スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水川隆夫の読解&自転車との一体化

2015-03-31 19:23:15 | 歌・小説
 『夏目漱石「こゝろ」を読み直す』で水川隆夫が『構造としての語り』で示される「私の子ども」に関する小森陽一の読解が論拠に乏しいというとき,僕はそれを肯定します。しかしそれに続けて水川が,執筆時点での私に子どもがいると解釈する必要がないというとき,僕は否定します。僕にいわせればこの部分の水川の論述は,出せない結論を出そうとしているため,支離滅裂です。
                         
 当該のテクストは,執筆時の私が,奥さんをあしらった過去の私の弁護士になる目的だけで書かれています。物語全体とは無関係ということからこれは明らかです。これだけであれば,その時点では子どもをうるさいだけと思っていた私が,そうは思わなくなっただけだという,水川の見解も成立します。というか,時系列を無視すれば,テクストはそう読む方が自然です。その時点での私は,子どもをうるさいものと思っていることには自覚的であり得ますが,自分に子どもがないということは意識できる筈がありません。それは子どもを持って初めて自覚できる筈だからです。
 要するに,テクストの中には虚偽があるのです。奥さんに素気ない態度を示したのが,子どもをうるさいものと感じていたからだったのは事実だったとしても,子どもをうるさいものと感じていた原因が,そのときの私には子どもがいなかったからだというのは,執筆時点での私が,過去の自分の思いの原因を後になって考察した上で書かれているのであり,当時の私にとっての事実ではないからです。そしてこのような回顧の仕方が可能になっているのは,執筆時点では私に子どもがあるからに違いありません。過去にも執筆時点でも子どもがないなら,この説明は執筆時点の私にも妥当してしまいますが,執筆時点で子どもに対する思いに変化があるということは,水川も認めているように疑い得ないからです。
 なおかつ,テクストの目的は自己弁護なのです。もし執筆時の私に子どもがなかったら,このテクストがそうなり得ないことも明白でしょう。
 なので僕は,水川のように解釈するなら,小森の解釈の方がましだと思えるのです。小森は執筆時の私に子どもがいるということは認めているからです。

 人間の身体と自転車との一体化は,人間の精神の方と関連させると分かりやすいと思いますが,各人において一様の様相を示すわけではありません。多くの人にとっては,一体化できるか否か,つまり自転車に乗れるか乗れないかの差異が最も顕著に表象される筈ですが,それが万人に通用されるというわけではありません。同じような一体化の中にも,好ましくない一体化とよりよき一体化というのはあるのであって,ある種の人にとっては,そちらの差異の方が大きいと表象され得るのです。意味がよく分からないかもしれませんが,たとえば自転車の競技者は,よりよき一体化を追求するような存在であると理解してください。ここで一体化というような説明をしたのは,この例の場合に,単に人間の身体の場合だけではなくて,自転車の方にも焦点を当てるためです。
 僕はそうした競技者ではありませんから,どういう一体化がよき一体化であり,どういう一体化はそうではないのかということはよく分かりません。他面からいえばそうした認識は僕の精神のうちには生じません。しかし競技者にとってはそうでなく,一体化できるかどうかよりも,よき一体化を組織できるかどうかが重要であるということは分かります。これは僕だけでなく,競技者ならもちろん,そうでないすべての方にもお分かり頂けるでしょう。
 こうした認識の差異が発生するのは,第三部定理五一にあるように,異なった人間が同一の対象から異なった刺激を受け得るからです。いい換えれば競技者の現実的本性とそうでない人間の現実的本性が異なるからです。したがって競技者は,そうでない人間が感じることがないような表象により,そうでない人間なら感じることがないような喜びや悲しみに刺激され得ることになります。というか実際にそうした喜びや悲しみが競技者にはあるといってよいでしょう。
 このことが,「人が変わる」という慣用表現が程度問題でしかないのと同じような意味で,程度問題なのです。つまり,自転車に乗れない人間が乗れるようになるのは,だれでも顕著に表象できます。しかし競技者がうまく乗れるようになったかどうかはそういうわけにはいかないのです。
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高松宮記念&量的変化の帰結

2015-03-30 19:29:32 | 中央競馬
 香港から1頭が遠征してきた昨日の第45回高松宮記念
 ダイワマッジョーレは遅れての発馬。アンバルブライベンは逃げ一手の馬ですから,ここも先手を奪ったのは当然。エアロヴェロシティ,ハクサンムーン,リトルゲルダ,ミッキーアイルの4頭が追うことになりました。前半の600mは34秒0のミドルペース。
 ハクサンムーンは馬場の中ほど近くまで出して直線で先頭に。一旦は後続との差が開きましたが,少し離れた外をエアロヴェロシティとミッキーアイルが併せ馬のように差してきて,ゴール前は3頭の差がなくなりました。はっきり前に出ていたエアロヴェロシティの優勝。ゴール直前で外の2頭に併せにいこうとしたハクサンムーンが半馬身差で2着。ミッキーアイルはハナ差で3着。
 優勝した香港のエアロヴェロシティは昨年12月の香港スプリント以来の勝利で大レース2勝目。そのときに見せた力を日本でも発揮しました。ペースや馬場の関係もあったと思いますが,先行した馬たちでの勝負に。大きな差はつきませんでしたが,勝ちきったのは底力に優れていたからでしょう。ドバイに行く選択肢もあり得た中での来日で,本気度も高かったものと思います。Aerovelocityは飛行機速度。父系の祖先にTom Foolがいる馬の日本での重賞制覇はいつ以来だったのでしょうか。
 昨秋にアドマイヤラクティでコーフィールドカップを制した香港のザカリー・パートン騎手は日本では大レース初勝利。管理している香港のポール・オサリバン調教師は日本での2戦目が大レース制覇。外国馬の日本の大レース制覇は2013年の中山グランドジャンプ以来。平地では2011年のエリザベス女王杯以来。香港馬では2010年のスプリンターズステークス以来。高松宮記念の外国馬優勝はこれが初めてです。

 岩波文庫版113ページの第二部自然学②公理一は,ある物体の運動の様式が,その運動に関係するすべての物体の本性を十全な原因として発生するということを示します。現実的に存在する人間の身体に,こうした運動によって完全性の移行が生じること,それは運動するたびに必ず発生するというものではありませんが,発生する可能性があるということは否定できないでしょう。このとき,もしも身体の現実的本性と,この身体の運動に関係するその他の物体の現実的本性が一致するなら,完全性の移行も一致します。それも量的変化として一致するといわなければなりません。
 しかし僕たちが経験的に知っているところでは,身体の運動に関わる外部の物体の現実的本性が一致していても,完全性の移行が量的には一致しない場合もあれば,完全性の移行自体が生じない場合もあるということなのです。だとすればこのことは,身体の現実的本性が変化しているからだと説明されなければなりません。よって,完全性の移行を量的なものとして仮定することにより,直ちにそれは量的には把握することができないということが帰結してしまうのです。
 この説明もそうですが,このことは思惟の属性よりも延長の属性で説明される方が容易に理解できるでしょう。なおかつ,完全性の移行が質的変化であるということは,僕たちの表象として説明するよりも,真理として説明する方が,さらに容易に理解できるだろうと思います。
 なし得なかったことをなし得るようになるというのは,身体の完全性の移行であり,喜びを伴います。人間の身体の可塑性に注目すれば,このような喜びを人間はよく感じる筈です。そこでここではその一例として,それまでは乗ることができなかった自転車に乗れるようになるということを例としましょう。
 自転車に乗れるというのをスピノザの哲学的に説明すれば,人間の身体と自転車とが組織化されたひとつの個物res singularisとして一体化されるという意味です。というかこれはやや強引な意味を含む説明ですが,このように規定してひどく間違ってはいない筈なので,今はそう規定しておきます。
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ドバイワールドカップデー&量的変化

