スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

共同通信社杯&使用開始

2018-09-18 18:59:52 | 競輪
 高知競輪場で争われた昨日の第34回共同通信社杯の決勝。並びは平原‐和田の東日本,太田‐清水の四国中国,山崎‐山田の九州で郡司と浅井と村上は単騎。
 山崎がスタートを取って前受け。3番手に平原,5番手に浅井,6番手に村上,7番手に太田,最後尾に郡司で周回。残り2周のホームで村上が上昇。山崎は引いて村上が誘導の後ろに。太田は村上に続いてそのまま村上の後ろ。郡司が上昇すると村上が迎え入れるような形で誘導の後ろは郡司に。バックから打鐘にかけ,太田がペースを落としたために,2番手の村上と3番手の太田の差が大きく開いていきました。残り1周のホームで誘導が退避。太田はここから仕掛けていきましたが郡司も踏んだため,太田は内に斬り込み,村上と接触。村上は落車し,太田も車体故障を起こして脱落。ホームを回ると山崎が仕掛け,バックで郡司の前に。離れそうだった山田も何とか続きました。太田が脱落していたため郡司の後ろになっていた清水が山田にスイッチ。直線の手前で山田を弾いて太田を捕えました。そこに後方で前の動きをすべて見ていた平原が外から強襲。フィニッシュ前で清水を差して優勝。清水が4分の1車輪差で2着。平原の外から伸びた浅井が1車輪差で3着。
                                    
 優勝した埼玉の平原康多選手は5月の京王閣記念以来の優勝。ビッグは昨年2月の全日本選抜競輪以来の9勝目。共同通信社杯は初優勝。このレースは単騎の選手が3人いて,その3人がそれぞれ有力視できるような脚力も備えていたので,予想は困難でした。太田が打鐘前のバックでペースを落としたところをみると,よほど先行するのは嫌だったのでしょう。郡司が山田をどかせれば有利になりましたが,山田が番手を死守。このために自力がある清水に展開は向きました。あれでさらに後ろだった平原に差されてしまったのは,現状の実力の差というほかありません。あまり動かずに最も落ち着いてレースをしたのは平原だったとはいえ,そこが勝因になったと思います。

 5月10日,木曜日。妹を迎えに行きました。翌日に妹の通院があったためです。
 5月11日,金曜日。妹の歯科検診でした。予約は午後3時。この日もクリーニングだけでしたが,歯がよく磨けていると担当の歯科助手から褒められました。妹に聞いてみますと,グループホームでも通所施設でも,自身で歯を磨いた後に職員にみてもらい,磨き残したところがあれば落としてもらっているとのことでした。このためによく磨けていたのだと思います。グループホームの職員とは連絡帳でやり取りをしていますので,このことについてはお礼をしておきました。診察はさほど時間を要さなかったのですが,精算は90人ほどが待っている状態で,かなり待たされました。このために帰宅したのは午後5時15分になりました。
 母はこの日からワンデュロパッチの使用を開始しました。これは処方された飲む鎮痛剤の残量が少なくなってきたからです。水で濡らすことは好ましくないという使用上の注意がありましたので,貼ったのはこの日の夜に風呂を出てからでした。効果は24時間ですから,毎日,ほぼ同じ時間に貼り換える必要があります。入浴する時間はほぼ一定なので,入浴前に剥がして入浴後に貼るというのが,この日以降の母の日課となりました。この貼付薬については,基本的に母自身が貼ったり剥がしたりしていました。なお,母はこの後で下痢をするようになったとのことですし,13日の日曜から15日の火曜までは体調不良という状態を自覚していました。実際に母が残したノートも,13日から15日までの分は15日にまとめて書かれています。ただこの体調不良がワンデュロパッチの副作用であったのかどうかは分かりません。痛みを感じたら鎮痛剤を飲むという状態に比べたら,楽であるというようには感じていたようです。
 5月14日,月曜日。妹を送りました。午後2時ごろにKさんが来訪し,しばし母と話をして帰りました。
 5月15日,火曜日。ロサンゼルスの伯母が来日しました。僕の家に到着したのは午後7時40分でした。これは母の依頼による来日で,翌日から帰国前日までは伯母が家事のほとんどを担当しました。
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長良川鵜飼カップ&利尿剤

2018-09-09 19:08:54 | 競輪
 岐阜記念の決勝。並びは山崎‐大槻の北日本,和田‐山賀の南関東,竹内‐坂口の中部,松浦‐桑原の中国で金子は単騎。
 山賀がスタートを取って和田の前受け。3番手に山崎,5番手に竹内,7番手に松浦,最後尾に金子で周回。残り3周のバックから松浦が金子まで連れて動きました。コーナーで竹内の横に並ぶと,竹内は引き,5番手が松浦,7番手に金子,8番手に竹内という隊列に変化。5番手に入り直した松浦はホームから再び徐々に上昇。そのまま踏んでいき打鐘で和田を叩いて松浦が先頭に。引いた竹内も発進。ホームでは松浦を叩いて竹内のかまし先行に。待っていた松浦は坂口をどかして竹内の番手を奪取することに成功。これを外から和田,さらに外から山崎が捲る展開。山崎の勢いがよかったので,直線の手前で3番手から先に踏んだ桑原が前のふたりを差し切って優勝。捲った山崎が半車輪差で2着。番手を奪った松浦が1車輪差で3着。
 優勝した山口の桑原大志選手は記念競輪初優勝。このレースは竹内が先行する可能性が高く,そうでなければ成行きのような形で山崎が先行することになると推測していました。松浦は近況は好調でしたが,打鐘で前に出て,先行しても構わないというレースをしたのは僕にとっては予想外。最終的には竹内の先行にはなりましたが,松浦を叩くために脚を使わざるを得ませんでした。なおかつ松浦がうまく番手を奪取。これが可能になったのは先行も辞さずというレースをしたからです。この松浦の積極性が,マークした桑原に味方したというレースだったのではないでしょうか。

 多量ではないとしても腹水は溜まっていました。また,足のむくみも肥大化して歩行にも支障を来すようになっていましたから,これについては処置をするということで,利尿剤の処方が決定しました。この時点でまだ母の腕には造影剤を注入するための針が装着したままでしたので,看護師がその針を抜いてこの日の診察はすべて終了しました。12時45分でした。僕たちはそのまま会計の受付に行き,計算の間に院内の食堂で昼食を摂りました。そして支払いをして帰りました。帰宅したのは午後1時45分でした。
 実はこの日は雨が降っていたのですが,午後にはやむ予報になっていました。実際にそうなりましたので,雨がやんでから僕が薬局へ行きました。ただこの日は客が多く,薬を受け取るまでに1時間ほど待たされました。処方された利尿剤は2種類です。ひとつがスピロノラクトンというもので,もうひとつがフロセミドというものです。スピロノラクトンは1回2錠,フロセミドは1回1錠を朝食後に飲むことになっていました。この薬については母は処方された通りに服用しました。これは腹や足のむくみに対する苦痛が大きかったからだと思います。薬自体は効果が高かったのですが,母にとっては飲みにくい薬だったようです。おそらくそれは錠剤であったからで,すでにこの時期の母は,嚥下するということが以前のようにはできなくなっていたのだと推測されます。
 4月20日,金曜日。妹を迎えに行きました。妹は昼食は完食したとのことでしたが,その後で体調の不良を訴えたらしく,医務室で横になっていました。帰るのは問題ありませんでしたが,家に着くとまた気持ちが悪いと言い出し,布団に入って眠ってしまいました。この日は夕食は食べませんでしたので,少し心配になりました。
 4月21日,土曜日。この日は妹は食事を摂ることができました。ただ,体調が万全であるとはいい難く,食べるために起きている時間を除けばほとんどの時間を布団で横になっていました。
 4月22日,日曜日。ピアノのレッスンがあって,妹はそれはこなせましたが,やはり食べているか眠っているかという状態が続いていました。
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瑞峰立山賞争奪戦&予約時間

