スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ナッソーステークス&論証の再生産

2020-07-31 18:59:56 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にイギリスのグッドウッド競馬場で行われたナッソーステークスGⅠ芝9ハロン197ヤード。
 ディアドラは3頭が併走した3番手の外という位置取り。ただ,内の馬との間隔を開け,1頭だけ外を回るようなレースでした。発走後が長い直線,急カーブがひとつあってまた長い直線というコースで,位置は変わらないまま直線に。手応えはかなりよさそうに見えたのですが,いざ追われるとまったくといっていいほど伸びず,残り200mを過ぎたあたりで最後尾に下がると,あとは流したままフィニッシュ。勝ち馬からおよそ8馬身4分の1差で7着でした。
 昨年は勝っているレースなので,コースの適性には問題がなかった筈です。昨年は内を突く形で勝ったのに対し,今年は外を回ったので苦しくなったという見方はできますが,それにしても直線であまりにも伸びが悪かったように思えますから,それだけを敗因とするのは無理がありそうです。体調が整っていなかったのかもしれませんし,あるいはゲートに入ることを嫌がっていたように,レースをするということに対して気持ちが乗っていなかったということもありそうです。

 『エチカ』がスピノザによる思考の実験の場であったとしたら,スピノザは何らの目的なしに,というのは何か論証したいこと,他面からいえば自身が主張したいことなしに公理系を構築していったと解さなければなりません。それでこそ,それは思考実験となり得るからです。ですが僕はそのことは肯定し難く思います。そもそも『エチカ』という表題自体が,ある種の目的なり主張なりを表していると僕には思えます。しかし一方で,そこには確かに実験といえる側面もあったと思います。少なくとも『エチカ』で論証されていることのすべてを,スピノザが当初から主張しようとしていたというのは,無理があるように思えるからです。それどころか,そうであったものの方が少ない可能性の方が高いように思えますから,それは実験の場であったといういい方は,『エチカ』のありようを示していることを僕は肯定します。
                                        
 こうしたことは,ある定理Propositioが論証されると,その論証された事柄がさらなる論証Demonstratioを生産していくという,公理系のシステムによります。したがって『エチカ』で主張されていることの中には,そのシステムに従うことによって,いわば自動的に証明されていった事柄が多く含まれている筈で,なおかつその中には,スピノザが当初は予想もしていなかったことが含まれていることでしょう。この自動的な論証の生産システムが,蜘蛛が巣を張るようなシステムであるとニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはみていた面もあるでしょう。この生産システムの中から生じてくる事柄は,スピノザすなわち形而上学者が意図的に証明している事柄であるのではなく,スピノザが規定した神Deusすなわち絶対に無限な実体substantiaの本性naturaの必然性necessitasによって.自動的に論証されていく事柄であるからです。神が自由意志voluntas liberaによって働いているうちは,神は形而上学者たちによって蜘蛛の巣を張り巡らされていて,神が本性の必然性によって働くagereようになると,神自身が蜘蛛になって巣を張るようになるという部分の意味は,この『エチカ』の論証システムに対しては,適切な比喩であるとみることができます。
 秩序ordoであれシステムであれ,『エチカ』を蜘蛛の巣に喩えることには,一定の妥当性があります。
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東京スポーツ盃マイルグランプリ&蜘蛛の巣と公理系

2020-07-30 19:08:28 | 地方競馬
 昨晩の第27回マイルグランプリ
 先手を奪いにいったのはワークアンドラブ,ヒカリオーソ,リッカルドの3頭。リッカルドが控えてワークアンドラブとヒカリオーソが並ぶように向正面ヘ。そこに外からアンサンブルライフが上がってきて,一旦はアンサンブルライフがハナに立ち,また内からワークアンドラブがハナを奪い返すという出入りの激しい流れ。4番手にリッカルドで5番手はカジノフォンテンとグレンツェントとトロヴァオ。8番手にコパノジャッキー。9番手にミューチャリーとサクラエンパイアとサノマルの3頭。ここから大きく離れてセンチュリオンが後方2番手。最後尾にマースインディという隊列。前半の800mは48秒5のハイペース。
 アンサンブルライフとヒカリオーソは早々に後退。3コーナーを回って2番手にはリッカルドが上がり,内からカジノフォンテン。直線に入るとリッカルドの外からグレンツェントが伸びてきて一旦先頭に。さらにその外からミューチャリーが伸び,グレンツェントを差して優勝。グレンツェントが1馬身差で2着。離れた後方から大外を伸びたセンチュリオンが4分の3馬身差まで迫って3着。
 優勝したミューチャリーは昨年10月の3歳オープン以来の勝利。南関東重賞は羽田盃以来の3勝目。この馬はヒカリオーソと共に現4歳馬2強の1頭。おそらくこれくらいの距離だとヒカリオーソよりも上なのではないでしょうか。前半から激しいレースになったため,控えていた馬たちで上位を占めることになりましたから,展開の恩恵がいくらかあったことは確かだと思いますが,このくらいのメンバー構成なら順当な勝利といっていいのではないかと思います。重賞でも通用する余地があるのではないでしょうか。母の従妹に2014年にオークスとローズステークス,2015年に中山記念,2016年にレッドカーペットハンデを勝ったヌーヴォレコルト。馬名の英語表記はMutually。
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は大井記念以来の南関東重賞42勝目。第13回以来13年ぶりのマイルグランプリ2勝目。回数と年数の差が合わないのは,第17回が行われていないため。管理している船橋の矢野義幸調教師は南関東重賞21勝目。マイルグランプリは初勝利。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがどういった観点から,自由意志voluntas liberaによって働くagere神Deusは蜘蛛であると認めず,本性naturaの必然性necessitasによって働く神を蜘蛛であるとみなしたのかということは,考察したからといって確かな結論を得られるというものではありません。それでもひとつだけ確かなことは,神は死んだGott ist totということで唯一神が存在するということ自体を否定したニーチェが,それでもその神が自由意志によって働いているうちは,自らが蜘蛛となって巣を張っているわけではないと見立てていたことです。そしてそこには,結論を得ることは無理であるのだとしても,何らかの理由があったということもまた確実だといわなければなりません。
                                        
 ニーチェは,神が本性の必然性によって働くようになると,神は自らが蜘蛛となって巣を張るようになったといっているのですが,このとき,蜘蛛の巣から『エチカ』の公理系を連想していた可能性はかなり高いように思えます。もっといってしまえば,ニーチェが蜘蛛の巣ということで暗示しようとしていたのは,『エチカ』そのものであったという可能性が大いにあるように思えるのです。『エチカ』というのは,神すなわち絶対に無限な実体substantiaの本性の必然性からすべての事柄が生じるというようになっていますので,神が蜘蛛であり,蜘蛛の巣はそこから生じるすべての事柄だと解することができます。さらに,蜘蛛の巣というのはある定まった,こういってよければ秩序的な形状をしていますが,公理系というのはまさに秩序的なものであるとみなすことができます。
 『スピノザの世界』では,スピノザによる『エチカ』の執筆は,一種の思考実験であったという主旨のことが書かれています。つまり定義Definitioを置き,さらに公理Axiomaを置けばそこからは必然的にnecessario定理Propositioが発生し,そうして発生した定理を基にさらなる論証Demonstratioを重ねていくことができます。こうした再生産は,スピノザ自身の意図と無関係に拡大していきます。そのように定理を拡大再生産していくことで,思考をどこまで広げていくことが可能であるのかということの実験として『エチカ』いい換えれば公理系があったのだということです。僕はこれに全面的には賛成しませんが,一理あることは認めます。
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ジャスタウェイ&意志による区別

