどでもなかったので、ここではどうかと思っていましたが、強い内容でした。勝ちタイムからスプリント戦が向いていたのもあるでしょうが、たぶん早いタイムでの決着になるようなレースの適性が高いのでしょう。ここでこれだけは走れたなら、今後はさらに楽しみではないでしょうか。父はキングカメハメハ。ナイトライト系シャダイプリマの分枝。祖母は1988年のテレビ東京杯3歳牝馬ステークスと1989年のクイーンカップを勝ったカッティングエッジ。半兄に2007年のシンガポール航空国際カップを勝ったシャドウゲイト。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手は6月の東京ダービー以来の南関東重賞制覇。アフター5スター賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師もアフター5スター賞初勝利。
今回の考察にあたっては、意図的に今までとは異なった方法の採用を試みました。簡単にいうなら、問題に対して、先に結論ないしは概要を提示し、後にそれを論証していくというものです。これはまとめを簡潔に済ませるという目的からです。読み返してみましたが、この方式のため二度手間のような形になっている部分も散見されますが、目的は概ね達成できているように思います。ひとつだけ、思惟属性の三様態に関連するところで、明らかに瑕疵がありましたけれども、関連事項の説明において、ある程度は補完することはできました。ですから今回のまとめは、結論だけを簡潔に述べるにとどめます。
第一部公理三のうち、弱い意味と強い意味の中の弱い意味は、無条件に公理として成立します。これに対して強い意味は、公理的内容は保持できません。ただしそこでいわれている内容の真理性は第一部定理一一により確保されます。
このことから、『エチカ』における因果性は、唯一でなければなりません。いい換えれば、第一部定理二五備考でいわれている事柄は、そのまま解釈されなければなりません。神が自己原因causa suiであるということと万物の起成原因causa efficiensであるということは同一の意味であり、その因果性だけが『エチカ』には貫かれます。
確かに表現上は二種類の因果性があります。たとえば第一部定理一六の因果性は、神が絶対に無限であることを根拠にします。一方、第一部定理二八の因果性は、神が絶対に無限であるということを根拠に据えることはできません。
しかしこれらは、数的に区別可能な因果性の存在を意味しません。有限であるものすなわち個物res singularisは、定まった存在を有する様態的変状に様態化した神の属性であるという意味において無限であり、またこの意味において、第一部定理二八備考にあるように、絶対に無限である神、あるいはその神の本性を構成する、自己の類において無限である各々の属性がres singularisの絶対的な最近原因であるからです。
これでこの考察は終了。明日からはまた糖尿病共生記です。
⑧-2の第2図まで進んで後手の作戦負けですが、将棋はそれで勝負が決するほど簡単なものではありません。この将棋はその後、意外なところで決定的な差がつきました。本来の主旨から逸れますが、その局面だけ紹介しておきましょう。
先手が▲6五銀と出てきたので歩を受けるために飛車が浮いた局面。先手は▲6六角と上がりました。△9四飛はこの一手で▲9六歩と追撃。そこで△5五角もこの一手。▲9五歩には△6六角▲同歩△8四飛で飛車の生還が可能。先手は▲3五歩と攻め味をつけ、対して後手も同じように△7五歩。▲同歩で角の利きも止められましたから、損のない一手であったといえそうです。さらに△8六歩。
この手が悪手で、差が開くことになります。▲同歩に△3五歩と手を戻しましたが、自戦記にあるように、8筋には手をつけずに戻しておくべきでした。以下▲2五桂△3四銀の交換を入れてから▲8五歩と伸ばしたのが後手の突き捨てを逆用した好手。
▲9五歩の受けがありません。△2五銀▲9五歩△1九角成▲9四歩で2枚取ることはできましたが、後手の玉型は飛車に弱く、そのまま先手が押し切ることになりました。
突き捨てというのは、プラスの面とマイナスの面があり、プロなら読めばある程度の目算は立てられます。この将棋は少しでも時間があれば△8六歩はマイナス要素が大きいことが分かった筈。早指し特有の悪手といえると思います。
有限であるものは無限ではないというテーゼが、スピノザの哲学において偽の命題と理解し得るということが明らかになりました。僕の論証のように、個物res singularisとは定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した属性であるとするなら、この限りで有限なものは、属性が無限であるといわれるのと同じ意味において無限であることになります。一方、別の論証のように、res singularisは間接無限様態であると解するなら、有限なものは間接無威厳様態が無限であるといわれるのと同じ意味において無限であるということになります。
このことから、無限であるものに特有の因果性は、同時に有限であるものにも該当するような、唯一の因果性でなければならないということが帰結します。そして無限であるものに特有の因果性とは、絶対に無限である神が、神自身を産出するような因果性をおいてほかにはありません。これは作出原因と起成原因を概念の上で分離させたときの、作出原因のひとつに該当します。スピノザはこの意味においての作出原因としては、自己原因causa suiと起成原因causa efficiensだけを認めます。
