スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&大人と幼児

2019-01-31 19:14:34 | 将棋
 26日と27日に花の里温泉で指された第68期王将戦七番勝負第二局。
 久保利明王将の先手で角道オープン中飛車から角道を止めての持久戦。渡辺明棋王はコンピュータソフトによって開発された囲いに構えました。開戦すると飛車角が総交換にな華々しい中盤戦に。先手が馬,後手が龍を作りました。
                                     
 馬を作った先手が歩を突いて自陣に利かせた局面。ここで後手は☖1五歩と突きました。
 僕はこの手の狙いが分かりませんでした。端攻めは歩を持っている場合の攻撃手段ですが,後手の駒台には歩はありませんし,5五の歩を入手するというのはいかにも悠長に思えるからです。☗同歩なら☖9八龍と取って☖1二香打を狙うというのが真意だったそうですが,この攻めならば感想にもあるように☗同歩と取ってしまうのがよかったでしょう。
 実戦は☗6一飛で攻め合いにいき☖1六歩に☗1八歩と受けました。
 この順があまりよくなかったのは端を詰められただけでなく後手に一歩を渡してしまった点にもありました。後手はその歩を☖6五歩と打ちました。
 ここは☗5四歩と取り込んでおくのも有力だったと思いますが単に☗5七銀と逃げました。このために☖9三角と銀取りに打たれ☗7五歩と受けたときに☖7一金で後手は飛車の捕獲に成功。
                                     
 端を詰めた上で二枚飛車で攻めるのはかなり強力。第2図は後手が攻め合い勝ちを望める局面になっています。
 渡辺棋王が連勝。第三局は来月6日と7日です。

 僕が人間にとって下の世話をしたりされたりすることには特別な意味があると考える理由は,それが象徴的な意味での大人が幼児に対してなす事柄である点にあります。つまり,下の世話をする人間とそれをされる人間の関係性は,象徴的な意味において,大人と幼児の関係にあるのです。人工肛門の管理というのは一般的な意味での下の世話と異なりますが,下の世話であること自体は間違いありません。よって象徴的な意味でいうなら,母と父の関係は,一時的には大人と幼児の関係として象徴されるような関係になったのです。それを父がどう感じていたかは僕には分かりませんし,母がどう思っていたのかも分かりません。ですが自分はよき妻ではなかったと感じていた母にとって,一時的にではあれ父との関係性が,このような象徴レベルのものになったことは,おそらく母が感じていたであろう罪悪感を軽減させるのに役立っただろうと僕には思えるのです。
 第三部定理五六から分かるのは,同じように愛amorといっても,対象が異なれば種類が異なるということです。したがって第三部諸感情の定義六により,僕たちはAを認識するcognoscereことによって喜びlaetitiaを感じるのであればAを愛していることになりますし,Bを認識することが原因causaとなって喜びを感じるのであればBを愛していることになります。これらは同じように愛という感情affectusです。ですが実際にはAに対する愛とBに対する愛は別の感情なのです。この定理Propositioが主張しているのはそういうことです。
 母がそのことによって喜びを感じていたかどうかはやはり分からないのですが,それを愛であると考えれば,父の人工肛門の管理を介助するときに母が父に対して感じていた愛は,おそらくそれまで母が父に対して感じることがなかったであろう愛だった筈です。なぜならこの愛は,象徴的な意味でいえば大人の幼児に対する愛なのであって,母がそれまで父に対して感じていた,あるいは感じることがあった愛とは種類が違うからです。同じAに対する愛であっても,Aを大人として認識する上での愛と,Aを幼児として認識する場合の愛とは,別の感情です。このことも第三部定理五六から明らかだと僕は考えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典川崎記念&特別な意味

2019-01-30 19:35:05 | 地方競馬
 第68回川崎記念
                                      
 抜群のダッシュでサルサディオーネがハナへ。1周目の正面に入るあたりでリードは4馬身ほど。2番手はコパノチャーリーで3番手にミツバ。4番手にケイティブレイブで5番手にアポロケンタッキー。この後ろをポッドジョイ,ツィンクルソード,オールブラッシュの3頭が併走し直後にカガノカリスマ。この8頭は一団。3馬身離れてアサクサポイントとコスモマイギフトが併走という隊列。1周目の正面では外からオールブラッシュが上昇して2番手に。2周目の向正面に入るところでサルサディオーネとの差は2馬身。さらに2馬身差でケイティブレイブとコパノチャーリーが併走。その後ろにミツバとアポロケンタッキーが並んで続くという隊列に変わりました。オールブラッシュが上がっていったあたりでは一時的に緩んだのですが,その後またペースが上がり,全体的には超ハイペースでした。
 3コーナーでサルサディオーネは一杯になり,オールブラッシュが先頭に。コパノチャーリーはついていくことができなくなり,オールブラッシュの外にケイティブレイブで,ミツバはオールブラッシュとケイティブレイブの間を狙いました。直線の入口ではオールブラッシュとケイティブレイブが並んで競り合っていましたが,ミツバはここでもその間に進路を取り,直線の半ばから突き抜けて優勝。外のケイティブレイブが2着争いは制して2馬身差の2着。競り負けたオールブラッシュはアタマ差の3着。
 優勝したミツバマーキュリーカップ以来の勝利。重賞は3勝目で大レースは初勝利。このレースはケイティブレイブにとって負けられないようなメンバー構成だったのですが,直線では意外なほどに伸びを欠きました。途中からオールブラッシュが動いていく乱ペースになったのを,先に動いていったことが影響したのかもしれません。その点ではそのときにむしろ控えて後からケイティブレイブを追うように乗ったことが勝因といえそうです。右回りより左回りの方がよいのも確かでしょう。父は第58回の覇者のカネヒキリで父仔制覇。祖母は1994年に報知杯4歳牝馬特別とサンスポ杯4歳牝馬特別に勝ったゴールデンジャック
 騎乗した和田竜二騎手は宝塚記念以来の大レース11勝目。川崎記念は初勝利。管理している加用正調教師は2014年のJBCスプリント以来の大レース2勝目。

 それでは哲学的探究はここまでとし,は基本的には装着した人工肛門を自分で管理していたのだけれども,稀にが介助することもあったという話題に戻りましょう。
 僕はだれがだれに対してなす行為であるのかということとは無関係に,他者の下の世話をするということは人間にとって特別な意味があるのではないだろうかといいました。これはもちろん,単に世話をする人にとってだけ特殊な意味があるというわけではなく,世話をされる人間にとっても特別な意味を有するだろうという推測を含んでいます。
 人間は原則的には,トイレトレーニングを施されて以後は,自身の排泄を自分で統御しまた管理するようになります。原則的に,というのは,哲学的考察の中で述べたように,それを完全に統御しまた管理することは人間には不可能であり,それを求めるのは無理な要求であるからです。しかしトイレトレーニング以前,トレーニング中,トレーニング以後という過程は,人間が排泄を他者の管理下から自身の管理下へ置く過程であるといってひどい間違いではないでしょう。したがって人間は原則的には,トイレトレーニング以前あるいはトレーニング中の人間に対して下の世話をするのであり,トイレトレーニング以後の人間に対してそれをすることはないというのが,ほぼ共通の認識になっているのです。
 僕たちがトイレトレーニングを施されるのは大抵の場合は幼少期です。したがって人間は,諸個人の間では当然ながら差異はありますが,幼少期のうちには排泄を自己の管理下に置く,少なくとも置くことを求められるのであり,その時期には他者から下の世話をされるという経験がなくなるか,少なくとも非常に減少するのです。よって下の世話をされるというのは,人間にとっては幼少期にトイレトレーニングを施される以前の状況に立ち返るということを意味してしまうことになります。
 一方,排泄を管理する側の人間は,これは大抵の場合は大人です。もちろん子どもである場合が皆無であるとはいいませんが,それは実年齢が子どもであるということなのであり,象徴的な意味でいえばそれは子どもであったとしても大人なのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡田美術館杯女流名人戦&秩序から秩序への移行