2020-07-29 19:18:48 | 名馬
 21日のマーキュリーカップを勝ったマスターフェンサーの父はジャスタウェイです。父はハーツクライ
                                   
 2011年7月に2歳でデビュー。新馬を勝ち,新潟2歳ステークスで2着。東京スポーツ杯2歳ステークスでディープブリランテの4着に入り,2歳戦を終了。
 3歳初戦はきさらぎ賞で4着。続くアーリントンカップで重賞初制覇。NHKマイルカップで6着になった後,日本ダービーにも出走しましたがこれはディープブリランテの11着と大敗。秋は古馬相手の毎日王冠で復帰し2着。天皇賞(秋)の6着で3歳戦を終了。
 4歳初戦の中山金杯は1番人気に推されたものの3着。京都記念も1番人気で5着。中日新聞杯で8着に敗れた後,エプソムカップ,関屋記念,毎日王冠と3戦連続で2着。しかし天皇賞(秋)は2着馬に4馬身もの差をつける圧勝で大レース制覇を達成。
 5歳初戦の中山記念で重賞3勝目をあげてドバイに遠征。ドバイデューティフリーも圧勝してみせました。帰国して出走した安田記念は不良馬場でしたがハナ差の接戦を制して大レース3勝目。秋は渡仏し凱旋門賞に挑戦。これは8着でしたが帰国初戦のジャパンカップエピファネイアの2着に入り,引退レースとなった有馬記念は4着でした。JRA賞の最優秀4歳以上牡馬に選出されています。
 2歳の時から走っていましたが,本格化したのは4歳秋になってから。マイラーに近い中距離馬だったと思いますが,本格化後の2400m級のレースでも大きく崩れなかったのは,能力の高さの証明といえるでしょう。
 マスターフェンサーは種牡馬としての最初の世代。重賞勝ち馬はマスターフェンサーが5頭目で,ダートの重賞を勝ったのはこの馬が初めて。まだ重賞2勝馬というのは出ていませんが,ジャスタウェイ自身がそうであったように,産駒が本格化するのが4歳秋以降だとすれば,まだそれを迎えた馬がいないわけですから,種牡馬としての能力を正しく評価するには,もう少しの時間が必要でしょう。

 実際のところは,力への意志Wille zur Machtが,現実的に存在する自分自身を超越することへと向かう意志voluntasであるとするなら,意志が知性intellectusを超越するか否かということ,あるいは同じことですが,意志作用volitioが観念ideaを超越するか否かということは,さほど重要ではありません。というのは意志と知性を,あるいは個々の意志作用と個々の観念を,同一であるとみなそうがみなすまいが,力への意志すなわち現実的に存在する自分自身を超越する意志が確保できるなら,そういったことはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheにとってはどうでもいいといっても差し支えはないからです。力への意志が,コナトゥスconatusに対する対抗馬であるとは,そのようなことを意味していると解してください。すなわち,第三部定理六にあるように,自己の有に固執するsuo esse perseverare conaturのか,それとも力への意志によって自己の有を超越するのかということがニーチェにとってのすべてであり,意志が観念を超越するかどうかはあまり関係ないのです。意志作用が観念を超越するなら,力への意志は意志としてそのまま解せば問題ありません。しかし意志作用と観念あるいは意志と知性が同一のものであったとしても,観念なり知性なりが,現実的に存在する自身の知性なり知性を構成する観念なりを超越することができるのであれば,力への意志は成立することになります。それがどちらの形で成立するかということは,力への意志とニーチェがいうときには,どちらかでなければならないというものではありませんし,どちらであるべきだということでもないのです。
 ここから分かるように,ニーチェにとっての力への意志は,現実的に存在する自分自身を超越するために,とても重要であったのです。したがって,ニーチェは一般的に意志という概念notioについては,特別視していたという可能性があるのです。このために,もしDeusが自由意志voluntas liberaによって働いているときは,もちろんニーチェはそのような唯一神が存在するということは認めないのですが,なお神自身が蜘蛛となって巣を張っているのではないとみた可能性があります。意志によって働くagereものと,本性naturaの必然性necessitasによって働くものを,単に意志の概念によって区別する可能性が,ニーチェにはあったのです。
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フロムの言及&力への意志

2020-07-28 19:00:41 | 哲学
 『愛するということThe Art of Loving』におけるフロムErich Seligmann Frommのスピノザに対する言及が,どういった文脈となっているのかということを簡単に説明しておきましょう。これは第2章の1節です。
                                        
 当該の文脈の中でまずいわれているのは,愛とは活動であるということです。しかしフロムは,活動ということにはふたつの意味があるといいます。ひとつは,自分の外部にある目的のためにエネルギーを注ぐということであり,もうひとつが自分の外部の変化とは関係なしに,自分に本来的に備わっている力を用いるということです。
 たとえば,強い不安とか孤独感に苛まれることによって仕事に駆り立てられる人は,あくせくと動くという観点からは活動的とみなし得ますが,後者の観点からはそうではありません。同様に強い野心や金銭欲から仕事に没頭する場合にも同じことがいえます。このように目的に特化した動機から活動的である人をフロムは情熱の奴隷とここでは表現しています。これらの活動は,確かに現代的な意味においては活動とみなされるのですが,能動であるか受動であるかといえば受動です。
 一方,静かに椅子に座って自分自身に耳を傾け,世界との一体感を味わうこと以外の目的は持たずに瞑想する人は,何らエネルギーを注いでいるようには見えないので、その観点からは活動的であるとはいわれません。しかしこの瞑想は,自分に本来的に備わっている力を用いるということには妥当しますから,やはりそれも活動であるといわれなければなりません。フロムはここではそれは高度な活動であるといっています。これは能動であるか受動であるかといえば,能動的な活動であるからです。
 ここでスピノザへの言及があります。後者の意味においての活動について最も明快に述べたのがスピノザであるといわれるのです。本当にスピノザがそれを最も明快に述べたのかは僕には分かりませんが,スピノザがそう述べていることは確かです。なので文脈上はフロムは誤りを犯していないと僕は考えます。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがいう意志voluntasが,絶対的思惟というのに近い側面があるというのは,同じように人間は意志するといっても,スピノザとニーチェは同じ思惟作用についてそのようにいっているのではなく,そういうことで人間の異なった思惟作用について言及しているという点と関連しています。スピノザは意志と知性intellectus,すなわち個々の意志作用volitioとその意志作用によって肯定ないしは否定される観念ideaは同一であるといっているのですが,ニーチェはそれに対していえば,意志は観念を超越する思惟作用であると考えているのです。基本的にニーチェがいう力への意志Wille zur Machtは,観念を超越した意志のことであると解して間違いありません。とくにスピノザの哲学との比較でいうなら,そのように解釈するのが妥当であるといってもいいでしょう。
 本来的な面からいうと,力への意志という概念notioが,ニーチェのスピノザに対する否定であるとみられるとき,重要なのはそれが観念を超越する意志であるという点にあるのではありません。この概念は,ニーチェがそれを意識していたかどうかということは別として,スピノザの哲学に対していえば,コナトゥスconatusへの対抗馬という色合いが濃く滲み出ています。ニーチェはコナトゥスというのをきわめて反動的な概念と解しました。ある人間が現実的に存在するとき,その人間がその現実的存在を超越することを否定しているような概念とニーチェには見えたからです。したがって力への意志というのは,人間が現実的存在を超越するための概念,あるいは同じことですが,今ある自分自身をさらに超越して大きくなっていくための概念であるといえます。他面からいえば,ニーチェは人間は現実的存在を乗り越えていくことができるという意味で超越論的な思想を有していたのであって,その超越論的な哲学を構築していくために,力への意志という概念を必要としたということができるでしょう。
 哲学史的な観点からいえば,スピノザの哲学もニーチェの哲学も,原則的に内在の哲学に属する思想です。ですがスピノザとニーチェを比較した場合には,スピノザの哲学が徹底した内在の哲学であるのに対し,ニーチェには超越論的要素が含まれるのです。
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叡王戦&思惟作用