スピノザはこのような前提の上で、第一部定理二五備考で、神が自己原因であるというのと、神がすべてのものの原因であるということは同一の意味であるといったのだと僕は考えます。したがって、いかに表現上は二種類の因果性というのが『エチカ』には散見するとしても、それを数的に区別することが可能な因果性であると理解するのは、誤りであろうと思います。
因果性を永遠の相と持続の相に分節するなら、持続の相の因果性は永遠の相の因果性の一種です。また、垂直と水平に分節するならば、水平の因果性は垂直の因果性の一種です。そしてそれが一種であるということは、有限であるものが、定まった存在を有する様態的変状に様態化した属性とみられる限りにおいて、無限であるものの一種であるとみられなければならないということと、同一の意味であると僕は考えます。
以上が因果性に関する僕の最終的な結論です。これで今回の考察は終了。今回はある意図をもって考察をしてきましたので、この後のまとめはごく簡単なものになります。
『個と無限』を読了しました。
論文集です。合計で6の論文。ただし第四章には付論があるので、実質的には7の論文ともいえます。
第一章の「「エチカ」第一部の二つの因果性がめざすもの」についてはすでに詳しく紹介してあります。
第二章はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausのスピノザに対する質問を巡っての論考。ここで佐藤がいっていることは、僕にはきわめて当然のことに思えました。チルンハウスの質問主意の理解に、解釈の相違が生じたということ自体が僕には不思議です。
第三章は平行論の同一個体について。僕が最も得るところが大きかったのはこの論文。同一個体が何であるかということについて、僕の見解と佐藤の見解は一致します。ただ、佐藤はこれを、スピノザによる第二部定理七の論証Demonstratioから説明しています。この説明の仕方が僕にはとても有益でした。
第四章は、『エチカ』で神秘的ともいわれる第五部、とりわけその後半部分に関する考察。単純にいうとスピノザは第五部定理二三で、人間の精神mens humanaの中のあるものaliquidは、身体corpusの死と共に破壊されないという主旨のことをいっています。佐藤はここで、あるもの、という語句に注視していますが、これは僕にとって新しい見方でした。
付論は「人間と動物」というタイトル。ある種のエコロジーとスピノザ哲学の関連性の探求です。
第五章は第四部の問題という副題がついていますが、これは主に正義justitiaとは何であるかを巡る考察といえます。
本論とは無関係ですが、この第五章の冒頭に、ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの『悲劇の誕生』の一節が、ドイツ語で記されています。何の解説もないので、どの部分であるか調べるのに苦労しました。論文は僕のような門外漢の目に触れることはないでしょうが、本にまとめるなら何らかの説明を入れてほしかったです。第九章の最後の部分。岩波文庫版の秋山英夫は「すべて現存するものは正当で、また不当である。そしてそのどちらにも同じ権利がある」と訳しています。
第六章はスピノザの方法論について。スピノザ哲学の方法論について説明し出すと大変なので、そういう内容であるということだけをいっておくことにします。
もうひとつ、第二部定理一一と第二部定理一一系から、現実的に存在するすべての個物res singularisの観念ideaは、神Deusの無限知性intellectus infinitusの一部であるということが帰結するというのが僕の考え方です。これについても多少の説明を与えておきます。
ここで無限知性の一部であるというとき、それは無限知性の部分であるという意味ではありません。第一部定理一三備考から、直接無限様態を部分に分割することが不可能であるということは、間接無限様態に関してそのことを論証したのと同じ理由によって帰結するからです。ここではスピノザは部分とはいわずに一部といっていますが、たとえ部分という語句を用いていたとしても、そのように解することはできません。
ではこの一部というのは何を意味していると考えればよいのでしょうか。ごく簡単にいうなら、それはどのような個物の観念であったとしても、それは神の観念idea Dei、いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性と関連付けて理解することができるということです。そしてその関連付けの様式によって、第二部定理一一系の具体的意味というのが発生してくるのです。
