第10回東京シンデレラマイル。
リンノフォーマリアは注文をつけて控えました。まず先頭に出たのはディーズプリモ。1周目の正面ではティーズアライズ,トーセンセラヴィの3頭で雁行でしたが,1コーナーからのコーナーワークでディーズプリモが単独の先頭に立ち,リードを広げていく形に。2番手はティーズアライズでしたが,コーナーで内から進出していたモダンウーマンとトーセンセラヴィの3頭は一団。この後ろにリンダリンダ,プリンセスバリュー,ケイティバローズの3頭が一団で続くという隊列に。前半の800mは50秒5のミドルペース。
3コーナー手前からトーセンセラヴィがディーズプリモに並び掛けていき,コーナーの途中で交わし,直線の入口では先頭に。外を追い上げていたケイティバローズは4コーナーからついていかれなくなり,ディーズプリモとトーセンセラヴィの間に進路を選択したモダンウーマンと,トーセンセラヴィの外に出されたリンダリンダの3頭で直線の攻防。最初に脱落したのがモダンウーマン。リンダリンダはよく伸びて迫りましたが,迫られるとトーセンセラヴィもまた伸びるという形で,優勝はトーセンセラヴィ。クビ差の2着にリンダリンダ。半馬身差の3着にモダンウーマン。
優勝したトーセンセラヴィは南関東重賞初制覇。昨年の11月までJRAで走り2勝。12月に南関東に転入すると連勝し,1度の2着を挟んだ後に8連勝。前走はいきなり大レースに挑戦して3着。この実績からこのメンバーなら負けることはないだろうと見立てていました。着差が開かなかったのは,並んだら抜かせないという馬の特性を騎手がよく把握していたためとも思われ,底力に関しては着差以上のものがあると考えておいていいのではないでしょうか。南関東重賞なら牡馬相手にも通用するでしょうし,牝馬戦では重賞制覇を期待できる馬だと思います。父はディープインパクト。母はNARグランプリで2007年と2008年に最優秀牝馬に選出されたトーセンジョウオー。4代母がスカーレットインク。C'est la Vieはフランス語でこれが人生。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は勝島王冠以来の南関東重賞制覇。第9回に続き連覇で東京シンデレラマイル2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は東京シンデレラマイル初勝利。
『エチカ』の中の僕が自然学と表記している部分は,基本的に物体corpusに一般の法則を解明することを目的としています。ただし,岩波文庫版117ページの要請は,人間の身体corpusだけに適用可能な一種の公理Axiomaであり,ほかの物体には成立しない内容を有しています。このことは各々の要請の主語が人間の身体Corpus humanumないしは人間の身体を構成する部分Cum Corporis humani parsとされていることから明白で,異論の余地はないでしょう。したがって僕が示したことでいえば,外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激されることや,外部の物体をきわめて多様の仕方で動かし,きわめて多くの仕方で影響するcorpora externa plurimis modis movere, plurimisque modis sisponereということは,人間の身体に特有の性質であることになります。いい換えるならそれは人間の身体の特性であって,ほかの物体にはみられない事柄であるということです。
有能であるということを,能動的であるということ,あるいは多くの事柄,ほかの様態には不可能である事柄を能動的になし得るという意味に解することは,解釈として不当であるとはいえません。しかるに第五部定理四〇は,ものは能動的であればあるほど完全であるということを意味します。なのでこの場合には,もし人間がほかの様態よりも有能であるということを是認するということを,人間がほかの様態より完全であると是認するというように解釈することは,不当であるどころか妥当であるといわなければならないでしょう。
しかし僕は,その備考でスピノザがいっていることは,そういうことではないだろうと理解しています。つまり人間がほかの様態より完全であるということを,スピノザはここでも暗示はしてはいないと解するのです。ただ,そのように主張する場合には,この備考の文章をどのように解釈すればよいのかということを説明する必要があるでしょう。
