自己の有に固執するperseverareということがいかなることであるのかということについて,僕の考え方を哲学的な仕方で詳しく説明しておきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/34/4b18a4c69b7b8b185d0654eefd7f1357.jpg)
現実的に存在する人間が自己の有esseに固執するというとき,原則的にはその現実的存在を維持する,すなわち生き永らえようとするコナトゥスconatusを有するということを意味します。おそらくニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはコナトゥスをこのような仕方で理解しました。そしてそれはスピノザとニーチェの対立のひとつを構成しています。ニーチェにとってこのようなコナトゥスは,反動的であるとしか理解できなかったからです。
しかし僕の考えでは,自己の有というのは単に現実的存在だけを意味するのではありません。第一部定理一一の第三の証明の基礎となっているように,存在するということはそれ自体で力potentiaであり,コナトゥスもまた力であるからです。つまり存在existentiaは力と切り離せないのであり,したがって自己の有を維持するということは,自己の力を維持するという意味も有していなければならないと僕は考えます。
スピノザの哲学における力は可能的なものではなくて現実的なものです。いい換えれば現実的になし得ること,あるいはなしていることが力です。よって,それまでになし得ていた事柄をなすことができなくなるというのは明らかに力の喪失ですから,これは自己の有の維持の喪失であるといえるのです。
ここにおいて,自己の現実的存在に固執するということと,自己の力に固執するということは,対立的であり得るのです。すなわち僕の母がそうであったように,化学療法を受けることによって現実的存在は伸ばせるが,副作用の影響でなし得たことがなし得なくなるとすれば,前者は自己の有に固執していますが,後者はそれと逆になるからです。よって人は,自己の力に固執することによって,現実的存在に固執することを放棄するという選択をすることもあり得るのです。
自己の有とはただ存在existentiaそのものを意味するのではありません。その存在に伴った力のことも意味しているのです。
5月21日,月曜日。妹を通所施設に送りました。午後は内分泌科の通院でした。
4月は予約時間間際に病院に到着したところ,わりと早く診察が開始になりましたので,この日は午後2時に病院に着きました。中央検査室で採血を待っている患者はなく,次が僕の番でしたので,すぐ採血。注射針の処理も済ませてから採尿をしました。
早く行ったのですがこの日は3月と同様に待たされ,診察が始まったのは午後4時でした。
HbA1cは7.2%と改善していました。また,サマリーに示された全体の低血糖の割合は1.3%で,こちらは変化がありませんでした。つまり低血糖を多く発症することなくHbA1cは低下したことになり,これはきわめて良好な状態だといえます。HbA1cが高くなっていたために通院の間隔が短くなっていたのですが,次からは従来通りの間隔に戻すことになりました。前回は平均が193.7㎎/㎗ときわめて高かった朝の血糖値が,151.6㎎/㎗まで下がっていまして,この分がHbA1cにも反映されていたと思われます。何か生活の改善を施したというわけではなく,おそらくこれは陽気の影響でしょう。実際に起きたときにとても寒いと,血糖値が高くなるという傾向が僕にはあったからです。主治医も,そのような影響を受ける患者は存在すると言っていました。
この日もトリグラセライドすなわち中性脂肪は46㎎/㎗で,下限値を下回っていました。ただこの数値は前回とほぼ同じであり,3月のように極端に低かったわけではありません。
帰りに薬局に寄りました。この日はインスリンも注射針も足りていました。同時に,あることを伝えられました。
母のワンデュロパッチはこの薬局で処方されました。もし次に同じように何らかの麻薬が病院で処方された場合,薬局に来る前に処方箋をFAXで送ってもらえれば,先に薬を用意しておくことができるというものでした。みなと赤十字病院には処方箋FAXというサービスがあり,そういう窓口があることは何度も通っていたので知っていたのですが,こういう場合に利用するものなのだということは,このときに初めて知りました。
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現実的に存在する人間が自己の有esseに固執するというとき,原則的にはその現実的存在を維持する,すなわち生き永らえようとするコナトゥスconatusを有するということを意味します。おそらくニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはコナトゥスをこのような仕方で理解しました。そしてそれはスピノザとニーチェの対立のひとつを構成しています。ニーチェにとってこのようなコナトゥスは,反動的であるとしか理解できなかったからです。
しかし僕の考えでは,自己の有というのは単に現実的存在だけを意味するのではありません。第一部定理一一の第三の証明の基礎となっているように,存在するということはそれ自体で力potentiaであり,コナトゥスもまた力であるからです。つまり存在existentiaは力と切り離せないのであり,したがって自己の有を維持するということは,自己の力を維持するという意味も有していなければならないと僕は考えます。
スピノザの哲学における力は可能的なものではなくて現実的なものです。いい換えれば現実的になし得ること,あるいはなしていることが力です。よって,それまでになし得ていた事柄をなすことができなくなるというのは明らかに力の喪失ですから,これは自己の有の維持の喪失であるといえるのです。
ここにおいて,自己の現実的存在に固執するということと,自己の力に固執するということは,対立的であり得るのです。すなわち僕の母がそうであったように,化学療法を受けることによって現実的存在は伸ばせるが,副作用の影響でなし得たことがなし得なくなるとすれば,前者は自己の有に固執していますが,後者はそれと逆になるからです。よって人は,自己の力に固執することによって,現実的存在に固執することを放棄するという選択をすることもあり得るのです。
自己の有とはただ存在existentiaそのものを意味するのではありません。その存在に伴った力のことも意味しているのです。
5月21日,月曜日。妹を通所施設に送りました。午後は内分泌科の通院でした。
4月は予約時間間際に病院に到着したところ,わりと早く診察が開始になりましたので,この日は午後2時に病院に着きました。中央検査室で採血を待っている患者はなく,次が僕の番でしたので,すぐ採血。注射針の処理も済ませてから採尿をしました。
早く行ったのですがこの日は3月と同様に待たされ,診察が始まったのは午後4時でした。
HbA1cは7.2%と改善していました。また,サマリーに示された全体の低血糖の割合は1.3%で,こちらは変化がありませんでした。つまり低血糖を多く発症することなくHbA1cは低下したことになり,これはきわめて良好な状態だといえます。HbA1cが高くなっていたために通院の間隔が短くなっていたのですが,次からは従来通りの間隔に戻すことになりました。前回は平均が193.7㎎/㎗ときわめて高かった朝の血糖値が,151.6㎎/㎗まで下がっていまして,この分がHbA1cにも反映されていたと思われます。何か生活の改善を施したというわけではなく,おそらくこれは陽気の影響でしょう。実際に起きたときにとても寒いと,血糖値が高くなるという傾向が僕にはあったからです。主治医も,そのような影響を受ける患者は存在すると言っていました。
この日もトリグラセライドすなわち中性脂肪は46㎎/㎗で,下限値を下回っていました。ただこの数値は前回とほぼ同じであり,3月のように極端に低かったわけではありません。
帰りに薬局に寄りました。この日はインスリンも注射針も足りていました。同時に,あることを伝えられました。
母のワンデュロパッチはこの薬局で処方されました。もし次に同じように何らかの麻薬が病院で処方された場合,薬局に来る前に処方箋をFAXで送ってもらえれば,先に薬を用意しておくことができるというものでした。みなと赤十字病院には処方箋FAXというサービスがあり,そういう窓口があることは何度も通っていたので知っていたのですが,こういう場合に利用するものなのだということは,このときに初めて知りました。