スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

レディスプレリュード&有と無

2011-09-30 18:31:25 | 地方競馬
 昨年までのTCKディスタフが重賞に昇格,第8回レディスプレリュードと名称も改められ,昨晩の大井競馬場で争われました。
 笠松のエーシンクールディがさっと先頭に立っての逃げ。クラーベセクレタが2番手につけ,カラフルデイズ,テイエムヨカドー,フレンチカクタス,ミラクルレジェンドといったあたりが差なく追走。ラヴェリータがその後ろ。最初の800mは49秒7で,見た目通りのスローペース。
 3コーナー手前でペースが上がりだし,テイエムヨカドーとフレンチカクタス,さらにカラフルデイズも後退。エーシンクールディはコーナーワークで直線入口でややリードを広げ,先に動いたラヴェリータがクラーベセクレタを交わして2番手。これを一旦は控えて外に持ち出されたミラクルレジェンドがまとめて交わして優勝。エーシンクールディは残り100mほどで止まり,これは捕えたラヴェリータが2着でエーシンクールディは3着。
 優勝したミラクルレジェンドは前走のオープンから連勝。重賞は昨年12月のクイーン賞以来の3勝目。その後は2着のラヴェリータに勝てませんでしたが,乗り方にも問題があったように思え,実力的には遜色ないか,こちらの方が上ではないかと考えていました。ここも1キロ軽い斤量でしたので,はっきりと上回ったとはいえないかもしれませんが,ゆくゆくは女王として君臨できる馬だと思います。おそらく新設のJBCレディスクラシックに進むでしょうが,ラヴェリータと共に有力馬となる筈です。父はフジキセキ。一族の代表はエルコンドルパサーキングカメハメハの父となるKingmambo。日本での活躍馬は2007年にファンタジーステークスを勝ったオディール
 騎乗したのは岩田康誠[やすなり]騎手で管理しているのは藤原英昭調教師。重賞としての初回にその名を刻みました。

 ここの部分に関しては,今回のテーマだけでなく,これまでの僕のスピノザの哲学の読解と関連して齟齬を来していると考えられるおそれがありますので,もう少し詳しく説明しておかなければなりません。
 まず,理性の有ないしは表象の有が有といわれているけれども実際には無であるということに関しては,『エチカ』でいえば第二部定理四九備考,岩波文庫版の上巻162ページにそれとなくほのめかされています。また『デカルトの哲学原理』の付録となっている『形而上学思想』においては,第一部第一章のほぼ冒頭の部分で,理性の有は有ではないということがはっきりと示されています。これらのことから勘案して,スピノザが理性の有ないしは表象の有を有ではなく無とみなしているということは明らかだと思います。
                         
 一方,僕はこれまで,十全な観念と混乱した観念の相違は,真偽という観点からは前者が真理であるのに対し後者は虚偽である,この場合は虚偽と誤謬を異なるものとした上での虚偽であるとみなし,一方,有と無という観点からは,前者は有すなわち実在的であるのに対して後者は無,すなわち非実在的なものであると解してきました。
 しかしこのことはあくまでも以下のことを前提にした上でのことです。第二部定理七系の意味は,神の無限知性を構成する各々の観念はすべて十全な観念であるということです。したがって混乱した観念は,あるとみなされるなら必ず有限知性の一部を構成するということになります。しかし実際にはこうした観念も,第一部定理一五,ないしは第二部定理一一系により,神の無限知性のうちにあるのです。したがってこの限りではこうした混乱した観念も十全であり,真理かつ有です。同じことは第二部定理三六からも帰結する筈です。したがって第一義的にはすべての観念は有なのです。それが無とみなされ得るのは,あくまでも神から切り離され,ある有限知性の一部を単独で構成するとみられる限りにおいてのことなのです。
 僕はこうした観点において,理性の有ないしは表象の有が無であるのに対して観念は有であるといっているのであり,またその点が理性の有および表象の有と観念とを分つ最大のポイントであると考えています。これらふたつの有と無の関係を混同しないようにしてください。
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大山名人杯倉敷藤花戦&理性の有

2011-09-29 18:51:53 | 将棋
 長く女流棋界を第一人者として牽引し続けている清水市代女流六段に,プロになってまだ2年弱の室谷由紀女流初段が挑むという新鮮な構図になった第19期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。
 清水六段の先手となり室谷初段のごきげん中飛車③Aに。先手が早々に2筋を交換したのに対し,後手は5筋の位を保ったまま交換を保留するという形に。
                        
 ここで☗2五銀と出たのに☖3三金と受けたので☗2二歩で先手の桂得が確定。これは先手の☗7八金型が最大限に生きたといえると思いますし,後手からすぐに2筋を反撃できるわけでもないので,すでに先手が優位に立ったといっていいように思います。必ずしも後手にチャンスがなかったというわけでもないようなのですが,先手はこの後も駒得を拡大していき,押し切っています。
 清水六段が挑戦者となり,倉敷に帰ることになりました。第一局は11月6日です。

 続けてスピノザは,このように特質proprietasによって事物を認識することは,円の場合のような図形とか,理性の有entia rationisに関しては実際にはそれほど問題にならないであろうということを述べています。
 『エチカ』では第一部付録,岩波文庫版で上巻の91ページの最後の行に表象の有entia imaginationisということばがあって,これが理性の有ということばの代用であるという意味のことが述べられています。一方,第二部定理四九備考では理性の有ということばが用いられていて,使い分けられているのかどうか,確たることは僕には不明です。ただここでは,『エチカ』における表象の有も理性の有も,共に『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の理性の有に該当すると考えておきます。『エチカ』では第一部定理四〇備考二で,理性ratioというのが第二種の認識cognitio secundi generisと明確に位置付けられていますから,何らかの混同を避けるために,表象の有といういい方をスピノザがしたのだとすれば,それは僕にとっては理解できないことではありません。
 ただし,理性の有を表象の有と置き換えるのだとしても,実際には同じような問題が発生しているとはいえます。たとえば,第二部定理一七の仕方で人間の精神mens humanaがある外部の物体corpusを表象するimaginariとき,この表象像imagoは第二部定理二五により混乱した観念idea inadaequataです。しかし混乱しているとはいっても観念であることは間違いなく,したがって第二部定理三二により,この表象像は神Deusと関係づけられれば真の観念idea vera,すなわち第二部定義四により十全な観念idea adaequataです。しかし,こうしたことは理性の有ないしは表象の有の場合には妥当しないと考えなければならないからです。そしてこの点が,理性の有ないしは表象の有と,十全な観念であれ混乱した観念であれ観念とを分つ最も重要なポイントであると僕は考えます。
 つまり,理性の有とか表象の有といわれるものは思惟の様態cogitandi modiであるという点では観念と何ら変わるところはありません。しかしこの両者の間には大きな差異があります。それは端的にいういなら,観念というのがある実在的なもの,すなわち有であるのに対して,理性の有とか表象の有は,有とはいわれているけれども実際には有ではなく無であるということです。
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農林水産大臣賞典東京盃&円の場合

