スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

二律背反&食餌療法の改善

2011-02-28 18:30:11 | 歌・小説
 夏目漱石が『明暗』のプロットのひとつとして,社会主義者と評される小林の口からドストエフスキーについて語らせるとき,そこに作者としての夏目漱石という観点を導入するならば,二律背反的な表現になっているといえると思えます。すなわちこの部分は,ドストエフスキーに対して,あるいはドストエフスキーの小説に対して,とても好意的な評価であると読むことも可能ですし,逆にあまり肯定的ではない,むしろ否定的であるとも読めるようになっています。僕は小説の読み方として,作者という観点を持ちだすことには懐疑的なのですが,しかしここには,確かに漱石のドストエフスキー評というのが介在しているようには思えます。つまり漱石はドストエフスキーの小説を,肯定的に評価していたと同時に,否定的に批判する精神をも同時にもっていたのではないでしょうか。あるいはさらに作者としての夏目漱石の情念という部分にまで踏み込んでいうなら,漱石はドストエフスキーの小説を,好きでもあったし嫌いでもあったのではないかと思うのです。
                         
 漱石はいわゆる修善寺の大患で,生死の境界を彷徨いました。これはひとりの人間にとって重大な経験であることは間違いないでしょうし,もしかしたら漱石にとって,人生の中での最大の体験であったといっていいかもしれません。そしてこの経験について回復した後の漱石は,死に伴う恐怖と生に伴う喜びが紙一重に重なったと述懐し,そこに常にドストエフスキーを連想したという意味のことをいっています。
 漱石がドストエフスキーを,あるいはドストエフスキーの小説を高く評価していたということに関しては,僕はこのことだけをもってしても十分に説明ができると考えます。なぜならば,自身の人生における最大の経験,あるいは最大ではないにしてもかなり重大な体験にある別の事柄を観念として連結させるならば,少なくともその人間は,その観念に対してある肯定的な評価を,あるいは自分自身で意識しているような好意というものを抱いているということは,疑い得ないであろうからです。とくにこの場合,死からの生還という,第三部定理七からしても喜びという感情と同時にあるであろう観念ですからなおさらです。したがってこの点については僕はこれ以上の探求をするつもりはありません。むしろ僕の興味は,否定的な評価,ないしは反感というような情念が生じた理由の方にあるのです。

 生活改善のうち僕にできることのもうひとつ,食餌療法の関連に関しては,実は運動療法と比べると,さらに僕の独断でできることというのが限られてきます。というのも,血糖値は摂取する熱量に応じて上昇しますから,ただ血糖値を下げるだけであるならば,摂取する熱量というのを減少させればいいわけです。これはやろうと思えば簡単にできることでしょう。しかし,摂取するべき熱量というのは,入院中に管理栄養士によって定められたものですから,これを僕自身が勝手に減らしてしまうというわけにはいきません。つまりあまり食べすぎてはいけないのは当然ですが,食べる量が減りすぎてもいけないわけです。そもそも注射するインスリンの量というのが,基本的にこれだけは熱量を摂取するという前提のもとに定められているわけですから,勝手にそれを減らしてしまうようなことをすると,むしろ副作用である低血糖を発症しやすくなってしまいます。そしてこれは一時的にみるならば,高血糖よりも危険です。
 したがって,できることというのは,できる限り定められた熱量に近いだけのものを1日のうちに食するということになります。実際にはこれはもともと心がけていたことではありますから,今回のことを機に取り組み始めたというわけではありません。ただ,やはり糖尿病との共生が長くなってきましたので,僕も大体はどれくらいの量でどのくらいの熱量になるかということを理解してきましたから,最近は目分量でよそうことも多かったというのは事実。そこでこれを機会に原点に戻ろうということで,こまめに計量器を使うようにしました。
                         
 ところで,この目分量ということに関しては,実は母の入院も少し関係はしていました。というのはこの間は基本的に夕食を僕と妹のふたり分作っていましたが,たとえば魚などを食べる際には,面倒なのでどうしても二切れを買ってきて,それを一切れずつ食べるということになります。買い物も僕がしていたわけで,どうしてもその方が合理的なのです。しかし実際にはは種類によって含有している熱量がかなり変わってきますから,こういう食べ方をしていますとどうしても熱量を多く摂取してしまうケースが生じます。こうしたことは母の退院後にもあったのですが,こういう場合も,しっかりと計量して,あまり多いならば残すようにしたのです。
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棋王戦&運動療法の改善

2011-02-26 18:36:38 | 将棋
 この棋戦では恒例になっている金沢での対局となった第36期棋王戦五番勝負第二局。
 渡辺明竜王の先手ですから久保利明棋王のごきげん中飛車になるのは予想されたところ。先手は最も得意とする③CⅠの超急戦を選択し,おそらく研究と思われる新手を出しました。時間の使い方からみて,この後も先手の研究の範囲内で展開していったものと思います。
                        
 ここもたぶんまだ研究の範囲内。そして僕にはいかにも研究していますということが感じ取れた手。これで後手の角は行き場がありませんから5六の金を取るよりありません。成と不成がありますが不成を選択。ただ,実戦の進行はその銀を攻めではなく受けに使わなければならなくなり,先手の優位が確実なものになりました。最後は一手違いにはなったものの,そのまま押し切った先手の勝ちとなっています。第1図はまた指されるのかもしれませんし,新手直後で変化もあります。ただ最悪の場合には30手目の△2七角に代わる手を後手が探さなければならないということになる可能性も僅かながらありそうです。
 研究勝負を制した渡辺竜王がタイに持ち込みました。第三局は来月6日です。

 それでは僕が実際にどのような生活改善を企て,またそれを実行した,あるいは今も実行しているのかを詳しく紹介していきます。
 まず運動療法の方ですが,こちらの方でできることといえば,まずはウォーキングです。僕自身は散歩を趣味としているくらいですから,歩くこと自体はほとんど苦になりません。一方,糖尿病の運動療法には,有酸素運動が効果的ですので,ウォーキング自体は僕にはもってこいであるということになります。
 母が入院してからしばらくの間,僕は自分自身でも運動不足になっているのではないかと懸念していました。そのために,少し歩くようにしたというのはすでに説明した通りです。その後もこれは続けていましたので,今回はその延長上にあります。もちろん,散歩をするとなれば,ある程度の時間が必要なのであって,仕事などの関係もありますからこれを毎日やるということはできません。ただ,仕事が終わった後に少し距離のある駅まで歩いてみるとか,たとえば妹を医者に連れて行く際には,迎えに行くのにバスを利用せずに徒歩で行くなど,その気になれば歩く時間というのは日々の生活の中でも確保できます。妹の作業所までですと,僕の足だと家から歩いて25分くらいで,大した運動にはならないかもしれませんが,有酸素運動というのは一応は20分ほど継続して行うならば確かな効果が発揮されるということですので,血糖値を安定させるためにどうなのかということはまた別なのかもしれませんが,日常的な運動不足の解消という観点からはこれでも十分だといえるでしょう。ただし,1日だけでなく,持続的に行わなければあまり意味はありません。
 ところで,これには別の効用があるということに気付きました。というのは,徒歩というのは,速度自体はあまり早くありませんが,停滞するということはまずありません。どこかへ向うというときに,バスや自動車だと渋滞に巻き込まれる可能性がありますし,電車も不慮の事故で止まらないとも限らないわけです。その点,徒歩は確実。時間の計算という観点からは,自転車やバイクと並んで最も確実な移動手段といえそうです。
 一方,難点はやはり天候です。さすがに降雨や降雪のときは,歩こうという気になれません。そういった日が何日か続くと,自然と運動量が不足してしまうということになります。
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最良の時代&生活改善

