スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&主張の解釈

2021-05-01 18:58:59 | 将棋
 昨日の第92期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明名人が15勝,永瀬拓矢王座が5勝。
 振駒で渡辺名人の先手。早々に先手に一失があり,後手の永瀬王座が優位に推移していきました。
                                        
 後手が8八に角を打ち,先手が銀を守るために5八の金を上がった局面。ここは☖7九角成として金を守るのも有力でしたが,☖9九角成と香車を取って☗7八角の金香交換に進めました。
 後手は次の☖2四香に期待したようです。これは☗2五桂の一手。今度は☖同香☗同飛で桂馬を入手して☖7四桂と打ちました。一貫性のある手順ですから,これは後手の読み筋だったと思われます。
 ここで☗7五銀だと☖6五飛があるということで,先に☗5三桂左成☖同銀と捨ててから☗7五銀と出ました。
                                        
 ここで☖5五馬と引きましたが,これで後手の優位は吹き飛んだようです。第2図はシンプルに☖2四飛とぶつけるべきで,飛車交換は後手に分がある分かれだったようです。
                                        
 渡辺名人が挑戦者に前期に失ったタイトルを奪還しにいく五番勝負。第一局は来月6日に指される予定です。

 現実的に存在しない個物res singularisの観念ideaと現実的に存在する個物の観念の区分を,無限様態modus infinitusと有限様態の区分として解するべきではなく,実体substantiaと様態の関係で区分するべきであると柏葉は主張しています。すると,現実的に存在しない個物の観念は,神Deusの無限な観念に包容されていると第二部定理八でいわれているのですから,この場合の神の無限な観念は,実体として区分されなければならないことになるでしょう。したがって,現実的に存在しない個物の観念を包容しているとされる神の無限な観念は,実体と等置されなければならないことになると僕は考えます。
 第一部定理一四により,存在する実体は神だけです。ですから神の無限な観念を実体と等置するということは,神の無限な観念を神と等置していることになります。ただし,第二部定理五により,観念の形相的有esse formaleの起成原因causa efficiensは,観念対象ideatumではなく思惟するcogitare限りでの神,あるいは同じことですが神の思惟の属性Cogitationis attributumです。ここでは現実的に存在しない個物の観念を包容している限りでの神の観念について検討しているのですから,神の無限な観念を神と等置するということは,神の無限な観念を思惟の属性と等置しているのと同じことだと解して間違いありません。ですから柏葉は明言しているわけではありませんが,柏葉は第二部定理八および第二部定理八系の神の無限な観念については,思惟の属性とみなすべきであって,無限知性とみなすべきではないというように主張しているのだというのが僕の解釈になります。
 この主張には強みもあれば弱みもあると僕は思います。まず僕が考えるこの解釈の強みから説明していきましょう。
 第二部定理八は,現実的に存在しない個物の形相的本性essentia formalisが,神の属性に含まれているということを明らかにいっています。この場合の属性は,第二部定理六により,その個物が様態となっている属性のことだといわなければなりません。たとえばXという物体corpusが現実的に存在していないとしても,Xの形相的本性は延長の属性Extensionis attributumに含まれていなければならないのです。よってこのXの形相的本性の観念は,延長の属性を対象とした思惟の属性に含まれているというのは自然でしょう。
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