このことはおそらく、スピノザの認識論の特徴のひとつである、主体の排除ということと関係します。一般に僕たちは、たとえばAがXを認識するcognoscereというとき、Aの精神mensがXを認識するというように理解します。そのこと自体がひどく間違っているとは僕はいいません。しかし実際にはそれは、無限知性あるいは神がある認識作用を行っているということなのであり、Aの認識の様式によって、その作用の神の観念との関連付け方に変化が生じるということなのです。とりわけこのことは、AがXを十全に認識するという場合に明瞭になります。これはAからみれば、Aの精神のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるという事態です。しかしこの観念は、無限知性のうちにあるXの観念そのものなのです。つまりこの意味において、認識しているのはAではなく、無限知性そのもの、あるいは神それ自身と理解されるべきなのです。
これで、僕が加えておきたいと考えていた関連事項の説明はすべて終了しました。
地元のエースの師弟コンビが中心に展開した豊橋記念の決勝。並びは木暮-浦川の関東、新田-勝瀬の南関東、深谷-金子の師弟、稲垣-池田の西国で山田が単騎。
取り合いのような形になりましたが誘導の後ろに入ったのは金子。外を勝瀬が追い上げ、新田も上がって内の金子と外の新田で併走。最終的に金子が譲り、前受けは新田。3番手に深谷、5番手に木暮、7番手から稲垣で山田が最後尾の周回。残り3周の3コーナーを過ぎてから山田まで連れて稲垣が上昇。ホームで深谷の隣まで上がると深谷は素早く引きました。新田は誘導を斬らなかったので、勝瀬と稲垣の車間はやや開いていましたが、打鐘前から稲垣が踏み込み先行の構え。新田が池田をどかして番手狙い。しかし引いていた深谷のかましのスピードが圧倒的で、ホームで稲垣を叩くと金子とふたりで後ろを離して早くもマッチレースモードに。そのまま逃げ切った深谷が優勝。マークの金子が半車身差の2着で地元の師弟コンビのワンツー。3番手から懸命に追い上げた稲垣を、バックで外から新田に競り勝って追った山田が外から差して4車身差で3着。
優勝した愛知の深谷知広選手は前回出走のサマーナイトフェスティバルから連続優勝。記念競輪は5月の平塚記念以来で通算8勝目。豊橋記念は初優勝。2日目の優秀競走は失敗した感じ。なのでここは早めに引いてすぐに巻き返しにいく競走をするだろうと思っていましたが、その通り。こうした走行では番手の金子に差されることもあるいはあり得るかと思っていましたが、ほとんど差を詰めることさえ許しませんでした。金子が昨年ほどのできにはないということもあるのでしょうが、非常に強い内容だったといってよいでしょう。別ラインに二段駆けがあるようなメンバー構成でない限り、負けることは考えにくいと感じさせる最近の走りです。
第二部定理九別の証明から、なぜ僕が思惟属性の三様態をこのように理解するかが説明できます。もっとも、思惟の属性の直接無限様態が神の無限な観念であること、あるいは同じことですが神の無限知性であるということはスピノザ自身がいっていることです。一方、思惟の属性の有限様態が個物res singularisの観念でなければならないことは、だれの目からみても明白でしょう。ですから実際に最重要課題であるといえるのは、ひとつは思惟の属性の間接無限様態をどのように理解するのかということであり、もうひとつは、その間接無限様態と無限知性の関係がいかなるものであるのかということです。
このうち、思惟の属性の間接無限様態が、第二部定理九系でいえば、その無限な連鎖をひとつの全体として積極的に理解した思惟の様態でなければならない理由というのはすでに説明した通りです。そしてこのことが、観念の複合の無限連鎖を積極的に理解したなら、同じように成立しなければならないと僕は考えます。そうでなければ僕が把握するような第二部自然学②補助定理七の意味というのは、成立しなくなるからです。この場合、一方は思惟の属性についての説明で、他方は延長の属性についての説明であるという相違があることは、あまり関係がありません。res singularisの複合の無限連鎖はどの属性でも成立しなければならないことはすでに示した通りです。そのときに、その複合の仕方の秩序というのは、どの属性においても同じでなければならないからです。
次に、神の無限知性のうちに、そのような仕方で示される思惟の属性の間接無限様態の十全な認識があるということは、原因の十全性と観念の十全性との間に不可分な関係があるということから明白だということも、すでに説明したことです。そしてこの説明を援用すれば、思惟の属性の間接無限様態を十全に認識し得るような知性としては、無限知性が唯一であるということもまた明白であるといえるでしょう。知性が結果に対して十全な原因である場合にのみ、知性はその結果を十全に認識します。間接無限様態の十全な原因は直接無限様態だからです。
馬場の小橋建太への指導がどのようなものであったかは、小橋自身がその一端を明かしています。
小橋の入門は1987年。田上明と同年になります。田上は大相撲での実績があったため特別扱い。馬場が直々に指導することもあり、小橋はその練習台でした。大きな体格でしたから、田上の相手に小橋は適任であったのでしょう。小橋自身は悔しさはあったけれど、自分の練習にもなっていたと回顧しています。
ハル・薗田が事故死した後、馬場を追うテレビ取材を付き人が制しきれなかったことにカブキが怒り、12月に小橋を馬場の付き人にしました。馬場は小橋が勝手に付き人となったと怒り、一緒に行動はしませんでした。付き人としての仕事は段々とさせてくれるようになったけれども、会話はなかったと小橋は証言しています。ただ、その仕事のうち、シューズやタイツの用意と洗濯のほかに、風呂で背中を流すというのがあったそうです。ずっと後の入院中の看護の状況から推測すれば、ある程度の信頼は得ていたとみていいように僕には思えます。