2011-09-28 20:35:46 | 地方競馬
 伏兵と思われる馬が多く,馬券の面では面白いメンバーとなった第45回東京盃
 先行したい馬が揃っていました。好発はジーエスライカーでしたが,内からブリーズフレイバーがこれを制してハナに。ラブミーチャンが2番手に上がり,無理せず控えたジーエスライカーが3番手。ドスライスが内,セイクリムズンが外に続きました。前半の600mは34秒2のハイペース。
 3コーナーを回るとセイクリムズンが外から押し上げ,前の4頭は雁行状態で直線に。まず先頭に立ったのはラブミーチャンでこれを追うのがセイクリムズン。これを中団後ろからの追走になっていたスーニが最内から鮮やかに捕え,最後は1馬身ですが抜け出す形となって優勝。先行各馬の中では最も粘ったラブミーチャンが2着。勝ち馬よりさらに後ろ,後方3,4番手から大外を急襲したマルカベンチャーがセイクリムズンを交わして3着。
 優勝したスーニは先月のサマーチャンピオンから連勝となる重賞7勝目。行き脚がつかずに追走に汲々となり,伸び脚も一息というレースが今春から続いていたのですが,どうやらその頃は体調に問題があったのでしょう。最内が開いたのは恵まれた部分もありますが,この連勝は復調の証だと思います。1400mの方がレース自体はしやすいタイプなのではないかと思いますが,力はありますから,本番となるJBCスプリントでも有力となる1頭でしょう。曾祖母がファンシミンの妹。Suniはイタリアの地名。
 騎乗した川田将雅[ゆうが]騎手,管理する吉田直弘調教師にとっては東京盃初勝利。
                         

 これで,事物の定義が定義されている事物の発生を含まなければならないとスピノザがいうとき,なぜそれが定義される事物の直接的な起成原因だけで構わないのかということについては十分に説明することができたと思います。いい換えれば,僕は十全な観念は,観念されたものideatumの発生が含まれていなければならないと考えているわけですが,その場合の発生というのが,直接的な起成原因だけを含むだけで十分であると考える根拠を示すことができたということになるでしょう。そこでここからは,そもそもなぜ定義が定義された事物のそうした発生を含んでうなければならないのかということを考えていくことにします。ここまでは球の観念の発生というのを題材に考察してきたわけですが,スピノザは残念ながら球に関してはこれを詳細には説明していません。しかし『知性改善論』の(九五)と(九六)で,円を例にして詳述していますから,ここではその部分を検討していくことにします。
 まずスピノザは,中心から円周に引かれたすべての線が等しい図形という仕方で円を説明します。しかしスピノザによればこれは円の本性を示さず,特質にすぎません。これにはふたつの理由があると考えられます。ひとつはこの説明が円の発生を含んでいないということですが,もうひとつ,そもそもこの説明は円周というものが存在することを前提として成立しますが,円周というのは円が存在して初めて存在するようなものであるといえるでしょうから,そうしたものの存在を前提とした説明が,円の定義ではあり得ないということは,実はきわめて当然のことであるといえるのではないかと思います。
 実はこの説明は,球の例でいえば,その中心から面の上のあらゆる点までの距離が等しい図形という説明に対応していると思われます。僕は前にこのことは球の本性に属するということは認めるといいましたが,実際にはこの説明における面というのも,球の存在を前提とした上で初めて成立し得るものであるということに違いはありません。いい換えればこれは球の特質にすぎないのです。特質というのは本来は本性から必然的に帰結するものです。そこでここからは,そうした意味において僕はこれが本性に属することを認めているのだと考えてください。
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王座戦&神による決定

2011-09-27 22:51:26 | 将棋
 数々の名勝負が戦われてきた将棋の街,山形県天童市での対局となった第59期王座戦五番勝負第三局。
 渡辺明竜王の先手。羽生善治王座の誘導で横歩取りとなり,後手は8四飛,5二王の構えで先手は中住まい。中盤は先手がと金を作って後手に攻めさせ,その合間を縫ってと金を活用していくという展開で,夕食休憩時には第1図まで進んでいましたので,ここから観戦。
                         
 後手の攻めもそんなに手厚くないので,先手が勝てそうかなというのが第一感でした。ただ,このまま△5七飛行成は許せないように思え,それを受ける手を検討したのですが,ぴったりした手は見つけられませんでした。▲6八金は考えていた手のひとつ。ここから△2七歩▲同銀△4九飛成までは一本道ではありませんが想定していた手順のひとつ。ただここで▲4八角と打つのは考えていませんでした。△2九龍▲5六歩は検討し直した手順のひとつ。飛車を逃げる手しか考えませんでしたが△3五桂と王手銀取りに打ちました。ただこの手はかなり厳しく感じられ,後手の攻めがなかなか途切れないように思えてきました。▲5八玉△5六飛▲5七金△5四飛(第2図)までは本線で検討していた順。
                         
 ここは手が広そうでいろいろ考えましたが▲6六桂はその中には入っていませんでした。ここも逃げ場所はいくつかあり,検討の中心は2四でしたが△3四飛も考えていた手。これには▲3六銀と▲4五角を考えていましたが▲5六角とこちらに打ちました。こういうところは勢いで△2七桂成から考えますが実戦もそうなりました。▲同金で部分的に飛車の両取り。3四の飛車を3八か3九に成る手が検討の中心でしたが△6九銀と打ちました。▲6八玉は当然で,△3九飛成に絞って検討していましたが△4九龍でした。ここも勢いで▲3四角△4八龍が検討手順。しかし▲6二とと銀を取りました。とはいえこれも考えられる手。△同金としてから▲3四角。△4八龍▲6九玉は必然。そこで△1四角(第3図)と王手をしましたが,この手は考えていませんでした。
                         
 ▲2五歩は本命視していた手。△3三金や銀を検討していましたが△8八歩成の詰めろ。次の▲5八金も考えていなかった手。△7八と▲同玉△5八龍まで本線。▲8七玉を検討しましたが▲6八銀打。もっともこちらの方が堅いですから当然といえば当然。△2三角も考えましたが△8六歩も自然な攻めで候補のひとつ。ただ▲4四桂△4二王▲8二飛は,△2三角の手順で検討していた手で,これは先手の勝ちになったのではないかと思いました。△8七歩成▲同飛成と進みましたがこの進展はよく意味が分かりませんでした。△4四歩はこれ以外には思い浮かびません。▲8二龍と進入。やはり先手の勝ちは動かないように思えました。△5一金と打って守りましたがここに金を投入ではいかにも元気が出ない気がして検討は打ち切り。この後,103手目に▲5九歩と打って角を渡してもかなり安全な形にしたのがのが最終的な決め手という印象。111手目の▲3六歩も攻防手で盤石に思えました。ところが次の△8六歩に▲3五金と抑えつけたあたりから雲行きの怪しさを感じ始めほどなく検討再開。その間にも予想外の手が出ましたが,後手が勝てそうという順は見つけられませんでした。ただ実際には後手に勝ちがあっても不思議ではないと思える展開でした。結果的には先手が押し切りましたが,僕が最初に検討を打ちきったのは明らかに早すぎました。
 揺るぐことがなかった長期政権を圧倒して渡辺竜王が王座を奪取し二冠達成。同じような長期政権が樹立されてもおかしくはないと思います。