2011-02-25 18:29:52 | NOAH
 ジャストミートというフレーズで,全日本プロレス中継の歴史に一時代を築いたといっても過言ではないと思う福沢朗アナウンサー。僕は彼が実際にプロレス実況を担当した時代のことを,全日本プロレスにとって最良の時代であったと評しました。福沢さんがいつから全日本プロレス中継に登場し,いつまで務めたのかは実は定かではないのですが,僕が全日本プロレスの最良の時代といっているのは,当時の全日本プロレス,あるいは全日本という一団体にはとどまらず,日本のプロレス界全体の不動のエースとして君臨していたジャンボ鶴田に,タイガーマスクから素顔に戻った三沢光晴を筆頭とした若い選手たちが挑み,そして鶴田が肝臓病のためにセミリタイアした後に,三沢,川田,田上,小橋がしのぎを削ったいわゆる四天王の時代,さらにそこに秋山がトップグループに加わっていった時代のことです。
 しかしこの最良の時代というのは,そもそもは思わぬ形で全日本プロレスに訪れました。直接の契機となったのは1990年の春。SWSという新団体の設立でした。これはメガネスーパーが資本を出した,それまでの日本のプロレス界にはなかった形の団体。メガネスーパーは,やはりこの頃に人気の最高潮を迎えていた分裂前のUWFの大会の後援などもしていて,そうしたことから今度は自前の団体を作ろうということになったのだと思います。後援していたのがUWFですから,おそらくはそういったスタイルの団体を目指していたのではないかと思うのですが,たぶんそれが思うようにいかなかったのでしょう,天龍に食指を伸ばしました。
 天龍はこの頃は鶴田の最大のライバルで,この頃の全日本プロレスの観客動員という観点からは,おそらく最も力があったのではないかと思います。結果的にそうした選手が引き抜かれる形となってしまったのですから,実はこの最良の時代というのは,最大のピンチの結果として産まれたものだったのです。しかし最大のピンチが最良の時代の原因となり得たことについては,僕はそれは必ずしも偶然であったとは思っていないのです。

 僕自身による日々の血糖値計測の結果からして,今回のHbA1cの悪化の原因に関しては,はっきりとした推測をすることが不可能であったため,インスリンの注射という薬物療法については,何の処置も講じることができなかったのですが,だからといってただ手をこまねいているというわけにもいきません。何しろ次回の通院時に同じような結果が出てしまえば,検査のために入院しなければなりません。実際のところ,何年かに1度は入院して,じっくりと検査をしてみるということは,僕自身としては糖尿病と長く共生していくためには,むしろよいことではないだろうかという考えがないわけでもないのですが,現状で僕が入院するということなれば,家族の生活にいくつかの難点が生じることは間違いありません。確かに母は回復してきてはいますが,食料品などの買い物は現時点でも僕が引き受けていますし,妹を病院に連れて行くなどというのも僕の役回りになっています。今から2ヶ月が経過すれば母もさらに回復してくるかもしれませんが,それは確約されているというわけでもありません。ですから現時点では僕自身としても,あまり入院はしたくないという気持ちの方が強いのです。そもそも僕が入院すれば,母は以前のように見舞いに来るということさえ困難でしょう。一昨年の正月に僕が入院した当時は,母も運転ができましたから,何の問題もなくみなと赤十字病院まで来られましたが,今は運転ができないからです。
 糖尿病の療法というのは,薬物療法,運動療法,そして食餌療法の三本立て。このうち,薬物療法に関しては主治医であるМ先生の指示がない限り僕が勝手にどうかすることはできません。いい換えれば僕にできることがあるとすれば,食餌療法と運動療法に関係するようなことであるということになります。食事とか運動というのは日々の生活態度に大きく関係するものですから,それはいわば生活の改善ということができるのではないでしょうか。HbA1cというのは過去1ヶ月から2ヶ月程度の血糖値のコントロールの良否を示す値。そして僕の次の通院までの期間はそれまでと同様に約2ヶ月。したがってこの生活改善によって,次回の検査の結果もまた改善するということは,可能性としていうならば大いにあり得るわけです。そこで入院を回避するために,できる限りのことはしてみるということにしました。
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報知グランプリカップ&その他の結果

2011-02-23 18:47:51 | 地方競馬
 来月のダイオライト記念のトライアルに指定されているグランプリカップ
 主張してヴァイタルシーズの逃げ。ディアーウィッシュが2番手でマーク。注目のキングバンブーは5番手あたりからの追走。最初の800mは49秒5でミドルペース。
 3コーナーを回るとディアーウィッシュがヴァイタルシーズに並び掛け,さらにキングバンブーも外を追い上げて3頭が横並びで直線に入って叩き合い。まずディアーウィッシュが脱落し,さらにヴァイタルシーズも一杯に。悠々と抜け出したキングバンブーが2馬身半まで差を広げて優勝。勝ち馬より2頭ほど後ろに位置していたイーグルショウがゴール直前でヴァイタルシーズを捕まえて2着。逃げ粘ったヴァイタルシーズが3着。
 優勝したキングバンブーはJRA3勝で昨年11月に南関東に転入。その後はA2下のレースを連勝してここに挑戦。まだ斤量面では恩恵があったものの,これだけの快勝ですから,今後も活躍が見込めるだろうと思います。父はキングヘイロー
 騎乗した大井の御神本訓史[みかもとのりふみ]騎手はロジータ記念以来の南関東重賞制覇。管理している船橋の矢野義幸調教師とともにグランプリカップ初勝利となっています。

 それでは2月7日の通院時のほかの検査結果について,少し記しておきます。
 まず体重ですが,これは家での僕自身の計測で49㎏でした。昨年の夏に一時的に落ちましたが,それ以降はほとんど変動なくきているということになります。体質から難しいとはいえ,僕自身とすればもっと増えてほしいところなのですが,なかなか思うようにはいきません。あるいはこのくらいが上限になりつつあるのかなという気がしています。
 この体重と関係しているといわれているのが尿クレアチニンですが,これは10㎎/㎗でした。前回は100㎎/㎗までいったわけですが,また下限値のぎりぎりまで下がってしまったことになります。もともと筋肉質ではありませんから,あまり高くなることは望めないところではありますが,やはりここまで落ちてしまうのはやや気になる点ではあります。
 一方,糖定性はこの日も-でした。前回の検査のときに説明しましたが,尿糖の有無というのは,その時点での血糖値の方がむしろ影響するのではないかと思います。実はこのときは血糖値の方も172㎎/㎗で,正常よりははっきりと高め。これくらいの値ですと尿糖が出るか出ないかの境界線に近いのですが,このときの僕の場合は出ていなかったということになります。ちなみに朝食前の血糖値は自宅での自分の計測で136㎎/㎗でした。これも正常の範囲よりは高く,とくに朝食前は最も正常な値の出やすい時間であると考えるなら高いのですが,尿糖が出るほどの高さではありません。この日は検査にはまったく時間が掛からなかったわけですが,病院に行くということ自体がある程度のストレスにはなるわけで,尿糖が出ていなかったのには,こうしたことが影響していたのかもしれません。
 僕の検査項目としてオーダーされている内容のうち,ほかには気になるものはこの日もありませんでした。つまり異常はまったく認められなかったということになります。
 診察の方はいつもより遅く開始されましたし,診察内容自体も,HbA1cの悪化ということがあったため,いつも以上にМ先生と話していました。この日も帰りに薬局に寄ってインスリンと注射針を受け取ってから家に戻ったわけですが,午後5時を回っていました。こういうことがあるので,12月の通院のときは,妹のショートステイをお願いしておいたのです。
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高松記念&処置

2011-02-22 19:04:05 | 競輪
 直前の欠場などもあり,S級S班は2名の参加となった高松記念の決勝。並びは村上-浜口の近畿中部,三宅-井上-香川の中四国,吉本-加倉の福岡で,佐々木と武井は単騎。
 前受けは三宅。4番手に吉本で6番手に村上,武井,佐々木と続いて周回。打鐘前のバックで吉本が動き,三宅を叩いて前に。村上が内から,武井が外から番手を狙いにいくような形となりましたがここは加倉が確保。武井との争いを制して3番手に入った村上がバックから発進。武井と絡んだ浜口が離れたので単騎となりましたが問題なく捲りきり,そのまま後ろを寄せつけずに優勝。吉本の番手から出た加倉が2着。後方からの捲り追い込みとなった三宅が3着。
 優勝した京都の村上義弘選手は昨春の共同通信社杯以来のグレード制覇で記念競輪は約1年前の向日町記念以来となる節目の20勝目。自身はグレード制覇から遠ざかっていたわけですが,ずっと近畿を牽引していて,ここは明らかに力量上位の組み合わせでしたので順当な優勝といえるでしょう。自分が優勝できるかどうかは別に,今年も間違いなく中心選手として活躍するだろうと思います。
                         

 いくら考えてもはっきりとした原因を特定することはできませんが,HbA1cの悪化という結果が出た以上は,それに対して何らかの処置をする必要があることはいうまでもありません。もっとも,処置といっても,僕は薬物療法としてはインスリンの注射をしているだけで,それ以外の飲み薬などを用いているわけではありませんから,方法というのもごく限られたものになります。もちろんそれは,注射するインスリンの量を増やすということなのですが,今回の場合は,そうした方法を施すのにも困難な面がありました。というのは,血糖値の推移というものに,はっきりとした傾向が認められなかったからです。
 すでに説明してありますように,僕の場合は日に3度の食事の前に超速効型のインスリンを注射し,夕食前に持続効果型のインスリンも合わせて打っていました。打つ量に関しては変動がありましたが,この強化インスリン療法にはずっと変化はありません。そこで,たとえば昨年の冬のように,朝食前の血糖値が,睡眠前の血糖値に比べて下がらなくなっているという傾向があるなら,持続効果型のインスリンを増量すればよいということになります。あるいは,これも僕には経験がありましたが,昼食前の血糖値がほかの時間帯に比べて高いということであれば,朝食前の超速効型のインスリンの注射量を増やせばいいということになります。しかし今回のように,はっきりとした傾向が出ていない場合には,インスリンの増量自体は必須であるとしても,どの時間帯のインスリンをどれだけ増やせばよいのかということが分からないのです。
 ということで,今回はインスリンの増量はせず,次の診察までの経過をさらに注意深く観察していくということに落ち着きました。要するに治療としては何の処置も講じないということです。HbA1cが高ければ,合併症を生じる可能性は高まりますが,血糖値が高いということだけで,それが緊急に生命に関わるということはありませんので,こうすることになったのです。もちろんこれは,この時点で,ほかの検査に関しては特段の異常が発生していなかったから可能なことでした。
 次回の通院は4月4日。このときの検査で状況が改善していなければ,詳しく検査するために入院することになりそうです。もしもそれ以降,このブログの更新が停止することがあったなら,入院したのだとお考えください。
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フェブラリーステークス&最大の要因

2011-02-20 18:44:53 | 中央競馬
 例年に比べるとややメンバーが小粒かなという印象があったフェブラリーステークス
 やや押していってトランセンドの逃げ。外のマチカネニホンバレがほとんど差なく続き,ダイシンオレンジ,メイショウタメトモ,セイクリムズンがその後ろの集団を形成。前半の800mは47秒9。今日はどういう理由からか時計が掛かっていまして,これでもミドルペース。
 前の2頭が並んで直線に入り,一旦は後ろとの差を広げる形に。直線半ばではマチカネニホンバレが一杯となり,あとは抜け出したトランセンドが逃げ切って優勝。先行集団の後ろから追ってきたバーディバーディがマチカネニホンバレを交わして2番手に上がりましたが,出足がつかずに後方待機となったフリオーソが瞠目の末脚でさらに交わして2着。バーディバーディが3着。ほぼ現状の力通りと思える決着になりました。
 優勝したトランセンドは年末のジャパンカップダートに続いて大レース連勝。フリオーソを除けば実力上位。ここはフリオーソに対して地の利がありましたので,いってみれば順当な優勝。逃げて結果を残し続けていますので,そうでない展開となった場合にどうかというのが最大の課題といえるでしょう。祖母の兄に重賞2勝のサクラサニーオー,母の従兄に北九州記念を勝ったダンディコマンド。Transcendは超越する。
 騎乗した藤田伸二騎手,管理している安田隆行調教師は揃ってジャパンカップダート以来の大レース優勝で,フェブラリーステークス初勝利です。
                         