バトルロイヤルでのプレデビューの後、本格的なデビュー戦となったのが1988年2月26日。この日の夜、馬場は初めて小橋を食事に誘い、労いのことばを掛けたそうです。試合時間は4分48秒と短いもの。それでも小橋はこの試合が最もきつかったと回顧しているもので、試合後の馬場のことばに涙が出そうになったと語っています。
この日以後、馬場は小橋を食事に誘うようになりました。その中のアドバイスとして、プロレスラーとしての心構えとか、トップに立ったときにどのような行動を取るべきかというのがあったそうです。佐藤と藤波について書いたときに紹介した、佐藤昭雄への指導とは、同じ付き人に対するものでも内容が大きく違っています。これは馬場が後に小橋がトップに立てると考えていたからでしょう。
小橋は3ヶ月後には外国人選手とも戦うようになりましたし、半年後には馬場とタッグを組んでいます。入門時の期待はさほどでもなかったと思われますが、その後の姿勢で、馬場の心に大きな変化があったのだと思います。
第二部定理九系は、Xの内部で起こることの観念は、Xの観念を有する限りで神のうちにあることを示します。これでみれば、ある属性の間接無限様態の中に起こることの観念は、その間接無限様態の観念を有する限りで神のうちにあるように思われます。思惟の属性の直接無限様態である神の無限な観念ないしは神の無限知性は、属性の間接無限様態を認識します。いい換えれば、属性の間接無限様態の観念は、神の無限な観念が存在する限りで神のうちにあると、神と関連付けられなければなりません。そして属性の間接無限様態の内部では、無限に多くの事象が生じます。現実的に存在する個物res singularisが存在や作用に決定されることは、その無限に多くの事象のうちに含まれると考えるべきだと僕は考えます。しかしそのことの観念は、無限知性と関連付けられる限りで神のうちにあるのではなく、ほかのres singularisの観念を有する限りで神のうちにあるのです。これは矛盾めいていますが、実際にはそうではないのです。
第二部定理九系で、観念対象ideatumの中に起こることといわれていることは、そのideatumの本性および形相に影響を及ぼすようなことだけを射程に入れています。第二部定理一二を新しく考察し直したとき、僕はこのことを根拠にして、現実的に存在する人間の精神は、自分の身体の中に起こるすべての延長作用を、十全にであれ混乱してであれ認識するということと、現実的に存在する人間の身体を構成する部分の中には、その人間の精神によっては十全にも混乱しても認識され得ない多くの事柄が起こるということは、両立するのだと結論しました。ここでもこれと同じように説明されるべき事柄が発生しているのです。間接無限様態の内部では、res singularisは無限に多くの作用をなします。しかしその作用は、間接無限様態の本性と形相に影響を及ぼすことがない作用です。したがってそのことの観念は、間接無限様態の観念を有する限りで、すなわち無限知性と関連付けられる限りで神のうちにあることはできません。第二部定理九は、このような一種の背理法によっても証明が可能なのだと僕は考えます。
デカルトには,創世記との関連で,超えてはならないと自覚していた一線があったように思えます。同様にドストエフスキーの転向も,死刑を免れたドストエフスキーにとって,作家として生きていくために,踏みとどまっていることを対外的に示すための一線であったのかもしれません。
一線ということばは,ロシア語ではある特別の意味をもっているのだそうです。そしてそのことばは,『罪と罰』では,特別の使われ方をされているそうです。何冊かの本で読みましたが,ここでは謎ときシリーズの『謎とき『罪と罰』』の説明を使用します。
『罪と罰』の罪は,ロシア語でプレストゥプレーニエです。この語源は,プレストゥピーチという動詞。この動詞は古い語形で,現代ではペレストゥピーチと発音されるようです。この動詞は,またぐとか,踏み越すといった意味。つまり一線を超えるという場合にも使用可能な動詞だそうです。
第一部の1,小説のほぼ冒頭,ラスコーリニコフは後の殺人のための下見に,老婆の家を訪れます。このとき,敷居をまたいで暗い控室に入った,と新潮文庫版には書かれています。ここでのまたぐという動詞が,ペレトゥピーチ。つまりここにすでに,ラスコーリニコフが一線を超えること,罪を犯すことが暗示されているといえるようです。
キリスト教との関連で,ラスコーリニコフの場合を紹介したとき,ソーニャはラザロの復活を音読しました。これは第四部の4。朗読を終えたソーニャとラスコーリニコフは話をします。その中に、きみだって踏みこえた……踏みこえることができたんだ、というラスコーリニコフのことばがあります。
ここで踏み越えるということばをラスコーリニコフが使用したのは、自分が殺人という罪を犯した人間であるのと同様の意味で、ソーニャも罪を犯した人間であると考えていたからだといえそうです。ラスコーリニコフが罪の告白の相手としてソーニャを選択した理由のひとつだともいえるでしょう。ラスコーリニコフとソーニャは、ラスコーリニコフからみて、同じ種類の人間であったのです。