 もう一度ここで断わっておきますが,以下に示すようなことは,スピノザが『エチカ』において第一部定理二六を証明した意図から考えれば,拡大解釈になるおそれは否めません。あらかじめそれを前提としておいてください。
 スピノザが『知性改善論』で示した球の発生を,第一部定理二六から考察するなら,次のようにいうことはあながち無理であるともいいきれません。すなわち,半円が回転することによって球が発生するのですが,このときの半円の回転という作用は,神から決定されたものであることになります。ただし,現状の考察では,この半円の回転については,物体としての半円が回転するという意味ではなく,思惟作用として理解しています。したがって,この回転が神による決定であるということをもう少し具体的に考えるなら,第二部定理六により,半円の観念が神からの決定によって,その直径を軸として一回転するという作用をなすということになるでしょう。いい換えれば,ここで意味したいことは,神の延長の属性の決定によって,物体としての半円が一回転するという運動に決定されるということではないということです。
 このようにして半円がその直径を軸として一回転するという作用の直中に神からの決定という概念を採用するならば,このことのみのうちに球の発生が十分に含まれているといえます。第一部定理一五からして球の発生が神なしには考えられ得ないということは明らかですが,この説明のうちには,球の発生原因としての神の観念が十分に含まれているといえるからです。いい換えればこの説明は,第一部定理一五を満たすのみでなく,第一部公理四も十全に満たしているといえるのではないでしょうか。
 したがって,球の発生というのはこのことのみから必然的に帰結するのであり,たとえば半円が発生することも含むような無限連鎖には訴えなくてもよいということになります。そしてこのことは,球の場合のみに妥当するのではなく,すべての個物について妥当するということが,同様の説明によって明らかになるものと思います。そしてこのゆえに,定義が定義された事物の発生を含むというときの発生は,直接的な起成原因だけを含むと考えることができるのではないでしょうか。
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東日本大震災被災地支援青森記念&第一部定理二六

2011-09-26 18:51:52 | 競輪
 初日には坂本勉選手の引退セレモニーも執り行われた青森記念は今日が決勝。並びは佐藤友和-成田-佐藤康紀の北日本,平原-関の関東,小嶋-坂上の石川,坂本-柏野の西国。
 坂本がスタートを取りにいきましたが,外から坂上が誘導の後ろに入り小嶋の前受けに。坂本が3番手,佐藤が5番手,平原が8番手で周回。残り2周のホームの手前から平原が上昇,ホームで小嶋を叩くと佐藤が続き,坂本がこの後ろを確保し引いた小嶋が8番手となりバック。打鐘から佐藤が発進。平原は際立った抵抗はなくこのラインがかましきって先行。ホームから小嶋が巻き返すと,坂上は離れたものの成田の牽制を乗り越えて捲り,そのまま千切って優勝。逃げた佐藤が2着に残り,佐藤マークの成田が3着。
 優勝した石川の小嶋敬二選手は昨年11月の観音寺記念以来となる記念競輪30勝目。年齢的な面もあるでしょうが,同じ力を安定して発揮するのが難しくなってきているように思えますが,マックスの力が出ると今日のように非常に強い競走がまだできます。縦の競走のみで,横に動きませんから相手が作戦を立てやすいところもあり,かつてのように脚力で連戦連勝とはいかないでしょうが,記念競輪はまだどこかで勝てるものと思います。

 拡大解釈となってしまうおそれは否めないのですが,もしもスピノザが第一部定理二五備考および第一部定理二八備考で示している事柄の両様の意味を併せもっていると考えることができるような定理というものを『エチカ』の中から探し出そうとすれば,それは第一部定理二六をおいてほかにはないだろうというのが現時点での僕の結論です。
 「ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない」。
 これはスピノザ自身が証明の中でいっていることと同じですが,この定理の後半部分というのは,もしもそれが成立しないと仮定するなら,つまり,神から決定されていないものが自身をある作用に決定することができるとすれば,今度は前半部分が成立しなくなってしまいます。したがって,この定理というのは,その前半部分が証明されさえすれば,後半部分も証明されたということになります。
 実はこの定理のスピノザによる証明には,ある興味深い視点が導入されています。しかもこれはマシュレによるスピノザの哲学の考察とも関係します。一言でいってしまえばこれは『エチカ』において,働くということと作用するということをどのように考えるべきなのかということなのですが,これは現状の考察そのものにはほとんど関係してきませんから,ここでは省略します。このことについてこの定理周辺のいくつかの定理を分析したものとして,現代思想の1996年11月号の臨時増刊の総特集スピノザの中に桜井直文による「スピノザのマテリアリスム」という非常によくまとまった良質の論文がありますので,関心があればそれを熟読してください。
                         
 ここではこの定理は第一部定理一五から明らかであるとしておきます。というのは,もしも神から決定されないものAがある作用をなすとするなら,この作用の結果として何らかの事物,たとえばBが発生してくるでしょう。すると第一部公理四により,Bの認識のためにはAの認識だけが必要であり,神の認識は不要であるということになります。しかしこれが第一部定理一五に反しているということは,それ自体で明らかだと思います。
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言い間違い&最近原因

2011-09-25 18:46:43 | 哲学
 論争の理由のひとつは,人間が他者のことばを正しく理解しないからだというのがスピノザの考え方です。したがってスピノザは,もしもそれを正しく理解できるのであれば,細かな言い間違いというのは何の問題も引き起こさないと考えています。これは論争の理由について論じた第二部定理四七備考で,その直前に表明しています。
                         
 スピノザがあげている例は,「うちの座敷が隣の鶏に飛び込んだ」ということばを聞いたけれども,スピノザ自身はそう言った人が誤っているとは少しも思わなかったというものです。この人はうちの鶏が隣の座敷に飛び込んだと言いたかったのを,座敷と鶏を取り違えて言ってしまっただけであると,スピノザ自身はたちどころに理解したからです。こうした理解はおそらくほとんどの人間に可能であって,だからそのことは指摘するまでもないことなのです。
 最近はテレビを視ていますと,こうした些細な言い間違いや,いわゆる噛むということを誇張する場面が多く見受けられます。テレビはそれを笑いのネタにするのですから,別にそれをどうこういうつもりはありません。ただ,日常生活でもこうしたことが散見されます。僕も言い間違えたり噛んだりすることがありますが,それを指摘されるとげんなりとします。意味さえ伝わればそれでいいではないかと考えるからで,ときとしてまともに話をするような気が失せてしまうこともあるのです。
 ネット上でも些細な書き間違いを訂正するようなものがあります。文章は残るものですから,言い間違いを咎めるのとは意味合いが違うことは理解できます。理解できるのですが,なぜわざわざそんなことだけを指摘するのかを不思議に感じることもあります。
 いくらなんでも相手が誤っていると信じているからこうした傾向が発生しているとは思いません。それでもこういうことが多く見受けられるようになった背景のひとつとして,もしかしたら人間が他者の発したことばを正しく理解する能力が低下しているということが遠因となっているのではないだろうか,あるいは言い間違いや書き間違いを本気で誤謬と考える人が増えているからではないだろうかと思わずにもいられないのです。

 第一部定理二八備考でスピノザが示していることは,第一部定理二五備考の一文がなぜ成立するといえるのかということを検討した内容から,その大部分がすでに明らかになっているといえるのではないでしょうか。というのは,たとえば半円がその直径を軸として一回転するということが原因となって球が結果として発生するということを,神が自己原因であるがゆえに実在するということと同一の力において理解するということは,要するに球の発生に対しての原因である半円の回転を,神の変状であると理解しなければならないということを含んでいると思われるからです。そしてまさにこのような意味において,球の発生に関して,神は最近原因,それも絶対的な最近原因であるということになるでしょう。
 ここでは現在の考察との関連から,球の発生というのを例にとって考察したわけですが,もちろんこのことは球の発生だけに限定して成立するというわけではありません。たとえば円がその直径によって二分されることによって半円が発生するという場合にも,円の二分ということが神の変状として理解されなければならないということは,球の発生の場合と同様の論理によって帰結します。そしてこのことは,球の発生を含むような無限連鎖のすべての過程において成立することになるでしょう。
 したがって,これを一般的にいうならば,第一部定理二八であれ第二部定理九であれ,その無限連鎖のどの一部分を抽出したとしても,神が絶対的な最近原因となって個物ないしは個物の観念が発生するというように理解されなければならないということになります。そしてこのことが,第一部定理二八備考で言及されている事柄の,具体的な意味になると僕は考えます。
 このことが,スピノザが事物の定義はその発生を含まなければならないというとき,その発生というのを直接的な原因だけで構わないと考えることができた大きな要因となっていることは,もう一目で明らかだといっていいのではないでしょうか。なぜなら,直接的原因というのは絶対的な最近原因にほかならないわけで,それが神であると考えられなければならないのであるとすれば,その直接的な原因が結果に対して,それだけで十全な原因となっているというように理解することができるからです。いい換えればそれ以上の発生というものを十全に認識することは不要であるということになるでしょう。
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日本テレビ盃&第一部定理二八備考

2011-09-23 19:22:44 | 地方競馬
 当初から大レース6勝馬が1頭に3勝馬が1頭,残る11頭は重賞未勝利というかなり極端なメンバー構成の中,大レース6勝のフリオーソが除外となってしまった第58回日本テレビ盃
 内からピイラニハイウェイが好発も,大外から被せるようにスマートファルコンが上昇しての逃げ。追ったといえるのはカキツバタロイヤルとピイラニハイウェイの2頭。4番手にフリソ。最初の800mは47秒9のハイペースですが,スマートファルコンにしてみたらマイペースかもしれません。
 3コーナーを回るとスマートファルコンがカキツバタロイヤルとの差を広げていき,そのまま後続に影も踏ませず4馬身の差をつけて逃げ切り。先に動いたカキツバタロイヤルは苦しくなって,追ってきたフリソが2着。カキツバタロイヤルが3着。
 優勝したスマートファルコンは昨年11月にJBCクラシックで大レース制覇を果たすと月末の浦和記念,年末の東京大賞典,休養を挟んで今年のダイオライト記念帝王賞まで5連勝。これで6連勝とし,重賞は実に16勝目。逃げを戦法にしてからはフリオーソにも勝てるようになっていて,仮に出てきていても最有力でしたが,除外でこのメンバーとなれば当然の優勝です。父はゴールドアリュールで兄に1999年の東京大賞典を勝ったワールドクリーク。曾祖母がアリアーン
 騎乗した武豊騎手2006年以来の日本テレビ盃4勝目。管理している小崎憲調教師は日本テレビ盃初勝利。
                         

 スピノザが事物の発生の意味を,無限連鎖の全体に依拠しなくても構わないと考えることができたもうひとつの理由として,第一部定理二八備考で示している事柄もあるのではないかと僕は考えています。
 「神は神自身が直接的に産出した物の絶対的な最近原因であることになる」。
 前にもいったように産出ということばは何かしら意志が介在するような印象を僕は受けますから,僕の好みのことばではないのですが,ここではスピノザがそのことば,ラテン語でproducereということばを用いていますので,僕もこれを使います。ただ,第一部定理三二系一にあるように,神は意志の自由によって作用するものではなく,本性の必然性によって働くものであるという点には十分に留意してください。
 この文章は,僕からいわせればややもってまわったようないい方がされています。というのも第一部定理一五からして,神自身が産出したものというのは,要するに自然のうちに実在する,あるいは実在し得るすべてのものです。同じことは第一部定理一六からは演繹的に導くことができます。つまりここでいわれていることは,神はそうしたものすべての最近原因であるということです。
 次に,最近原因というのが何を意味するのかということが問題になってくるでしょうが,これは一般的な哲学用語,とくにスコラ哲学の用語です。この備考の全体を一読すれば理解できますが,この最近原因というのは遠隔原因の対語として用いられています。遠隔原因というのは原因と結果との間に何らかの媒介が存在するような原因のことで,最近原因とはそうした媒介が存在しないような原因のことです。スピノザはとくにここで絶対的な最近原因といっていますが,これも哲学用語には絶対的な最近原因と自己の類において最近原因というのがあるからです。AがBに対して絶対的な最近原因であるといわれる場合には,一切の媒介が存在しないような最近原因であると考えて構いません。僕自身の考察の上ではこのことだけが理解できればそれで十分なので,この点についてはこれ以上は説明しませんが,岩波文庫版では訳注がつけられていますので,なお詳しく知りたいという場合にはそちらをお読みになってください。
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東日本大震災被災地支援取手記念代替&第一の要因

2011-09-21 18:32:28 | 競輪
 東日本大震災の影響でいまだに開催不能になっている取手競輪場。このため今年の取手記念は地区こそ異なりますがすぐ近くの松戸競輪場での代替開催となり,昨日が決勝でした。並びは菊地-斉藤の北日本,武田-芦沢の茨城,川村-渓の西日本,坂本-園田の福岡で岩本が単騎。
 前受けは武田。3番手に菊地,5番手に坂本,7番手に川村で,岩本はこのラインを追走。残り3周から川村が上昇すると,坂本がこれに応じ,さらに菊地も動いて武田を叩いたのは菊地。打鐘前のバックから菊地と坂本で先行争いの様相になりましたが,菊地の番手の斉藤が離れ,菊地の後ろに坂本。残り1周のホームで斉藤が外から番手を奪還すべく動くと,その外を川村がかまして先行。武田も4番手に続きました。バックに入ると川村ラインを追走していた岩本が発進。武田もさらにその外を捲りあげましたが外に浮く形となり失速。このため芦沢が岩本にスイッチ。直線に入ると内で逃げ粘る川村をフィニッシュ前で差した岩本が優勝。川村が2着に粘り,3着に芦沢。
 優勝した千葉の岩本俊介選手は記念競輪初優勝。単騎での戦いを強いられましたが,川村の先行とにらんでここを追走。バック入口からすぐに発進していった判断も的確で,少しでも躊躇していれば武田の内に詰まってしまったでしょう。トップクラスと伍して戦うだけの脚力がついているとはいえないかもしれませんが,まだまだこれからの選手で,長い目で見ていきたいと思います。

 それではスピノザが『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で示している球の十全な観念idea adaequataの発生における無限連鎖について,ここまで考察してきたことを基礎として,具体的に考えてみます。
                         
