スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

湘南ダービー&なし得ること

2017-10-31 19:10:27 | 競輪
 平塚記念の決勝。並びは柴崎-坂口-笠松の中部,三谷-稲垣-稲川の近畿で新山と郡司と阿竹は単騎。
 笠松がスタートを取って柴崎の前受け。4番手に郡司,5番手に阿竹,6番手に三谷,最後尾に新山で周回。残り2周のホームの入口から三谷が上昇。郡司も出ていこうとするとこれを柴崎の番手の坂口が牽制。押し上げられた郡司は稲垣と接触。このために坂口と郡司と稲垣,さらに後ろの阿竹と新山も巻き込まれ5人が落車。稲川は一旦は遅れましたがバックでペースを落とした三谷の後ろに入り直し,三谷‐稲川‐柴崎‐笠松の一列棒状で打鐘。ただこれでは三谷はペースアップする必要はなく,ホームで柴崎の追い出しを受けて1コーナー手前から発進。稲川は3コーナー付近から車間を開けて対応し,直線から踏み込みました。柴崎はその外を回り,ゴール前で稲川の牽制を受けたものの差し切って優勝。半車輪差の2着に稲川。半車身差の3着が三谷。
 優勝した三重の柴崎淳選手は前回出走の豊橋のFⅠから連続優勝。記念競輪は2009年の四日市記念以来となる8年ぶりの3勝目。平塚記念は初優勝。このレースはたぶん三谷が先行するので,稲垣に有利になるだろうとみていました。実際にアクシデントがなければそういうレースになっていたのではないかと思います。坂口の牽制は僕には大きすぎたようにも思えますが,牽制によって落車してしまうかどうかはタイミングの要素も大きいので,仕方ないといえば仕方なかったかもしれません。結果云々とは関係なしに残念なレースになってしまったというほかありません

 Deusが神自身のなし得ることのすべてを知っているわけではないということはあり得ないことについては,大きくふたつのパターンに分けて考える必要があります。それは,神が何かをなすというときの原因causaが何かという観点からの分類です。
 神学的観点からいわれるように,神が神の自由な意志voluntasによってすべてのことをなすというのであるなら,神は自身のなし得ることのすべてを知っているわけではないというのは,神が何を意志しまた何を意志しないのかということを神自身は知らないという意味になります。ですがこれはおおよそ不条理でしょう。というのは,ここでの仮定には神が全能であるということが含まれなければならないからです。つまり神は意志したことに関してはそのすべてをなし得ると仮定しなければならないからです。意志が原因となってなし得ることが生じるという場合に,原因の方を知らないなら確かに結果effectusの方も知らないといわなければなりませんが,原因の方を知らないということのうちにはすでに神が全能であることを否定する要素が含まれてしまいます。なのでこの場合には神は自身が何を意志するのかということについてはすべて知っているとしなければなりません。実際にはこのようなことは論理的に示さずとも,それ自体で明らかでなければならないと僕は思います。何を意志するか分からないという場合の意志は,すでに意志といえるかどうか疑わしいと解さなければならないからです。なお,ここでいっている意志というのは,第二部定理四九系でいわれるような意志とは異なります。第一部定理三二系一から分かるように,スピノザは神に対しても自由な意志というのを否定するからです。ここでいわれている意志というのは,精神mensの自由な決意というのものを仮構した上で,それが神の本性essentiaに属するとした場合の意志です。
                                 
 一方,スピノザのように,神が本性naturaの必然性necessitasによって何事をもなすという場合には,神がなし得ることのすべてを知らないというのは,神が神自身の本性および本性の必然性のすべてを知らないという意味になります。いい換えればそれは,神自身のうちには神の十全な観念idea adaequataが存在しないという意味です。
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竜王戦&全能者

2017-10-30 19:02:16 | 将棋
 28日と29日に大船渡市民文化会館で対局があった第30期竜王戦七番勝負第二局。
 渡辺明竜王の先手で羽生善治棋聖の角換り拒否からの雁木二枚銀。後手が6筋から積極的に攻めていく展開に。その攻めが続くか切れるかというのが,結果からみた場合の焦点であったように思います。
                                     
 後手が手駒を増やすために3三で桂馬を交換した後,先手が7五の歩を払った局面。もしかするとこの手はやや危険であったのかもしれません。
 後手はここで☖7七桂打という意表の一手を指しました。自信があったわけではなく,攻め続けるためには仕方がないという判断だったようですが,その判断が的確であったようです。
 先手は☗4五桂☖4四角としてから☗7七桂と取って☖同桂成に☗同金と取りました。ただ,もっと徹底的に受けるために桂馬を残しておくのもあったかと思います。
 後手は☖7五銀と気持ちの良い進出。先手は☗5五歩と角道を止めましたが☖7六歩☗同金寄☖同銀☗同銀☖6九飛成で飛車の侵入に成功しました。
                                     
 まだ攻め駒が十分にあるとはいえませんが,角を捌くことはできそうで,これで後手の攻めが切れるということはなくなりました。先手は2筋から4筋までの歩が切れていないために持ち歩は多いのですが使い道が少なく,攻め合いに持ち込むのは難しい状況になっていたようです。
 羽生棋聖が連勝。第三局は来月4日と5日です。

 ふたつの観点はさらに細分化され,考えなければならないことは多岐にわたります。ひとつずつ詳しく僕の考えを示します。
 まず,ウェルテルが全能者といっているのが神Deusであるということについては異議はないでしょう。したがってウェルテルは全能者を神の代名詞として使っているのです。まずこの点に注目します。
 僕はあるものが全能者であるためには,そのものが全知であるということが条件になると考えます。知らないことに関して何かの力potentiaを発揮するということは,それ自体では不条理であると考えるからです。
 ただしこれには文脈的には例外があります。ひとつは,あるものが何かをなすときに,何らかの外的な条件によってそのなしていることを意識しないという場合です。分かりやすい例でいえば夢遊病者が徘徊するような場合はこの例に合致します。
 もうひとつは,あるものが自分に何をなし得るのかということを正しくは知っていないという場合です。スピノザは人間は身体corpusが何をなし得るのかを知らないといういい方をしますが,これはこの例に合致しているといえます。
 ですからこれらの場合に関しては,なすことあるいはなし得ることがそれをなしあるいはなし得るものの知性intellectusを上回ることになります。いい換えれば全能であるということの範囲は全知であるということの範囲を超越するでしょう。
 しかし,神が全能であるという場合には,これらの条件は成立しません。なぜ成立しないのかを順に説明していきます。
 まず,神が自身がなしていること,このなしていることの原因はスピノザの場合には本性naturaの必然性necessitasであり,神学者の場合には神の意志voluntasであるというように相違が出てくるでしょうが,原因が何であろうと,神が神自身のなしていることを意識していないということはあり得ません。なぜなら第二部定理四三により,神が真の観念idea veraを有しているなら神は神自身が真の観念を有しているということも知るからです。したがって,もし神が誤った観念を有するなら神の全能は神の全知より広くわたりますが,これは不条理でしょう。つまりこのことは第二部定理三二を肯定する人にとっては自明のことです。
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天皇賞(秋)&ふたつの観点