現実的に存在する個物res singularisの観念は、どのように関連付けられれば、神のうちで十全であるといえるのでしょうか。その答えは第二部定理九にあります。現実的に存在するほかのres singularisの観念に変状した神、あるいは思惟の属性と関連付けられる限りで、この観念は真であり十全なのです。つまり現実的に存在するres singularisの観念は、その観念を存在と作用に決定する別のres singularisの観念を有する限りで神のうちにある、神のうちで十全であることになります。
なぜそのように関連付けられなければならないかは、スピノザがこの定理を論証している通りです。しかし、定理の配置というのを無視して考えるならば、この理由は、もっと別の仕方で説明することが可能であると僕は考えています。それは第一部定理二二、とりわけそこで間接無限様態が永遠であるといわれていることを根拠にする方法です。
思惟属性の間接無限様態は永遠です。僕はスピノザの哲学には永遠の一義性が成立するという考えですから、それは思惟の属性が永遠であるといわれるのと同じ意味において永遠でなければなりません。
あるものが永遠であるといわれるとき、一般にその本性にも永遠性が含まれます。第二部定義二により、事物とその本性は一方がなければ他方が、他方がなければ一方が、あることも考えることもできない関係にあります。したがって事物が永遠性を有するなら本性も同様でなければなりません。
もしも事物の本性に永遠性が含まれれば、その事物の形相もまた永遠です。このことは認識論的に考えればよく分かる筈です。観念対象ideatumの本性が同一であるのにideatumの形相は異なるというのは不条理です。何より観念そのものの本性が同一であるのに観念の形相が異なるといったら、これは矛盾以外の何ものでもないからです。第二部定理三七が暗示しているように、共通の性質が異なった事物の本性を構成するということはありません。
これらのことから、一般に間接無限様態は不変の形相を有することになります。延長の属性については、スピノザ自身がこのことを認めています。
博多で対局があった第55期王位戦七番勝負第四局。
木村一基八段の先手で相矢倉。新手を出した後手の羽生善治王位から攻める将棋になりました。
△6六歩の叩きに歩を取りつつ金をかわした局面。△4六角と切りました。
金で取ると5七、飛車で取ると6七に銀を打つ手があります。▲同金と取っていますので、実戦の△5七銀の方がよいと先手は判断したのでしょう。以下▲4七飛△4六銀成▲同飛は一直線。そこで△5四桂と歩を支えつつ飛車取りに打ちました。
△5四桂は第1図でも打つことが可能な手です。つまり後手は同じ打つならこの局面で打った方が効果的と考えていたと推測できます。
飛車取りですから逃げる一手ですが、▲4七飛とひとつ引きました。すぐに△6七金と打たれる手を嫌ったからだと思います。後手は△5六金とまた飛車取りに打ち、▲2七飛に△5七歩と打ちました。
ここまで進むと後手からは確実な攻めが約束されています。部分的には手順に2筋に飛車を回った先手から、それ以上に早い攻めがあるのかがこの後の焦点。結果的には一手だけ追いつけず、後手の勝ちになっています。
羽生王位が2勝目をあげ、ひとつリード。第五局は来週の水曜と木曜です。
第二部定理八系では,個物res singularisが神の属性に包容されてのみ存在するとき,そのres singularisの観念は,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれています。いい換えれば,無限知性に関連付けられる限りにおいて,そのres singularisの観念は神の中で十全であるということになります。つまり思惟属性の間接無限様態の十全性の神への関連付けられ方と同じです。ここからも,間接無限様態をres singularisとみなしたり,逆に別の論証で僕がしたように,res singularisを間接無限様態とみなしたりすることの妥当性を帰結させることができます。
一方,res singularisが現実的に存在するようになると,この関連付け方でそのres singularisの十全性を確保することができなくなります。正確にいえば,現実的にres singularisの観念が存在するとみられる場合,あるいは同じことですが,持続すると説明されるべきres singularisの観念は,神の無限な観念がある限りにおいて神のうちに存在するのではありません。
第二部定理一一と第二部定理一一系からして,現実的に存在するres singularisの観念が,神の無限知性の一部であるということは疑い得ないと僕は考えます。しかしその一部である観念が,全体とみなされるような無限知性と関連付けられる場合には,神のうちで十全であるとはいえないのです。これは大きな矛盾に思われるかもしれませんが,少しもそんなことはありません。これは,かつて僕が自転車とタイヤというイメージを用いて説明したのと同じ事柄,あるいはそっくり同じではなくてもそれと似たような事柄が,無限知性と現実的に存在するres singularisの観念との間にも生じていると解することができるからです。この状況を詳しく調べておくことが,関連事項の中で,僕にとっての最重要課題です。というのはこのことが,思惟属性の三様態をどう把握するべきなのかということと,とても密接に関係してくるからです。