 まず,半円がその直径を中心に一回転することによって球が発生します。このとき,半円ないしは半円の回転という作用は原因causaであり,球ないしは球が発生するということは結果effectusです。いい換えれば,それらをそれぞれ単独でみる限り,原因と結果とは別個のものであるということになります。ところが,第一部定理二五備考でスピノザが述べていることからして,このときに原因とされる半円ないしは半円の回転という作用は,神Deusが自己原因causa suiであるがゆえに必然的にnecessario存在すると考えられるのと同じ力potentiaとして考えられなければなりません。つまり,半円に変状した神が,自己原因によって回転という作用をなし,球が発生するというような意味合いに近いものとして理解されなければならないのです。なお,ここでは,この半円の回転というのを,ある物体的運動としてではなく,むしろある思惟作用として考えています。したがって,前述の文脈における半円に変状した神というのは,半円という物体corpusに変状した限りでの神の延長の属性Extensionis attributumということではなく,半円の観念に変状した限りでの神の思惟の属性Cogitationis attributumというように解されなければならないということには常に気をつけておいてください。
 このように考えれば,球の発生というのはまさにそうした半円の回転という自己原因に模されるような原因であるということになるでしょう。いい換えれば,この部分だけを含んでいるのだとしても,この球の観念は十分に十全な観念であるといえるのではないかと思います。そして同じことは,たとえば円がその直径によって分割されることによって半円が発生するという場合にも妥当します。つまり球の発生を含むような無限連鎖のすべての段階において妥当することになるでしょう。そしてこのことを一般的な仕方で説明すれば,事物の十全な観念はその観念の対象ideatumの直接的な発生だけを含むだけで十分に十全adaequatumであるということになるのではないかと僕は考えるのです。これが,スピノザが事物の定義Definitioは無限連鎖のすべてを含んでいなくてもよいと考えることができたひとつの要因だったのではないでしょうか。
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王座戦&無限連鎖の一部分

2011-09-20 22:01:33 | 将棋
 現代の首都である東京から古の都,京都へと舞台を移した第59期王座戦五番勝負第二局。
 羽生善治王座の先手で相掛り。最近では珍しく浮飛車に構え,早々に3筋を突き捨てる,何年か前までよくあった将棋。後手の渡辺明竜王から角交換すると,先手は3四に歩を垂らしました。先手の早繰り銀に後手の腰掛銀。後手が角を打って桂得に。ゆっくりできない先手が攻めに出て,後手が受けに回る展開に。個人的にはやや意外に思えた攻め筋から先手が飛車を打ち込み,もう1枚の飛車を切って角を取ったところから検討開始。
                         
 応手は二通りしかありませんが△同歩の方でした。こうなると▲3一角△5一玉▲5三桂までは一本道と思います。ここで△同桂は▲2二角成から金を取られますので,△3ニ銀左と駒を使う一手。飛車を取られてはいけませんから▲4一桂成も当然で△同玉は▲5三桂が痛そうですから△同銀も必然。次の▲5三桂も継続手として当然でしょう。そしてこれにも△3ニ銀上しか考えられませんでした。▲1一飛成も検討の本線。△2一桂も同様。そこで▲2二角成を検討していましたが▲3四歩と叩きました。取れば交換になり後手は駒を渡したくないでしょうから△2三金と逃げるのは当然に思いました。そこで▲1二龍(第2図)。金を入手すれば一手詰めの状況ですからなるほどと思えた手順でした。
                         
 さしあたり何らかの受けが必要。△6三歩はそれ自体では受かっていないので▲2三龍と取るのだろうと思っていましたが,まったく予想していなかった▲4四銀でした。△同銀は▲3ニ龍でこれはつまらない。△6二玉と早逃げするのかと思っていたら△4五桂と反撃に。▲3三歩成は攻め合いでもありますが,後の角の王手に歩合いを用意する意味もある攻防手。それでも△4四銀を検討していたのですが,△同桂と取りました。▲4三銀不成は検討していた手のうちのひとつ。△同銀▲2三龍まで自然な進行。これは詰めろで先手玉も詰まないので△6二玉は予想通り。ここで検討していたのは▲6一桂成でしたが▲7三歩と詰めろを掛けました。するとすぐさま△5七銀。なるほど▲7七歩ないしは▲7九歩と打てなくなっているので即詰みでした。
 渡辺竜王が連勝で二冠に王手。このまま一気にいってしまいそうな勢いを感じました。注目の第三局は27日です。

 原因と結果が別のものの代表というのが個物であるといえます。どんな個物の本性にもそのものの発生というのは含まれていませんが,その本性にそのものの存在が含まれていないようなものは,それが存在するために,そのものの外部に別の原因を必要とするからです。
 現在の考察の上でここで重要となってくるのは,このことが第一部公理三からの必然的な帰結であるということです。そこで個物というものが現実的に存在する仕方を一般的に示したのが第一部定理二八であり,個物の観念に関しては第二部定理九であるわけです。いい換えれば第一部定理二八も第二部定理九も,第一部公理三からして,『エチカ』においては必然的に導かれなければならなかった定理であったということが可能であると思います。ところがその第一部公理三というのは,これまでに解明してきたようなコペルニクス的転換により,第一部定義一によって説明されなければならないような公理なのです。したがってこれは当然のことといえるでしょうが,第一部定理二八も第二部定理九も,やはり第一部定義一の立場に立って説明されなければならないような定理であるということになります。
 すると,次のような事柄が帰結するであろうと僕は考えます。
 第一部定理二八も第二部定理九も,無限に連鎖するという点では同じです。しかしその無限連鎖のどの一部分を任意に抽出したとしても,それは自己原因の変状として原因から結果が必然的に生じているということになるでしょう。ここまではこのことを名目的に考えてきたわけですが,ここで実在的視点を導入します。
 まず第一部公理一の意味として自然のうちには実体と様態だけが存在します。さらに第一部定義三第一部定義五により,そのうち実体だけが自己原因であるということが分かります。そして第一部定理一四により,自然のうちには神だけが実体として実在します。つまり第一部定理二八および第二部定理九の無限連鎖のどの一部分を抽出しても,それは,第一部定理二五備考でいわれているように,神が自己原因であるといわれるのと完全に同じ意味で,個物ないしは個物の観念が発生するといわれているということになるのです。
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NOAHを創った男&自己原因と原因

2011-09-18 18:31:52 | NOAH
 『読む全日本プロレス』が全日本プロレスに残った立場からNOAHの旗揚げの頃の事情に言及しているのに対し,NOAHに移った側から当時の状況を語っているものに『NOAHを創った男』があります。基本的に仲田龍の証言を本多誠がまとめたという体裁で,巻末には仲田と和田京平の対談も収録されています。
                         
 和田が明らかにしたところによれば,三沢は馬場の存命中から元子夫人について進言していたとありました。仲田によればこれは1998年頃とのこと。馬場が死んだのは1999年1月31日ですから,もう最晩年にあたります。ただ仲田の話ですと,三沢はその2年前くらいからは元子夫人に直接的に意見したことがあり,ふたりの間の亀裂はその頃には発生していたそうです。
 三沢がどう思っていたかは不明ですが,仲田の説明は,三沢の行動は本人単独の意志というよりも,レスラーの総意に基づいたもので,要するに中間管理職の立場にあるような人間が,部下の意志を代表して上司に進言したものであるというような内容になっています。三沢は馬場には可愛がられていたので,もしもこうした行動を取らなければ,すんなりと三沢が馬場の後継者になっていたのではないかというのが仲田の考え方のようです。
 和田は,元子夫人も含めて馬場を支えたのに対し,三沢や仲田はそうではなかったという主旨のことを述べていますが,このことは少なくとも仲田自身については真実であったよう。仲田自身,自分は馬場のために働いているのであって,元子夫人のためではないという主旨のことを,元子夫人自身や和田にも言ったことがあるそうです。
 こちらはあくまでもNOAHに移った人間の証言です。したがって読解する場合にもそうしてフィルターを通す必要はやはりあるのだろうと思います。

 このコペルニクス的転換は,第一部定義一第一部公理三との間にあるであろう関係を以下のように説明することとなるでしょう。
 第一部公理三というのは,原因と結果とが別のものであるような場合にのみ適用することが可能な公理Axiomaではなく,自己原因causa suiにも適用されなければならない公理です。実際に第一部公理三が示していることは,結果が発生するためにはその原因が存在するのでなければならないということです。ところで自己原因というのは,それ自身の本性natura,essentiaのうちにそれ自身の発生が含まれているようなもの,いい換えればそれ自身が発生するためにそれ自身が原因となっているもののことです。したがってこれは第一部公理三に則して発生しているということになるでしょう。
 しかしながら,第一部公理三は一般的な意味で原因と結果との間にある必然的な関係についての言及です。ところがすでにみたように,原因と結果が別であるようなものに対しては,自己原因が本性の上で先行します。したがって,第一部公理三の立場に立って第一部定義一について考えるのではなく,第一部定義一の立場に立って,そこから第一部公理三の意味を把握するのでなければなりません。このことはスピノザの哲学の方法論からもそうでなければならないということになるでしょう。つまりスピノザは方法論としては演繹法を採用します。いい換えれば,原因から結果へと辿っていくような方法,本性の上で先行するものから後発するものへと進んでいくような方法を採用するのであって,その逆ではありません。原因と結果が別のものであるような,あるいは別のものであり得るようなものから自己原因について考えることが,主客の転倒をもたらすというのは,このことからも理解できます。そうではなくて,自己原因によって原因と結果とが別のものであるような場合の原因について考えることが,演繹法であるということになります。よって,第一部定義一の立場に立って,第一部公理三について考えなければならないということになるのです。
 そこで,第一部公理三というのは,原因と結果とが別のものであるようないかなる場合にも適用されなければなりません。そのことを第一部定義一から考えるなら,どういったことが帰結してくるのでしょうか。
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東日本大震災被災地支援奈良記念&コペルニクス的転換

2011-09-16 18:33:01 | 競輪
 優勝候補と目された深谷が準決勝で敗退するという波乱になった奈良記念は13日が決勝でした。並びは木暮-中村の関東,福田に室井,山田-山口の岐阜,市田-佐藤の近畿で合志が単騎。
 前受けは山田。3番手に市田,5番手に木暮,合志を挟んで8番手に福田で周回。福田は残り3周から上昇し,残り2周では先頭に。ここから木暮が巻き返し,打鐘では福田を叩いて先行態勢に。これに合志が続き,4番手は福田でしたが山田がインを上昇し,この位置を奪いにいきました。さらに山田はバックにかけてインを上がっていき,木暮の横あたりまでいったのですが,後方に構えていた市田が外を踏み込むとこの捲りが豪快に決まり,そのまま抜け出して優勝。何とか食らいついた佐藤が2着に入って近畿のワンツー。直線は外を伸びた合志が3着。
 優勝した福井の市田佳寿浩選手は7月の福井記念に続いて記念競輪14勝目。昨年は2月に行われた奈良記念で優勝していて当地は連覇。道中は置かれる形となったのですが,隊列は短くなったのであまり問題なし。結果的にみてここでは脚力が明らかに上位でした。マーク戦が多くなっている現況ですが,まだ十分に自力を使えることも証明しましたし,これからも活躍していくであろうと思います。
                         

 僕は今回の考察の中で,第一部定義一の自己原因について,原因と結果とが同じものであるという主旨の説明をしてきました。しかし,第一部定理二五備考でスピノザが述べていることに鑑みれば,実はこうした説明というのは不適切なものであるということが分かります。これが僕がコペルニクス的転換ということばで表現した事柄です。ここからはなぜそうなるのかを順を追って考えていくことにします。これはおそらく名目的に考えた方が理解は容易い筈です。
 まず,第一部公理一の意味は,自然のうちには実体と実体の変状としての様態だけが存在するということです。
 次に,このうち実体は,第一部定義三から自己原因であることが理解できます。その存在,いい換えれば発生をほかのものに依拠せずに考えることが可能であるということは,それが自己原因であるということを直ちに意味するからです。
 一方,様態は第一部定義五により,少なくとも自己原因ではあり得ません。その存在ないしは発生がほかのものによって認識されるということは,様態が存在ないしは発生するために,必ず外部にその原因が実在する,というかここでは名目的に考えますので実在していなければならないということだからです。つまり様態は実在するなら必然的に,原因と結果とが別のものとして存在するということになります。
 第一部定理一は,自然のうちに存在するこれらふたつのもののうち,実体の方が様態に本性の上で先立たなければならないことを示しています。僕は第一部定理一の意味を,時間的な意味において実体が様態に先行するというようには理解しませんが,これらのことを重ね合わせれば,少なくとも自己原因であるものは,原因と結果とが別のものよりも,本性の上で先立っていなければならないということになるでしょう。
 よって,原因と結果が別のものによって自己原因を説明するということは,主客を転倒したような説明であるということになります。むしろ自己原因によって原因と結果とが説明されなければなりません。つまり自己原因とは原因と結果とが同一のものであるという説明は説明の順序として正確さを欠いています。そうではなくて,自己原因のある変種,それこそ変状として,原因と結果が別のものもあるというように説明されなければならないのです。
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ニエユ賞・フォワ賞&第一部定理二五備考

2011-09-15 18:37:00 | 海外競馬
 現地時間来月2日の凱旋門賞を目指して今年も日本馬が渡仏。前哨戦が現地時間の11日に一気に行われ,そのうちの2レースに計3頭の日本馬が出走しました。
 まず3歳馬によるニエユ賞GⅡ芝2400mに今年の共同通信杯を勝ったナカヤマナイト。発走が悪く後方から。最後尾で直線に向うと馬群から徐々に置かれ出しそのまま差のある6頭立ての6着。
 見所がまったくなかったといっていいようなレース内容で,力の差が大きかったといった印象です。陣営は距離も長かったと判断したようで,凱旋門賞は目指さず,前日のドラール賞GⅡに向う意向とのことです。
 4歳以上のフォワ賞GⅡ芝2400mには昨年のJRA賞最優秀4歳以上牡馬のナカヤマフェスタと今年の天皇賞(春)を勝ったヒルノダムールの2頭。ここは4頭で日本の2頭が好発。そのままナカヤマフェスタが後ろを少し離しての逃げ。ヒルノダムールは3番手となり,4頭が縦一列に並ぶような競馬。直線に入るところで2番手にいたSt Nichoras Abbeyがナカヤマフェスタの外へ。2頭が競り合う外にヒルノダムールが出てきて先頭に。しかしすぐ内をSarafinaに掬われる形となり僅差の2着。ナカヤマフェスタは最後は力尽き,差はなかったものの4着。
 ヒルノダムールは上々の内容といえるかと思います。ロンシャン競馬場の馬場も問題にしなかったのは収穫のひとつ。勝ち馬は本番でも1番人気になると思われ,いい競馬が期待できるのではないでしょうか。
 ナカヤマフェスタはここが10ヶ月ぶりのレースで,最後に息切れしたのは仕方がないところ。こちらはすでに馬場の適性は証明済みですので,体調の回復次第では今年もいいレースができるかもしれません。

 そこで次の課題は,なぜスピノザが定義Definitioは定義された事物の発生を含まなければならないと主張するとき,その発生というのを,個物res singularisの場合にも直接的なものに限ってよいと考えることができたのかということを解明するということになります。Aが発生するためにBが必要であり,そのBが発生するためにCが不可欠であるとしたら,Aの発生にはCが必要であると考える方が,むしろ自然であるように思われるからです。
 僕はスピノザがこのように考えた要因は,ふたつあると思っています。そこでまずはそれを順に示していくことにします。第一のものはスピノザが第一部定理二五備考で述べている以下の一文です。
 「一言で言えば,神が自己原因と言われるその意味において,神はまたすべてのものの原因であると言われなければならぬ(eo sensu, quo Deus dicitur causa sui, etiam omnium rerum causa dicendus est)」。
 この一文は,おそらくは実在性realitas,すなわち力potentiaという観点から考えた方が明瞭に理解できるのではないかと思います。すなわちここでスピノザがいっていることは,神Deusが自己原因causa suiによって実在する力と,無限に多くのものomnium rerumが実在する,あるいは発生する力というのは,異なった力なのではなく,同一の力であると考えなければならないということだと思います。
 産出するproducereということばは,どこかしらそこに意志voluntasが介在するようなニュアンスが僕には感じられます。しかし神は本性naturaの必然性necessitasによって働くagereものであり,意志によって作用するものではありませんから,産出ということばをこういう場合に用いることを僕はあまり好みませんが,この点に注意してこのことばをあえて使用すれば,神は自らが存在するのと同一の力によって,無限に多くのものを産出するということになります。したがって,第一部定理一一で示されていることと,第一部定理一六で示されていることは,実は同じ力によって生じるのです。そしてその力は,神ないし絶対に無限な実体substantiaの本性を表現するexprimere力です。いい換えれば実はこれらふたつの定理Propositioはどちらも,第一部定義六から必然的にnecessario帰結するのだといえることになります。
 このように考えたとき,原因と結果effectusという概念notioそのものに,大仰にいえばコペルニクス的転換が生じます。そしてそのことが,スピノザの発生の理解に関連していると僕は考えるのです。
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報知盃東京記念&発生の意味

2011-09-14 20:45:56 | 地方競馬
 上位拮抗のメンバーの上に数少ない長距離戦ということで馬券的には難解となった第48回東京記念
 事前のコメントから察すると不本意だったと思われますが,逃げたのはキングバンブー。1周目の正面でペースを落とし,内からシルクコンダクターに行かせるようにようやく2番手に控えました。最初の1000mは64秒8の超スローペース。マズルブラスト,テラザクラウドなどがその後ろの集団を形成。向正面からボランタスが外を上がっていき,これに呼応するようにマズルブラストも動き,3コーナーを過ぎるとシルクコンダクター,キングバンブー,マズルブラストの3頭はほぼ雁行。
 直線に入るとマズルブラストがまず先頭に。これを外からボランタスが追い,その間を割ったのがテラザクラウド。直線半ばからこのテラザクラウドが一気に伸びて抜け出し,3馬身突き放して優勝。2着は最後まで競り合いになりましたが,内のマズルブラストが確保。ボランタスが3着。
 優勝したテラザクラウドは昨年はクラシック戦線でそこそこ走り,今年の4月から条件戦を4連勝してここに臨んでいました。優勝候補の1頭で,課題は相手関係と距離。しかし両方とも克服しました。この路線の上位馬を降した上に,まだ若い4歳馬ですから,今後もかなりの活躍が見込めるであろうと思います。父はゴールドアリュール。従姉の子に一昨年のシルクロードステークスを勝ったアーバンストリートと今年の北九州記念を勝ったトウカイミステリー
 騎乗した川崎の今野忠成騎手は6月のグランドマイラーズ以来の南関東重賞制覇。東京記念は2006年以来の2勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は騎手時代に制したことがありますが,調教師としては東京記念初勝利です。

 ここで問題となってくるのが,事物がほかのものの観念に依拠しなければ十全に認識され得ない場合に,それがどのように説明されるべきなのかということです。
 第一部定理二八は,具体的な意味としては,個物Aが発生する原因はほかの個物Bであり,その個物Bが発生する原因はまたほかの個物Cであり,この個物Cが発生する原因はまたほかの個物であるDである,といった具合にして,無限に連鎖していくということを示しています。このとき,Aを十全に認識するために必要なことが,AからB,BからC,CからDというように無限に連鎖していくその連鎖のすべてであるとすれば,結局のところAを十全に認識することができるのは無限知性だけであるということになるでしょう。いい換えれば,人間の知性というのは有限ですから,それを十全には認識することが不可能であるということになります。ところで個物の無限連鎖というのは当然ながらどの個物にも妥当します。いい換えれば第一部定理二八はすべての個物に妥当しなければなりませんし,第二部定理九というのはすべての個物の観念に妥当しなければなりません。したがって,ある個物の発生の原因という場合に,その原因をこうした無限連鎖の全体であると主張することは,事物の定義は定義された事物の発生を含まなければならないという言明を,人間は自己原因であるものについてはそれを定義することができるけれども,自己原因ではないようなもの,ここではそれを個物とみなしていますから,個物についてはそれを定義することが不可能であると理解することと同じなのです。
 僕自身は,そのようにいうことは,それ自体で不条理であると考えます。ただし,これについてはそうであるとはいえないのではないかと考える方もいらっしゃるのではないかと思いますから,それをここで強硬に主張することはしません。ただ,少なくともスピノザ自身は,定義された事物の発生ということに関して,それが個物の定義に適用される場合でも,無限連鎖の全体の認識であると含意していなかったということは,このことから明らかにできたと思います。
 したがってスピノザがいう発生の原因とは,たとえば上述の例なら,Aに対するBだけであって,CやDなどそれ以外のものは含んでいないと考えてよいでしょう。
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王位戦&自己原因の場合

2011-09-13 19:05:50 | 将棋
 今夏の暑さを上回る熱戦を繰り広げてきたシリーズもいよいよクライマックス。第52期王位戦七番勝負第七局。
 改めての振駒広瀬章人王位の先手。早々に四間飛車を明示すると羽生善治二冠も居飛車を選択。相穴熊となりました。
 今日は途中経過も見ることができず,ようやく接続したときには第1図。
                       
 玉の堅さが違うので,見た瞬間は後手の方がいいのだろうなと思いました。▲5二飛にと金にヒモをつける△4九銀。検討したのは▲3九金や▲3九香と受ける手で,指されたのは▲5一飛打という攻め合い含みの手。いろいろ考えられるところですが△4六歩は候補のひとつ。▲同馬は玉が弱体化しますが,局面自体では最も指したい手だと思います。そこで△3八歩と垂らしましたが,この手は考えていませんでした。このと金攻めは受かりません。受からないなら攻めるよりなく,こういう場合は▲3五香が部分的な手筋。しかしこの局面ではさすがに間に合いそうもなく,先手が窮したと思いました。そして実戦の指し手も▲3五香でしたので,ここからは検討なしの観戦モード。ほぼ予想したような手の連続となり,後手が押し切りました。
 4勝3敗で羽生二冠が4期ぶりの王位復位を達成し三冠に。名人は奪われたわけですが,それが力の衰えではないということをしっかりと証明してみせました。広瀬前王位は期待している棋士だけに個人的には残念ですが,今の将棋界でトップクラスの力を有しているということは,シリーズを通して明らかにすることができたのではないかと思います。
                       

 問題となってくるのは,スピノザが事物の定義は定義された事物の発生を含んでいなければならないというときに,この無限連鎖のすべてを視野に入れてそのように規定しているのかどうかということです。第一部公理四個物の観念に適用される場合にはそれは第二部定理九の仕方で説明されなければなりません。この観点からみれば,この無限連鎖のすべてを視野に入れるのでなければ,個物の観念の発生というのを十全には説明できないように思われます。しかし,結論から先にいってしまえば,スピノザはそのようなことは視野に入れていないのだろうと僕は考えています。そこで,僕がそのように考える根拠というのを説明します。
 これは思惟の様態には限りませんが,第一部公理三によれば,もしもあるものが発生するということがあるなら,それが発生する原因というのがあるのでなければなりません。このとき,その原因というのは,発生する事物自身のうちにあるか,それとも外部にあるかのどちらかです。これはそれ自体で明白なことだと思います。
 もしも事物の発生がそれ自身のうちに含まれている場合,要するにこれは第一部定義一によりその事物が自己原因であるという場合のことですが,この場合は発生する原因と発生する結果というものが同じものです。いい換えれば,そのものの発生を考えるために,知性は発生するそのもの以外のものに関しては何も認識せずとも,そのものの発生を概念することができます。いい換えればこうしたものはそのものの定義のうちにそのもの自身の発生が含まれているということになるでしょう。たとえば第一部定義六というのは,僕はそれ自体で実在的な定義であると考えているわけですが,この定義自身の中に定義されているもの,すなわち神,ないしは絶対に無限な実体の発生が含まれているということになります。よってこうしたものに関してはこれで何の問題も生じません。
 しかし,それが発生する原因というのがそれ自身の外部にあるという場合にはこういうわけにはいきません。その定義がそのものの発生を含むためには,まさにそれを発生させる外部の原因がその定義のうちに含まれていなければならないのです。いい換えれば,こうしたものはほかのものの認識がなければ,十全には認識され得ないでしょう。
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竜王戦&無限連鎖

2011-09-12 23:10:37 | 将棋
 渡辺明竜王によって築かれている盤石の牙城を崩しに向かうのは展望で対抗に挙げた久保利明二冠かそれとも名前を出さなかった丸山忠久九段か。第24期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
 振駒で久保二冠の先手。先手の三間飛車石田流に後手が左美濃という,最近はよく見られるようになった戦型。後手が銀冠にして先手から仕掛けるのも定跡通り。そこで後手が手を変えました。この後,飛車角交換となり,先手は端攻めを敢行。ほぼ無条件に詰めました。後手は戦いを望まないような姿勢に終始し,先手がそれに乗じて捌きに出る展開に。この後,やや不思議に感じる手順があった末に第1図となりここから検討を開始。
                         
 先手は▲1八香打。これは攻めの狙いもありますが,後手が端から反撃してくるのを緩和した意味も含んだ一手だと思います。すぐには襲いかかれそうもないので△9九飛成と香車を取ったのは予想通り。▲6四馬と▲8一馬は両方とも有力と思えましたが指されたのは検討していなかった▲3六歩。△3五桂を防ぎながら場合によっては馬を引きつける含みでしょうか。ここはどう指すかまったく分かりませんでしたが△2一桂と端からの強襲を受けました。これは先手も馬を引くのではないかと思いましたが攻めに出る▲5二銀。△4二銀と受けました。▲6二馬と逃げる手を考えていましたが▲6一馬。次の△3五歩は△2一桂のところであるかなと思っていた手。▲4三銀成を考えていて,実際は不成でしたがこれは同じこと。形として△同銀だろうと思いましたが△同金。▲6四馬と引く手を考えていたら▲4八金寄として,△3六歩に▲3七歩と埋めました。△同歩成は当然に思えます。応手は▲同銀(第2図)。
                         
 後手は△3六歩と叩き▲同銀に△7五飛と回るのかと思いきや△3四香。これは▲2五銀とは取れないので▲6四馬で攻め合いを目指しましたが,これは後手が勝てそうな展開になったと感じました。△3六香は自然で▲3七歩はこれしかなさそう。△同香成に▲同馬では何をやっているのか分かりませんから▲同桂は仕方なさそう。再び△3六歩。▲2五桂は止むを得ないかと思います。一旦は△同桂と取る手といきなり△3七銀と打ち込む手の両方が有力に思え,指されたのは前者。局面として可能な手は▲同金,▲同馬,▲1七王のみっつですが,どれを指しても先手が粘れそうにありません。ということで検討はここで終了。先手の手順を尽くした反撃で僕が考えていたよりきわどくなり,検討を再開することにはなりましたが,事件にはなってなく,後手の勝ちとなりました。
 1組優勝は挑戦者になれないというジンクスを破って丸山九段が挑戦者に。6年連続で羽生世代が挑戦するシリーズは来月13日と14日に第一局が指されます。

 まず,球の観念の無限連鎖というのがどういうものであるのかを具体的に確認しておきます。
 第一部公理四により,球が十全に認識されるためには,その発生としての半円の回転の観念が不可欠です。このとき,回転というのは,観念を離れて形相的に考えた場合には物体のある運動です。したがってそれは岩波文庫版でいえば111ページの第二部自然学①補助定理三によって説明されることになります。ただし,ここでは純粋な思惟作用としての回転というのを考えているのであって,また,僕が理解するマシュレの立場というのは,それがまさに純粋な知性作用であるがゆえにこうして発生する球の観念を人間の精神の能動とみなすということにあります。よってここの部分に関しては今は無視してもよいだろうと思います。
 一方,半円の観念の方ですが,この観念が人間の精神の本性のうちに含まれると考えることができないのは,球の観念の場合と同様です。よってある人間の精神のうちに半円の十全な観念が現実的に実在するためには,やはり第一部公理四により,その観念の発生を含んでいるような原因というのが不可欠であるということになります。
 そこでこれを,円を直径で二分割した図形と考えてみます。これは半円の発生を明らかに含みますから,スピノザがいう意味で半円の定義として相応しいと僕は考えます。このとき,二分割というのは形相的に考えれば半円の回転と同じようにある運動でしょうが,回転を無視してもよいということと同じ理由によって現在の考察の上では視点に入れなくても構わないだろうと思います。しかし円の観念に関してはそういうわけにはいきません。これは,球の観念の発生の場合に半円の観念に関してはそれを無視するわけにはいかなかったことと同じです。したがって人間の精神のうちに円の十全な観念がなければならないということになるのでしょうが,円の観念が人間の精神の本性のうちに含まれているわけではないということは,やはり半円の場合と同じです。したがって人間の精神のうちに円の十全な観念があるためにはその発生を含むような原因が必要であり,ということになって,結果的にはこの関係というのが無限に連鎖していくということになります。
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