スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
『ドストエフスキイの生活 』で指摘されているように,イワンが自作の小説をアリョーシャに聞かせるとき,イワンは大審問官の立場に立っているわけではありませんし,イエスの立場に立っているというわけでもありません。この意味においてイワンの二分法 を解釈することは誤りであると僕は考えます。
一方,イワンにとってはこの小説を読ませるあるいは聞かせる人物としてはアリョーシャは最適であったと僕は考えています。それは,たとえイワンが大審問官の立場でイエスの立場にあるアリョーシャにこれを読ませているのだとしても,アリョーシャはそれには引っ掛からないだろうという確信めいたものがイワンにはあったのだと推定できるからです。他面からいえば,イワンはアリョーシャをそのような人間と確信していたからこそ,このプロットが『カラマーゾフの兄弟 』の中に組み入れられているのだと僕は考えます。
新約聖書の中には,イエスが悪魔によって試されるというプロットがいくつか存在します。それになぞらえていえば,この部分は,イワンがアリョーシャを試しているのだと解せなくもありません。でも僕はそうは考えないのです。なぜならそれが誘惑であったとしてもアリョーシャはその誘惑を断つということがイワンには初めから分かっていて,だからそれが誘惑にはならないということもイワンには分かっていたのだと僕は解するからです。
新約聖書における悪魔の誘惑というのは,文字通りに誘惑でした。悪魔はイエスがその誘いに応じるかもしれないと思っていたと解せるからです。ですが『カラマーゾフの兄弟』のこの部分のプロットは,それに対比させていうならパロディでしかないと僕は思います。イワンはアリョーシャを惑わせることはできないと最初から分かっていたのだから,それは文字通りの誘惑ではあり得なかったと思うからです。イワンにとって自作の小説を聞かせるのに最も相応しい人物がアリョーシャだったと僕が考えることの意味は,このようなことなのです。
第五部定理一五証明 が第五部定理一四 を援用しているという事実は,さらに次の事柄を帰結させると僕は考えます。
第五部定理一四は,身体の変状 corporis affectiones,affectiones corporisや外部の物体corpusの表象像imagoを神の観念idea Deiに関係させることができるといっています。それは共通概念notiones communesを通してのことであり,かつ,現実的に存在する人間にとってそうすることが可能であるというより,現実的に存在する人間は必然的にnecessarioそうしていると解しておくべきでした。この場合には,現実的に存在する人間が関連させる神の観念は,絶対に無限absolute infinitumである神の観念ではなく,何らかの様態的変状modificatioに様態化した神,限りにおける神でなければなりません。現実的に存在する人間は必然的に共通概念を形成するのですが,それは自分の身体corpusが外部の物体に刺激される様式を通じて,個別に認識されるものであるからです。
したがって,このことを援用して論証されている第五部定理一五 における神も,絶対に無限である神であるというより,様態的変状に様態化した神,限りにおける神であると解さなければなりません。すでにいったように,このことは第五部定理一五の文言そのものからも帰結しなければならないのですが,論証の方法からも同じような結論が出てこなければならないことになるのです。
第五部定理一五はふたつの文章から成立しています。その最初の文章は,現実的に存在する人間が絶対に無限である神を愛すると解せるようになっています。しかしふたつめの文章は,現実的に存在する人間が神をより多く愛したり少なく愛したりすることがあるということを前提としなければ成り立たないのですから,その解釈を否定しているわけです。よってこの定理Propositioの意味は,自己ならびに自己の感情affectusを明瞭判然と認識する人間は,様態的変状に様態化した神を愛するという意味でなければならないことになります。
僕はここに飛躍を感じます。というのは,様態的変状に様態化した神というのは確かに神ではあります。ですがAという様態的変状に様態化した神というのは,Aという様態modiに変状した神でもあり,これは要するにAそのもののことでもあるからです。神を愛するのとAを愛するのは同じでしょうか。
岩波文庫版の『エチカ』は上下二巻でセットです。上巻が第一部から第三部までで,下巻が第四部と第五部になっています。上巻の冒頭に訳者である畠中尚志による『エチカ』についてという解説めいたものがあり,下巻の最後には索引が添えられています。
これが最初に発行されたのは1951年の秋,第1刷は上巻が9月5日,下巻が10月25日のことでした。僕はこの版は所有していませんし,目にしたことすらありません。
1975年の新春から春にかけて,改版が発行されました。上巻が1月16日,下巻は3月17日のことです。この改版の理由は,その改版自体の中で畠中自身が述べています。ひとつは紙型が傷んでしまったことであり,もうひとつは文語調の個所を改め,新かなを用いるためでした。紙型が傷んだという事実から分かるように,『エチカ』は改刷されていました。上巻は第19刷,下巻は第18刷での改版でした。
僕がこのブログを開始したのは2006年3月で,使用する『エチカ』 としてこの版を示しました。つまり僕が所有していたのはこの版です。改版も増刷はされていて,僕が所有していたのは上巻が1991年5月10日の第33刷,下巻は1990年7月5日の第30刷です。これは僕が『エチカ』を初めて読んだのがそれくらいの時期であったということも意味します。
その後,『エチカ』はまた改版されました。畠中は1980年に鬼籍に入っているので畠中による理由の説明はありませんが,紙型がまた傷んだのかもしれません。そしてこれを機に文字が大きくなりました。改版の日は上下巻とも同じで2011年12月8日。上巻の第56刷,下巻の第51冊以降はこの版になっています。
僕は最近になってこの改版は入手しました。上巻は2017年2月6日の第61刷,下巻は2016年7月5日の第55刷です。文字が大きくなった分,ページ数が増えています。このことが僕のブログにやや不都合を生じさせていることにようやく気付いたのです。
第五部定理一五証明 から確定できる事柄がいくつかあります。
この証明Demonstratioは第五部定理一四 を援用します。そして第五部定理一四証明 は第五部定理四 を援用します。第五部定理四で明瞭判然たる概念といわれるのは共通概念 notiones communesです。したがって第五部定理一五 で自己ならびに自己の感情affectusを明瞭判然と認識するといわれる場合にも,共通概念を通した十全な思惟の様態cogitandi modiが含まれていると解しておくのが妥当です。第三部定理五三 で判然といわれるときは,明らかに表象像imago,すなわち混乱した観念idea inadaequataが意味されているのですが,この定理Propositioはたとえそれが十全に認識される場合にも成立することをスピノザは認めていると解さないと,一連の証明の流れは不成立となるおそれが生じます。ですからそのことが意味されていると僕は解します。すでに説明したように,一般に十全な観念idea adaequataは混乱した観念より明瞭判然としていること,ならびに,たとえばAを最も明瞭判然と認識するということはAを十全に認識するということですから,このことが成立しているということを否定する必要はないと僕は考えます。
次に,第三部諸感情の定義六 により,愛は外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeです。このことは第五部定理一四に訴えられているので,第五部定理一四そのものに因果関係が含まれていると解する必要があります。これもすでにいったように,第五部定理一四の論証で援用される第一部定理一五 は,因果関係を捨象しては考えられない定理なので,僕はこのこと自体には何の問題もないとみます。ただ,第五部定理一四の文言自体は,単に神の観念に関係させることができるといわれていて,因果関係が明晰になっていません。これは原因としての神と関連させることができるという意味に把握しておくのがよいでしょう。