2015-03-29 19:09:08 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜から今日の未明にかけて行われたドバイワールドカップデー。今年も7頭の日本馬が招待を受けました。
 UAEダービーGⅡダート1900m。タップザットが逃げてゴールデンバローズが2番手。最初のコーナーでSir Feverにぶつけられるシーンがあったもののディアドムスが3番手と,3頭の日本馬が前に。ディアドムスは3コーナー付近から手が動き始めて脱落。勝ち馬からおよそ20馬身差の8着。前の2頭は並ぶように直線に。この2頭の外に持ったままでMubtaahijが並んできて,楽々と抜け出し8馬身差で快勝。日本馬の競り合いを制したゴールデンバローズは最後にMaftoolに4分の3馬身交わされて3着。タップザットはそこからおよそ2馬身差で5着。
 この時期の日本の3歳馬が海外でレースをするというのは厳しいと思うのですが,そのわりにはよく健闘したといえるのではないでしょうか。とくにゴールデンバローズは何事もなければダート競馬の大物に育ちそうです。
 ドバイシーマクラシックGⅠ芝2400m。前半は一列棒状のような隊列。ワンアンドオンリーが3番手,ハープスターが5番手という位置取り。ワンアンドオンリーは行きたがっているように見え,2番手に並んでいきました。ハープスターは抑えたままで6番手となり,3コーナーを回ってから徐々に外に出して直線に。しかし追い出しても反応がなく,勝ち馬からおよそ9馬身差で8着。ワンアンドオンリーはそれなりに踏ん張ったものの4馬身4分の1差で3着。
 このレースは非常に強い馬が多く,勝つのは大変だろうとみていました。そういう中ではやや離されはしたものの,ワンアンドオンリーの3着は評価に値すると思います。ハープスターは成長力の問題もあるのでしょうが,距離が長いように思えます。
 ドバイワールドカップGⅠダート2000m。ホッコータルマエが逃げました。やや遅れ気味の発馬だったエピファネイアは追い上げて5番手を追走。前半は追走に苦労していた感のあるPrince Bishopが向正面で行き脚がつき,ここからは消耗戦に。エピファネイアは3コーナーを前に力尽き,勝ち馬からおよそ41馬身半差で最下位。ホッコータルマエは先頭で直線に入り,食い下がろうとしたものの力尽きておよそ9馬身4分の1の差で5着でした。
 今年からタペタがダートに改修され,馬場適性が不明でした。エピファネイアは力からすればあっさり勝ってしまう可能性もあれば惨敗の可能性もあると思っていましたが,馬場適性を著しく欠いていたようです。ホッコータルマエは切れる脚があるというより,並んでの勝負根性で活路を見出すタイプですから,作戦としてはよかったと思います。ただそういうタイプの馬としては,直線が長すぎるのでしょう。5着になりましたが,これはレースが終ってからのもので,4着馬よりは高く評価する必要があると思います。勝ち馬は常識外れで,ゴールドシップのような馬が海外にもいるのだなと僕は思いました。
 ホッコータルマエとエピファネイアが日本で同じレースに出走することは考えられません。この結果から,どういうタイプの馬にチャンスがあるレースなのか,ある程度までは分かったのではないでしょうか。

 「人が変わる」という慣用表現が,人間の精神の現実的本性が変化し得るということを暗黙の前提としているという事実は,背理法によって説明することができます。つまりこの表現が精神の現実的本性の変化を意味しないと仮定すると,非論理的な結論が導かれるという方法で説明されます。その手順を以下に示しましょう。
 現実的本性が変化するかどうかとは別に,この慣用表現が,同一人物と措定可能な人間のある変化を意味しているということはそれ自体で明らかです。ですからそれが本性の変化でないとしても,何に喜びを感じ,また何に悲しみを感じ,そして何を欲して何を欲さないかということに何らかの変化が起こるということだけは,必然的に前提しているわけです。よってこの変化を,現実的本性以外の何らかの変化であると仮定してみましょう。
 喜びや悲しみは完全性の移行です。慣用表現は完全性の移行が生じるということは認めていて,仮定はそれを本性の移行と認めません。ところで,本性の変化と完全性の移行を同等に扱うことができるのは,完全性の移行を,量と質のうち,質的観点から把握することに依拠していました。要するにこの仮定は,完全性の移行は量的なものであって,質的なものではないと主張していることだと解せることになります。再び比喩的にいうなら,同一人物が有している箱の中身の量が変化すると主張しているのであり,同一人物という箱自体が変化するのではないと主張しているのです。ですからこの移行を量的なものであると考えてみましょう。
 だれでも経験的に感じていることだと思いますが,ある出来事が自分にとって喜びであったとして,その出来事がしばしば起こるようになると,たとえそれが喜びであっても,量が減ることがあります。いい換えれば最初は大きな喜びであった出来事が,あまりにしばしば生じることによって,後には小さな喜びとなったり,もはや喜びとも感じられないような出来事となったりすることがあります。もちろんこれは喜びだけでなく,悲しみの場合にも生じ得ます。こうしたことがなぜ生じ得るのかといえば,完全性の移行が量的なものではないからなのです。
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ザBMW&人が変わる

2015-03-28 19:17:44 | 海外競馬
 オーストラリアのローズヒル競馬場で行われたザBMWGⅠ芝2400m。
 トゥザワールドは少し遅れるくらいの発馬。やや押していきました。出走した11頭のうち,前半は前の6頭と後ろの5頭に分かれる形。前6頭の最後尾という位置取りに。発走後に少し押した影響もあったと思いますが,向正面に入るまでは少し行きたがっていたように見えました。
 3コーナーを回って追撃を開始。前に5頭いたわけですが,1頭が脱落し,残る4頭が雁行のような隊列で直線に。必然的に大外になり,抜け出したのは道中は直前に位置し,雁行のときにはトゥザワールドの1頭内にいたHartnell。これには追いつけませんでしたが,後方からインを強襲してきた馬たちは抑え,およそ1馬身4分の1くらいの差で2着でした。
 オーストラリアは長距離は世界的にみてレベルが高いわけではなく,ここは1番人気に推されていました。結果を分けたのは位置取りとコース取りというほかはありません。レースの綾で勝てなかったわけですから,残念ですが仕方ないところでしょう。

