スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
17日に函館競輪場 で行われた第68回オールスター競輪の決勝 。並びは吉田‐佐藤の茨城,脇本‐寺崎‐古性‐南の近畿,太田‐岩津の岡山で松本は単騎。
古性がスタートを取って前受け。5番手に吉田,7番手に松本,8番手に太田で周回。残り3周から上昇していった太田が残り2周のホームで脇本を叩きにいきましたが脇本が突っ張りました。バックで引いた太田が一旦は寺崎の後ろに入ったのですが,古性が外から追い上げていくと太田はインを下がっていき,近畿ラインにスイッチした松本の後ろになって打鐘。そのまま吉田が追い上げていくと太田はさらに引いて8番手。6番手になった吉田がバックから発進。しかし最終コーナーの手前から寺崎が番手捲りを敢行。吉田は南の横あたりで一杯。直線に入ってから古性が寺崎を抜きにいきましたが届かず,寺崎が優勝。マークの古性が1車輪差の2着。南も半車身差の3着に続いて近畿の上位独占。
優勝した福井の寺崎浩平選手は1月の京王閣のFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースの初優勝をGⅠで達成しました。このレースは並びが決まった時点で,年末のグランプリやその後の将来までも見据えて,近畿勢が寺崎に勝たせるようなレースになるだろうと思われました。古性が1番車でしたので前受けをすることができ,その時点で有利になりました。こうなってしまった以上,早い段階で脇本を叩かなければいけなかったのですが,太田が中途半端な走行になってしまい,それもできませんでした。今回は勝たせてもらった格好ですので,これからは自力でのグレードレース制覇が目標になるでしょう。
このようなわけで,『エチカ』だけを論考の対象にするとしても,合倫理性を合理性とだけ関連付ける必要はないと僕は考えます。むしろスピノザの哲学における倫理性というのは,もっと幅広く考察することができるのであって,とくに人間が共同社会状態status civilisにおいて生活を共にするようになるから合倫理的であることに意味があるという点まで考慮するのであれば,自由の人homo liberや賢者viriest sapientisのように能動的であることが合倫理的で,奴隷servusや無知者のように受動的であれば合倫理的ではないとみるべきではなく,むしろ奴隷も無知者も合倫理的ではあり得るのだから,共同社会状態の方が,奴隷や無知者もまた合倫理的であるように導くことが求められているというのが,最も適切な解釈になるのではないでしょうか。
もちろんナドラーSteven Nadlerがそうしているように,合理的であるということ,あるいはスピノザが合理的であるといっていることが,本当に合倫理的であるのかということを追究することはとても意味があることですし,スピノザがいっているような自由の人や賢者という立場,第五部定理四二備考 で稀でありまた困難difficiliaであるといっている立場を,それでもそこを目指していくということも意味があるし,それは立派なことであると僕は思います。ただそこを目指していく際にも,スピノザがそれは稀であり困難であるといっていること,とくにその根拠になるであろう第四部定理三 ,第四部定理四 ,第四部定理四系 といった一連のスピノザの主張に気を留めておくべきなのであって,自身が受動的に振舞うこともあり得るということには,常に留意するべきであると僕は思います。
そして,このようなナドラーの論考は大変に意味があるものではあるのですが,このことを合倫理性と関連付け,そしてこれだけが合倫理性と関連付けることができると考える必要はないと僕は思います。自由の人や賢者というのは常に合倫理的ですから,ナドラーの論考が合倫理性と関連付けられるということは僕も肯定しますが,スピノザの哲学における合倫理性を考察するときに,ナドラーのように考察しなければならないとは僕は考えません。
合倫理性に課する僕の探究はこれだけです。
小倉競輪場 で争われた昨日の吉岡カップの決勝 。並びは原田に嶋津,林慶次郎‐林大悟‐柳詰の福岡に上野で,このラインの番手で櫻井が競り。阪本‐小林の西九州。
上野がスタートを取って林慶次郎の前受け。後ろは内が林大悟で外が櫻井。実質の5番手に原田で7番手が阪本で周回。残り3周のバックの出口から阪本が上昇。ホームで自転車を外に出した林慶次郎が突っ張ると,坂本はすぐに引き,上野の後ろに入りました。原田が実質の7番手でバック。打鐘でも競りは続いていましたが,直後のコーナーで林大悟が櫻井を外に浮かせて番手を死守。ここから林慶次郎との車間を開けました。バックから原田が発進。これをみて林大悟も番手捲りを敢行。直線は林大悟をマークした柳詰がうまく原田も牽制して優勝。外の原田が4分の3車輪差で2着。林大悟と柳詰の間を突いた上野が1車輪差の3着で林大悟は4分の1車輪差で4着。
優勝した福岡の柳詰正宏選手は2月の小倉のFⅠ以来の優勝でグレードレースは初優勝。このレースは地元のラインが手厚く,西九州のふたりがそこの邪魔をすることは考えにくかったので,脚力は上位の原田がそれを粉砕できるかというのが焦点。周回中に中団を確保できたのはよかったのですが,阪本が上昇して下げたとき,上野の後ろに降りられてしまったのが原田の失敗。脚力が上位というところははっきりみせたと思いますが,北九州ラインの厚みには及びませんでした。
稀であるとか困難であるということは,現実的に存在する人間にとってそれが不可能であるということを意味しません。困難であり稀ではあるけれど,それは現実的に存在する人間にとって可能なことであるのですから,自由の人 homo liberといわれ得る人間も賢者viriest sapientisといわれ得る人間も,現実的に存在してきたのだし,また現実的に存在しているといわなければなりません。ただこれは逆にいえば,現実的に存在している人間の大部分は,奴隷servusとしてあるいは無知者として存在してきたのだし,現在も存在しているということが同時に帰結することになります。よってこうした観点から合倫理性を求めるのであれば,稀に合倫理的な人間が出現するということになるだけであって,共同社会状態status civilisそのものが合倫理的であるということはあり得ないことになります。共同社会状態というのは多くの人間によって構成される状態であって,その中の人間のほとんどは,この規準に則する限り合倫理的ではあり得ないことになりますから,その共同社会状態が合倫理的であり得る筈がないからです。
ですから,合倫理性の規準をここに求める場合には,スピノザは共同社会状態が合倫理的であるということに関しては悲観的であり,現実的に存在し得ないと考えていると結論されることになります。もちろんそのように結論してはいけないということではありません。事実は事実なのであって,合倫理的な共同社会状態は存在し得ないという帰結は,立派な結論であるといわなければならないでしょう。しかし一方で,だからスピノザが共同社会状態が合倫理的であることを諦めていたのかといえば,必ずしもそんなことはなかったのだと僕は考えています。いい換えれば,共同社会状態を構成する人間の大部分は無知者でありまた奴隷ではあるのですが,そうした無知者や奴隷によって構成されるような共同社会が,いかにして合倫理的であり得るのかということをスピノザは模索していたと僕は考えています。したがってその場合の合倫理性の規準は,自由の人と奴隷という区分や,賢者と無智者といった区分よりも緩やかな区分でなければなりません。そうした区分もスピノザの思想の中にあるのです。
富山記念の決勝 。並びは岸田‐村上の近畿,犬伏‐松本‐山形の四国で菊池と和田と山口と伊藤は単騎。
スタートを取りにいったのは村上と松本。村上が誘導の後ろに入って岸田の前受け。3番手に山口,4番手に犬伏,7番手に伊藤,8番手に和田,最後尾に菊池で周回。残り3周の時点で隊列に変化なし。そこから伊藤が内を進出していき,残り2周のホームに入った時点では松本の後ろで伊藤と山形が併走。バックに戻ると伊藤がさらに上昇。松本をどかしました。このタイミングで犬伏が発進して打鐘。最終周回のホームに入るところで犬伏が岸田を叩いて先行。番手を奪った伊藤を村上が牽制しにいき,接触があって村上が落車。このために犬伏が抜け出し,岸田が第二先行のような形。伊藤は岸田の後ろに入り,その後ろに山口。バックから山口が発進。その時点ではまだ犬伏との距離がありましたがぐんぐんと差を詰め,直線入口あたりで追いついてあとは抜け出して快勝。犬伏が逃げ粘って3車身差の2着。山口の後ろからの追い上げになった和田が1車身半差で3着。
優勝した岐阜の山口拳矢選手は5月の四日市のFⅠ以来の優勝。記念競輪は立川記念 以来の優勝で3勝目。GⅢは4勝目。富山記念は初優勝。このレースは単騎の選手が多かったのですが,山口は単騎での戦いを得意としていますので,一発あるのではないかとみていました。まず,周回で村上の後ろに入ることにこだわりをみせ,その位置を取り切ったのが第一の勝因。犬伏の後ろが伊藤になったのは想定外だったでしょうが,岸田が叩かれてしまうのは想定の範囲内ではあったでしょう。そうなっても周回中の位置取りからはそれほど後ろにならないから自力で勝負できるとみての作戦だったと思います。犬伏の発進が早かった上に村上と伊藤が絡むという展開は恵まれたことで,単なる優勝ではなく圧勝となりました。
8月14日,水曜日。この日に母の七回忌の法要を営みました。前もっていっておいたように,これはこの月に僕が立てることになっていた御講を兼ねたものです。御講は御講室で行うようになっていましたが,こういう場合は法要の方が優先されますので,本堂で行われることになっています。
8月16日,金曜日。障害者支援区分認定 のための申請書を郵送しました。
8月19日,月曜日。磁気不良になってしまったため返納したマイナバーカードについては,7月26日に再申請のための書類を郵送しました。この日になって,再申請したマイナンバーカードが交付されるという通知が届きました。
8月21日,水曜日。交付の通知がきましたので,この日に受取りの予約を入れました。
8月22日,木曜日。通所施設に妹を迎えに行きました。そしてこのときに,日帰り旅行に参加するための申込書を持参しました。通所施設の日帰り旅行は年中行事のひとつで,新型コロナウイルスの流行後は中止になっていましたが,2023年から再開になっていました。ふたつのグループに分けて実施されますが,妹の予定は9月20日になっていました。この年は山下公園を散策した後,横浜中華街の広東飯店で食事。さらに赤レンガ倉庫で買い物をしてマリンルージュという船に乗って横浜港をクルージングするという日程になっていました。なお,これは申込書を持参しただけであって,旅行の代金を支払ったわけではありません。旅行の代金というのは事前には決まってなく,旅行の終了後に決定されるという仕組みになっています。
8月23日,金曜日。妹の歯科の通院でした。これは歯科保健医療センターへの通院ではなく,クリーニングのための指定歯科 であるみなと赤十字病院の歯科への通院です。歯科保健医療センターでの治療はまだ終了していませんでしたが,紹介状を書いてもらった治療の中心である抜歯 はすでに終わっていましたので,みなと赤十字病院の主治医にも確認してもらいましたが,抜歯した部分も埋まりつつあるとのことでした。
午後9時にピアノの先生から電話がありました。翌日のピアノのレッスンの開始時刻の通知でした。
京王閣記念の決勝 。並びは真杉‐吉田‐鈴木の関東に内藤,寺崎‐三谷の近畿に友定,荒井‐小倉の西国。
スタートを取りにいったのは真杉,寺崎,鈴木の3人。内から真杉が誘導の後ろに入って前受け。5番手に寺崎,8番手に荒井で周回。残り3周のバックから荒井が上昇。ホームに入る前のコーナーで自ら牽制を入れた真杉が突っ張りました。荒井が引いたのをみて寺崎が発進。打鐘で寺崎が真杉を叩いて先行。友定が追走しきれなかったので三谷の後ろに入った真杉がホームから発進。吉田は友定に外から絡まれ追走できませんでした。しかし真杉は寺崎を叩けず不発に。友定を捌いた吉田が三谷の後ろにスイッチ。そのまま発進した吉田が最終コーナーで寺崎を捲って先頭で直線に。マークの鈴木が吉田に迫って優勝争い。外から差し切った鈴木の優勝。吉田が4分の1車輪差の2着で関東のワンツー。内藤も4分の3車身差の3着に続いてラインで上位独占。
優勝した東京の鈴木竜士選手は2月に小松島で開催されたウインチケットミッドナイト 以来の優勝でGⅢ2勝目。記念競輪は初優勝。このレースは真杉と寺崎の対決。内藤が関東ラインに続いたのでラインの厚みは真杉が上位。ただ,3番手が地元の鈴木ということで,真杉は無理な駆け方をする可能性もあるとみていました。前受けしたところ寺崎に叩かれてしまい,かつ巻き返しにいって叩き返せなかったのですから,真杉は作戦としては失敗でしょう。吉田は友定との競りがあったために真杉に続けなかったのですが,結果論からするとマークできなかったのはかえってよかったかもしれません。吉田が力を使わざるを得ない展開になったので,吉田マークの鈴木の優勝となりました。
6月25日,火曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
6月26日,水曜日。妹の眼科の通院がありました。角膜の状態は前回よりも良化していたのですが,完治はしていませんでした。それで点眼薬を継続して使用することになったのですが,この日はフルメトロンという点眼薬が処方されました。薬局 で薬を処方してもらった後,根岸駅近くのレストランで昼食を摂り,そのまま妹を通所施設に送りました。この間にお寺の奥さん から2度の電話がありましたが,移動中でしたので詳しい話はせず,帰宅後に僕の方から電話を入れました。これは8月の御講 と母の七回忌の予定の日に関連したことです。御講というのは檀家のだれかが立てるものですが,8月は僕が立てることになっていました。その御講と,母の七回忌を同時に行うという手筈を整えてもらったものです。
7月2日,火曜日。僕の歯科検診の予約を入れました。
7月3日,水曜日。自宅で4年に1度の電気設備の安全点検というのがありました。異常はありませんでした。