2018-09-02 19:00:08 | 競輪
 富山記念の決勝。並びは片折‐平原‐宿口の埼玉,山中‐伊勢崎‐大塚の南関東,山本‐古性の近畿で浅井は単騎。
 出渋る発走になりましたが古性がスタートを取って山本の前受け。3番手に片折,6番手に浅井,7番手に山中で周回。残り3周のホームから山中が上昇。前受けになった山本は後方を見やりながら突っ張る構えをみせ,バックで誘導を斬りました。しかし内を開けてしまったためそこを片折に突かれ,残り2周のホームからバックにかけ,浅井まで4人が前に。5番手に山本,7番手に山中の一列棒状となって打鐘から片折が発進。バックで山中が捲っていくと先んじて浅井も発進。平原は車間を開けて浅井の捲りに合わせようとしましたが,浅井に出きられてしまいスイッチするような形に。ここからの逆転は困難で優勝は浅井。2車身差の2着に平原。捲り追い込みの山中が1車輪差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は6月の久留米記念以来の優勝で記念競輪23勝目。富山記念は初優勝。このレースは片折がどういう形ではあれ力は出すでしょうから,番手を回る平原がかなり有利だろうと思っていました。片折の力の出し方はいろいろありますが,今日のレース展開は平原にとって最高の形。それで浅井に捲られてしまったのは,油断があったとしか思えないです。浅井は最初から埼玉ラインの後ろを回っていましたが,この位置取りが浅井の勝因であるとはいえるでしょう。

 薬局にも寄って帰宅したのは午後5時20分。この日はインスリンも注射針も足りていました。
 3月8日,木曜日。母の呼吸器科の診察に同行しました。
 予約が9時半になっていましたので,家を出たのは8時50分です。先に2階でX線の撮影をしてからの診察でしたが,肺の癌は大きくなっていないとのことでした。なので経過を観察するということになり,次回の予約は7月5日になりました。肝臓の癌の状況からするとそこまで母の生命が保つのかどうかは甚だ疑問ではあったのですが,これはあくまでも肺の検査です。他面からいえば肺の癌が母に対して何らかの影響を及ぼすということは,母が生きている間には起こらないだろうというように僕は想定しました。10時20分には帰宅することができました。
 3月9日,金曜日。10日が土曜レクリエーションだったので,この週末は妹がグループホームで過ごすことになっていました。ですから迎えに行く必要はありませんでした。午前中に根岸駅に行く用事がありましたので,ついでに歯科検診の予約を入れて帰りました。
 3月12日,月曜日。この日が歯科検診でした。予約は9時半。この日もクリーニングを施しただけでしたが,右の下の奥のブリッジと,その手前の歯との隙間をよく掃除するようにという注意が与えられました。おそらくその部位に汚れが目立っていたためだと思います。
 3月15日,木曜日。16日に妹の本牧脳神経外科の通院の予約が入っていましたので,この週は木曜に迎えに行きました。
 3月16日,金曜日。妹と本牧脳神経外科へ。予約は午前10時でした。この日は診察と,前回の採血の結果の報告だけでした。
 予約がこの時間になっているのは,以前は小港の通所施設に通っていましたから,通院の後,すぐに通所施設に送れるようにです。ですが現在は通所施設は日野なので,通院の日は休むことになります。なので次回から,予約を午後3時に変更してもらいました。前にもいいましたが妹の睡眠時間は長く,そうした方がゆっくり眠っていることができるからです。帰途に薬局に寄って薬をもらい,帰宅したのは11時35分でした。
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北条早雲杯争奪戦&臓器の圧迫

2018-08-28 19:05:59 | 競輪
 小田原記念の決勝。並びは近藤隆司‐郡司‐中村‐近藤俊明の南関東と清水‐井上の西国で高橋と木暮と志智は単騎。
 スタートを取ったのは井上で清水の前受け。3番手に木暮,4番手に志智,5番手に高橋,6番手に近藤隆司で周回。残り3周のバックの中間から近藤隆司が発進。コーナーで清水が誘導を斬って突っ張る構えをみせましたが,ホームでは近藤隆司が叩いてこのラインが出きりました。5番手に清水,7番手に木暮,8番手が入れ替わって高橋,最後尾に志智の一列棒状でバックから打鐘。ホームの入口から清水が発進。バックでは近藤隆司を捲ることに成功。ただし番手の井上を郡司がどかし,自力に転じて清水を追いました。車間はあったものの直線の入口では郡司が清水の前に出て,そのまま粘り切って優勝。マークの中村が半車身差の2着に続いて南関東のワンツー。自力で郡司の外を捲るレースになった木暮が2車身差で3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は昨年4月の川崎記念以来の記念競輪4勝目。小田原記念は一昨年以来の2勝目。ここは南関東が4人で結束するような並びになりましたので,近藤隆司が優勝を捨てて駆けていく公算が高かったのですが,その通りのレースになりました。清水に捲られてしまったのは誤算だったかもしれませんが,井上を捌くことができましたので,一旦は差が開いてしまいましたが郡司と清水の現状での力量差から考えれば順当な優勝だったといえそうです。清水は最後は一杯になってしまいましたがいいレースをしたと称えられてもいいのではないでしょうか。

 2月28日,水曜日。先週の水曜日に母の消化器内科の通院があり,貧血が進んでいるということで輸血をしました。その経過を観察したいということで,翌週のこの日にまた診察の予約が入っていました。この日は11時の予約でした。
 病院に着いたのは10時40分です。貧血の経過の観察ですから当然ながら採血が必要なので,まず中央検査室に向いました。この日はふたりの患者が母より先に採血の順番を待っていました。
 診察が始まったのは正午です。ヘモグロビンの値は改善しているとのことで,これは要するに貧血は解消しているということでした。また,前回は下血があったためにCTの撮影を行いました。下血の原因は分からなかったのですが,詳しい解析の結果が出ていて,それによれば母の肝臓の癌はかなり肥大化していて,その癌が腎臓を圧迫しているとのことでした。このために母の腎臓は,本来のあるべき位置から変異しているとのことでした。こういうのもヘルニアというのかどうかは僕には分かりませんが,体内の癌が大きくなってそれが臓器を圧迫するということが生じるということは,このときに初めて知りました。これでこの日の診察は終了しました。次回は4月ということだったのですが,母はそこまで体力が続く自信がなかったようで,医師にその旨を話すと,3月に予約を入れてもらうことができました。診察の後,院内の食堂で昼食を摂ってから帰りました。帰宅したのは午後1時10分でした。
 先週の通院のときに鉄剤が処方されていました。ヘモグロビンの改善は輸血の効果が大きいでしょうが,鉄剤も飲み続けた方がよいというのが主治医の判断でした。先週の処方は7日分でしたので,この日に改めて処方箋が出されました。一方,痛み止めのカロナールは,処方されたものの母はまだ服用していませんでした。つまり残りがあったので,こちらはこの日の処方はありませんでした。胃薬は処方されていましたが,母はこれは飲んでいません。この日に処方された鉄剤と胃薬については,この日の午後に僕が薬局に行って受け取りました。なお処方された鉄剤は,先週と同じ薬剤で,量にも変更はありませんでした。
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平成30年7月豪雨被災地支援オールスター競輪&三者面談