 ここからは思惟の属性の下での暗黙の前提の説明に移ります。これについては,一般的な慣用表現として,「人が変わる」といわれるという事例を用います。
 スピノザの哲学で説明すれば,この慣用表現は,同一人物と特定できる人物について,何に喜びを感じ,また何に悲しみを感じるのかということが,顕著に変化したと表象される場合に使われます。また,第三部定理一二第三部定理一三から明らかなように,現実的に存在する人間は,喜びを追求し悲しみを忌避するようになっています。いい換えればそうした現実的本性を備えています。よって第三部諸感情の定義一により,喜びを感じる事柄や悲しみを感じる事柄に変化が生じたなら,欲望にも変化が生じます。つまり何を欲し,何を欲さないかも変化します。よってこの変化が顕著であると表象されるような方面から,同様の慣用表現が用いられる場合もあるでしょう。要するに第三部定理五一でスピノザが示していることのうち,同一の人間に関することが基本感情に生じたと表象されているというのが,「人が変わる」という慣用句が有している意味であるといえます。
 これは表象ですから,たとえば同一人物として規定できるXに対して,AがXは人が変わったといったとしても,真理であるとはいえません。AによるXの表象は,第二部定理一六系二にあるように,Xの本性よりもAの身体の状態を多く示す観念であるからです。しかしここでは,これが真理であるかどうかは問題ではありません。というのは,人間の精神の現実的本性が変化し得るということが暗黙の前提になっているということは,この慣用表現が実際に使われるということのうちにあるからです。よってそれを哲学的に説明したときに,真理ではなく虚偽であるということが判明しても,ここで説明すべき事柄には何の影響も及ぼさないのです。
 まず,この慣用句が程度問題であるという点に注目してください。これは変化が顕著である場合に用いられるわけですが,顕著であるかないかは程度の差だからです。別のいい方をすれば,目に見える変化だけが変化であるわけではありません。目に見えない変化もある筈です。
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王将戦&完全性の意味

2015-03-27 19:39:45 | 将棋
 弘前市民会館で指された第64期王将戦七番勝負第七局。
 弘前市長による振駒で郷田真隆九段の先手になり,相掛り渡辺明王将は銀を7二ではなく6二に上がりました。
                         
 封じ手が指された局面。長考の末,▲8六銀△7六歩▲1五歩と進めました。第1図ですぐに▲1五歩と突けるので不思議な気もします。具体的には分からないのですが2手の交換を入れた方がよいという判断があったのでしょう。
 ここから△同歩▲1三歩△同香▲1二歩までは流れからいって一直線。端を受けるなら△2二角しかありませんが,さすがにそれは指せないだろうと思います。△5三角と打ちました。
 ここでまた先手が昼食を挟んで長考。▲1一歩成として攻め合いを選択。これは清算があってのものと思います。△8六角と切って▲同歩△同飛が先手の歩切れをついた後手の狙いの反撃。▲8七角と受けました。
                         
 これが瞬間的にひどい形なので,▲1一歩成のときに長考したのだろうと思います。この時点で角銀交換の駒得,さらにと金がいて桂馬も取れるのが先手の主張。どうやらこれが正しかったようで,後手の攻めが間に合わずに終局となりました。
 4勝3敗で郷田真隆王将が誕生。王将には初就位。通算5期目のタイトルとなりました。

 AとBというふたつの物体があると仮定します。その他の条件は同一で,Aは自己を維持するために薬物としてのインスリンを必要とせず、Bは必要とします。このとき,Aの完全性とBの完全性を比較すれば,Aの方がより完全であるということはできます。なぜなら,その他の条件が同一なら,AもBもインスリンを必要とする点では同一で,Aはそれを自己の力としてなし得るのに対し,Bは自己の力としてはなし得ないと規定できるからです。完全性すなわち実在性は,という観点からみた本性ですから,その他の条件が同一である以上,AはBよりもひとつ多くのなし得ることがあるという意味になるからです。
 しかし,なし得ることから力という観点だけを消せば本性になるのですから,Bが完全であることに違いはありません。つまり実際にはこの観点からいって,AもBも同じように完全であると考えるべきです。なぜなら、もしもBが自己の力によってインスリンを分泌できるとすれば,Bは本性の矛盾を含む存在となってしまうからです。AもBも,その本性によってなし得ることだけをなし,なし得ないことはなさないというのが,AにとってもBにとっても完全であるということの意味でなければなりません。
 たとえば,人間は馬のように速く走ることはできません。だから人間の本性が不完全であるということにはなりませんし,馬の完全性より劣るということにもなりません。同様に,馬は人間のように二足歩行をすることはできませんが,だから馬は不完全ではありませんし,人間よりも完全性で劣るわけでもありません。これと同じことが、ただ一点だけの相違しかないと仮定されるAとBの間にも成立するのです。
 ですから,たとえば同一人物と規定し得るXが,Aという現実的本性からBという現実的本性になるという完全性の移行が生じるなら,それはXの悲しみです。同様にBという現実的本性からAという現実的本性になるというならそれはXの喜びです。しかしXがAであり続ける限り,それは喜びでも悲しみでもありません。同じようにBであり続けるというだけでは,それは喜びではないし悲しみでもないのです。
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中日新聞杯名古屋大賞典&発症前後の本性

2015-03-26 19:24:45 | 地方競馬
 その後の活躍馬が多く輩出している第31回名古屋大賞典。タッチデュールが出走取消で11頭。
 逃げ先行馬が多く先行争いも予想されましたが,さほど苦労せずにメイショウコロンボがハナへ。2番手にエーシンモアオバー,3番手がアジアエクスプレスで,この3頭が後続に大きく水を開ける展開。サイモンロードとビービーガザリアスが追走し,また2馬身ほど開いてフィールザスマート。スローペースだったのではないかと思います。
 2周目の向正面でエーシンモアオバーは脱落し,逃げたメイショウコロンボと外に並び掛けたアジアエクスプレスのマッチレースに。3コーナーからずっと競り合いましたがメイショウコロンボが最後の最後まで抜かせずに優勝。半馬身差の2着にアジアエクスプレス。直線の入口で3番手まで上がっていたフィールザスマートが9馬身差の3着。
 優勝したメイショウコロンボは暮れの兵庫ゴールドトロフィー以来の実戦で重賞連勝。距離延長は不安視される材料ではありませんでした。展開的なこともありますが,3着以下が大きく離され,2着馬はそれなりの力があると思えますから,上位クラスで戦えるだけの力をつけたとみるべきなのでしょう。この内容なら大レースで好勝負をしてもおかしくないように思えます。父はマンハッタンカフェ。伯父に1997年の北海道スプリントとスーパーダートダービー,1998年の名古屋大賞典,1999年のかきつばた記念を勝ったメイショウモトナリ
 騎乗した武幸四郎騎手は第31回以来7年ぶりの名古屋大賞典2勝目。管理している角田晃一調教師は名古屋大賞典初勝利。