7月4日,木曜日。午前9時20分に本牧脳神経外科から電話がありました。翌週の金曜日が妹の通院の日に当たっていたのですが,その日が休院となるので,予定を変更してほしいという依頼でした。こうした日程は先に通所施設およびグループホームに伝達してありますし,僕自身の都合というものもありますから,すぐにいつに変更するのかを決定するのは困難です。なのでこのときはいつに変更するのかということは伝えずに,依頼だけを了承しました。諸々の調整をし,午後3時50分になってから僕が本牧脳神経外科に電話をして,通院日の変更の依頼をしました。
7月5日,金曜日。2日に予約しておいた歯科検診の日でした。午前10時からでした。午後12時50分に通所施設に電話をして,今後の予定の変更を伝達しました。これは本牧脳神経外科の通院日の変更に関連したものです。
7月6日,土曜日。妹の土曜レクリエーションでした。
7月7日,日曜日。開導会という,毎年7月に行われているお会式がありましたので,お寺に行きました。このお寺が開かれたことを記念するお会式です。
玉野競輪場 で行われた昨晩の第21回サマーナイトフェスティバルの決勝 。並びは佐々木‐真杉‐吉田‐坂井の関東,郡司‐松谷の神奈川に和田,太田‐清水の山陽。
真杉,清水,郡司,坂井の4人がスタートを取りにいきました。枠なりに真杉が誘導の後ろに入り佐々木の前受け。5番手に太田,7番手に郡司で周回。残り3周のホームを回ると早くも郡司が上昇。バックで佐々木に並びました。併走のままホームに戻り,ここから佐々木が発進。郡司が下げて周回中の隊列に戻って打鐘。ホームから太田が発進。真杉のブロックを乗り越えて捲ったのですが,清水がマークしきれず,真杉が太田の後ろにスイッチ。そのまま真杉が発進し,直線は真杉と真杉マークの吉田の優勝争い。写真判定に持ち込まれ,優勝は真杉。微差の2着に吉田で関東のワンツー。吉田マークの坂井と,最終コーナーでインを回って追い上げた松谷の3着争いも写真判定に。松谷が1車輪差の3着で坂井が微差で4着。
優勝した栃木の真杉匠選手は共同通信社杯 以来の優勝でビッグ5勝目。サマーナイトフェスティバルは昨年 に続く連覇で2勝目。このレースは自力を使える4人で連携した関東勢が強力。太田が中段で郡司が後方という隊列も関東勢に味方したと思います。太田には叩かれてしまったのですが,清水の追走を阻んだ時点で関東勢の優勝は決定づけられたといっていいでしょう。僕が予想していたよりもスピードレースになりました。
代金は79200円でした。前回よりも少し安くなっていますが,これは高圧洗浄をした距離が前回よりも短かったためです。僕はどのくらいの費用が必要かは分かっていましたから,事前に用意しておいたため,この金額がこのときに自宅にあったのです。なおこの料金は全額ではありませんが,水道管の工事をした業者が一部を負担しました。その一部の金額は僕が業者の担当者の方から受け取りました。
下水管が目詰まりした原因ですが,これがトイレを交換したことと関係していました。下水管を新設したときに,1階のトイレも新しくしたことはそのときにいった通りです。このトイレはそれ以前のものよりもやや小型で,そのためにタンクも小さく,第一の桝から第二の桝まで汚物を流すのには水量が十分ではないのではないかというのが,洗浄をした水道業者の推測でした。そう指摘されましたので,僕はこのとき以降はこのトイレの水の流し方に工夫を加えました。枡も定期的に点検するようにしましたが,この日以降は現時点まで何も問題は生じていません。設置してから4ヶ月ほどで目詰まりしたものが,これ以降は1年以上が経過しているのに問題が生じていないのですから,おそらく水道業者が推測した通り,新設したトイレの水量が主要因となっていたのであって,現在の工夫を続けていけば,今後も問題は生じないだろうと思われます。なお下水管は,夏場よりも冬場の方が詰まりやすいそうです。
5月20日,月曜日。網膜症の検査 でО眼科 に行きました。変化はありませんでした。
5月24日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。午後8時25分にピアノの先生 から電話がありました。翌日のレッスンの開始時刻の通知でした。
5月25日,土曜日。妹のピアノのレッスンでした。この日は午後5時半の開始でした。
5月26日,日曜日。妹をグループホームに送りました。
5月27日,月曜日。内分泌科の通院の日でした。4月の通院のときに,合併症の検査の予約も入れてもらったのですが,それもこの日でした。ですからこの日は診察の前に,採血と採尿だけでなく,その検査もすることになっていました。
16日に京王閣競輪場 で行われたシン東京ミリオンナイトレースの決勝 。並びは吉田‐寺沼‐鈴木の関東,山口‐藤田の埼玉,山崎‐田中の九州で和田と中釜は単騎。
スタートを取ったのは中釜でしたが,外から上がってきた和田が前に。さらに和田が山崎に譲る形で山崎の前受け。3番手に和田,4番手に中釜,5番手に吉田,8番手に山口という隊列に,発走後1周を経過した後に決まって周回。残り3周のバックの出口から山口が上昇。ホームでは叩かず,バックに戻ってから山崎を叩いて打鐘。外から吉田が発進しましたが,ホーム通過後のコーナーで外に浮いてしまい不発。寺沼が自力で発進したもののこちらも前には届かず。番手の藤田が直線で踏み込むと,藤田の後ろに続いていた和田が山口と藤田の間を突き,和田の後ろにいた中釜は外から捲り追い込み。この3人の優勝争いを制したのは和田。藤田が半車輪差の2着で中釜が半車輪差で3着。
優勝した千葉の和田健太郎選手は前回出走の松戸のFⅠから連続優勝。GⅢは2023年の伊東温泉記念 以来の優勝で5勝目。京王閣では2019年 に記念競輪を優勝しています。このレースは近況から,自力が生きるなら山崎か中釜,差し脚が生きる展開なら和田が有力と思っていました。展開はといえば,叩かれた山崎がほとんど何もできず,地元勢をつけていたからかもしれませんが吉田は無謀な駆け方になってしまったため,自力型より差し脚がシャープな選手に有利なレースになりました。いい位置を回ってきっちり中を割った和田の内容が見事でした。
5月11日,土曜日。妹の土曜レクリエーション でした。
5月13日,月曜日。総講でお寺に行きました。この総講の間に,妹の通所施設の職員から電話がありました。僕は総講の間は携帯電話をマナーモードに設定していますから,電話があったことに気付いたのは総講の終了後でした。すぐに通所施設に電話を入れたところ,三者面談の日程が決定したというお知らせでした。帰宅後,午後3時40分に,お寺の奥さんから電話がありました。これはこの月の御講についてのお知らせでした。
5月14日,火曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
5月15日,水曜日。妹の眼科の通院でした。白内障 の術後の経過は順調だったのですが,左目の角膜の状態がよくないとのことで,ヒアルロン酸の目薬が処方されました。これはО眼科に通院していたときにも処方されていた,水色の容器のものです。ただこの日は病院が混雑していたため,そのまま院内の食堂で昼食を済ませ,先に妹を通所施設に送りました。妹を送った後で僕が薬局に向かい,目薬を処方してもらいました。