2018-08-19 19:00:08 | 競輪
 いわき平競輪場での第61回オールスター競輪の決勝。並びは渡辺‐中村の東日本,竹内‐浅井‐金子の中部,脇本‐古性‐村上の近畿で山崎は単騎。
 渡辺がスタートを取って前受け。3番手に竹内,6番手に脇本,位置を取ることができなかった山崎が最後尾で周回。残り2周のホームから竹内が動き,バックで渡辺を叩いて誘導を斬ると打鐘から全開で駆けていきました。竹内ラインを追って発進した脇本は全開の竹内にてこずりはしたものの,ホームの出口で竹内を叩くことに成功。ただ古性が浅井のブロックを受けて離れてしまいました。古性はバックでは何とか竹内の前までは出ましたが,すでに脇本とは大きな差。マークの村上は浅井に弾かれ,古性の後ろに浅井。脚を溜めていた渡辺はいいスピードで捲っていきましたが,これも浅井がブロック。古性が離れたので単独の捲りになった脇本はそのまま後続を引き離して圧巻の優勝。渡辺をブロックして自力で出た浅井が3車身差で2着。立て直した渡辺が1車身差の3着。最後に脚を使う形で大外を追い込んだ山崎が8分の1車輪差まで迫って4着。
                                  
 優勝した福井の脇本雄太選手は前回出走の福井記念からの連続優勝。ビッグはこれが初制覇。ここは現状の力量では上位なので最有力候補。よほどの先行争いになれば渡辺の優勝もあるかと見立てていました。竹内を叩くのにてこずったように見えましたが,あるいはバックの出口からホームにかけてはタイミングを計っていただけだったのかもしれません。捲ってしまってからの走りは,古性が離れてしまったこともありますが,他を寄せ付けない現状の力量の差を見せつけたといったところでしょう。ぴったりとマークすることができる選手でないと,今の脇本を抜くのは相当に難しそうです。ようやくといった感のビッグ初優勝ですが,これは序章にすぎないのではないでしょうか。

 利用者の担当者というのは妹の担当者のことですが,これは通所施設の担当者ではなくグループホームの担当者です。このときはSさんという方でした。今年の4月からSさんはグループホームの責任者になりました。会社でいえば昇進に該当するのではないでしょうか。現在はKさんが妹の担当者になっていますが,このときはまだSさんでしたから,Sさんと妹,そして僕の3人による面談でした。これはグループホームで行ってもよいし通所施設で行ってもよいということで,事前に僕に打診がありました。ただいずれの場合も通所施設の作業時間内に行うことはできないということでしたので,僕にとって最も都合がよい時間かつ場所ということで,妹を迎えに行く日に通所施設で行いたいと申し出て,この日に決定したものです。
 基本的にはSさんから,妹のグループホームおよび通所施設での生活ぶりの報告があり,僕はそれを聞く役目でした。ただ,妹がどのような人間であってどのようなことを好むのかといったことなどは僕の方が知っています。ですから妹をどのように扱うのが最もよいのかといったことなどについては,Sさんから僕の方に質問も出ますので,僕はそれに答えますし,また質問が出なくても,僕の方から伝えておいた方がよいと思えることなどについては伝えておきました。たぶんこの日に僕の方から話した事柄の中で最も重要だったのは,妹の体調をどのような観点から把握するのがよいのかということだったでしょう。というのは,妹はものすごく眠いときに,それを「気持ち悪い」ということばで表現する場合があり,このことばが体調不良を示しているのかどうかを把握するのは,たぶん妹をよく知っていないと困難であろうと思われるからです。そして僕は,というかこれは母もですが,妹の体調については食欲によって把握します。つまりたとえ「気持ち悪い」ということばを妹が発したとしても,出された食事を完食しているなら何も心配はありません。しかしたとえそのようなことばが出ない場合であっても,食事を残すということがあるとすれば,体調不良を疑うべきなのです。妹は出されたものは全部食べるのが常だからです。
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アーバンナイトカーニバル&ピアノのレッスン

2018-08-13 19:00:46 | 競輪
 川崎競輪場で争われた昨晩のアーバンナイトカーニバルの決勝。並びは池田‐岡の埼玉,佐々木龍に佐々木雄一,佐藤‐荒井‐大坪の九州で伊藤と鷲田は単騎。
 荒井がスタートを取って佐藤の前受け。4番手に池田,6番手に伊藤,7番手に鷲田,8番手に佐々木龍で周回。残り3周のバックを出るところから佐々木龍が上昇を開始。ホームでは池田の横あたりを併走。バックの入口で佐藤を叩きました。打鐘から池田が発進。佐々木龍と先行争いのような形になりましたが,ホームに入るところで池田が内に斬り込み,接触した佐々木龍は車体が故障し棄権。池田ラインに続いた鷲田が3番手で,この後ろに佐々木雄一がスイッチ。佐々木雄一の後ろになった佐藤がホームから発進。岡が止めることができず,バックの出口で池田を捲りました。この佐藤の動きに乗った荒井が直線で差し込んで優勝。池田マークから佐藤と荒井の間を突いた岡が4分の3車身差で2着。捲った佐藤は4分の3車輪差で3着。
 優勝した佐賀の荒井崇博選手は4月の西武園でのS級エボリューション競走以来の優勝。GⅢは一昨年10月の千葉記念以来の優勝で14勝目。このレースは佐藤も佐々木龍もGⅢに手が届きそうというクラスではないように思えましたので,池田か荒井のうち,展開が向いた方が優勝するのではないかと見立てていました。池田が先行策に出たのは意外だったのですが,道中の動きによって位置が後ろになってしまったので,止むを得ず発進したということではなかったでしょうか。現状は先行で粘り切れるような力はないようで,これを佐藤が捲り切りました。この捲りに乗ることができた荒井に展開が向いたということでしょう。オールスター競輪の直前であるだけにGⅢで有力になる選手の参戦が当初からなく,難解なレースだったと思います。