2020-07-27 19:00:23 | 将棋
 23日に指された第5期叡王戦七番勝負第五局。持ち時間は3時間。
 永瀬拓矢叡王の先手で相掛かりから後手の豊島将之竜王・名人が横歩を取る展開。これを機に一気に激しくなりました。分かれは後手がよかったと思うのですが,勝機を見出せないまま受けに回っているうちに混沌としてきました。
                                        
 後手が2二の銀を上がった局面。この手も必要であったかどうかは微妙で,☖2八成桂から攻め合いを目指すのも有力だったと思います。ただ,後手の指し方からすると受けきるという方針であったのでしょう。
 先手からはいくつかの有力な筋がみえます。まず☗7一金と打てば☖8二飛でしょうから,そこで☗6一金と寄る順。ただ,一段目に金を打つのはあまり筋がよい手とされていません。
 ☗9一桂成も有力で,☖同飛は☗8二角ないしは銀があります。ただこれは銀を上がったのを生かして☖2一飛と逃げられるかもしれませんし,☖8四飛と取られても8五に駒を打たなければなりません。
 実戦は☗6二銀が選択されました。これだと☖7二金☗5一角までは必然の進行でしょう。
                                        
 後手の方針から考えると最大のポイントとなったのはこの局面だったような気がします。実戦は☖3一玉と逃げたのですが,☖同飛☗同銀不成☖同玉とすっきりさせてしまった方が,分かりやすかったのではないでしょうか。先手から最も単純な攻め筋は☗8一飛☖6一桂☗7一桂成でしょうが,これは☖9四角と王手に打つ手が攻防手です。実戦は後に☖9四角が打たれたのですが,この近辺で打てるようにしておくのが優ったように思えます。第2図以降も後手に好機はありましたが,一局の方針としてはそこを逃したのは仕方がなかったような気もします。
 永瀬叡王が勝って2勝1敗2持将棋。第六局は来月1日です。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは意志voluntasがあるということは認めます。ここでの考察に合わせたいい方をするなら,ニーチェはそもそも唯一神が存在するということは認めませんから,唯一神の本性essentiaが自由意志voluntas liberaによって構成されるということは認める余地がありませんが,人間の精神mens humanaのうちに意志があるということは認めます。他面からいうなら,人間が意志するということは認めるのです。
 唯一神が存在するか否かということを除けば,スピノザとニーチェはここまでは一致しているのです。スピノザは唯一神が存在するということは認めます。これは第一部定理一一第一部定理一四系一から明らかです。ですからこの点についてはニーチェはスピノザを否定します。しかしスピノザは第一部定理三二系一から明らかなように,Deusの本性essentiaに自由意志が属するという考え方についてはそれを否定します。しかし人間の精神のうちに意志がある,いい換えれば人間が意志をするということは認めているのです。ただここは注意が必要で,スピノザの哲学の場合には,人間の精神が特有に意志をするというようには解さない方が安全です。一般に知性intellectusなるものが存在すれば,それが人間の知性であるかないかとは関係なく,その知性のうちには,その知性を構成している観念ideaと同じ数だけの意志作用volitioが含まれているとスピノザはいっていると解する方がより適切でしょう。
 したがって,スピノザもニーチェも同じように人間は意志をするというのですが,そこには重大な相違が存在するのです。第二部定理四九系で示されているような考え方については,ニーチェは同意しないからです。他面からいえば,スピノザは意志作用というのを,観念が観念である限りにおいて含んでいる肯定affirmatioないしは否定negatioであるというのですが,ニーチェは意志がそのような思惟の様態cogitandi modiであるということは否定するのです。ですから,スピノザが人間は意志するという場合と,ニーチェが人間は意志するという場合とでは,同じように人間が意志をするということがいわれているのだとしても,そこで行われている思惟作用は同じ作用ではないと考えなければなりません。少なくとも,同じ思惟作用ではない場合があるということは確実なのです。
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不死鳥杯&観念と意志作用

2020-07-26 19:13:34 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは高橋‐坂口の中部,脇本‐松岡‐東口の近畿①と伊原‐村上の近畿②。
 伊原がスタートを取って前受け。3番手に高橋,5番手に脇本で周回。残り2周のホームに入っても動きはなく,それぞれのラインの間で車間が開きました。誘導が残ったバックから脇本が発進。打鐘から伊原が抵抗し,村上の牽制も入ったため,相互の脚力からすれば時間は掛かりましたが,ホームで伊原を叩いて前に。ラインの3人で出きると,4番手の伊原との差が開きました。村上が自力に転じて前を追っていきましたがさほど差は詰まらず。前の3人の争いとなり、差はいくらか詰まったものの並びの順でフィニッシュ。優勝は脇本。1車輪差の2着に松岡。4分の3車身差の3着に東口。
                                      
 優勝した福井の脇本雄太選手は先月の高松宮記念杯以来の優勝。記念競輪は2017年の福井記念以来の優勝で通算7勝目。2014年2015年にも優勝しているので福井記念は3年ぶりの4勝目。脇本は記念競輪に出走することが少ない選手で,実際に優勝した福井記念以来3年ぶりの出走。ここは近畿と中部の選手だけで7車立てですから,当初から負けられない開催でした。野原も村上もそれなりに抵抗はしましたが,力の違いをみせつけました。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学における意志voluntasが,絶対的思惟に近い側面があるというのは次のようなことです。
 第二部定理四九系から分かるように,スピノザの哲学では意志と知性intellectusは同一です。これは,意志というのはpotentiaという観点からみた限りでの知性であるということです。スピノザの哲学における意志は個々の意志作用volitioの総体を意味し,知性は個々の観念ideaを意味します。よってこれは,個々の意志作用は力という観点からみた限りでの個々の観念であり,この意味において個々の観念と個々の意志作用と同一であるということです。このことはこの系Corollariumが第二部定理四九の系であるということからよく分かるでしょう。すなわち、ある観念にはその観念に特有の意志作用というものがあって,観念はそうした意志作用がなければあることも考えることもできないし,逆にそうした意志作用はその観念がなければあることも考えることもできないのです。
 この関係については何度かいっていますが,ここでも改めて説明しておきます。平面上に三角形が存在するとき,この三角形の内角の和は二直角です。これを観念と意志作用の関係でいえば,三角形の観念には,その内角の和が二直角であるということを肯定する意志作用が含まれているということになります。もしある知性のうちにこれを肯定する意志作用がなければ,その知性のうちには平面上の三角形の観念がない,より厳密にいえば,平面上の三角形の十全な観念idea adaequataがないということを意味するのです。一方,ある図形について,その図形の内角の和が二直角であることを肯定する意志作用がある知性のうちにあるためには,その知性のうちに平面上の三角形の観念が存在するのでなければなりません。この意志作用が肯定することができる対象は,平面上の三角形の観念だけであるからです。このようにしてある観念はその観念を肯定する意志作用がなければあることも考えることもできず,一方である固有の意志作用は,その固有の意志作用が肯定することができる観念がなければあることも考えることもできません。このようにして,ある特定の観念とそれを固有に肯定する意志作用は,同一のものであるとスピノザは主張します。
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叡王戦&ナンセンスな問い

