スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京2歳優駿牝馬&第五部定理三九備考の意味

2016-12-31 19:08:51 | 地方競馬
 北海道から1頭,金沢から1頭,愛知から1頭が遠征してきた第40回東京2歳優駿牝馬
 ゴーフューチャー,スターインパルス,ピンクドッグウッド,アップトゥユーの4頭が前に。例によって1周目の正面では雁行でしたが,1コーナーからのコーナーワークで隊列が決まりました。5番手はヤマミダンス,オーブスプリング,ウズメヒメの3頭の集団。ガロ,ビジュフルール,ブルージェットの3頭も集団。さらにイクノチャン,グラスサファイヤ,ジュンアイノキミの3頭も集団,この後ろにアンジュジョリーという隊列に。前半の800mは49秒7でハイペース。
 3コーナーを回ると3番手だったピンクドッグウッドが先頭に。前の2頭は後退し,アップトゥユーが単独の2番手。この後ろはやや差が開いてガロが追い上げてきました。直線は一時的に3頭の争いとなったものの,追い上げていたガロがギブアップ。前の2頭に絞られましたが最後は前に出ていたピンクドッグウッドが突き放して快勝。アップトゥユーが3馬身差で2着。ガロの外からいい脚で伸びたアンジュジョリーが4馬身差で3着。
 優勝した愛知のピンクドッグウッドは前走までは北海道所属。フルールカップを優勝していました。オーブスプリング,ピンクドッグウッド,アップトゥユーの3頭は能力上位で,それに未対戦組がどこまで食い込めるかというのが僕の見立て。上位2頭に関しては順当な結果だったのではないかと思います。これからどれだけ対戦していくかは分からないですが,勝ったり負けたりということを繰り返していくことになるのかもしれません。父はサウスヴィグラス。母の半姉に2002年のフェアリーステークスを勝ったホワイトカーニバル
 騎乗した愛知の戸部尚実騎手と管理している愛知の川西毅調教師は南関東重賞は初勝利。

 たとえば第二部定理一七の様式で人間の精神が外部の物体を現実に存在するものとして観想するという場合を考えます。
                                     
 岩波文庫版117ページの第二部自然学要請三から,人間の精神はきわめて頻繁に,またきわめて多くの物体を現実的に存在するものと観想するだろうことは間違いありません。ところでこの要請は,第五部定理三九備考で,人間の身体がきわめて有能であるといわれているときの前提のひとつと僕がみなしたことです。ところが第二部定理一七の様式で人間の精神のうちに生起する外部の物体の観念は表象像imagoなのであって,十全な観念ではありません。いい換えればそれは人間の身体の受動passioと平行的にその人間の精神のうちに生起する人間の精神の受動です。つまり人間の身体が有能であるということのうちには,人間の身体がきわめて多くの働きを受けるpatiということが含意されているのです。
 第五部定理四〇がいっているのは,ものは働きをなすことが多いほど完全であるということでした。これはいい換えれば働きを受けることが多いほど不完全であるということです。つまり人間の身体が有能であるといわれるとき,それは部分的には,人間の身体はより不完全であるという意味を含んでいるのだと僕は考えます。もちろんそれは,単に人間の身体だけが不完全であるという意味ではなく,人間の精神もまた不完全であるという意味が含まれているということです。この意味において,僕は第五部定理三九備考の最初の段落には,人間の身体がほかの物体よりも完全であるということが全面的に含まれているとは考えません。
 ただし,次の事柄もまた事実です。たとえば第二部定理三九の様式で人間の精神のうちに共通概念notiones communesが生起するというケースは,同じように第二部自然学②要請三からきわめて頻繁に生じるといえます。したがって,人間の精神は,きわめて多くの共通概念を有することができます。共通概念は十全なのですから,第三部定理三によりそこからは精神の能動Mentis actionesが生じることになります。なのでこの意味においては,人間の身体が有能であるということのうちに,人間がより完全であるという意味が部分的に含まれることになります。
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東京シンデレラマイル&有能と完全

2016-12-30 19:16:45 | 地方競馬
 第10回東京シンデレラマイル
 リンノフォーマリアは注文をつけて控えました。まず先頭に出たのはディーズプリモ。1周目の正面ではティーズアライズ,トーセンセラヴィの3頭で雁行でしたが,1コーナーからのコーナーワークでディーズプリモが単独の先頭に立ち,リードを広げていく形に。2番手はティーズアライズでしたが,コーナーで内から進出していたモダンウーマンとトーセンセラヴィの3頭は一団。この後ろにリンダリンダ,プリンセスバリュー,ケイティバローズの3頭が一団で続くという隊列に。前半の800mは50秒5のミドルペース。
 3コーナー手前からトーセンセラヴィがディーズプリモに並び掛けていき,コーナーの途中で交わし,直線の入口では先頭に。外を追い上げていたケイティバローズは4コーナーからついていかれなくなり,ディーズプリモとトーセンセラヴィの間に進路を選択したモダンウーマンと,トーセンセラヴィの外に出されたリンダリンダの3頭で直線の攻防。最初に脱落したのがモダンウーマン。リンダリンダはよく伸びて迫りましたが,迫られるとトーセンセラヴィもまた伸びるという形で,優勝はトーセンセラヴィ。クビ差の2着にリンダリンダ。半馬身差の3着にモダンウーマン。
 優勝したトーセンセラヴィは南関東重賞初制覇。昨年の11月までJRAで走り2勝。12月に南関東に転入すると連勝し,1度の2着を挟んだ後に8連勝。前走はいきなり大レースに挑戦して3着。この実績からこのメンバーなら負けることはないだろうと見立てていました。着差が開かなかったのは,並んだら抜かせないという馬の特性を騎手がよく把握していたためとも思われ,底力に関しては着差以上のものがあると考えておいていいのではないでしょうか。南関東重賞なら牡馬相手にも通用するでしょうし,牝馬戦では重賞制覇を期待できる馬だと思います。父はディープインパクト。母はNARグランプリで2007年2008年に最優秀牝馬に選出されたトーセンジョウオー。4代母がスカーレットインク。C'est la Vieはフランス語でこれが人生。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手勝島王冠以来の南関東重賞制覇。第9回に続き連覇で東京シンデレラマイル2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は東京シンデレラマイル初勝利。

 『エチカ』の中の僕が自然学と表記している部分は,基本的に物体corpusに一般の法則を解明することを目的としています。ただし,岩波文庫版117ページの要請は,人間の身体corpusだけに適用可能な一種の公理Axiomaであり,ほかの物体には成立しない内容を有しています。このことは各々の要請の主語が人間の身体Corpus humanumないしは人間の身体を構成する部分Cum Corporis humani parsとされていることから明白で,異論の余地はないでしょう。したがって僕が示したことでいえば,外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激されることや,外部の物体をきわめて多様の仕方で動かし,きわめて多くの仕方で影響するcorpora externa plurimis modis movere, plurimisque modis sisponereということは,人間の身体に特有の性質であることになります。いい換えるならそれは人間の身体の特性であって,ほかの物体にはみられない事柄であるということです。
                                     