最後に,第五部定理一五証明が第五部定理一四を援用するとき,第三部定理五三に示されている喜びlaetitiaが必然的に原因としての神の観念を伴っていなければならないようになっています。つまり第五部定理一四は,それができるということではなく,必然的にそうしているという意味であるべきだと思われます。これは僕が解するその定理の意味に合致しています。
昨日の第65期王座戦 挑戦者決定戦。対戦成績は中村太地六段が0勝,青嶋未来五段が1勝。
振駒で青嶋五段の先手となりノーマル四間飛車穴熊。中村六段も穴熊に潜りました。
後手が飛車を寄って角の頭を攻める構えをみせた局面。先手はじっとしていられませんから☗4五歩 と仕掛けました。こうなれば☖同歩☗3三角成 ☖同金直で角交換。先手は☗6四歩☖同歩と突き捨ててから☗4五飛と走りました。後手が飛車を7筋に回ったのでひとつの狙い筋。☗8五飛と回られてはいけませんから☖8二飛と戻りました。
ただ,この局面で先手に思わしい手段があまりなかったようです。いきなり☗7一角と打ち込み☖8三飛☗5三角成☖同飛の手順はさすがに無理筋という感じがしました。
すぐに8筋に飛車を回らず☗4四歩☖4二金 としてから☗8五飛。これには☖8三歩の一手。
どうするのかと思いましたが☗6三歩と垂らして☖同飛に☗7二銀 と打っていきました。後手が☖5三飛と逃げたときに☗8一銀成で桂馬を取り☖4四金☗9一成銀で香車も入手。ただ☖5五歩と突かれました。
先手が香車を取ったのは☗4九香と打つ狙いで,実戦もそう指したのですが☖5六歩以下一直線に近い攻め合いとなり,後手が勝っています。5六の銀を飛車先の歩で取られるのは痛すぎたようで,☗9一成銀のところでは☗4五銀とぶつけてしまった方がよかったのでしょう。
中村六段が挑戦者に 。第61期 以来4年ぶりの王座戦出場。第一局は9月5日です。
僕の試論が成功しているか否かはともかく,第三部定理五三 でスピノザがいわんとしているところを僕がどのように解しているのかということについては理解してもらえたものと思います。なのでここからは第五部定理一五 の証明Demonstratioの検証に移行します。
まずスピノザは,もしも人間が自分自身や自分の感情affectusを明瞭判然と認識するなら,その人間は喜びlaetitiaを感じるとし,このことを第三部定理五三に訴求しています。第三部定理五三は感情について何かをいっているわけではありませんし,直前の第五部定理一四 も,感情について言及しているわけではありません。ただスピノザは身体の変状 corporis affectiones,affectiones corporisと感情とを,あまり区別することなく使用することがあります。ここはその一例といえるでしょう。ただ,第三部要請一 は,身体の変状によってある感情に刺激され得るということは少なくとも示していて,感情とは身体の変状の一部であると解せなくもありません。厳密に検討するならこれも追求しなければならないでしょうが,僕はこのことについては今は問題視しないことにします。
次にスピノザは,この喜びが神の観念idea Deiを伴っていなければならないといい,これについては第五部定理一四を援用します。ここでも身体の変状と感情の混同がみられますが,このこともここでは問題視しないことにします。
さらにスピノザは,それが神の観念を伴っているなら,第三部諸感情の定義六 によってそれは神への愛amorであるといっています。この定義Definitioをみると分かるように,単に観念を伴っているconcomitanteのではなく,原因としての観念を伴っているconcomitante idea causae場合にそれは愛といわれます。つまりスピノザは,第五部定理一四には,因果関係が含まれていると前提していることになります。第五部定理一四証明 で第一部定理一五 を援用するとき,この定理Propositioは因果関係を抜きには考えられないと僕はいいました。したがってこれが神に対する愛であるということについては僕は同意します。
最後にスピノザは,だから自分自身および自分の感情を認識することがより多くなるほど,それだけ多く神を愛することになるといっています。それまでの部分に同意できれば,この部分には異論は出ないでしょう。
25日と26日に福岡で指された第58期王位戦 七番勝負第二局。
菅井竜也七段の先手で,変則的な手順で角交換三間飛車 からの向飛車に。早々に自陣角を打ちました。この将棋は総じていえばこの先手の作戦に後手の羽生善治王位がうまく対応できず,戦いに入ると先手が優位に立ち,そのまま押し切ったということになるのではないかと思います。目を引いたのは先手の見切りの早さ,踏み込みのよさでした。
後手が歩を打った局面。先手はこれに対応せず☗5四歩 と突き出しました。☖1七歩成としても後続がないということで☖3一角。先手が☗4三歩 と垂らしたところで☖1七歩成として☗同桂と応じました。後手は☖1六桂☗3九玉を利かしてから☖2一王 と引き☗3四桂と打たれたところで☖6五香と打ちました。
ここで先手はあっさり☗3三角成と切ってしまい☖同金。ここは☗4二歩成もありそうですがさして時間を使わずに☗2五桂 と跳ねました。これを跳ねると☖1七角と打たれる余地が生じるのですが,すでに勝ちと読み切っていたのだと思われます。後手は☖4三金と歩を払ってから☗4四歩☖3四金と取ったものの☗同銀☖同銀に☗2四桂が決まりました。
第3図以下,4手で後手の投了となっています。
菅井七段が連勝 。第三局は来月8日と9日です。
悲しみtristitiaが積極的なものであるなら,いわばそれは人間の完全性perfectioの一部であるなら,悲しんでいる自分を発見することは自分にとって積極的な状態を発見することであり,また自身の完全性の発見であることになります。そしてそうであるなら,その発見自体は自分にとって喜びlaetitiaであり得ることは明らかでしょう。僕はスピノザによる第三部定理五三証明 は成功していると思いますし,納得することもできます。しかしそこには漠然としたものが含まれているとも感じていて,その漠然性は,上述のことを取り入れることによって,いくらかは解消することができるのではないかと思っています。つまり単に自分の身体corpusが外部の物体corpusによって刺激される様式を通して自分の身体および精神mensを表象するimaginariことが喜びであるというように証明するより,それを自分の完全性と関連させて論証する方が優れているのではないかと思うのです。
とはいえそうした論証が可能であるかどうかはまた別です。ただ,一応は試みておきましょう。
第二部定理一六 は,人間の身体の変状 corporis affectiones,affectiones corporisすなわち人間の身体の刺激状態の観念ideaが人間の身体の本性naturaを含むことを示します。したがって第二部定義二の意味 によりこの観念は人間の身体の存在existentiaを定立します。もちろんこの場合の存在は現実的存在のことです。
第三部定理六 は,現実的に存在する人間が自分の現実的存在を肯定する傾向を有するconaturことを示し得ます。したがって身体の変状によって自分の身体の存在を定立することはこの傾向に合致します。たとえそれが表象像imagoという混乱した観念idea inadaequataでもこの傾向と合致することは第三部定理九 から明らかです。
これらのことから理解できるのは,現実的に存在する人間が身体の変状によって自分の身体の現実的存在を認識するなら,それはその人間の現実的本性 actualis essentiaとしての働く力agendi potentiaを増大させるということです。ところで第二部定義六 により完全性は実在性 realitasであり,実在性とは力potentiaという観点から把握される本性です。つまり働く力の増大は大なる完全性への移行transitioです。よって第三部要請一 により,身体の変状は悲しみであり得ますが,自分自身を知覚するpercipere限りでは第三部諸感情の定義二 により喜びなのです。