2020-07-25 19:00:47 | 将棋
 19日に万松寺で指された第5期叡王戦七番勝負第四局。第三局が持将棋の長時間の将棋だったため,開始時刻が予定よりも30分遅れました。
 豊島将之竜王・名人の先手で永瀬拓矢叡王の横歩取りに。この将棋はよくなった方が粘りにいくような指し方を繰り返したため,どちらにも明解な勝ちという局面が現れないまま一進一退の攻防が延々と続きました。200手を越える持将棋の後の将棋でしたから,両者とも疲労困憊であったためでしょう。結果的にこの将棋は持将棋の局よりも長い手数になりました。
                                        
 局面がはっきりしたのは第1図を過ぎてから。ここは1七に王手で入った馬が2九の金に当てられて逃げたところ。
 ここで先手は☗8六桂と王手をしました。これには☖8四王。桂馬を打ったからには☗7四香なり☗6五歩で攻めを継続するのかと思いましたが,一転して☗5九香と受けに回りました。これは第1図でも打てましたので,王手を決めたのが得になっているかどうかは微妙だと思います。
 後手は☖6九飛と打ちました。ここで☗5七香と取ると☖同銀成でかえって危なくなりそうです。なので☗6五歩と攻め合うかと思えましたが☗3九玉と逃げました。しかしこれは☖5八歩と打たれ☗7七角と5九を守った手に対して☖2六歩と歩で攻められることになり,著しく悪くなってしまいました。
                                        
 相手の打ちたいところに打てということであれば,変な手ですが第1図では☗6九桂と打ち,次に☗5九香を狙う手もあったかもしれません。いずれにしても決定的に悪くならない手順はあったものと思います。
 永瀬叡王が勝って1勝1敗2持将棋。第五局は23日に指されました。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの判断が意志voluntasに関係しているとみる場合には,まず以下のことを踏まえておかなければなりません。
 ニーチェが神は死んだGott ist totというとき,それは唯一神が死んだという意味であるということは,この探求の中ですでに説明しました。一方,自身の周囲に蜘蛛の巣を張り巡らされている神Deusであろうと,自ら蜘蛛となって巣を張る神であろうと,唯一神であるという点では変わりはありません。ですからこのような神が,自由意志voluntas liberaによって働くagereものであるのか,それとも本性naturaの必然性necessitasによって働くものであるのかということを,ニーチェに対して二者択一で迫るとすれば,問い自体がナンセンスであるといわなければなりません。それが唯一神である以上,自由な意志によって働く神も本性の必然性によって働く神も死んだ,つまり存在しないというのがニーチェの解答となるからです。ですからニーチェが意志という場合,実際にニーチェは力への意志Wille zur Machtというのですから,意志というものが存在するということは認めているといわなければなりませんが,こうした意志が神の本性に,とりわけ唯一神の本性に属するということはありません。そしてそれは,唯一神の本性は自由な意志によって構成されないということを意味しているのではなく,唯一神自体が存在しないということを意味するのです。
 これだけでみると,ニーチェは思惟の様態cogitandi modiとしての意志を認めているようにみえます。よって,自由意志によって働く神と本性の必然性によって働く神のどちらがニーチェの見解opinioに近いのかといえば,後者すなわちスピノザが示した神の方が近いようにみえるでしょう。しかし,ニーチェが意志があるということ,いい換えれば人間は意志する存在であるということを認めているからといって,だから神の本性には自由な意志は属さないとする見解に近いところにいるというのは間違いです。あるいは間違いではないとしても,誤解を生じさせるでしょう。スピノザの哲学の用語でいえば,実体substantiaとか属性attributum,あるいは様態ということは念頭に置かずにニーチェは意志といっているのだと解した方が安全です。というのもニーチェがいう意志には,絶対的思惟に近い一面があるからです。
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プラチナカップ&蜘蛛の巣

2020-07-24 19:01:54 | 地方競馬
 昨日の第3回プラチナカップ
 最初にゲートに誘導されたワンパーセントが極度にゲートに入ることを嫌ったので,発走まで少々の時間を要しました。サンマルティンは発馬のタイミングが合わずに1馬身の不利。最内のエッシャーがハナを奪い,2番手にベストマッチョ。3馬身差でダノンレジーナとバトードラムール。3馬身差でインペリシャブルとマーガレットスカイ。7馬身差でクインザヒーロー。2馬身差でコーラルツッキーとワンパーセント。1馬身差でサクセッサー。3馬身差でサンマルティンというとても縦に長い隊列。最初の600mは35秒1の超ハイペース。
 3コーナーからベストマッチョがエッシャーとの差を詰めていき,コーナーの途中では先頭に。ダノンレジーナが3番手で内を回ったインペリシャブルが4番手に上がり,優勝圏内はこの4頭。ベストマッチョも前半のペースが祟り,一杯になっていたものの,直線の入口では抜け出す形となっていたのが大きく,危なげない形で優勝。直線は外に出されたインペリシャブルが1馬身半差で2着。一旦は2番手に上がったダノンレジーナが1馬身半差の3着で,エッシャーは2馬身半差の4着。最も鋭い脚を使った大外のワンパーセントがハナ差で5着。
 優勝したベストマッチョはJRA時代の2018年1月にオープンを勝って以来の勝利。今年の3月までJRAで走り川崎に転入。転入初戦のオープンは2着でしたが,これは勝ったのが大レース勝ち馬のブルドッグボスでしたから上々の結果。今年の2月にはオープンで3着があるように,極度に能力が落ちていたわけではありませんから,強敵が不在のここは順当な勝利といっていいでしょう。ただ,58キロを背負ってのものですから,相手関係以上の評価はできると思います。JRA時代の成績から,重賞では苦しそうなのですが,連戦した浦和の1400mに適性があるということであれば,この条件では好勝負をすることが可能なのかもしれません。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手川崎マイラーズ以来の南関東重賞37勝目。その後,さきたま杯も勝っています。第1回以来2年ぶりのプラチナカップ2勝目。管理している川崎の佐々木仁調教師は南関東重賞9勝目。プラチナカップは初勝利。

 自由意志voluntas liberaによって働くagere神Deusと,本性naturaの必然性necessitasによって働く神の間に,どのような差異があるとニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが判断していたのかを探求することは徒労ではありません。それが蜘蛛として自ら巣を張る神と,自身の周囲に巣を張り巡らされていた神との相違に直結するからです。
                                        
 ニーチェの判断の理由は,僕には主にふたつ考えられます。ひとつは,神が自由な意志によって働いている間は,巣を張っているのは神ではなく形而上学者であり,神が本性の必然性によって働くようになると,神は自身が蜘蛛となって巣を張るようになるのですから,自由意志によって働く神と本性の必然性によって働く神との間にある差異そのものが,蜘蛛でないか蜘蛛であるかの差異に直結しているとニーチェがみなしていた場合です。すでに説明したように,この間にある差異は,完全性perfectioというのをどのような概念notioとしてみるかということと関係していました。すなわち,なし得ることのすべてをなす存在者のことを最高に完全な存在者とみなすのか,それともなし得ることのすべてをなすのではなく,なさないことあるいはなし得ないことが残余としてある存在者を最高に完全な存在者であるとみなすのかという相違です。これでみれば,なし得ることのすべてをなさないような神は,単に自身の周囲に蜘蛛の巣を張り巡らされているだけであり,もしなし得ることのすべてを神がなすようになると,神は自らが蜘蛛として巣を張るようになるということになります。ニーチェが蜘蛛の比喩に言及するとき,蜘蛛そのものについての言及というよりは,蜘蛛の巣についての言及であると解釈する方が妥当性が高いので,ニーチェがそのようにみなしていた可能性は大いにあるといえるでしょう。蜘蛛にとって巣を張るということは,なし得ることのすべてをなしているという意味合いにとることができますし,一方で神に自由な意志を付与している場合には,神が自由に蜘蛛の巣を張っているようにみえて,実際にその巣を張っているのはそのような神を規定している形而上学者の側であるという見方が可能だからです。
 もうひとつの可能性は,自由であるか否かとは関係なく,意志そのものと関係します。
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習志野きらっとスプリント&蜘蛛としての神