5月16日,木曜日。13日の電話で通知があった三者面談の日でした。前日に処方されていた目薬はこのときに持参しました。一応は薬の説明をしましたが,これは以前にも使用していたものでしたし,処方回数もその当時と変わりませんでしたので,難しいところはありませんでした。三者面談の終了後に,妹を連れて帰りました。
5月17日,金曜日。妹の歯科の通院でした。このとき,左上の銀歯の揺れが強く,治療する必要があると伝えられました。妹はそれが指定歯科 ということでみなと赤十字病院に通院していたわけですが,ここではクリーニングはできますが,治療はできません。治療は知的障害者の専門病院で行うことなっていて,銀歯にするときなどは妹もそちらで治療したのです。なのでその病院の方への紹介状を書いてもらうことにしました。
5月18日,土曜日。妹をグループホームに送りました。
僕は外出する前には,とくに尿意がなくてもトイレに行きます。この日もそうしたのですが,水の流れがおかしいように感じられました。それで帰宅後に下水槽を調べたのですが,汚物が溜っていました。
弥彦記念の決勝 。並びは坂井‐末木‐武藤の関東,脇本‐三谷‐浅井の近畿中部,石原‐松浦の瀬戸内で新山は単騎。
武藤,松浦,浅井の3人がスタートを取りにいきました。武藤が送り出すような形で松浦が誘導の後ろに入り,石原の前受け。3番手に坂井,6番手に新山,7番手に脇本という隊列で周回。残り3周のバックから脇本が上昇。ホームで石原を叩いて前に。叩かれた石原がバックですぐに巻き返したのですが,松浦が離れてしまい,石原が単騎で脇本を叩いて打鐘。石原には坂井が続く形になりました。ホームから後方になった新山が発進。バックに入っても前まで届かず,坂井が石原の後ろから発進。このラインに続いた脇本の後ろは松浦が奪い,捲り追い込みにいきました。直線は坂井の番手から出た末木,末木と脇本の間に進路を取った松浦,外を捲り追い込んだ脇本の3人で優勝争い。制したのは末木。松浦が4分の1車輪差の2着で脇本がタイヤ差で3着。
優勝した山梨の末木浩二選手は昨年11月の奈良のFⅠを優勝して以来の優勝。記念競輪は初優勝。このレースは脚力では新山,脇本,松浦の3人。ただ新山は単騎での戦い方に難があり,脇本と松浦は本調子にはなさそうでした。松浦が石原の踏み出しに離れてしまったのは,タイミングもあるでしょうが,その部分も影響したかもしれません。松浦が離れたのをみてすぐさま石原を追走した坂井の走行は見事ではありましたが,そこで叩いた石原を追走しきれなかった脇本も,やはり調子の悪さが影響したかもしれません。ふたりとも最後は力をみせましたが,高松宮記念杯でも決勝に進出した調子のよさと,有利な展開を生かした末木に軍配が上がりました。
第一部定理二八 が人間の生成だけに該当するわけではなく,人間の消滅にも該当するというのは当然のことです。これが該当しないというのであれば,それは人間の本性 natura humanaに矛盾が含まれているから存在することができないと主張するのと同じことですが,現実的に人間が存在している以上,それは不条理であることが明白だからです。たとえば,三角形の本性を有する円というのは,その本性自体に矛盾が含まれています。なのでこうしたものは自然Naturaのうちに存在することができません。この事例はまた神Deusが本性の必然性necessitasによって働くagereのか,それとも神が自由意志voluntas liberaによって働くのかという論争と関係してくるのですが,ここではそれは追及しません。このことから理解できるように,ある個物res singularisが現実的に存在するなら,その個物の本性には矛盾が含まれていないということなのであって,第一部定理一六 により,そうした個物は神の本性の必然性によって存在することになるのです。
したがって第一部定理二四 が示していることは,神から産出されたものは,ある事柄を命令したりある事柄を欲望したからといって,特定の本性を有する何かを生成することはできないし,また消滅させることもできないということなのです。もしそれに類似したことが可能であるとしたら,その特定の本性を有する何かを,生成しやすくしたり消滅しやすくするような外的環境を整えるということだけです。つまり僕たちは直接的に何かを生成したり消滅させたりすることができるわけではなく,間接的に生成しやすくしたり消滅しやすくしたりするということだけができるのです。ただしこれはあくまでも間接的なものですから,そうした環境を整えさえすれば,必ず何かを生成したり消滅させたりすることができるというわけではありません。
吉田が指摘しているのは,このことが自殺の場合にも妥当するということです。つまり,自殺しようとする人が,その当初の意図の通りに自分自身を消滅させることができるのかということは,その手段の確実性や精度に加え,多かれ少なかれそのときまたその場の外部環境にも左右されてしまうのです。自殺に失敗が生じるのは,これが主要因なのです。
小松島記念の決勝 。並びは菅田‐佐藤の北日本,犬伏‐島川‐小川‐小倉‐久米の徳島で杉森と西田は単騎。
菅田がスタートを取って前受け。3番手に杉森,4番手に犬伏,最後尾に西田で周回。残り2周まで動きはなく,ホームを出てから犬伏が発進。菅田は突っ張りましたが犬伏が叩いて打鐘。ただ3番手の小川がマークしきれず,菅田が3番手に入りました。バックに入る手前から単騎の西田が捲り発進。だれもこれを止めることができず,バックの出口では犬伏を捲りました。島川がスイッチしましたがこれは時すでに遅し。セーフティーリードを取っていた西田が優勝。島川が2車身差で2着。島川と菅田の間に進路を取った佐藤が8分の1車輪差の3着で菅田が半車輪差で4着。
優勝した広島の西田優大選手はこれがS級での初優勝。この開催は有力選手の途中での脱落が目立ち,地元が5人も決勝に進出。しかもラインを組みましたので圧倒的に有利。さすがにこのラインのだれかが優勝するのではないかと思っていました。犬伏は前の菅田が後ろのだれかに飛びつくことを警戒して発進したのだと思われますが,その影響で3番手の小川が離れてしまいラインの厚みの優位さを生かすことができませんでした。西田は地元勢を追走していたため8番手になってしまったので,仕方がないので捲っていったという面があったと思いますが,それがものの見事に決まりました。あまり警戒されていなかったがゆえの優勝という面もあったとは思いますが,記念競輪でも優勝できるだけの脚力はあったということだと思います。
第三部定理六 に示されるコナトゥス conatusは,第三部定理七 において個物 res singularisの現実的本性actualis essentiaに等置されています。スピノザの哲学における本性は,その事物と一対一で対応し合わなければなりません。その条件を満たすためにスピノザは本性を第二部定義二 のように定義しているからです。よって,相反する本性 が同じひとつの事物の本性を構成することができないということが帰結します。