 僕のインスリンの分泌が今回のHbA1cの悪化の原因でないとするなら,それはほかに求められなければなりません。そこでこの間のことに思いをいたすなら,僕の生活の状況が変化したということはひとつ上げられそうです。もちろんそれは直接的には,母が退院してきたことによるものです。
 たとえば,僕は母が入院してから,というか家で母が寝込んでからは家事の一切を自分でやっていました。家事というのは意外と大きな労力を要します。その労力が糖尿病の療法のひとつである運動療法として作用していたということは,まったく考えられないことではありません。したがってそれから解放されることによって,そうした作用がもたらされなくなったために血糖値が高くなったということは,可能性としては否定できません。ただ,それは母の入院前の僕の生活に戻ったともいえるわけで,これだけを今回の悪化の原因とするにはやはり少しばかり無理があるように感じられます。
 それから熱量の過剰摂取。血糖値は食事の量ではなく,そこに含まれる熱量によって上昇しますから,一般的に糖尿病患者の血糖値が上昇する場合には,これがまず第一の原因として考えられるところです。そしてこれに関しては,やはり思いいたる部分もあります。というのは,母の入院中は僕は自分で食事を作っていました。母の退院後,朝食と昼食は別ですが,夕食はほぼ母が作るようになりました。で,どちらが美味であるかといいますと,どうしても母が作るものの方が美味いのです。美味ければそれだけ食べたくなるというのはごく自然な感情の発露です。よってこの間は,久しぶりに食する母の手料理を,少しばかり食べ過ぎてしまうということもなかったわけではありません。しかも僕も糖尿病という病気との共生に慣れてきていたという面もあり,一昨年の正月に退院してきた後の頃のように,しっかりと食べ物を計量しなくなってもいました。さらにいうならこの間は正月を挟んでいまして,ちょっとぐうたらしていた時期があったというのも事実。こうしたことの積み重ねによって,今回のHbA1cの値が悪化してしまったということは,大いに考えられます。実際に正月前後の血糖値は,全般に高い水準で推移してもいました。そして今から考えますと,やはりこのことが今回の悪化の最大の要因になっていたのではないかと思われます。
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王将戦&原因の探求

2011-02-19 19:25:30 | 将棋
 久保利明王将の故郷である兵庫県加古川市での対局となった第60期王将戦七番勝負第四局。
 久保王将の先手で三間飛車石田流。豊島将之六段は左美濃からの持久戦を志向しましたが先手が早々に銀を繰り出して仕掛けていきました。後手も堂々と応戦したので1日目から戦いに。あまり差のつかないねじり合いが長く続いたというのが僕の印象です。
                         
 後手はここで△1六歩と取り込んでいきました。先手は手筋の▲1四歩。後手が△同香と応じたので▲1五歩と叩き,△同香に▲1四飛と打ちました。以下,△2六歩▲同歩△4四角に▲1五飛と香車を取り,△2七歩▲同銀△5三角に▲1六飛で歩も取って第2図。
                         
 後手玉は盤面左側に逃げ出せる形になったものの,1筋は先手に明け渡すことに。ここで△3一玉と早逃げせざるを得ない分,後手が苦しそうだと感じました。この後,後手も110手目の△4四角や122手目の△2五銀など,勝負手を繰り返して頑張りましたが,最後は一手の差を生かす形で先手が押し切っています。ただ,全体としては最終盤での後手の頑張りの方が強く印象に残りました。
 久保王将が3勝目で防衛に王手。第四局は来月8日と9日です。

 僕はスピノザ主義者であろうとする人間ですから,スピノザ哲学の基本中の基本であるともいえる第一部公理三のことは常にといっていいくらい念頭にあります。したがって,今回のHbA1Cの悪化ということについても,その原因を探求してみたくなりますし,また探求せずにはいられないのです。もちろんこの悪化というのは,あくまでも結果なのであって,この結果から原因を分析していくという行為は,スピノザ哲学がその方法論として認可する演繹法とは対極にある帰納法的思考です。しかし一方でこの定理が示しているのは,HbA1cの悪化というのは必然的に生じたことであり,ある何らかの原因によって必然的にもたらされたということでもあるのです。
 まず考えられるのは,糖尿病というのはインスリンの分泌が影響する病気ですから,そこに今までにはなかったような新たな事態が生じたということです。僕はⅠ型糖尿病ではありますが,インスリンの分泌は皆無というわけではなく,基礎分泌として現在でもいくらかは分泌されていると考えられます。そこでその分泌される量というものが,この間にさらに減少したとすれば,当然ながら血液中の糖分はそれだけ細胞内に吸収されにくくなりますので,血糖値は高くなり,結果的にHbA1cの値も高くなるでしょう。
 しかし今回の場合,これは原因として考えにくい面があります。というのは,前年の冬にやはりHbA1cの値が悪化したとき,その原因は上述したようなことであったと考えられます。しかるにそのときは,朝の血糖値というのがそれまでよりもはっきりと高い水準で推移したという結果が得られていました。そこでもしも今回も同じようなことが原因で数値が悪化したのだとすれば,やはり日々の血糖値の測定の結果として,同じような結果が得られるであろうと予測されます。原因が同一ならば結果も同一にならなければならないからです。ところが今回は,朝の血糖値というのが高いという日もあるにはあったのですが,昨冬ほどのはっきりとした傾向としてそうであったとはいえません。むしろ今回は,血糖値の変化としては,あるときに突如として高くなり,その状態が少しばかり続いたら,また穏やかになるという繰り返しのような状況であり,昨冬とはここのところがはっきりと異なっていたからです。
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マイナビ女子オープン&HbA1cの悪化

2011-02-17 19:00:09 | 将棋
 第4期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は石橋幸緒女流四段が9勝,上田初美女流二段が4勝で,千日手が1局。
 振駒で上田二段の先手。オーソドックスな四間飛車模様でしたが,石橋四段の飯島流引き角戦法をみて向飛車に。後手の作戦からこれは持久戦になりやすく,相銀冠に。先手から仕掛ける形になって,それがうまく戦機を捕えていたようでやや優位に進んでいったように感じられます。
                         
 駒の損得はありませんが龍と飛車の差,また駒の働きの差で苦しそうな後手が△5四歩と突き出したところ。先手は▲6三歩成△同馬を利かせて▲6四銀と進出。△8一馬に▲7四歩と取り込み△同飛▲7五銀。△7一飛に▲7四歩と垂らしました。そこで後手が△5五歩と馬筋を通したのに▲同龍。△6三桂が両取りですが▲6五龍△7五桂に▲7三歩成。△8七桂不成はちょっと驚きましたが▲7ニ歩と打ち△5一飛には攻防の▲5四桂(第2図)。
                         
 この間,先手は銀損となりましたが,馬と飛車を共に抑え込みました。駒損でも駒の効率がよければ構わないというのは振飛車にはよくある考え方。実際にこの局面はすでに大差となってしまっているように思えます。この後,先手はと金を2枚作って寄せていく着実な攻め。馬付きの先手玉が堅いこともあり,最終盤の戦いに至らぬまま後手の投了となりました。
 上田二段が2度めのタイトル挑戦者に。甲斐智美女王との五番勝負は年度が改まった4月5日に開幕します。

 週末を挟んで2月7日の月曜が,僕のみなと赤十字病院の通院の日でした。
 いつもと同様,まずは正午から採尿と採血の検査でしたが,この日はガラガラでびっくりしました。採血は中央検査室というところで行うわけですが,この中央検査室というのは,僕が受診した経験がある眼科,総合内科,耳鼻咽喉科とは異なりまして,通路から入ったやや奥まったところに専用の待合所というのがあります。しかし,非常に混雑しているときというのは,この待合所の中だけでは検査を待つ患者や付添いの人が入りきらず,廊下にパイプ椅子が用意され,そちらで待たなければならないというケースもあるのです。ところがこの日は,待合所の中にひとりの患者も待機していませんでした。僕はいつも採尿をしてから採血をすることにしていますので,この日もその順番でやったのですが,中央検査室の脇にあるトイレで採尿を終えて出てくると,すでに僕の採血の順番を示す番号が点灯した後でした。
 というわけでこの日は最も順調に採血を終えて一旦は帰宅。昼食を摂り,諸々の用意をしてから再びみなと赤十字病院へ。診察を受ける患者のすべてが採尿や採血をするわけではありませんが,さすがに検査があれだけすいていたなら診察の方も早く終るのではないかと予想していたのですが,あにはからんやこちらの方は普段以上に患者が多く,午後3時の予約で実際に診察が開始されたのは3時40分くらいでした。
 ここで重大な結果が待ち受けていました。ここ最近はずっと7%前後で推移していたヘモグロビンA1cの値が7.9%と,かなり悪化していたのです。М先生は僕が診察室に入るなり,この中間の体調はどうでしたかという主旨のことを尋ねてきたのですが,この質問はこの結果を受けてのものだったのでしょう。
 昨年の冬場,朝の血糖値が高い水準で続いたということがありました。そのときもヘモグロビンA1cは悪化していたのですが,それは当然ながら僕も予期していました。だからそのときは即入院という覚悟もして診察を受けに行ったわけです。今回の場合,血糖値が高いということもあるにはあったのですが,昨年のときのようにはっきりとした傾向でそうであったという感じではなかったので,この結果は僕にとっては完全に予想外のものでした。
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東京中日スポーツ賞金盃&墓参り

2011-02-16 18:55:56 | 地方競馬
 関東地方も先週末から降雪があるなど不順な天候となりましたが,今日の第55回金盃は不良馬場ではありましたが幸いにも好天の下でのレースになりました。
 先手を主張する馬がなく,抑えきれないといった感じでマズルブラストの逃げになりました。ツルオカオウジ,グラストップガンがほとんど離れずに追走。スーパーパワーはこれまでより前の5番手前後,ボンネビルレコードは例によって後方から。前半の1000mは60秒1で,一応はハイペースの部類でしょう。
 先行勢ではツルオカオウジが最も頑張り,タートルベイがこれに並び掛けて直線。これらの外に出てきたスーパーパワーが一気に伸びると内の各馬を交わして抜け出し優勝。中団に構えていたシーズザゴールドもよく伸び,迫ったものの2着。勝ち馬と前後する位置から馬場の中ほどに出したフリートアドミラルが3着。
 優勝したスーパーパワーは12月の勝島王冠に続いて南関東重賞2勝目。あのときの勝利は驚きで,まだ半信半疑ではありましたが,東京大賞典でもそこそこ走り,力が付いていることを示しました。今日は今までと違った横綱相撲のようなレースをしての優勝で,斤量では恵まれていたとはいえ,南関東のこの路線ではトップに近づいてきたと考えてよさそうです。曾祖母の産駒に1987年のニュージーランドトロフィーを勝ったユーワジェームス,孫には1998年に秋の中山大障害を制したビクトリーアップ
 騎乗した大井の真島大輔騎手は勝島王冠以来の南関東重賞制覇。管理している鷹見浩調教師とともに金盃初勝利です。

 月が変わって2月4日。父の最期は去年の8月4日でしたから,この日でちょうど半年。節目ということで墓参りに行くことにしました。僕にとっては母の異変が生じた10月8日以来のことになります。
 父の墓ですが,港南区にある日野公園墓地という非常に広大な墓地の一角にあります。自動車はこの墓地の中まで入ることができるのですが,そうでない場合には敷地が大きいということもあってある程度は歩かなければなりません。僕の家から最も歩かずに行く方法としては,まずバスで上大岡まで出て,そこでバスを乗り継ぎ鎌倉街道沿いにある日野公園墓地入口という停留所で降りるというのが最善手でしょう。墓地入口といっても,実際には入口というのはいくつかあって,この停留所の入口からですと父の墓は少し遠くになります。とはいえもしも母が一緒であればそう行くところでしたが,この日は僕ひとり。なので時間もあるし運動も兼ねて少し散歩でもしてみようということで,磯子区の汐見台というところまでバスで出て,そこからは歩きました。土地の名称から分かるかもしれませんが,この汐見台というのは少し上ったところにあります。ここから墓地まで行くのには,一旦は上ってきた坂を下って,また上っていくということになります。どれくらいの時間が掛かるかあまり理解していなかったのですが,予期していたより汐見台から墓地は近く,上り下りは大変でしたが,30分程度で着くことができました。
 持っていったのは線香とペットボトル。ペットボトルは水を汲むためのものです。墓地には水道がありましたから,空のもので大丈夫でした。本当はいつも寄っている茶屋がありまして,ここに家紋も入った専用の桶というのがあったのですが,この茶屋の場所が,いつも入っている,というのはこの日も入った入口ですが,その近く。帰りは汐見台までは歩かずに反対方向になる鎌倉街道の方に出てバスを乗り継ぐつもりでいましたので,この桶を借りてしまうと返すのがとても面倒なことになります。なのでこの日はペットボトルで代用したのです。場合によっては花も持っていこうかと思っていましたが,やはり歩くとなりますと邪魔になりますので,途中で買っていったものを供えました。
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ユニバーサル杯女流名人位戦&整体

2011-02-15 19:09:14 | 将棋
 里見香奈女流名人に3連勝での防衛を許しては,清水市代女流六段にとっては今後の棋士人生にも影響しそう。個人的にはかなりの大勝負だと思っていた第37期女流名人位戦五番勝負第三局。
 里見名人の先手で角道を止めるオーソドックスな三間飛車。清水六段が天守閣美濃,先手が銀冠という戦型。まだ十分に玉を固め合う前の段階で後手から仕掛け,これ自体はうまくいきましたが,先手が遊び駒を自陣に引きつけるなどして粘り,終盤は大混戦になりました。
                        
 この香車は取ると先手の負けなので厳しい手。▲5九桂と受けたのですが,結果的にこれが勝利を引き寄せる一着になりました。単に△3三香と受ければまだ難しかったようですが,時間のなかった後手は△2七香成▲同玉に△5八龍と切り,▲同金に△3九馬で寄せを目指しました。
                        
 しかしこれには▲4四馬と取って先手玉が上部に逃げられる形に。△同歩は仕方ないですがそこで▲3三銀以下の即詰みが発生していて先手の勝ち。難しい競り合いから一瞬にして抜け出したという印象でした。
 里見女流名人が3連勝で防衛。これは本格的な里見時代に突入したと考えてよいのではないでしょうか。