2020-07-23 19:05:04 | 地方競馬
 昨晩の第10回習志野きらっとスプリント
 ノブワイルド,クルセイズスピリツ,アザワクの3頭が前に。先頭に立っていたノブワイルドを内からアザワクが追い抜き,ハナには立ちましたが,ノブワイルドも引かなかったので,3コーナーにかけてこの2頭で3番手以下を離していく形に。ポッドギルが3番手に上がり,クルセイズスピリツは4番手に。ストロングハートが5番手で以下はミラクルダマスク,クイーンズテソーロ,キャンドルグラスとエイシンテキサス,スティンライクビー,トミケンキルカス,フランシスコダイゴの順で差がなく続きました。1頭だけ大きく取り残されていたアピアは故障を発症して競走中止。最初の400mは22秒1の超ハイペース。
 コーナーの途中でノブワイルドが外から再び先頭に。ポッドギルが3番手に上がりましたが,ノブワイルドとのスピード比べには負けたアザワクがよく粘り,アザワクに追いつくには至らず。この間にポッドギルの外からキャンドルグラスが伸びてきて,アザワクまで差して2番手に。しかし粘るノブワイルドに並び掛けることはできず,優勝はノブワイルド。キャンドルグラスが半馬身差で2着。実質的に最後尾から大外を伸びたフランシスコダイゴが1馬身半差の3着に届き,アザワクはクビ差で4着。ポッドギルが半馬身差で5着。
                                   
 優勝したノブワイルドテレ玉杯オーバルスプリント以来の勝利。南関東重賞は昨年のプラチナカップ以来の勝利で3勝目。第9回に続く連覇で習志野きらっとスプリント2勝目。重賞2勝馬ですから実績は断然。ただもう少し距離があった方がいいタイプではありますので,この距離のスペシャリストを相手にしてどうかといったところ。かなり強引なレースで逃げた馬を潰し,やはりスプリンターの追い上げを封じましたので,内容としてはとても強かったといえます。8歳になりましたが,極端な能力の衰退はないとみていいのでしょう。父はヴァーミリアン。祖母は1987年に金杯を勝ったトチノニシキ
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年の習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞48勝目。9月にはテレ玉杯オーバルスプリントを勝ちました。第6回,9回に続き連覇で習志野きらっとスプリント3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞40勝目。第9回からの連覇で習志野きらっとスプリント2勝目。

 第三部定義三から分かるように,スピノザは感情affectusについては,人間の身体humanum corpusについても人間の精神mens humanaについても妥当する語として用いています。ですから,意志voluntasについてもそうすることが可能であったことは確かでしょう。ですが身体について意志という語を用いることは,それまでの哲学の文脈からすれば無用の混乱を齎す危険性があります。なおかつその意志は,神Deusの本性essentiaに属するとした意志とは異なる意志でなければならないので,二重の混乱を与えることになってしまいます。だとすれば,スピノザがこの方法,すなわち神の本性に自由意志voluntas liberaが属するという考え方を採用しなかったのは,ある意味では当然であったといえるかもしれません。神の本性から意志を剥奪することにより,思惟の様態cogitandi modiとしての意志だけを認めた方が,スピノザ自身がいわんとするところをより分かりやすく伝えられるであろうからです。このようにしてスピノザは,神は本性naturaの必然性necessitasによって働くagereとして,そこに自由libertasを認めるかわりに,意志からは自由を剥奪し,所産的自然Natura Naturataとして思惟の様態という地位を与えたのです。
 意志を思惟の様態としてだけ認め,本性の必然性に自由を付与したことは,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが蜘蛛の比喩を用いたときに,神が自ら蜘蛛となって網を張るようになったという点と関連します。ニーチェはそれはスピノザの相の下にそうなったといっていました。ではスピノザの新奇性というのが何であったかといえば,神が本性の必然性によって働くとした点にあったのだからです。ですから蜘蛛としての神が,スピノザの哲学における神であることは間違いなく,そしてその神は,それ以前の,形而上学者から自らの周囲に蜘蛛の巣を張り巡らせられていた神ではなく,自ら巣を張るようになった神なのですから,神は本性の必然性によって働くようになったことにより,蜘蛛となったのです。
 これは逆にいえば,もし神が意志の自由によって働いているうちは,自らが蜘蛛として巣を張っていたわけではないとニーチェは考えていたということになります。ということは,意志の自由によって働く神と本性の必然性によって働く神の間に違いがあるとニーチェはみていたということです。
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ふるさとカップ&もうひとつの方法

2020-07-22 19:00:06 | 競輪
 昨日の弥彦記念の決勝。並びは渡辺‐小松崎‐佐藤の福島,平原‐諸橋の関東,郡司‐鈴木の南関東。
 佐藤がスタートを取って渡辺の前受け。4番手に平原,6番手に郡司で周回。残り3周の最終コーナーから郡司が上昇開始。ホームで渡辺を叩いて前に。続いた平原が3番手になり,引いた渡辺が5番手でバックに。ここから渡辺が発進していきましたが打鐘から郡司が抵抗。渡辺は前に出ることができず,立て直してホームからまた動いていきましたが,郡司が振り切ることに成功。渡辺は浮いてしまい,3番手に平原で5番手に小松崎という6人での一列棒状に。最終コーナーの手前から平原が発進。コーナーの途中で捲りましたが,やや時間を要したため,鈴木から執拗な牽制を受けた諸橋が一時的に離れました。先頭で直線に入った平原がそのまま粘り切って優勝。2着は立て直して伸びた諸橋と,大外を強襲した小松崎で接戦。写真判定となり,諸橋が4分の3車身差の2着を確保し関東のワンツー。小松崎がタイヤ差で3着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は3月の松山記念以来の優勝で記念競輪23勝目。弥彦記念は初優勝。このレースは渡辺の先行を予想していました。瞬発力はあるタイプなので,郡司をかまし切れなかったのは意外だったのですが,現状は郡司にもそれだけの力があるということなのでしょう。福島勢の二段駆けがなくなり,無理気味に先行した郡司ラインの3番手を取れたことで,平原に絶好の展開となりました。現状は脚力だけで記念競輪を優勝するにはやや苦しくなってきていると思うのですが,レースの組立は巧みな選手で,このレースのように自分に向く展開を作る機会は多くなるので,まだ活躍はできるでしょう。

