スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&三角形の結合

2021-07-05 19:16:22 | 将棋
 3日に沼津御用邸で指された第92期棋聖戦五番勝負第三局。
 渡辺明名人の先手で矢倉。後手の藤井聡太棋聖は居玉での急戦。先手にも研究があったようで,先手の研究に後手が対応していく形で進行。凄まじく難解な将棋になりました。
                                        
 とくに白眉であったのが第1図近辺の実戦とその変化。
 ここから後手は☖8八銀と打ち☗同金☖同飛成と進めました。
                                        
 まず考えなければならないのは,銀を渡したことで後手玉に詰みが生じているかどうか。これは次の手の棋譜コメントにあるように,打ち歩詰めで後手玉は逃れています。
 僕はAbemaTVで観戦していましたが,第2図は先手が勝勢に近い数値を示していました。推奨の一手は☗7四銀。
 その瞬間は先手玉は詰みません。なので最も自然な手は☖7四同飛でしょう。このときに後手玉も詰みませんので,先手は後手玉に必至を掛けます。☗5三角成からも必至は掛けられますが,後手の手駒を増やさず,2二の金を取るのが先手にとって最良。2二に馬ができると6六に利いて,先手玉は詰みにくくなるからです。☖7四同飛に☗6三銀と打つと,変化はありますが先手はその順に進めることができます。
 そのときに先手玉が詰むかどうか。☖7八銀☗5九玉☖7九龍☗4八玉☖3九角☗3七玉まで,先手は変化の余地がありません。そのときに☖2八角成という手があり,☗同玉だと詰むので普通は必殺手なのですが,☗4八玉と戻ると☖5六桂と打っても☖3六桂と打っても先手玉は詰みません。しかし☗4八玉に☖3九馬は再び☗3七玉。☖2八馬☗4八玉☖3九馬☗3七玉のように連続王手の千日手で先手玉は逃れています。なので第2図で☗7四銀なら確かに先手に勝ちがあったようです。
 こちらの手順が棋譜コメントに記されていないのは,後手玉が打ち歩詰めで逃れる手順と異なり,感想戦で触れられなかったからです。つまりこちらの手順は両対局者が共に気付いていなかったということ。この難解さの相違が,この将棋の明暗を分けたということではないでしょうか。それにしてもAIの助けを得ることによって人間の将棋のレベルがここまで高くなっていることに驚嘆します。
                                        
 3連勝で藤井聡太棋聖が防衛第91期からの連覇で2期目の棋聖。タイトル獲得3期で九段に昇段しました。

 人間だけが社会的に結合するわけではなく,すべての様態modus,ここでは物体corpusだけを考えてもよいですが,すべての物体が社会的に結合するとすれば,人間だけが社会societasを形成するということはできません。むしろすべての物体は,本性naturaを同じくする他の物体との間で社会を形成するというべきでしょう。いい換えれば,人間の本性natura humanaに基づく人間的結合だけを社会というべきではなく,同じ本性に基づく結合のすべてを社会というべきだということになります。これが僕が人間中心主義と本性中心主義が対立すると考えられる場合は,本性中心主義の方を選択するべきである,あるいはスピノザは本性中心主義の方を選択していると考えるひとつめの理由です。よって人間だけが社会を形成するとか,人間だけが社会的に結合するというような見解opinioは,話す能力potentiaを有する三角形が神Deusは優越的にeminenter三角であるというのと同じように,その主張をしているのが人間であるからだというように僕は解します。
 とはいえ,三角形が社会的に結合するというのは,何をいっているか分からないという方が多いのではないかと僕は推測します。しかしこれは,本性を同じくするものがそのことを根拠として何らかの結合を果たすことをモデルとして説明しているのですから,このモデルに適うような説明であれば何でもよいことになります。分かりやすくいえば,たとえばふたつの合同な正三角形が現実的に存在するというとき,このふたつの三角形はある仕方で結合すると,ふたつの対角が60度と120度のひし形を形作ります。これが三角形の結合であって,こうして結合したひし形が三角形の社会であるというように考えてしまえばいいのです。もちろん,現実的に存在する三角形が能動的に,いい換えればそれを十全な原因causa adaequataとしてそのような結合をすることはあり得ないということについては僕も肯定します。しかしこれはモデルであって,第四部定理三五を基礎として人間の社会が形成されるということが,現実的な観点からはモデルであるというのと同じことなのです。これが同じことだというのが分からないとすれば,それもまたそれが分からないというのが人間であるからにすぎないのです。
コメント
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