 伯母は1月16日にロサンゼルスに帰国。ただ,まだはっきりとした日付は決まっていませんが,来月中旬にはまた様子を見に来日する予定でいます。祖母は特別養護老人ホームに入所しましたが,母はそうそう行くことはできませんし,叔父も仕事の関係で週末だけ。伯母としては母のこともそうですが,そちらの方も心配なのだと思います。
 1月18日にバスの定期券をまた延長しました。持参人方式ですから母が妹を送っていくときにも使えますし,元が取れるのかどうかは微妙な部分もあるのですが,やはりこれはあった方が便利だからということで,更新したのです。
                         
 1月26日には妹のみなと赤十字病院の歯科の予約が入っていました。事前に母と話したところ,病院に連れて行くということにはまだ不安があるとのことでしたので,これは僕が一緒に行きました。この日は実は僕も仕事があったのですが,前日に前倒しし,午後の予定を開けておきました。予約は午後3時。みなと赤十字病院の前まで行くバスの時間の都合もあり,2時20分頃に妹を作業所に迎えに行き,そのまま病院に直行しました。
 この日から,それまでの歯科衛生士が産休に入ったので新しい人に。妹の診察時には僕も診察室に入ってその様子を見守ることになっていますが,僕の見た感じだけでいえば,むしろこの日から新しく担当になった衛生士の方が,妹には合っているように感じられました。医師の診察の方に関してはこの日も進展はなし。ただ,衛生士による歯石の除去は,この日で一通りは完了したとのことで,次回,というのは実は日付でいえば今日なのですが,新しい診療となる,歯ではなく歯茎の治療に入ることになりました。
 母ですが,この間,整体に通うようになりました。О眼科I歯科の入っているビルには整体医もありまして,そこに行っています。これはJR根岸線の根岸駅のすぐ近くですが,妹を送っていくときには根岸駅のバスターミナルでバスを乗り継ぎますので,その帰りに思い立って行ってみたのが最初。入院中はリハビリのときに療法士がストレッチなどもやってくれていたそうですが,退院後はそれもなくなり,身体が硬くなっていたようです。行けば少し楽になると本人は言っていますので,おそらくは今後も通うことになるでしょう。
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静岡記念&自転車

2011-02-14 18:38:32 | 競輪
 配分は前々から決定していたのですが,結果的に東西王者が揃って参戦となった静岡記念の決勝。並びは岩本-海老根の千葉に内村,五十嵐-渡辺で別線の南関東,川村-村上-浜口の近畿中部で園田は単騎。
 五十嵐がSを取っての前受け。3番手に川村,園田を挟んで7番手から岩本で周回。残り2周のホーム前から岩本が上昇。ホームでは川村に蓋をしてバックで五十嵐を叩いて先頭に。五十嵐は内村を捌いて3番手に入りました。ここから川村が叩きに出ましたが,五十嵐にうまく牽制され,外に浮く形となり万事休す。後方からだれも動けぬままバックでは五十嵐が発進。渡辺を連れて捲りきると直線も寄せ付けずに優勝。流れ込んだ渡辺が2着で海老根が3着。
 優勝した神奈川の五十嵐力選手はこれが記念競輪初優勝。内村をどかし,川村を失速させてのものですから,内容的にも満点。このところ地元の自力を連れて優勝を引き出すレースが続いていましたが,裏を返せば決勝には乗っていたということでもあり,そこでやるべき仕事をきちんと続けた結果として花が咲いたといえるのではないでしょうか。海老根も松戸では五十嵐に優勝させてもらっていて,牽制はしにくかっただろうと思います。デビュー以来,着実に実力をつけてきた感があり,こういうタイプはわりと長持ちする印象がありますから,記念を勝つチャンスはまたあるでしょうし,さらに力をつけてビッグで活躍する可能性も残した選手だと思います。
 このブログは2006年3月開始。約5年で初めて神奈川の選手のグレード制覇をエントリーできました。横浜在住の僕としても感慨深いものがあります。

 母の退院後の初の通院と重なった1月13日は別でしたが,基本的に僕は妹を作業所まで送っていくという必要はなくなっていました。また,家事全般も母がこなすようになりましたから,母の入院中に比べると,家族の生活のために僕自身がやらなければならないことというのはぐんと減りました。唯一残ったのが買い物。母は,たとえば妹を送っていった帰りなどに,簡単な買い物を済ませることもありましたし,これは伯母との外出の際などにも同様でした。ただ,やはりあまり重い荷物を持つというわけにはいきませんでしたから,食料などはほとんど僕が買いに行かなければならなかったわけです。もちろん入院する前は買い物も母がやっていたわけですが,当時は自動車で買い物に行っていましたから,負担というのはあまりありませんでした。現在は運転に関してはドクターストップがかかっている状態なので,そういうわけにはいかないのです。あるいは母はもう自動車の運転というのはできないかもしれません。
 母の入院中の食料というのは,僕と妹の2人分。母が退院してからは当然ながら母の分も必要になってきますので,量はそれだけ増えます。そういうわけで現在も僕は2日に1度はスーパーに行っていますが,量が増えればそれだけ重くなりますから,それまでとは違って,自転車を使うようになりました。僕は自転車には以前はよく乗っていて,WINS横浜へ往復などもしていたのですが,ある時期を境にまったく乗らなくなりました。父は広報などの配布の際には僕の自転車を利用することがありましたが,それができなくなってからは使っていません。それでも自転車自体は捨てずに置いてありましたので,それを出してきたわけです。ほとんど手入れをしていませんでしたから,本当は新しいのを買った方がよかったのですが,使えないというわけでもなかったので,現在はそれを使っています。ギアが壊れていて,最も重いものしか入らなくなっていますので,漕ぎ出しなどは少し大変ですが,坂を登らなければならないというわけでもありませんので,当分はこれを使い続けることになるでしょう。鍵も壊れていて,あまり状態のいいものではありませんから盗まれる心配は無用かもしれませんが,念のために14日に量販店で買ってきました。また,リフォーム後は自転車を室内に置くことが不可能になっていて,吹きさらし。この時期の横浜はまったく降雨がありませんでしたが,そのときのためにと自転車カバーも今月の3日に同じ量販店で買っています。
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朝日杯将棋オープン&検査結果

2011-02-12 19:02:36 | 将棋
 今年も応募はしたものの残念ながら落選。2年連続での現地観戦とはならなかった第4回朝日杯将棋オープン決勝。午前中の準決勝をくぐりぬけて勝ち進んだのは羽生善治名人と木村一基八段。対戦成績は羽生名人が20勝,木村八段が7勝で,千日手が1局。
 振駒で木村八段の先手。羽生名人の2手目△8四歩で角換りに。相腰掛銀ですが後手が9筋の位を取らせる代償に先攻するという工夫。中盤も面白い将棋でしたが,終盤まで白熱の攻防が続きました。
                         