 ふたつある解決策のうち,ひとつが単に論理的に解決しているだけで,現実的には批判を招くだけであるとしたら,実際にスピノザが採用することができたのは,もうひとつの方法です。それは,神Deusの絶対的本性を自由意志voluntas liberaと等置する方法です。この場合,たとえば延長の属性Extensionis attributumの原因causaが神の自由意志であるということはできないのですが,延長の属性自体は神の自由意志と等置することができます。各々の物体corpusの原因は延長の属性ですから,物体の原因は神の自由意志であるということになります。よってこの点での批判を招くことはありません。
 この解決策の難点は,神の自由意志を,というのは意志をというのと同じですが,思惟Cogitatioとみなすことができないという点でしょう。意志を思惟とみなしてしまった途端に,それを延長の属性と等置することができなくなってしまうからです。同時にこれは,思惟の様態cogitandi modiとしての意志を規定することができなくなるということを意味しますから,人間の精神mens humanaによる意志作用volitioについては何も語ることができなくなるということにも繋がります。すでに示したように,もし神の本性essentiaに自由意志を帰した場合は,人間の精神の意志作用を認めた場合でも,神の意志と人間の意志の間には本物の犬と星座の犬ほどの相違が発生してしまうのですが,そうした相違があることを受け入れるのであれば,意志を思惟として規定すること自体は可能です。それが意識されているかいないかは別として,神の本性に自由意志が属するという論者は,思惟的実体のみを神と認めることによって,そうした方法を採用しているのだといえるでしょう。しかしスピノザのように神が絶対に無限な実体substantiaであるとした場合は,意志を神の絶対的本性と等置しなければならないがゆえに,人間の精神に意志があるとか,人間は意志するということさえいえなくなっていますのです。
 もちろん,神の絶対的本性と自由意志とを等置したのと同じように,人間についても意志を精神と身体corpusの双方に規定するという方法は残されています。ただこの場合には,神の意志と人間の意志との間には本物の犬と星座の犬ほどの相違があるということを受け入れなければならなくなります。
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マーキュリーカップ&問題の発生要因

2020-07-21 19:06:39 | 地方競馬
 メイセイオペラ記念の第24回マーキュリーカップ
 ディグニファイドは立ち上がって2馬身の不利。すぐにリンノレジェンドがハナに立って2馬身のリード。2番手にアポロテネシー。3馬身差でヨシオ。2馬身差でマスターフェンサーと前はばらばら。ここからヒストリーメイカー,ランガディア,デルマルーヴルまでの4頭は一団。3馬身差でヤマショウブラックとセンティグレード。2馬身差でアリオンダンス。2馬身差でディグニファイド,キタノイットウセイ,アドマイヤメテオ,ナラの順。ミドルペースでした。
 向正面でヒストリーメイカーとデルマルーヴルが動いていき,3コーナーではリンノレジェンド,アポロテネシー,ヨシオ,ヒストリーメイカー,デルマルーヴルの5頭が横並び。4コーナーにかけてリンノレジェンドとヨシオの2頭は脱落。残る3頭は雁行で,マスターフェンサーが2馬身差の4番手に進出。直線での競り合いからは一番外のデルマルーヴルが前に。ここにマスターフェンサーがさらに外から襲い掛かり,差し切って優勝。デルマルーヴルが1馬身半差で2着。アポロテネシー,ヒストリーメイカーの順に苦しくなり,この2頭の外から伸びたランガディアが5馬身差で3着。
 優勝したマスターフェンサーは2月の3勝クラス以来の勝利で重賞は初勝利。このレースは実績ではデルマルーヴルが最上位でしたが,オープン入りした後,2戦連続2着のマスターフェンサーは,3歳春に敢行したアメリカ遠征の内容からも,実力は上の可能性がありました。このレースは早めに動いた馬が多く,それを後から追い掛けるという展開面の有利さがありましたから,額面通りには受け取れないかもしれません。ただし,トップクラスまでいく可能性はある馬だと思います。現状は長い距離の方がいいのではないでしょうか。父は2014年のJRA賞で最優秀4歳以上牡馬に選出されたジャスタウェイでその父はハーツクライ
                                        
 騎乗した川田将雅騎手は第15回以来9年ぶりのマーキュリーカップ2勝目。管理している角田晃一調教師はマーキュリーカップ初勝利。

 デカルトの哲学と比較したときに,スピノザの哲学に特有の問題が発生してしまうのは,結局のところ,デカルトの哲学では神Deusが思惟的実体とみなせるものであって,物体的実体substantia corporeaが神とは別に規定されている,これをスピノザの哲学の概念notioに合わせていうなら,デカルトの哲学では思惟の属性Cogitationis attributumは神の本性essentiaを構成し得るのですが,延長の属性Extensionis attributumは神の本性を構成することはないのに対し,スピノザの哲学では思惟の属性も延長の属性も,またそれ以外の人間には認識するcognoscereことができない無限に多くのinfinita属性も,同じように神の本性を構成しているからです。このために,自由意志voluntas liberaを神の本性に帰するとき,デカルトの哲学ではそれを思惟の属性と同様の意味を有する絶対的意志と規定すれば何ら問題は生じませんが,スピノザの哲学ではそのように解すると,それが本来的な意味では神の本性を構成するといえなくなってしまうのです。
 この問題の解決策は,おそらく二通りあります。ひとつは自由意志について,それを絶対的思惟と解して,その自由意志からは思惟の属性に属するすべてのもの,いい換えればすべての観念ideaが発生するといい,この自由意志と同様の絶対的なものが,各々の属性に属するとすることです。ただしこれは現実的な解決策となりません。というのは,神の本性に自由な意志が属するというとき,それは神は自由な意志によってすべてのものの創造者であるということを意味しているべきなのですが,スピノザの哲学の場合で自由な意志を絶対的思惟と規定してしまうと,神は自由な意志によってすべての観念の創造者であるということは帰結しますが,それ以外の形相的事物,すなわち知性intellectusの外にある事物については,神はその創造者ではあっても自由な意志による創造者であるということにならなくなってしまうからです。人間についていえば,人間の身体humanum corpusも人間の精神mens humanaも,直接的にであれ間接的にであれ神の自由意志による創造物でなければならないところが,スピノザの哲学では,人間の精神は神の自由な意志による創造物ではあっても,人間の身体は神の自由意志による創造物ではないということになってしまうのです。これはかえって批判を招くだけの解釈でしょう。
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叡王戦&両立可能性

2020-07-20 19:05:27 | 将棋
 万松寺で指された昨日の第5期叡王戦七番勝負第三局。持ち時間は1時間。
 永瀬拓矢叡王の先手で相矢倉。先手の仕掛けに後手の豊島将之竜王・名人が対応を誤ったようですが,そこから徹底抗戦。少ない攻め駒で反撃してきましたので,先手が入玉を目指したのは自然と思えます。後手も入玉を目指すことになり,後手の駒が足りるか否かが焦点に。
                                        
 先手が3四のと金を引いた局面。このまま3六で総交換になると後手が1枚多く取られてしまうので,☖3七歩成と逃げました。先手は☗2五とと銀を取って後手は☖同歩と取り返します。
 このときに馬と龍が利いてきたので先手は☗1八銀☖同龍☗3九金☖同玉と2枚捨ててその代償に☗1八馬と龍を取りました。一時的に後手の駒が足りなくなっているので,2六の馬を取られることなく1八の馬を取れば持将棋という局面になりました。
 まず☖2七香と逃げ道を封鎖。☗2八歩とこじ開けにきたところで☖3八銀と駒を足します。☗2七歩と取られたときに取るのは☗2九飛があるので☖4四馬で成銀を取って逃げます。先手は☗4二龍。
 ☖6六馬と取れるようですがそれは☗6九飛の王手馬取りで負け。なので☖3五馬と逃げ☗2六歩と逃げ道を開けたところで☖2七銀打としました。
                                        