笠松から2頭が遠征してきた第11回スパーキングサマーカップ。ゴールドバシリスクが右前肢腱靭帯炎のため出走取消で13頭。
オベロンホワイト、ケンブリッジエル、パワーストラグル、ガンマーバーストの4頭が行く構えを見せ、最初の直線で5番手以降と差が開きました。結局、オベロンホワイトとパワーストラグルが並ぶように逃げ、ガンマーバーストが3番手に控えることに。さらにケンブリッジエルが続き、トーセンアレス、ミラーコロ、キスミープリンス、ジョーメテオ。最初の800mは49秒2で、ハイペースですが、縦長になった見た目ほどではありませんでした。
向正面でプレファシオが動いていこうとして、キスミープリンスとジョーメテオが対応。オベロンホワイトは直線入口までは頑張りましたが、ガンマーバースト、ジョーメテオ、キスミープリンスとの併走に。しかし競り合うこれらを内からトーセンアレスが捕えると、外を回った各馬に脚は残ってなく、抜け出したトーセンアレスが3馬身差で快勝。外を回った馬のうちジョーメテオが粘るところ、ミラーコロが急襲。しかしこれは届かず、2着はジョーメテオ。アタマ差の3着にミラーコロ。
優勝したトーセンアレスは一昨年の埼玉新聞栄冠賞以来の南関東重賞2勝目。翌年の1月にオープンを勝った後、3月のレースを最後にJRAに戻り、障害で1勝して、今年の5月からまた浦和に。2走して結果は出ていませんでしたが、調子を取り戻せば今日くらいのメンバーなら何とかなる実力の持ち主。純粋な能力は2着馬の方が上のように思いますが、距離適性はこちらが上位ですし、ロスなく内を回った騎乗も見事でした。もっと相手が強化されると微妙ですが、チャンスはまだあるものと思います。父はアドマイヤドン。祖母はキーフライヤー。Aresはギリシア神話の軍神。
騎乗した船橋の張田京騎手は1月の報知オールスターカップ以来の南関東重賞制覇。第1回以来10年ぶりのスパーキングサマーカップ2勝目。管理している浦和の小久保智調教師はスパーキングサマーカップ初勝利。
第二部自然学②補助定理七備考の意味は,これまでに考察してきた事柄のいくつかと関連性をもちます。現在の論考とは無関係ですが,これについては説明しておかなければなりません。
第一部定理二八とか第二部定理九で「無限に進む」といわれるとき,そこには積極的意味を発見することも可能です。これと同じことが,個物res singularisの複合の無限連鎖が無限に進むと表現される場合にも妥当します。つまりそれが無限に進んだとして,それを全体として解することができるなら,それはその属性の間接無限様態であることになります。
第二部自然学②補助定理七備考のテクストには意味上の切断があると理解しなければなりません。そしてこのことは,僕のように,res singularisは定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した神の属性であるということを根拠に,有限であるものは無限ではないというテーゼを偽の命題と解する場合,res singularisを間接無限様態とみなす別の論証の場合よりも,必要性が高くなる解釈であるといえます。しかし知性による認識に的を絞ったならば,確かにこの帰納法的説明は,無限に進むという表現を,積極的に解する余地を残しているといえるでしょう。
ここからは思惟属性の三様態で考えます。したがって,観念の複合の無限連鎖が全体として把握されるならば,それは思惟属性の間接無限様態であるということを念頭においてください。
この思惟属性の間接無限様態の認識は,神の無限な観念,いい換えれば神の無限知性と関連付けられる限りで,神のうちにあります。つまり、そう関連付けられる限りで真の観念であり十全な観念です。このことは第一部定理二二と第一部定理二三から明白であるといわねばなりません。というのは,無限知性は思惟の属性の直接無限様態であり,これらの定理のうちには,属性の直接無限様態は間接無限様態に対して十全な原因であるということが含まれているからです。原因の十全性と観念の十全性は分かち難く結びつきます。よって思惟属性の間接無限様態の十全な観念は,無限知性のうちにあるのです。
地方馬にもチャンスがありそうだと感じられた第14回サマーチャンピオン。
先手を奪ったのはエーシンビートロン。内を開けての逃げで、隊列が決まっての2番手は、内からズンダモチ、サイモンロード、ガンジスの3頭。アーリーデイズがその後ろで、あとはタガノジンガロ、ピッチシフター、追い上げたタイセイファントム。最初の600mが36秒0のミドルペースでした。
前の組からズンダモチとサイモンロードは脱落。必然的にガンジスがエーシンビートロンを追い掛けることになりましたが、逃げていたエーシンビートロンの方に余力があり、直線入口から引き離していって5馬身差の圧勝。外を追い上げたタガノジンガロ、苦しくなりながらも内で粘るガンジス、2頭の中を伸びるピッチシフターの3頭が熾烈な2着争い。写真判定となり、2着は中のピッチシフター。ハナ差の3着に外のタガノジンガロと、地方馬2頭が入着。ガンジスはアタマ差の4着まで。