2017-10-29 19:13:05 | 中央競馬
 第156回天皇賞(秋)
 キタサンブラックは左によれるような発馬で遅れをとりました。外の方から押していったロードヴァンドールがハナを奪ってこの馬の先導に。2番手にサクラアンプルール。3番手はネオリアリズム,リアルスティール,ミッキーロケット,シャケトラの4頭。7番手にサトノクラウン,ヤマカツエース,ソウルスターリングの3頭。10番手にグレーターロンドン,レインボーライン,キタサンブラック,カデナ,ワンアンドオンリー,ステファノスの6頭。16番手にディサイファとマカヒキで最後尾にサトノアラジン。前半の1000mは64秒2のミドルペース。
 馬場の影響で外を回った馬と内を回った馬に分かれたので,とくに3コーナーを回ると各馬の位置が大きく変わりました。内を回ったのがグレーターロンドンとサトノクラウン。外を回ったのが逃げたロードヴァンドールで,サトノクラウンとロードヴァンドールの間を進んだのがサクラアンプルールでこの4頭は雁行。最内のグレーターロンドンが直線の入口では先頭に。キタサンブラックはコーナーではグレーターロンドンの直後を回って直線ではグレーターロンドンのさらに内から交わして先頭。追ってきたのはそれよりは外にいたサトノクラウン。最後はキタサンブラックが徐々に外に出てきたのでサトノクラウンはキタサンブラックの内に切り返して追いましたが,交わすには至らず,優勝はキタサンブラック。サトノクラウンはクビ差の2着。外から追い上げたレインボーラインが2馬身半差で3着。4着はここから5馬身の差がつきました。
 優勝したキタサンブラック天皇賞(春)以来の勝利で大レース6勝目。第153回も制していて天皇賞は3勝目。天皇賞(秋)は初勝利。この馬は精神的に落ち着いていれば大崩れすることはありません。発馬で明らかな不利があったのでひやりとはしましたが,その後の騎手のカバーが巧みであったといえるでしょう。長距離で良績を残していますから,2000mで2分08秒3というタフな馬場状態になったのは有利だったかもしれません。ただ,レコードが出るような馬場でも勝ち,今日のような極悪な馬場でも勝つというのは超一流馬の証明であるといえるかと思います。疲労は心配ですが,残りの2戦も落ち着いてレースに臨めればよい結果を出すことができるでしょう。父は2004年にスプリングステークスを勝ったブラックタイド。母の父はサクラバクシンオー
                                     
 騎乗した武豊騎手かしわ記念以来の大レース制覇。第100回,116回,120回,136回,138回に続き9年ぶりの天皇賞(秋)6勝目。第99回,101回,103回,105回,119回,133回,153回,155回を制しているので天皇賞は14勝目。管理している清水久詞調教師は天皇賞(春)以来の大レース制覇。天皇賞は3勝目で天皇賞(秋)は初勝利。大レースは6勝目。

 大槻はゲーテJohann Wolfgang von Goetheの思想の研究家であるという点も考慮しておく必要があります。大槻が研究者として『若きウェルテルの悩み』の抜粋された一節にスピノザの汎神論の影響があるというとき,それは研究者としての大槻が,ゲーテがそうスピノザの汎神論を解釈したと主張している可能性が残るからです。この場合には,確かに大槻がいうようなスピノザ受容がゲーテにあったのだとしたら,大槻は何も誤ったことを主張しているわけではなく,ゲーテの受容の仕方に問題があっただけだということになるからです。さらにいうと,そもそもゲーテと大槻では汎神論がどのようなことを意味しているのかという解釈に差があることすら考えられます。たとえばゲーテは神学者がスピノザの哲学を無神論と結び付けるための否定的な意味で汎神論を解していて,しかし大槻はそのようなことは考慮に入れず,単にフラットな意味で汎神論といっているのかもしれないからです。
 ですから,だれが過ちを犯しているのかということについては僕はあまり関心はありません。というより,だれも過ちを犯していないという可能性も排除することはありません。ただひとつだけ僕に確実であると思われるのは,『ゲーテとスピノザ主義』に抜粋されている『若きウェルテルの悩み』の一節は,スピノザの哲学とは相反する要素を有するであろうということです。なのでここからはこの点にだけ焦点を絞って,僕の考え方を説明していきます。
 抜粋されている手紙の中にウェルテルの,自分の姿に似せてぼくらをつくった全能者の現存,ぼくらを永遠の歓喜のうちにやさしくささえ保っていてくれる万物の父のいぶきを感ずる,という一文があります。なお,僕は新潮文庫版の高橋義孝の訳をそのままここに抜粋しました。大槻はおそらく自分で訳していて,文章の意味は同じですが,この文章とは訳し方が異なっています。
 この一文はスピノザの哲学とはまったく一致しません。これはふたつの観点からそういえます。ひとつは全能者すなわち神Deusがぼくらすなわち人間をつくったという観点で,これは神の観点です。もうひとつは人間が神に似せられてつくられたという人間の観点です。
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ソニンク&汎神論の意味

2017-10-28 19:31:31 | 血統
 15日に秋華賞を勝ったディアドラは祖母が1996年にイギリスで産まれたソニンクという馬です。ファミリーナンバーB3。Soninkeはガーナに起源を有し,現在はソマリアとマリの内陸部に住む民族名。
                                     
 繁殖生活は日本でのみ送りました。かなり優秀で2番仔は2歳時に重賞2着で古馬になってから準オープンを勝利。
 3番仔も準オープンを勝利。繁殖入りして昨年のデイリー杯2歳ステークスと今年の函館スプリントステークスを勝っている現役のジューヌエコールの母となっています。
 5番仔は皐月賞トライアルのオープンを勝ち,重賞でも2着1回,3着1回。
 6番仔に2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念,2013年に浦和記念,2014年に佐賀記念を勝ったランフォルセ
 8番仔に2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリントさきたま杯東京盃,2015年にさきたま杯を勝ったノーザンリバー
 1番仔は競走生活は送れなかったのですが,2009年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選出されたロジユニヴァースの母になりました。
 7番仔は4戦未勝利。この馬がディアドラの母です。
 日本で最初の産駒が産まれたのは2001年。この馬は競馬には未出走ですから産駒が最初にレースに走ったのが2004年。それ以来だと13年でこれだけの成績を残したことになります。牝馬の割合も多いので,まだまだ繁栄し続けていく一族となるでしょう。

 スピノザの哲学は内在論なので,それが汎神論といわれる場合にも,内在論的な観点からいわれるのでなければスピノザの哲学に対する正しい評価であるとはいえません。そしてこの場合に,スピノザの汎神論への批判は,無神論への批判へ通じる道になります。すなわち内在論とは神Deusを自然と同一視する思想であり,神が内在的原因causa immanensであって超越的原因ではないということは,神のうちに生じるすべての出来事が自然法則によって説明されるのだから,それは実質的には無神論であるとみなすことができるからです。とりわけ第一部定理三二系一から明らかなように,スピノザは神に自由な意志voluntasを認めません。しかし超越論的な神はおそらく意志の自由によって行動するagereのであり,たとえば意志の自由によって奇蹟miraculumを起こすのです。つまり意志の自由という観点からも,スピノザの汎神論は無神論という意味に直結するのです。
 しかし,神を超越的存在と解した場合に,汎神論的な視点が消え去ってしまうのかといえば,必ずしもそうとはいいきれません。第一部定理一六に示されている事柄の一部は神学的観点からも是認されなければならないからです。仮に神が意志の自由によってすべての事柄を創造しまた創造しないとしても,すべてが神の意志のうちにあるという意味ではそれは汎神論といえなくもないからです。実際には汎神論という語は無神論を意味し,したがって否定的な意味合いを有しているのですが,これを考慮の外においてフラットな意味で解せば,汎神論が必ずしも否定的な意味を有さなければならない理由はないと解することも可能だと思います。
 このように汎神論という語の意味について考えるのは,大槻が『若きウェルテルの悩み』の一節にスピノザ的汎神論の影響があるというとき,果たしてその意味が確かにスピノザの哲学において真の意味である汎神論であると前提していいのかどうかが僕には不明であるからです。もし大槻がそれを正しく解しているなら,その一節が汎神論の影響下にあるということを僕は否定します。しかしそうでなく,何らかの別の意味でそれを解しているのなら,大槻がいっていることが絶対的に誤っているとは僕はいいません。
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リコー杯女流王座戦&超越論