昨晩の第38回サンタアニタトロフィー 。中野省吾騎手が5レースで落馬し負傷したためキスミープリンスは坂井英光騎手に変更。山崎誠士騎手が腰痛のためミスミランダーは本田正重騎手に変更。
好発はゴーディー。これにノーキディングが競り掛けていく構えをみせましたが,ゴーディーは譲らず,コーナーワークを利して単独の逃げ。控えたノーキディングが2番手。競り合ったので3番手は少し離れてアンサンブルライフ。この後ろにジョーオリオン,エイシンヴァラー,セイスコーピオンの3頭。また離れてキスミープリンス,テムジン,ムサシキングオーの3頭。ミスミランダー,グレナディアーズが単独で追走し,ストゥディウムとトーセンハルカゼ。大きく離れてコンドルダンス。また大きく離れてデュアルスウォードという隊列に。前半の800mは48秒6のハイペース。
3コーナーを回ると逃げたゴーディーは楽な感じであったのに対し,ノーキディングは押してこれについていく形に。直線に入るとゴーディーが単独で抜け出し,そのまま後続を寄せ付けずに楽勝。ノーキディングの内からムサシキングオーが並び,この2頭が競り合うところ,大外からコンドルダンスが鋭い末脚を発揮して4馬身差の2着。対照的にトーセンハルカゼは最内から伸びて半馬身差で3着。ノーキディングを振り切ったムサシキングオーがアタマ差の4着。
優勝したゴーディー は2012年のサンタアニタトロフィー 以来となる実に5年ぶりの南関東重賞2勝目。2014年,2016年,今年と武蔵野オープンは3勝,昨秋は韓国馬を招待してのオープンも勝っていたので,一定の能力は維持し続けていました。このレースは勝ちタイムが遅く,こんなに差がつく方が不思議なので,ほかの馬の凡走に助けられた面もあったかもしれません。先行タイプのわりに,明らかに能力上位と思われるレースでも勝ちきれないケースがあるように,馬券の中心には据えづらいタイプの馬なのですが,年齢的な衰えはあまり気にしないでいいようなので,中心にはしないけれども馬券には組み込んでおいた方がいいタイプの馬だと考えています。父は2004年のCBC賞と2005年のシルクロードステークスを勝ったプレシャスカフェ 。母はアングロアラブです。Gaudyは美文調。
騎乗した大井の的場文男騎手は京成盃グランドマイラーズ 以来の南関東重賞制覇。サンタアニタトロフィーは第2回,4回,7回,21回,27回 ,37回 と勝っていて連覇となる7勝目。管理している大井の赤嶺本浩調教師は第33回以来となる5年ぶりのサンタアニタトロフィー2勝目。
「肩に降る雨 」という楽曲では,降る雨の冷たさにまだ生きている自分を見つけたという意味のことが歌われています。いうまでもなく自分を見つけるのは自分自身です。雨の冷たさはそれ自体でもあり得ますし,何らかのメタファーでもあり得るでしょう。ただそれを,自分に悲しみtristitiaを齎すものと解して無理はないといえます。するとこの「自分」は,自分が悲しんでいるということによって自分が生きていることに気が付いたことになります。これは生きている喜びlaetitiaを見つけたといってもやはり無理はないといえます。
おそらくこうしたことは実際にあり得るのであり,また実際にあるといっても差し支えないでしょう。このことをリアルなものとして感覚できる人も少なからず存在する筈だと僕は思います。よって第三部定理五三 のうちに,たとえ自分の身体corpusが外部の物体corpusに刺激されるという様式を通して悲しみを感じるのであったとしても,その悲しんでいる自分自身ならびに自分自身の活動能力agendi potentiaを表象するimaginariなら,その表象imaginatio自体は喜びであるという意味が含まれていたとしても,それが人間の現実的本性actualis essentiaに反するとは僕は考えません。むしろ人間の現実的本性に対してそれは一致しているといえると考えます。
そして,どうしてそのようなこと,すなわち悲しみを感じている自分自身を発見する喜びが生じ得るのかということも,スピノザの哲学によって説明することができると僕は考えています。ごく簡単にいえばそれは,第三部諸感情の定義三 にあるように,悲しみとは小なる完全性perfectioへの移行transitioであって,小なる完全性そのものではないし,大なる完全性の欠乏でもないからです。むしろ人間の完全性は完全性そのものであり,それが大なる完全性から小なる完全性へと移行したとしても,完全性であることには変わりありません。いい換えれば悲しみもまた,現実的に存在する人間にとってはある積極的な状態なのです。このことは,もし完全性が欠乏しているならそれは一種の無であるということから明らかだといえます。この限りにおいて悲しみは無であるどころかある積極的な状態であることになるからです。つまり悲しみの発見は,ある積極性の発見なのです。
北海道から1頭,笠松から1頭,兵庫から1頭が遠征してきた昨晩の第7回習志野きらっとスプリント 。
発馬が最もよかったのはディーズプリモでしたが内から交わしていったスアデラの逃げに。押してきたフラットライナーズとディーズプリモが並ぶところ,加速がついたタイセイバンデットが間を突いて2番手に上がりました。5番手にハイジャ。この後ろはワディ,ニシノラピート,ブルドッグボス,マルトクスパート,ランドマーキュリーの5頭が集団で追走。最初の400mは23秒0でミドルペース。
3コーナーを回って前の2頭が3番手のフラットライナーズとの差を広げていきました。押したタイセイバンデットが直線に入るところではスアデラの外まで並び掛けましたが,まだ手応えには余裕があったスアデラがここから追い出すとタイセイバンデットを置き去りにし,鋭く逃げ切って優勝。タイセイバンデットが6馬身差で2着。コーナーでは離されながらも懸命に前の2頭を追っていったフラットライナーズを直線で外から交わしたブルドッグボスが1馬身半差で3着。フラットライナーズは1馬身差で4着。
優勝したスアデラ は南関東重賞初勝利。一昨年の6月にデビューして3連勝。昨年はクラシック路線を歩んだものの手が届かず。今年の5月に1200m戦で復帰すると5馬身差で快勝。前走の1400m戦も5馬身差で圧勝しここに挑戦。結果的にみると,クラシック路線でそこそこ走っていたのは競走能力の高さがあったからで,本質的にスプリンターであったということでしょう。短い距離のレースではかなり活躍できそうな勝ちっぷりでした。父はゴールドアリュール 。母は2007年のエーデルワイス賞 を勝ったマサノミネルバ 。Suadelaはローマ神話の女神のひとり。
ジャパンダートダービー を勝ったばかりの船橋の本田正重騎手は南関東重賞は一昨年のハイセイコー記念 以来の3勝目。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している船橋の佐藤裕太調教師は開業から約2年9ヶ月で南関東重賞初勝利。
スピノザによる第三部定理五三証明 は論理的にいえば成立していると僕は考えますし,納得することもできます。しかし最初にいったように,僕はこの証明Demonstratioは漠然としすぎていると感じます。なぜそのように感じるかといえば,現実的に存在する人間の身体corpusが外部の物体corpusによって刺激される様式を,自己自身ならびに自己の活動能力agendi potentiaに限定して,いい換えればその部分だけを抽出しているからです。実際にはこの様式が現実的に存在する人間に齎すのは,自己自身ならびに自己の活動能力を観想するという事象に限られるわけではありません。それなのにこの部分だけを抽出して,それは喜びlaetitiaであり,かつより判然と表象するimaginariほど大きな喜びであるというのは,実際にこの様式が僕たちに齎すものの全体からみたら,否定されるような要素が含まれているといえるでしょう。
僕たちは自分の身体が外部の物体に刺激されるという様式そのものから,喜びを感じるということがあり得ます。つまり自己自身ならびに自己の活動能力を表象せずとも喜びを感じる場合があります。またそれとは逆に,そのことによって悲しみtristitiaを感じるという場合もあります。スピノザがそういうことがあるということについては肯定するであろうことは,第三部要請一 から明白であるといわなければなりません。