第三部定理六は,すべてのものが自己の有 に固執するperseverareということをいっていて,それに従って行動することが自己の利益suum utilisを追求するといわれるのでした。そしてそれが個物の現実的本性であるとすれば,もし何かがある個物を滅ぼすような要素を有するのであれば,それはそのものと相反する本性を有するということになります。これは第三部定理五 でいわれている通りです。このことはコナトゥスと関連して考えずとも,一般に事物の本性はその事物の存在existentiaを定立するけれど排除しないということから明らかですが,ここでは考察の都合上,このことより後に論証されているコナトゥスと関連させて帰結させました。
このことから理解できるのは,現実的にAという個物が存在していて,そのAを滅ぼす何かがあるとすれば,それはAの本性のうちに含まれているわけではなくて,Aの外部にあるということです。このようにして,もしも現実的に存在するAが滅びる,要するに現実的に存在するAが現実的に存在することをやめるということが生じるならば,そのことはAにとってはAの外部から与えられるということになります。これは第三部定理四 でいわれていることに該当します。このこともまた第三部定理五に関して与えた注意と同じことがいえるのですが,ここではこれをコナトゥスと関連させて結論します。
この場合のAは,現実的に存在するすべての個物に該当します。第二部定理一〇系 を援用するまでもなく,人間も個物として現実的に存在しています。したがって,もしも現実的に存在するある人間が滅びる,要するのその人間が死ぬということが生じるのだとすれば,その死に関してその人間は部分的原因causa partialisではあり得ても十全な原因causa adaequataではあり得ないといわなければなりません。
久留米記念の決勝 。並びは郡司‐和田真久留の神奈川,南‐三谷の近畿,太田‐取鳥‐松本の瀬戸内,北津留に和田圭。
取鳥がスタートを取って太田の前受け。4番手に郡司,6番手に南,8番手に北津留で周回。残り3周のバックの半ばから北津留が上昇を開始。ホームで太田を叩きました。このラインにスイッチしていた南が3番手,郡司が5番手で引いた太田が8番手に。バックに入ると引いた太田が発進。北津留を叩いて打鐘。取鳥は離れ気味でしたが,松本までの3人で何とか出きりました。ここから郡司が発進。かなりいいスピードだったのですが,バックで松本の牽制。これでスピードが落ちたので和田真久留が松本の内に進路を変更。ここで接触があり松本は落車。巻き込まれた三谷も落車しました。和田真久留のさらに内に切れ込んだ南が太田の番手を奪取。直線で逃げる太田を差し切って優勝。逃げ粘った太田が2着。番手を奪われた取鳥が直線で和田真久留の外から伸び直して3着。
優勝した大阪の南修二選手は2015年8月の富山記念 以来となる記念競輪2勝目。このレースは太田と郡司の対決というのが主軸。郡司はいいスピードで捲っていきましたが,松本に牽制されるのは意外だったのではないでしょうか。和田真久留は俊敏に動いたのですが,松本と接触することになってしまい,その後ろにいた南が恵まれる形になりました。本来的には太田が先行し,松本が後ろを牽制したのですから,番手の取鳥が最も有利だったのですが,太田の発進に離れそうになったり,番手を失ってしまったりで,力が足りなかったといえる内容でした。
村上はさらに次の点もつけ加えています。
デカルト René Descartesの『省察Meditationes de prima philosophia 』の第六省察では,私が身体corpusを有するということ,他面からいえば現実的に存在する人間には自分の身体という身体があるということ,さらに私がその身体とともにひとつの何かを構成しているということ,そして私の身体の周囲にはほかの物体corpusが実在するといったことが,私の感覚sensusを通して真verumと結論されています。こうした論証Demonstratioは『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』の第一部定理二一を証明する際にも利用できます。しかしスピノザは当の定理Propositioを証明する際には,こうしたことにはまったく触れていません。それはスピノザがデカルトの証明を見落としたからではなくて,意図的に無視した,スピノザにとってはその証明は有効であるとは思えなかったので,意図的に無視したのだろうというのです。おそらくこの村上の指摘は正しいものだといえると思います。
デカルトとスピノザの間に明確にあるこの相違,すなわち,デカルトは感覚や知覚perceptioが論証にあたっても役に立つとみなすのに対し,スピノザはそれは無益だとする相違は,順序だててみるのは僕にはやや難解に思えます。つまり,デカルトは人間の身体humanum corpusをもっぱら自分の身体と規定し,それがほかの物体とは区分されているとみるがゆえに,感覚そのものが論証にも有用であるとみることができたとも解せますし,逆に,ある種の知覚や感覚が論証にも有用であるとみたがゆえに,人間の身体というのがほかの物体とは区分された自分の身体と規定されるに至ったとみることもできるからです。同様にスピノザにとっても,身体というのがほかの物体とは切り離すことができないものであったから身体的感覚および知覚は論証には無益であるとみたのかもしれませんが,感覚や知覚は論証には無益であったから,人間の身体というのをほかの物体と区分できなくなったともみることができるからです。
村上が指摘している通り,人間の身体をほかの物体から切り離されたものとしてみるのかそれとも物体の一部としてみるのかということと,感覚および知覚を論証のために有効であるとみるかどうかということの間には,一定の関係があることは事実だと僕は思います。
岸和田競輪場 で開催された昨日の第76回高松宮記念杯の決勝 。並びは深谷‐郡司‐松谷の南関東,寺崎‐脇本‐古性の近畿,太田‐清水の山陽で末木は単騎。
古性,深谷,清水,太田と内の4人がスタートを取りにいきました。誘導の後ろに入ったのは太田でそのまま前受け。3番手に寺崎,6番手に深谷,最後尾に末木で周回。残り2周のホームに入るところから深谷が上昇。末木が続きました。太田は引かずに突っ張り,バックで深谷は浮いてしまったのですが,清水の後ろに続いた郡司が迎え入れて深谷が3番手になって打鐘。すぐさま巻き返した寺崎が太田を叩き,ホームに入るところで近畿勢が前に。バックに入ると後ろからの捲りを待たずに脇本が番手から発進。これで脇本と古性が抜け出して優勝争い。脇本が差を詰めさせずに優勝。古性が1車身差の2着で近畿のワンツー。太田の番手から出た清水と外を捲った深谷の間に進路を取った郡司が6車身差で3着。清水が4分の1車輪差で4着。