 ここまでの手順の流れでいけばここは▲3四歩と取り込みたかったところと思うのですが,それだと△8五桂が厳しいよう。ということで▲8二飛と攻防に打ちました。ここから攻め合いとなりましたが,先手は飛車が動くと自玉が詰むという変化が多く,かなり制約のある形。よってこの攻め合いは後手に分があるかと思われたのですが,第2図に進み,先手が非常にうまく打開しました。
                         
 ここでまず▲2七桂と打って逃げ道を封鎖。詰めろではないので△9四歩ですがそこで▲3六桂と王手するのが妙手。これは△同馬でただなのですが,その瞬間,先手玉の詰めろが消えていて▲1一龍が生じました。後手は先手玉を詰ませるほかありませんので王手で迫りましたが詰まず,先手の勝ちとなっています。
 木村八段が優勝。今期は嘘のような不振に陥っていて,A級からも降級の危機にありますが,実力者に違いはなく,帳尻はあったという感じがします。

 母の通院もやることは僕と同じで検査と診察。その検査の内容ですが,脳のCTの撮影と,採血による検査のふたつだったようです。10時の予約で,各々の検査を済ませ,主治医であるN先生の診察を終えて伯母と帰宅したのが正午過ぎくらい。時間的に考えると,ひどく待たされるということはなかったのではないかと思います。
 検査の結果ですが,小脳出血に関しては何も問題はありませんでした。ただ肝機能に障害があると言われたようです。ただそのように言われただけで,何がどのように悪いのかは説明がなかったようですし,僕の通院のときのように,何が検査の内容としてオーダーされて,その結果がどうであったかを示す用紙ももらえなかったとのことなので,詳しいことは不明。ただ,肝機能は採血の検査によって判定されるのでしょうから,おそらくはASTやALTの値が正常の範囲外であったのではないかと思います。実は肝機能障害は僕も指摘されたことがあり,一般的な原因としては,飲酒と激しい運動というのがあげられるわけですが,母は飲酒というのは一切しません。これは僕が子どもの頃からそうでした。一方,激しい運動ということになると,少なくともこの時点での状況からすれば,やろうと思ってもできないことであるといえますから,これらふたつのうちのどちらかが原因となっているというようには,僕がそれをМ先生に指摘されたときと同様に,考えづらいのではないかと思います。ただ,この1月13日の時点では,そう指摘されたということ以上のことは何もありませんでした。つまり経過を観察するということだったのだろうと思います。しかし今月の10日,つまり一昨日ですが,その検査の時点でも,肝機能にはやはり前回と同様に障害が出ていたということで,これを13日,つまり来週の火曜日に詳しく検査をするということになりました。
 したがって,先月13日の時点では,肝機能に関する薬剤は処方されず,引き続いて血圧降下剤が処方されただけでした。これは処方箋でしたから薬局に行く必要があり,この日の午後のうちに僕が受け取ってきました。母はそれまでは継続的に薬を処方されたという経験がなく,お薬手帳は持っていませんでしたので,同時にそれももらいました。
                         
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佐賀記念&母の通院

2011-02-11 18:57:28 | 地方競馬
 佐賀競馬場における冬の大一番,佐賀記念(動画)。
 セレスハントの逃げも考えられましたが,おそらく距離も考慮して控えたので,メテオロロジストの逃げに。アドマイヤスバルが2番手でセレスハントが3番手。ただ,1周目の正面からマカニビスティーが動いていき,向正面ではセレスハントを交わし,アドマイヤスバルよりも少し前に出ました。ペースは超スローだったと思われます。
 3コーナーを過ぎてまたアドマイヤスバルが内からマカニビスティーを抜き返し,4頭が雁行状態で直線に。アドマイヤスバルも追いすがりましたがメテオロロジストを捕えるには至らず,逃げ切ったメテオロロジストがレコードタイムで優勝。アドマイヤスバルが2着。一杯になったマカニビスティーを捕えたセレスハントが3着。
 優勝したメテオロロジストは前走で準オープンを卒業し,ここが重賞初挑戦。まだキャリア9戦目ですから,上積みは見込めるでしょうが,自分のレースができないと脆い面も残していて,展開面は今後も課題となるかもしれません。馬名は気象学者。
 騎乗した武豊騎手は1999年,2003年,2007年,昨年と勝っていて佐賀記念連覇で実に5勝目。管理している池江泰寿調教師は初勝利です。
                         

 相続手続き依頼書の漏らしてしまった部分を埋め,4枚目の全部事項証明を合わせて地方銀行に簡易書留で再送付したのが1月18日。今度は何の問題もなく,27日付で洋光台と大礒,それぞれの支店の残高が振り込まれていました。よってこの地方銀行の相続に関してはこれで終了となったわけです。なお,信用金庫の相続の際には,戸籍謄本だけが返却され,僕と母,妹の3人分の印鑑証明に関しては返却してもらえなかったのですが,この地方銀行の相続完了後には,父の4枚の戸籍謄本だけではなく,相続人3人分の印鑑証明も同時に郵送で返却してもらえました。ただし,口座の相続の際に必要となる印鑑証明というのは,期限がある場合があるようですので,返却してもらってまた再使用するという場合には,その点での注意が必要かと思います。
 再来日した伯母は年を越して日本に滞在していましたので,年が明けてからも朝の妹の作業所までの送りはずっとお願いしていました。前回の来日のときのように,友人に会ったり旅行に出かけたりすることもありましたが,その場合には母がひとりで送っていました。ということで,僕は今年に入ってからはほとんど作業所に行かなくなりました。ただ,1月13日に関しては僕が送っています。
 実はこの日は,母の退院後の初の通院の日だったのです。このとき,母はまだひとりで磯子中央病院まで出掛けることは不安だったようで,前夜に僕が尋ねてみたところ,一緒に来てほしいという返事でした。診察は午前10時から。ただ,どのくらいの時間が掛かるか僕には分かりませんでしたので,できれば病院には伯母に一緒に行ってもらって,僕は妹を作業所に送っていくことにしたいと答えたのです。伯母もそれで了承しましたので,そうすることになりました。妹は週に3日は作業所による新しい支援,朝の迎えのサービスを継続していましたが,これが月曜,水曜,金曜。母の通院は木曜なので,それに適合しなかったのです。それでもこの日の午前中は僕も大丈夫でしたので,何とかなりました。なお,厳密にいうと,この日は餅つき大会というのがあったようで,僕が送っていったのは作業所ではなく,少し先にある施設の方でした。
 母が通院で付き添いを必要としたのはこの日だけ。今月は昨日が通院日でしたが,これはひとりで行っています。
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王将戦&全部事項証明