したがって第三部定理五三 というのは,たとえある人間が外部の物体に刺激されることによって悲しみを感じるということがあったとしても,そのことによって自己自身ならびに自己の活動能力を表象するならその限りにおいてそれは喜びであるという意味が含まれていなければなりません。そして実際にこの定理Propositioにはそういう意味が含まれているのだと僕は解します。端的にいえば,悲しんでいる自分自身を発見するなら,それはその限りでは悲しみではなくて喜びであるということをスピノザはいっているのだと僕は解します。ただ,この定理や証明の方法からは,そのことが見えづらくなってしまっていると僕は感じるのです。このために僕はこの証明は漠然としすぎていると感じるといったのです。
悲しんでいる自分自身を観想することはなぜ喜びであるといえるのでしょうか。
福井記念の決勝 。並びは野原‐脇本‐稲川‐村上の近畿,北津留‐岩津‐橋本の西国で後閑と郡司は単騎。
村上と岩津がスタートを取りにいき,内の村上が誘導の後ろを確保して野原の前受けに。結果的にこの時点で勝負の趨勢が決していました。5番手に北津留,8番手に郡司,最後尾に後閑という周回に。残り3周のバックから北津留が郡司と後閑まで連れて上昇の構えをみせると野原が誘導を斬ってペースアップしてこれを阻止。コーナーで郡司が後閑を連れてインに潜り込み,位置を確保しにいったのですが村上と接触。おそらくバンクが雨で滑りやすくなっていた影響もあって落車。後閑が村上の後ろに入り,6番手に北津留という8選手での一列棒状で残り2周のホームに。野原が一時的にペースを落としたのでここからまた北津留が発進していきましたが,これに気付いた野原が全開で駆けていき,また一列棒状に戻って打鐘。隊列は変わらずにホームを通過し,バックに入ると脇本が番手から発進。こうなってしまえば後ろはなす術もなく,展開有利に脇本が優勝。マークの稲川が半車身差の2着,3番手の村上も4分の3車身差で3着と近畿ラインの上位独占。
優勝した福井の脇本雄太選手は一昨年の福井記念 以来の記念競輪優勝で通算5勝目。2014年 にも福井記念を優勝していて福井記念は3勝目。このレースは野原が後ろを引き出すことに徹するならこのような単調なレースになることが想定できました。前を取って後ろから動く選手を出させないという走り方をしたので,その想定通りの展開に。村上の後ろに郡司が入っていれば動いたり差したりと違った結果も少しはあり得たのかもしれませんが,ほかの選手ですとそれは無理だったような気がします。
証明Demonstratioの前提については説明を終えましたので,第三部定理五三 の証明に移ります。
スピノザがここで示しているのは次のことです。まず第二部定理一九 により,現実的に存在する人間は,身体の変状 affectiones corporisすなわち自分の身体の刺激状態の観念ideaによってのみ,自分の身体が存在するということを知り得ます。また第二部定理二三 により,身体の変状の観念ideae affectionum corporisすなわち身体の刺激状態の観念の観念によってのみ自分の精神mensを認識することができます。よって,人間の精神mens humanaが自分自身ならびに自己の活動能力agendi potentiaを観想するということが起こるなら,そのこと自体がその人間にとってより大なる完全性perfectioへの移行transitioです。つまり第三部諸感情の定義二 によってこれは喜びlaetitiaです。そしてこのとき,もし観想される自分自身ならびに自己の活動能力がより判然としているならば,その他の条件が一致する限り,判然としている分だけより大なる完全性への移行であるといえるでしょう。したがって表象像imagoが判然としていればしているほど,喜びも大きくなるということになるのです。
この証明のうち後半部分,すなわち,自己自身ならびに自己の活動能力がより判然としているならその分だけ大きく大なる完全性へと移行しているのであって,だからそれだけ大きな喜びであるということについてはおそらく疑問は出ないものと思われます。そもそもこうしたことは認識cognitio一般にいえるのであって,もし認識するということ自体が大なる完全性への移行であると解する限り,認識されるものの判然性が大きくなればなるほどより大なる完全性への移行であるということになるであろうからです。
一方,前半部分についても,僕たちが自分の身体および精神を現実的に存在すると認識する様式が,各々の定理Propositioに示された様式でしかあり得ないということに注意すれば,証明自体の成立には問題ないでしょう。ごく単純にいうなら,僕たちが自分の身体および精神を表象するimaginariということの完全性はこの様式のうちにしかないのであって,僕たち自身のうちにあるというものではないからです。なのでこの様式が生じるならば,その様式だけに注目する限り,それは大なる完全性への移行であるだろうからです。
ジョー・樋口 が最後に裁いた試合は,三沢光晴 とスティーヴ・ウィリアムスの三冠選手権でした。ウィリアムスは最良の時代 の広い意味でのファミリー のひとりで,ドクター・デスと呼ばれていました。
元々は新日本プロレスで仕事をしていた選手で,当時のことは僕はよく知りません。体力はあるけれどもプロレス的才能 には欠けるきらいがあるというのがよくみられる評論で,たぶんそうだったのだろうと思います。ロープワークなどのぎこちなさは,全日本に移籍してトップで戦うようになっても完全には解消されなかったと僕は思っています。それでもたぶん良化はしていたのであり,新日本時代はもっと目立っていたのだろうと推測します。
坂口征二が新日本プロレスの社長であった頃,全日本と新日本は最も良好な関係を築いていました。馬場は坂口のことは信頼できたようです。そのために当時,両団体間で外国人選手に関する協定が結ばれました。1990年2月,新日本が東京ドーム大会を開催。目玉としてネイチャーボーイ を呼ぶことになりました。結果的にフレアーは来日できなかったのですが,フレアーは協定上は全日本所属の選手でした。このために新日本は新日本所属のレスラーを全日本に移籍させることになり,それで選ばれたのがウィリアムスです。馬場がウィリアムスの素質を見込んだのか,坂口が推薦したのかは分かりません。新日本としては持て余し気味の選手だったかもしれず,悪くないトレードだと考えた可能性もあり得ます。
天龍源一郎 が離脱する直前のことで,ジャンボ・鶴田 はまだ第一線で戦っていました。ですからウィリアムスは全盛期の鶴田と対戦しているのですが,僕はウィリアムスが全日本プロレスで大成できた一因として,この頃の強い鶴田と戦うことができたということは見逃せないと思っています。テリー・ゴディのパートナーに選ばれたことも大きかったでしょうが,鶴田との戦いの中で得ることができたものは,それよりもっと大きかったのではないでしょうか。
第二部定理三八 は,すべてのものに共通omnibus communiaである事柄についての共通概念 notiones communesに言及しています。第二部定理三九 は,ある特定の外部の物体corpusと自分の身体corpusとの間に特有に共通である事柄についての共通概念に言及しています。どちらも同じように共通概念であることに変わりはありません。しかし別々に言及されていることには何らかの理由があると考えられます。
どちらの場合であろうと共通概念は十全な思惟の様態cogitandi modiです。したがって共通概念によって自分自身ならびに自分自身の活動能力agendi potentiaを認識するということが現実的に存在する人間に生じるなら,第三部定理五三 により,それを表象するimaginariという場合よりもその人間は大きな喜びlaetitiaを感じます。表象像imagoより共通概念の方が,より判然と観念対象ideatumを認識しているというのは一般的な事実であるからです。