2017-10-27 19:35:06 | 将棋
 高知で指された昨日の第7期女流王座戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王座が9勝,加藤桃子女王が4勝。
 高知市長による振駒で里見王座の先手となり,5筋位取り中飛車。加藤女王は左美濃で応戦。先手から仕掛ける形で大激戦でした。分岐になった局面がいくつかあったと思いますが,最大のポイントは第1図だったようです。
                                     
 先手が飛車を成って後手が受けた局面。この受けはあまりよくなく,☖4二飛と受けるべきだったようです。
 先手はここで☗5一龍☖同金☗7三角の両取りを掛けるのが有力だったようです。☖5二飛と受けられるので駒得になるわけではありませんが☗5三歩☖同飛☗6四角成で飛車取りとして,飛車は成られますが自陣に追い返して攻撃目標にするか押さえ込むことができました。しかし実戦は☗4五歩。
 これは☖同金なら前述の手順にしたときにさらに得になっていそうですが当然ながら☖同馬。以下☗3六銀☖8一馬としてから☗2六桂と打ったのですが☖5二歩☗5六龍と逆に追い返されました。
                                     
 これで先手は攻めるのが大変になり,苦戦を招きました。第2図以下,後手もかなりもたついたので手数は長くなったのですが,先手が挽回するには至りませんでした。
 加藤女王が先勝。第二局は来月11日です。

 スピノザは自身の哲学が内在論であることについて旗幟鮮明にしています。それが第一部定理一八です。その証明Demonstratioから分かるように,スピノザはそこで第一部定理一五第一部定理一四に依拠し,Deusはそのうちにあるものすべての原因であり,かつ神の外に自立するいかなるものも存在し得ないといっているからです。
 一方,この定理Propositioでスピノザが神は内在的原因であるといった後で,超越的原因ではないといっているのは,内在論に対立する論理が超越論であるからです。そして,神学的観点に立つ者は,何ほどか超越論を肯定しなければならないというのが僕の考え方なのです。したがって,そういう立場の人びとが,スピノザがあらゆるものの内在的原因であると主張しているものは自然にほかならないのであって,神はその自然の外に超越的に存在する何ものかであるという主張をするのは,理由があることなのだと僕は考えます。ですから神学的観点からスピノザを批判することは,それが正当な批判であるかどうかということと別に,理由がないことではないと僕は考えるのです。
 たとえば『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,聖書に散見される奇蹟miraculumと称される出来事が,内在的な立場から説明されます。これは自然法則によって説明されるというのと同じです。なぜならスピノザの哲学では,自然法則というのは神の本性naturaの必然性necessitasと同じ意味なのであって,神が原因となっている出来事はその神の本性の必然性すなわち自然法則によって説明されなければならないからです。しかし神学的観点に立つ場合は,内在的な自然法則はあくまでも自然法則であるとみなし,奇蹟と称されるような事象は神が超越的な立場から引き起こすものであるというのに,理由がないとはいえないでしょう。
 また,ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは,スピノザの哲学は論理的には完全なものであると考えていました。そのために論理的にスピノザの哲学を否定することはできないのであり,それは超論理によって否定されなければならないと主張したのです。奇蹟の事例とは異なりますが,これもまた一種の超越論といえるでしょう。神学とスピノザ哲学の争いは,超越論と内在論の争いとみることができるのです。
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農林水産大臣賞典平和賞&内在論

2017-10-26 19:41:51 | 地方競馬
 北海道から3頭,笠松から1頭が遠征してきた昨晩の第63回平和賞
 ドリームスイーブルは少し出負け。最内からハナを奪ったリンノストーンが1馬身ほどのリードでの逃げに。単独の2番手にはシェーンリートが追走していましたが,1コーナー付近では5番手にいたヴオロスが向正面に入ってからシェーンリートの外まで上がっていきました。4番手になったのがドンビーで5番手にはジェネスガール。6番手がレオハイスピード。その後ろにドリームスイーブルとトキメキライツとなり,ミスティックリズムは取り残される形に。前半の800mは51秒4のミドルペース。
 3コーナーを回るとヴオロスがさらに追い上げ単独の2番手に。しかし4コーナーで外に膨らんでしまい,直後にいたドンビーがシェーンリートとヴオロスの間を突く形に。直線に入るとわりと楽なペースで逃げていたリンノストーンが二枚腰を発揮。追い上げる各馬をむしろ突き放す形で逃げ切って優勝。ヴオロスは直線で一杯になり,ずっと最内を回ったドリームスイーブル,シェーンリート,ドンビーの3頭での2着争い。この中からは大外のドンビーが抜けて2馬身半差の2着。4分の3馬身差の3着にシェーンリートでドリームスイーブルはクビ差の3着。
 優勝した北海道のリンノストーンは7月に3戦目で未勝利を脱出した後,8月に5戦目となった認定競走で2勝目。前走の北海道重賞は6着。北海道ではトップクラスとはいい難く,特筆すべき時計もありませんでしたが,今年の北海道の2歳馬のレベルは高いので,このくらいの実績でも勝つチャンスがあるとみていました。好枠からあまり厳しくないペースで逃げることができたのが最大の勝因かと思いますが,このくらいの実績の馬で勝てますから,この後,南関東に転入してくるより実績の高い北海道の2歳馬は軽視するのは禁物だといえるでしょう。父は2012年に目黒記念を勝ったスマートロビンでその父はディープインパクト。母の父はアドマイヤドン。はとこに2003年にグランシャリオカップを勝ったエコルプレイスと2006年に兵庫ジュニアグランプリを勝ったトロピカルライトの兄弟。
 騎乗した大井の真島大輔騎手は昨年2月の報知グランプリカップ以来となる南関東重賞21勝目。平和賞は初勝利。管理している北海道の林和弘調教師は第49回以来14年ぶりの平和賞2勝目。

 フラットな意味でスピノザの哲学が汎神論といわれるなら,それがどういう意味でなければならないかということについては,僕の考え方として示すことにします。
                                 
 この場合の基軸となるのは第一部定理一六です。そしてなぜこれが基軸となるというのかといえば,第一には第一部公理一の意味により,自然のうちに存在するのは実体substantiaおよびその属性attributumであるか,そうでなければ様態modusであるかのどちらかであり,第二に第一部定理一四により,存在する実体はDeusだけであるからです。つまり自然のうちに存在するのは神であるか様態であるかのどちらかです。ところで様態とは第一部定義五により実体の変状substantiae affectioのことなのですから,これを合わせれば,自然のうちには神と神の変状以外に何も存在しないということになります。他面からいえば存在する神以外のものはすべて神の変状あるいは様態的変状modificatioに様態化した神なのです。つまり存在する神以外のものは様態的変状に様態化した神であり,これがスピノザの哲学が汎神論といわれる場合の真の意味でなければならないというのが僕の考えです。
 この基軸となっている部分のうち,神の本性から無限に多くのものが生じるという点に関しては,本来的には神学的観点の立場の人間も否定することはできないだろうと僕は思います。少なくともそれを否定するなら,むしろスピノザの方が神を肯定し,否定する者は神をスピノザよりは部分的に否定しているということになるであろうからです。よってこの意味において,スピノザの哲学における神を批判することは,少なくとも神学的立場からの批判としては的外れであると僕は考えます。
 ただし,スピノザの哲学が神学的観点から批判をされることに,何らの理由もないとは僕は考えません。というのは,このスピノザの考え方というのは,第一部定理一五とも密接に絡み合うからです。ここにあるように,神なしには何もあることはできないということと,すべてのものは神のうちにあるということは,同等の意味なのです。したがって,神の外というのは存在しないというのがスピノザの哲学の原則のひとつです。こういう考え方は一般に内在論といわれます。
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加古川青流戦&若きウェルテルの悩み

2017-10-25 19:06:39 | 将棋
 22日の午前に鶴林寺で指された第7回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 西田拓也四段の先手でノーマル三間飛車。後手の井出隼平四段が左美濃から銀冠に組み替えようとしたところで先手が仕掛けました。派手な応酬になりましたが,後手が互角を維持するのはちょっとしたミスも許されないような展開だったので,仕掛けが機敏だったといえるのではないでしょうか。
                                     
 現状は銀損になっている先手が歩を打った局面。ここでの正しい手順は☖7四銀☗8二飛成☖6一飛と,駒得を維持して飛車を成り込ませる順であったようです。しかし☖同銀☗同飛☖8九角成という別の駒得の順に進めたため,これ以降は先手が有利になりました。
 露骨に☗6二銀と打って☖7二飛に☗7一銀不成の両取り。そこで☖4五馬と飛車にヒモをつけましたが☗7二銀不成☖同馬に☗6一角が厳しい手。☖4五馬と元の位置に戻りましたが☗5二角成☖同金☗6一飛成と先手で龍を作ることができました。
                                     
 局面自体は難しかったのかもしれませんが,仕掛けられてミスが許されなかったということは,銀冠に組み替えようとしたのが危険だったということではないでしょうか。
 西田四段が勝って1勝1敗。第三局は22日の午後に指されました。

 『ゲーテとスピノザ主義』の第4章の2節で,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの小説である『若きウェルテルの悩み』が引用されています。大槻はこの小説の主人公の名前をヴェールターと表記していて,ドイツ語の読みとしてはそれが正しいと思われますが,僕はこの小説は学生の頃から『若きウェルテルの悩み』として知っているので,ここではウェルテルの方を用います。ウェルテルが書いた手紙を,ウェルテルの死後に別の人が編集したという体裁の小説です。
                                     
 引用は多岐にわたっているのですが,その中のひとつに1771年5月10日,これは通算で2通目の手紙ですから小説でいえば冒頭に近い部分ですが,そこからの引用があります。その部分を引用した後で大槻は,ウェルテルが惑溺している自然の描写の中に,スピノザ的な汎神論が看取されるといっています。なお,論考の中ではこの自然というのがやや特殊な意味に用いられているのですが,この点は今は考慮の外に置きます。僕が考えたいのは,その引用部の中にスピノザの思想の影響があるのかどうかということだからです。
 まず最初に確認しておかなければならないのは,スピノザの哲学が汎神論といわれるときに,スピノザの哲学はどのような意味で汎神論であるといい得るのかということと,それとは別にどのような意味から汎神論といわれるようになったのかということです。少なくともスピノザが生きていた時代に,他の思想家からスピノザの哲学が汎神論といわれるとき,そこには否定的なニュアンスが大でした。これはスピノザが神Deusを自然と同一視していること,いい換えれば必然的necessariusである筈の自然に神を貶めたということへの批判が込められた,神学的な視点が含まれていたといえるでしょう。第四部序言にみられるように,確かにスピノザの哲学のうちに,そういう批判を招く要素が含まれていたことは確かだと僕は考えます。
 汎神論論争と名付けられているように,ゲーテの時代にもこの種の否定的意味が汎神論の中にあったことは確かだと思います。ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは神学的な観点からスピノザを批判する立場に回ったということからみても,そこに否定的意味があったことは確かではないでしょうか。
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竜王戦&逆の場合

2017-10-24 19:05:50 | 将棋
 20日と21日にセルリアンタワー能楽堂で指された第30期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は渡辺明竜王が34勝,羽生善治棋聖が35勝。千日手が2局あります。
 振駒で羽生棋聖の先手で相掛かり。渡辺竜王が先に飛車先交換をして浮き飛車。その後に飛車先交換をした先手が高飛車。さらに先手が歩を合わせて横歩を取りました。厳密にいうと先手の動きは無理だったようですが,後手が小ミスを重ねて最後は大差になったという一局だったようです。
                                     
 先手が7五に桂馬を打って後手が☖7四角と受けた局面。この手もミスで☖7二角と打つのが優ったそうです。
 そこで先手は☗5五銀と打ちました。本当は☗4五銀☖同銀☗同桂が理想の展開だけれども☗4五銀には☖6三銀と引かれる手があるのでこちらに打ったということです。
 後手はこの手は読みになかったそうです。それで熟考の末に☖同銀と取ったのですがこれがミス。当然の☗同馬に☖2八とで攻め合いにいきましたが☗6四馬☖3八と☗6三銀☖5一王まで決められた後で☗3八金と取られ,角取りが残っているので☖9二角と逃げられたところで☗4五桂と跳ね出されました。
                                     
 ☗5五銀でも先手で桂馬を跳ねる展開になったので,ここはもう大きな差がついているのだろうと思います。
 ☗5五銀のところではそれでも☖6三銀と逃げる手もあったかもしれませんし,ここで銀を交換せずに☖2八とからの攻め合いにするのもありました。後手にとってはここが最後のチャンスだったようです。
 羽生棋聖が先勝。第二局は28日と29日です。

 ここまではゲーテJohann Wolfgang von Goetheが実際にスピノザの哲学と関係しているかどうか不明だけれど,『ゲーテとスピノザ主義』の記述の中で,明らかにスピノザの哲学と関係がありそうなのにスピノザの名前が出てこない箇所について指摘してきました。今度はこれと逆のパターンであると僕には思われる箇所を説明していきます。つまり大槻の記述の中には,ゲーテの思想がスピノザの哲学の影響下にあるとされているけれども,僕にはそれはスピノザの哲学とは相容れないのではないかと考えられる箇所についてです。
 どういう人が『ゲーテとスピノザ主義』を読むのかは僕には分かりません。ただ,もしゲーテの思想に関心があり,それを一定以上に知っているけれど,スピノザの哲学にはさほど詳しくないという人がこれを読む場合,ここまで指摘してきた箇所というのは,そこまで大きな問題にならないだろうと僕は思います。確かにそこでスピノザ主義との関連性を見落とすことにはなるかもしれませんが,実際にそこでゲーテがスピノザを意識していたのかどうかまでは分からないのですし,何より,スピノザの哲学について何らかの誤解を招くということはないからです。これは触れられていない事柄については誤りようがないですから当然でしょう。ですが,触れられているけれども実際には相容れない要素があるという場合には別で,この場合は部分的にスピノザの哲学について誤解してしまう可能性が残ります。そういう意味でいえば,これから述べていくことの方が重要であるといえるかもしれません。
 まず最初にいっておきますが,僕は大槻がスピノザの哲学についてある誤解をしているということをいいたいのではありません。大槻の関心はゲーテがどのようにスピノザの哲学を受容したのかということなのであって,ゲーテによるスピノザ受容のうちにすでに何らかの誤りが含まれているのなら,いい換えればゲーテ自身が自分の思想の中のある部分についてそれはスピノザの哲学から影響を受けていると判断しているのであっても,それ自体が誤っているのなら,大槻はそれをそのまま研究対象にするであろうからです。この場合は大槻には何の責任もありません。
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火の国杯争奪戦&同時性と継時性

2017-10-23 19:12:32 | 競輪
 久留米競輪場で開催された昨日の熊本記念の決勝。並びは吉沢‐武田の茨城,深谷‐浅井の中部,古性‐南の大阪,中川‐小倉の西国で小松崎は単騎。
 スタートを取ったのは浅井で深谷の前受け。3番手に中川,5番手に吉沢,7番手に古性,最後尾に小松崎で周回。残り3周のバックで古性が上昇していくと,小松崎も続きました。残り2周のホームの入口付近で古性が深谷を抑えて誘導の後ろに。3番手に小松崎,続いた中川が4番手,吉沢が6番手,引いた深谷が8番手の一列棒状に。バックに入ると古性は誘導との車間を徐々に開け始めました。ここから吉沢が発進し,古性を叩いたあたりで打鐘。だれもこのラインに続かなかったので古性が3番手,小松崎が5番手,中川が6番手,深谷が8番手の一列棒状のままホームを通過してバックに。5番手から小松崎が単独で動くとその直後の中川もこの動きに乗りました。しかし武田は吉沢との車間を開けて待ち構えていたので,コーナーの中間でこれに合わせて発進。結果的に武田の番手捲りに乗る形になった古性が直線で差し切りを決めて優勝。中川の後ろからコーナー出口あたりは内を回り,直線でスムーズに古性の外に自転車を出した小倉がよく伸びて1車輪差の2着。展開的には絶好だった武田は4分の3車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は3月の松阪記念以来の記念競輪3勝目。熊本記念は初優勝。このレースは吉沢の先行は予想されたところ。先に動いて前を斬り,うまく3番手に入ったのが勝因でしょう。吉沢はかなりいいスピードで逃げたので後ろの選手は動きにくく,武田もまだ万全の調子まではいっていないようです。結果的にいえば,吉沢が叩きにいったときに,中川は位置的に続くのは難しかったかもしれませんが,武田の直後にいた深谷は追っていくべきだったと思います。

 この箇所においても,実際にゲーテJohann Wolfgang von Goetheがスピノザの哲学の影響下にあったかは定かではありません。ですがゲーテの記述自体が,スピノザの哲学と親和的な要素をもっていることは確実であると僕には思えます。
                                     
 ゲーテは理念は時間tempusと空間に依存しないがゆえに,同時的なものと継時的なものが緊密に結びついているといっていました。これはスピノザの哲学に変換すれば,永遠性aeternitasと持続性が緊密に結びついているといっているように解せます。第二部定理八系は,個物res singularisが現実的に存在するようになるとその個物の観念ideaも現実的といわれる存在existentiaを有することになるといっています。これは,個物が持続するdurareようになるとその個物の観念も持続するようになるという意味です。一方,永遠aeterunusは時間や持続duratioという観点から説明することができないのですから,個物は現実的に存在しているかしていないのかということに関わらず,神Deusの属性attributumに包容される限りで永遠に存在します。したがってその個物の観念も神の思惟の属性Cogitationis attributumのうちでは永遠に存在しているといわなければなりません。
 第五部定理二一から,僕たちの精神mensは持続しているとみられる限りでは個物を持続するものとして表象します。このために経験の立場では永遠性と持続性が分離してしまいます。しかし第五部定理二九から分かるように,僕たちの精神は僕たちの身体corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に考える限りでは,現実的に存在する個物についても永遠の相の下に認識します。したがってこの場合には個物の同時性と継時性が,いい換えれば永遠性と持続性が緊密に結びつくことになるのです。
 つまりゲーテが理念といっているところのものを,第三種の認識cognitio tertii generisによって認識された個物の観念と解する限り,ここでゲーテが示している事柄はスピノザがいっていることとそっくりそのまま同じであると解することができるのです。繰り返しますが,実際にゲーテがスピノザの哲学を意識してこのようにいっているのかは分からないです。ですがこの部分にスピノザの哲学を読み込むことが可能なのは疑い得ないと僕は考えます。この部分もスピノザには触れられていないのですが,見過ごしてはならないのではないでしょうか。
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菊花賞&省察と忍従

2017-10-22 20:05:16 | 中央競馬
 第78回菊花賞
 ゲートの中で立ち上がっていたプラチナヴォイスは出遅れました。まず先頭に立ったのはウインガナドル。1周目の向正面では外から5番手くらいまで追い上げていたマイスタイルが,そのまま外を上昇,正面に入ってから単独の先頭に立ち,2周目の向正面にかけて3馬身ほどのリードを取っての逃げに。控えたウインガナドルが2番手で3番手にアダムバローズ。この後ろにはトリコロールブルー,スティッフェリオ,ベストアプローチの3頭。7番手にポポカテペトルとダンビュライト。9番手にサトノクロニクルとアルアイン。11番手集団にはクリノヤマトノオー,ミッキースワロー,クリンチャー。キセキが14番手。サトノアーサーとマイネルヴンシュが続き,ブレスジャーニーが後方2番手で最後尾にプラチナヴォイス。最初の1000mは64秒1でハイペース。
 馬場状態の影響もあったと思いますがわりと早めに動く馬の多いレースに。3コーナーではマイスタイルは一杯でウインガナドルが先頭に。さらにその外にいたアダムバローズがコーナーの途中では先頭。ベストアプローチ,ダンビュライト,クリンチャーの3頭が外から進出して直線の入口ではダンビュライトが先頭に。外からクリンチャー,ミッキースワロー,キセキの3頭,内からはポポカテペトルが追ってきて激しい叩き合い。この中からキセキが抜け出して優勝。2馬身差の2着は2頭によるきわどい競り合いになりましたが外のクリンチャー。内のポポカテペトルはハナ差で3着。
 優勝したキセキは重賞初勝利で大レース制覇。春に毎日杯で3着になった後,休養。7月に復帰して500万と1000万を連勝。神戸新聞杯でダービー馬の2着に入ってここに出走。今年は馬場の極端な悪化が明白だったので,スタミナに優るタイプに有利に働くかもしれないと思っていました。この馬ははっきりとした裏付けがあったわけではないですが,優勝候補として考えていたうちの1頭。実際にサバイバルレースの様相になり,そこで抜け出したのは確かな底力のゆえだったのではないかと思います。今後も楽しみな馬なのは間違いありませんが,3000mで3分18秒9,最後の200mが13秒9も掛かるようなレースだったので疲労は心配です。父は2011年に日経新春杯と金鯱賞,2012年にアメリカジョッキークラブカップとクイーンエリザベスⅡ世カップを勝ったルーラーシップでその父はキングカメハメハ。祖母が1997年にファンタジーステークスを勝ったロンドンブリッジ
                             
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手はスプリンターズステークスに続いての大レース制覇。菊花賞は初勝利。管理している角居勝彦調教師は一昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇。第65回,74回に続く4年ぶりの菊花賞3勝目。