 僕の身体の本性の変化第二部自然学②要請四と関連させていえば,Ⅰ型糖尿病の発症の以前は,僕の身体を維持していくための外部の物体として,薬物としてのインスリンは含まれていなかったのに対して,発症後はそれが含まれるようになったということです。この場合,厳密には発症というのがいつの時点であるかということが問題となり得ますが,それを無視したとしても,いい換えればそれがいつの時点であるのかということを特定することはできなくても,僕の身体の現実的本性が変化したということは間違いありません。なぜなら,この事例において,単に僕の身体をある物体と考えたとき,ほかの条件が同一であるならば,それを維持するのにある薬品,すなわちインスリンを必要とする物体と,必要としない物体というのは,おそらくそれ自体で明らかなほどに別の物体であるからです。いい換えるなら様態的に区別することが可能な物体であるからです。これもまた厳密にいえば,僕の身体の場合に,発症の前後でインスリンを注射すること以外の条件が同一であると断定はできませんし,おそらくそうではないでしょうが,仮にそれが異なっていても,単純に物体としてみたときに,インスリンを薬品として必要とするかしないかという観点から,様態的に区別することができるということは間違いありません。
 したがって,少なくとも内科的な意味においては,医学的処置というのは,ほとんどの場合といっていいと思いますが,人間の身体の現実的本性は変化し得るという暗黙の前提のもとに成立しています。つまりこれを認めていないと,医学は成立しないとさえいえるでしょう。さらに僕たちは,医学的であるとはいえないかもしれませんが,この種の処置を,人間に対してだけではなく,動物や植物に対しても採用し,実行します。それはそうした事物についても,現実的本性は変化するということが,暗に認められているからだといえます。
 さらにもうひとつ,この説明は,喜びや悲しみが完全性の移行によって説明されなければならず,完全性そのもの,他面からいうなら不完全性そのものではないということの理由も明らかにします。
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農林水産大臣賞典桜花賞&第二部自然学②要請四

2015-03-25 19:35:31 | 地方競馬
 兵庫から1頭が遠征してきた第61回桜花賞
 その遠征馬,トーコーヴィーナスがハナへ。ずっと逃げていましたし,内枠が有利のコースで,この馬より内の2頭は末脚を生かすタイプでしたから,これは最も予想された展開。2番手にララベル。リボンスティック,アイスキャンドル,セイエイシャルムの3頭がその後ろを併走しながら正面を通過していきました。前半の800mは50秒9のミドルペース。
 3コーナー手前から逃げたトーコーヴィーナスと追ったララベルで後続を引き離していき,この2頭のマッチレースに。直線でララベルが交わした後,トーコーヴィーナスも食い下がって差し返しにいったように見えましたが,ララベルがこれを退けて優勝。トーコーヴィーナスが半馬身差の2着。3コーナーで3番手に上がっていたアイスキャンドルがそのまま流れ込んで4馬身差の3着。
 優勝したララベルは年末の東京2歳優駿牝馬以来の実戦を勝利で飾り南関東重賞3連勝。遠征してきた2着馬を除けば力量上位。久々の実戦と初めての浦和コースが課題でしたが難なくこなしました。いずれも僅差で3連勝しているように,勝負強いタイプなのでしょう。次は東京プリンセス賞と思われますが,大きく崩れることは考えにくいと思います。父はゴールドアリュール
 騎乗した大井の真島大輔騎手は東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞制覇。第56回以来5年ぶりの桜花賞2勝目。管理している荒山勝徳調教師は桜花賞初勝利。

 医学的処置によって僕の身体の完全性の移行が停止されても,Ⅰ型糖尿病の発症の前後で,僕の身体の本性の変化が生じたことは動かし難い事実です。これもだれもが同意できると思います。つまりこの例でいうと,完全性の移行の完了が,本性の変化の確定になります。本性と実在性の関係から,完全性の移行を本性の移行とみなすことが可能で,本性の移行が完了すれば本性の変化が残るのも,論理的には無理のない解釈です。
 こうした事情ですから,この具体的事例に関して,論理的に説明する必要は薄いといっていいかもしれません。しかしこれが自明であるといえるかといえばそうではないでしょうから,『エチカ』にも訴えておきます。いろいろな方法が考えられるところですが,ここでは岩波文庫版117ページの,第二部自然学②要請四を利用します。
                         
 「人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し,これらの物体からいわば絶えず更生される」。
 ごく単純にいえば,現実的に存在する人間は,生きていくために多くの物体を必要とするという意味です。ですからこの要請の内容に関して反対する理由はまったくないといえるでしょう。水とか酸素とか,人間が生きていくこと,ただ単に生命を維持するという意味において必要なものというのが数多くあるというのは,科学的な意味においても明らかなことだからです。またそうした物体によって,人間の身体が更生されているというのも,やはり科学的真実といっていいだろうと思います。もちろんスピノザ自身もそうしたことを承知の上で,これを要請として呈示していると理解しておくのが妥当であると思います。
 僕の身体の本性の変化の説明の前に,この要請に関する注意をひとつだけ与えておきます。ここで身体が維持のために必要とする物体は,身体の起成原因causa efficiensです。というか,スピノザはそれがcausa efficiensであることを念頭に,身体は維持され更生されるといっています。スピノザは第二部定理一九の論証でこの要請を援用しますが、その援用の仕方から,このように解釈しておかなければなりません。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&Ⅰ型糖尿病の発症

2015-03-24 19:14:53 | 将棋
 一昨日の午後に放映された第64回NHK杯の決勝。対戦成績は森内俊之九段が5勝,行方尚史八段が4勝。対局数の少なさに驚きました。
 振駒で行方八段の先手になり,角換り相腰掛銀。
                        
 先手が穴熊を目指したところで△3五歩▲同歩△2四銀の森内九段の仕掛けはおなじみの手順。そこで▲4五歩と反発に出ました。
 桂馬の頭を狙っているのですから△同歩はあり得ず△3五銀。歩を取って進出できたのは大きいと思います。すぐに▲4四歩ではなく▲3六歩△同銀と呼び込んでから▲4四歩。△4二金引は当然でしょう。
 先手も桂馬を守る必要があり,▲4六角。そこで先に△9二飛と逃げて手を渡しました。
 ▲1五歩△同歩▲1三歩は,攻めるならそう進めるところと思います。ただ△5九角は厳しい反撃で,▲1八飛に△3七銀不成と後手は桂馬を取りきりました。
 これが角にも当たっているので▲6四角は仕方ないかと思いますが,端も緩和されました。△2六銀不成と銀を逃げておき,▲5八金には△7七角成▲同金と切り,△6三歩と打ちました。
                        
