スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&留意点

2023-05-30 19:15:43 | 将棋
 28日に遊行寺で指された第16期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
 甲斐智美女流五段の先手で西山朋佳女王のノーマル三間飛車。先手が超急戦を仕掛ける将棋でそこから駒組に。急戦からの駒組は普通は居飛車が少し損で,この将棋も後手が有利になったのですが,攻めを焦ったために逆転。終盤は先手が勝ちの局面になりました。
                                        
 ここで後手玉に詰みがあるとみて☗8六金と打ったのですが,打った桂馬が7七にきいているため詰まず,逆転で後手の勝ちになりました。第1図は☗同馬と取っておけば先手玉は詰まず,先手の勝ちでした。
 3連勝で西山女王が防衛第11期,12期,13期,14期,15期に続く六連覇で6期目の女王です。

 不安metusは合倫理的であるためには有用な感情affectusです。ですから,理性ratioから生じる感情であろうと不安からであろうと,過剰な愛amorが抑制されて適性化されるのであれば,つまり合倫理的であることがより合倫理的になるのであれば,僕はそのことは否定しませんし,スピノザによって否定されることもありません。ただここには僕たちが留意しなければならないことが含まれています。たとえば僕が示したような不安によって子どもに対する愛が抑制されるとき,そうした思惟作用が生じる親には,それはある受動感情が別の受動感情によって抑制されていると理解するのではなく,自身の理性によって過剰な愛を抑制していると誤って認識するcognoscereことが往々にして生じるのです。
 親が子どもの将来を案じて子どもに対する過剰な愛を抑制する,いい換えれば過保護に育てることをやめるというとき,僕たちはそれが親の理性的判断によってなされていると受け止める場合があります。このような第三者的な文章の意味さえそのように汲み取る場合があるのですから,実際に子どもの将来を案じている親がそう認識するのは,蓋然性としてより高いといえるでしょう。ところが子どもの将来というのは理性的な判断によって生じる十全な観念idea adaequataではなく,漠然とした表象像imagoなのです。いい換えれば混乱した観念idea inadaequataなのです。よってそれは第二部定理四〇により,理性から生じるということはありません。つまりこの判断は理性的判断ではないのです。むしろ子どもへの過剰な愛を抑制しているのは,この表象像から生じている何らかの感情であるといわなければなりません。
 子どもに対して過剰な躾をする親,暴力や暴言などを用いて,明らかに虐待であると判断されるような躾をする親が,自分は理性的な判断からそのようにしていると思い込んでいるという場合があります。このこともまた,子どもの将来を案じることによって生じ得ることだからです。この場合は,将来の子どもの表象像から憎しみodiumの感情が生じ,その憎しみの感情が現在の対象である子どもに向けられるがために,過剰な躾に至るというのが一例でしょう。第三部定理一八は,そのようなことが生じ得ることを示しています。
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