 さらにいうと,大槻がゲーテJohann Wolfgang von Goetheの根本的な問題となったとされる二元論について記述している部分も,今度は第三種の認識cognitio tertii generisと別の観点からスピノザの哲学との関連性を窺わせる内容になっていると僕には思えます。この1818年の書物は『省察と忍従』です。これを書くにあたってゲーテがスピノザの哲学から実際に影響を受けていたかどうかは不明ですが,そこに書かれ,『ゲーテとスピノザ主義』に抜粋されている部分というのは,明らかにスピノザの哲学と親和性があるように僕には思えるのです。
 ゲーテがいうには,理念と経験を結び付けることの困難さは自然科学の研究の上で大きな妨げになります。ではなぜその双方を結びつけることが困難であるのかという理由として,ゲーテは理念は時間と空間とに依存しないのだけれども,自然研究は時間と空間の中に限定されているからだといっています。このために,理念においては同時的なものと継時的なものが緊密に結び付いているのだけれども,経験の立場においてはそれらが分離してしまうことになるといっています。
 ゲーテのこのいい方から,第二部定理八系およびその意味を想起せずにいるのは,スピノザの哲学を知っている人にとっては難しいのではないかと僕には思えます。すなわちここでゲーテが理念といっているものは,時間tempusと空間に依存しないという意味で,個物res singularisが神Deusの属性attributumの中に包容されている限りで存在している場合のことです。第一部定義八説明から永遠aeterunusは時間によっては説明することができない概念であるからです。なおかつすでにみたように,この理念は第三種の認識と関連しているのですが,第三種の認識というのは個物を永遠の相species aeternitatisの下で認識するあり方なのです。
 これに対して自然学の研究が時間と空間に依存するといっているのは,たとえば現実的に存在するある人間が,現実的に存在するある個物について研究するのが自然学であるからでしょう。研究の対象となる自然が現実的に存在するようになると,その観念ideaもまた現実的に存在するといわれる存在を含みます。つまり現実的に存在する個物の観念もまた,時間と空間に限定された観念であるということになるのです。
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加古川青流戦&直観的判断力

2017-10-21 19:39:27 | 将棋
 鶴林寺で指された第7回加古川青流戦決勝三番勝負第一局。井出隼平四段と西田拓也四段は公式戦初対局。
 加古川市長による振駒で井出四段が先手になり,西田四段のノーマル四間飛車から相穴熊へ。終盤は少しずつ後手が足りなかったという棋譜中継の総括がありますが,確かに少しずつで,終盤までいい勝負が続いていたように思います。どう指せばよかったかは別に,はっきりとした差がついた部分は分かりやすい将棋でした。
                                     
 7一で先手の銀と後手の金が交換になった局面。ここから☖8二銀☗6二馬☖7一銀打までは一本道。先手は馬を逃げずに☗6三歩成としました。これだと☖6二銀☗同ととは進むでしょう。
 ここで後手は☖7八香と打って攻め合いに。ただ☗同金引☖同角成のときに☗7二金と打たれ再び☖4五角と打ったものの☗8二金☖同玉☗7一銀☖7三玉☗6三金☖同角☗同と☖同玉☗1八角と,後手としては変化の余地がない手順で王手龍取りを掛けられ,大勢が決しました。
                                     
 手順から分かるように,6二にと金がいる状態で☗7二金と打たれるのは厳しすぎます。なので☖7八香から攻め合ったところではまだ受けるべきであったと思われます。考えられるのは☖6一歩で,☗同とは7二に金を打てなくなるので後手が有望かもしれません。すぐに☗7二金は打てますが,これには☖6二歩と取れますから☗8二金☖同玉に☗7一銀も☗7二金もないので,まだ激戦になっていた可能性があったと思います。いずれにせよ☖7八香は暴発だったのではないでしょうか。
 井出四段が先勝。第二局は明日の午前です。

 大槻はクーンのゲーテJohann Wolfgang von Goetheの方法論に関する説明は不十分であると考えているようです。大槻はその方法論は,純粋経験科学と異なる自然の形而上学であるといっているということも指摘した通りです。
 この形而上学は,自然研究においてゲーテが「原型」と名付けられたものを追求する姿勢についていわれています。シラーとの会話の例でいえば,「象徴的植物」とは植物の「原型」に該当するものだということになるでしょう。
 大槻はこれを二元論的な考え方であり,この後のゲーテの自然研究において根本的な問題になったといっています。したがって大槻は,シラーのいっていることは本質的に正しく,少なくともこの時点においては知覚された経験と理念的である「原型」が一致するものではないとゲーテ自身が解していたと主張していることになります。シラーがカントの哲学に則して経験と理念を分節したことがゲーテに理解できなかったという主張と矛盾するようにみえますが,ゲーテが経験と理念を二元論的に考えていることの根拠として大槻があげているのは1818年に書かれたものなので,両立しない主張ではないのだろうと僕は解します。ただこれは大槻がそういっているのであり,その指摘が正しいか否かは僕には確定できません。
 さらに後の1820年に,ゲーテは『直観的判断力』という本を書いています。こちらはゲーテが「原型」をひたすらに追求してきたことの根拠となっているもので,確かにゲーテはその中で,自身の研究を回顧しながらそのように語っています。さらにこの中でゲーテはカントにも言及しているので,そのときのゲーテはかつてシラーの言っていたことも十分に理解できるようになっていたと解しておくのがいいでしょう。
 ただこの本が『直観的判断力』であることは,やはり直前の精神の眼に関するクーンの言及と同様に,スピノザの哲学からは第三種の認識cognitio tertii generisとの関連性を強く匂わせるものになっているといえるでしょう。というのも第三種の認識は直観知scientia intuitivaといわれるからです。
 スピノザの哲学を知らないとこの部分は見過ごすかもしれません。ですがここにもスピノザに関連しそうなことが書かれているのです。
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書簡七十②&スケッチ

2017-10-20 20:08:04 | 哲学
 書簡七十の内容をもう少し詳しく説明しておきます。これはシュラーGeorg Hermann Schullerからスピノザに宛てられたもので,やはり遺稿集Opera Posthumaには掲載されませんでした。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対するシュラーの配慮から生じたものだと思われます。
                                     
 この書簡はまずチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの近況報告から始まっています。このときチルンハウスはイギリスからフランスに移動し,ホイヘンスChristiaan Huygensに会いました。ホイヘンスは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』をスピノザから送ってもらったと言ったそうで,それが本当ならこの時点でもホイヘンスとスピノザの間にやり取りがあったことになります。ホイヘンスはそれからほかにスピノザの著書はないかと尋ね,チルンハウスは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』だけだと答えたそうです。チルンハウスは『エチカ』の草稿は持っていた筈ですが,ホイヘンスに対しては秘匿したことになります。僕が思うにホイヘンスがそのように尋ねたのは,哲学的関心よりも自然学,とくにレンズに対する関心からであったからでしょう。
 その後にチルンハウスからの哲学的質問がありますが,これは意味が不明です。おそらくチルンハウスがここに示されているようなとんちんかんな質問をするとは思えないので,シュラーが伝える際に何らかの間違いを犯したものと思われます。
 最後に,チルンハウスがパリでライプニッツに会ったことが伝えられています。チルンハウスはライプニッツは『エチカ』を読むのに相応しい人だから,その許可をスピノザに求めました。つまりチルンハウスはライプニッツをホイヘンスより高く評価したことになります。ただ,シュラーはライプニッツとも書簡のやり取りを交わしていたので,シュラーに対して直接的にライプニッツの希望が伝えられていた可能性も排除はできないと思われます。
 この中に,ライプニッツは『神学・政治論』を高く評価していて,それに対してスピノザに書簡を送ったことがあると書かれています。したがって書簡四十五は光学に関することだけが書かれているのですから,これ以外にもライプニッツとスピノザの間で書簡のやり取りがあったことは確実でしょう。とくにこの部分が,シュラーがこの書簡を遺稿集に掲載できないと判断した理由だったと思われます。