 ここではすでに先手が窮しているのではないかと思います。角を切って2九に香車を打っていきましたが,飛車を取られる展開になり,後手が最後まで押し切っています。
                        
 森内九段の優勝。第46回,第51回に続き13年ぶり3度目のNHK杯優勝です。

 まず延長の属性の場合,いい換えれば人間の身体の場合から説明します。これについては,僕がⅠ型糖尿病を発症したことを事例としましょう。
 医学的には,これは膵臓,もっと具体的にいうならランゲルハウス島という部位に関する異常と規定されます。これは身体を構成する部分であって,この異常をそれ自体で身体の「中に起こること」と規定してよいかは意見が分かれるところでしょう。ただ,この異常を十全な原因として発生する,血糖値が異常なほど高い値で維持されるということに関しては,身体の「中に起こること」と規定することに異論はないものと思います。ですから第二部定理一二第二部定理一三により,僕はそれを知覚します。
 このとき,これは単に身体の中に起こっているというだけでなく,身体の完全性をより大きな完全性からより小さな完全性へと移行させているという点についても,おそらく異論は出ないでしょう。ですから僕のその知覚は,第三部諸感情の定義三により,悲しみを伴うような知覚であったわけです。
 しかし,救急車で病院へと運ばれ,適切な処置を受け,薬物としてのインスリンの注射を行うようになると,それは移行ではなくなります。というか,高い値で維持されていた血糖値が低下するということは移行,今度はより小なる完全性からより大なる完全性への移行であって,僕は病院のベッドで自分の身体の状態が楽になっていくことを,喜びとともに知覚しましたが,それらの処置によってその状態が持続するようになると,もはや移行は生じなくなるわけです。ですから僕は何も知覚しなくなりますし,喜びや悲しみを感じたりもしなくなりました。もちろん,僕は以前はインスリンの注射を必要としてはいませんでしたから,そのことを想起し,それとインスリンを注射している現在の知覚とを比較することによって,自身の身体の完全性が大なる完全性から小なる完全性へと移行したと表象し,それで悲しみを感じるということはあり得ます。あるいは論理的にも成立するといえます。ただこれは精神の表象に関連するのであって,目的としている,延長の属性によって説明される悲しみではありません。
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第四部定理七&暗黙の前提

2015-03-23 19:21:28 | 哲学
 第三部定理四三を一般的な意味で支える定理として,第四部定理七があります。スピノザによる配置の意図からすれば,後発の定理が先行の定理を支えるということはあり得ませんが,憎しみodiumが愛amorによって除去され得るという点に関しては,こちらの定理でも論証が可能です。
                         
 「感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない」。
 この定理は,一般に人間のうちに受動感情が生じた場合に,いかなる方法によってそれを抑制したり除去したりすることができるかということを示す目的があると僕は解します。というのも岩波文庫版の訳注にあるように,スピノザの原文では,それよりも強力,という部分は,抑制されるべき感情よりも強力,とされているからです。つまりスピノザは何らかの意味で,ある種の感情affectusが抑制されなければならないと考えていたのだろうと推測するのです。
 ここで反対の,といわれている感情は,このブログでいうところの反対感情ではなく相反する感情であると僕は考えます。したがって,ある種の感情の抑制ないしは除去のために必要とされるのは,それを感じる主体において,その感情とは両立することができない別の感情であり,その別の感情の方が強い場合には,前の感情が抑制されたり除去されたりすることになる,というのがこの定理の意味です。たとえばデカルトの哲学では,理性によって感情を統御することが可能であると主張されているのですが,スピノザの哲学だと,少なくとも第一義的には,それは不可能であるということになっているわけです。
 この定理が,たとえばXへの憎しみが,Xへの愛によって軽減されたり消滅したりするということを意味として含むということは,それ自体で明らかだといっていいでしょう。ただし,この定理は一般的なものなので,その逆も真であるということになります。つまりある人間がXを愛していたとしても,後にXを憎むなら,その憎しみが愛より強力である限り,その人間のXへの愛は抑制され,消滅するでしょう。この場合には第三部定理三八により,Xに対する憎しみは,とても強力なものとなってしまうのです。

 様態的に区別することが可能な無数の同一人物が存在する。語義矛盾を含むようなこの命題が,実は成立します。様態的に区別されるのは現実的に存在する限りにおいてで,同一人物であるのは属性に包容される限りにおいてであるからです。そしてこの点を踏まえたら,奇異な結論もそんなに不可思議なものではないことは,わりと容易に理解できるのではないかと思います。というのは,僕たちは,たとえば人間の現実的本性essentia formalisが変化するということは,認めていると思われるからです。
 同一人物に関する規定は,人間だけでなく,すべての個物res singularisに妥当します。おそらく僕たちは,人間だけでなく,ある種のres singularisに関しても,現実的本性の変化を認めています。しかし,認めているということについては,やはり人間の場合で説明するのが方法として最適だと思いますので,それだけを例とします。これは人間が延長の属性Extensionis attributumの下で把握される場合にも,思惟の属性Cogitationis attributumの下で把握される場合にも同様です。
 ただし,認めているといっても,それは常に意識されているというような意味ではありません。むしろそれが暗に前提されているというような意味に解してください。でも,暗に前提されているという点については,これを認めておかないと,僕たちが日常的な語彙として含んでいるものが成立しなくなります。
 もう一点,たとえばライプニッツが喜びlaetitiaを感じ,また悲しみtristitiaを感じるたびごとに,ライプニッツの現実的本性は変化するというのが,完全性の移行を質的な観点から解した場合の結論です。僕たちは一般的にそのような仕方で現実的本性が変化するということを認めているわけではありません。つまり僕が暗黙の前提といっているのは,そのような意味合いにおいてではありません。この結論が奇異と思われるのは,同一人物が様態的に区別されるという点のうちにあるだけでなく,区別可能な同一人物が無数に発生するという点にもあるといえます。しかし僕の考えだけいえば,それは程度問題でしかないです。なので,実際には奇異ではないということを理解するのは,さほど困難ではないでしょう。
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日本選手権競輪&同一人物

2015-03-22 19:15:58 | 競輪
 京王閣競輪場で6日間にわたって開催された第68回日本選手権競輪の決勝。並びは新田-大槻の北日本,武田-平原-飯嶋の関東,浅井-金子の中部,原田-井上の西国。
 金子がスタートを取って浅井の前受け。3番手に武田,6番手に新田,8番手に原田の周回に。残り2周のホーム手前からの原田の動きに呼応し,まず武田が浅井を叩いて前に。コーナーで原田がその外を上昇,バックでは前に出て,3番手に武田,6番手に新田,8番手が浅井の一列棒状に。そのまま打鐘で原田の先行。バックの手前から武田が発進すると井上が牽制。この抵抗をはねのけて武田が前に出ましたが,直線では力尽き,武田の後ろから出た平原,外を捲り追い込んだ新田,新田を追うように大外から迫った浅井の3人がほとんど並んでゴール。1着と2着は写真判定となり,制したのは新田。平原が微差の2着。浅井がタイヤ差の3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は昨年9月の青森記念以来のグレード制覇。ビッグは昨年4月の共同通信社杯以来の3勝目でGⅠは2010年12月のSSカップみのり以来の2勝目。ただこれは一発勝負なので,複数日にわたるGⅠは初優勝。脚力はトップクラスで,いつ勝ってもおかしくないだけのものを前からもっていたのですが,組立に失敗というケースも多く,一時はやや勝負弱い印象を抱いていました。このレースは純粋な脚力勝負のようなレースになりましたので,十全に力を発揮した結果といえるのではないでしょうか。全面的な信頼は置けないのかもしれませんが,常に有力選手であるのは間違いないでしょう。