優勝したエーシンビートロンは8歳にして重賞初挑戦で初勝利。今年の2月に準オープンを勝ち上がった後はオープン特別で3着を3回続けた後、前走で勝利。JRA勢では近況は最もよい馬で、ほかとの比較からチャンスありと考えられた1頭。この距離も最適でしたし、不良馬場ですんなり先行できた展開もよかったものでしょう。相手強化に対応可能かは未知数ですが、圧勝でしたから、楽しみは残ったといえそうです。母の父が1982年の菊花賞馬のホリスキーというわりに古い血統。高齢でも堅実に走っているのは、こうした血統背景も大きいように思います。Beatlonというのは会社の名前だそうです。
騎乗したのは武幸四郎騎手で管理しているのは西園正都調教師。サマーチャンピオンは共に初勝利。
第二部自然学②補助定理七備考の意味は,帰納的に示されています。思考方法として最善なのは演繹法です。ですから本当は逆方向で認識されるべきです。つまり,X属性の間接無限様態のうちで,X属性の個物res singularisがどんな作用をなしても,間接無限様態は本性と形相を維持するということが根拠となって,res singularisの複合の度合いが高まれば高まるほど,そのres singularisの内部で何らかの作用が発生しても,そのres singularisの本性と形相が維持される確率が高くなるということが結論されるのが,本来的な思考の筋道であることになります。
第二部自然学②補助定理七備考の意味を,僕が帰納的に示したのは,第二部自然学②補助定理七備考のスピノザによるテクストが演繹的にではなく帰納的に書かれているからです。それ以上の意図はありません。ただ,この方法が本来的ではないとしても,だから誤ったことを知性が認識しているというわけではないということは確かです。実際に知性は,僕が示したようなやり方で,任意にある物体を認識することにより,その物体が部分を構成する複合物体は,その内部での運動に影響されて,本性や形相を維持できなくなる確率が低くなるということを十全に認識できます。そしてこのことから類推して,間接無限様態の内部で無限に多くの運動が生じていても,本性と形相を維持するということを十全に認識することができるからです。そしてこのことは,どの属性においても成立するということも,十全に認識できるのです。
このように理解したときに,定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した神の属性が,間接無限様態であり,同時にres singularisでもあると規定する別の論証の考え方は,非常にマッチしているといえないでしょうか。res singularisとは間接無限様態の部分であるとはいえないけれども,間接無限様態のうちにあるものであり,かつほかのres singularisと協同してより複雑なres singularisを構成し,この関係が無限に連鎖していくものだからです。
『スピノザの世界』は,上野修によるスピノザの哲学の概説です。上野にはこれと対になるような著作があります。それが『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』です。
なぜ対になるといえるのか。それは一方が哲学の入門書であるのに対して,こちらは神学や政治学の入門書となっているからです。これはNHK出版の哲学のエッセンスというシリーズの中の一冊。あとがきで上野が書いているところによれば,執筆の依頼があったとき,いささかの躊躇があったそうです。それはまさにその時期に『スピノザの世界』の執筆中であったから。立て続けにスピノザの入門書を書くというのは無謀であるように思えたとのこと。ちなみに『スピノザの世界』のあとがきの日付は2005年3月で,発行は翌月。こちらのあとがきの日付は2006年6月になっていて,発行は翌月です。
僕は哲学に特化してスピノザを考えています。ですからこの著作に関しては,内容を評価することは差し控えます。ただ,スピノザ自身の関心をいうなら,むしろ政治論や宗教論の方に重きがあったとは思います。ただそれは,哲学的に解明されなければならないことです。ですから僕は,哲学というものが,スピノザが自己の関心を充足させるための手段のようなものであったとは少しも考えません。むしろスピノザが自身の哲学に則して政治論なり宗教論なりを考えていくことによって出した結論が,少なくとも同時代においてはスキャンダラスだとみなされてしまうようなものとなったというのが正しいでしょう。そしてそれは,現代の僕たちにとっても,画期的といっていいような要素を含んでいると思います。とりわけ宗教論に関するスピノザの方法論は,後の神学に対して大きな影響を与えるものであったことは間違いありません。
上野自身,躊躇したけれども書いてよかったという主旨のことをいっています。それは当然で,スピノザの哲学に関する入門書を書けば,宗教に触れるのはほぼ無理だからです。スピノザは普遍の正義など認めません。また第四部定理五〇は,憐憫を悪とみなします。スピノザ入門という意味では,2冊でセットだといえるでしょう。
第二部自然学②補助定理七備考のうち,存在するどんな物体も,ほかの物体と協同して,より複雑な物体を構成するということを暗に示唆している部分は,どのように解しておけば調整できるでしょうか。