ですが,共通概念というのを,それを認識する人間自身あるいはその人間の精神mens humanaの働く力agendi potentiaとだけ結び付けて考えるのであれば,第二部定理三八の様式で認識される共通概念よりも,第二部定理三九の様式で認識される共通概念の方が,それらをより判然と認識しているということが不可能ではないと僕には思えます。なぜなら,すべてに共通なものを通して認識される自分自身および自分の精神の働く力より,ある特定のものとだけ共通であるものを通して認識される自分自身および自分の精神の働く力の方が,自分自身と自分の精神の働く力を特有なものとして,ないしはより個別的なものとして認識しているといえなくもないからです。実際,自分自身のうちですべての物体と共通するものを認識するよりも,ある特定の物体とだけ一致し,それ以外の物体とは一致しないものを認識する場合に,後者の方が自分自身についてはより判然と認識しているということは可能ではないでしょうか。
一般性の低い共通概念 を認識することの方が一般性の高い共通概念を認識するより有益であるということを強調する識者としてドゥルーズGille Deleuzeがいます。僕はこれらの解釈に自信があるわけではないのですが,もしもこの解釈が正しいのであるなら,ドゥルーズによるスピノザ哲学論を補完することができるかもしれないと思っています。
僕はKが奥さんに対して,「私は金がない 」からお祝いをあげられないと言ったとき,その本音は先生と静 の結婚を「祝えない 」という意味であったと解しています。ですがこの部分は,Kは奥さんに対してもっと別の意味の嫌味を言ったのだと解せなくもありません。僕はこの解釈はしませんが,そう解さないということは『こころ』の下のほかの部分にも広範にわたって影響します。なのでまずは僕が採用しない解釈というのがどういうものであるのかを説明しておきます。
Kは次男の悲劇 の当事者です。しかもこのときは実家からも養家からも仕送りを断たれていました。一方で先生は長男の悲劇 の当事者であり,遺産を搾取されたのですが,残った遺産だけで働かずとも生きていけるだけの資産を有していました。これが『こころ』における裕福な男と困窮した男 ,すなわち先生とKとの関係です。
この関係に重きを置くならば,Kはこのとき,実は自身の経済的困窮に自覚的だったのであり,先生は金があるから静と結婚することができたけれども,自分には金がないから静と結婚をすることはおろか,その結婚のためのお祝いをあげることすらできないと言ったのだと解することにも無理はないといえるでしょう。そしてこういう意味であったとしたなら,これは強烈な嫌味であったといえます。なぜなら,先生は金があるから静と結婚することができたということのうちには,静は金を目当てに先生との結婚を選んだとか,奥さんは金を目当てに静を先生と結婚させたのだというような意味が含まれることになるからです。要するにこの発言は,静と先生の結婚は,財産目当ての結婚であるという嫌味であったと解釈することが,合理的ではないとまではいえません。実際にKは静に対して恋愛感情を抱いていて,静との結婚を望んでいたと解せなくはないので,静が自分ではなく先生を選んだ理由について,先生の財産であると判断しても不思議ではないからです。
繰り返しますが僕はこうした解釈は採用しません。採用しない理由はいくつかありますので,それについては後に示すことにします。
自信はないのですが,この部分は第三部定理五三 を解するにあたって非常に重要だと思います。あまり適切ではありませんが,それを重々承知の上で,僕がどう解釈しているかを比喩的に説明します。
ある人間がAを所有したいと思っていて,実際にそのAを所有するに至ったとします。このときその人間はAを所有することができたというそのこと自体に喜びlaetitiaを感じるでしょう。このことはたぶん経験的に明らかであって,論理的に説明する必要はなかろうと思います。
このとき,Aというものがだれにでも容易に所有することができるものであって,実際にだれでも所有しているという場合と,Aを所有するということはとても困難なことであり,実際に所有しているのが自分だけであるとか,自分だけではないにしてもごく限られた人間であるという場合とを比較したならば,その他の条件が等しいならば,後者の場合の方がAを所有することによる喜びはその人間にとって大きいであろうと思われます。おそらくこのことも僕たちは経験的に知っているのであって,論理的な説明は省略します。
僕の解釈でいえば,これと同じようなことが,自己自身ならびに自己の活動能力agendi potentiamを表象するimaginariという場合にも生じるのです。つまり自己自身およびその活動能力が,他人と同じように表象される場合と,他人にはなく自己に特有のこと,あるいは自己に特有とまではいえなくても限られた人たちに特徴的なものと表象される場合とでは,その他の条件が等しい限り,後者の方がそれらを表象する人はより大きな喜びを感じるのです。したがって,自己に特有な自己自身ならびに自己の活動能力を表象することは,他人と一致するような要素を多く有する自己自身ならびに活動能力を表象することより,自己自身ならびに自己の活動能力を判然と表象しているというように僕は解するのです。
ところで,もしもこの解釈が正しいのだとしたら,こうしたことは共通概念notiones communesそのものにも妥当するかもしれないと僕には思えます。共通概念は十全な思惟の様態cogitandi modiなので,判然とした思惟の様態ですが,自己との関係に特化すれば,そうであるともいいきれないと思われるからです。
書簡四十九 を読むと,ユトレヒトで面会したグレフィウス Johann Georg Graeviusに対してスピノザが一定の信頼を置いていたということは分かります。実際にはスピノザとグレフィウス は思想的には対立者であって,会見したときにスピノザはそのことは知っただろうと思います。ただ,思想が異なっているという理由だけでスピノザは相手を信頼しないという人ではありませんでした。これはフェルトホイゼン Lambert van Velthuysenに宛てた書簡六十九 からも窺えます。ましてスピノザは書簡四十二 の存在は知っていたわけで,それでもフェルトホイゼンのことを尊重したのですから,おそらく『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』について辛辣な意見をライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに宛ててかつてしたためていたということを知らなかったであろうグレフィウスに対しては,会見でよほどひどい態度をとられなかった限り,より信頼を置きやすかっただろうと思えます。そして実際にグレフィウスは会見そのものは紳士的に対応したのでしょう。ただ,知的な面においてはスピノザはグレフィウスよりフェルトホイゼンを高く評価したのだと思われます。
グレフィウスが1671年4月にライプニッツに宛てた書簡を巡るエピソードについては,『宮廷人と異端者 』において触れられています。まず何より重要なのは,グレフィウスは表題を異なったラテン語Discursus Theologico Politicusで表記しているとはいえ,これが『神学・政治論』を意味することはその書簡の内容から明らかであり,なおかつグレフィウスはその中で,匿名であった著者の名前についてスピノザと書いているのですから,この手紙を受け取った時点で,ライプニッツは『神学・政治論』の著者がスピノザであるということは知っていたということです。ただしスチュアートの記述は,ライプニッツはそれ以前にそのことを知ったいたという可能性を排除しないようになっています。したがって,どんな遅くともこの時点でライプニッツはそれを知っていたと解しておくのがいいでしょう。
ライプニッツがスピノザに最初の書簡を送ったのは1671年10月のことです。つまりそのときには,ライプニッツは『神学・政治論』を読んでいて,かつ著者がスピノザだということも知っていたことになります。