 ライプニッツの本性が思惟の属性に包容される限りにおいて存在する場合,その本性が変化をするということはありません。ですから現在すでにライプニッツは現実的に存在しない,つまり死んでいるわけですが,その本性はライプニッツが現実的に存在していた,つまり生きていた時代と同様の形相で,思惟の属性に包容されて存在しています。第二部定理八系は,ライプニッツが現実的に存在しているか存在していないかということと,思惟の属性に包容されているライプニッツが存在するかしないかということは無関係であるという意味を明らかに含みます。つまりこの様式でのライプニッツの本性は,ライプニッツが産まれる前も,生きている間も,死んだ後にも,同一の形相で存在するのです。僕たちがすでに死んでしまったライプニッツについて考察することが可能であるということの根拠も,究極的にはここに求められるべきであると僕は考えています。
 このことから理解できるのは,ライプニッツが現実的に存在している間にライプニッツの現実的本性に変化が生じたとしても,思惟の属性に包容されているライプニッツの本性は変化しないということです。いい換えればこの意味においては,ライプニッツは不変のままライプニッツであり続ける,永遠は時間によって規定できないので,あり続けるといういい方は本来は相応しくありませんが,あえてその間違った用法を使えば,あり続けることになります。つまりこの意味においては,ライプニッツは同一人物であり続けるということになります。この場合,ライプニッツという固有名詞は,どんな固有名詞と入れ替えても同じように論証が成立します。すなわちどんな個物res singularisも,永遠の観点からは同一のres singularisとみなしてよいということになります。
 よって,現実的本性の変化により,様態的に区別することが可能な無数のライプニッツが存在するということと,それら区別可能なすべてのライプニッツは同一人物であるということは,両立するのです。そしてこれが,すべてのres singularisに妥当することになります。
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ランヴェットステークスとジョージライダーステークス&鍵

2015-03-21 20:03:10 | 海外競馬
 オーストラリアのローズヒルガーデンズ競馬場で行われたGⅠ2レースに日本馬が出走しました。
 ランヴェットステークスGⅠ芝2000mに出走したトーセンスターダムは最内枠からインの3番手を追走。逃げていた馬が向正面から後ろを離して大逃げに。残り800m付近で2番手に上がったトーセンスターダムは直線はやや外目に。内から1頭,外から1頭の3頭で競り合い,この競り合いには勝ち,逃げ馬も捕えたのですが,内にいた馬よりさらに内から抜けてきたContributerが逃げ馬とトーセンスターダムの内にいた馬の間を伸びて優勝。1馬身半近くの差で2着でした。結果的にインを掬われて負けたという内容で,少し残念でした。
 ジョージライダーステークスGⅠ芝1500mには2頭。リアルインパクトが最内枠から逃げ,ワールドエースは後方3番手付近に控えるレース。ワールドエースは3コーナーから外を捲っていくようなレースになりましたが,伸びを欠いて11着。たぶんもっと前に位置していなければ苦しいレースであったのでしょう。リアルインパクトは逃げたまま直線に。後続に並ばれてから粘り腰を発揮。最後は内から並び掛けてきたCriterionと2頭で抜け出し叩き合ってゴール。映像では分かりませんでしたが,前に出ていたリアルインパクトの優勝でした。逃げるという競馬をしていた馬ではありませんから,騎手の好判断だったといえるのではないでしょうか。高い能力はありますが,常にレースでそれを示すことができないのが弱み。展開に恵まれたことも確かと思いますが,これくらいの力はあるということです。
 優勝したリアルインパクトは昨年暮れの阪神カップから連勝。大レースは2011年の安田記念以来となる2勝目。父はディープインパクト。半兄に2007年のオーシャンステークスを勝ったアイルラヴァゲイン。騎乗したオーストラリアのジェームズ・マクドナルド騎手は日本馬に騎乗しては初めての大レース制覇。管理している堀宣行調教師は2012年の安田記念以来の大レース制覇で海外では初勝利。日本馬の海外GⅠ勝利は昨秋のコーフィールドカップ以来。ジョージライダーステークスに日本馬が出走したのはこれが初めてでした。

 一般に人間の本性は,神の属性に包容される限りでも存在すると考えられなければなりません。これは思惟の属性のうちに,観念として包容されていると考えるのが最も容易に理解できるでしょう。また,そのように理解しておくのが適当でもあると思います。第二部定理八をそのまま援用することが可能になるからです。
 このゆえに,一般に人間が現実的に存在しなくなったとしても,いい換えれば人類が滅亡したとしても,人間の本性がそれと同時に消滅してしまうわけではありません。これは,人間の本性が思惟の属性に包容されている限りにおいて存在するといわれる場合には,永遠に存在するということから明白です。永遠は時間によっては規定できないからです。
 これは人間に一般の本性です。すなわちどの人間にも該当するような本性です。ですから第四部定理三五で示されているような本性でなければなりません。そうでないとすべての人間において一致する本性ではあり得ないからですこのことから,奇異な結論の鍵となっているのが受動であるということもよく分かります。なぜなら,第四部定理三五は人間の理性について言及しているからです。理性は精神の能動です。つまり能動的である限り,一般に人間の本性は,永遠から永遠にわたって,同一のものに留まります。その変化は,受動にのみ依拠するのです。
 ここでは一般に人間の本性を例示しました。しかしこのことは一般的な本性に関してはどんな個物res singularisの本性にも妥当します。これは上述の説明の人間の部分を,ほかのres singularisの一般的名詞に置き換えても成立するということから明らかです。よってどんなres singularisにとっても,奇異な結論の鍵がそのres singularisの受動にあるということになります。
 僕の考えでは,これと同じことが,res singularisの一般名詞にのみ該当するだけでなく,具体的名詞,あるいは固有名詞の場合にも成立するのです。つまり,人間の本性が思惟の属性に包容されて存在するのと同じ仕方で,たとえばライプニッツの本性も存在するのです。
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王将戦&奇異な結論

2015-03-20 19:54:39 | 将棋
 今井浜温泉で指された第64期王将戦七番勝負第六局。
 郷田真隆九段の先手で角換り相腰掛銀。後手が△6五歩と突いたときに先手が▲6四角と打つ将棋で,今度は渡辺明王将新手を放ちました。前局と同じ局面での新手ですから,プロ間で課題となっている局面といっていいものと思います。先手は2筋に継ぎ歩から垂れ歩で拠点を設けました。
                         