2019-01-29 19:00:50 | 将棋
 27日に出雲文化伝承館で指された第45期女流名人戦五番勝負第二局。
 里見香奈女流名人の先手で中飛車,伊藤沙恵女流二段が三間飛車の相振飛車でしたが,後手がすぐに3筋の歩を交換したのをみて,先手が居飛車に戻して押さえ込みを狙う展開になりました。先手が早めに左の銀を進出させているので,後手の指し方は軽率であったのかもしれません。
                                      
 後手が銀を上がったところ。後手から交換した3筋を後手だけが受けているので失敗にも思えますが,先手も中飛車から居飛車に戻しているので,致命的なものではなかったと思います。
 ここで先手は☗3五歩と合わせていきました。☖同歩☗同銀は2筋を突破されてしまうので☖4二角。先手は☗3四歩と取り込み☖同銀に☗5五銀と出ていきました。
 後手は長考して☖5四歩と突いたのですが,これは☗4四銀☖6四角のときに☗4六角と出られ,☖同角☗同歩で角交換。そこで☖4二飛と寄る手に対して☗6六角と打たれて大きな差をつけられてしまいました。
                                      
 長考したところで☖4三銀と受けると☗2四歩と突かれてやはり後手が悪いようですが,どちらかならそちらの順を甘受するべきだったのではないかと思います。この後,先手は6六に打った角を取らせて攻め合ったのですが,それは危険で差が詰まりました。ただはっきりと逆転したというところまではいっていなかったようです。
 里見名人が連勝。第三局は来月10日です。

 これでトイレトレーニングがなぜ自然の秩序ordo naturaeと関係しているのかも理解できたと思います。すなわちトイレトレーニングとは,無秩序という自然の秩序の下に自分の精神mensのうちに生じていた自分の身体corpusに関するある状態についての表象像imagoを,それとは別の表象像と関連させることによって,秩序として意識可能な自然の秩序の下へと移行させる訓練なのです。つまり,僕たちにとってトイレトレーニングというのは,自然の秩序の様式を移行させることを求められているのだと僕は考えるのです。
 ここでは無秩序から秩序として意識づけることが可能な秩序への移行を説明しました。これはトイレトレーニングがそういう訓練であるからです。ですが,スピノザの哲学の下では,すでに確定している自然の秩序の様式を,それとは別の自然の秩序へと移行させることも,人間にとって有益である場合があります。これはすでに説明したように,現実的に存在する人間は受動passioを免れることができないため,理性ratioに従って生きていくことと同じように,受動という状態に隷属したままであっても,あたかも理性に従って生活しているかのような状態で生きていくことも目標となり得るからです。よって,理性に従った生活からはおおよそかけ離れた自然の秩序の様式の下に事物を表象している人間が,その基となっている表象像をその秩序とは別の観念ideaと関連付けることによって,理性に従っているかのように表象像を連結させられるのであれば,人間にとってそれは有益であるということになるのです。つまり,Aの表象像からBの表象像へ,そしてCの表象像へと移行してくことが理性に従った生活とは程遠いとき,もしAの表象像をXの表象像と関連させられるなら,XからはYという表象像が発生し,これは理性に従っているのと同じ行動を産出するということであれば,この人間にとってAの表象像をXの表象像と意図的に関連させていくことは目標となり得ますし,その人間以外の人間が,その人間に対してAを表象すればBでなくXを表象するように仕向けていくこともまた目標となり得るのです。新約聖書はスピノザにとってそういう書物だったといえるのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒲生氏郷杯王座競輪&移行の方法

2019-01-28 19:13:09 | 競輪
 昨日の松阪記念の決勝。並びは吉田‐武田‐大塚の東日本,竹内‐浅井‐舛井の中部,村上‐神田の近畿で野田は単騎。
 浅井がスタートを取って竹内の前受け。4番手に村上,6番手に野田,7番手に吉田で周回。残り3周のホームの出口から吉田が上昇。バックで竹内の前に出て誘導の後ろに。中団の選手が続き,4番手に村上,6番手に野田,引いた竹内が7番手という一列棒状に。残り2周のホームの出口で竹内が自転車を外に出すとバックから発進。吉田を叩いて打鐘。今度はだれもスイッチすることができず,4番手に吉田,7番手に村上,最後尾に野田の一列棒状に。バックから吉田が発進。これを浅井が牽制。最後尾にいた野田がインをするすると上昇して直線の入口では浅井の内へ。直線はこのふたりが身体を接しながら競り合い。この間に後方からの捲り追い込みとなった村上が大外を強襲して優勝。浅井に押し込められたものの競り勝った野田が4分の3車輪差で2着。浅井はタイヤ差で3着。
                                      
 優勝した京都の村上博幸選手は昨年6月の平塚のFⅠ以来の優勝。記念競輪は一昨年の広島記念以来となる7勝目。松阪記念は初優勝。このレースは竹内と吉田は共に先行意欲が高そうなので,もしかしたら先行争いがあるかもしれないとみていましたが,前受けをした竹内に対して吉田が早い段階で叩きにいったため,竹内が引いて巻き返すという競走になりました。これは浅井にとっては絶好の展開で,たとえインを掬われても何とかできると思えたのですが,直線で激しく競り合ったのは,そのまま突き抜けるだけの脚は残っていなかったからなのでしょう。村上博幸は最近は自力を使うという場面はほとんどありませんから,決まり手は差しですが,捲りのような形で優勝したのは,まだそれだけの力があるということの証明になったのではないでしょうか。

 無秩序という秩序ordoから秩序として意識化され得る秩序への移行の仕組みが分かりました。これによって僕たちは,どのようにすればこのような自然の秩序ordo naturaeの様式の移行が可能になるのかという方法も知ったことになります。それはすなわち,AとBがそれぞれ単独で認識される場合に,それらの観念ideaを関連付けるという方法です。それにより,AもBも単独で表象されていたのが,Aを表象するimaginariことによってBを表象するようになっていくからです。
 スピノザが表象の動揺について説明している例は,この移行は,その移行が精神mensのうちで生じている人間からすると,意図的なものではありません。ですが僕たちはそれを意図的に関連付けることもできます。実際に,Aを表象した後にBを表象することが度重なれば,自然とAを表象するとBを表象するように人間はできているのですから,もしAを表象したときに,すぐにBを表象するということを意識的に重ねていくことにより,人間は意識せずともAを表象すればBを表象するようになるからです。表象imaginatioというのはその観念の対象ideatumが現実的に存在すると知覚することを意味するのであり,観念されたものideatumが実際に現実的に存在しているかどうかとは関係ありません。これは想起memoriaとか想像が表象の一種であるということから明白でしょう。よってAを知覚したときに,Bを想起するとか想像するということを重ねていけば,そのうちにAの表象像imagoからBの表象像への移行は,とくに意図しなくても発生するようになるのです。
 基本的にトイレトレーニングというのはこの種の訓練であるということができます。自分の排泄に関する観念は,いい換えれば排泄へと移行する状態にある自分の身体corpusの観念は,すでに説明したように第二部定理一二によって必然的にnecessarioその人間の精神のうちにあります。この観念をそれとは別の観念,たとえばトイレの観念と関連付けていくことを重ねていけば,僕たちは意識せずに排泄への移行期にある自分の身体を知覚すれば,トイレを表象するようになるでしょう。そしてそこからトイレに行くことを肯定する意志作用volitioが発生すれば,トイレトレーニングは実質的に完了しているといえるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペガサスワールドカップターフ&移行の仕組み

2019-01-27 19:07:47 | 海外競馬
 日本時間の今朝,アメリカのガルフストリームパーク競馬場で行われたペガサスワールドカップターフGⅠ芝9.5ハロン。
 アエロリットは発走後は徐々に内に入れていきインの2番手を併走。そこからまた外に出て,逃げ馬を追う単独の2番手に。向正面で1頭が追い上げてきて先頭を奪い取る形。必然的に位置は下がりインで3番手を併走に。しかし3コーナーの手前からは騎手が押してもついていくことができなくなり,著しく後退。勝ち馬からは概ね20馬身くらいの差の9着でした。
 レースの内容からすると距離が長すぎた感じです。雨で重馬場ということでしたが6ハロンの通過が1分11秒60と速く,このペースを追走していったためにスタミナを失ってしまったという結果だったのではないでしょうか。

 スピノザによれば,人間はAを表象した後にBを表象し,次にCを表象するimaginariという順序で表象することが頻繁になると,Aを表象しただけでBを表象し,Bを表象することによってCも表象するようになります。すなわち,この経験を重ねていけばいくほど,Aが現実的に存在すると知覚すると,現実的には存在していないBとCのことも現実的に存在すると認識するcognoscereようになっていくのです。これは僕が観光の例でも示しておいた第二部定理一八が原理になっています。
                                 
 しかしこの人間は,最初のときにはAを表象したからといって,そのことによってBやCを表象することはありません。これはこの人間の精神mens humanaのうちで,A,B,Cの各々の表象像,imaginesが無秩序に置かれていた状態であると規定できます。それが同じ経験を重ねていくことによって,AからB,そしてBからCという順序あるいは系列として秩序化されていくのです。どちらの場合であれ,AもBもCも表象されている,すなわち混乱して認識されていることには変わりないので,第三部定理一によって受動passioです。つまり自然の秩序ordo naturaeから生じている思惟作用です。しかしこの思惟作用の様式は,無秩序であった場合と秩序化されている場合では,明らかに様式の変化があるといえます。Aを表象してもBもCも表象しなかった状態から,Aを表象すればBもCも表象するようになった状態は,明らかに秩序が変化し,様式も変化しているからです。
 表象の動揺とは,この場合でいえば,Aの次にBを挟まずにCを表象してしまったがためにこの人間の精神のうちに生じる現象のことでした。したがって表象の動揺というのは,秩序として半ば意識化されていたものが破壊されることによって生じる現象であるといえるでしょう。ただ,ここでは表象の動揺については考察の対象としませんので,今はこのことだけをいっておきます。
 A,B,Cの表象像がそれぞれ何の関連性ももっていない場合は,無秩序という秩序の下にあり,関連性をもつようになると意識化することも可能な秩序の下にあることになります。そしてこれが秩序の様式の移行なのですから,その仕組みはこれで理解できたことになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狂犬&カオスとコスモス

2019-01-26 19:00:09 | NOAH
 『外国人レスラー最強列伝』の第9章は狂犬といわれたディック・マードックです。
                                     
 僕は知らなかったのですが,マードックは1968年2月に日本プロレスに参戦したのが初来日。そして1971年11月,1972年3月と,日本プロレスに3度も参戦していたそうです。1972年は馬場が全日本プロレスを旗揚げした年。そして1973年6月には国際プロレスにも参戦していたそうです。
 同じ年の10月に全日本プロレスで仕事をするようになりました。このことは知っていましたが僕はマードックの全日本プロレスでの試合内容はよく知りません。ただ,ジャンボ・鶴田を破ってUNの王者になっていますので,それなりの評価は受けていたものと思います。そして1981年からは新日本プロレスで試合をするようになりました。僕のプロレスキャリアが始まってすぐ,世界最強タッグ決定リーグ戦へのハンセンの乱入があったのですが,直前までハンセンは新日本プロレスのMSGタッグリーグ戦に出場していて,そのときにハンセンのパートナーを務めていたのがマードックです。ですから僕にとってマードックは新日本プロレスの外国人レスラーです。
 門馬はマードックが全日本で試合をするようになったのは馬場がプロモーターとして評価していたからだといっています。シングルの王者になっていますから,これは嘘ではないと思います。しかし一方で,馬場はマードックに対しては辛辣な評価もしています。馬場によればマードックという選手は,ファイトマネーに見合った仕事しかしないタイプで,プロレスラーとしての向上心に欠けていたとのことです。門馬の記述の中にも,マードックは気を入れたらいい試合をするけれどちゃらんぽらんな性格であるという主旨の馬場の発言がありますので,こちらの評価もまた嘘でもないのでしょう。ただ全日本を裏切って新日本に移籍した選手への評価ですから,いくらかのバイアスは必要かもしれません。

 当人にとっては無秩序であると感じられても,実際にはそこには秩序ordoがあるのだということは,その無秩序が秩序付けられていくことによってはっきりと分かります。再び同じ例を用いたとしましょう。
 この人がまた同じ観光地を観光したとしましょう。今度は初見のときと違い過去の経験がありますから,この人は単に感じたことを第二部定理一七の様式で知覚するだけでなく,第二部定理一八の様式で想起することもあるでしょう。そしてそのような経験を何度か重ねていくうちに,その観光地においてどこを訪問し,どこを訪問先から除外するべきかということを理解していくようになります。これは明らかに無秩序な表象imaginatioとして感じられていたものを,秩序立てて表象していく営為であるといえるでしょう。これは一例ですが,たとえばこのような方法でこの人が自分の表象像imaginesを秩序立てていく,ある特定の思惟作用と関連付けていくことによって,何の関連性もなくただ表象だけをしている場合も,実際にはそこに何らかの秩序があった,自分には理解できなかったとしても,確かに秩序はあったのだということが理解できるでしょう。確かに僕たちは,カオス的なものをコスモス的なものにすることを秩序立てるというのですが,コスモス的なものができることによって,カオス的なものもまた秩序であるということは理解できるのです。
 ただしここでも注意しなければならないのは,カオス的なものがコスモス的なものになったからといって,それは自然の秩序ordo naturaeの様式が移行したと断定できるわけではないということです。上述の例は様式が移行しているといえると僕は考えますが,カオス的なものがコスモス的なものになること自体を自然の秩序の様式の移行であると僕がいっているわけではないということには注意してください。あるコスモス的なものが別のコスモス的なものになる場合も同様で,それは自然の秩序の様式の移行の場合もあるでしょうが,そうではない場合もあるでしょう。
 実際に僕たちがどのように自然の秩序を秩序としてみなしていくようになるのかということは,スピノザが表象の動揺について説明している部分が参考になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生まれた時から①&無秩序

2019-01-25 19:17:39 | 歌・小説
 「化粧」を最初に紹介したときに,別れを主題にした楽曲の中にも系統が異なるものがいくつかあり,異なった系統の中にも僕の好みはあるという主旨のことをいいました。今度は情念的であった「化粧」ともまた異なる系統のものを紹介します。それが「生まれた時から」です。これは「はじめまして」というアルバムの中の楽曲です。
                                
 別れを主題にした歌というのは暗いイメージがつきものだと思います。ですがこの歌は例外的に明るさを感じられる楽曲になっています。それはたぶん,この楽曲が別れを主題にしているといっても,つき合った末の別れではなく,片思いの破綻の物語であるということと関係していると思います。

     生まれた時から飲んでたと思うほど
     あんたが素面でいるのを あたしは見たことがない

 ここで「あんた」と歌われているのが歌い手である「あたし」の片思いの相手です。「あたし」からみたときの「あんた」は,いつでも酔払っていたということになります。なぜそんな酔払いに恋心を抱くのか不思議に思えますが,その理由はこの楽曲が歌い進められていくと理解できるようになっています。

     あたしの気持ちを気づかない仲間から
     昔のあんたの姿を 悪気もなく聞かされた

 「あたしの気持ち」はもちろん恋心のことです。「仲間たち」は「あんた」の仲間ともいえるでしょうが,「あんた」にとっても「あたし」にとっても仲間だと僕は解しています。つまりここには何らかのグループがあり,「あたし」はそのグループの中の「あんた」に恋をした,グループの新参者だというように聴いています。
 古参の仲間は「あたし」が知らない「あんたの姿」を知っているので,それを教えたのでしょう。だれも「あたし」が「あんた」を好きだということには気付いていないのですが,それは「あたし」がそういう素振りを見せなかったからです。実際には「あたし」の方から「あんた」の昔のことを古い仲間にそれとなく尋ねたのではないでしょうか。

 第四部定理四系は,人間は自然の秩序ordo naturaeに対しては従順であるといっています。これは当然ながらその秩序の様式がどのようなものであっても妥当しなければなりません。ただし,秩序とか秩序の様式というのは,原因causaと結果effectusの順序を知ることによって概念notioとして出現するのですから,ひとつの受動passioに対しては原則的には人間は無秩序な状態にあるといえます。ただし,ここでも注意してほしいのですが,僕が無秩序というのは秩序がないという意味ではありません。無秩序というのは実際にはひとつの秩序だけれども,その秩序がどのようになっているのかを把握することができない状態に人間が置かれているという意味です。逆にいえば,それが秩序として把握される場合には,ある秩序の様式から別の秩序の様式へと移行することは,さほどの苦労を要さないでしょう。つまり秩序あるいは秩序の様式がどのようなものであるのかということを把握することが,実際に様式を移行させるためには必要で,しかもそれさえできれば,移行もできるようになるといっていいくらいのことなのです。人間は自然の秩序に従う場合には働きを受けているのですから,この受動によって否応なしにその状態に至るからです。
 たとえばある人間が,何の下調べもなしに行ったことのない観光地に出掛けたと仮定します。このときこの人がそこで何を見たり聞いたりするのかとか,何を感じたり感じなかったりするのかということは,実際にそこを巡ってみなければ分かりません。ですが巡れば必ず何らかの表象像imagoが発生し,それは次の表象像へ移行し,また次の表象像に移行するという具合に,この連鎖が観光を終了するまで続くことになるでしょう。これは当人にとっては無秩序な表象像の移行だといえるでしょう。少なくとも何か秩序付けられたものをその表象像から観光をしている当人が発見するということはないだろうからです。ただ諸々の刺激と感覚があり,その中にはすぐに忘れ去られてしまうものもあれば,強く記憶memoriaに刻み込まれるものもあるだろうということでしかありません。
 けれどこれは秩序ではあります。すべての表象像から同様に刺激を受けるわけではないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チルンハウスの誤解③&秩序

2019-01-24 19:19:49 | 哲学
 誤解②のように検討してみると,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausによるスピノザの哲学への誤解は,共通点というのがどのような意味を有するのかという点にあったという結論が最初に類推されるのではないでしょうか。誤解①で示したチルンハウスの主張のうち,スピノザの哲学と照らし合わせて誤っているのは,共通点についての主張であるⅠの部分にのみ存在するからです。
                                     
 『エチカ』では共通点という語は第一部公理五で最初に出てきます。この公理Axiomaをこのまま解すると,たとえば男と女には共通点はないのだから,男は女のことを認識できないし,女は男のことを認識できないのだ,というような理解があっても不思議ではありません。書簡六十三ではチルンハウスは神Deusの知性intellectusと人間の知性の間には共通点がないといっているのであり,共通点という語に特有の意味をもたせないならば,僕が男と女の間で示したような解釈が成立するように,チルンハウスの解釈もまた成立しなければならないでしょう。
 ただ,チルンハウスの誤解の源についてこのように解することには弱みもあります。たとえば第一部定理二を読めば,スピノザは異なった属性attributumの間には共通点はないといっていることくらいはチルンハウスには理解できる筈です。そしてそれが理解できれば,スピノザがどのような事柄を共通点といっているのかということも理解できるでしょう。そしてチルンハウスは『エチカ』の草稿の所持を許されていたのであり,実際にⅡの部分は第一部定理三から主張されているのです。もしチルンハウスが第一部定理二は無視したとか,第一部定理二でいわれていることを,属性とは無関係にごく一般的な意味で解したとするなら,確かにチルンハウスは共通点について誤解していたということになり得ますが,この解釈は僕には強引すぎるように思えます。
 よって,僕はチルンハウスは共通点に関しては誤解していなかった,あるいは誤解していたとしても,全体の主張の中で中心をなすものではなかったと解します。よって根源は別のところに求めなければなりません。

 ある事物を単独で表象するimaginariことは,様式であるということはできても秩序ordoであるとみなすことはできません。しかしここでは自然の秩序ordo naturaeの様式の移行を考察しているのですから,それが様式であり得ても秩序ではあり得ないことについて考察しても意味はないのです。ですからここからは,第二部定理一七に従えば,ある人間の精神mens humanaのうちにAの表象像imagoがあるときに,A以外の表象像が発生した場合にはAの表象像が消滅することになっていることを踏まえ,Aの表象像から別の表象像へと人間の精神が移行していくことをセットとして,ひとつの様式と規定することにします。そしてこれは確かに何らかの秩序であるのです。というのは,Aの表象像を消滅させる別の表象像は,Bの表象像であるかもしれませんし,Cの表象像であるかもしれません。よって同じ人間の精神のうちでも,AからBに移行する場合もあれば,AからCへと移行する場合もあるでしょう。もちろんさらにほかのものの表象像へ移行する場合もあります。つまりここでは明らかに複数の移行を比較することができるわけですから,そこに何らかの秩序を発見することが可能になるわけです。
 第二部定理七の証明Demonstratioは,第一部公理四だけを援用しています。第一部公理四は,原因causaの認識cognitioは結果effectusの認識に対して本性naturaの上で先立つのでなければならないことを含意します。そして観念ideaとその観念の対象ideatumの秩序が同一であるということがこの公理Axiomaに訴求されているということは,秩序というのはまずこの原因と結果の順序のことを意味していると解するのが妥当でしょう。いい換えればこの順序というのは秩序の一部であるとみなさなければなりません。ただしそれは,秩序とは順序という意味であるということではないと僕は考えています。たとえば第三部定義二は,十全な原因causa adaequataであるか部分的原因causa partialisであるかということが能動と受動を分かつといっていますが,観念が十全な原因である場合は観念されたものideatumも十全な原因でなければならず,ともに能動actioであることになります。つまり観念が能動なら観念対象も能動なのであり,これも秩序の一部と僕はみなします。そしてこれは順序であるとはいえないでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典TCK女王盃&移行の原理

2019-01-23 19:12:58 | 地方競馬
 第22回TCK女王盃
 マルカンセンサーは立ち上がって1馬身の不利。先手を奪ったのはクレイジーアクセルでしたが,アイアンテーラーが掛かり気味に追い上げ1馬身差の2番手。さらにエイシンセラードも行きたがりつつ2馬身差の3番手。ここから6馬身ほど離れて,ブランシェクール,ビスカリア,ジュエルクイーン,ラビットラン,アルティマウェポン,ワンミリオンスの順でこの6頭は一団。3馬身差でマルカンセンサー,4馬身差でガーデンズキュー,3馬身差でスプリングキャロルとラモントルドールの2頭が併走で最後尾を追走という縦に長い隊列。最初の800mは48秒8のハイペース。
 クレイジーアクセルは3コーナーの手前から差を広げ始めました。2番手のアイアンテーラーの内からビスカリア,外からエイシンセラードが追い上げ,さらに外からラビットラン。コーナーの途中でアイアンテーラーは一杯になりました。直線に入ると逃げるクレイジーアクセルの外に出されたビスカリアがこれを捕え,そこからはほぼ独走となって圧勝。ずっと内を回ってきたマルカンセンサーもクレイジーアクセルの外から脚を伸ばして5馬身差の2着。大外を回ったラビットランが1馬身4分の3差で3着。
 優勝したビスカリアは重賞初制覇。まだ1600万条件馬ですが,前々走で牡馬相手に2着に入っていて,牝馬重賞なら通用のレベル。ここは能力的にはラビットランが断然なのですが,大井の1800mは一筋縄では収まらないケースも多く,これほどとは思いませんでしたが波乱の可能性はあるとみていました。。2着馬との力量差を考えると5馬身差はさほど不思議ではないので,能力のあるほかの馬があまりにも走れなかったという気がします。上位の2頭はずっと内を回ってきましたので,枠順も有利に働いたのでしょう。大きなトラックバイアスがあったとみるのが妥当で,この結果をそのまま鵜呑みにするのは危険のように思います。父はヴァーミリアン。馬名は花の名前。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手東京盃以来の重賞2勝目。管理している山内研二調教師は第5回以来17年ぶりのTCK女王盃2勝目。

 第二部定理一七は,僕たちがいかにして外部の物体corpusを現実的に存在するものとして表象するimaginariかを説明しています。そして同時にこの定理Propositioは,ある物体の表象像imagoは,それを表象している人間の精神mens humanaのうちに,それと別の表象像が出現するまで存在し続けるということをいっています。これは逆にいえば,現時点で表象しているものはそれとは別のものを表象することによって遮られることを意味します。つまり,Aを表象しているときにBを表象すると,Aの表象像はその人間の精神のうちから消滅するのです。僕は,ある自然の秩序ordo naturaeの様式から別の自然の秩序の様式への移行の原理となるのは,このことであると考えています。
                                
 ただし,この定理は様式の移行そのものを完全な形で説明できるわけではありません。なぜなら,Bの表象像によってある人間の精神のうちからAの表象像が存在しなくなるとき,その人間がある様式から別の様式に移行するのは必然necessariusではないからです。もちろんそれは移行である場合もあるでしょうが,この人間はAもBも,同一の自然の秩序の様式の下で表象しているかもしれないからです。それでも,それらは別の様式の下で表象されている場合はあり得るわけなので,まず原理はこの定理のうちにあると僕は考えているのです。
 ただし,この場合にはひとつだけ気を付けておかなければならないことがあります。たとえば僕たちがAだけを表象し,それ以外の何も表象することはないとしたら,それはもはや秩序とはいえないであろうということです。実際に僕たちは,複数のものを俯瞰的な視点から眺めることによって,そこに秩序があるとかないとかいうのだからです。たとえば第二部定理七は,観念ideaの秩序は観念対象ideatumの秩序と同一であるということを意味していますが,これは観念と観念対象を比較して同一の秩序といっているのですし,また,複数の観念あるいは観念対象を比較して同一の秩序であるといっているのです。
 これでみれば分かるように,実際にはAを単独で認識するcognoscereならそれは様式であったとしても秩序ではありません。同様に,Bだけを単独で表象するのなら,それも様式ではあり得ても秩序とはいえないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡田美術館杯女流名人戦&困難と容易

2019-01-22 18:56:43 | 将棋
 20日に岡田美術館で指された第45期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が11勝,伊藤沙恵女流二段が3勝。
 岡田美術館館長による振駒で伊藤二段の先手。里見名人の5筋位取り中飛車に先手が右の金銀を盛り上げていくという趣向に。中盤のやり取りで差がついた将棋だったのではないでしょうか。
                                     
 銀冠を目指した後手に対して先手が2八の飛車を浮いた局面。この手はたぶん疑問手で,☗1六歩と指すのがよかったのではないかと思います。
 後手はここで☖4四歩と突き☗同歩☖同角と交換。飛車取りなので☗2八飛と逃げました。このままだと2筋を突破されるので後手も☖3三角と受けました。
 今度は先手から☗3五歩と突き☖同歩に再び☗2六飛。後手はここで長考して☖3二飛と寄りました。
 先手は☗3五銀と取り後手は☖3四歩と角の頭を受けました。☗同銀は☖4四角で飛車銀両取り。受けるには☗3六飛しかありませんが☖3五歩で駒損が確定。なので☗4六銀と引きました。後手は今度は☖4二飛と4筋へ。
                                     
 この手順で先手が困っているようです。☖4五歩と打たれてはいけないので相手の打ちたいところに打てと☗4五歩ですが,☖4四歩と合わせられ☗同歩☖同角がまた飛車取り。☗2八飛と逃げたところで今度は2筋を放棄して☖3三桂と跳ねる手が大きく,ここからの攻め合いは後手に分がありました。
 里見名人が先勝。第二局は27日です。

 現実的に存在する人間が自然の秩序ordo naturaeを脱して知性の秩序に入り,理性ratioに従って生活していくということは第五部定理四二備考で示されているように稀です。それが稀にしか生じないのは,現実的に存在している人間にとってそれがとても困難だからと解してよいでしょう。これと比較するなら,ある自然の秩序を脱して他の自然の秩序へと移行することは容易です。第四部定理三三はそのことを意味することができると僕は考えるconcipereのです。なぜならこの定理Propositioによれば,現実的に存在する人間は受動passioという感情affectusに従属する限り,いい換えれば自然の秩序に従っている限りでは,同一の人間であっても不安定であるといっています。この不安定ということの意味は,ある単独の自然の秩序の様式に従っていることは少なく,あの秩序の様式からこの秩序の様式へ,またかの秩序の様式へと次つぎに移ろいでゆくということだと解せるからです。すなわち現実的に存在する人間は,受動に属している限り,自分が意図しているところと無関係に,自動的に自然の秩序の様式を移行しているのです。ですからこの移行が容易であることは,少なくともこのことから明らかでしょう。
 ただし,これは自動的に移行しているのですから,本来的な意味においては困難であるとか容易であるというのとは違います。というのは僕たちはある事柄を意識した上で,それをなすことが困難であるといったり容易であるといったりするのだからです。意図せざるところでなしていることは,僕たちが困難であるとか容易であるとか判断する対象にならないといわなければならないでしょう。よって実際には,意図的にある自然の秩序の様式から別の自然の秩序の様式へと移行することが,自然の秩序から知性の秩序へと移行することよりも容易であるといえるのかということを検証しなければなりません。
 これを検証するために必要なのは,僕たちがいかにしてある様式から別の様式へと移行するのかということです。もし意図的にこの移行をなす場合には,前もってその移行の方法を知っておかなければならず,方法を知るためにはその仕組みがどうなっているのかを知っておかねばならないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NARグランプリ&目標

2019-01-21 19:29:03 | 地方競馬
 昨年のNARグランプリの競走馬部門は16日に発表されました。
                                
 年度代表馬は船橋のキタサンミカヅキプラチナカップ,アフター5スター賞,東京盃に優勝。昨年は地方馬による大レース制覇なく,その中で中央に遠征してJBCスプリントとカペラステークスで3着に入ったこの馬が選出されるのは妥当なところ。部門別では4歳以上最優秀牡馬と最優秀短距離馬。27日の根岸ステークスに出走を予定しているようです。現状はこの路線が、地方馬が中央馬に対して最も戦える路線になっています。
 2歳最優秀牡馬は北海道のイグナシオドーロ。北海道重賞のブリーダーズゴールドジュニアカップに優勝。北海道2歳優駿は記録上は2着ですが,実際に先着していたのはこちらであったという点が評価に影響したのだろうと思います。現在は川崎に移籍しています。2019年2月28日に,記録上もこちらが優勝と変更になりました。
 2歳最優秀牝馬は大井のアークヴィグラス。北海道重賞のフルールカップ,リリーカップを連勝後にエーデルワイス賞を制覇。南関東に転入してローレル賞,東京2歳優駿牝馬も優勝して現時点で5連勝中。文句なしでしょう。
 3歳最優秀牡馬は大井のクリスタルシルバーマイルグランプリを優勝。この部門はどの馬が選出されるか予測もできなかったのですが,ジャパンダートダービーで4着になったのが高く評価されたようです。ただ,もしマイルグランプリを勝っていなければ未勝利でしたから,別の馬の選出になったと思われ,この馬にとっては価値ある勝利になりました。
 3歳最優秀牝馬は川崎のゴールドパテック。この馬もロジータ記念のトライアルレースを勝っただけ。関東オークスで2着になったのが評価されました。地区重賞も勝っていない馬の選出は珍しいのではないでしょうか。
 4歳以上最優秀牝馬は高知のディアマルコ。佐賀ヴィーナスカップ,兵庫サマークイーン賞,秋桜賞と,佐賀,兵庫,名古屋の地区重賞を制覇。能力だけならこの馬より上という馬もいるのですが,実績からはこの馬の選出となるでしょう。
 最優秀ターフ馬は北海道のハッピーグリン。盛岡のオーロカップに優勝。JRAで500万と1000万を勝ち,オープンでも4着と3着。ジャパンカップも一桁着順で,相対的評価からはこの馬が断然ということになります。
 ダートグレード競走特別賞馬はユニコーンステークス,ジャパンダートダービー,南部杯,チャンピオンズカップを勝ったルヴァンスレーヴ。地方競馬だけの実績だとケイティブレイブでもおかしくないのですが,より強い馬が選ばれたという意味では僕は歓迎します。
 ばんえいはこのブログでは扱っていないので割愛。昨年1月に死亡したサウスヴィグラスが特別表彰馬に選出されました。現役当時も地方で活躍しましたし,種牡馬として数多くの活躍馬を残した功績を合わせての受賞です。

 スピノザは政治論を構築する上でも国家論を構築する上でも,その基礎に自身の哲学を置いています。ですから,すべての人間が理性ratioに従って生活するようになることは,理想ではあったとしても,第四部定理四系から,あくまでも理想であり,非現実的であるとみなしていました。だから第五部定理四二備考では,このような理想が実現することは稀であるという主旨のことがいわれているのです。このために次善の策として,あたかもすべての人間が理性に従っているかのような社会societasの構築を目指したのだと思います。いい換えればそれは,現実主義的な政治論でありまた国家論であったといっていいのではないでしょうか。
 このような現実主義がはっきりみてとれるのが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』です。スピノザはその中で,新約聖書を称揚しています。聖書の教えに従うというのは,聖書への服従obedientiaであり,受動passioです。スピノザが道徳律として目指す能動actioとは正反対です。ですが聖書の教えに従っている限り,人間はあたかも理性に従っているかのように生活することができるとスピノザは確信していました。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaに記述され,『破門の哲学』でも紹介されている,スぺイクHendrik van der Spyckの妻に対するエピソードも,おそらくはスピノザの本心であったのだと思います。
 したがって,哲学を離れて現実をみるなら,必ずしも自然の秩序ordo naturaeから脱して知性の秩序に入ることだけが人間にとっての目標となるわけではなく,知性の秩序が齎す結果effectusから程遠い自然の秩序を脱し,知性の秩序から生じる結果に近似した自然の秩序へ移行することも,人間にとっての目標となり得ることになります。つまり同じ自然の秩序でも,ある様式から別の様式へと移行することが,あるいは他者を移行させることが,ひとつの目標となり得るのです。ただし,これが目標となり得るのは,自然の秩序を脱して知性の秩序へ入ることが,非現実的であったからです。よって,ある自然の秩序の様式から別の様式へ移行することが,同じように非現実的であったとしたら,それは目標とはなり得ません。むしろこうした移行は,自然の秩序から知性の秩序への移行より容易になされ得るのでなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本発祥倉茂記念杯&政治論の基本原理

2019-01-20 19:15:12 | 競輪
 大宮記念の決勝。並びは矢野‐平原‐神山の関東,野口‐海老根の千葉,橋本‐田中の西国で志智と黒田は単騎。
 野口が前受け。3番手に黒田,4番手に橋本,6番手に志智,7番手に矢野で周回。残り2周となり,矢野が動く前に橋本が動き海老根の横へ。その外から矢野が上昇。バックで野口を叩いて打鐘。ここからスローペース。4番手が橋本,6番手は取り合いになりましたが志智が入り,黒田は7番手。引いた野口の巻き返しに合わせて矢野も発進。野口は1センターでかなり外を回るロスがあったのですが,バックでは矢野を捲りました。平原は海老根の後ろにスイッチ。2センターで橋本がインを上昇。これに合わせて平原が発進。直線は一旦は平原が先頭でしたが,内から出てきた橋本と競り合う形となり,平原マークの神山が外から差し切って優勝。大外を豪快に伸びた志智が半車輪差で2着。3位入線は橋本でしたが,最終コーナーで海老根に対する内側追い抜きがあり失格。繰り上がった平原が半車輪差の3着。
 優勝した栃木の神山拓弥選手は2015年3月の名古屋記念以来の記念競輪4勝目。大宮記念は2014年以来の2勝目。このレースは矢野が平原の前で走ることになったため,先行が有力で,展開としては平原が絶対的に有利だろうと思われました。実際にその展開となり,野口に捲られてしまったのも想定はしていたものと思います。あとは海老根の後ろにスイッチし,タイミングよく発進していくだけだったのですが,橋本が内に切れ込んできたため,慌てて踏んでいったのではないでしょうか。そのために直線での伸びを欠いてしまったのだろうと思います。優勝した神山は早い時期から頭角を現していたのでもうベテランという印象ですが,まだ31歳です。もう少しシビアに競走をすればもっと勝てるのではないかと思っている選手です。

 自然の秩序ordo naturaeの様式は,論理的には無限に多くあり,したがって,様式という観点からみるなら,同じ人間がある自然の秩序に従う場合もあればそれとは別の自然の秩序に従う場合もあることになります。一方,原因causaが異なれば結果effectusも異なるのですから,ある人間がある自然の秩序の様式に従った場合と,それとは別の自然の秩序の様式に従った場合では,結果としてその人間がなす行動に相違が出てきます。なお,ここでいう行動は,単に身体corpusの運動motusだけを意味するのではなく,精神mensの思惟作用も含んだものであると理解してください。
 そこで同じ自然の秩序であっても,Aという様式とBという様式があると仮定します。このとき,Aの様式に従った結果の行動は,人間が理性ratioの導きによってなす行動とあまり変わるところがなく,Bという様式に従った結果としてなす行動は,人間が理性に従ってなす行動とは似ても似つかないとしてみます。この場合,人間はAという自然の秩序の様式に従う方がよいのです。これはその人間にとってよいという意味であると同時に,ほかの人びとから,あるいは人類全体からみてよいという意味でもあります。なぜなら,理性に従っている限りでは人間の本性naturaは必然的にnecessario一致するからで,Aの自然の秩序の様式に人間が従う限りでは,表面的にはその人間も理性の導きに従っているのと同じことになるからです。
                                     
 スピノザの政治論は基本的にこのような原理に基づいています。人間は理性に従えば本性の上で一致するので,最良であるのはすべての人間が理性に従って生活するようになることであり,この限りで人間は能動的に紐帯を結ぶことができます。『スピノザとわたしたち』は,基本的にそういう方向の政治論になっています。ネグリAntonio Negriがいう愛amorの紐帯とは,能動的な紐帯と同じことを意味しているからです。ですが第四部定理四系により,人間が自然の秩序に従属しないことは不可能なのですから,そのような方向の政治論は非現実的だという考え方をスピノザはもっていました。むしろ社会societasの役割は,すべての人間が理性に従うようにすることにあるのではなく,あたかも理性に従っているかのようにすることだったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セメント&自然の秩序の様式

2019-01-19 19:20:32 | NOAH
 『1993年の女子プロレス』を読んでびっくりしたことのひとつに,全日本女子プロレスではセメントと称される,勝敗の結果が定まっていない試合が行われていたということがありました。
                                    
 プロレス界におけるセメントというのは,僕は二種類に分けられると考えています。ひとつは全日本女子プロレスで実際に行われていたように,勝敗の結果を実際に戦っている選手の力量だけで決定してしまうというものです。僕はプロレス業界の人間ではありませんから想像するほかありませんが,たぶんこの種のセメントは珍しいのではないでしょうか。というのはこのような方法で戦わせてしまうと,興行として成立しない可能性が高くなってしまうので,プロモーターはそれを嫌うのではないかと思われるからです。もうひとつは結果は定められているのだけれども,何らかの理由で選手がそれに従わず,結果的に潰すか潰されるかという試合になってしまうケースです。こういう試合は何度かありましたし,女子プロレスでも有名な試合があります。また,これは試合とは異なるのですが,チャボの暴挙が僕には謎と思えるのは,あれはプロレスの試合後の形を変えたセメントマッチだったように思えるからなのです。
 全日本女子プロレスは最高峰のタイトルがWWWAで,次がオールパシフィック。その下に全日本という序列でした。セメントが行われていたのはこの全日本のタイトル戦であったようです。確かに僕が見た中でも,全日本のタイトル戦というのはそこまでの技の応酬とは無関係に,最後は無理矢理に押さえ込んで3カウントを奪うという決着が多かったように思います。当時は不思議に思っていましたが,プロレスの試合をセメントで決着させるには,こういう方法で3カウントを奪うのが最も簡単だったのでしょう。
 試合の決着のつけ方としては,ファンからすれば面白いものではありません。だから下位のタイトル戦で行っていたのでしょうが,これはプロモーターの余興で,ずいぶんと趣味の悪い人たちが経営していたものだと思います。

 延長の属性Extensionis attributumからは無限に多くのinfinita物体corpusが生起しなければなりません。また,第二部定理一一系が示唆しているほかのものは,単一のものであると限定されているわけではなく,ひとつの場合もあるでしょうがふたつ,みっつ,あるいはそれ以上という場合もあり得るのであり,その組み合わせは無数に上ります。ですから人間の精神mens humanaがある物体を混乱して認識するcognoscere場合は,その混乱した観念idea inadaequataの様式は,論理的には無限に多くあります。よって,人間が形成するXの真の観念idea veraあるいは十全な観念idea adaequataは,どの人間にあっても同一であり唯一なのですが,Xの混乱した観念あるいは誤った観念idea falsaということになると,その種類は無限に多くあり得ることになります。これはもちろん,Aという人間が有するXの混乱した観念とBという人間が有するXの混乱した観念の様式が相違し得るということだけを意味するわけではなく,同じAという人間が,同じXの混乱した観念を,異なった様式で認識する場合があるということも意味します、要するに,知性の秩序の様式というのはどの人間にあっても同一で唯一の秩序であるといえるのですが,自然の秩序ordo naturaeというのはそれとは違い,無限に多くの様式があり,この様式そのものを秩序とみなす限りで,無限に多くの秩序があるということになるのです。
 このことをよく表しているのは第三部定理五一です。すでに示したように,人間は知性の秩序に従う限りでは能動actioという状態にあり,自然の秩序に従っている場合は受動passioという状態にあるのですが,現実的に存在する異なった人間が同一のものから異なった働きを受けるpatiこともあるし,同じ人間が同じものから異なったときに異なった働きを受けることがあるということをこの定理Propositioは示しているからです。少なくとも受動の様式が唯一ではないということは,この定理から明白になっているといえるでしょう。そしてそれはつまり,自然の秩序の様式は唯一ではないという意味なのです。
 このとき,人間がある自然の秩序によって働きを受ける場合と,それとは別の自然の秩序によって働きを受ける場合とでは,齎される結果effectusが異なるということがあり得ます。これは第一部公理三から明白です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

I love him①&様式

2019-01-18 19:05:23 | 歌・小説
 「化粧」の歌い手は,愛そうとせずに愛されようとしていた自分はバカだったと歌っているように解釈することができます。これは愛されようとするより愛そうとしなければならないという反省の意味を有することになります。そのことを正面から主題化した楽曲が「I love him」です。これは「泣かないで アマテラス」も収録されている「10WINGS」の中の一曲です。
                                     
 この歌の歌い手は,あるときに愛することの大切さに気付きます。そしてそのことに気付く前の自分について語り,同時にそれを分析します。

     夢見続けた願いはいつも 愛されること愛してもらうこと
     それが人生の幸せだって いつも信じてた
     信じて待った 待って夢見た


 これは過去の自分についての回想です。「化粧」の歌い手も,束にできるほどの手紙を送った相手に対して,この楽曲の歌い手と同じような気持ちでいたのかもしれません。

     私にだって傷ついた日はあったと思う けれどもそれは
     欲しがるものが手に入らなくて裏切られたような気がして泣いた
     子供の夢ね


 この部分は回想と分析とが混在しているといえるでしょう。そしてこの分析の中で特徴的なのは,愛してほしいと思っていた人から愛されないことで傷ついた気持ちは,裏切られたような気がして泣いた子どもの頃の気持ちと同じであると歌われている点です。それは裏切られて泣いたのではありません。裏切られたような気がして泣いたのです。この相違は重大だと思います。実際には裏切られたのではなく,そんな気持ちになっていただけだった,つまり裏切られたということは真実ではなかったと意味になってくるからです。 

 現実的に存在する人間が常に知性の秩序に従って生きていくことは不可能であり,むしろ第四部定理四系にあるように,自然の秩序ordo naturaeに対して常に従属しているのです。これは人間に与えられる現実的本性actualis essentiaがそのようになっているからです。最も簡単にいってしまえば,いくら知性の秩序に従っていようと,人間は腹が減ることがありますし,眠くなることもあります。病気になることもありますし死んでしまうこともあるでしょう、こうした受動passioからは人間は絶対に逃れることはできないのです。ただ,ここで気を付けておきたいのは,人間は自然の秩序に従わざるを得ないといっても,この自然の秩序が人間に与えられる様式は一定ではないという点です。
 第四部定理三五は,人間は理性の導きに従って生きるなら本性naturaの上で一致するといっています。理性に従うということと知性の秩序に従うということは同じことを意味します。よって知性の秩序の様式というのは,人間であればだれであっても同一です。いい換えれば知性の秩序というのは唯一です。これはものの真理veritasというのは唯一であって,複数の真理があるわけではないということと関係します。なぜなら僕たちは理性に従ってものを認識するcognoscereなら,そのものを真に認識するからです。
 これでみれば分かるように,僕たちがものを真に認識する様式は唯一ですが,誤って認識する様式は唯一とはいえません。あのように誤ることもあればこのように誤るということもあるからです。つまり,真の観念idea veraは唯一ですが,誤った観念idea falsaは唯一であるといえません。このことは第二部定理一一系からより明らかになります。すなわち,ある人間がXを真にあるいは十全に認識するなら,その観念はその人間の本性を構成する限りでDeusのうちにあるのですから,これは神の無限知性intellectus infinitusのうちにあるXの観念と同一です。これがどの人間の場合であっても該当しますから,Xの観念は唯一です。しかしある人間がXを誤ってあるいは混乱して認識するときには,その人間の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの認識があるのです。よってこのほかのものが異なり得るだけその様式も異なり得るのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡六十&自然の秩序と知性の秩序

2019-01-17 19:57:13 | 哲学
 書簡五十九への返信が書簡六十です。
                                     
 書簡五十九の最初に,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは延長の属性Extensionis attributumからいかにして無限に多くのinfinita物体corpusが存在することを帰結させるのかと問うていましたが,スピノザはこのことについては別の機会に譲るとだけいっています。ただしこの機会はスピノザの生存中には現実化しませんでした。
 真の観念idea veraと十全な観念idea adaequataをチルンハウスは別の観念と理解していたようですが,これは誤解で,その相違は観念の外来的特徴denominatio extrinsecaに由来するのか本来的特徴denominatio intrinsecaに由来するのかという点だけにあるとスピノザは答えています。この相違は実際にはスピノザの哲学を考察する上では重要な相違なのですが,チルンハウスの質問に対してはこれだけで明確な解答になっていると思います。
 ものに関するどの観念からそのものの特質proprietasのすべてを導くことができるのかという主旨の質問に対しては,そのものの起成原因causa efficiensを含んでいる観念であるとスピノザはいっています。同時にスピノザはそれはものの観念として起成原因を含んでいなければならないというだけでなく,ものの定義Definitioもそれを含んでいなければならないという意味の解答をしています。すでに書簡五十九を紹介しておいたときにいっておいたように,この質問はものの観念についての質問であるというより,スピノザの哲学の全体においては,ものの定義とより多くまた深く関連する質問であったわけです。
 またこのときスピノザは,ものの起成原因というのは外的なものばかりでなく内的なものもあるという自身の考えを伝えています。これはデカルトの欺瞞と関連していて,スピノザは自己原因causa suiというのも起成原因の一種であると考えていることを明確にチルンハウスに伝えたといっていいでしょう。実際にスピノザはそう述べた後で,Deusの定義である第一部定義六に言及しています。チルンハウスの質問そのものとは直接的には関係しているとはいえませんが,この書簡においてはこの部分もスピノザの哲学の理解に際して重要ではないかと思います。

 それではトイレトレーニングが哲学と関係する,もうひとつの点についての考察を開始します。概要だけいうと,これは自然の秩序ordo naturaeおよび第四部定理三三に関係します。
 スピノザは僕たちが自然の秩序に従って何事かを認識するcognoscereなら,それは常に混乱した観念idea inadaequataであると第二部定理二九備考でいっています。第三部定理一から分かるように,このとき人間の精神mens humanaは受動状態になります。もっともスピノザの哲学では,人間の能動actioと受動passioは精神にあっても身体corpusにあっても同一ですから,そのときは身体もまた受動です。よって,人間は自然の秩序に従っている限りでは,常に受動という状態にあるのです。
 同じ備考の後半部分では,人間の精神は知性の秩序に従う場合にはものを十全に認識するという意味のことがいわれています。この場合には第三部定理一により人間の精神は能動という状態にあることになります。そして前述の説明と同じ理屈で,それは人間の身体の能動でもあることになります。つまり人間は知性の秩序に従う限りでは常に能動状態にあることになります。
 理性と感情という旧来の対立に対して,スピノザが打ち立てた新たな道徳律が能動と受動の対立でした。ですからスピノザの哲学は,自然の秩序から脱却して知性の秩序に入ることを目指す哲学であるといえるでしょう。これはスピノザの哲学を道徳ないしは倫理という観点からみた場合には基本で,だれも否定することができないといわなければなりません。
 ところが一方で,スピノザは第四部定理四系では,人間は常に自然の秩序に従うといっています。これでみればあたかもスピノザが目指す道徳律は,人間にとって達成することが不可能であるかのように思われるかもしれません。ですが第二部定理三八系は,現実的に存在する人間の精神の一部は必然的にnecessario共通概念notiones communesという十全な認識cognitioによって構成されていることを示し,人間はものを十全に認識する限りでは能動状態にあるのですから,不可能というわけではありません。第四部定理四系がいっているのは,人間が絶対的に自然の秩序から逃れることは不可能で,同じことですが完全に知性の秩序に従うのは不可能だということです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする