スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&ふたつめの理由

2019-07-31 19:45:20 | 将棋
 昨日から札幌で指されていた第60期王位戦七番勝負第二局。
 木村一基九段の先手で相掛かり。先手が7筋の歩を掠め取る展開に。ゆっくりしていると歩得の先手が有利になるので後手の豊島将之王位から攻めることに。厳密には無理攻めだったようですが,すべての駒を使って攻めるのを先手はすべて受けきらなくてはいかなかったので,先手の方が勝ちやすいという将棋ではなかったように思います。
                                        
 後手が5筋の歩を突いた局面。これは後手の角が直射してくるのを避けた手です。
 後手は☖2五歩☗同桂☖同桂☗同銀で桂馬を交換。そこで☖5五角と出ました。
 ここは☗6六桂と受ける手もあったようですが強く☗6六銀と上がりました。先手はここでは有利であるとは思っていなかったようです。後手は☖4五桂と打ちました。
 ここで☗6七玉と上がったのですが,これは☖5七桂成☗同銀で角取りが消え,☖2七歩☗4八飛☖4四角☗7六桂☖8二飛☗3四銀☖2六角☗6八飛☖5九角成と進んで食い破られることに。
                                        
 第2図は後手が有利になっているようです。先手は☗6七玉のときに☗5五銀と取ってしまい,☖7八歩成☗同玉☖5七桂成☗7六角と進める順があり,少なくともこちらの方が強く☗6六銀と上がった手を生かせたと思えます。
 豊島王位が連勝。第三局は来月8日と9日です。

 最高の満足は第二種の認識cognitio secundi generisから発生する自己満足acquiescentia in se ipsoではなく,第三種の認識cognitio tertii generisから発生する自己満足であると僕が考えるもうひとつの理由は,スピノザによる第四部定理五二第五部定理二七の論証Demonstratioの方法にあります。僕は徳virtusと満足は異なった概念notioでなければならないと考えるのですが,スピノザは満足を徳から規定しようとしています。そしてもし満足がスピノザのいうように規定されるとしても,最高の満足は第三種の認識から生じる自己満足でなければならないと僕は考えるのです。
 第五部定理二七は,第四部定理二八第五部定理二五を論拠としていました。ですからここではスピノザは満足を徳と等置しているというべきで,満足を徳から考えようとしていることはそれ自体で明らかでしょう。
 一方,第四部定理五二の論拠は第三部定義二第三部定理三でした。ですから一見するとここではスピノザは満足を十全性,原因の十全性と観念の十全性という,一定の関連をもつ十全性から規定しているとみえるかもしれません。ですが僕の考えでは,この論証方法も,満足を徳と関連付けている論証方法なのです。
 第三部定理三で精神の能動Mentis actionesといわれるのは,精神が働くagereことを意味します。このことは同じ定理Propositioで能動に比較されている受動passionesについて考えれば分かりやすいでしょう。というのは,どんな事物であっても,受動という状態になるのは外部の事物によって働きを受けるpatiからです。つまり,事物が働きを受けるならそれがその事物の受動なのですから,能動とはその事物が働くことにほかなりません。よって精神の能動というのは,精神が十全な原因causa adaequataとして働く力のことにほかなりません。そして第四部定義八から明らかなように,スピノザはこの力のことを徳といっているのです。よって精神の能動と精神の徳は何ら変わるところはありません。実際にこの定義Definitioは人間についていわれる徳について,人間が十全な原因としてあることをなす力のことであるといっていると理解できます。つまり第三部定理三というのは,その時点では徳という語句は用いられてこそいないものの,人間にとっての徳である能動と,徳であるとはいえない受動について語っているのです。
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思惟する力と働く力&ひとつめの理由

2019-07-30 19:11:07 | 哲学
 スピノザが書簡六十四書簡六十六でいっていることは,区別distinguereのあり方,とりわけ思惟の属性Cogitationis attributumの様態modiである観念ideaの区別のあり方についてであると僕は解します。同時にこのことは,第二部定理七系でスピノザがいっていることと関係すると僕は考えます。スピノザはこの系Corollariumで,神が思惟する力Dei cogitandi potentiaは神が働く力agendi potentiaと等しいといっています。この力が等しいということをどのような意味として解せばよいのかということが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対するふたつの書簡から明瞭になっていると思うのです。
                                        
 第一部定義六から,神は無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性essentiamを構成されます。このうち思惟する力というのは思惟の属性から発生する,あるいは思惟の属性そのもののことです。したがって思惟以外の属性から発生する力,あるいは思惟以外のすべての属性はその各々が働く力そのものです。このとき思惟する力は,思惟の属性以外のすべての属性に対して全体的に対応するのではなく,思惟以外の属性の各々に対して個別に対応するのです。つまり,神のうちにAという属性があり,このAの属性という働く力に対してAの属性を思惟する力が対応し,Aとは実在的に区別されるBの属性という働く力に対しては,Bの属性を思惟する力が,Aの属性を思惟する力とは別に対応するのです。このようにして,各々の属性の働く力に対して,各々のつまり個別の思惟する力が対応します。したがって,Aの属性を思惟する力とBの属性を思惟する力は,同じように思惟する力ではあっても,同じ力とみられるべきではなく,別の力とみられるべきなのです。別の力とみられるべきであるということは,区別される力とみるべきであるという意味であり,Aの属性を思惟する力とBの属性を思惟する力の区別は,これでみれば分かるように実在的区別です。このようにして思惟する力とは,無限に多くの属性の各々の働く力に対応する,実在的に区別される個別の思惟する力の集積のことです。
 A,B,Cというように,働く力は無限に多くの記号によって区分できます。これと同じように,思惟A,思惟B,思惟Cというように,思惟する力も無限に多くの記号によって区分できるいうイメージで理解した方がよいのだろうと僕は考えます。

 第二種の認識cognitio secundi generisから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoと,第三種の認識cognitio tertii generisから生じる自己満足の,どちらが僕たちの精神mensをより大なる完全性perfectioへと移行させるか,いい換えるなら,僕たちの精神がより小なる完全性からより大なる完全性へと移行するとき,移行transitioの度合がより大きいのは第二種の認識から生じる自己満足かそれとも第三種の認識から生じる自己満足かといえば,第三種の認識から生じる自己満足であると僕は考えます。これが第五部定理二七第四部定理五二が矛盾しているとみられる限り,正しいのは第五部定理二七の方であると僕が考えるひとつめの理由です。
 なぜそのように考えるのかといえば,それは第二種の認識の原因causaと第三種の認識の原因の相違にあります。どちらの認識も,僕たちの精神が十全な原因causa adaequataとなることによって発生する認識であるという点は同じなのですが,第二種の認識の場合はひとつの観念ideaとしてみられる僕たちの精神を構成している観念を原因としているのに対し,第三種の認識の場合はひとつの観念とみられる限りでの僕たちの精神そのものを原因としていました。したがって,各々の認識から生じる自己満足が含む,僕たちの精神の働きactioの範囲というのは,第二種の認識についてはひとつの観念としてみられる僕たちの精神に対して限定的あるいは部分的であることになりますが,第三種の認識から生じる自己満足の場合には,ひとつの観念としてみられる限りでの僕たちの精神に対して全面的あるいは全体的です。したがって,もしその他の条件がすべて等しいのであれば,自分の精神が部分的にあるいは限定的に働いているということを観想するcontemplari,この場合には十全に観想する場合よりも,自分の精神が全面的にあるいは全体的に働いていると観想する,同様に十全に観想する場合の方が,より小なる完全性からより大なる完全性へと移行する度合いは大きくなる筈だと僕は考えるのです。したがって,一般的には第二種の認識から生じる自己満足よりも,第三種の認識から生じる自己満足の方が,より大きな度合で僕たちを小なる完全性から大なる完全性へと移行させるでしょう。なので最高の満足は,第三種の認識から生じる自己満足だと僕は考えます。
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ふるさとカップ&僕の結論

2019-07-29 19:18:11 | 競輪
 昨日の弥彦記念の決勝。並びは小林-諸橋-藤原の上越,松井-渡辺-岡村の南関東,清水-山田の西国で柴崎は単騎。
 激しい取り合いになったスタートを制したのは渡辺で松井の前受け。4番手に小林,7番手に清水,最後尾に柴崎で周回。残り3周のバックの中間から清水が上昇開始。柴崎も続きました。コーナーで松井に並ぶとそのまま併走。ホームに入って誘導が退避すると清水が松井を叩いて前に出ました。バックから小林が発進。清水を叩いて打鐘。引いた松井がすぐに反撃。ホームで小林を叩いてかまし先行に。ただ渡辺は少し離れてしまい,追い掛けようとしたところで諸橋の牽制を受けて失速。離れた2番手に小林で諸橋,藤原と続く隊列に。諸橋は最終コーナーから踏み込み,松井を差し切って優勝。松井が半車身差の2着に粘り,諸橋マークの藤原が小林と諸橋の間に進路を取って4分の1車輪差で3着。
 優勝した新潟の諸橋愛選手は昨年の弥彦記念以来の記念競輪7勝目。弥彦記念は一昨年も制していて三連覇となる3勝目。このレースは清水の脚力が上位ですが,地元勢を引き連れた小林は先行意欲が高そうな上,南関東で連携した松井と渡辺はそれぞれがS級で水準以上の力量があるので,清水にとって楽なレースにはならないだろうと予想されました。強いレースをしたのは松井で,単騎での逃げになりながらも2着に粘り込むことに。もし渡辺がしっかりとマークしていれば,松井と渡辺の直線勝負になっていた可能性が高かったように思います。諸橋は前とはやや離れた3番手ではありましたが,あのくらいの位置からであれば単騎逃げの選手を差すのには問題なかったようです。

 第四部定理五二第五部定理二七が矛盾しているという識者の見解opinioを僕は知りません。ですから僕の結論は,独自の判断であると理解してください。
                                   
 僕はもし僕たちに最高の満足があるとすれば,それは第三種の認識cognitio tertii generisによって生じる自己満足acquiescentia in se ipsoであると考えます。したがって,第五部定理二七の方が正しく,第四部定理五二は,誤っているとはいわないまでも,正確さを欠いていると考えます。理由はふたつあるのですが,ひとつは各々の認識が僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなって発生するといわれるときの,原因の相違です。すでにみたように,僕たちの精神はそれ自体がいくつかの観念ideaによって組織されているひとつの観念とみることができるのですが,第二種の認識cognitio secundi generisの場合は,精神がひとつの観念としてみられたときに,それを構成しているある観念が十全な原因となっているのに対し,第三種の認識の場合は,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神そのものが十全な原因となっているのでした。
 第三部諸感情の定義二五から明らかなように,自己満足はみっつの基本感情affectus primariiのうち喜びlaetitiaの一種です。第三部諸感情の定義二から,喜びは僕たちがより小なる完全性perfectioからより大なる完全性に移行するときに発生します。この場合は認識について比較しているので,僕たちの精神がより小なる完全性からより大なる完全性に移行するときに発生するのです。したがって最高の満足というのは,僕たちの完全性をより小なる状態からより大なる状態へと最高に移行させる自己満足でなければならないということになります。
 なおここでは,最高の満足が自己満足,とりわけ能動的な自己満足であるということは前提とします。いい換えれば能動的な自己満足以上に,僕たちをより小なる完全性からより大なる完全性へと移行させる満足はないということを前提とします。このことは第四部定理五二でも第五部定理二七でもスピノザが同様に証明していることなので,これを前提から外すことはできません。同時にスピノザはそれを証明しているのですから,確かに能動的な自己満足よりも僕たちの精神をより小なる完全性からより大なる完全性へと移行させる満足は実際にないのです。
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キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークス&自己満足の発生

2019-07-28 19:05:11 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にイギリスのアスコット競馬場で行われたキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークスGⅠ芝1マイル3フィート211ヤード。
 シュヴァルグランは後ろから3頭目という位置取りに。ヨーロッパの長距離レースにしてはやや長めの隊列でした。最初のコーナーで内に入り,直線の入口では内から2頭目となりましたが,位置取りはそのまま。直線は伸びるというほどではありませんでしたがばてるといったこともなく,流れ込むような形で勝ち馬から概ね13馬身差の6着でした。
 このレースは直線に入るとフィニッシュまで競り合いを演じた上位2頭が,世界最強クラスの2頭。そうした馬たちを相手にヨーロッパに遠征してのレースでは,勝ち負けをするのは厳しいだろうと思えました。とはいえここまで離されるほどの実力差があるというようには思えませんので,雨が降って悪くなった馬場状態の影響も受けたのだろうと推測されます。それでもこの着差ですから,仮に良い馬場状態でレースができたとしても,上位入線は難しかったのではないでしょうか。強い馬が長く競り合うという,とても内容が濃いレースでした。

 第二種の認識cognitio secundi generisからも第三種の認識cognitio tertii generisからも自己満足acquiescentia in se ipsoが発生する,発生し得ることは間違いありません。第三部諸感情の定義二五から明らかなように,僕たちは僕たち自身の働く力agendi potentiaを観想するcontemplariなら,混乱してであれ十全にであれそれを観想しさえすれば,自己満足を感じます。このとき,働くというのは能動actioを意味します。第二種の認識も第三種の認識も,僕たちの精神mensを十全な原因causa adaequataとして発生します。よって第三部定義二によりどちらも精神の能動actio Mentisです。そして第二部定理四三から,僕たちは精神の能動によって何かを認識するcognoscereとき,精神の能動によって自分が何かを認識したことを同時に知ります。よって僕たちに精神の能動が発生すれば,僕たちは僕たち自身の働く力を観想する,この場合には十全に認識することになります。したがって第二種の認識からも第三種の認識からも,自己満足は発生する,少なくとも発生し得ることになります。
                                   
 第四部定理五二第五部定理二七がいっているのは,この種の満足が僕たちにとっての最高の満足であるということです。ですからこれは繰り返しになりますが,僕たちが僕たち自身の働く力を十全に認識することによって生じる喜びlaetitiaすなわち自己満足が,僕たちにとっての最高の満足であるということを前提とすれば,第二種の認識によって生じる自己満足も第三種の認識による自己満足も,同じように最高の満足といえるでしょう。いい換えればこれらふたつの定理Propositioは両立し得るでしょう。ですがすでにいったように,スピノザは第二種の認識と第三種の認識については,それが必ず最高の徳virtusであるのかそれとも必ず徳ではあり得ても最高の徳ではない場合もあるのかということによってだけ分節しているわけではなく,原因causaの相違によっても分節しているのです。なので僕はふたつの定理は矛盾しているという解釈を採用します。
 では,もしも僕たちに最高の満足というものがあるとすれば,それは第二種の認識によって発生する自己満足なのでしょうかそれとも第三種の認識によって発生する自己満足なのでしょうか。他面からいえば,僕が矛盾していると判断する第四部定理五二と第五部定理二七は,どちらが正しいのでしょうか。
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怜子③&原因の相違

2019-07-27 18:47:39 | 歌・小説
 「怜子」の二番では,怜子に惚れた「あいつ」のことが歌われます。

                                   

     怜子 みちがえるようになって
     あいつにでも 本気で
     惚れることがあるんだね


 1行目は怜子のことを歌っているともいえ,これは②の続きと受け取ることもできます。ですがこの部分の主題はそれに続く部分にあります。つまり怜子が見違えるようになったのは,あいつに本気で惚れられたからだと歌い手はみているのです。なおかつ,あいつにも本気で惚れることがあるのだ,といっているのですから,歌い手はあいつのこれまでのことをよく知っていたということになります。

     怜子 あいつは誰と居ても
     淋しそうな男だった
     おまえとならば あうんだね

 ここからも歌い手があいつのことを以前から知っていたことが分かります。そして,あいつは寂しそうだったと歌っていることから,今は寂しそうにはしていないということも分かります。つまり歌い手からみると,見違えるようになったのは怜子だけでなく,あいつも同じだったのです。

 第二種の認識cognitio secundi generisは共通概念notiones communesによる認識です。僕たちが共通概念に基づいて何かを認識するcognoscereとすれば,僕たちの精神mensのうちに共通概念があって,この共通概念が原因causaとなって僕たちの精神のうちに何らかの観念ideaが発生するのです。共通概念は第二部定理三八第二部定理三九の様式を通して僕たちの精神のうちに発生します。よって共通概念は十全な思惟の様態cogitandi modiです。そこで共通概念を原因として何らかの観念が僕たちの精神のうちに発生するなら,第二部定理四〇によってそれも十全な観念idea adaequataであることになります。したがって,共通概念は僕たちの精神そのものではなく,僕たちの精神のうちにある十全な思惟の様態です。他面からいえば,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神を原因としているのではなく,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神の一部を構成している思惟の様態を,十全な思惟の様態を原因として発生するのです。ですから第二種の認識が僕たちにとって精神の能動actio Mentisである,いい換えれば僕たちが第二種の認識によって何事かを認識するとき,僕たちの精神が十全な原因causa adaequataであるといわれる場合,これはひとつの観念としての僕たちの精神が十全な原因であることを必ずしも意味するわけではなく,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神の一部を構成している思惟の様態が十全な原因であるという意味です。
 これに対して,第三種の認識cognitio tertii generisの場合は,第五部定理三一から明瞭なように,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神そのものを形相的原因formali causaとして有します。ですからこの場合に僕たちの精神が第三種の認識の十全な原因であるといわれる場合は,僕たちの精神の一部を構成している思惟の様態が十全な原因となっているということを意味するのではなく,それ自体でひとつの観念としてみられる僕たちの精神が十全な原因となっているという意味なのです。僕たちは僕たちの精神すなわち自分の精神を十全に認識することはできないので,これは不思議に思われるかもしれませんが,僕たちの精神がひとつの観念としてみられるなら,その十全な観念があるということは確かなので,それが十全な原因となって何かを認識したとしても何もおかしくはないのです。
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王座戦&ひとつの観念

2019-07-26 19:15:04 | 将棋
 昨日の第67期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は豊島将之名人が2勝,永瀬拓矢叡王が0勝。
 振駒で永瀬叡王の先手となり相矢倉。後手の豊島名人が積極的に構えました。
                                     
 先手が端歩を突いた局面。ここで☖9四歩と受けたのですが,これが緩手で敗着に近い一手となってしまいました。後手はじっくりと指す駒組にはなっていないので,ここで☖6五歩と仕掛けていかなければならなかったようです。それでよくできたわけではありませんが,悪くなるわけでもないので,仕掛ける価値は十分にあったということになると思います。
 後手が端を受けたので先手から☗3五歩と仕掛けました。☖同歩☗同銀☖同銀☗同角で銀交換。次は☗2四歩があるので☖3三金と受けましたが先手はすぐに☗2二銀と打っていきました。
 後手は☖3四金と上がり☗6八角と引かせてから☖6五歩を決行。しかしすでに遅く☗2一銀成と桂馬を取られました。
 後手は☖6六歩☗同銀☖6五歩☗7七銀と形を決めた上で☖5一王と戦線から遠ざかりましたが☗1一成銀で先手の桂香得に。
                                     
 成銀が働くわけではないので,純粋に桂馬と香車を損したというのとは違うものの,この駒損を補うだけの代償が後手にあるわけではなく,ここでは差が開いてしまっているようです。
 永瀬叡王が挑戦者に。王座戦五番勝負は初出場。第一局は9月2日です。

 現実的に存在する人間の精神mens humanaは,それ自体が思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisです。ところで,第二部公理三でスピノザがいいたかったのは,思惟の様態cogitandi modiとして第一のものは観念ideaであるということでした。したがって,人間の精神というのは有限個ではあったとしてもきわめて多くの観念によって組織されているのですが,そうして組織された精神もまたひとつの観念であるとみられなければなりません。ある観念と別の観念が組み合わさることによってひとつの観念が組織されるということは,もしかしたら分かりにくいかもしれません。ですが,ある物体corpusと別の物体が組み合わさってひとつの物体が組織されるというなら,これはさほど分かりにくくはないでしょう。ごく単純にいえば,コーヒーとミルクが組み合わさってミルクコーヒーが構成されるというような場合です。このとき,第二部定理七系によって,ミルクの観念もコーヒーの観念も,そしてミルクコーヒーの観念も,無限知性intellectus infinitusのうちにあるのです。よってミルクの観念とコーヒーの観念によって組織されたミルクコーヒーの観念は,それ自体がひとつの観念とみなされなければなりません。人間の精神というのもこれと同じように,しかしもっと複雑に構成されている,ひとつの観念であるとみなすことができるのです。実際にスピノザは人間の精神はその人間の身体の観念であるというのですから,人間の身体humanum corpusがきわめて多くの物体によって構成されているとはいえ,それ自体でひとつの物体とみなすことができるように,この身体の観念である精神もまた,きわめて多くの観念によって組織されているとはいっても,やはりひとつの観念であることになるのです。
 このとき,ひとつの観念とみなされる人間の精神が何らかの思惟作用をなすとき,この精神が十全な原因causa adaequataであるといわれる場合には,実はふたつの様式があるのです。そしてこの様式の差異が,そのまま第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisの差異となるのです。
 ひとつは,それ自体でひとつの観念とみなすことができる人間の精神が,十全な原因となって働くagere場合です。もうひとつは,精神というひとつの観念を構成しているある観念が十全な原因となって働く場合です。
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プラチナカップ&精神の形相的有

2019-07-25 19:23:36 | 地方競馬
 第2回プラチナカップ
 ソッサスブレイは出足が悪く2馬身の不利。ノブワイルドとタイセイラナキラの逃げ争いとなり,1コーナー手前で外のタイセイラナキラが譲ってノブワイルドの逃げ。控えたタイセイラナキラが2番手。2馬身差でヒラボクプリンスが3番手。2馬身差でキタサンミカヅキが4番手。さらに2馬身差でジョーオリオン,アンサンブルライフ,ワンパーセント,トキノエクセレントの順で4頭が一団。2馬身差でキングルアウとソッサスブレイ。ミヤジマッキーは大きく離されました。最初の600mは35秒0のハイペース。
 向正面では前の2頭と3番手以下の差がさらに開き,3コーナーを回るとヒラボクプリンスとキタサンミカヅキが並んで前を追い掛けていく形。4コーナー手前で2番手のタイセイラナキラは一杯になり,内からヒラボクプリンスで外からキタサンミカヅキ。逃げたノブワイルドはまだ余力があり,直線でもさして差を詰められることなく楽に逃げ切って優勝。外のキタサンミカヅキが2馬身半差で2着。ヒラボクプリンスは一杯になりましたが何とか粘って2馬身半差の3着。大外から詰め寄ったワンパーセントがアタマ差で4着。
                                   
 優勝したノブワイルドは先週の習志野きらっとスプリントからの連闘で南関東重賞を連勝。純粋な能力ではキタサンミカヅキですが,浦和の1400mでは重賞を勝っている馬なので,互角かそれ以上に戦えてもおかしくはないと思っていました。タイセイラナキラは逃げないと力を発揮できない馬なので,先行争いがどうなるかとみていたのですが,わりと早めに隊列が決まったため,向正面では一旦はペースを落として息を入れることができたのが勝因でしょう。確かに前半のペースは速かったのですが,3番手以降の馬は少し差を広げられ過ぎていたように思います。父はヴァーミリアン。祖母は1987年に金杯を勝ったトチノニシキ
 騎乗した浦和の橋本直哉騎手はデビューから20年3ヶ月で南関東重賞初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞38勝目。プラチナカップは初勝利。

 第二種の認識cognitio secundi generisも第三種の認識cognitio tertii generisも,それを認識するcognoscere人間の精神mens humanaが十全な原因causa adaequataとなっています。すなわち第三部定義二により精神の能動actio Mentisです。ですが,人間の精神が十全な原因であるということの意味は,第二種の認識の場合と第三種の場合とでは相違があるのです。
 まず以下の点に注意してください。第二部定理一五は,人間の精神の形相的有esse formaleはきわめて多くの観念ideaによって組織されているといっています。つまり,たとえばある現実的に存在する人間を任意にひとりだけ抽出したとき,この人間の精神の現実的有actuale esseは,数多くの観念によって構成されているのです。ただし,第二部定理一〇系により,人間の本性essentiaは神Deusのある属性attributumの様態的変状modificatioです。よって任意に抽出されたその人間の精神は,思惟の属性Cogitationis attributumの様態的変状です。なのでその精神がきわめて多くの観念によって組織されているとしても,無限に多くのinfinita観念によって組織されるということはありません。つまり人間の精神の現実的有は,有限個の観念によって組織されていることになります。このことは第二部定理一一系からも明らかだといわねばなりません。
 次に,第二部定義七から分かるように,スピノザはいくつかの個物res singularisによって組織されている単一の個物が存在することを認めます。どんな人間の精神も,きわめて多くのしかし有限個の観念によって組織されているのですが,この精神は第二部定義七の条件に該当します。したがって人間の精神はひとつの個物,思惟の属性の個物であるとみることができます。このことは第二部定理一三からも明らかです。なぜなら人間の精神を構成する観念の対象はその人間の身体humanum corpusなので,その人間の身体がそれ自体でひとつの個物,つまり延長の属性Extensionis attributumの個物である物体corpusであるとみられる限り,第二部定理七からして,人間の精神もひとつの個物であるといわなければならないからです。そして人間の身体が第二部定義七に該当するということは,人間の精神が該当するということより明白でしょう。
 よって,人間の精神は,いかに数多くの観念から組織されているとしても,それ自体が思惟の属性の単一の個物です。いい換えれば,思惟の属性の有限様態であることになります。
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様態的区別&第四部定理五二の論拠

2019-07-24 19:18:29 | 哲学
 第一部定理四における区別distinguereの説明が『エチカ』ではやや不足しているというのが僕の現在の考え方です。つまり属性attributumの相違によって区別される場合が実在的区別で,変状affectioの相違によって区別される場合が様態的区別であるとそのまま解釈しない方がよいと僕は考えています。実在的区別をいかなる区別であると考えるべきなのかということについてはすでに説明しましたから,今度は様態的区別についても説明しておきます。
                                     
 第一部定理四は,説明が不足しているとはいえ,区別がふたつしかないという点は間違いありません。第一部公理一により,それ自身のうちにあるesse in seものすなわち実体substantiaと,ほかのもののうちにあるものすなわち実体の変状substantiae affectio以外には何も存在しないからです。ですから実体の属性の相違によって区別され得ないものは変状の相違によってしか区別することができません。ですから区別が実在的区別と様態的区別しかなければ,実在的に区別できないものは様態的に区別されるほかありません。つまり様態的区別とは,実在的区別に属さない区別のすべてです。
 もしAとBがあって,AとBが同一属性の様態modiである場合,AとBは様態的に区別されます。ただしこれはAとBが区別できることを前提としたものです。あるものと別のものは記号によっては区別することはできません。スピノザの哲学ではこの点は重要です。たとえAとBというように記号として区別されていても,実在的にも様態的にも区別できなければ,単に記号で区別されているにすぎず,AとBは同一のものです。
 ただし,AとBが思惟の様態cogitandi modiである場合は,条件が変わります。第二部公理三により,思惟の様態の第一のものは観念ideaです。このとき,Aの観念の対象ideatumとBの観念の対象が様態的に区別される場合,Aの観念とBの観念は様態的に区別されます。しかしAの観念の対象とBの観念の対象が実在的に区別される場合は,Aの観念とBの観念も実在的に区別されます。つまり観念については,それ自身の変状の相違,すなわち思惟の様態としてすべからく様態的に区別されるわけではなく,観念対象の区別の相違によって様態的にも実在的にも区別されることになるのです。

 第五部定理二七では第五部定理二五とは異なることをスピノザはいおうとしているということより僕にとって気になるのは,第四部定理五二の論拠としてスピノザが据えていることです。
 ここでは第三部定義二第三部定理三が論拠になっていました。すなわち,僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなるときに精神の能動actio Mentisが発生するということと,その精神の能動は十全な観念idea adaequataを原因とするということです。理性ratioによる認識cognitioの基礎は共通概念notiones communesで,共通概念は十全な観念ですから,これを論拠に理性から生じる自己満足acquiescentia in se ipsoが最高の満足であるということを論証することは可能です。しかしそれが可能であれば,第三種の認識cognitio tertii generisについても同じように論証することが可能なのです。
 第三種の認識の形相的原因formali causaは,第五部定理三一において,永遠aeternaである限りにおいての精神であるといわれています。僕たちの精神のうちにはその十全な観念はあることができません。しかしそれは確かに神Deusの中に永遠の相species aeternitatisの下に表現されているということは僕たちは理性によって認識するcognoscereことができます。すなわち現実的に存在する僕たちの精神が,永遠である限りでの精神でもあるということを僕たちは認識します。そしてその精神が第三種の認識の形相的原因であるということは,それ以外の原因を第三種の認識はもたないということであり,この精神が十全な原因であるということを意味します。そしてそれは僕たちが十全には認識できないとしても,神の中では十全な観念であるのです。よって第三種の認識は,僕たちの精神を十全な原因としているので精神の能動であり,かつそれは神の中には確実に表現されている十全な観念から発生していることになるでしょう。ですから,第四部定理五二のような論証によって理性による認識による自己満足が最高の満足であるといわれ得るなら,同じ論拠によって第三種の認識から生じる自己満足も最高の満足であるといわれなければなりません。ですからスピノザは第五部定理二七では,明らかに徳と満足を等置している,本来は等置することができないふたつの概念を等置していると僕は考えますが,第五部定理二七の内容は正しくなければならないと考えます。
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水都大垣杯&最高の満足と最高の徳

2019-07-23 18:55:47 | 競輪
 大垣記念の決勝。並びは平原に佐藤,和田真久留‐和田健太郎の南関東,浅井‐北野の中部,古性‐村上の近畿で宮本は単騎。
 スタートは取り合いの末に浅井が誘導の後ろを確保して前受け。3番手に古性,5番手に和田真久留,7番手に平原,最後尾に宮本で周回。残り3周のバックを過ぎると平原が上昇。佐藤の後ろに和田真久留がスイッチ。宮本は和田健太郎の後ろを追いました。ホームでこの5人の隊列で浅井を叩いて誘導が退避。すぐに和田真久留が上昇して平原を叩くと,宮本も上がって和田真久留の前に。バックでは古性が宮本を叩いて打鐘から先行。3番手に宮本,4番手に和田真久留,6番手に平原,8番手に浅井の一列棒状に。ホームから平原が踏み上げていきましたが,和田真久留と和田健太郎の車間が開いたところに入っていき,内から上昇していく形に。バックに入ると3番手の宮本が発進し,それを平原が追う形に。楽に捲り切った宮本とマークになった平原が3番手以下を引き離してマッチレース。うまく立ち回った宮本が追い込みを封じて優勝。平原が4分の3車身差で2着。古性マークの村上が5車身差で3着に流れ込みました。
 優勝した山口の宮本隼輔選手は前々回出走の佐世保のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは実力では浅井と平原ですが,近況から好調とは思えなかったので,波乱の目も大いにありそうだと思えました。結果的に実力上位のふたりが後ろに置かれる展開に。それでも平原はうまく立ち回って宮本マークというところまではいったのですが,差すまでには至りませんでした。宮本は今年の1月にS級に特別昇級。5月に入って勝ち星を量産し始め,近況の好調さがこの結果に結び付いたという面もあったでしょう。ですがまだ24歳ですから,今後も相当に有望な選手だと思います。

 各々の最高の満足を,スピノザがどの観点から導き出しているかを確認しておきます。
                                   
 第四部定理五二で,理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoが最高の満足であるといわれるときに,スピノザがその根拠にしているのは第三部定義二第三部定理三です。したがって,僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなっているとき,僕たちの精神は働いている,すなわち能動actioという状態にあるということと,この精神の能動は十全な観念idea adaequataから生じるということのふたつです。これについてはすでに検討したことですので,ここではこれ以上の説明はしません。理性による認識cognitioが十全な認識であるということと,それが精神の能動であることが重要であるということだけ押さえておけば十分です。
 第五部定理二七で,第三種の認識cognitio tertii generisから生じる自己満足が最高の満足であるといわれるときは,第四部定理二八第五部定理二五が根拠とされています。したがってここでは,最高の徳virtusは神Deusの認識であるということと,第三種の認識によって個物res singularisを認識するcognoscereほど神を認識するということが根拠になっています。これもすでに検討しましたから多くの説明は要さないでしょう。スピノザはここでは徳を満足と等置しているのです。
 ここから分かるように,もし徳と満足とを明確に分離しようというのであれば,実際に最高の満足について述べているのは第四部定理五二で,第五部定理二七では満足ではなく徳について語られているとみるのが妥当です。これもすでに説明したように,第三種の認識による認識は必ず最高の徳ですが,理性による認識は徳ではあっても最高の徳ではない場合があるので,少なくとも第三種の認識による認識は最高の徳であることは間違いありません。基本的に僕はまずこの考え方をこの考察の出発点に据えます。このために事前に徳と満足との関係を検証しておいたのです。
 ですが,だから第五部定理二七が,最高の満足について語り得ないということにはならないと僕は考えます。というのは,そもそもスピノザは第三種の認識が最高の徳であるということについては第五部定理二五でいっているのですから,ここではそれとは別のことをいわんとしていたことは間違いないからです。
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春までなんぼ&最高の満足

2019-07-22 19:15:35 | 歌・小説
 「生まれた時から」が収録されているのは「はじめまして」というアルバムです。この中に「春までなんぼ」という楽曲も収録されています。
                                   
 この曲は歌い方に特徴があって,それがこの楽曲のよさを際立たせています。つまり,歌詞とメロディーラインだけで評価するのは危険で,どのように歌うべきなのか,すなわち歌唱方法を抜きに評価することは不可能だと僕は思っています。
 それでもここでこの曲について僕が語ろうとするのは,その点を抜きにしても,この楽曲の中には怖さを感じさせるフレーズが含まれているからです。

     いらない鳥を逃がしてあげた
     逃がしてすぐに 野良猫喰べた
     自由の歌が親切顔で
     そういうふうに誰かを喰べる


 籠の中の鳥を自由にしてやろうと逃がしたら,すぐに野良猫に食べられてしまったということですが,そういうふうにだれかを食べる自由の歌がある,それも親切顔で食べてしまうというところに,僕は怖さを感じてしまうのです。
 こういう感覚を受けるフレーズは「吹雪」と「春までなんぼ」のふたつが,僕にとっては代表です。

 第三種の認識cognitio tertii generisは個物res singularisの認識です。そして第五部定理二四によってその認識は神Deumの認識です。ですから第二種の認識cognitio secundi generisは徳virtusではあり,しかし最高の徳であるか否かは認識される対象が神であるか否かによって決定されるのですが,第三種の認識は必ず神の認識なので,それは単なる徳ではなく必ず最高の徳です。一方,第三種の認識も十全な認識ですから,そこから自己満足acquiescentia in se ipsoが発生する場合は,人間の精神mens humanaの能動actioによって自己満足が発生するということになりますから,最高の満足でなければならず,これが第五部定理二七でいわれていることです。したがって,能動的な自己満足が最高の満足であるという視点に立てば,第四部定理五二と第五部定理二七は,ともに正しいことをいっているということはできます。どちらも能動的な自己満足であることに変わりはないからです。
 しかし,スピノザは第二種の認識については共通概念notiones communesを基礎とした認識である,いい換えれば共通概念を原因causaとして僕たちの精神のうちに第二部定理四〇の様式で生じる思惟作用であるといっているのに対し,第三種の認識は第五部定理三一にあるように,僕たちはそれを十全に認識するcognoscereことはできないけれども,神の中には確かにあるということは第二種の認識によって十全に認識することが可能な,永遠aeternaである限りにおける精神を形相的原因formali causaとする認識であるといっているように,ふたつの認識を,単に認識される対象が何であるかということだけで区別しているわけではなく,それらの認識の原因の観点からも区別しているので,第二種の認識から生じる自己満足が最高の満足であるということと,第三種の認識から生じる自己満足が最高の満足であるということが,両立することができるようには僕には思えません。確かに第四部定理五二は単に最高の満足といっていて,これは精神と身体corpusが合一した人間にとっての満足であるのに対し,第五部定理二七は,単に最高の満足とはいっておらず,最高の精神の満足であるといっているので,思惟の属性Cogitationis attributumの様態modiとしてみられる限りでの人間の最高の満足について言及しているといえなくもないのですが,この解釈は強引な解釈ではないかと僕には思えるのです。
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天龍の雑感①&徳と満足②

2019-07-21 19:12:35 | NOAH
 小鹿の雑感は,グレート・小鹿,ザ・グレート・カブキ,天龍源一郎の3人による対談でした。この中では天龍がプロレスラーとしては最も日本では格上なので,多くのインタビュー記事が残されています。今回から,ジャンボ・鶴田に関係するものを紹介していきます。ただしここから書いていくことは,『1964年のジャイアント馬場』で,天龍がSWSに移籍したときの山本の決断の中で触れた,天龍からあたかも利益提供を受けたかのように書かれている記者のうちのひとりによるインタビューが中心です。鶴田は全日本に残り,天龍は離脱したのですから,いくらかのバイアスを掛ける必要はあるかもしれません。
 天龍が鶴田の試合を始めて生で見たのは1976年6月11日。蔵前国技館でのテリー・ファンクとのシングルマッチでした。このとき天龍はまだ関取でしたが,プロレスに転向することはすでに心の中で決まっていて,この試合も馬場夫人の元子さんから誘われたといっています。天龍がプロレスへの転向を考えたとき,最初から全日本に入団することだけを考えていたのかは不明ですが,大きな契機となったのが鶴田であったのは事実のようです。
 天龍は同年の10月15日に全日本プロレスに入団します。その2日後には巡業に合流。バスの座席が決まってなかったときに鶴田が席を譲ってくれ,これが天龍と鶴田のファーストコンタクトでした。当時のふたりは25歳前後。普通の25歳前後の若者がするような雑談をバスの中ではしていて,同年代の仲間という意識があったと天龍は語っています。小鹿やカブキ(当時は高千穂)は年上という雰囲気が出ていてとっつきにくかったそうです。
 この巡業中,受け身の練習中に鶴田にボディスラムで投げられたそうです。その受け身で吐きそうになったというのは天龍のエピソードの中でわりと知られているものだと思いますが,これはカブキが危ないと怒鳴ったそうなので,鶴田の投げ方もまずかったというのが真相のようです。

 第四部定義八は,人間が十全な原因causa adaequataとなって何事かをなすとき,認識cognitioに限定すれば,人間の精神mens humanaが十全な原因となって何事かを認識するcognoscereとき,それは人間にとっての徳virtusであるといっています。第三部定義二から分かるように,これは人間の精神の能動actio Mentisが人間の徳であるといっているのと同じです。そして第三部定理三から,それは十全な観念idea adaequataによって生じます。
                                   
 理性ratioは第二種の認識cognitio secundi generisですから第二部定理四一によって必然的にnecessario真verumすなわち十全adaequatumです。よって理性によって何かを認識するなら,それは人間の徳です。ただし第四部定理二八は,最高の徳は神Deusの認識であるといっていますから,理性による認識が直ちに最高の徳であるわけではありません。理性によって神を認識するならそれは最高の徳ですが,神以外のものを認識するならそれは徳ではあっても最高の徳ではありません。
 第四部定理五二は,自己満足acquiescentia in se ipsoは理性から生じ得るといっています。ですがこれは自己満足が必然的に徳である,最高の徳であるかどうかと関係なく徳であることを意味するわけではありません。理性から生じ得るというのは,理性以外の認識からも生じ得るということを前提としているからです。このことは第三部諸感情の定義二五から明らかであって,僕たちは自己の働く力agendi potentiaを理性によって認識する場合もあるでしょうが,表象imaginatioによって,いい換えれば第一種の認識cognitio primi generisによって認識する場合もあるであろうからです。したがって自己満足は直ちに最高の満足ではあり得ませんし,同時に徳でもあり得ません。もしも僕たちが第一種の認識によって自己満足を感じるのなら,これは先述の第三部定理三により,僕たちが受動passioによって自己満足を感じるならというのと同じ意味ですが,この場合にはそれは最高の満足ではありませんし徳でもありません。しかしもしも僕たちが理性によって自己満足を感じるのなら,それは最高の満足であると同時に徳です。したがって僕たちが理性に従う限りでは,最高の満足は同時に徳です。ただし最高の徳であるかどうかは,理性による認識の対象が神であるか否かによって判断されることになります。そして徳は受動ではあり得ませんが,自己満足は受動でもあり得ます。
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実在的区別&徳と満足

2019-07-20 19:07:59 | 哲学
 書簡六十四書簡六十六のスピノザによるチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対する反駁を,僕は概ね次のように解釈します。
                                        
 チルンハウスは観念ideaと別の観念は,観念対象ideatumの如何に関係なく,様態的に区別されるとみなしています。そのゆえに,第二部定理七備考は正しく,第二部公理五は誤りであると結論するのです。しかし実際には,観念が様態的に区別されるのは観念対象が様態的に区別される場合だけで,もし観念対象が実在的に区別されるのであれば,観念もまた実在的に区別されなければなりません。よって第二部定理七備考と第二部公理五は両立するのです。
 ですからもし『エチカ』の中に不十分な点があるとすれば,それはふたつのあるいは複数の事物の区別distinguereのあり方を示した第一部定理四です。ここにおける実体substantiaの属性attributumの相違による区別と変状affectioの相違による区別についての悦明がやや不足しているのです。
 まずここでは,属性の相違による区別すなわち実在的区別が有している本来の意味を示しておきます。
 もしもAとBが,異なった属性であったり異なった属性に属する様態modiであったりした場合には,AとBは実在的に区別されます。いい換えればAとBの区別は実在的区別です。
 次に,観念は観念対象が何であろうと思惟の様態cogitandi modiではありますが,Aの観念とBの観念の区別が実在的区別でないということはできません。もしAの観念の対象とBの観念の対象が異なった属性であったり異なった属性の様態であったりした場合には,Aの観念とBの観念は実在的に区別されなければならないのです。いい換えればこの場合のAの観念とBの観念の区別は実在的区別です。
 実在的区別には上述のふたつの場合があると僕は解します。

 次に徳virtusと満足とりわけ自己満足acquiescentia in se ipsoは,どの点で重なり合いどこで相違が生じるかを考えていきます。
 第四部定理五二は,理性ratioから生じる自己満足について,最高の満足であるといっていますが,最高の徳であるとはいっていません。僕たちが理性によって神Deusを認識するcognoscereことができることは,第一部定義六において神が定義されているという事実から確かであるといわなければなりません。しかしこの定理Propositioがいおうとしているのは,理性によって僕たちが何かを認識するなら,理性によってそれを認識している自分のことも同時に認識しているから,第三部諸感情の定義二五によって自己満足も必ず生じるのであり,この種の満足以上の満足は僕たちにはあり得ないということなのです。つまりここではその認識cognitioが神の認識を含んでいるかいないかということは眼中に置かれてなく,単に満足という観点からそれが語られているのです。いい換えればこの定理は,理性から生じる自己満足が最高の満足であるといっているのですが,実際には理性によって何かを認識することが最高の満足であるといっているのにほかなりません。自己満足はそれに必ず伴うからです。よって僕たちが理性によって神を認識するのではなく,何か別の事物を認識し,かつその認識のうちに神の認識が含まれているかいないかということと関係なく,それは最高の満足です。
 これに対して第五部定理二五は,単に満足について語ろうとしているのではなく徳について語ろうとしています。よってこちらは第四部定理二八の方から説明される必要があり,どんな認識であれその認識が神の認識を含んでいる必要があるのです。僕たちが第三種の認識cognitio tertii generisによって個物res singularisを認識するときには,論証Demonstratioは必要とされないので,それが最高の徳であるということは僕たちは直ちに理解します。ただし,これは定理なので理性によって証明される必要はあり,そのために第五部定理二四が援用されています。かつ第二部定理四五により,現実的に存在するどんな個物の観念にも神の本性essentiaが含まれていることは明らかであり,個物の認識,十全な認識は第三種の認識なのです。
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人待ち歌&第五部定理二七

2019-07-19 18:54:56 | 歌・小説
 「I love him」や「泣かないで アマテラス」が収録されているのは「10WINGS」というアルバムです。このアルバムは1990年から1994年の夜会の中で歌われたのが9曲,そして夜会のテーマソング1曲の10曲からなっています。僕はどんな楽曲もそれ単独で聴きますが,夜会というのはストーリー仕立てとなっていますから,実際にはこのアルバムに収録されている楽曲を理解するためには,その楽曲がストーリーの中でどのように歌われているのかということまでみておくべきだとはいえます。
                                        
 これら9曲のうち,1993年の夜会で歌われたものは1曲だけで,それがアルバムの最後に収録されている「人待ち歌」という曲です。文字通りに人を待つ歌です。

     来る,来ない,来る,来ない,
     待つ,待たない,待つ,待たない,
     逢う,逢えない,逢う,逢えない,

 これはこの楽曲の最後の方のフレーズです。花占いを連想させます。そしてこの楽曲はそのほとんどが,来る,来ない,と,待つ,待たない,で構成されているきわめてシンプルな歌です。ですが中ほどで以下のフレーズが繰り返されます。

     荒野を越えて 銀河を越えて
     戦さを越えて 必ず逢おう


 ここの部分はとても力強く歌われます。僕はこの部分が好きで,この曲を聴くことがあります。

 第五部定理二七は,次のようにいっています。
 「この第三種の認識から,存在しうる限りの最高の精神の満足(summa Mentis acquiescentia)が生ずる」。
 これはスピノザによる証明Demonstratioと異なるのですが,この定理Propositioは,僕たちが第三種の認識cognitio tertii generisによって何かを認識するcognoscereことがあれば,第二部定理四三により,自分がそれを認識しているということも知るということから明らかだといえます。なぜならそれは他面からいえば,第三種の認識によって何かを認識している自分自身あるいは自分の精神mensを知るという意味なので,第三部諸感情の定義二五により,僕たちはこのときに自己満足Acquiescentia in se ipsoを感じるからです。一方,第四部定理五二では,存在し得る最高の満足は,理性ratioから生じる自己満足であるといわれています。したがって厳密にいうと第四部定理五二と第五部定理二七は矛盾するのですが,自己満足が最高の満足であるという点に留意するなら,僕たちが第三種の認識で何事かを認識する場合に,最高の精神の満足が生じるということ自体は明らかだといえるでしょう。
 矛盾していると思われる部分についても追及しておきましょう。まず徳と満足と至福の関係からです。
 第五部定理四二から分かるように,スピノザは人間にとっての至福beatitudoを徳virtusの報酬としてではなく,徳そのものとみなします。したがって最高の至福というのは最高の徳でなければなりません。では最高の徳とは何かといえば,第四部定理二八で,それは神Deiを認識することであるとスピノザはいっています。第二部定理四七は,僕たちが理性によって神を認識し得るということを明らかに意味し得ます。ですから僕たちが理性によって最高の徳いい換えれば最高の至福に達し得ることは間違いありません。同時にその認識はそれを認識している自分自身の認識でもあるので,第四部定理五二は最高の徳を伴い得ます。
 一方,第五部定理二四は,個物res singularesを認識するほどそれだけ神を多く認識するといっています。僕たちが個物を認識する,十全に認識するのは第二種の認識cognitio secundi generisすなわち理性によってではなく,第三種の認識cognitio tertii generisによってです。スピノザがいう理性の限界というのはその点にあったからです。したがって僕たちは第三種の認識で何かを認識すればするほど神を認識するのです。
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観念と感情&第五部定理三一

2019-07-18 18:58:24 | 哲学
 第三部諸感情の定義一四の安堵securitasを希望spesから生じる喜びlaetitia,第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioを不安metusから生じる悲しみtristitia,第三部諸感情の定義一六の歓喜gaudiumを不安から生じる喜び,第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusを希望から生じる悲しみとみなすと,安堵および絶望と歓喜および落胆の派生のあり方が異なってしまいます。こうした理由もあり,僕はスピノザが第三部諸感情の定義一三説明で,希望と不安を表裏一体の感情affectusといっていることの方を重視し,希望から生じようと不安から生じようと喜びであればそれはどちらも安堵であり,悲しみであればどちらも絶望であるという解釈を採用します。
                                   
 ただしこの場合には,それでは歓喜という感情と落胆という感情をどのような感情としてみるべきなのかという問題が残るでしょう。畠中説の場合には希望が現実化することと不安が回避されること,逆に希望が潰えることと不安が現実化することが別々の事柄とみなされているのに対し,僕の解釈では希望が現実化するときには不安が回避されているのであり,不安が現実化してしまうときには希望が潰えてしまうことになっているからです。
 これを説明するためには,スピノザの感情論あるいは人間の感情のメカニズムというものを綿密に精査していく必要があります。まずその最初の前提だけここでいっておきましょう。
 第二部公理三では,思惟の様態cogitandi modiの第一のものは観念ideaであるといわれています。実際には観念があれば意志作用volitioもあるので,この公理Axiomaの本来の意味は,思惟の様態の第一のものは観念と意志作用であるということになります。一方,第三部定義三から,感情は身体corpusの状態と観念とを同時に意味しますが,思惟の様態としてみられる場合には,観念および意志作用なしにはあることができません。つまり人間の精神mens humanaのうちに感情があるためにはその前に何らかの観念がある必要があります。なお,精神は身体の観念ですから,これは感情が身体の状態を示す場合にも同じです。

 第三種の認識cognitio tertii generisの基礎は,第五部定理二三備考のほかに,第五部定理三一でもっとはっきりとした形で示されています。
 「第三種の認識は,永遠である限りにおいての精神をその形相的原因とする(Tertium cognitionis genus pendet a Mente, tanquam a formali causa, quatenus Mens ipsa aeterna est.)」。
 第五部定理二二では,個々の人間の身体humanum corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神Deusの中にあるといわれていました。スピノザの哲学では,精神mensというのは身体の観念のことを意味します。したがって,人間の身体の現実的本性actualis essentiaを永遠の相の下に表現する観念とは,人間の精神mens humana,それも現実的に存在する人間の精神のことにほかなりません。つまり第五部定理二二は,現実的に存在する個々の人間の精神が,神の中で永遠の相の下に表現されているという意味なのです。このゆえに,第五部定理二三にあるように,人間の身体の現実的存在が破壊されたとしても,人間の精神は完全には破壊され得ず,あるものaliquidが残るといわれ得るのです。
 もっとも,この残るといわれることの意味は,現実的に存在する人間にとって残るという意味であって,現実的に存在する人間の身体の観念,すなわち現実的に存在する人間の精神は,神の中では永遠の相の下に表現されているのですから,奇妙ないい方ですが,神の側からいえば,それが残るというのは不自然であるということになります。
 第五部定理三一がいっているのは,人間からみれば残るといわれ得る根拠となる,神の中で永遠の相の下に表現されている,現実的に存在する人間の身体の観念すなわち人間の精神が,第三種の認識の形相的原因formali causaとなるということです。このように,人間の精神というのは人間の身体の観念であるという点に注意しさえすれば,第五部定理二三備考でいわれていることと第五部定理三一でいわれていることは,事実上は同じことを意味していることが分かると思います。ただ備考Scholiumの方では第三種の認識の何たるかが主眼となっているのに対し,第五部定理三一では第三種の認識の形相的原因が主眼となっているという点で相違があるのです。
 そしてこの第三種の認識が,第五部定理二五では,人間にとっての最高の徳virtusであるといわれていたのでした。こうしたことは別の観点からもいわれています。
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習志野きらっとスプリント&第三種の認識の基礎

2019-07-17 20:40:35 | 地方競馬
 兵庫から2頭,高知から1頭が遠征してきた第9回習志野きらっとスプリント
 一旦は前に出たアピアを内から追い抜いたノブワイルドの逃げとなりました。3番手はロマンコスモで4番手はデイジーカーニバルとクルセイズスピリツ。6番手にコウエイエンブレムとヨンカーとラディヴィナ。9番手がタガノカピートとジョーオリオン。11番手にサトノタイガー,12番手にサクラレグナムとなり,アドマイヤゴッドとキングクリチャンの2頭はやや離されました。最初の400mは22秒3の超ハイペース。
 直線に入ったところで逃げるノブワイルドと並び掛けていったアピアの2頭と3番手の間が開き,優勝争いは2頭。直線の半ばからノブワイルドがアピアを引き離していき,そのまま逃げ切って優勝。大外を伸びたヨンカーが一杯になったアピアに迫りましたが,アピアが2馬身半差で2着を死守。ヨンカーはハナ差で3着。
                              
 優勝したノブワイルドテレ玉杯オーバルスプリント以来の勝利。南関東重賞は初制覇になります。重賞の勝ち馬ですから純粋な競走の力は最上位。課題は距離で,900mに出走した前走のA1戦は3着でした。ただ,前走がよい練習になり,この短距離戦に対応できたという面もあるでしょうし,前走の59キロが今日は57キロになっていたのも有利に作用したのでしょう。アピアは太かったかもしれないので,スプリント能力でも上回ったといっていのかどうかは微妙なところです。父はヴァーミリアン。祖母は1987年に金杯を勝ったトチノニシキ
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は東京プリンセス賞以来の南関東重賞制覇。第6回以来3年ぶりの習志野きらっとスプリント2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞37勝目。習志野きらっとスプリントは初勝利。

 僕たちは自分の身体corpusの現実的存在および現実的本性actualis essentiaについては,第一種の認識cognitio primi generisでしか認識するcognoscereことができません。いい換えれば十全にあるいは同じことですが真に認識することはできません。一方,この認識は第二部定理一九の様式を通して認識されることなので,僕たちは自分の身体が外部の物体corpusによって刺激される限り,この認識を必ず有することになります。しかるに岩波文庫版の旧版の117ページ,新版の140ページにある第二部自然学②要請三は,人間の身体humanum corpusは外部の物体からきわめて多種多様に刺激されるafficiといっています。したがって僕たちは第二部定理一九の様式を通して必ず自分の身体の現実的存在ならびに現実的本性を認識します。いい換えれば僕たちの精神のうちには,自分の身体の現実的存在および現実的本性の混乱した観念idea inadaequataが必ず存在することになります。
 第五部定理二三あるものaliquidといわれているのは,この観念ideaのことであると解するのが妥当です。すなわち僕たちには十全に認識することが不可能な観念なので,それはあるものという,やや曖昧ないい方がなされているのだと僕は考えます。一方,その観念は僕たちは十全には認識することができないのだけれど,確かに神Deusの中で永遠の相species aeternitatisの下に表現されているということは僕たちにも分かる,十全に認識することができるので,あるものといういい方によってそれを記述することができるのだとも僕は考えるのです。
 この観念が第三種の認識cognitio tertii generisの基礎になるということは,第五部定理二三備考から明らかです。ここでは精神の眼Mentis enimが証明demonstrationesそのものであるといわれているのですが,これは他面からいえば,精神の眼というものが存在すればそれ以上の論証は必要ないという意味であり,論証は公理系においては第二種の認識cognitio secundi generisでなされるのですから,論証を必要としない十全な認識があるなら,それが第三種の認識にほかならないからです。つまりこの備考Scholiumのいい方に合わせていうなら,僕たちは自分の身体が現実的に存在していると第一種の認識によって感じまた経験するのと同じように,僕たちの身体の現実的本性の観念が神の中で永遠の相の下に表現されているということを感じまた経験するのです。
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