 先手の継ぎ歩で伸びた歩をさらに伸ばした局面。これが封じ手でした。
 先手は2筋は受けずに▲9五歩。封じ手は予測不可能な手ではないので,昨晩のうちにある程度は考えて,これでいけるとみていたものと推測します。後手も応じずに△2七歩成でしたから,こちらもこれで大丈夫と考えていたのではないでしょうか。
 ▲9四歩は当然で△2三歩と打ちました。2筋を伸ばしてと金を作ったのは,この歩を打つ目的だったということなのでしょう。先手は▲4九飛と引きました。この手は僕にはよく分からないです。
 手を渡された後手は△9六歩。▲同香△9五歩▲同香で△8四角。香車は受からないので▲9三歩成△同桂▲9四歩としました。△9五角▲9三歩成△同飛までは一本道の変化ではないでしょうか。そこで▲9六歩と打ちました。
 角を逃げるのでは辛いようで△7七角成と切り,▲同金に△9七歩の垂らし。先手は▲5五桂とここで攻め合いにいきました。
                         
 僕はこの局面は先手に分があるように思います。もしもそれが正しいなら,新手が不発であったか,その後の対応に問題があったかのどちらかでしょう。
 この後,後手が入玉して,逆転したのではないかと思いますが,最後は捕まってしまいました。
 郷田九段が3勝目。第七局は来週の木曜と金曜です。

 順番ではライプニッツの世界観が考察の対象になります。ただ,スピノザの説明の論証過程において,当該の論証とは無関係であるために,放置しておいた事柄がひとつだけあります。このブログの全体の主旨からは,そちらの方が大事です。なので先にそちらを説明しておきましょう。
 完全性の移行を質的に解すると,ライプニッツが喜びを感じ,また悲しみを感じるそのたびごとに,ライプニッツの現実的本性に変化が生じます。かくして様態的に区別することが可能な無数のライプニッツが現実的に存在する,ライプニッツがすでに死んでいることを考慮に入れたなら,様態的に区別可能な無数のライプニッツが存在したということが結論として浮上します。もちろんこれはライプニッツに特有の結論ではありません。現実的に存在する人間が,喜びを感じ,また悲しみを感じた場合には,完全に同一の帰結が生じるからです。ゆえに現実的に存在するある人間は,実は様態的に区別可能な無数の人間であって,この意味では特定の人間を同一人物であると措定することは誤りであるということになります。おそらくこの結論は,非常に奇異なものと感じられるのではないでしょうか。僕自身にとっても,これは尋常と思えない主張です。
 まず,こうしたことが現実的に存在する人間にのみ妥当するということに注意を払う必要があります。現実的に存在する人間に特化していえば,この奇異な結論を導くのは,第四部定理四です。ただしこの定理は人間に特化して言及されているだけであって,現実的に存在する個物res singularisのすべてに妥当する筈です。つまり奇異な結論は,ただ人間にだけ該当するわけではなく,現実的に存在するすべてのres singularisに当て嵌まると僕は考えます。
 一方,res singularisの存在が,神の属性に包容されている限りで考えられる場合には,これは妥当しません。この場合には第四部定理四系で示されていることが成立しないからです。res singularisが受動に与るのは,現実的に存在する場合だけです。つまり奇異な結論の鍵を握るのは受動です。
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京急電鉄賞京浜盃&スピノザの説明

2015-03-19 19:20:57 | 地方競馬
 昨晩の第38回京浜盃
 一斉の発馬から逃げたのはラッキープリンス。正面ではヴェスヴィオが単独の2番手でしたが,向正面に入るとオウマタイムが押さえきれない感じでその外に並んでいき併走に。4番手がフラットライナーズになり,エンターザスフィア,ストゥディウムとカールトンガーデン,パーティメーカーまで,目立った間隔なしに追走しました。ミドルペース。
 オウマタイムが手応えのよさに任せて3コーナーでは早くも先頭に。ここからコーナーで差を広げていき,フラットライナーズだけが外を追い上げて2番手に。直線に入ってもオウマタイムのスピードは衰えず,ラストは流したためにラップを要しはしたものの,8馬身差で楽勝。早めに追い上げたフラットライナーズが2着を死守して同一厩舎のワンツー。内から巻き返そうとしたヴェスヴィオがクビ差で3着。
 優勝したオウマタイムは10月の鎌倉記念以来の南関東重賞2勝目。前走は中央のヒヤシンスステークスに出走。それまで逃げていなかったのにスピード能力の高いJRAの馬を相手にハナを奪うという見どころのあるレースをしていました。それ以前の戦績から,混戦になると思っていただけに,この圧勝は驚き。ここにきて馬が力をつけてきたとみるべきなのでしょう。距離延長がプラスになるという感じの内容ではありませんでしたが,同世代が相手なら,能力差で十分に相殺が可能であるように思います。父はタイムパラドックスアストニシメントタカフジの分枝。
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年12月のゴールドカップ以来の南関東重賞制覇。京浜盃は初勝利。管理している船橋の林正人調教師も京浜盃初勝利。

 ライプニッツがスピノザを訪問することを例として考察した場合,延長の属性の下では,ライプニッツの身体が,この運動の十全な原因の一部であることは確実です。また,思惟の属性の下では,その観念を肯定するライプニッツの意志作用が,実際にそうであったか否かは確かめる術がありませんが,同様に十全な原因の一部であり得たことは間違いありません。これは一例であって,同じような論証をするなら,人間のあらゆる身体の運動に対して,身体自体が十全な原因の一部であることは確証できる筈です。また,あらゆる思惟作用に対して,何らかの意志作用がその十全な原因の一部を構成することも,論証できるでしょう。そしてこれらは最近原因ですから,そうした運動や思惟作用を十全に説明するための,必要な説明の一部を構成しなければなりません。すなわち,スピノザの哲学では,人間の身体の何らかの運動を正しく説明するために,その身体自体を説明に含める必要があります。同様に,人間の精神の何らかの思惟作用を正しく説明するために,すでにその精神のうちにあるとみられるある観念,同じことですがある意志作用を含める必要があるのです。
 だからといってそれらは,人間の自由の領域に含まれるわけではありません。仮に第一部定義七の意味で自由を規定したところで,それは神的自由なのであり、人間にはその意味での自由すら認められることはありません。そしてライプニッツが神の自由の領域を規定する際には,第一部定義七の意味で神は自由であるというなら,むしろ神を運命的なものと規定することになるという意見があったと思われます。ですから人間の精神を構成する観念や人間の身体が思惟作用および運動の正しい説明に含まれなければならないとしても,人間が運命的なものであることには変わりないとライプニッツは判断すると思います。また,僕もライプニッツの立場からは,その判断に同意できます。
 しかし,ライプニッツの世界観からしたら,このような説明すら許されないように僕には思えるのです。いい換えれば,ライプニッツはスピノザ以上に,人間を運命的な存在と規定していると思えるのです。
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女流王位戦&ライプニッツの欲望