 僕の見解では,これらの事柄が第五部定理三九備考において,人間の身体はきわめて多くのことに有能であるといわれるときの前提になっています。ですからそのことのうちには,人間の身体がほかの物体より有能であるという意味が含まれていると解するべきであることになります。人間の身体にだけ妥当し,ほかの物体には妥当しない特性のゆえに人間の身体が有能であるといわれるのであれば,人間の身体はほかの物体よりも有能であるといっているのと同じであると解するべきだからです。
 ただし,この場合には解釈上の注意が必要とされます。というのもこのことのうちには,人間の身体が能動的であるということがそれ自体で含まれているとはいえないからです。実際に人間の身体が外部の物体から刺激され,また外部の物体を動かし影響を与えるということのうちには,ただ人間の身体に関わる延長作用が記述されているだけであり,それが能動actioであるか受動passioであるかは考慮されていないといえるでしょう。ところが,第五部定理四〇が示しているのは,ものは働きをなすことがより多いに従って完全であるということでした。なので,有能であるということと完全であるということが,この場合には同一の意味ではありません。つまり人間の身体はほかの物体より有能だけれども,完全であるとまでは断定できないのです。
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農林水産大臣賞典東京大賞典&有能と能動

2016-12-29 19:29:32 | 地方競馬
 第62回東京大賞典
 ゆっくりとコパノリッキーがハナへ。発走後の正面はアウォーディー,アポロケンタッキー,サウンドトゥルーの4頭が雁行で通過。1コーナーに入ってからコパノリッキーが1馬身ほどのリードを奪い,アウォーディーが単独の2番手。また1馬身差でアポロケンタッキー。さらに半馬身差で内から追い上げたノンコノユメとサウンドトゥルーが併走という隊列に。前半の1000mが64秒8という極度のスローペースになりました。
 3コーナーを手前でコパノリッキーにアウォーディーが並び掛けていき,この2頭が並んでコーナーへ。この後ろは手綱をしごきながらアポロケンタッキーが続き,さらにその外からサウンドトゥルー。直線に入るとコパノリッキーがあっけなく一杯に。手応えよく見えたアウォーディーも意外なほど伸びず,むしろ先に手が動いていたアポロケンタッキーがこれを交わして優勝。アウォーディーは1馬身半差の2着。勝ち馬の外を追ったサウンドトゥルーがクビ差で3着。
 優勝したアポロケンタッキーは前々走のみやこステークス以来の重賞2勝目で大レース初勝利。このレースはコパノリッキー,アウォーディー,サウンドトゥルーの3頭が能力上位で,勝ち馬は3頭の中から出るだろうと見立てていたので,個人的には意外な結果。距離は長い方がよいタイプと思えましたから,条件は好転していて,それでもノンコノユメと並んでの入着候補ではないかとみていたのは見当違いであったようです。少なくとも接戦だった2着馬と3着馬は確たる力量がある馬で,それらにはっきりとした差をつけて勝ったのですから,高く評価するべきで,この馬も使いながら成長を遂げ,それらに伍するだけの力量を有するに至っていたということでしょう。そうであるなら来年以降の活躍も必至と思います。
 騎乗した内田博幸騎手は一昨年のヴィクトリアマイル以来の大レース制覇。第50回,51回,55回と勝っていて7年ぶりの東京大賞典4勝目。管理している山内研二調教師は2004年のダービーグランプリ以来となる大レース制覇。東京大賞典は初勝利。

 スピノザにそういう意図がなかったとしても,第五部定理三九備考の冒頭の文言が,人間の身体corpusがほかの物体corpusより有能であることを,暗に示していると解することが可能であると僕は認めます。そしてスピノザの哲学にあってはこのことは,人間の精神mens humanaという思惟の様態cogitandi modiが,ほかの思惟の様態よりも有能であるということを暗示しているというのと同じです。したがってこの部分をそのように解するなら,実際にはスピノザは人間がほかの様態よりも有能であるということを是認しているということになるでしょう。
                                     
 有能であるということを,能動的であるということ,あるいは多くの事柄,ほかの様態には不可能である事柄を能動的になし得るという意味に解することは,解釈として不当であるとはいえません。しかるに第五部定理四〇は,ものは能動的であればあるほど完全であるということを意味します。なのでこの場合には,もし人間がほかの様態よりも有能であるということを是認するということを,人間がほかの様態より完全であると是認するというように解釈することは,不当であるどころか妥当であるといわなければならないでしょう。
 しかし僕は,その備考でスピノザがいっていることは,そういうことではないだろうと理解しています。つまり人間がほかの様態より完全であるということを,スピノザはここでも暗示はしてはいないと解するのです。ただ,そのように主張する場合には,この備考の文章をどのように解釈すればよいのかということを説明する必要があるでしょう。
 まず,この文章の前提となるのは,岩波文庫版117ページの,第二部自然学②要請三であると僕はみます。あるいはこれに要請六を加えても構いません。要するに,人間の身体は外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激されるということ,それに加えて外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし,またきわめて多くの仕方で影響し得るcorpora externa plurimis modis movere, plurimisque modis sisponereということが,人間の身体が有能であることの前提となると考えるのです。そしてこの場合には,人間の身体をほかの物体と比較して有能であるとスピノザはいっていると解しても構わないと思います。むしろそう解するべきでしょう。
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兵庫ゴールドトロフィー&第五部定理三九備考

2016-12-28 19:16:40 | 地方競馬
 第16回兵庫ゴールドトロフィー
 ニシケンモノノフがやや外によれるような発馬になり,ノボバカラは少し不利を受けたかもしれません。先手を奪ったのはランドクイーン。ニシケンモノノフが外に並ぶような形で2番手。ノボバカラが単独で3番手。この後ろはラブバレット,グレープブランデー,トウショウセレクトの3頭が併走。内に入ったオヤコダカとドリームコンサートが並んで続き,少し離れてドリームバレンチノ。残る3頭は置かれました。ミドルペースだったのではないでしょうか。
 3コーナー手前で前をいく2頭の外からノボバカラが交わして先頭に。しかしニシケンモノノフがまた巻き返していき,コーナーは2頭が並んで回っていく形。3番手は内からオヤコダカ,ラブバレット,ドリームバレンチノの3頭が併走。直線に入るところでコーナーワークを利したニシケンモノノフが先頭に。ここからノボバカラとの差は開いていきました。大外を回ったドリームバレンチノがよく伸び,ノボバカラを交わして2番手に上がって追い詰めるもニシケンモノノフには届かず,優勝はニシケンモノノフ。クビ差の2着にドリームバレンチノ。ノボバカラは3馬身差で3着。
 優勝したニシケンモノノフは2013年の兵庫ジュニアグランプリ以来となる重賞2勝目。落ち込んでいたわけではなく,オープン特別は勝っていましたし,重賞での入着もありましたから,ノボバカラが勝つかニシケンモノノフが勝つかのどちらかだろうと見立てていました。ノボバカラ相手には分が悪かったのですが,逆転できたのは,相手より前の位置でレースを進めることができたからではないかと思います。来年は6歳になりますが,ダートの短距離路線を牽引していく1頭になるのではないでしょうか。父はメイショウボーラー。曾祖母の半弟に1985年の大阪杯を勝ったステートジャガー
 騎乗した横山典弘騎手と管理している庄野靖志調教師は兵庫ゴールドトロフィー初勝利。

 能動actioであろうと受動passioであろうと,ものが何をなし得るのかは,第一部定理二六にあるように神から必然的に決定されています。よって第五部定理四〇の意味から,あるものAが能動的になし得る事柄が別のものであるBが能動的になし得ることより多いというだけでは,AがBより完全であるとはいい難いと僕は考えます。もしそういうなら,神は完全なものとそれに比して完全でないものを産出するといわなければならず,これは結局のところ神に不完全性を帰すことになると僕は考えるからです。
 これは僕の最終結論です。そしてこのことが,人間的本性が神のうちに優越的にeminenter含まれていることをスピノザが否定する理由になると考えます。ただし,『エチカ』の中には,解し方によってはこの最終結論と反するのではないかと思われる部分が含まれているのも事実です。なので最後に,そうした部分に関して僕がそれをどう理解しているのかということを説明することにします。
                                     
 第五部定理三九備考の第一段落は次のように書かれています。
 「人間身体はきわめて多くのことに有能である。だから人間身体は,きわめてすぐれた精神に関係するような-自己および神について大なる認識を有し,その最大部分あるいは主要部分が永遠であり,したがって死をほとんど恐れないそうした精神に関係するような本性を有しうるものであることは疑いない」。
 スピノザがここでいわんとしていることの主眼は,人間の身体が有能であるほどに人間の精神も有能であるという点にあると僕は解します。いい換えればスピノザは人間の身体をほかの物体と比較しようという意図は有していないものと解します。そして,第二部定理一三にあるように,人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの対象は身体です。よって第二部定理七により,人間の身体と精神の秩序と連結ordo, et connexioは同一です。なので身体が有能であるほど精神が有能であるのは,スピノザにとってはきわめて当然の帰結です。ただデカルトをはじめ多くの人は,精神は有能でも身体はそうでないと認識しているので,このようなことを改めていったのだと僕は解します。いわばここでも身体の復権が図られているということです。
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第三部定理一四&第五部定理四〇の意味

2016-12-27 19:08:40 | 哲学
 第三部定理一五は,たとえどんなものであったとしても,それが偶然によって僕たちの基本感情affectus primariiの原因になり得るということを示しています。つまり僕たちは表象するimaginariどんなものに対しても,何らかの感情を抱く可能性があるということです。なぜ人間にそのようなことが起こり得るのかということを説明するための前提となっているのが,その直前の第三部定理一四です。
                                     
 「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら,精神はあとでその中の一つに刺激される場合,他の一つにも刺激されるであろう」。
 この定理Propositioが第三部定理一五の論証Demonstratioの前提となり得ることは明白でしょう。すなわち,たとえば僕たちがあるものXを表象したときに,Aという感情に刺激される,他面からいえばAという感情を抱くと仮定します。その同じ人間が,かつてAという感情によってBという別の感情を惹起された経験があったとしたら,その人間は後にXを表象してAという感情を抱いた場合にもBという感情を惹起されるというのが第三部定理一四のいっていることです。よってこの人間は後にXを表象したとき,AだけでなくBという感情も抱きます。このとき,Aという感情についてはXが偶然の原因とはいえないでしょうが,Bという感情についてはXは偶然の原因としかいいようがありません。というのはこの仮定から明らかなように,もしこの人間がかつてAによってBを惹起されていなかったなら,Xを表象してBという感情を抱くことはなく,Aという感情だけを抱くであろうからです。
 なお,この定理では感情といわれていますが,これは身体corpusの刺激状態およびその観念ideaである身体の変状corporis affectionesと解しておく方が安全であるように僕には思われます。というのも僕たちが事物を表象するのは身体的には刺激状態ですが,それは必ずしも感情とはいえない,少なくとも感情として意識されない場合があるだろうからです。第二部定理一八で想起されるものの方が感情として意識される場合のことがここでいわれているのだと僕は解します。

 難易度と完全性perfectioの関係について僕が是認できる事柄を,そのまま頻度に適用できるのだと仮定すれば,僕は頻度に関しても完全性と関係づけることを是認できます。すなわち一般にものは能動的であることは少なく,受動的であることは多いとするなら,一般的に頻度が少ないほど完全であることを是認します。また,同一本性を有するものを具体的に抽出し,そのものについて同じことがいわれ得るなら,頻度の少なさがそのものがより完全であるということと関係するということも認めます。
 ただ,いずれの場合にしても,より完全であるということの規準は能動と受動の差異にしかありません。なのでこれ以外に困難なことと容易なことを抽出したり,頻繁に生じることとあまり生じないことを抽出したとしても,それはものの完全性の差異には何も関係しないと僕は考えます。つまり第五部定理四〇は,第一には何をより完全であるのかを規定する意味を有しているのであり,同時にこれ以外の意味では完全性の差異は決定できないという意味を有しているというのが僕の解釈です。
 さらに,能動actioと受動passioは,難易度と同様に,原因と関連していわれます。すなわち十全な原因causa adaequataである場合が能動で,部分的原因causa inadaepuata,causa partialisである場合が受動です。ですからこの場合には,やはり同一の本性natura,essentiaを有するものの間でという限定が必要になりますが,各々の能動ないしは受動によって生じる結果については,何がより完全であるのかということには関係しません。極端にいえば,同一の結果が生じるのだとしても,十全な原因から生じる場合には部分的原因から生じる場合よりも完全であると僕はみなします。たとえば人間についていうなら,理性ratioによって敬虔pietasである人間は,聖書に服従obedientia,obsequium,obtemperantiaすることによって敬虔である人間よりも完全であると僕はみなします。というか,第五部定理四〇のうちには,このような意味が含まれていなければならないと僕は解します。この例でいえば,敬虔であるということは人間が完全であるかないかということとは関係ありません。理性による能動に従っているか,聖書による受動に従っているかの差異だけが,完全性の差異に直結すると解するということです。
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ひろしまピースカップ&困難と容易

2016-12-26 19:09:27 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された広島記念の昨日の決勝。並びは深谷‐金子の師弟,竹内に松浦‐池田‐桑原の中国,原田‐渡部の四国で園田は単騎。
 深谷がスタートを取って前受け。3番手に園田が入り,園田はこのラインを追走のレースに終始しました。4番手は竹内で8番手に原田の周回。残り3周のバックから原田が上昇開始。ホームで深谷を叩くと同時に竹内も動き,さらに竹内が原田を叩きました。なので先頭に竹内,5番手に原田,7番手に深谷の一列棒状になってバックへ。このまま動きなく打鐘からホームに入り竹内の押さえ先行に。バックから先に原田が仕掛け,深谷はさらにその外を捲り追い込んでいく形に。松浦の牽制はありましたが乗り越えた原田が優勝。大外の深谷が半車身差で2着。松浦の外を踏んだ池田が半車身差で3着。
 優勝した徳島の原田研太朗選手は年頭の立川記念以来の記念競輪2勝目。奇しくも今年の最初の記念競輪と最後の記念競輪を制することに。地元勢を連れて愛知勢とは別ラインを選択した竹内の先行は容易に推定されたレース。深谷もさすがに竹内とは争わないでしょうし,園田も地元勢に競り掛けることはないだろうと思われました。そうなれば5番手を狙うのが常道で,その位置を取れば現状の竹内との力量差から優勝は可能。深谷がわりとあっさりと引き,位置を狙いにこなかったので,原田にとっては最高のレース展開だったのではないでしょうか。ビッグでの活躍が期待される選手のひとりです。

 デカルトが頻度と難易度を関連付けて認識していたかどうかは不明です。いい換えれば,頻繁に生じることは容易で,滅多に生じないことは困難であると認識していたかどうかは分かりません。ただスピノザが看破したように,難易度を完全性perfectioと関連付けて認識していたのは間違いありません。いい換えれば困難であることほど完全で,容易であることほど不完全であると認識していたのは確実です。しかしスピノザが考察しているように,どんなことであれ絶対的に容易であるとも困難であるともいわれ得ません。それは原因と関連してのみいわれ得ます。よって同一の原因から生じる結果については,難易度には一切の差異がないといわなければなりません。
 このことから理解できるように,たとえ人間が他になし得ない事柄を多くなし得るとしても,それは人間が他より完全であるということにはなりません。人間がなし得る多くの事柄は絶対的に困難なことであるとはいえません。人間以外の原因が与えられる場合には困難であるといい得るとしても,それは与えられた本性natura,essentiaによって各々ののものがなし得ることが決定されているからであり,各々のものの本性の原因は神Deusという同一の原因なので,各々のものの完全性の差異とは無関係であるからです。
                                     
 もっとも,第五部定理四〇が示しているのは,働きをなすことがより多いに従って完全であるということでした。もし能動actioが困難で受動passioが容易であるといい得るとしたら,困難であるほど完全であるということになります。ただ,各々のものがなし得ることというのは,それを能動的になすか受動的になすかに関わらず自然法則lex naturalisによって決定されているのですから,各々のものの本性に差異があるなら,能動は困難で受動は容易であるということは意味をなしません。しかしもし同一の本性を有するものの間でなら,能動を困難といい,受動を容易ということを僕は是認できます。というのは能動と受動の差異は,困難であるか容易であるかの差異の規準となる,原因と関連していわれるからです。すなわちあるものが十全な原因causa adaequataとなることは困難で,部分的原因causa inadaepuata,causa partialisとなることは容易であるというなら,僕は是認できます。
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有馬記念&起成原因の難易度

2016-12-25 19:20:48 | 中央競馬
 第61回有馬記念
 ムスカテールはダッシュが鈍く置かれました。先手を奪ったのはマルターズアポジー。1周目の正面にかけて5馬身ほどのリード。単独の2番手にキタサンブラック。また3馬身ほど開いてゴールドアクターが単独の3番手。アドマイヤデウスが外目の4番手でこの後ろにサムソンズプライドとマリアライトが併走。そしてヤマカツエース,サトノダイヤモンド,ミッキークイーンの3頭が集団という隊列で1周目の正面を通過。ミドルペースですが逃げ馬が飛ばしていましたから実質的にはスローペースでした。
 サトノダイヤモンドは早めに動き,向正面に差し掛かるあたりで3番手まで上昇。共に動いたサトノノブレスがゴールドアクターの外で4番手を併走する隊列に変化。向正面でサトノノブレスはキタサンブラックにプレッシャーを与えるようにさらに前に行き,おそらくその影響もあって3コーナーにかけてマルターズアポジーのリードは縮まって,1馬身くらいに。直線の入口ではキタサンブラックとほぼ並び,すぐにキタサンブラックが先頭に。インを回ったゴールドアクターが1頭分だけ外に持ち出してキタサンブラックを追い,サトノダイヤモンドはその外の3番手に。坂の辺りで内の2頭がサトノダイヤモンドとの差を広げると,キタサンブラックがゴールドアクターを振り切りました。しかし坂を上り切るとまたサトノダイヤモンドが伸び,フィニッシュ寸前でキタサンブラックを捕えて優勝。キタサンブラックがクビ差で2着。ゴールドアクターは半馬身差で3着。
 優勝したサトノダイヤモンド菊花賞に続く大レース連勝。今年の3歳牡馬クラシックは3戦とも前年より記録的に優秀で,古馬相手でも即通用するだろうと想定できました。2着馬も昨年の同時期より明らかに強くなっていましたが,斤量の差で相殺できる筈なので,好走は間違いないと思われたところ。早い段階で上昇し,2着馬を徹底マークした騎乗も光りました。レース内容からすると急坂は少し苦にするのかもしれません。素質が開花した頃は中距離タイプと思っていましたが,長距離に適性が高い体型に成長してきたようにみえます。父は第51回を制したディープインパクトで父仔制覇。
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は阪神ジュベナイルフィリーズに続く大レース制覇。ハーツクライに騎乗した第50回以来11年ぶりの有馬記念2勝目。管理している池江泰寿調教師は菊花賞以来の大レース制覇。第54回,56回,58回を制しているので3年ぶりの有馬記念4勝目。

 神Deusを創造し維持することと様態modi,modusを創造し維持することの難易度を比較することは,スピノザの哲学においては,自己原因causa suiであるものを創造し維持することと,外部に起成原因causa efficiensを要するものを創造し維持することの難易度を比較することです。そして外部に起成原因を要するものの起成原因とは,自己原因であるものにほかなりません。したがって,自己原因であるものが自己を創造し維持することと,自己以外の何かを自己の内部または外部に創造し維持することの難易度を比較することだとしてもよいことになります。僕はこの観点から,それらの間に難易度の差はないという見解を有します。
 スピノザは第一部定理二五備考で,神は自己原因であるといわれるのと同じ意味においてすべてのものの原因であるeo sensu, quo Deus dicitur causa sui, etiam omnium rerum causa dicendus estといっています。だとすれば,神が自己原因といわれる場合と,すべてのものの原因といわれる場合に,難易度の差はあってはならないと僕は考えます。なぜなら,もしそこに難易度の差があるなら,いい換えれば一方が困難で他方は容易であるという関係があれば,両者が同じ意味であるということにはならないであろうからです。スピノザがここでいっているのは,神は「唯一」であり,そのゆえに自然法則lex naturalisも「唯一」なのであって,神が自己を創造しまた維持する自然法則とすべてのものを創造しまた維持する自然法則は同一であるということです。同一の自然法則は,頻度の差を生じさせることはあっても,難易度の差を生じさせることはあり得ません。このことは,困難であるということまた容易であるということが,絶対的にいわれるのではなく,与えられた原因に関していわれるのだというスピノザによる注意から明解です。この場合には与えられる原因というのが同一にして「唯一」の自然法則なのですから,困難な原因と容易な原因という別々の原因が与えられることはないからです。
 なお,あるものを維持することは,本来的には時間と関連していわれます。というのは維持されない場合が概念concipereできないと維持は何の意味も有せないからです。ただここでは永遠に維持するという,本来的には語義矛盾ないい方も許容するとしておいてください。
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寝盗られ願望&第一部定理一七系一

2016-12-24 19:13:45 | 歌・小説
 コキュというのは一般的には寝盗られる亭主ということを意味します。したがってこれは夫婦関係において妻に浮気をされる夫を意味することになります。もっとも,ここでいう夫婦関係というのは必ずしも法律上の婚姻関係を意味する必要はないかもしれません。一定程度以上の恋人に浮気をされる男というのも,コキュに含めていいだろうと思います。
                                     
 亀山郁夫がコキュという場合には,さらに広い範囲を意味しているのは間違いありません。たとえば『貧しき人びと』のマカールはコキュであると亀山は認定しています。ですがマカールとワルワーラの関係は,夫婦ではないというだけでなく,コキュに該当するような恋愛関係にあるわけでもありません。さらにいうとワルワーラが最終的に選択した行動は,確かにマカールとの関係を断つというものであったとはいえますが,普通にいわれる意味において浮気をしたというのとはまったく違っています。なので亀山は,単に浮気をされるというだけでなく,恋愛感情を抱いていて,何らかの関係をもった女から見捨てられるとか,何らかの事情によって関係を断たれてしまうような男はすべからくコキュであるといっていることになります。
 コキュをこのように規定した場合には,僕にとってはコキュらしいコキュとコキュらしくないコキュとに分類されます。意識的にであれ無意識的にであれ,自らがコキュになることを肯定するような意志作用を精神のうちに抱いているのではないかと思えるのがコキュらしいコキュで,そうは思えないのがコキュらしくないコキュです。僕の読解だとマカールはコキュらしくないコキュなのです。ですが『白夜』の主人公はコキュらしいコキュ,少なくともコキュらしいコキュではないだろうかというように感じられるのです。
 そこでこれ以降は,僕にとってコキュらしいコキュが抱いているような意志作用を,寝盗られ願望という語で表現することにします。ドストエフスキーにせよ夏目漱石にせよ,僕にとって最大の面白さはその登場人物の心理描写にあります。ですからコキュであるか否かという状況描写よりも,寝盗られ願望があるかないかという心理描写の方に,僕の興味や関心は傾注してしまうからです。

 第一部定理一四により,神のほかにはいかなる実体も存在し得ません。したがって実体の創造と維持の難易度と,実体の変状affectioである様態modi,modusの創造と維持の難易度を比較するということは,スピノザの哲学では,神を創造しまた維持する難易度と,神から産出されるものを創造しまた維持する難易度を比較するということが,その実在的な意味になります。そしてスピノザの哲学では,原因とは一義的に起成原因causa efficiensを意味します。その原因によってのみ難易度は決定できるのですから,まず各々の起成原因を確認しておきます。
 神の起成原因が何であるかは,第一部定理一七系一で言及されています。
 「この帰結として第一に,神の本性の完全性以外には神を外部あるいは内部から駆って働かせるいかなる原因も存在しない,〈むしろ神は自己の完全性の力のみによって起成原因である,〉ということになる」。
 第一部定義一は,その本質が存在を含むものcujus essentia involvit existentiamのことを自己原因causam suiと定義しています、ですからこの系は神は自己原因であるといっているのと同じです。第一部定理七は実体の本性には存在することが属するということを示していて,これは実体は自己原因であるという意味です。したがって神が自己原因であるということはその定理からも明白だといわなければならないでしょう。ただ,第一部定理七に依拠するのはどちらかといえば形式的なあるいは名目的な論証になるのに対して,第一部定理一七に訴求するならそれがより実在的になるという相違があるだけです。なお,僕が自己原因を起成原因のひとつに含めている点に注意してください。
 一方,第一部定理一五は,神なしには何ものもあり得ないnihil sine Deo esseということを示しています。したがって様態は神なしには存在し得ないことになります。そして第一部定理二五が示しているのは,神は単に様態の存在の起成原因であるだけでなく,様態の本性の起成原因でもあるnon tantum est causa efficiens rerum existentiae, sed etiam essentiaeということです。さらに第一部定理二六は,様態が作用する原因も神であることを示します。要するに様態に関連するあらゆる事柄の起成原因は神であるということになります。他面からいえば,様態の起成原因は様態の外部にあるということです。
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農林水産省賞典中山大障害&難易度と原因

2016-12-23 19:37:33 | 中央競馬
 第139回中山大障害。マキオボーラーが右肩の跛行のため出走取消で11頭。
 逃げたのはドリームセーリングでこれは予想通り。概ね1馬身から3馬身の間隔でずっとレースをリードすることに。2番手にはアップトゥデイト。この後ろは3馬身から5馬身ほどの間隔でオジュウチョウサンが単独の3番手。この後ろは3馬身くらいでトーセンハナミズキ,クリノダイコクテン,ルペールノエルの3頭が順位を入れ替えながら集団で追走。
 2度目の大障害コースの辺りからトーセンハナミズキは後退し,残る5頭は道中と同程度の間隔で追走。大障害コースを終えて向正面に入るところでアップトゥデイトがドリームセーリングに並び,先頭は2頭で併走。向正面中間ではドリームセーリングが一杯になり,アップトゥデイトが単独の先頭に。満を持して追ってきたのがオジュウチョウサンで3コーナーでは追いつきここから2頭で併走。コーナーでは3番手に上がってきたルペールノエルに大きな差をつけ,優勝争いは2頭。ただ直線入口では前の2頭にも手応えの差があり過ぎ,直線ではオジュウチョウサンが楽に抜け出して快勝。一杯になりながらもアップトゥデイトが9馬身差の2着。直線では差は詰めたもののルペールノエルは5馬身差の3着。
 優勝したオジュウチョウサンは春の中山グランドジャンプに続いて今年の障害の大レースを連勝。その後,東京ジャンプステークスと東京ハイジャンプも勝っているので,今年は東京の障害重賞も連勝。これは特筆すべき成績。時代的に走っている馬のレベル差が大きくなるのが障害競走の特徴ではありますが,障害馬としては史上に残る馬ではないかと思います。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。全兄に2013年のラジオNIKKEI賞を勝っている現役のケイアイチョウサン
 騎乗した石神深一騎手と管理している和田正一郎調教師は共に大レース2勝目。

 スピノザがそのことについて確たる見解を表明しているとはいえないので,これは僕の見解になりますが,実体substantiaを創造しまた維持することと,実体の特質proprietas,ここではそれを実体の変状affectioすなわち様態modi,modusと解しますので,様態の創造と維持といいますが,その間でどちらが困難でありどちらが容易であるかを決定することはできません。ただしそれは,ある様態と別の様態の間でその創造と維持に関してどちらが困難でどちらが容易であるかを決定できないというのとはやや意味合いが違います。様態間でいえば,本性natura,essentiaが異なるものの間では難易度を比較することが不可能なので決定できないという意味合いが強いのですが,実体と実体の変状の間ではそうではありません。むしろそこには難易度の差異はないということだけがあるのです。
 本来的にいえば難易度は,困難であることと容易であることが明瞭判然と区別されることによって識別されます。他面からいえばそれによって難易度という尺度が存在し得ます。したがって難易度の差異はないというのは,実際には難易度は存在しないという意味です。いい換えれば,どちらも同じ程度に困難であるということもできるし,どちらも同じ程度に容易であるということもできるという意味です。よって難易度の差がない場合に難易度について言及することは事実上は意味がありません。僕はそのことを理解した上で言及していると理解してください。
                                     
 スピノザは,どんなものも絶対的に困難であるとはいえないし,絶対的に容易であるともいえないといっていました。その理由は,何かについて一方が困難で他方が容易であるといえるのは,原因と関連してであり,したがって原因が異なってしまえば,同じ事柄が同じ場合に困難であるともいえるし容易であるともいえるからでした。具体例でいえば網を張ることは蜘蛛が原因になった場合には容易だけれど人間が原因とされる場合には困難となるのです。つまり網を張るという事柄自体のうちには,困難であることも容易であることも,それ自体の性質としては含まれていないのです。
 しかし,原因が対象とされるなら,困難であるとか容易であるとかは決定できる筈です。
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竜王戦&創造と維持

2016-12-22 19:44:34 | 将棋
 六日町温泉で指された第29期竜王戦七番勝負第七局。
 振駒渡辺明竜王の先手。こうなれば丸山忠久九段の一手損角換り。4の△2二銀で,先手が態度を保留しているうちに後手が早繰り銀から棒銀に組み替え端を狙う将棋。最初から棒銀だったと仮定すると,後手は7筋で歩を交換して8四に引き,さらに9筋に出て先手に歩を突かせてまた引き,その後で仕掛けたという勘定。もしかしたらこれは手損が大きすぎる攻め方だったのかもしれません。
                                   
 棒銀定番の銀香交換から後手が端に香車を打った局面。先手は▲6八金右と固めました。ここから後手が本格的な攻撃を開始。
 △7五歩▲同歩と空間を作っておいて△9七香成。狙いは▲同桂△9六歩▲9八歩△9七歩成▲同歩と桂馬を入手しての△8四桂。
                                   
 この局面で封じ手となり▲6七金直と上がりました。第1図で金が寄っているのでやりくいのではないかと思っていたのですが,手損でも最善の受けだったようです。
 △7六歩と打たれたときに金を上がったからには▲6八銀と引きたいところですが,一晩考えてもよい指し方が浮かばなかったとのことで断念して▲同銀と取りました。後手は△9七香成▲同王△9二飛▲8八王と進めてから△7六桂と取りました。
 ▲同金と取ったときに△7七歩と打ちましたがこれも▲同王と取ってしまい△9九飛成とあっさり龍を作らせてしまうのが意外ながら好手順だったようです。そこで▲7九香と打った局面は,後手の攻めが繋がらなくなっていました。
                                   
 機をみて反撃に転じた先手の快勝譜といえるのではないでしょうか。
                                     
 渡辺竜王が4勝3敗で防衛。第17期,18期,19期,20期,21期,22期,23期,24期,25期,28期に続き連覇で通算11期目の竜王位です。

 デカルトが論証のために示した公理のうちのふたつめは,スピノザの哲学の範囲でいえば,実体substantiaを創造し維持することは,実体の特質proprietasを創造し維持することより大きなことであるということでした。実はこの公理のうち,創造することと維持することという点に注目すると,人間がほかの様態modi,modusよりも大きなものではない,いい換えれば完全なものではないということが,そのまま出てきてしまうように僕には思えます。というのは,人間を創造することと蜘蛛を創造することは,人間を創造することの方が困難であるとは必ずしもいえないでしょう。同様に人間の現実的存在を維持することよりも蜘蛛の現実的存在を維持することの方が困難であるともいえないだろうからです。あるいは,人間の身体corpusはスピノザの哲学においては岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一から,きわめて多くの個体からなっているので,その複雑さの分だけ創造することも困難であると解せなくはありません。しかしその現実的存在を維持するという意味でいうなら,人間よりも寿命の短い動物というのがいくらでも存在するわけで,そうした動物の現実的存在を維持することの方がよほど困難だとも解せなくないのです。
 すでに示しているように,各々の事物の完全性perfectioすなわち実在性realitasというのは,各々のものの本性natura,essentiaの力potentiaにほかならないので,もしデカルトがこの公理をもって,実体の特質といわれるものについては,何が困難であり何が容易であるのかは決定できないといったら,スピノザは肯定するように思われます。この場合の実体の特質は,実体の変状affectioすなわち様態と解する余地があり,様態間に完全性の差異はないという見解はスピノザの見解と一致するだろうからです。ですがデカルトは実体と実体の特質を比較しようとしていて,この点についてはスピノザは,もしも認めるとしてもきわめて部分的にでしょうし,デカルトの哲学の範囲の外でのみでしょう。いい換えれば,神が無限に多くの属性attributumによって構成される限りにおいて最高に完全であるという点だけは認めるでしょう。
 ではスピノザは,実体および様態の創造と維持についてはどういう見解を有するのでしょうか。
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ゴールドカップ&完全性と難易度

2016-12-21 19:30:58 | 地方競馬
 第54回ゴールドカップ。町田騎手が病気でサトノタイガーは張田昂騎手に変更。笹川騎手も病気でテムジンは森泰斗騎手に変更。
 鞭を入れてレアヴェントゥーレがハナへ。正面ではサトノタイガーとゴーディーが並んで2番手。4番手にモンサンカノープスで5番手にトロヴァオ。その後ろにトキノエクセレント,ナガラキコウシ,テムジンの3頭が併走という隊列。レアヴェントゥーレはぐんぐん飛ばして2コーナーから向正面にかけて大きなリード。離れた2番手をサトノタイガーとゴーディーとトロヴァオの3頭が並び,また離れてトキノエクセレントとモンサンカノープスの2頭というように,正面ではほぼ一団だった隊列が向正面ではバラバラになりました。ハイペース。
 レアヴェントゥーレのリードが縮まったのは3コーナー過ぎから。サトノタイガーとトキノエクセレントの2頭が追ってきて,この3頭が雁行で直線に。4番手以降は離れてしまい3頭のレース。大外のトキノエクセレントが内の2頭を差し切って優勝。逃げたレアヴェントゥーレが1馬身差で2着。サトノタイガーはクビ差で3着。
 優勝したトキノエクセレントは2014年4月のオープン以来の勝利で南関東重賞初制覇。その年の5月に重賞で2着になった後,故障してしまい2年以上の休養。復帰後の2戦は距離が短く,3戦目の重賞は適距離で5着。前走は距離が長すぎたための敗戦で,前々走の内容から休養前に近い状態まで戻っていて,ここは適距離に近いと思われたので,優勝候補の1頭と考えていました。あまり人気はなかったのですが,能力面から考えて順当な勝利といっていいのではないかと思います。ベストは1400mで,年が明ければ9歳になりますが,メンバー次第ではまだ重賞でも通用するのではないでしょうか。
 騎乗した浦和の見沢譲治騎手は一昨年のニューイヤーカップ以来の南関東重賞制覇。ゴールドカップは初勝利。管理している川崎の八木正喜調教師もゴールドカップ初勝利。

 スピノザによる備考は長く続き,その後でデカルトが何を困難といいまた何を容易といおうとしているのかということを多角的に検討しています。そしてその中に,デカルトはより大きいとかより困難であるということを,より完全であるという意味に解し,逆により小さいとかより容易であるということを,より不完全であるという意味に解そうとしているようにみえるという見解が出てきます。ただしスピノザはこの点については,デカルトが論証のために援用しようとしたふたつの公理のうち,ひとつめではなくふたつめと関連させています。
                                     
 なぜスピノザがひとつめでなくふたつめの公理とこの見解を関連付けたかということは,デカルトの論証自体を詳しく検討しなければ説明できません。しかし前もっていっておいたように,僕はこの考察においてはそれはしません。デカルトがどのような論証を試みているのかについては,岩波文庫版の『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の訳注に紹介されています。また,『スピノザの方法』の第五章では,ここでとりあげている備考について詳しく検討されています。僕はここでは,デカルトのふたつめの公理と関連させて,デカルトが困難であるほど完全であり,容易であるほど不完全であると認識しているというスピノザの見解は正当なものであるとだけしておきます。なのでもしもこれらの点についてもっと詳しく知りたいという方があれば,それらを参考にしてください。
 困難であるほど完全であり,容易であるほど不完全であるとみなしたところで,完全であるものは不完全なこともなし得るということを帰結させられるというものではありません。困難であるとか容易であるということが,あるものについて絶対的にいわれるというわけではなく,その原因についていわれるという点では何ら変わるところがないからです。確かに完全であるとか不完全であるとかいうことは,ある種のものに対しては絶対的な意味でいうことができるかもしれません。ですが備考でスピノザが示した例に倣えば,人間と蜘蛛のどちらが完全であるかはむしろ決定できないことになるでしょう。もちろん人間と天使を比較する場合にも同様です。
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棋王戦&スピノザの異議

2016-12-20 19:09:21 | 将棋
 16日に指された第42期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は敗者組の佐々木勇気五段が4勝,勝者組の千田翔太五段が3勝。
 振駒で佐々木五段の先手。千田五段の2手目が△3二金という変則的な序盤戦でしたが相矢倉に。後手が入城せずに先攻し,片矢倉にした先手が棒銀で攻め合う将棋に。
                                     
 後手が△8六歩と取り込んで先手が受けた局面。▲8三歩と先手を取って受けるのは放置して△8七歩成~△8四香で後手が勝ちになる局面だったようです。
 後手は△6五歩で勝てるという読みだったようですが,▲2二歩成から攻め合われると一手負けになると読み直し修正を迫られることに。選択されたのは△8九とで,これは△8七歩成以下の詰めろになっているので最善だったようです。
 後手の読みはここで▲5七金寄△6五歩で勝ちというもの。先手もそうみたようで▲5八金と下に逃げ道を求めました。今度は読んでいない手を指され,また後手は修正が必要に。それでも△2七歩と叩いて▲同飛に△3六角の飛車金両取りを掛けたのは,手番を渡して怖いようですがまた最善だったようです。
 先手は▲5三桂不成と詰めろで銀を取って△同金に▲3三桂と打ち込みました。読み筋は△同桂▲7一角で勝ちというもの。ただしそれで本当に勝ちかどうかは不明で,さらに実戦は△同銀と取られたので今度は先手に修正の必要が生じたのですが,ここではもう手段がなくなっていたようです。
 ここまで進んでしまえば▲同銀成と取るのは仕方ないでしょう。ですが△8七歩成▲同歩の後に△2七角成で飛車を取られました。
                                     
 飛車がいなくなると先手の攻めは足りません。ここから▲2二歩成△同金と進めましたがその局面は勝ちと後手は読み切っていたようです。戻って▲3三桂と打ち込んでいったのが敗着。▲2八飛と逃げておけばまだ難解な戦いが続いていたようです。
 勝者組の千田五段が勝ったので挑戦者に決定。同時に六段昇段を果たしています。千田五段のタイトル戦出場は初。第一局は来年の2月5日です。

 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理七備考でスピノザがデカルトの論証に疑問を呈するとき,まずスピノザが主張しているのは,デカルトが何を容易といい,何を困難といっているのかが分からないということです。したがってデカルトが論証のために援用しているふたつの公理のうち,これはひとつめの公理に関係しているといえるでしょう。スピノザはその疑問の理由について,どんなものであっても絶対的な意味で容易とか困難とかいわれることはあり得ず,もしもそういわれ得るとしたらそれはその原因に関してなのであり,原因に関してそのようにいわれる以上,異なった原因については同一物が同一時に,容易であるとも困難であるともいわれ得るからだという主旨のことをいっています。
 スピノザはこのために蜘蛛の比喩を用いています。すなわち蜘蛛は人間が大きな困難をもってしか,すなわち大変に困難な原因をもってしか張ることができない網を容易に張ります。だからといって蜘蛛は人間が容易になすことについて容易になすというものではありません。つまり網を張ることが大きなことであり,それをなすから人間がなす小さなこともなせるというものではないのです。よってこれだけでひとつめの公理は不十分になるのであり,論証を崩すだけであればこれで十分だと僕は考えます。スピノザはこの後で,人間は天使にさえなすことが不可能と思われる多くのことを容易になすといっていますが,この部分はある種のサービスと僕は思います。というのはこの一文は,人間が蜘蛛よりも困難な多くのことをなすという意味にもなりますが,もしデカルトの公理が正しければ,人間は天使がなすことはすべて容易になすということも帰結させるからです。つまりここでは純粋に哲学的な事柄だけが述べられているのではなく,宗教的なことも意図的に記述されているというのが僕の判断です。
 これは,ライオンの自然権が部分的に人間の自然権を凌駕するからといって,ライオンの自然権が人間の自然権より完全な自然権であることにはならないこととパラレルな関係にあります。ここでは完全ということが困難ということに置き換えられているのです。
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椿賞争奪戦&ふたつの公理

2016-12-19 19:03:57 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された伊東温泉記念の昨日の決勝。並びは深谷に新田,山形‐高原の徳島,松岡‐筒井‐西岡の西国で安部と後閑は単騎。
 互いに見合うような発走となりましたが深谷がスタートを取って前受け。3番手に松岡,6番手に後閑,7番手に山形,最後尾に安部という周回に。残り3周のホームから山形が上昇。安部が続き,その後ろに後閑も切り替え,バックで深谷を叩きました。深谷はすぐに引いたので5番手に松岡,8番手に深谷の一列棒状に。残り2周のホームから深谷が早くも巻き返し。山形も抵抗しましたがバックで深谷が叩いて前に出て打鐘。6番手になった単騎の後閑が発進し,ホームでは深谷を叩いて前に。後ろにいた松岡がこれを追い,割り込んだ高原が筒井の後ろ,捌かれた西岡が高原の後ろという隊列でバックへ。深谷はインで包まれて後退。思わぬ展開になりましたが,番手を無風で回るレースになった松岡が直線入口から踏み込んで優勝。マークの筒井が4分の3車身差の2着で西国ラインのワンツー。後方から単騎で捲った安部が1車輪差で3着。
 優勝した熊本の松岡貴久選手はこれが記念競輪初優勝。メンバー構成では深谷の力が断然で,普通に走れば勝つだろうと思われました。ただ,地元の新田を連れていたこともあり,もしかしたら強引なレースをする可能性もあるとも予測でき,その場合にはだれが勝ってもおかしくないような力関係。後閑が早めに自力を使って先行するということ自体が意外な展開で,後閑が発進したときに松岡が直後にいたのは偶然だったと思います。おそらく自分で行くことを考えていた筈で,その前に後閑が行ってくれましたので,とても楽な展開になりました。

 神の観念を有する人間が存在することから,神が存在するということを証明するために,デカルトはふたつの公理を用いています。ひとつはより大きなことあるいは困難なことをなし得るものは,より小さなこともなし得るというものです。もうひとつは,実体を創造しまた維持することは,実体の属性や特質を創造しまた維持することより大きなことであるというものです。
                                     
 このうちふたつめの公理に関しては注意を要します。第一部定義四から明らかなように,属性というのはPer attributumスピノザの哲学にあっては実体substantiaの本性essentiamのことです。だから実体を創造するというのと属性を創造するというのは,同じ意味でなければなりません。ですからどちらが大きくてどちらが小さいか,いい換えればどちらが困難であってどちらが容易であるのかということを比較することはできません。このことはあるものと別のものを比較するのは知性intellectusであるということと,第一部公理五からして,たとえ単一の実体が多数の属性によって本性を構成されるとしても,ある属性と別の属性は実在的にrealiter区別されて認識されるということに注意すれば明白です。ただ,デカルトの哲学ではこのような意味においては属性が実体の本性を構成するとは規定されていないのです。ですからここでデカルトがいっている属性については,スピノザの哲学における属性として解してはなりません。おそらくデカルトは特質proprietasは本性から流出するという意味において本性に相対するものであるということは是認していると思われますから,デカルトがより小さなことあるいはより容易なことといっているのは,そのような意味での特質だと解しておくのがいいでしょう。これならばスピノザの哲学とも齟齬を来しません。
 スピノザはデカルトがこれらふたつの公理を用いて論証することに異議を唱えているのです。これを詳述するためにはデカルトの論証自体がどのようなものであるかを説明する必要があります。しかし僕はここではスピノザの反論自体を検討したいわけではないのでそれはしません。そして僕の見解だけでいえば,論証への反駁としては,スピノザが備考の冒頭部分でいっていることだけで十分な筈です。
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朝日杯フューチュリティステークス&頻度と難易度