僕の考えでは,この部分は,物体というのは複合していけばいくほど,つまりその複合の度合いが高まれば高まるほど,その物体の内部で何らかの延長作用が生じたとしても,その本性ならびに形相を維持していく確率が高くなるということを意味しています。このこと自体は当然のことです。たとえばAとBから構成されているCと,そのCとDによって構成されているEを比べたとき,Eの内部の方がより多くの延長作用が生じます。その延長作用のうちあるものは,たとえば第二部自然学②補助定理七に示されるような延長作用の筈です。ですから多くの物体によって諸部分を構成されればされるほど,その本性と形相には変化が生じないようなより多くの延長作用が,その物体の内部では生じ得ることになるからです。
意味上の切断は,この部分と,間接無限様態の内部で何が生じても,その本性と形相が維持されるという部分との間にあると考えておくのが最適です。すなわち,スピノザは物体の複合が無限に進むと延長の属性の間接無限様態になると解釈できるようなテクストを残していますが,この無限に進むというところに,ある飛躍が潜んでいるといえないでしょうか。知性は,物体の複合の度合いが高まるほど,その物体の内部で,その物体の本性と形相を維持するような延長作用が,その物体の内部で生じ得るということを,僕が示したような仕方で十全に認識します。このことから,延長の属性の間接無限様態の内部では,物体がどのような延長作用をしようとも,間接無限様態自体の本性と形相には何の変化も生じないということを,知性は類推するとか,結論付けるというような意味が,このテクストにはあるのだと僕は考えます。第二部定理四〇から,この結論は十全な観念でしょう。しかし同時に知性は,物体をどんなに複合していっても,それは間接無限様態ではないということも,十全に認識することが可能です。
このことが,あらゆる属性の間接無限様態と個物res singularisの間に成立すると僕は考えます。
記念競輪としては最上級といえるメンバーでの争いになった小田原記念の決勝。並びは新田に柏野、根田-桐山-林の南関東、浅井-村上-南の中部近畿で笠松は単騎。
南がさっとスタートを取って浅井の前受け。4番手に新田、6番手に根田で、単騎の笠松は南関東ラインを追走するレース。残り3周のホームの出口から根田が一気に上昇。新田も動いて笠松の後ろに入り、7番手に浅井となって一列棒状。根田はそのままほとんど緩めず、残り2周のホームからはスピードを上げて先行。新田は残り1周を過ぎてから動き出しましたが、林にうまく牽制され、スピードに乗りきれず。その間にバックから桐山が番手捲りを敢行。林と新田が競るような形になり、少し差が開いたこともあり、最後まで危なげなく優勝。林を極めた新田が1車身差で2着。新田マークの柏野が4分の3車身差で3着。
優勝した神奈川の桐山敬太郎選手はデビューおよそ11年で記念競輪初優勝。2007年にS級に特進してからはずっとその地位を守っていて、同年9月の初優勝以降、FⅠでは何度も優勝していますから、記念競輪はいつ勝ってもおかしくない力がありました。今日は根田が思い切りよく駆け、後ろの林もよい仕事をしてくれた上、流れ上ですが笠松もラインに続く競走となり、かなり恵まれたところはあります。トップクラスの実力をもっているとまではいえませんが、そこまでいく可能性は残っていると思いますし、たとえそうでなくても、記念を制覇するチャンスはまだまだあるだろうと思います。
第一部定理二八および第二部定理九でスピノザが「無限に進む」というとき,そこにある消極的意味を発見することが可能です。これと同じことが,個物res singularisの複合の無限連鎖を,「無限に進む」といい表したときにも生じると僕は考えます。なぜなら,任意に抽出されたどのres singularisも,他のres singularisと協同して複合個体を構成しますが,その複合個体自体は必ずres singularisなのです。これでみれば分かるように,この連鎖はたとえどこまで進めていったところで,最終的に現れる個体はres singularisであり,それ以外のものではあり得ません。いい換えれば,これを無限に進めていった先に間接無限様態があるというのは,間接無限様態がres singularisであるというのでない限り,論理矛盾です。
こう考えると,第二部自然学②補助定理七備考のテクストをどのように調整すればいいかが分かってきます。それはつまり,存在するどの物体corpusも,ほかの物体と協同でより複雑な物体を構成するということを暗に示唆している部分と,不変の形相formaを有する物体的自然について言及している部分に,意味上の切断が存在していると解釈することです。
まず,この考察の前提では,間接無限様態は部分に分割することはできません。ただし,だから間接無限様態の内部では何事も生じないのかといえば,そうではありません。その内部でどんな事柄が生じたとしても,間接無限様態はその本性essentiaおよび形相を維持するのです。文章は確かに物体が延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態の部分を構成するかのように記述されてはいます。しかし僕の考えでは,この箇所の主旨は,個々の物体は延長の属性の間接無限様態の本性および形相を維持するような仕方で,無限に多くの延長作用すなわち運動motusおよび静止quiesをするということだと理解します。このことは,延長の属性の間接無限様態にのみ妥当するのではなく,すべての属性において一致します。そしてこの意味において,間接無限様態が仮にひとつの個体ではあっても,res singularisではないと解します。