第三部定理五三 のスピノザによる証明Demonstratioは,僕には納得できるものではあります。しかし一方で,いささか漠然としすぎているという印象も拭うことができません。よってこれについては僕がこの定理Propositioおよび証明をどう解しているかということを説明します。ただ,そのためには,ここで何が証明されなければならないのかを僕がどう考えているのかを,先にもっと詳しく説明しておいた方がよいと思います。ですから証明の準備として,定理の文言自体から理解できることを示しておきます。
この定理は最後のところで,自己自身と自己の活動能力をより判然と表象するほど大きな喜びを感じるといわれています。表象imaginatioというのは受動passioを意味します。よって第三部定理三 により,それは混乱した観念idea inadaequataのことです。つまりここでは,自己自身および自己の活動能力agendi potentiamが十全に認識されれば喜びを感じるlaeturといわれているわけではなく,たとえそれが表象であったとしても,それを表象するimaginariと人間は喜びを感じるといわれているのです。
ただしこのことは,それが十全に認識された場合には喜びを感じないということを意味しているわけではありません。なぜなら,より判然と認識するほどより大きな喜びを感じることになっているからです。一般に事物を混乱して認識するのと事物を十全に認識するという場合で,どちらがより判然とその事物を認識しているかというなら,いうまでもなくそれは後者であることになるでしょう。そして,一般に事物を十全に認識すること以上にその事物を判然と認識することはあり得ません。よって,より判然と認識するほどより大きな喜びを感じるならば,自分自身および自己の活動能力を認識する場合における最大の喜びは,それらを十全に認識した場合であるということになります。
次に,自己自身ならびに自己の活動能力を,より判然と表象するということがどういうことを意味するのかといえば,僕はそれを,自己自身および自己の活動能力が,他から区別されて表象されればされるほど,判然と表象されていると解します。この解釈が正しいかについては僕はあまり自信がありませんが,さしあたってそういう意味に解しておきます。
SWSが旗揚げした後,全日本プロレスとSWSが対立した当時の山本の親全日本 という態度は,山本が馬場からの利益供与を受けていて,その継続を望んだためではないということの根拠として『1964年のジャイアント馬場 』で示されている事柄は,実にシンプルなものです。それは,もし山本が自身の利益を追求することを目的としたなら,むしろSWSを支持するのが得策であったというものです。SWSは全日本プロレスや新日本プロレスとは比較することができないほどの資金力を有していました。だから金のために動くのであれば,全日本よりSWSを支持するのが当然で,しかし山本はそうしなかったのだから,当時の山本の決断は山本自身のプロレス観に基づいたものだったのだと柳澤はいっています。繰り返しますが柳澤はジャーナリストとしての山本を高く評価しているわけではなく,ですがこの点についてはより大きな利益の提供を求めなかったといっていて,かつ理由はシンプルですが,シンプルであるがゆえの説得力があり,確かにこれはこれで合理的な見方であるように僕にも思えます。
この当時,山本とは逆に,親SWSの立場を採用した記者も存在しました。柳澤は著書の中では3人の実名を挙げていて,その3人はSWSないしは天龍源一郎 から個人的に利益の提供を受けていたのだと解せなくもない記述をしています。このことに関しても柳澤は何らかの取材をしている筈で,確信があってそう解せるような書き方をしているのなら,柳澤のいっていることの合理性はなお高まると思えます。なぜなら山本も利益を享受する側に回ることができたということの確実性は高まるからです。ただ,僕は本当にそうであったのかどうかは判断できませんから,実際にそんなことがあったのかどうかは不明で,ゆえにこの部分は僕自身の判断の根拠とすることも避けます。
ただし,これは柳澤のいっていることには一定の合理性があるということであって,実際に山本の決断が自身の良心にのみ依拠していたものと断定まではできません。むしろそうではなかったということもできるようには思えます。
第五部定理一五 は,スピノザ哲学についていわれるいわゆる神への知的愛Amor Dei intelletualisの最初の基礎となる定理Propositioです。したがって,この定理でいわれている神がどのような神であるのかということは,神への知的愛といわれるときの神がどのような神であり得るのかということと関係してくるのです。
ここではこの定理を詳しく探求するのですが,僕の関心はもっと広くわたっているのであり,ここからの探求はその関心の一例であるというように理解しておいてください。もう少しだけ具体的にいえば,僕は「知性の能力あるいは人間の自由についてDe Potentia Intellectus, seu de Libertate Humana 」と題されている第五部において,現実的に存在する人間の精神mens humanaによって認識される神と,「神についてDe Deo 」と題されている第一部の神との間には,全般的に飛躍が含まれているのではないかという疑問を抱いているのです。
それではスピノザによる第五部定理一五の証明Demonstratioの検証を始めます。ただし,この検証のためには必要な前提というものがあります。というのは,スピノザの哲学でいわれる愛というのは,第三部諸感情の定義六 から明らかなように,喜びlaetitiaの一種とみなされているからです。いい換えれば愛はそれ自体で基本感情affectus primariiであるというわけではなく,基本感情のひとつである喜びの一種なのです。したがって神に対する愛というのは,知的であるといわれようといわれなかろうと,神という外部の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeです。いい換えれば神を認識することによってある人間が喜びを感じたなら,その人間は神を愛しているということになるのです。したがって,観念対象ideatumが何であるのかということとは無関係に,ある種の認識cognitioが必然的にnecessario喜びを生じさせるのであれば,人間は必然的にその観念されたものを愛することになります。とくに神への知的愛といわれる場合の神への愛の場合には,こうした一種のシステムが重要なのです。そしてそうしたシステムのひとつを示している定理が,第三部定理五三です。
「精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる (Cum Mens se ipsam, suamque agendi potentiam contemplatur, laetur )。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる 」。
この定理は複雑な意味を有します。
Kが奥さんに対して「私は金がない 」からお祝いをあげることができないと言ったことの意味は,Kは先生と静 の結婚を「祝えない 」ということであったと僕は解しています。僕と同じような読解を示しているものとして,柳澤浩哉による『『こころ』の真相』があります。これは2013年に発売になったもので,『こころ』の評論としてはわりと新しいものといえます。
柳澤は「はじめに」で,『こころ』には不合理な部分が多々あるけれども,そのほとんどか解決することが可能であり,本書の目的は,矛盾や不可解にみえる箇所に対して客観性の高い解答を提示することであるといっています。これはかなり読者の期待を煽る,自信に満ちた記述といえるでしょう。「おわりに」においては,従来の『こころ』の読解の前提は,物語の内容は先生が語った内容に沿って生じているのであり,語りの部分の不合理はノイズであると考えられてきたけれども,柳澤は,先生は真相を誤解しているのであり,語りの不合理には目を閉ざさないように読解したと書いています。
『こころ』はだれが書いたかといえば私が書いたものです。柳澤が語り手として先生をあげているのは,柳澤の読解の中心が下の先生の遺書に特化しているからです。ただ,もし柳澤と同じような前提を選択したとしても,本書と異なる読解や本書を超越する読解が出てくるであろうともいっていて,ややトーンダウンを感じさせます。そう考えているならなぜ「はじめに」でそこまでハードルをあげたのかが僕には謎でした。
読解の方法は原則的にテクスト自体を前提としたものです。ただ,柳澤は最終的な結論を出す部分では,作者である漱石の意図というのをちょくちょく持ち出してきます。これは僕がいう作家論と作品論 の分類でいえば作家論に属し,僕は作品論の方を重視しますので,個人的にいえばそういう手法を持ち出さない方がより説得力が増したのではないかと感じます。ただこの感じ方は人それぞれでしょう。
部分的には優れていると思う読解が含まれていました。これについては個別に紹介していくことにします。
第五部定理一四証明 の中に飛躍が含まれているということはできますが,論証自体が成立しないというわけではない,いい換えれば僕たちの精神 mensのうちにある共通概念notiones communesを,僕たちが絶対に無限な実体substantiaと関連させることができないというわけではないので,これについてはこれ以上の追及はやめることにします。
この第五部定理一四 を援用することによって論証される定理Propositioとして,次の第五部定理一五があります。
「自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する 」。
この定理は証明Demonstratioを詳しくみたいのですが,その前に次のことをいっておきましょう。
第五部定理二四 というのは,個物を多く認識するほど神を多く認識するQuo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimusという主旨のことをいっています。したがってこの定理の意味 は,個物を認識するということは神を認識するということと等置することができるということでした。このとき,人間の精神 mens humanaによって認識されている神は,絶対に無限な神ではなくて,たとえばAという個物という様態的変状modificatioに様態化した神でなければなりません。そして前にもいったように,このことは,個物を多く認識するほど神を多く認識するという主張そのものからも明らかでなければなりません。なぜなら絶対に無限な神というのは唯一なのですから,それを多く認識するとか少なく認識するということはできず,認識するか認識しないか,あるいは十全に認識するか十全に認識しないかのどちらかでなければならないからです。
第五部定理一四も,自己と自己の感情affectusをより多く認識するほど神を多く愛するといっています。ですからここには第五部定理二四と同じような意味が含まれていなければなりません。つまり,スピノザはこの定理の最初の文章では,神を愛すると,あたかも絶対に無限な実体である神を人間が愛するかのように解せそうなことをいっているのですが,ふたつめの文章からは,その部分をそのようには解せないといわなければなりません。いい換えればここで愛される神は,限りにおける神,様態的変状に様態化した神なのです。
知性が反知性と対峙するときに犯してしまう失敗のひとつに,徳と欲望 を必然的に対立すると判断してしまうことがあります。実際にはこれは誤りなのであって,徳virtusと一致するあるいは親和的である欲望cupiditasも人間にはあるのです。そしてこの過ちは,さらなる過ちを犯す危険性を秘めています。あるいはこの過ちを犯す場合には,必然的にさらなる過ちへと進むであろうといっていいくらいかもしれません。
もし徳が知性を代表し,欲望が反知性を代表するものであったとしたら,知性を代表する側は,徳を称揚し,欲望を否定することになるでしょう。したがって欲望は排斥されるべきもの,あるいは統御されるべきものとしてみなされることになります。そしてそれは何によって排斥されまた統御されるべきであるのかといえば,ここでは徳が知性を代表するものとみなされているのですから,当然のようにそれは徳によって排斥され統御されなければならないということになるでしょう。
しかしこの結論は,ある事柄を無条件に前提しています。いうまでもなくそれは,徳は欲望を排斥しまた統御することが可能であるという前提です。実はこのような見方は,必ずしも知性の側だけにある見方ではなく,反知性の側にも存在する見方であるということが可能です。ですがここでは知性の失敗を例示することが目的なので,知性の側がそういう見方を立て,それは誤りであるということだけを示します。
徳と欲望の関係は,もっと一般化するなら理性ratioと感情affectusの関係に還元できます。理性は精神の能動actio Mentisですから第四部定義八 により徳ですし,欲望は基本感情 affectus primariiのひとつだからです。したがって理性が感情を排斥しまた統御できるという見方が暗黙裡に前提されているのであり,しかし実際にはそんなことは不可能なのです。
これが不可能なのは第四部定理七 から明白です。感情を排斥しまた統御できるものがあるなら,それはその感情より強力な相反する感情 でしかないからです。知性が犯すこの誤りは,別の意味で理性への過信 のひとつだといえるでしょう。
第五部定理一四証明 の中には飛躍ないしは陥穽があると思うのですが,証明Demonstratio自体が成立し得ないとまでは僕が考えない理由を順序立てて説明していきます。
第五部定理一四証明が訴求している第五部定理四の意味 のうちには,現実的に存在する人間の精神 mens humanaのうちには必然的にnecessario共通概念notiones communesがあるということが含まれています。共通概念は思惟の様態cogitandi modiとしては十全adaequatumです。このことは第二部定理三八 と第二部定理三九 から明らかです。したがってそれは真理の規範 になり得ます。
すると,もし第一部定義六 のように,神Deumが絶対に無限absolute infinitumであると定義されたら,第一部定理一一 にあるように,神が必然的に存在するということが真理 veritasであることを精神mensは肯定することになります。そして同様に,存在する実体が神だけであるという第一部定理一四 が真verumであることも肯定するでしょう。そうであれば,第一部公理一の意味 から明らかなように,自然 のうちには神とその属性attributumそして様態modiだけが存在するのですから,すべての様態は神がなければあることも考えることもできないということ,つまり第一部定理一五 が真であるということも肯定されなければなりません。よって共通概念なるものも神がなくてはあることも考えることもできないものなのですから,現実的に存在する人間の精神は,自分の精神のうちにある共通概念は,神なしにはあることができない思惟の様態であるということを理解することになります。
確かに共通概念を現実的に存在する人間の精神が神と関連付ける場合には,絶対に無限な実体としての神と関連付けるのではなく,むしろ何らかの様態的変状 modificatioに様態化した神,限りでの神と関連付けるのです。共通概念というのは一般的に共通概念として現実的に存在する人間の精神によって認識されるわけではなく,XならX,YならYという個別の概念として認識されなければならないので,それを直接的に神と関連付けるならそういう方法あるいは様式でしかあり得ないと僕はみます。ですがそれを絶対に無限な神と関連付けられないというわけではありません。認識論的な,いわば迂回のような手続きを経れば,そういう関連のさせ方も可能であると僕は考えます。
伊東温泉競輪場 で行われた昨晩の第13回サマーナイトフェスティバルの決勝 。並びは新田‐渡辺の福島,深谷‐浅井の中部,三谷‐村上の近畿,原田‐園田の西国で岡村は単騎。
迷わずに浅井がスタートを取って深谷の前受け。3番手に三谷,岡村が5番手に入り6番手に新田,8番手に原田の周回。残り3周のバックに入ったところから原田が上昇。このラインに新田が続きました。深谷はバックに入ったところから誘導との車間を開けていて,すぐに引いたので叩いた原田が前に。今度は三谷が発進。ホームで原田を叩くと岡村まで連れて全開。このため差の開いた4番手に原田,6番手に新田,8番手に深谷の一列棒状でバックから打鐘。ホームに入って新田が発進。村上は三谷との車間を大きく開けて待ち構えていましたが,バックで新田が捲ってきたときのスピードが違いすぎて渡辺の後ろにスイッチするのがやっと。岡村も続き,後方から深谷も差を詰めてきました。しかしフィニッシュまでこの並びは変わらず,優勝は新田。渡辺が半車身差の2着で福島のワンツー。スイッチした村上は2車身差で3着。大外の深谷が半車身差の4着で両者の間に進路を取った岡村が1車輪差で5着。
優勝した福島の新田祐大選手 は先月の高松宮記念杯 からの連続優勝でビッグ7勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。このレースは三谷か深谷の先行で,場合によっては先行争いもあり得るとみていました。ただ,どの展開になっても新田が有利になりそうに思え,渡辺との優勝争いになるのでないかと想定。三谷があの段階から全開で駆けていったのは意外でしたが,新田は深谷より前に位置し,残り1周のホームでタイミングよく駆けていくことに。早めにスパートした三谷はスピードが鈍るのもそれだけ早くなりますから,村上があまり抵抗できなかったのも致し方なかったように思います。
第五部定理一四証明 は,ふたつの概念を混同させているようにみえますが,そのこと自体は僕は問題視しなくてよいと考えます。もっというなら,共通概念 notiones communesは第二部定義三説明 でいわれる意味での概念 conceptusであると解してさえいいと考えます。なぜならこの意味での概念は精神の能動actio Mentisを意味し,精神の能動によって起成する思惟の様態cogitandi modiは十全adaequatumであり,共通概念は思惟の様態としては十全であるからです。
ただ,僕は次の点は見過ごせません。現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに何らかの共通概念が発生するとき,それが単にその人間の精神と関係づけられるだけで,正確にいえばその人間の精神の本性natura,essentiaを構成する限りでの神Deusのうちで十全であることができるのは,共通概念が,ある人間の身体corpusの観念ideaを有する限りであろうとその人間の精神の観念を有する限りであろうと,あるいはその人間の身体が外部の物体corpusから刺激される刺激状態の観念を有する限りであろうと,またその人間の身体を刺激する物体の観念を有する限りであろうと,いずれも神のうちで十全であるからです。だから現実的に存在する人間は,自分の身体を表象しようと自分の精神を表象しようと外部の物体を表象しようと,それを神と関連させることができる,あるいは必然的にそうするのです。してみれば,そこで関連付けられている神というのは,それらの表象像imaginesを神と関連付ける人間の精神のうちで,絶対に無限absolute infinitumである実体substantiaであるというわけではなく,何らかの様態的変状modificatioに様態化した神,何らかの限りにおける神であると考えなければならないと僕は思います。
第五部定理一四証明は,第一部定理一五 に訴求しています。しかし第一部定理一五というのは,神が絶対に無限であるということを要求します。なので,ここでの論証にはある飛躍が含まれているといえるでしょう。あるいは少なくとも,何らかの陥穽が含まれているとみておくのが妥当であると僕は考えるのです。
ただし,だから第五部定理一四証明は成立していないというようには僕は考えません。第五部定理四の意味 のうちには,第二部定理三八系 を補強する要素が含まれていて,それは真理の規範 になっていると考えるからです。
メイセイオペラ記念の第21回マーキュリーカップ 。
ダッシュがよかったのはクリノスターオーでしたが逃げる気はなかったようで,外から押して交わしていったドリームキラリの逃げに。発走後の正面では2番手をクリノスターオーとディアデルレイで併走。4番手をピオネロとオープンベルトで併走。6番手にドラゴンエアルで7番手にミツバ。コーナーを回ると隊列に変化が生じ,クリノスターオーが単独で2番手。この後ろをピオネロとディアデルレイで併走。5番手にオープンベルト,6番手にミツバ,7番手にドラゴンエアルとなり,8番手以降の馬は大きく離されました。ミドルペースだったと思われます。
直線の手前からクリノスターオーがドリームキラリに並び掛けていきました。直線に入るとディアデルレイは脱落してドリームキラリとクリノスターオーの間を突いたのがピオネロ。クリノスターオーのさらに外から追い込んできたのがミツバで4頭の叩き合い。この叩き合いからドリームキラリは脱落。残る3頭は最後まで競り合いを続けましたが,制したのは大外のミツバ。3頭の中では最内のピオネロがクビ差で2着。真中のクリノスターオーは半馬身差で3着。
優勝したミツバ は重賞初勝利。昨年10月と12月にオープンを連勝。前々走の重賞はやや不可解な騎乗で大敗しましたが前走のオープンは勝利。メンバー次第で重賞制覇に手が届くところまできていました。このレースは上位3頭が能力的に抜けていたと思いますので,結果は順当なもの。このメンバーでこの着差だとまだ大レースでは厳しそうですが,展開面では最も不利だったといえますので,着差以上の評価はしていいでしょう。このクラスのメンバーなら常に上位争いということになっていきそうです。父は第14回 を制したカネヒキリ で父仔制覇。祖母は1994年に報知杯4歳牝馬特別とサンスポ杯4歳牝馬特別を勝ったゴールデンジャック 。その全弟にスターリングローズ 。
騎乗した松山弘平騎手と管理している加用正調教師はマーキュリーカップ初勝利。
第五部定理一四証明 が,共通概念notiones communesを介して身体的変状corporis affectiones,affectiones corporisを神Deusに関連させることができるといっている点については,ちょっとした注意が必要になります。
スピノザが何かを「考えるconcipere」という場合には,原則的にそれが精神の能動actio Mentisであることを意味します。第一部定理一五 で,神Deoなしには何も考えるconcipiことはできないといわれている場合も,それが意味されていると解しておくのが妥当だと思います。つまりこれは第二部定義三説明 でいうところの概念 conceptusを意味します。
これに対していえば共通概念は,一般的概念notiones universalesに近い思惟の様態cogitandi modiという性質を有します。なぜなら第二部定理三七 により,共通概念は個物の本性を構成しないからです。なのでこれは精神の能動を意味する概念ではない概念 notioであるということが可能です。実際にそれが個物の十全な観念idea adaequataではないということ,第五部定理四の意味 でいえば,自分の身体corpusの十全な観念ではないし自分の身体を刺激する外部の物体corpusの十全な観念でもないという点に留意するなら,このようないい方も可能になるでしょう。
なので第五部定理一四証明の手続きは,ある意味においては異なった意味を有するふたつの概念を混在させているということも不可能ではないでしょう。ただし,これは日本語で両方が概念と訳されているために生じているだけであって,実際にスピノザが意味したいと考えていることとは異なっている筈だと僕は考えます。
第二部定理三七は,確かに共通概念が個物の本性を構成することはないということ,すなわちそれが個物の十全な観念ではあり得ないということを主張しています。けれども第二部定理三八 や第二部定理三九 が意味するのは,共通概念を思惟の様態としてみた場合に,それが十全であるか混乱しているかの二者択一であるなら,十全であるということであるといえます。とりわけ第二部定理三八で,共通概念が十全にしか考えられないといわれる場合にも,精神の能動が意味されていることは明白だと思います。
そしてここでは,それが十全か混乱しているかが問われます。十全ならそれは神なしに考えることができないあるものなのです。なのでここには不都合があるとは僕は考えません。