2011-02-10 18:49:10 | 将棋
 久保利明王将,豊島将之六段の順に1勝ずつを上げ,シリーズのキーポイントになる可能性もある第60期王将戦七番勝負第三局
 先手は豊島六段。久保王将のごきげん中飛車に③▲4八銀から速攻。角交換から先手が馬を作り,後手が角打ちからそれを消すと,再びその角を先手が打って馬を拵え,後手も角を打ち込んで香得を果たすという展開で初日から乱戦に。久保王将の封じ手に▲6四馬と出たのが第1図。
                         
 後手はここで△3五歩と突き,▲同歩に△1八馬と引きました。△1七馬で一歩を入手し,△3六歩と打って駒得をさらに拡大しようという狙い。ただ,乱戦においてはあまりにゆっくりしているような印象もあり,少しばかり意外に感じました。実戦は第2図へと進展。
                         
 ここで後手は狙いの△3六歩を実現させました。先手は▲4二銀と打っていき△同飛▲同馬△3七歩成。▲5三歩成△同歩と捨てて▲5二歩の垂らしで攻め合いですが,結果的に3七にできたと金が5八の金を取る展開となり,部分的には後手が成功を収めました。このあたりは,第1図付近での久保王将の大局観が光ったといえそうです。
 その後,後手が受けに回ったのでやや混戦模様になったようです。先手にもチャンスはあったかもしれませんが,おそらく攻め急ぎがあり,最後は1七の馬も使える形となり後手の勝ちになりました。
 久保王将が2勝1敗とひとつリードしました。第四局は来週18日と19日です。

 こうしたわけでこの3通を僕は地方銀行に送付しました。しかし父の戸籍謄本は実際にはそれだけでもなかったのです。1994年に法務省令第51号附則第2条第1項というのが出ていまして,父の場合は2008年にまた戸籍が改製されていました。これも法務省令というのですから,おそらくはすべての国民が対象になっているのではないでしょうか。父の場合,この省令が出された日付と実際に戸籍が改製されている日付との間にずいぶんと開きがあるような印象を受けますが,1994年以前に産まれた人に関しては,やはり婚姻の有無とは関係なしに,2通の戸籍謄本があるかもしれないと考えておいた方がよいかもしれません。そしてこの4枚目が父が死んだ時点での全部事項証明で,僕が送付し忘れてしまったものでした。
 ではなぜ僕がこれを送付し忘れてしまったのか。もちろんそれは単純なミスではあるのですが,理由がいっかなないというわけでもないのです。実はこの最新の全部事項証明というのは,それまでの3通の戸籍謄本とは,書式からして違います。非常に単純なことをいっても,それまでの3枚は縦書きであるのに対し,4枚目は横書きです。また,それ以前の戸籍謄本は,氏名や本籍などに関してはすべて手書きであるのですが,最新の全部事項証明はそのすべてが印字されたもの,いわゆる電子文字なのです。ですから,一見しただけでは,4枚目の全部事項証明と,それまでの3枚とは,同じ戸籍謄本という書類であるとは分からないと思います。僕が最新のものを送付し忘れた理由はまさにこれ。信用金庫の手続きのとき,父の戸籍謄本は確か4枚あったような気がしていたのですが,あまりに書式が違いすぎて,最新のものが4枚目であると気付かなかったのです。
 なお,役所で戸籍謄本の入手を依頼すると,たぶん最新の全部事項証明の1枚だけが渡されます。この場合のように,だれかの産まれてから死ぬまでのすべての戸籍謄本を入手しなければならないという場合には,おそらく戸籍謄本とは別の申請書,あるいは申請書自体は同一でも,戸籍謄本あるいは全部事項証明というのとは異なった,その種の申請のための欄があると思いますので,そちらで申請するように注意する必要があるかと思います。
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ユングフラウ賞&戸籍謄本

2011-02-09 19:09:39 | 地方競馬
 3着の馬までに桜花賞の優先出走権が付与される第3回ユングフラウ賞
 先手を奪ったのは最内のダブルタイム。クラーベセクレタは2番手につけ,これをマークしたのがマツリバヤシ。最初の600mは38秒2と,スローペースになりました。
 ダブルタイムは3コーナー手前で一杯。自然とクラーベセクレタが先頭に出てマツリバヤシがその外。ここからはこの2頭のマッチレースのようになりましたが,直線入口でマツリバヤシの手応えが怪しくなり,独走となったクラーベセクレタが5馬身離して圧勝。マツリバヤシが2着。5番手から追い上げたマルヒロブライティが3着できわめて堅い決着。
 優勝したクラーベセクレタは年末の東京2歳優駿牝馬に続いて南関東重賞連勝。初の左回りというのが最大の課題でしたが問題なくこなし,このまま順調にいけば桜花賞も勝てそうです。母の父はタイキシャトル。馬名はスペイン語で秘密の鍵。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は先月は川崎記念を勝っています。このレースは南関東重賞になって今年で3回目。管理している船橋の川島正行調教師とともに初勝利です。

 被相続人である父の,産まれてから死ぬまでのすべての戸籍謄本が必要であるということは,少額相続でない限り,すべての口座の遺産相続で同一です。したがって前年のうちに済ませておいた信用金庫の口座の相続も同じでしたから,その点は僕自身もよく認識できていました。そして父の戸籍謄本は,信用金庫から返却されていたので,僕はそれをそのまま地方銀行にも送付したつもりになっていたのです。よって大事なのは,父の戸籍謄本というのが,合計で何通あったのかということになります。
 一般的に,結婚して新たに家庭を構えると,戸籍も新たに編製されます。親の遺産を相続するという場合,親が結婚したことがあるというケースが圧倒的多数と思われますので,大方の場合は最低でも2通の戸籍謄本が必要であるということになります。僕のの場合,母と結婚してからは,離婚することなく死を迎えましたので,結婚前と結婚後の,2通の戸籍謄本がありました。これ以外に戸籍を新しく編製するような理由は父の生涯のうちには生じなかったので,この点では2通あればよいということになります。
 しかし実際にはこれだけではありませんでした。父は1944年に産まれ,1969年に結婚しているのですが,その間の1957年に,法務省令第27号というのがあり,父の場合は1963年に戸籍が新編製されていました。省令というのですからこれはたぶん全国民を対象にしたものであったろうと思われます。もしもそうであるなら,この省令が発布された1957年よりも前に産まれた人に関しては,婚姻の有無とは関係なく,最低でも2通の戸籍謄本があるということになるのではないかと思いますし,少なくともそう考えておいた方がいいのではないかと思います。
 戸籍謄本は地方銀行に送付した後,やはり郵便で返却してもらいましたので,現時点でもすべてが僕の手元にあるのですが,この1枚目と2枚目,すなわち1957年の省令以前のものと省令後のものは,その間に結婚した何人かの父の姉たちの名前が最初から削除されている点を除くと,どこにはっきりとした相違があるのか僕には不明です。1957年の省令というのがどのような内容で,どんな意図をもって出されたのかは僕には分からないのですが,少なくとも父の戸籍という点では,その意図とは無関係のところにあったのではないかと思われます。
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