 これで後手は馬の捕獲に成功。すぐに持将棋が成立しました。第四局は同日の夜に指されました。

 デカルトRené Descartesの哲学では,思惟的実体と物体的実体substantia corporeaが別々にあり,思惟的実体は神Deusとみなすことができるのに対し,物体的実体は神とは別に存在します。したがって,神の本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属するとした場合に,それは思惟的実体の本性に自由な意志が属するという意味になります。いい換えれば物体的実体の本性には自由意志は属しません。そこで,もし現実的に存在する物体corpusの原因causaは物体的実体であるとするなら,諸々の物体は神の自由意志によって生じるわけではないということになります。しかし,物体的実体自体が神の自由意志によって発生すると規定してしまえば,間接的にではあれ,神がすべてのものの創造者であることは確保できます。第一部定理三でいわれていることは,デカルトの哲学では成立しないからです。このことは,デカルトが示した道徳律が,身体の統御という観点からいわれていることから明白です。すなわちデカルトは,理性ratioによって欲望cupiditasを,いい換えれば精神mensによって身体corpusを統御することを道徳の中心に据えました。これが中心に据えられているということは,デカルトはそれが可能であるとみていたことになります。つまりデカルトは,精神が原因となって身体を統御することは可能であるとみていたのです。実際にデカルトがそう主張したのかは別として,これと同じ理屈によって,思惟的実体である神が,物体的実体の原因であることは可能であることになるでしょう。つまり神の本性に自由な意志が属するという主張と,神が万物の創造者であるということが,論理的に両立し得るようになっています。
 スピノザの哲学の場合はそうはいきません。第三部定理二から明白なように,精神が身体の原因であることはできませんし,身体が精神の原因であるということもできません。このことが,第一部定理三から帰結するのですから,思惟の属性Cogitationis attributumが延長の属性Extensionis attributumの原因であることはできないし,延長の属性が思惟の属性の原因であることもできないのです。よって第二部定理六から分かるように,延長の属性は延長の様態modusすなわち物体だけの原因であり,思惟の属性は思惟の様態cogitandi modiすなわち第二部公理三によりまずは観念ideaだけの原因であるのです。
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ツァラトゥストラはこう言った&特有の問題

2020-07-19 19:09:12 | 哲学
 今回の考察で,『アンチクリストDer Antichrist』におけるニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheのスピノザに対する蜘蛛の比喩を詳しく説明したときに,『ツァラトゥストラはこう言ったAlso sprach Zarathustra』の中にも蜘蛛が出てくるといいました。この蜘蛛はスピノザとは無関係ではありますが,『ツァラトゥストラはこう言った』はおそらくニーチェを最も代表する著作といえるでしょうから,簡単に紹介しておきましょう。
                                   
 この本は哲学書であることには違いありませんが,書籍のジャンルとしていえば小説に該当します。ニーチェとゲーテの関係について紹介したときにいったように,ニーチェはゲーテJohann Wolfgang von Goetheに対して畏敬の念を抱くといっているほど高い評価を与えています。そのときニーチェは,思想家としてのゲーテを評価しています。汎神論論争においてゲーテがスピノザの擁護に回ったように,確かにゲーテは思想家としての一面がありますが,どちらかといえば『ファウスト』に代表されるような作家として著名であるといえるでしょう。つまりゲーテが思想家としていくつもの小説を書いたように,ニーチェも自分自身の思想を背景として,『ツァラトゥストラはこう言った』という小説を書いたのだということになるでしょう。
 『この人を見よEcce Homo』の中でニーチェは,自身の著作についての解説を与えています。その中で最も多くのページを割いているのが『ツァラトゥストラはこう言った』に対してです。これはほかの著作と比較したときの特殊性に起因しているという面もあるでしょうが,単純にニーチェが最も気に入っている自作の著書がこれであったからだという可能性の方が高いのではないでしょうか。
 小説であることには違いありませんが,何の知識もなしに読み始めれば,この本の内容を十分に理解することは困難であると思われます。ひとつは数多くの比喩が用いられれているからで,たとえば蜘蛛なら蜘蛛で,それが何の比喩であるかといったことを考える必要があります。もうひとつはこの小説がニーチェの思想を背景にしているからであり,とりわけ永劫回帰の思想が踏まえられていますから,予めその知識を有しておいてから読む方がよいでしょう。

 スピノザの哲学では第一部定義六により,無限に多くの属性infinitis attributisによって神Deumの本性essentiaが構成されます。このとき,ある属性と別の属性の区別distinguereは実在的区別です。AとBが実在的に区別されるとき,AとBの間には共通点がないといういわれ方をスピノザの哲学ではされます。すなわち神は,各々が実在的に区別される,いい換えれば各々が共通点を有さない,無限に多くの属性によって本性を構成されているということになります。
 第一部定理三がいっているのは,共通点をもたないもの,すなわち実在的に区別されるものの間では,一切の因果関係が発生しないということです。このことが,神の本性に自由意志voluntas liberaが属する,すなわち自由意志とは力potentiaという観点からみられる限りでの神の本性であるということを主張しようとする場合に,大きく影響するのです。というのは,もし自由意志というのが絶対的な思惟Cogitatioであると規定するなら,それは思惟の属性Cogitationis attributumの本性を力という観点からみたものであるということにはなりますが,神が思惟以外の属性によって本性を構成されるとみた場合には,神の本性を力という観点からみたものであるということにならなくなってしまうからです。
 デカルトRené Descartesの哲学と比較した場合には,この問題はスピノザの哲学に特有の問題であるといえます。というのは,デカルトの場合はそもそも無限に多くの属性が存在するということに対する言及がなく,実質的に存在するとされているのは,思惟の属性と延長の属性Extensionis attributumだけです。もっともデカルトの哲学では,第一部定義四のような,属性が実体の本性を構成するということが重視されませんから,正確を期していうなら,デカルトの哲学では思惟的実体物体的実体substantia corporeaのふたつの実体だけが実質的に存在するということになります。このとき,思惟的実体についてはそれが神であるとみなせることになるのですが,物体的実体は神とは別の実体として規定されることになるので,神の本性に自由意志が属するとしたときに,それを絶対的思惟とみなしても問題は生じません。つまり,神が無限に多くの属性によって本性を構成されるがゆえに,スピノザの哲学ではデカルトの哲学では発生しなかった問題が生じるのです。
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カーンの雑感③&逆の主張

2020-07-18 18:56:15 | NOAH
 カーンの雑感②では,吉村道明について詳しく書きました。しかしそこで漏らしてしまったことがありますので,ここにつけ加えておきます。
                                         
 『心に残るプロレス名勝負』の中で,ジョー・樋口は馬場のことを「おんたい」と記述していました。これは異称ですが,一種の敬称と考えるべきで,樋口にとって馬場はそれだけ特別な人物であったということを証しているといえます。しかし樋口はこの本の中で,もうひとりだけこの種の,敬称の類とみなすことができる異称で記述している人物がいます。それが吉村なのです。樋口は吉村について記述するときは,ほぼ例外なく「アニキ」という語を付しています。馬場の場合と少しだけ異なるのは,馬場については単に「おんたい」と表現されるのに対し,吉村については単に「アニキ」といわれるわけではなく,「吉村のアニキ」というように,吉村という固有名詞と共に表記されている点です。ただ,この本の内容は,半分は樋口がレフェリーとして裁いた試合に関するものですが,残りの半分は樋口の自叙伝といえるものとなっています。したがって単に「アニキ」と表記すれば,それは吉村のことよりも樋口の実兄を意味するというように読者には受け取られかねないためにこのような表記になっていると解することもできますから,この相違についてはさほど重大視しなくてもいいのではないでしょうか。
 こうした敬称が用いられているのは,馬場のほかには吉村だけです。したがってこれは,樋口にとって馬場が特別の人物であったのと同様に,吉村もまた特別だったということを単純には意味します。しかしこれは逆にいえば,馬場が樋口によって尊敬されるに値する人物であったのと同様に,吉村もまた樋口からの尊敬を受けるのに十分に値する人物であったということを意味するでしょう。したがってこのことからも,吉村の人格というのがどういうものであったのかということについて,読者は判断することができるのです。いい換えれば,馬場が樋口からみて人格者であったのと同じ意味で,吉村もまた人格者であったのです。
 カーンが入門したときに付け人としてついた人物は,馬場に匹敵するような人格者であったということになります。