2015-03-18 19:18:07 | 将棋
 昨日の第26期女流王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が20勝,清水市代女流六段が不戦勝の1勝を含めて11勝。
 振駒で里見名人の先手になり角道オープン向飛車。清水六段が銀冠穴熊を目指そうとしたのですが,うまく動かれ阻止されてしまい,その時点で少し苦しくしていたのではないかと思います。
                         
 5六の歩を力強く払った局面。持ち歩と玉型の関係が悪いので,後手は攻めていくほかなさそうです。となれば△6五銀はこの一手だったといえそう。▲同金の方が普通かもしれませんが,▲4七銀とここも力強い指し手。△5六銀▲同銀は一本道でしょう。
 すぐに角を切っても後続がないので△2六金と打ってその準備。▲2七銀が最も普通と感じられますが,▲4七銀と持駒を温存して受けました。
 これですと角を切って△2七銀が成立するのですが,反撃されて後手が勝てないそうです。なので△3三桂と跳ねたのですが,▲3八金と上がられては後手の攻めが続かなくなってしまいました。
                         
 手順中の△3三桂はいかにも遅きに失したと感があります。感想にあるように,第1図より前に跳ねておかなければならなかったということでしょう。
 里見名人が挑戦者に第24期に失冠したタイトルを2期ぶりに獲りにいくことになりました。第一局は来月22日です。

 スピノザを表象したときに含まれるライプニッツの意志作用は肯定的であることと,この表象によってライプニッツの完全性がより小なる完全性からより大なる完全性への移行を伴うことを,同列に扱ってもよいのではないかというのが,僕がライプニッツの思惟作用のダイナミズムを説明する際の最大の主張内容になります。ライプニッツがスピノザの哲学に,賛同するか反発するかは別に,興味を有していたことは間違いありません。ですからその思想の内容を別に,単独でスピノザを表象することは,ライプニッツにとって,厭わなければならない表象ではなかったと推定できます。少なくともライプニッツの精神の完全性を,大なる完全性から小なる完全性へと移行させるような表象ではなかった筈だと思うのです。いい換えれば,ライプニッツはスピノザを愛することはあっても,憎むことはなかっただろうと思うのです。少なくとも,実際にスピノザを訪問するまでは,この推定が成立すると考えます。
 スピノザを訪問することをライプニッツが想像し,その表象像を肯定するということ,そしておそらくその表象像がライプニッツにとっての喜びであったこと,これを仮定するなら,ライプニッツの精神のうちには,実際に訪問するという欲望が生じます。第三部諸感情の定義一は,このような意味においてその欲望が,受動的である限りのライプニッツの現実的本性であると規定しているからです。もっとも,こうしたことは,経験的に考えた方が自然に理解できるでしょう。ある事柄が自身にとって喜びであると感じることと,その事柄が現実化してほしいと思うことは,大抵の場合は分けて考えることが困難なほど,人間の精神のうちでは同時に存在するであろうからです。
 これがライプニッツの意志作用が,スピノザを訪問する場合の十全な原因の一部を構成し得るということの一例です。もちろん実際にそれがライプニッツに生じたというのではありません。また,これ以外の仕方でも説明できるでしょう。しかしどんな場合でも確実性は担保できません。ただ一般に,これがすべての人間の思惟作用にも妥当し得るということは,間違いない筈です。
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農林水産大臣賞典黒船賞&ライプニッツの意志作用

2015-03-17 19:19:35 | 地方競馬
 半数以上の馬には勝機がありそうだと思えた第17回黒船賞
 先手を奪ったのはサクラシャイニー。マウンテンダイヤが並び掛けていきましたが,コーナーワークで差が開きました。その間にダノンレジェンドが2番手に並ぶところまで追い上げ,セイクリムズン,ドリームバレンチノ,タイセイレジェンド,タガノジンガロ,ジョーメテオという順で追走に。ハイペースでした。
 3コーナーでダノンレジェンドが単独で2番手に。マウンテンダイヤは一杯で,ドリームバレンチノが3番手。逃げたサクラシャイニーはコーナーで後退。直線入口ではダノンレジェンドが先頭で,ドリームバレンチノが追い掛ける形。しかし直線に入ると前にいたダノンレジェンドが差を広げて優勝。2馬身差の2着にドリームバレンチノ。直線で内目から追い上げたタガノジンガロが半馬身差で3着。
 優勝したダノンレジェンドは前走のカペラステークスに続いて重賞連勝。斤量がやや有利,先行できる脚質から,有力候補の中でも上位に位置づけられた馬。逃げたときの方がよい結果を残していましたから,そうでない展開でも結果を出せたのは大きな収穫であったと思います。直線が短いコースでの重賞では,今後も侮れない存在でしょう。
 騎乗した丸田恭介騎手,管理している村山明調教師は黒船賞初勝利。

 第三部定理二から分かるように,一般に精神が身体を運動に決定することは不可能です。ですから,ライプニッツの意志作用が,スピノザを訪問するという身体の運動の原因であるということはありません。つまりこの意味でライプニッツの意志作用が訪問するという身体の運動の十全な原因の一部を構成すると僕は主張するのではありません。これはあくまでも,ライプニッツの精神のダイナミズムに関連してのことです。したがって第二部定理九を援用する方がよいでしょう。
 スピノザとライプニッツは,会見する以前から,書簡でのやり取りを行っていました。またライプニッツは『エチカ』の内容に強い興味を抱いていました。こうしたことから類推すれば,実際に訪問する以前から,ライプニッツの精神のうちに,訪問の表象像があったということ,いい換えればライプニッツがスピノザを訪問することを想像していたことはだれにも疑い得ないと思います。そして第二部定理一八により,その想像はほかの表象へと変移していったことも確実です。
 この変移がどのような変移であったかは,ライプニッツ以外には不明です。ですから僕は思惟属性の下でライプニッツの訪問を考えた場合に,部分的原因であり得るといい,部分的原因であったと確定的ないい方はできなかったのです。そして原因であり得たというのは,たとえば以下に示すような場合です。
 第三部定理一二とか第三部定理一三というのは,第三部定理六第三部定理九から帰結します。したがってこれは人間の精神の現実的本性に属します。なので,ある人間の精神を現実的に構成する観念は,その現実的本性を増大するものが多くを占めます。あるいは現実的本性を減少させるものを阻害するものが多くを占めます。そこでもしもライプニッツの精神のうちにスピノザの表象像が生じたとき,ライプニッツの完全性の移行が大なる完全性から小なる完全性への移行であるなら,ライプニッツは現実的本性からその表象を排除するように決定されます。しかし史実から考えれば,そうしたことがライプニッツの精神のうちでたびたび生じたとは,少なくともある時点までは困難だと思うのです。
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