 1月26日,金曜日。妹を日野の作業所へ迎えに行きました。
 1月27日,土曜日。妹のピアノレッスンがありました。レッスンは11月19日に行った後,12月になればグループホームに入所することになりそうなので,その後の予定を立てることが困難で,12月は行うことができませんでした。しかし実際に入所しての生活を開始して,どの週末には家にいるかということが事前に把握できることが判明しました。ですからその週であればレッスンの予定を入れても大丈夫ということになりましたので,こちらから先生に連絡を入れ,この週から再開ということになったのです。ただし,昨年までは原則的に月に2回のレッスンでしたが,今年からは月に1回に変更してもらいました。先生の方にも予定がありますから,月に2回の予定を合わせるのは難しくなることも生じると予想され,それであるなら最初から月に1回に限定してしまった方がよいだろうと判断したからです。なお,これはレッスンですから当然ながら先生には月謝を払っています。ただ,これまでより回数が減りましたので,今年からは月謝の額を半分にして月ごとに払うのではなく,これまでの同じ額の月謝を隔月で支払うという形態にしています。先生に月謝を渡すのは偶数月です。なお,これは母と先生との間で決定した事項でした。
 1月29日,月曜日。妹を日野の施設まで送りました。
 この日は妹が12月まで通っていた小港の施設の保護者との昼食会に母は出掛けています。前の週の木曜には,妹が卒業した養護学校の保護者との昼食会にも行っているように,この頃の母はこうした食事会に出席するくらいの体力が残されていたのです。しかし残されている時間が限られているということも母にはよく分かっていましたから,この時期の誘いには可能な限りは出席していたのです。
 2月1日,木曜日。妹を迎えに行きました。原則的には月曜日に送って金曜日に迎えに行くのが基本ですが,木曜日に迎えに行ったのには理由があって,翌日に妹の歯科検診が予定されていたからです。週中だと送迎が不便になってしまうので,妹の通院はすべて金曜日に予約しています。
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燦燦ダイヤモンドカップ争奪戦&Yさん

2018-08-05 19:11:57 | 競輪
 松戸記念の決勝。並びは吉田に中村‐伊勢崎の千葉,石塚‐松岡‐村田の近畿,太田‐桑原の四国中国で中川は単騎。
 桑原がスタートを取って太田の前受け。3番手に中川,4番手に吉田,7番手に石塚で周回。残り3周のホームから石塚が発進の構えをみせると吉田が合わせて上昇。バックでは前受けの太田が突っ張り,内に差し込んだ石塚と外の吉田で4番手を併走する隊列に。残り2周のホームから外の吉田が再上昇。太田を抑えてバック。ここから石塚が発進。吉田も踏み込んで打鐘。この先行争いは吉田が制し,浮いた石塚は脱落。伊勢崎の後ろに松岡がスイッチ。後方になった中川は単騎で動き,バックでは松岡の後ろの村田の横あたり。そのまま勢いよく捲った中川が吉田を飲み込み,あとは抜け出す一方で優勝。吉田の番手から差してきた中村が3車身差で2着。コーナーで中川を追うように自力で発進した松岡の後ろから,直線は松岡の内を伸びた村田が4分の3車身差で3着。
 優勝した熊本の中川誠一郎選手は先月の宇都宮記念以来の優勝で記念競輪5勝目,GⅢ6勝目。松戸記念は初優勝。このレースは太田,吉田,石塚と若い先行選手が揃ったので,何かしらの先行争いが起こることが予想され,単騎でも脚を溜められそうな中川には有利な展開になりそうでした、実際に吉田が抑えにきたところで一旦は太田が突っ張り,吉田が叩いた後で石塚が発進して先行争いになるなど,早い段階から激しいレースに。地区的には太田ライン追走でもおかしくありませんでしたが,そうではなく単騎でも自力勝負を選んだのがよかったのだと思います。

 Yさんはかつての母の同僚です。ただ,Kさんは僕が3歳の頃から小学校を卒業するまで母が勤務していた中学校の同僚で,Yさんは僕が中学校に入学した年に母が転勤した中学校での同僚です。母が特殊学級,現在でいう特別支援学究を担当するようになったのは,この中学校で勤務していたときでした。
 Yさんには母の癌について詳しいことを知らせてあったわけではありません。ただ,年賀状を出しましたので,その中で,大腸の手術をしたということは書き添えておいたそうです。Yさんの旦那さんが薬剤師で,その文言にピンとくるものがあったようです。それでこの日に訪ねてきました。もっともそれは突然の訪問とは少し違います。年賀状を読んだYさんが事前に電話をかけてきたので,そこで母が詳しい話をし,この日の訪問が決定したということです。
 1月7日,日曜日。この日はKさんが訪問してきて,一緒に夕食を摂りました。妹はグループホームに滞在中のため不在でしたが,来日中の伯母がいましたので,母と僕と合わせて4人での夕食です。なお,基本的に伯母の来日中は伯母が家事のほとんどをこなします。例外は風呂の掃除で,これは僕にとっての始まりの日以降は必ず僕が担当することになっています。したがってこの日の4人分の夕食の支度をしたのは伯母でした。
 1月9日,火曜日。母と伯母,僕の3人で墓参りに行きました。日野公園墓地にある僕の家の墓に行くことができたのは,前年の7月19日以来ですから,およそ半年ぶりのことでした。
 1月12日,金曜日。妹を迎えに日野の作業所に行きました。墓地と作業所は同じ日野で,墓地は作業所からでいえば帰るときのバスから見えます。ただ日野公園墓地というのは非常に敷地面積が広いため,僕の家の墓に行くという場合には,この帰り道にある入り口から入ると中をかなり歩かなければならないことになります。
 グループホームで過ごした週末のことについて妹に尋ねましたが,カラオケはすることができたようです。また,妹はこれまでと比べると睡眠時間が激減している筈で,昼寝をしてもいいと言っておいたのですが,それはしなかったようです。
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ふるさとカップ&入所の日

2018-07-31 18:36:20 | 競輪
 弥彦記念の決勝。並びは坂本‐菅田の北日本,鈴木‐諸橋の関東,和田‐簗田の南関東で椎木尾と岩津と湊は単騎。
 前受けとなった和田をまず叩きにいったのが坂本で,それが残り2周のホームに入るところ。坂本はそのまま誘導の後ろに。3番手は椎木尾で椎木尾の後ろは内で和田,外が鈴木。鈴木マークの諸橋の後ろに湊が続き,岩津が最後尾でホームを通過。バックに入って鈴木が発進。坂本を叩いて打鐘。湊と岩津も続き,コーナーで椎木尾も5番手にスイッチ。6番手に坂本,8番手に和田の一列棒状に。鈴木のスピードがよく,後ろの選手は動けず。車間を取って直線の入口から踏み込んだ諸橋が優勝。諸橋マークのレースになった湊が4分の1車輪差で2着。3番手から前のふたりの間を割ろうとした岩津は届かず4分の3車輪差で3着。
 優勝した新潟の諸橋愛選手は昨年10月の松戸記念以来となる記念競輪6勝目。地元となる弥彦記念は昨年に続く連覇で2勝目。このレースは単騎の選手が多かったこともあり,地元の諸橋を連れた鈴木の先行は予想できたところ。脚力の面からは和田がライバルになりそうでしたが,坂本が抑えた後で鈴木がうまく封じ込め,8番手に置くことができました。また,単騎の選手も競り掛けてはこない上に3人ともラインに続いてくれましたので諸橋にとっては絶好の流れ。和田はもっと早く引ききってしまった方がよかったように思います。