優勝した福井の脇本雄太選手は2月の全日本選抜競輪 以来の優勝。ビッグは12勝目でGⅠは10勝目。高松宮記念杯は第71回 を優勝していて5年ぶりの2勝目。このレースは南関東と近畿のラインが手厚く,前を回る深谷と寺崎がどういう意向で走るかによって結果が左右されそうでした。太田が前受けして深谷が後ろになったため,深谷が押さえにいったところで太田と深谷の先行争いが発生。これによって寺崎は発進しやすくなりました。ラインで出きりましたので近畿ラインが圧倒的に有利に。脇本の番手捲りのタイミングはやや早かったような気がしなくもないですが,展開の利とそれを生かした寺崎の判断が優れていたと思います。
まずこの順序に気を付けなければなりません。僕たちは僕たちの身体 corpusを感じることによって,僕たちの精神 mensを構成する観念対象ideatumが僕たちの身体であるということを知るのではありません。これが逆でなければならず,僕たちの精神を構成する観念の対象が僕たちの身体であるということを前提するがゆえに,僕たちの身体が僕たちが感じている通りに存在しているということを知ることができるのです。第二部定理一三系 は,それだけを抽出してみれば,いかにも僕たちの身体が他の物体corpusから区切られて僕たちの精神によって知覚されるといっているかのようにみえますが,僕たちがそのように知覚するpercipereには前提条件があるのであって,第二部定理一三 がそれであるというように把握しなければならないのです。
さらに,第二部定理一三もまたそれ自体で僕たちに知られる事柄ではないのであって,これを知るための前提条件があります。そしてそのうちのひとつが第二部定理一一 です。このことはスピノザによる第二部定理一三証明 の中で,スピノザが第二部定理一一を援用していることから明らかだといわなければなりません。そしてこの定理Propositioでいわれていることは,人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseを構成するのは現実的に存在するある個物res singularisの観念ideaであるということです。ただし,ここでは個物といわれていますが,第二部公理五 でいわれているように,僕たちが認識するcognoscere個物というのは諸々の物体か諸々の観念すなわち物体の観念のいずれかになりますから,この定理でいわれていることを,僕たちの精神の現実的有を構成する観念は物体の観念であると解してもそう大きな間違いを犯すことにはなりません。というのも,公理Axiomaは僕たちが物体の観念だけを認識するといっているのではなく,物体も認識するといっているのですから,僕たちの精神の現実的有を構成する観念が物体の観念の観念だけであるというのは不自然であって,物体の観念もそこに含まれなければならないのは明白であるからです。そしてここが重要ですが,この場合の物体というのは,必ずしも僕たちの身体のことだけを意味しているわけではなくて,物体一般を意味していると考えなければならないということです。
四日市競輪場 で争われた15日のベイサイドナイトドリームの決勝 。並びは野口‐梁田‐東の南関東,谷口‐上田の三重,中井‐古賀の近畿で河村と渡部は単騎。
古賀がスタートを取りにいきましたが,内の谷口が抜き返して前受け。3番手に中井,5番手に渡部,6番手に野口,最後尾に河村で周回。残り3周のバックの出口から野口が上昇を開始。これに合わせてホームから中井も上昇。ここは谷口が突っ張りました。これをみてコーナーからまた野口が発進。バックで谷口を叩いて打鐘。4番手に谷口,6番手は中井と渡部の併走で最後尾に河村という隊列に。このままホームからバックまで進展。最終コーナーから谷口が発進するも,野口の番手を回った梁田が優勝。東が1車輪差の2着に続いて南関東のワンツー。谷口に乗り,直線は梁田と東の間に進路を取った上田が半車身差で3着。外に行った谷口は4分の3車輪差で4着。
優勝した静岡の梁田一輝選手は一昨年6月の向日町カップ 以来のGⅢ2勝目。このレースは野口の番手で自力を使える簗田が無風で回りましたので,展開が有利でした。ふたりのラインはどうしても先行しにくいので,こういうレースになったのは仕方がないかもしれません。この開催も富山と同様にGⅢというには程遠いメンバー。選手に格付けをしているのですから,S級S班が出場しないようなグレードレースを組むということ自体に僕は疑問を感じます。
この特異性に関しては,聖書のテクストの中に書き間違いがあるかどうかということとは関係なく,もっと広い意味で理解した方がよいと僕は思います。
聖書,これは旧約聖書でも新約聖書でもいいのですが,その中にある確定したテクストがあったとしましょう。そしてテクストは確定しているのですが,解釈には多様性があり得るとします。いくつもの解釈があり得る場合もありますが,ここでは分かりやすく,そのテクストが二様に解釈できると仮定します。このときにその二様の解釈が,神 Deusを愛せということと隣人を愛せということにどちらも反しないのであれば,どちらが正当な解釈であるのかということを確定する必要はないとスピノザは考えるのです。もちろんテクストというのは意図して書かれたものなので,正しい解釈と誤った解釈というのがあるのですが,聖書の根本的な教説に反しない限り,正しい解釈をしようと誤った解釈をしようと構わないというのがスピノザの考え方だということです。
したがってこのとき,一方の解釈がこの教説に反さず,一方の解釈が反する,神を愛せという教説か隣人を愛せという教説のどちらか,あるいは両方に反するのだとすれば,前者は正しい解釈であって後者は誤った解釈であるとスピノザは判断するということです。もちろんこの教説というのは,スピノザが任意に抽出したものではなく,聖書の全体から導き出したものですから,要するにスピノザは,部分的なテクストの解釈が,テクスト全体の解釈に反するなら,その解釈は誤りであると判断するということです。手島がいっているように,スピノザの聖書解釈は歴史批判の立場からなされてはいるのですが,テクストの解釈の正誤を決定するのはテクストそのものであるという観点から,テクストの諸部分の正誤を判断していくのです。したがってスピノザの聖書解釈には,いわばある種の文芸評論的な観点が積極的に導入されていると解しておくのがよいと僕は考えています。
このことが,聖書の中に書き間違いがあると推定される場合にも適用されることになります。つまりテクストそのものが確定できないという場合にも適用されることになるのです。
富山競輪場 で争われた昨日の大阪・関西万博協賛競輪の決勝 。並びは嵯峨‐佐藤‐飯野‐須永の北日本,村田‐岡本の中部,谷‐岡崎の大阪で柿沢は単騎。
岡本がスタートを取って村田の前受け。3番手に谷,5番手に嵯峨,最後尾に柿沢で周回。残り3周のホームから嵯峨が上昇。一旦は谷が牽制したためスピードダウンしましたが,バックでまた巻き返し,岡本を叩きました。動いた谷が5番手に入り,7番手に柿沢,8番手に引いた村田の一列棒状に。ホームから早くも嵯峨が駆けていきました。バックから村田が動こうとしましたが,隊列は変わらないまま打鐘。動いた村田に合わせて谷もホームから発進しましたが,コーナーで佐藤が番手捲りを敢行。村田は須永の横までは追い上げたもののそこで一杯。直線に入って佐藤の番手から出た飯野が佐藤を差して優勝。佐藤が4分の3車輪差の2着。須永も1車身差の3着に流れ込んで北日本勢の上位独占。須永の外から追い込んだ岡崎が4分の3車輪差で4着。