 厳密にいうなら,第三種の認識cognitio tertii generisによって個々の植物を認識し,それらの認識の共通部分から植物一般の認識をする思惟作用は,ある分析を伴っているという見方ができます。よってそれは本来的な意味では第三種の認識には属さないということも可能でしょう。ただ,第三種の認識が論証Demonstratioを必要としない認識である以上,このような分析というのはことば以上の価値をもつものではなく,思惟作用には含まれないと解することも可能で,僕はこのような仕方での植物一般の本性essentiaの認識というのも,第三種の認識に属すると解することも許されるであろうと考えます。とくに第五部定理二四の意味というのは,第三種の認識はある個物res singularisという様態的変状modificatioに様態化した神Deusを認識するということでした。それを様態的変状に様態化した神とみなす認識のあり方自体は,個々の植物が第三種の認識で認識されようと,植物一般が第三種の認識で認識されようと同じことであると僕は考えます。
 したがって,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが第三種の認識によって植物の本性を認識したということは,あり得ないことではないと僕は考えます。そしてそのように認識された事柄について,ゲーテが「象徴的植物」と命名したという可能性も排除はしません。ただし,これは実際にゲーテがそう認識したということを意味するわけではありません。
 実際にゲーテがどんなスケッチをしたのかということは僕には分かりません。ただ,ゲーテが植物の本性なるものを形として表現することが絶対にできなかったとまでは僕には断定できないです。僕は第三種の認識で認識された事柄をスケッチするということについては懐疑的ではありますが,実際に植物なるものが存在している以上は,その本性というものが認識され,その本性だけを表現するようなスケッチが存在したとしても,僕にはそれがそうであるといわれても単にそうであるのかどうかは分からないというだけであり,完全に否定することはできないからです。
 このように,『ゲーテとスピノザ主義』のこの部分は,明らかにスピノザの哲学と無関係ではありません。ただ,実際にゲーテがスピノザの哲学と関係していたかは分からないというだけです。
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Kの恋心&植物の認識

2017-10-19 19:27:39 | 歌・小説
 Kが奥さんに「私は金がない」と言ったのは,先生との結婚を「祝えない」という意味だったのであり,奥さんや静に対して嫌味を言ったわけではないと僕は読解しています。その根拠に,先生とKの関係が裕福な男と困窮した男であるということについて,Kの自己意識はきわめて稀薄であった,というか意識されているならKにとっては誇りであったという点を示しました。つまりこのときにだけ都合よく卑屈にそれを想起する可能性は低いとみるのです。そしてもうひとつ,別の根拠もあります。
                                     
 Kが嫌味を言ったのならば,それが嫌味であるということが相手に伝わらなければなりません。この場合は奥さんがそれを嫌味であると理解できる,実際に理解するかはともかく,理解する可能性はあるとKが考えているのでなければ,Kは嫌味を言いません。嫌味を言うとはそういう行為であるからです。
 もしこれを嫌味と解するなら,先生は金があるから静と結婚できるが,自分は金がないから結婚はおろかお祝いもあげられないという意味である必要があります。するとこの意味が奥さんに伝わるためには,K自身が静との結婚を望んでいるということを奥さんが知っているという必要があります。先生もKも静と結婚したいから,金がある先生が結婚して金がない自分は結婚できないという意味が奥さんに伝わることになるからです。
 ところが,奥さんはそのことを知りません。あるいは少なくとも,奥さんがそれを知っているということをKは確実に認識できていません。Kは自分の静に対する恋心を,先生にだけは話しましたが,先生以外のだれにも話していないということがテクストから明らかになっているからです。つまり話していない自分の恋心を,奥さんが知っているとはKは認識していないのです。そしてそうであるなら,自分がこのような嫌味を言ったとしても,奥さんにそれは伝わらないとKは認識した筈です。
 よってKがこの意味の嫌味を言うことはないでしょう。だからそれは嫌味ではなかったと僕は解するのです。

 植物一般の本性essentiaなるものが存在するのであるとしたら,それは植物一般が現実的に存在する限りにおいて存在するというものではありません。いい換えれば,もし地上からありとあらゆる植物が絶滅してしまったとしたら,確かに植物の本性もまたそれと同時に消滅するといわなければならないのですが,それは単に時間tempusの下において消滅するという意味でしかなく,神Deusの属性attributumのうちでは永遠に存在するのであり,この意味においては植物一般の本性は消滅しません。そして同時に,植物が現実的に存在する限りにおいて植物の本性も現実的に存在するすなわち持続するdurareといわれ得るのですが,その間にも植物の本性は永遠なaeternusものとして神の属性のうちには存在しています。これらのことは第二部定理八系から明らかであるといわなければなりません。
 次に,第三種の認識cognitio tertii generisというのはものの本性を永遠の相species aeternitatisの下に認識するあり方です。よってそれが神の属性のうちにあるとみなされるような事柄については,第三種の認識の対象ideatumになるといわなければなりません。あるいは少なくとも,それは第三種の認識によって認識され得るあるものでしょう。よって,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが植物一般の本性を認識し得るということ,実際にそうしていたかどうかは別に,それがゲーテにとって可能であったということについては,これで担保されることになるでしょう。
 一方,もし植物一般の本性は第三種の認識によっては認識できないのだと仮定する場合でも,以下のようなことは可能です。
 第五部定理二四の意味から明らかなように,スピノザは現実的に存在する人間の精神mens humanaが個物res singularisを第三種の認識で認識することが可能であるということについては肯定します。これを肯定しないとこの定理Propositio自体が何も意味を有さなくなるのですからこれは明白でしょう。したがって少なくともあの植物,この植物といわれるような個々の植物については,僕たちは第三種の認識によって認識することができるのです。そこでもしゲーテがこの仕方で各々の植物について第三種の認識によって認識していたとしたら,各々の植物に共通する本性についても第三種の認識によって認識していたといわねばなりません。
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埼玉新聞杯埼玉新聞栄冠賞&植物の本性

2017-10-18 19:24:13 | 地方競馬
 第27回埼玉新聞栄冠賞
 隊列が定まったのは1周目の正面に入ってから。単独の先頭に抜け出たのはオウマタイム。カンムルが単独の2番手まで上がり,3番手はハーキュリーズ,タイムズアロー,ディアドムスの3頭。1馬身差でイッシンドウタイ,1馬身差でグレナディアーズ,1馬身差でキスミープリンスが続きここまでが大きな集団。少し離れてタマモネイヴィーとセイスコーピオン。大きく離れてヴァーゲンザイル。ハイペースでした。
 向正面でカンムルがオウマタイムの外に並び掛けていくとさらにその外にディアドムス。この後ろがタイムズアローとイッシンドウタイとなり,外を捲ってきたのがタマモネイヴィーでそれを追うようにセイスコーピオン。3コーナーを回るとオウマタイムは一杯でカンムルとディアドムスが雁行に。タマモネイヴィーは3番手まで追い上げました。直線に入るところでディアドムスが一旦は前に出たように見えましたがカンムルがしぶとく粘って直線はこの2頭の叩き合い。競り勝った内のカンムルが優勝でディアドムスはハナ差の2着。単独の3番手だったタマモネイヴィーに馬群を捌いたタイムズアローが内から迫りましたが2馬身半差の3着はタマモネイヴィー。タイムズアローがクビ差で4着。タマモネイヴィーを追い掛けたセイスコーピオンは息切れして1馬身半差の5着。
 優勝したカンムル戸塚記念からの連勝で南関東重賞2勝目。6月に1度だけA2以下のレースで古馬との対戦があり,そのときは1秒6差の6着。ここは相手関係がさらに強くなり,3歳馬ながら58キロを背負っていましたから,苦しい戦いになるのではないかと思っていたのですが,それを覆しての勝利。これはここにきて馬が成長してきたと判断しなければならないでしょう。状態を維持できるのであれば,今後の活躍も約束されたようなものだと思います。Gangmulはハングルで川の水。
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は戸塚記念以来の南関東重賞制覇。名称は異なりますが第9回以来18年ぶりの埼玉新聞栄冠賞2勝目。管理している浦和の小久保智調教師第18回,22回,24回に続く3年ぶりの埼玉新聞栄冠賞4勝目。南関東重賞に限るとこれが27勝目。

 僕たちが植物といっているものは,個々の植物を認識し,それら個々の植物に共通の性質を発見した上で,その共通の性質を有する物体corpusについて名付けられた名称である場合がほとんどでしょう。スピノザの哲学ではこのような名称は一般的名辞といわれます。こういう名辞による認識cognitioは記号による認識であり,第一種の認識cognitio primi generisです。ただし,このことをもって植物一般は第一種の認識によってしか認識することができないと結論するのは早計です。
                                 
 第四部定理三五は,人間は理性ratioに従う限りでは本性naturaの上で常に一致するといっています。これをいうためには,すべての人間の間で一致する本性が存在することを肯定しなければなりません。これを人間に一般の本性ということは不自然ではないでしょう。つまり人間に一般の本性は存在するといわねばなりません。すると同様に馬一般の本性も存在しなければならないでしょうし,猫に一般の本性も存在するといわなければならないでしょう。するとこれをさらに拡張することによって,それらに一般の本性を含む哺乳類の本性もやはり存在することになると思われます。哺乳類に一般の本性が存在するならそれは魚類や鳥類にも妥当しそうです。さらにそうした一般的本性のすべてを含む動物一般の本性というのもやはり存在するのではないでしょうか。
 僕たちが馬とか猫とか哺乳類とか動物とかいう場合は,通常は一般的名辞であって,これは第一種の認識です。だからといってその本性が存在しないといわなければならないわけではないということは,人間の本性の例の場合から明白です。すると植物の場合にもこれと同じことが妥当しなければならないことになります。つまり,植物に一般の本性というのは存在するには存在すると考えておくべきだと僕は解します。したがって,それが現実的に存在するある人間によって,第三種の認識cognitio tertii generisによって認識されるという可能性については,それを排除する必要はないと僕は考えます。実際にゲーテJohann Wolfgang von Goetheが何を認識していたかとは別に,ゲーテにとってそれが可能であったということについては僕は排除しないということです。
 ではそれはどのように認識され得るのでしょうか。
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滝澤正光杯&ゲーテの認識

2017-10-17 19:09:09 | 競輪
 千葉記念の決勝。並びは長島‐神山の栃木,山中‐海老根‐中村‐和田の関東で佐藤と志村と村上は単騎。
 志村がスタートを取りにいきましたが内から中村が制し,山中の前受けに。5番手に志村,6番手に長島,8番手に村上,最後尾に佐藤という周回に。残り3周のバックから村上が上昇。少しして佐藤,志村の順で続き,長島も自転車を外に出して志村の後ろに。コーナーから直線に掛けて内に千葉の4人,外にその他の5人で併走。ホームに入ると村上が山中を叩き,志村まで前に出ると長島が山中の外で併走に。バックに入ると村上が徐々にペースを落としてまだ残っていた誘導との車間を開けました。ここら長島が上昇して村上の前に。村上が3番手,佐藤が4番手,志村が5番手,山中が6番手の一列棒状で打鐘からホームに入り長島の抑え先行に。山中が捲ってくる前にホームで村上が発進して先頭に。山中の捲りが村上も飲み込みましたが,海老根がついていかれなかったために村上の番手の佐藤が山中にスイッチ。直線は粘る山中と追う佐藤の争いに。きわどいながらも交わして優勝は佐藤。山中は8分の1車輪差で2着。直線で神山と志村の間を割って差し込んだ中村が1車身差の3着。
 優勝した岩手の佐藤博紀選手は記念競輪初優勝。エボリューションでは勝っていますが昨年と今年はFⅠでの優勝もないくらいですから大金星といっていいでしょう。このレースは山中が後ろを引き出す競走をするのか,それとも自分が勝てる競走をするのかで,展開も結果も大きく変わってくるだろうとみていました。村上が早めに動いてさらに長島に被せられたからということもあったでしょうが,山中は前受けから引いての捲りに。この捲りに海老根がついていかれればまた違ったのでしょうが,単騎になってしまったために佐藤の俊敏な動きを許すことになりました。4人も乗ったのですから優勝者を出したかったであろうことからすれば,千葉勢にとっては並びも含めた作戦の失敗だったといえるのではないでしょうか。佐藤は大金星という評価ですから,真価を問われるのはこれからであると思います。

 ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが実際に何を認識していたのかとは別に,クーンの指摘がゲーテはシラーとの会話において第三種の認識cognitio tertii generisについて何事かを語っていると読解することができる場合の,第三種の認識がどのような認識でなければならないのかを考えておきます。
                                     
 第三種の認識によって直接的にあるいは直観的に認識されるのは,事物の本性essentiaの妥当な認識です。このとき,事物が個別的なものを意味しなければならないのであるとしたら,人間は植物の本性を一般的に第三種の認識によって認識することは不可能であると結論しなければなりません。というのは,植物一般の本性というのは,この意味においては個別的なものではあり得ないからです。この場合に第三種の認識によって認識し得るのは,あの植物,この植物というように分節することができる,個々の植物の本性でなければならないからです。しかしゲーテが認識していたのは,この意味で個別的な植物ではありません。なぜならゲーテのこの認識は,ゲーテがスケッチしてみせたという「象徴的植物」の認識と区別して理解することはできないからです。なので,ここで第三種の認識について何かが語られているのだとしても,それは植物一般の認識についてであると解しておく必要があります。
 次に,『ゲーテとスピノザ主義』では,この「象徴的植物」の認識は,ゲーテの経験から見出されたとされています。この経験が何を意味するのかは不明ですが,たとえば個々の植物の認識から帰結するような植物の一般的な本性を意味するのであるとしたら,ここでは少なくとも推論が行われているのですし,大概の場合はこのような認識は知性intellectusによって秩序付けられてさえいない毀損した認識です。よってゲーテの経験がこれを意味するのであれば,これはどんなに見積もっても第二種の認識cognitio secundi generisであって,おそらくは第一種の認識cognitio primi generisです。いずれにせよ第三種の認識である可能性はないといっていいでしょう。
 ただし,この経験というのがこのように解されなければならないというものではありません。少なくとも個別の植物については直観scientia intuitivaで認識することが可能なのであり,この直観が経験そのものかもしれないからです。
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