2016-12-18 19:26:29 | 中央競馬
 第63回朝日杯フューチュリティステークス
 抜群の発馬だったボンセルヴィーソがハナへ。大外から脚を使って追い上げたトラストが2番手に。トラストを行かせた2頭,レヴァンテライオンが3番手でクリアザトラックが4番手に。この後ろはダンビュライトとレッドアンシェルで併走。リンクスゼロ,ビーカーリー,ミスエルテ,アメリカズカップの4頭は一団。トリリオネア,ブルベアバブーンの2頭が中団の後方。この後ろをサトノアレスが単独で追走し,タガノアシュラ,モンドキャンノ,ダイイチターミナルの3頭が集団を形成。最後尾に控えたのがアシャカリアンとトーホウドミンゴの2頭。前半の800mは48秒3のスローペース。
 直線に入ってもボンセルヴィーソが先頭で逃げ込みを図りました。追ってきたのはクリアザトラックでしたが,コーナーで外を追い上げ,前を射程圏に入れていたサトノアレスが大外から一気に末脚を爆発させ先頭に。これを目標とするように伸びてきたモンドキャンノが最後はさらに外から迫ったものの届かず,サトノアレスの優勝。モンドキャンノが半馬身差で2着。粘ったボンセルヴィーソが2馬身差の3着。
 優勝したサトノアレスは8月に札幌でデビュー。札幌の2戦は2着でしたが9月に中山で初勝利をあげると前走の500万条件も勝ってここに出走。馬場やペースの差はあったにしても先週より時計が1秒4も遅いレースになりましたから,どこまで評価してよいのかは微妙なところ。レース内容は強かったですから,能力が高いのは間違いないでしょう。ただこの距離が合っていたような感もありますので,中距離でも同じような内容のレースが可能なのかもまだ分からないところはあります。父はディープインパクト
                                     
 騎乗した四位洋文騎手は2013年の川崎記念以来の大レース制覇。朝日杯フューチュリティステークスは初勝利。管理している藤沢和雄調教師は先週の阪神ジュベナイルフィリーズに続いての大レース制覇。第47回のバブルガムフェロー以来16年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス2勝目。

 自然のうちには頻繁に生じる出来事もあれば稀にしか生じない出来事もあります。このことは自然法則lex naturalisに何ら反するものではありません。なぜなら第一部公理三により,一定の原因が与えられることによって結果は必然的に与えられるのだからです。つまり原因がしばしば与えられれば結果もそれだけ多く与えられますし,原因が滅多に与えられなければ結果が与えられることもそれだけ少なくなるからです。いい換えれば出来事の生じ方に頻度の差があること自体が,自然法則すなわち神の本性の必然性necessitasに含まれていることになります。
 頻繁に生じようと稀に生じようと,それは同一の法則に従っています。ですから結果が生じる頻度と結果が生じる難易度にはまったく関係はありません。多くの原因が与えられようと少ない原因が与えられようと,与えられてしまえば必然的にnecessarius結果は与えられるのですし,法則自体は「唯一」なのですから,容易な原因がたびたび与えられ,困難な原因があまり与えられないというものでもありません。
 事実はこの通りなのですが,僕たちはしばしば生じることは容易であり,滅多に生じないことは困難であると表象しがちです。そしてそれが出来事自体に内在的に備わっている性質であるかのようにも思いがちです。つまり自然のうちには容易なことと困難なことが,僕たちの知性intellectusを離れて存在するというように認識してしまうのです。
 スピノザは,デカルトにはこうした類の思い込みがあって,それを哲学的な意味における完全性perfectioないしは完全と関係づけていると理解していると僕は考えています。その根拠は『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理七の後の備考です。この本はデカルトの哲学の解説書なのですが,スピノザはその備考の中でデカルトの考え方には難点があるとし,スピノザ自身の考え方を示しています。
 問題となっている第一部定理七というのは,神が存在するということは,人間のうちに神の観念があり,そういう人間が存在するということから証明することができるというものです。ただしスピノザはその定理自体を問題視はしていません。このことをデカルトが論証するときの方法を問題としています。
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第三部定理五九備考&完全性の優劣

2016-12-17 19:22:44 | 哲学
 第四部定理五七では,高慢な人間が愛するのは阿諛追従の徒であるとされ,逆に憎むのは寛仁generositasの人であるとされています。僕は適当な訳が思い浮かばないので寛仁という語をそのまま畠中に倣って使用します。そこである人が寛仁であるということがどういう意味を有しているのかを説明しておきましょう。すでにいったように寛仁というのは欲望cupiditasの一種なので,それはどういう欲望を有する人が寛仁の人といわれるのかという意味です。
                                     
 これは第三部定理五九備考に示されています。
 「妥当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を,私は精神の強さに帰する。そしてこの精神の強さを勇気と寛仁とに分かつ。(Omnes actiones, quae sequuntur ex affectibus, qui ad Mentem referuntur, quatenus intelligit, ad Fortitudinem refero, quam in Animositatem, et Generositatem distinguo.)勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると解する」。
 十全な観念から生じるあらゆる欲望は精神の強さFortitudinemといわれます。このうち,認識する人,つまり欲望する人の利益に関わる欲望は勇気Animositatemといわれます。そして認識する人すなわち欲望する人以外の利益にも関わる場合には,寛仁Generositatemといわれるのです。
 精神Mentemが事物を十全に認識することは,第三部定理三から分かるように精神の能動Mentis actionesと関係します。すなわち精神の能動によって何らかの欲望が生じるとき,そうした欲望は精神の強さといわれます。ただ,精神の強さというのをそれ自体で欲望とみるのは変かもしれませんから,備考にあるように,そうした欲望は精神の強さに帰せられるといった方がいいかもしれません。
 第三部定理五九は,精神の能動と関係する欲望が存在するということを示します。ですからそうした欲望が精神の強さに帰せられるというのは,不条理なことではありません。勇気という欲望と寛仁という欲望が,特別なふたつの欲望であるということが,この備考からみてとれます。

 共通の自然法lex naturalisから優劣のある自然権jus naturale,naturale jusが発生すると仮定します。もし僕たちがそのように認識したならば,そうした自然法に対して劣った自然権を発生させないような自然法を希求することになるでしょう。他面からいえばそういう自然法を認識することになるでしょう。法概念というのはそういうものだからです。
 いうまでもなく僕がここでしているのは仮定の話です。もしも知性intellectusが「唯一」にして共通の自然法を十全に認識するなら,優劣のある自然権を認識するということは不可能です。これは必然と不可能が対義語であることに注意すれば簡単に理解できる筈です。自然法が「唯一」で共通であるなら,そこから生じる自然権はいずれも必然的に生じるのです。したがって僕たちがそれをどのように表象するimaginariかということを別にすれば,その自然権には優劣はありません。いい換えればこの場合の優劣は,自然権そのものに内在する性質としてあるのではなく,表象上のものとしてあるということになります。僕がこういう仮定の話をするのは,分かりやすくするために,結果の方から原因に遡及する説明をしているからです。
 この自然法と自然権の関係が,神Deusの本性の必然性necessitasと各々のものの本性の間にも適用されることになります。つまりもしも各々のものの本性に優劣の差が生じるのであれば,そうした優劣を生じさせない必然性すなわち自然法則lex naturalisが要求されることになります。これは神のために要求されるのです。なぜなら,劣ったものいい換えるなら不完全な本性を発生させる神と,完全なものだけを発生させる神とを比較して,どちらが完全な神であるかというなら,当然それは完全なものだけを発生させる神であるということになるからです。なのでフェルトホイゼンLambert van Velthuysenやフーゴー・ボクセルのように,各々のものの本性の間に完全性perfectioの差異があるという見方は,かえって神に不完全性を帰すことになると僕は考えるのです。逆にいえばスピノザが第二部定義六で,完全性を実在性と等置させたのは,この種の不完全性が神に付与されるのを避けるためだったともいえるでしょう。
 スピノザはおそらく,デカルトもこの種の過ちを犯していると考えています。
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