優勝した福島の飯野祐太選手は1月の川崎のFⅠを完全優勝して以来の優勝。2022年11月に同じ富山の神秘の海・富山湾カップ 以来のGⅢ2勝目。このレースはラインに偏りがあり,4人のラインの上,自力を使える選手が3人もいた北日本勢が圧倒的に有利。嵯峨が残り2周から捨て身で駆けていきましたので,ほかのラインは手も足も出せなくなってしまいました。GⅢというには程遠いメンバーでの開催で,なぜ主催者が主催するレースの格を落とすようなことをするのかは相変わらず疑問ですが,そういうメンバーの中では格上といえる飯野がチャンスを掴んだといえるでしょう。ただこのようにグレードレースを乱発していけば,そのうちGⅠもグランプリも今のような価値のあるレースではなくなるでしょう。
『スピノザーナ9号 』の手島勲矢の「スピノザの聖書解釈の特異性について」から,一部分だけ考察します。スピノザの聖書解釈はいくつかの特異性を有していると僕は考えますが,ここで手島が指摘している事柄もそれに該当すると思います。
『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』において,聖書には書き間違いがあるということについてはスピノザは肯定しています。スピノザはヘブライ語は解しましたがギリシャ語は解せなかったので,旧約聖書に関してはテクストの検証を行っていますが,新約聖書に関しては自身ではしていません。ただ,書き間違いがあることは旧約聖書であろうと新約聖書であろうと,それがあるということが,研究の前提になっています。
ただしスピノザは,そうした誤りのすべてが重要であるとは主張しません。むしろテクストに含まれているある種の欠陥は,深く論じる必要がないものであるといいます。なぜならいくつかの誤謬に関しては,聖書をテクストとして読む限り,つまり宗教的な視点に捉われず,明瞭な判断力だけを頼りにして読む場合には,重大なものではないとスピノザは考えるからです。そして聖書の中に含まれている道徳の説,これは具体的には,ひとつは神Deusを愛するということで,もうひとつが隣人を愛するということだとスピノザはみているのですが,この道徳説を疑わしくさせるような,あるいは曖昧にさせるような欠陥とか,そういう読み方を変更させるようなテクスト解釈の相違に関しては,スピノザは聖書の中に見出さなかったといっています。
これはスピノザの聖書解釈の特異性のひとつを明らかにしていると手島は指摘しています。これでみれば分かるように,スピノザは聖書を解釈するとき,それを歴史的な立場から批判することについてはその立場を採用するのですが,だからといってそのテクストのオリジナル性についてはさほど重視していないからです。スピノザにとって何が重要であったのかといえば,根本的な教説,宗教的なことばに還元すればオリジナルな啓示の内容であったのです。ですからテクストがこのオリジナルの啓示,つまり根本的なふたつの教説を揺るがさないのであればそれでよかったのです。
昨晩の別府記念の決勝 。並びは新山‐守沢の北日本,深谷‐岩本の南関東,寺崎‐村田‐村上の近畿,阿部‐瀬戸の九州。
阿部がスタートを取ったのですが,外から上昇してきた守沢に前を譲り,新山の前受けに。3番手に阿部,5番手に寺崎,8番手に深谷で周回。残り3周のバックを出ると深谷が上昇。ホームで新山を叩きにいきましたが,新山が突っ張りました。深谷は引いてややもつれたものの周回中の隊列に戻って打鐘。新山の突っ張り先行に。コーナーからホームにかけて深谷がインを上昇。寺崎の内に潜り込みました。ここから寺崎が発進。すると阿部が合わせて発進しました。バックから最終コーナーで守沢が阿部を牽制。これで阿部も寺崎も不発となり,寺崎マークの村田が守沢にスイッチ。直線で逃げ粘る新山を差した守沢が優勝。新山が半車身差の2着で北日本のワンツー。村田が半車身差で3着。
優勝した秋田の守沢太志選手は一昨年の別府記念 以来となる記念競輪5勝目。別府記念は2021年 にも優勝しています。このレースは新山と深谷が脚力上位。新山の前受けに深谷が後方となったため,深谷が新山を叩きにいく展開となり,そこで両者が脚力を使いました。寺崎にとってよい展開でしたが,阿部に合わされて外を回らされたところで守沢のブロックの余波があり不発に。これで番手を回った守沢が有利となりました。優勝は少ないタイプですが,相変わらず安定した成績を残しています。
スピノザのユトレヒト訪問 は,コンデ公による招待であったとされているのですが,実際にスピノザがユトレヒトUtrechtを訪問したときには,コンデ公がユトレヒトには不在であったため,スピノザとコンデ公の面会はなかったというのがほぼ史実として確定されています。これでみればナドラーSteven Nadlerがいうように,スピノザをユトレヒトに招待したかったのはコンデ公であるよりはストッパJean Baptiste Stouppeであったということも,可能性として否定することはできないかもしれません。
スピノザが招待されたくらいですから,ユトレヒトを占領したフランス軍は,ユトレヒトに在住していたオランダ人たちのすべてを過酷に取り扱ったわけではありません。スピノザと同様に,知的に優れているとみなされたユトレヒト在住のオランダ人は,訪問したスピノザが丁重にもてなされたといわれているのと同様の取り扱いを受けたと解するのが自然であるからです。そしてスピノザは,このユトレヒト訪問中に,ユトレヒト在住だったオランダ人たちとも面会しています。
ユトレヒト訪問を終えてハーグDen Haagに戻った後,スピノザはグレフィウス Johann Georg Graeviusに書簡四十九 を送っていますが,この短い書簡から,スピノザとグレフィウスはユトレヒトで会ったことを容易に推測させます。また岩波文庫版の『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』の解説では,そもそもスピノザのユトレヒト訪問の橋渡しをしたのがこのグレフィウスであったとされています。
また,書簡六十九 の宛先から,フェルトホイゼン Lambert van Velthuysenはユトレヒトに住んでいたことを確定させることができます。書簡四十二 から分かるように,フェルトホイゼンは『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』にかなり批判的であったようですが,フェルトホイゼンによる『神学・政治論』の要約はかなり的確なもので,フェルトホイゼンが優秀な学者,フェルトホイゼンは開業医だったようですが,哲学や神学にも高度な知識を有していたことは間違いありません。スピノザが書簡六十九を後に書いたのは,ユトレヒトでフェルトホイゼンと面会したスピノザが,フェルトホイゼンが人格者であることを知ったからだとされていますし,『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』でも,ふたりはユトレヒトで面会したとされています。
