スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&大きな主体

2022-09-30 19:07:44 | 将棋
 28日に指された第30期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳白玲・女王が4勝,香川愛生女流四段が1勝。
 振駒で先手になった西山白玲・女王の角道オープン三間飛車に後手の香川四段が居飛車を選択。序盤で後手に失着があったので先手が香車を得しながら馬を作りました。ただその後の展開で得した香車を馬を守るためだけに使うことになり,よりが戻ることに。このあたりは先手はもう少しやりようがあったのではないかと思います。
                                        
 第1図から後手は☖7六歩と攻め合いにいきました。☗7三歩成☖7七歩成で桂馬の取り合い。飛車取りなので☗6六飛と逃げます。後手も銀取りが残っているので☖7三銀。
 そこで☗4四馬☖同歩☗5六飛と進めたのがよい判断で,先手が優勢になりました。
                                        
 第1図で受けに回っていては後手はじり貧なので,攻め合いに活路を見出すのは正しい判断だったとしか思えません。ただすぐに☖7六歩は実戦の手順で拙いので,第1図では一旦は☖8九角成と馬を作っておくべきだったように思います。それなら☗7三歩成☖同銀の後,先手の指針も難しかったのではないでしょうか。
 西山白玲・女王が挑戦者に。倉敷藤花戦の三番勝負には初出場。第一局は11月2日に指される予定です。

 十全な観念idea adaequataの形相formaならびに本性essentiaは,どの知性intellectusのうちにあっても同一です。よってその観念ideaが観念である限りにおいて含む意志作用volitioも同一になります。なので,現実的に存在する人間が事物を十全に認識すればするほど,同一の意志作用がそれらの人間のうちに増えていくことになります。そうした意志作用の総体が意志voluntasといわれるのですから,本性と形相が同一の観念があればあるほど,共通の意志もまたそれだけ増加していくことになります。なので主体subjectumの排除とスピノザの政治論,とくに統治権imperiumあるいは自然権jus naturaeの思想とは関係があることになるのです。
 ただし,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがスピノザの哲学に主体が欠如しているのをみたときには,このように個々の人間が主体であるということが欠如しているという点にあったのではなく,もっと大きな意味で主体という概念notioが欠如していると解しているのではないかと僕は思います。ヘーゲルが絶対精神absoluter Geistといっている精神は,そのような大きな主体の精神であると解することができるからです。
 もっとも,スピノザの哲学は,単に個々の人間が主体であるということが欠如しているだけではなく,もっと大きな主体が存在するということも欠いているのは確かです。もしもスピノザの哲学において,最も大きな主体というものがあるのだとすれば,それは神Deusをおいてほかにないでしょう。そして神の無限知性intellectus infinitusのうちには,無限に多くのinfinitaものの十全な観念があります。ところが,十全な観念の形相ならびに本性は,どのような知性のうちにあっても同一であるということは,この無限知性の場合にも妥当するのであって,たとえば人間の知性のような有限なfinitum知性だけに妥当するというわけではありません。つまりXの十全な観念は,神の無限知性のうちにあるとみられようと,現実的に存在するAという人間の知性のうちにあるとみられようと同一なのです。というか,第二部定理一一系により,人間の知性というのは神の無限知性の一部なのですから,すべての十全な観念は神の無限知性のうちにあるとみられることになります。よって個々の人間が主体であることを欠いているのなら,神もまたそれと同様に主体であることを欠いているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする