12月27日に指された第48期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第二局。
振駒で藤井聡太竜王の先手となり,佐藤天彦九段の横歩取り。☖3三桂戦法を採用しました。この将棋は後手がとりたてて悪い手を指したわけではないのですが,先手が的確な指し手を続けることによって,典型的な藤井曲線が描かれて先手が勝つという一局でした。
最大の分岐はこの局面であったようです。
実戦はここで☖5四歩と突いたので,☗8五歩☖6四飛☗2六歩☖3七歩☗3九金☖5五角☗同飛☖同歩☗2五歩と進み,飛車角交換で先手の桂得に進みました。この駒得が大きく先手がはっきりとリードすることになりました。
第1図は☖8七歩☗9七角☖9五歩と進めるのがよかったようです。それで後手がよいわけではないのですが,実戦ほどのビハインドを背負う展開にはなりませんでした。
藤井竜王が勝って挑戦権を獲得。棋王戦五番勝負は初出場。第一局は来月5日に指される予定です。
集中力が増すとは一般的には肯定的に評価されることです。そのこと自体は僕も否定しません。また,スピノザも否定するnegareことはないと僕は思います。集中力が高まるというのは,精神の能動actio Mentisの度合いが高まるという意味ですから,それは第四部定義八により徳virtutemといわれるからです。徳が高まることを否定的に評価するということはあり得ませんし,それをフラットに評価する,つまり否定はしないけれど肯定もしないというのもあり得ないだろうと考えるからです。ただしどんなに集中力が高まった状態,つまり精神の能動の度合いが増した状態であっても,第四部定理四系は妥当する,つまりいくらかの受動passioにはその人間は隷属しているのであって,僕はそのこと自体も肯定的に評価します。他面からいえば,どんなに精神の能動の度合いが高まっていたとしても,その人間は何らかの表象imaginatioはしているのであって,そのこと自体を僕は肯定的に評価するということです。
なぜ僕がいくらかの受動を肯定的に評価するかといえば,それは次のような理由によります。もしも人間の精神mens humanaが能動の状態にあるときには,その人間は一切の受動に隷属しないと仮定しましょう。するとその人間は,何の表象もしないことになります。よってそのときにはその人間は,たとえば大きな地震の揺れがあったとしても,それを知覚しないということになります。しかしもしも本当にそのようなことが生じるとしたら,精神の能動は肯定的に評価されるどころかむしろ否定的に評価されなければならないでしょう。そのようなことは第三部定理七に反するといわれなければならないからです。要するに,自己の有suo esseに固執するということは人間の現実的本性actualem essentiamなのであって,その現実的本性から人間は,どんなに集中力が増したとしても,いい換えればどれほど精神の能動の度合いが増したとしても,いくらかの受動には隷属するのです。つまり,人間は生き延びていくために,常に受動に隷属する必要があるのであって,そのために僕は人間が常に受動に隷属していること,いい換えれば何らかの表象をしているということを肯定的に評価するのです。
よってこの場合は別の評価規準が必要になります。
振駒で藤井聡太竜王の先手となり,佐藤天彦九段の横歩取り。☖3三桂戦法を採用しました。この将棋は後手がとりたてて悪い手を指したわけではないのですが,先手が的確な指し手を続けることによって,典型的な藤井曲線が描かれて先手が勝つという一局でした。
最大の分岐はこの局面であったようです。
実戦はここで☖5四歩と突いたので,☗8五歩☖6四飛☗2六歩☖3七歩☗3九金☖5五角☗同飛☖同歩☗2五歩と進み,飛車角交換で先手の桂得に進みました。この駒得が大きく先手がはっきりとリードすることになりました。
第1図は☖8七歩☗9七角☖9五歩と進めるのがよかったようです。それで後手がよいわけではないのですが,実戦ほどのビハインドを背負う展開にはなりませんでした。
藤井竜王が勝って挑戦権を獲得。棋王戦五番勝負は初出場。第一局は来月5日に指される予定です。
集中力が増すとは一般的には肯定的に評価されることです。そのこと自体は僕も否定しません。また,スピノザも否定するnegareことはないと僕は思います。集中力が高まるというのは,精神の能動actio Mentisの度合いが高まるという意味ですから,それは第四部定義八により徳virtutemといわれるからです。徳が高まることを否定的に評価するということはあり得ませんし,それをフラットに評価する,つまり否定はしないけれど肯定もしないというのもあり得ないだろうと考えるからです。ただしどんなに集中力が高まった状態,つまり精神の能動の度合いが増した状態であっても,第四部定理四系は妥当する,つまりいくらかの受動passioにはその人間は隷属しているのであって,僕はそのこと自体も肯定的に評価します。他面からいえば,どんなに精神の能動の度合いが高まっていたとしても,その人間は何らかの表象imaginatioはしているのであって,そのこと自体を僕は肯定的に評価するということです。
なぜ僕がいくらかの受動を肯定的に評価するかといえば,それは次のような理由によります。もしも人間の精神mens humanaが能動の状態にあるときには,その人間は一切の受動に隷属しないと仮定しましょう。するとその人間は,何の表象もしないことになります。よってそのときにはその人間は,たとえば大きな地震の揺れがあったとしても,それを知覚しないということになります。しかしもしも本当にそのようなことが生じるとしたら,精神の能動は肯定的に評価されるどころかむしろ否定的に評価されなければならないでしょう。そのようなことは第三部定理七に反するといわれなければならないからです。要するに,自己の有suo esseに固執するということは人間の現実的本性actualem essentiamなのであって,その現実的本性から人間は,どんなに集中力が増したとしても,いい換えればどれほど精神の能動の度合いが増したとしても,いくらかの受動には隷属するのです。つまり,人間は生き延びていくために,常に受動に隷属する必要があるのであって,そのために僕は人間が常に受動に隷属していること,いい換えれば何らかの表象をしているということを肯定的に評価するのです。
よってこの場合は別の評価規準が必要になります。