スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大成建設杯清麗戦&援用の適切さ

2023-08-26 18:55:23 | 将棋
 23日に指された第5期清麗戦五番勝負第四局。
 西山朋佳女流三冠の先手で三間飛車。先手から角を交換したので後手の里見香奈清麗は向飛車。先手も8筋に飛車を振り直して相向飛車の相振飛車になりました。
                                        
 第1図で先手は☗3六角と打ちました。これは角を打ってしまうので,攻めを凌がなければなりません。ところが☖2七歩成☗同角☖2六飛☗3六歩に☖2五桂と跳ねて後手が駒得する分かれとなり,後手の攻めが続く形になって大きな差がついてしまいました。
                                        
 第1図では普通に☗2六同歩と取った方が先手はよかったようです。何か誤算があったのでしょうが,先手が不甲斐ない内容の将棋だったように思います。
 3勝1敗で里見清麗が防衛第1期,2期,4期に続く連覇で4期目の清麗です。

 円が存在すれば,その円の中で無限に多くのinfinita仕方で線分が交差することになります。そのために無限に多くの面積が等しい矩形が形成されることになります。つまり円が存在すれば,円の本性naturaの必然性necessitasによって,無限に多くの面積が等しい矩形が無限に多くの仕方で存在することになるのです。
 第一部定理一六がいっているのは,Deusが存在するなら,神の本性の必然性から,無限に多くのものが無限に多くの仕方で存在するということです。このゆえに,ユークリッド原論の命題を援用することは,スピノザにとって適切であることになるのです。もちろん,円の中で無限に多くの仕方で直線が交差するということと,神の本性の必然性から無限に多くの仕方でものが存在するようになるというとき,たとえ比喩であったとしても,無限に多くの仕方ということには意味の相違があるのであって,比喩として成立しないということはできます。いい換えればこの説明は牽強付会であるかもしれません。ただ,円が存在するならばその中には無限に多くの面積が等しい矩形があるということと,神が存在するならば無限に多くのものが存在するということになるということは,前者は円の,後者は神の,本性の必然性から生じることですから,比喩として適切であるということは間違いありません。したがって,ユークリッド原論の命題を比喩として援用することは,第一部定理一五に対して適切であるというだけでなく,第一部定理一六に対しても適切であるということになります。
 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で存在するのは,神が起成原因causa efficiensとして結果effectusとして無限に多くのものを発生させるという意味です。つまりそこには因果関係だけがあるのであって,何か目的finisがあるというわけではありません。円の中に無限に多くの面積が等しい矩形が存在するという場合は,それと同じ意味で円が矩形の原因であるというわけではありません。ただ,円が存在するのが,無限に多くの面積が等しい矩形を形成するためであるのか,つまりそういう目的で円が存在するのかといえば,そういうわけではないということはそれ自体で明らかだといっていいでしょう。
コメント
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