 搬入を終えてバスで上大岡に戻ったのが正午近く。Kさんと僕と母の3人で,近くの店で昼食を摂りました。Kさんの自宅は上大岡から近いのですが,僕の家まで自転車で来ていました。なので3人で僕の家まで戻りました。それが午後1時15分。Kさんはそれから自転車で自宅に戻りました。
 12月20日,水曜日。妹の本牧脳神経外科の通院がありましたので,この日は通所施設までの送りのサービスは中止にし,僕が通院に同行しました。予約は午前10時でした。この日は診察だけでなく採血もあったのですが,妹は血管が浮き出にくい体質で,大概の場合は採血は肘の裏の部分からするものだと思うのですが,手の甲から採血しました。それでも1度目は失敗して十分に血液を採取することができなかったため,妹は左右の両方の手に注射されることになってしまいました。この通院を終えたら妹を通所施設まで送り,僕はその帰りに根岸駅の薬局に寄り,妹の薬をもらって家に戻りました。帰宅したのは11時45分です。
 12月21日,木曜日。母が業者に依頼して家の大掃除が行われました。3時間ほどで終了しています。
 12月22日,金曜日。妹がこれまでの通所施設に通う最後の日でした。妹のために施設の方でありがとうの会というのを開催してもらいました。これは午後2時からで,母も同席しています。妹はきちんとお別れの挨拶ができたようです。
 12月25日,月曜日。妹がグループホームに入所する日です。これは僕が送って行きましたが,場所の関係で,グループホームではなく通うことになる通所施設の方に行きました。10時から10時半の間にということでしたので,その時間に間に合うようにしました。この時間はこの日に限ったことでなく,この日以降,送るときには定まった時間です。施設はキリスト教関連で,これまでもそうだったのですが月曜は全体礼拝というのがあります。その後で,グループホームから通っている人の専用の部屋で,グループホームの人たちによる朝礼があり,僕はそのふたつにはこの日は出席しました。ただしこれはこの日限りのことです。全体礼拝でも朝礼でも,妹は挨拶しました。
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不死鳥杯&2017年11月の通院

2018-07-24 18:57:50 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは山崎‐成田の福島,山中‐桐山の南関東,脇本に中川,松浦‐桑原の中国で武田は単騎。
 中川がスタートを取って脇本の前受け。3番手に山崎,5番手に松浦,7番手に武田,8番手に山中の周回。残り2周のバックから山中が上昇。ホームの手前で脇本を叩きました。桐山の後ろに続いたのが松浦で,武田もこのラインを追走。叩かれた脇本が引いたので武田の後ろに山崎で8番手に脇本という一列棒状に。山中はここからぐっとペースを落としました。バックで山崎が上昇。脇本も続きました。山崎が山中を叩いたあたりで打鐘。脇本は外を発進。ホームで山崎を叩いてかまし先行に。この先行に3番手となった山崎は離れてしまい,バックの時点で優勝争いは後ろを千切った脇本と中川に絞られました。しかし直線に入っても中川はほとんど差を詰められず,危なげなく押し切った脇本が優勝。マークの中川が1車身差の2着でこのラインのワンツー。山崎は第二先行のような形態のレースでしたが,後ろから捲り上げようとする選手と山崎マークの成田のもつれがあり,そのまま8車身差の3着に流れ込みました。
                                     
 優勝した福井の脇本雄太選手は昨年9月のいわき平のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年の福井記念以来で通算6勝目。2014年2015年も優勝していて,地元の福井記念は連覇で4勝目。ここは現状の力量がほかの自力選手と違いすぎるので,よほどレースで失敗しない限り,脇本か中川が優勝するだろうとみていました。ほかに先行を得意とするタイプの選手が不在でしたから,前を取って押さえられたらあっさりと引き,自分のタイミングで仕掛けるというレースになりましたので,マークの中川も寄せ付けない順当なレースに。ビッグを制覇する日もかなり近付いていると思います。

 HbA1cは6.9%になっていました。これは10月の通院のときと同じ数値です。ですが昼食前と夕食前には低血糖を示す数値が出ていました。サマリーによれば昼食前は5.0%が低血糖で,夕食前は10.0%が低血糖でした。なおここでいう低血糖は,血糖値が70㎎/㎗未満の場合で,それ以外,すなわち朝食前と就寝前は低血糖は0でした。主治医はHbA1cは上がっても低血糖の頻度を抑制することを目標とするタイプでした。そして低血糖が発症する時間帯が限定されていましたから,超即効型のインスリンの注射量を減らすように指示が出されました。持続効果型のインスリンはそれまでと同様に0.11㎎の注射を続け,超即効型については朝食前に0.11㎎,昼食前が0.06㎎,夕食前が0.08㎎の注射に変更するというものです。実際に僕はこの量で注射をするようになりました。
 この日にほかの結果で異常が出ていたのはLDLコレステロールだけで,64㎎/㎗で下限値を下回っていました。これも10月に続いての異常ですが,これについては何もいわれていません。
 次回の通院が翌年,というのは今年のことですが,1月に設定されました。これは何度かいっていることですが,血糖値を記入する自己管理ノートは,僕の場合は1月から12月で1冊が終了するようになっています。したがって年明けの分は記入できませんので,このノートをもらいました。
 いつものように薬局に寄ったのですが,この日はインスリンの在庫が足りていませんでした。これはオーダーはしていたのだけれども,この日は診察が早く始まった関係で薬局に寄る時間もいつもより早まったため,まだ到着していなかったようです。僕の通院は月曜なので,たぶん前日や前々日の土曜や日曜に注文しておくのは難しいのでしょう。この日のうちに配達してくれるということでしたので,代金だけ支払い,配達を依頼して帰りました。僕が帰宅したのは午後2時20分でした。インスリンはこの日の夜に配達されました。
 またこの日,14日に見学した入所施設から電話がありました。入所の正式な契約を12月4日に行いたいというものでした。
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サマーナイトフェスティバル&化学療法室

2018-07-18 18:57:58 | 競輪
 16日に松戸競輪場で争われた第14回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは菅田‐渡辺の北日本,平原に中村,深谷‐竹内‐浅井の中部で古性と松浦は単騎。
 浅井がスタートを取って深谷の前受け。4番手に菅田,6番手に平原,8番手に松浦,最後尾に古性で周回。残り4周の3コーナーから平原が上昇。松浦と古性も続きました。ホームに入って平原が深谷を叩くと深谷はすぐに引いて平原は誘導の後ろに。古性の後ろの5番手に菅田が入り,深谷が7番手の一列棒状に。深谷はバックから外に持ち出し,山おろしをかけるように残り2周のホームから発進。平原は合わせていき,打鐘で竹内のところに飛びつきました。ちょうどコーナーに差し掛かるところでインの平原が番手を奪取。残り1周のホームにに入ると菅田が発進。平原のブロックは凌いだものの深谷の前までは出られず。しかしバックに入ってから自力で出ていた渡辺は深谷を捲って優勝。2周の先行になりましたがよく粘った深谷が1車身差で2着。渡辺の後ろにスイッチした松浦が8分の1車輪差で3着。
 優勝した福島の渡辺一成選手は昨年10月の寛仁親王牌以来の優勝でビッグ5勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。このレースは深谷の先行が有力で,スムーズなレースになれば中部勢から優勝者が出るだろうと思われました。ただ,深谷が前で番手が竹内,3番手に浅井という並びになりましたので,竹内の位置に平原か古性が斬り込むということは大いに考えられ,その場合には菅田が不発というケースは考えにくく,瞬発力は随一の渡辺の優勝はあり得るとみていました。このレースの深谷はかなり強い内容でしたから,これなら中部勢は浅井が番手の方がうまく対応できたのではないかと思います。平原の斬り込み方も巧みでした。

 5階に向ったのは放射線治療を行う部屋,化学療法室があるからです。これは1クール目の退院の前日のオリエンテーションがあったときに説明しました。母はこの時点では飲み薬の服用を中止していましたし,どのような方法であれ抗癌剤による治療を再開するつもりはありませんでした。僕もそれを理解していました。ただ,この通院は前回の退院時に定められていたもので,そのときはまだ治療を断念する前でしたから,採血をしたら化学療法室で放射線治療を行うということになっていて,予約票にもそのような指示が記載してありました。なので僕たちはその指示に従ったのです。
 化学療法室で僕たちを迎えたのは,オリエンテーションのときに僕たちを担当した看護師でした。まずこの看護師による問診がありましたが,飲み薬の服用を中止してもよいということは,10月27日に母を診察してくれた医師の許可を得てのものでしたから,母がそれを飲んでいないということは看護師にも伝わっていました。また,そのオリエンテーションのときには,単に治療のことだけでなく,延命治療中の生活に関する話もあったのですが,この日もそれは同様で,オリエンテーションからこの日までの生活の様子なども尋ねられ,母はそれにも答えました。たとえば妹がグループホームに入所することができそうだというようなことも伝えました。本来なら放射線治療を行うところですが,この日は行わずに中断するという話が最後に看護師からありました。看護師が中止とは言わずに中断と言ったのは,おそらく中止を最終的に決定するのは消化器内科の担当医なので,看護師の一存で中止すると言うわけにはいかなかったのだろうと推測します。
 放射線治療は行わなかったので,僕たちはそのまま1階の消化器内科に向いました。この診察の予約は午前11時半になっていましたが,実際に診察が始まったのは12時15分くらいでした。
 薬を飲むのをやめたことはもちろん医師も知っていました。ただ,前にいったかと思いますが,この医師は延命治療をすることを強く勧めるタイプの医師でした。とくに母がそれをしないのはもったいないと思っていたのです。
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阿波おどり杯争覇戦&退院

2018-07-08 19:03:56 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは天田‐牛山の関東,三谷‐村上の近畿,太田‐小倉の徳島,山田に守沢で野田は単騎。
 天田がスタートを取って前受け。3番手に太田,5番手に三谷,7番手に野田,8番手に山田で周回。残り3周のバックから山田がゆっくりと上昇。守沢の後ろに三谷が続き,野田もこのラインを追いました。ホームの入口でまず山田が天田の前に。さらにホームで三谷が山田の前に出て誘導の後ろに。三谷‐村上‐野田‐山田‐守沢‐天田‐牛山‐太田‐小倉の一列棒状になると三谷が打鐘まで誘導を使い,そのまま先行。バックで先に動いたのが山田。車間を開けていた村上が対応しようとするとその内に進路を取ったのが野田。さらに後ろから天田も捲ってきて直線。粘る三谷,村上との間を割った野田,三谷マークの村上,山田の後ろから村上の外を伸びた守沢,天田マークからさらに外を伸びた牛山の5選手はさほど差がなくフィニッシュ。優勝は大外の牛山。8分の1車輪差の2着は写真判定となり村上。守沢が微差の3着で三谷が半車輪差で4着。野田が4分の3車輪差で5着。
 優勝した茨城の牛山貴広選手は昨年6月の富山記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは力では三谷ですが,打鐘まで誘導を使えたとはいえ得意とはいえない先行に。これは太田が強敵とみて,太田に自由には走らせないという作戦だったのだろうと思います。結果的に太田は経験不足を露呈するような形で後方に置かれて不発。展開的には村上が有利でしたが,山田マークではなく単騎を選択した野田が,まるで三谷の先行を予想していたかのように近畿ラインを追走し,最終コーナーで村上に内から絡んでいったため,村上の伸び脚に影響が出ましたし,展開にももつれが生じました。突っ込んできたのが守沢,牛山という,自力ではなくマーク選手だったというのは,逃げた三谷がそれだけ強かったということだと思います。

 入院は手術のためでした。ですから主治医は消化器外科の執刀医で,回診に来たのもその先生です。そして消化器外科での治療は明日の退院をもって終了することが同時に告げられたとのことです。これ以降は抗癌剤を用いての延命治療になるわけですが,それについて具体的にどのような治療をするのかということについては,消化器内科の主治医と相談して決定するようにいわれたようです。介護保険の認定に関しても,消化器内科の主治医の診断書が必要とのことで,相談するならそちらの主治医に対してでなければならず,よってこの段階では何も着手できませんでした。
 10月9日,日曜日。退院の日です。10時ということでしたから,それに間に合うようにみなと赤十字病院に行きました。退院当日は諸々の手続きがあるのですが,この日は看護師が病室にやってきて,ちょっとしたやり取りがあっただけでした。前日にいわれていた通り,入院費の支払いはしないで帰りました。タクシーを使いましたが,7階の病室からタクシー乗り場まで,母は僕につかまりながら歩きました。
 僕の家は母の母を引き取った関係でリフォームしましたが,かつて和室だった1階はフローリングになっています。ただ,そこに掘り炬燵をしつらえましたので,椅子にテーブルという生活ではありません。よってテーブルに向って座布団の上に座るという形になるのですが,母はもっと楽に座りたいということで,座椅子を所望しました。これはこの日のうちにAmazonで注文しました。この,椅子にテーブルではなくフローリングに座布団という形式での生活が,後に母を苦労させることになります。一概にはいえませんが,老後を見据えて家を設計するのであれば,たぶん椅子にテーブルというのを生活の中心に据えた方がよいのではないかと今の僕は思っています。
 10月11日,水曜日。退院してまだ2日ですが,消化器内科の通院の日でした。これが午前9時からで,僕が母に同行しました。入院した日も含め,これまではずっとバスで行っていたのですが,この日からはタクシーを使うようになりました。これ以降,母が病院に行く場合は必ずタクシーです。
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ワンダーランドカップ&診察券