 意志voluntasが思惟の様態cogitandi modiであるということは,意志は個物res singularisであるということを意味します。したがって意志は,正確にいうと個々の意志作用volitioは,第一部定理二八の様式で発生することになります。このことを意志について具体的に明らかにしているのが第二部定理四八です。この定理Propositioは人間の精神mens humanaのうちには自由意志voluntas liberaは存在しないということを示そうとしていますが,だからといって神Deusのうちに自由な意志があるというわけでもありません。すでに示したように,人間の精神のうちに自由な意志が存在しないのに,神の本性essentiaのうちに自由な意志が属するとすれば,神の意志と人間の意志との間に,本物の犬と星座の犬との間にあるほどの相違が生じることになってしまうからです。
 このようにしてスピノザは,人間の精神のうちには,自由な意志こそ存在しないけれども意志が存在するということを認め,その代わりに神の本性に意志が属するということは否定し,神は本性naturaの必然性necessitasによって働くagereと主張したのです。しかし,神の本性に自由な意志が属するという見解opinio,デカルトRené Descartesの見解が,神が善意をもってあらゆることをなすとする見解,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの見解ほどには,真理veritasから遠ざかっていないことは確かですし,なぜスピノザがそのようにいったのかということも理解できると思います。
 スピノザはこれとは逆の見解,すなわち,神の本性に自由意志が属し,人間は意志することはないといういい方も,しようと思えばできました。ただし,そのように主張するためにはある条件が必要でした。このことは,第一部定義六に示されているように,スピノザの哲学における神は,無限に多くの属性infinitis attributisによって本性を構成されているということと大きく関連します。デカルトが神の本性に自由な意志が属するというとき,神は実体substantiaとしていえば思惟Cogitatioの実体であり,延長Extensioの実体ではありません。このことはデカルトが,神とは別に物体的実体substantia corporeaが存在するといっていたことから明らかです。ところが,スピノザの哲学では,デカルトの哲学でいうところの物体的実体は何かといえば,神なのです。これは,延長の属性Extensionis attributumが無限に多くの属性のひとつとして,神の本性を構成しているという意味です。
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ヒューリック杯棋聖戦&ふたつの方法

2020-07-17 20:06:39 | 将棋
 昨日の第91期棋聖戦五番勝負第四局。
 渡辺明棋聖の先手で相矢倉となり先手の急戦。後手の藤井聡太七段が同じ戦型で勝った第二局を踏襲し,先手が改良案を提示する将棋となりました。
                                        
 後手が桂馬を使いにいった局面。ここから☗9五歩☖8六桂☗6八金左と進んでいて,この手順は不思議に思えました。というのはわざわざ桂馬を跳ねさせて手番を相手に与えているからです。しかしどうもこれで8筋から攻める手はないようで,先手としてはこのように形を決めてしまった方が受けやすいという判断だったのでしょう。部分的にはこの判断は正しく,ここで先手は指しやすくなったと感じたのではないかと想像します。
 後手は☖4六歩と反対側に手を付けました。これは放置すると☖4七歩成☗同金から5五で銀を入手して3八に打ち込む手が生じます。これを喰らってはいけませんから☗同銀と取りました。これで手がないようなのですが☖2五金と逃げる手がありました。銀を引かせたことによって金が3六に入る筋が生じているからです。☗1四桂と跳ねれば☖同香でしょうから☗2五飛と取れますが,たとえば第1図で☗3四桂と取れた金ですから,そう指すのはいささか矛盾しているといえます。☗3四歩も有力ですが☖2四銀と出られると☗1四桂の筋が消える上に後手の角が使えそうな形になるので一長一短です。実戦は☗9七角と上がりました。これに対しては☖2六金。
                                        
 これは☗同飛だと☖3四桂と打たれて明らかに不利です。もし事前に☗3四歩☖2四銀としてあればそれは防げていましたが,その場合には☖2六金とはしてこないかもしれないので,このあたりは何ともいえないところでしょう。ただ,第1図の前に☗2六桂と打った手は,この流れでは逆用される形となってしまいました。
 第2図で☗同飛と取れないなら☗8六角以外にありません。ただこの当然の一手に先手は熟慮していて,それはここでは難しい将棋と判断したからでしょう。後手が自信を持てる局面とは思えませんが,直前に指しやすいという判断があったとすれば,その判断のずれは勝負に多少なりとも影響したかもしれません。そしてそうであるなら,それだけ相手のことを認めているということになるでしょう。
 実戦はそこから☖3六金☗5五銀右☖8八歩☗6四銀☖同歩☗同角☖6一桂☗6五桂☖8九歩成と進みました。
                                        
 指し手として勝敗を分けたのは第3図だったようです。ここから☗5三桂不成☖同桂☗7三角成としましたが,この瞬間が甘く☖3八銀から反撃に転じた後手の一手勝ちとなりました。☗7三桂成ならまだはっきりとした決め手はなかったようです。
                                        
 3勝1敗で藤井七段が棋聖を奪取。プロ入りから約3年9ヶ月半で初のタイトル獲得です。

 神Deusの本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属するとすれば,その意志は人間の意志の原因causaでなければならないがゆえに,人間の意志とは本性も形相formaも異なったものでなければなりません。スピノザのいい方に倣うなら,もし神の本性に自由な意志が属するとした場合には,神の意志と人間の意志の間には,本物の犬と星座の犬の間にあるほどの相違があることになるのです。スピノザがそのようにいうことができたのにも関わらず,神は本性naturaの必然性necessitasによって働くagereといい,神は自由意志によって働くとはいわなかった最大の要因は,おそらくこの点にあったと僕は推測します。もし神の意志と人間の意志との間には,本物の犬と星座の犬との間にあるのと同じような相違があるのに,神の意志も人間の意志も同じように意志という語すなわち記号で表記するとすれば,僕たちは容易に僕たちの意志によって神の意志を類推するでしょう。すなわち神の意志について容易に混乱して認識するcognoscereことになるでしょう。スピノザはおそらくそういう事態を避けたかったのだと思います。
 このような,同一の記号によって表記されることによって容易に発生するであろう混同を免れるためには,スピノザにはふたつの方法があったと僕には思えます。ひとつは,神の本性には自由な意志が属すると主張し,しかし人間には意志は存在しないとする方法です。そしてもうひとつが,人間は何事かを意志するけれども,神の本性には意志は属さないとする方法です。このふたつの方法のうち,スピノザは後者の手法を選択しました。そしてそのために,意志を思惟の様態cogitandi modiとして規定し,神の本性に属するような絶対的思惟としては規定しなかったのです。そのことを端的に示しているのが第一部定理三一です。そこでは意志は所産的自然Natura Naturataであって能産的自然Natura Naturansではないといわれています。このことの意味は,意志というのは神の本性あるいは思惟の属性Cogitationis attributumに属する絶対的な思惟ではなく,能産的自然としての神の本性ないしは思惟の属性がなければあることも考えることもできないような思惟の様態であるということです。なおかつこの定理Propositioは知性intellectusに言及していますが,第二部定理四九系にあるように,知性と意志は同一なのです。
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