取手記念の決勝 。並びは吉田‐杉森の茨城に成田‐内藤の北日本,松井‐郡司‐佐々木‐和田の南関東で岩津は単騎。
郡司がスタートを取りにいきましたが,それを阻止するように内から吉田が誘導の後ろに入って前受け。岩津が5番手で松井が6番手の周回。残り2周のホームの入口から松井が上昇。ホームの出口から外を回って吉田の動向を窺うような形になり,吉田が引かなかったので松井が引き,周回中と同じ隊列に戻って打鐘。吉田の突っ張り先行のようなレースになりました。ホームから再び松井が発進。バックで前に迫ると杉森が番手捲りを敢行。これで松井がいけなくなったので,最終コーナーから郡司が自力で発進。番手捲りの杉森を差して優勝。杉森と郡司の間に進路を取った杉森マークの成田が半車身差の2着。杉森が4分の3車輪差で3着。
優勝した神奈川の郡司浩平選手は全プロを挟んだ平塚記念 以来の優勝で記念競輪25勝目。取手記念は2020年 に優勝していて5年ぶりの2勝目。このレースは二分戦でしたが,ラインの厚みは南関東の方が上なので,郡司が最有力候補と思っていました。吉田の先行は意外だったのですが,松井がある程度のところまでは捲っていけましたので,そのスピードに乗って直線で差し切れました。松井の力も大きかったですが,番手捲りのラインを差し切ったのですから,力を見せつけるような優勝であったと思います。
ホイエルJacobus Goyerがスピノザを知っていたことは間違いありません。ではスピノザがホイエルを知っていたかということになると,まったく分かりません。もしホイエルとスピノザの間に面識があった,すなわちふたりがどこかで会ったことがあったとすれば,当然ながらスピノザもホイエルを知っていたことになります。久保の論文を読む限り,両者に面識があった可能性はかなり低いように僕には思えました。ただし絶対になかったと断言することができるわけではありません。とても小さなものではあるのですが,ホイエルとスピノザの間には接点が確かにあったようです。
ホイエルの一族は16世紀の初頭から,オランダのユトレヒトUtrecht州の執政官や顧問官,さらに市長などの職を務める人物が輩出していました。いわゆる名門であったわけです。ホイエルの父はデリックでしたがこのデリックの時代までは権勢と富の両方を誇るような名家でした。デリックの妻,つまりヤコブスの母ですが,この人はゲルトルーダという名前で,デルフト Delftの市長の娘だったそうです。ヤコブスはこのふたりの長男として,先述したように1651年に産まれ,ユトレヒト大学のマタエウスという教授の下で法律を学びました。これもいっておいたように,ヤコブスの蔵書には法律関係の著書が多かったのですが,これは専門的に学んだのが法律であったことと関係しています。1672年,つまり21歳のときに学位を獲得しています。
父のデリックはユトレヒトの市長を務めていたのですが,ヤコブスが要職に就いたという記録は残っていません。もっとも,ヤコブスは1689年に38歳という若さ,スピノザよりも若い年齢で死亡してしまいましたので,もしもっと長生きしていたら,そうした職に就いた可能性も否定できないように僕には思えます。ただし久保はこのことについては,後に示すような別の事情を指摘しています。死ぬ時までホイエルは独身で,子どもはありませんでした。葬儀の列席者の名簿というのが残っていて,そこにはイギリスからの弔問客も含まれていたということですから,名家に相応しいような大きな葬式で,当時はそれなりに著名であったと考えられます。
武雄競輪場 で開催された昨夜の日本名輪会カップの決勝 。並びは木村‐大矢の関東,阿部‐北津留‐山田‐井上の九州で纐纈は単騎。
山田がスタートを取って阿部の前受け。5番手に纐纈,6番手に木村で周回。残り3周のバックの出口から阿部がペースを落として誘導との間隔を開け,後方を牽制。残り2周のホームに入ってから木村が発進。阿部はこれに合わせて駆けていきました。打鐘で木村は北津留の横までは上がりましたが阿部を叩くことはできず,阿部の突っ張り先行に。ホームの手前で北津留が木村を牽制。木村は山田の横まで下がりました。バックに戻って北津留が番手捲りを敢行すると山田がしっかりマーク。井上も続き4番手に纐纈。直線の手前から踏み込んだ山田が北津留を差して優勝。マークの井上が半車身差の2着。北津留が1車輪差の3着で九州勢の上位独占。
優勝した佐賀の山田庸平選手は武雄記念 以来の優勝でGⅢ6勝目。武雄では昨年の大阪・関西万博協賛競輪 も優勝しています。このレースはラインの厚みに違いがありすぎ,九州勢から優勝が出るだろうと思っていました。北津留が木村を牽制した後に山田は木村に絡まれるような形にはなりましたが,北津留が番手から発進するタイミングが絶妙で,山田がスムーズに続くことができました。北津留の貢献が大きいと感じるような優勝でした。
河井が提出しているこの疑問については,僕から次のことをいっておきます。
前の部分の考察でいったように,スピノザの思想における原因 causaと結果effectusの関係は,前提としての原因と結論としての結果という関係にあるのであって,必ずしも時間的な前後関係を意味するわけではありません。前提が与えられれば結論がすぐに得られるのであれば前提と結論は,同時的にあるといわなければなりませんから,時間tempusという観点だけでみるなら,原因と結果は同時にあるということができるからです。これは第一部公理四 にあるように,結果の認識 cognitioが原因の認識に依存するからであり,原因が認識されれば結果が認識されるのなら,やはり原因と結果は同時にあるということができるでしょう。このゆえに僕は原因は結果に対して本性 naturaの上で先立つ,時間的に先立つのではなく本性の上で先立つといういい方をするのであり,河井もまた原因は結果に対して存在論的に先立つといういい方をしているのでした。
第一部定理二八 で示されている個物res singularisの原因とか,第二部定理九 に示されている現実的に存在する個物の観念rei singularis ideaの原因については,結果である個物や現実的に存在する個物の観念に対して,原因である個物や現実的に存在する個物の観念が,時間的な意味で先行すると解釈することが可能です。個物Aの存在existentiaの原因が個物Bの存在であるならば,個物Aが存在する以前に個物Bが存在していなければならず,かつ個物Aも個物Bも,それが個物である限りでは一定の時間のうちに存在するでしょうから,個物Bは時間的な意味において個物Aに先行していなければならないと結論されるであろうからです。もちろん同じことは,現実的に存在する個物の観念の場合にも妥当します。
一方でこれらの定理Propositioは,このようにある個物ないしは現実的に存在する個物の観念から,原因,その原因,さらにその原因というように辿っていっても,この関係は無際限に連鎖していくだけであって,どこかで第一原因causa primaに到達することはないという,僕がいうところの消極的意味も含んでいます。するとこれらの定理の中に,河井がいっている類推の否定negatioが含まれているともいえるのではないでしょうか。