2018-07-01 18:56:21 | 競輪
 宇都宮記念の決勝。並びは小松崎‐守沢の北日本,武田‐神山‐岡の関東,中川‐山田の九州で竹内と南は単騎。
 守沢がスタートを取って小松崎の前受け。3番手に武田,6番手に中川,8番手に南,最後尾に竹内で周回。打鐘前のバックまで動きはなく,まず竹内が単騎で上昇。小松崎を叩いて誘導を斬ったところで打鐘。武田が竹内の動きに乗ろうとしましたが,小松崎が引かなかったために,残り1周のホームの手前から竹内の後ろで競り合いに。この競りがバックまで決着がつかず,満を持して発進した中川が一捲り。このラインを追走する競走になった南までの3人が大きく抜け出して優勝争い。しかしフィニッシュまで並びは変わらず,優勝は中川。マークの山田が4分の3車輪差の2着で九州のワンツー。追走した南は半車身差の3着。
 優勝した熊本の中川誠一郎選手は4月の久留米のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年1月の和歌山記念以来の通算4勝目。GⅢは5勝目。宇都宮記念は初優勝。このレースは単騎の竹内が逃げてその番手で小松崎と武田の競り。中川は最初から6番手にいて脚を使わず,しかも隊列が短くなるという絶好の展開でした。この開催は初日にバンクレコードを出すなど好調だったようで,それでこの展開ですから楽だったのではないでしょうか。武田は小松崎が引いてくれると思ったのかもしれませんが,あのようなレースをするならもう少し早めに動き,自身で小松崎を叩いておいた方がよかったと思います。

 診察を終えた僕は会計の受付に向いました。これはいつもと同じです。昼食はまだでしたが,受付をしても計算に時間が掛かるため,すぐに清算できるわけではありません。なので受付だけして,昼食を摂れば,食べ終えたときには支払いが可能な状態になっている筈ですから,この順序にしたのです。このとき,会計の受付の担当者に診察券を渡したら,それが割れているので新しいものと交換すると言われました。これ自体は時間が掛かることではなく,すぐに新しい診察券が発券されたのですが,診察券が割れているということには僕は気が付いていませんでした。
 予約票を所定の機械から印字するときには診察券をその機械に挿入することが必要で,この日もそれは問題なく実行できました。その後は診察券は病院で使われているファイルに挟んでおく時間がほとんどです。なので,病院に着いてから割れてしまったということはあまりありそうもありません。割れたといっても二分割されたという意味ではなく,貫通するようなヒビが半分程度は入っていたという状態でしたから,僕が気付かずに診察券を機械に入れてしまったら,機械にはそれが読み込めたということであったかもしれません。診察券はたとえばキャッシュカードと同じような形状で,キャッシュカードもこのような形で割れてしまった場合には,そのまま使用できるというケースもあるからです。いずれにせよ,いつ割れたということは僕には分かりませんし,割れているということにすら気付いていなかったのです。
 新しい診察券を受け取ると院内の食堂に向って昼食を済ませました。食べ終わったときにはすでに計算は完了していましたので,会計も済ませることができました。それから僕は7階にある,談話室という名称の,ラウンジのような場所に行きました。大きなテーブルと椅子が何組も揃えてあり,自動販売機やテレビもあるところです。通常は見舞客と入院患者が談話をする際に使われる場所です。僕がそこに向ったのは,の手術中はここで待機しているようにと,手術室まで僕と母を案内した看護師に指示されていたからでした。の手術中もここで待っていた記憶があります。
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中野カップレース&虫の知らせ

2018-06-26 18:54:42 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは吉沢‐杉森の茨城,浅井‐山内の中部,山崎‐吉本‐井上‐坂本の九州で山中は単騎。
 山内がスタートを取って浅井の前受け。3番手に吉沢,5番手に山中,6番手に山崎で周回。残り3周のバックを通過して山崎が上昇。吉沢が合わせて動き,浅井の前に。その上を山崎が叩き,5番手に吉沢,7番手に浅井,最後尾に山中の一列棒状になって打鐘。このままホームを通過し,バックから吉沢が発進。吉本もこれをみて番手捲りを敢行。吉沢は井上の牽制は乗り越えましたがコーナーから直線入口にかけて吉本自身に牽制されスピードダウン。吉沢の外から追い込んだ浅井が突き抜けて優勝。吉本が4分の3車身差の2着で浅井マークの山内が半車輪差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は昨年のKEIRINグランプリ以来の優勝。記念競輪は一昨年11月の武雄記念以来で22勝目。久留米記念は2012年以来となる6年ぶりの2勝目。このレースは僕には九州勢の並びが不思議に感じられ,山崎が早い段階からかましていって,吉本が後ろを待たずに番手から発進というレースになるのではないかと予想していました。しかし実際には山崎はそれほど早くからは駆けず,そのわりにはすんなりとした一列棒状のレースに。吉本は吉沢に対してよく抵抗しましたが,結果からするともう少し早めに発進し,井上が吉沢を止めるのに専念できるようにした方がよかったかもしれません。コーナーから直線に掛けて前でもつれが生じたため,脚を溜めていた浅井の決め脚が炸裂したというレースだったと思います。

 この日,僕が日常的に使用している眼鏡の左の鼻あてが脱落してしまいました。鼻あての脱落は以前もありましたが,あの時は鼻あてとパットを繋ぐ部分の破損。今回はパットが眼鏡の接着部分から落ちてしまったもので,事情は異なりました。いろいろとやらなければならないことも重なっていたのですぐに眼鏡屋に行くことができませんでしたので,予備の眼鏡で対応しました。また,午後に薬局に妹のを取りに行きました。少し時間が掛かりましたがようやく入手することができました。
 9月27日,水曜日。父のひとつ上の兄の奥さん,僕からみると伯母にあたりますが,その方が来訪しました。こちらからは何も知らせてはいなかったのですが,何か虫の知らせのようなものがあったので,急に訪ねてみる気になったとのことでした。僕も母もそのことには驚きましたが,母の病状について話すことができました。
 22日に妹を通所施設まで送って行った帰りに,I歯科に寄って予約を入れてきたと書きましたが,その歯科検診がこの日でした。これが午前11時から。この時間の予約にしたのは妹を送って行った後でも間に合うようにしたためです。もっとも,ガイドヘルパーによる送りが始まっていましたから,もっと早い時間でも大丈夫になっていました。この日もクリーニングをしただけです。母の予約が10月4日に入っていましたが,これの取消も合わせてお願いしてきました。
 午後4時35分ごろに福祉事務所の方が来訪されました。これは妹の帰宅後に合わせてもらったものです。この日も僕は面談には参加していませんが,この日に来訪したのが23日に来訪した方とは別の方だということは僕にも分かりました。
 9月29日,金曜日。母の入院の日です。これは僕が同行しました。午後1時から2時の間に来るようにいわれていましたが,病院に着いたのは午後1時少し前でした。入院の受付の専用窓口が1階にありますので,まずそこで受付をした後,消化器内科の入院病棟がある7階に上がり,そちらの受付,これはナースステーションの窓口と同じ場所ですが,そちらでも受付をすると,7階の事務の方が病室に案内してくれました。
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高松宮記念杯競輪&肺の癌

2018-06-17 18:49:57 | 競輪
 岸和田競輪場で開催された第69回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは吉沢‐武田の茨城に同じ関東の木暮が競り,脇本‐三谷‐村上の近畿,原田‐山田の西国で菅田は単騎。
 村上が勢いよくスタートを取って脇本の前受け。4番手に原田,6番手に菅田,7番手に吉沢で,周回中は競らず,吉沢の後ろは武田‐木暮の周回に。残り3周のホームの出口で木暮が武田の外に並ぶと武田は引き,吉沢‐木暮‐武田の隊列に。この隊列のままバックから吉沢が発進。コーナーでは脇本を叩きました。ホームの入口から武田が木暮の内に入って番手戦に。競りの後ろに原田,山田の後ろに菅田,引いた脇本が菅田の後ろで残り2周のホームを通過。バックに入って脇本が発進。打鐘で吉沢を叩いて先行。武田が競り勝ち4番手の吉沢の後ろは武田‐木暮。7番手に原田,最後尾に菅田の一列棒状でホームを通過。バックに入る手前から三谷と村上の車間が開き始めました。後ろを牽制しているのかと思いましたがそうではなく,脇本‐三谷のスピードについていかれなかったようです。2番手と3番手,さらに3番手と4番手も離れたのでバックからレースは脇本と三谷のマッチレース。直線で差し切った三谷が優勝。脇本が半車輪差で2着。後方からの捲り追い込みとなった原田が5車身差の3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は日本選手権競輪以来の優勝でビッグ3勝目。高松宮記念杯は初優勝。確かに木暮は武田の前で走ることも多いのですが,関東勢が折り合えなかったため,吉沢は先行はしにくそうなので,このレースは脇本の先行が予想され,その展開なら脇本が逃げ切るか三谷が差し切るかというレースになるだろうと思っていました。3番手を追走した村上が離れてしまったくらいですから,脇本の先行はかなり強力だったわけで,三谷は差しはしましたが脇本の強さが際立ったレースという印象の方が強いです。

 姉と弟という関係性の違いがあるかもしれませんが,母はロサンゼルスの伯母のことは頼りにしていますが,福江島の叔父に対してはそうでもありません。そのために2016年の11月に叔父が福江島から来訪し帰島した後は,ほとんど連絡を取っていませんでした。母は自分の病気のことも伯母には伝えていたのですが,叔父には知らせていなかったのです。ですがこのとき,悪いニュースではありましたがたまたま叔父からこちらに連絡がありましたので,母はこちらの状況も伝えることができました。確かに叔父も大変な状況ではありましたが,こちらもこちらで大変ですから,入院したことに対して何か支援をすることは物理的に不可能だったのです。
 9月7日,木曜日。この日は母が妹を通所施設に送りました。これは僕に送れない状況が生じたためではなく,母の方から僕に申し出があったからです。通所施設の職員に対しては母の状況については僕から説明していましたし,母も日々の連絡帳を記していました。また,救急搬送された翌日には通院の中途にKさんと一緒に妹を送って行きましたから,そのときにも母は自身の身体の事情についての説明はした筈ですし,あるいはリアルなものとして感じていたであろう自身の死後の妹のことについて,何か相談していたかもしれません。そういうわけでできれば母も,自分の体力面から可能であるなら通所施設の職員たちと何度か会っておきたいという気持ちもあったのだろうと思います。この日はそれだけの体調にあったということだと解してください。
 9月9日,土曜日。ガイドヘルパーを利用しました。カラオケでした。またこの日は午後2時前にKさんが来訪しました。Kさんは出羽三山方面に旅行に行ってきたとのことで,お土産を持参してきてくれました。
 9月10日,日曜日。母と妹は美容院に行きました。美容師は母と親しい方ですので,自身の身体のことについて,話してきたものと思います。
 9月11日,月曜日。呼吸器科の通院でした。これは前回のPET検査の結果の報告です。肺にも癌はありましたが,ごく小さいものでした。ただし,通院は続けることになっています。
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国際自転車トラック競技支援競輪&痙攣

2018-06-10 19:08:09 | 競輪
 取手競輪場で争われた第7回国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びはブフリ‐ボス-グレーツァーの外国,金子-鈴木庸之の関東,中井-林の近畿中部で鈴木裕と山中は単騎。
 前受けはブフリ。4番手に金子,6番手に中井,8番手が山中で最後尾に鈴木裕という隊列。残り2周のホームで中井が上昇し,出口ではブフリを叩いて誘導を斬りました。山中,鈴木裕が続き,さらに金子がスイッチし,引いたブフリが7番手の一列棒状に。打鐘後の3コーナーからブフリが反撃。ボスが4コーナーで鈴木庸之にブロックされて続けませんでした。ホームで鈴木庸之の後ろにスイッチしていたグレーツァーが自力で追い上げましたが2コーナーでまた鈴木庸之がブロック。ここで金子と鈴木庸之の車間が開いたので最後尾になっていたボスが金子の後ろにスイッチ。林が執拗に牽制したもののそれを乗り越えたブフリがバックで先頭。そのまま中井との差を一方的に広げていって優勝。金子の後ろから自力で発進したボスが4車身差で2着。中井が1車輪差の3着に粘りました。
 優勝したオランダのマティエス・ブフリ選手はグレードレース初優勝。ここは外国人選手と日本人選手の力量差が大きく,外国人選手による優勝争いになるとみられました。並びからは番手のボスが有利と思いましたが,鈴木庸之がまずボス,続いてグレーツァーと立て続けにブロックしたために,ブフリ単独で捲る形に。レースの展開としては厳しいのですが,牽制を受けながらも捲り切り,そこからは差を広げる一方になったように,やはり力量ははっきりと上位でした。ブロックがあって後ろが続くことができないレースになったのは,ブフリの優勝にとってはいい材料だったでしょう。

 後に判明したのですが,このときの母の悪寒は高熱が出ていたためでした。ただ,僕には震えているというより,母の身体が自発的に動いたり止まったりするように見えました。僕はこのときは横になっている母の傍らに座り,母の身体をさすっていましたので,そう見えたというだけでなく,触覚的にもそのように感じられました。僕の知覚だと,母は震えているというより痙攣していると表現する方が的確であるように思えたのです。それでこれはただ事ではないと思い,母の意志も確認した上で,救急車の出動を要請しました。
 2010年の10月に母の異変が起こったときは,叔父が近くのアパートに住んでいたので事情が異なりますが,母は救急車を呼ぶことはしませんでした。このときもあるいは状況が同様であれば対応も同様になっていた可能性もあります。ただ,後に母がいったところによれば,このときはどうしても我慢することができなかったので救急車を呼んだということでしたから,母自身が感じた身体の状態というのも,そのときよりよほど苦しかったのではないかと推測します。
 強い異常を感じたのは7月27日だったと母は説明しています。日記を読んでもらえれば分かるように,母はその後も朝は妹を通所施設まで送っていましたし,また外食をする機会というのもありました。つまり最初に感じた強い異常の後,一時的には身体の調子は取り戻していたと判断するべきでしょう。しかしおよそ一月後の8月23日に,一気に限界まで達してしまったというのがこの間の状況であったと思います。
 僕たちにとって幸いであったのは,この日が水曜日であったということです。水曜の夕食はKさんと一緒に摂ることになっていました。僕は予定を変更して午後5時5分に帰ったといいましたが,そのときには妹は帰っていましたがKさんは来ていませんでした。しかし様子を見ていて僕からは母が痙攣を起こしているように感じられる状態になったときには,すでに到着していました。したがって救急車に僕が同乗し病院まで同行することになっても,妹はKさんに任せることができる状態だったのです。ほどなくして救急車が到着しました。
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