まず,この文章の前提となるのは,岩波文庫版117ページの,第二部自然学②要請三であると僕はみます。あるいはこれに要請六を加えても構いません。要するに,人間の身体は外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激されるということ,それに加えて外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし,またきわめて多くの仕方で影響し得るcorpora externa plurimis modis movere, plurimisque modis sisponereということが,人間の身体が有能であることの前提となると考えるのです。そしてこの場合には,人間の身体をほかの物体と比較して有能であるとスピノザはいっていると解しても構わないと思います。むしろそう解するべきでしょう。
神Deusを創造し維持することと様態modi,modusを創造し維持することの難易度を比較することは,スピノザの哲学においては,自己原因causa suiであるものを創造し維持することと,外部に起成原因causa efficiensを要するものを創造し維持することの難易度を比較することです。そして外部に起成原因を要するものの起成原因とは,自己原因であるものにほかなりません。したがって,自己原因であるものが自己を創造し維持することと,自己以外の何かを自己の内部または外部に創造し維持することの難易度を比較することだとしてもよいことになります。僕はこの観点から,それらの間に難易度の差はないという見解を有します。
スピノザは第一部定理二五備考で,神は自己原因であるといわれるのと同じ意味においてすべてのものの原因であるeo sensu, quo Deus dicitur causa sui, etiam omnium rerum causa dicendus estといっています。だとすれば,神が自己原因といわれる場合と,すべてのものの原因といわれる場合に,難易度の差はあってはならないと僕は考えます。なぜなら,もしそこに難易度の差があるなら,いい換えれば一方が困難で他方は容易であるという関係があれば,両者が同じ意味であるということにはならないであろうからです。スピノザがここでいっているのは,神は「唯一」であり,そのゆえに自然法則lex naturalisも「唯一」なのであって,神が自己を創造しまた維持する自然法則とすべてのものを創造しまた維持する自然法則は同一であるということです。同一の自然法則は,頻度の差を生じさせることはあっても,難易度の差を生じさせることはあり得ません。このことは,困難であるということまた容易であるということが,絶対的にいわれるのではなく,与えられた原因に関していわれるのだというスピノザによる注意から明解です。この場合には与えられる原因というのが同一にして「唯一」の自然法則なのですから,困難な原因と容易な原因という別々の原因が与えられることはないからです。
なお,あるものを維持することは,本来的には時間と関連していわれます。というのは維持されない場合が概念concipereできないと維持は何の意味も有せないからです。ただここでは永遠に維持するという,本来的には語義矛盾ないい方も許容するとしておいてください。
第一部定理一四により,神のほかにはいかなる実体も存在し得ません。したがって実体の創造と維持の難易度と,実体の変状affectioである様態modi,modusの創造と維持の難易度を比較するということは,スピノザの哲学では,神を創造しまた維持する難易度と,神から産出されるものを創造しまた維持する難易度を比較するということが,その実在的な意味になります。そしてスピノザの哲学では,原因とは一義的に起成原因causa efficiensを意味します。その原因によってのみ難易度は決定できるのですから,まず各々の起成原因を確認しておきます。
神の起成原因が何であるかは,第一部定理一七系一で言及されています。
「この帰結として第一に,神の本性の完全性以外には神を外部あるいは内部から駆って働かせるいかなる原因も存在しない,〈むしろ神は自己の完全性の力のみによって起成原因である,〉ということになる」。 第一部定義一は,その本質が存在を含むものcujus essentia involvit existentiamのことを自己原因causam suiと定義しています、ですからこの系は神は自己原因であるといっているのと同じです。第一部定理七は実体の本性には存在することが属するということを示していて,これは実体は自己原因であるという意味です。したがって神が自己原因であるということはその定理からも明白だといわなければならないでしょう。ただ,第一部定理七に依拠するのはどちらかといえば形式的なあるいは名目的な論証になるのに対して,第一部定理一七に訴求するならそれがより実在的になるという相違があるだけです。なお,僕が自己原因を起成原因のひとつに含めている点に注意してください。
一方,第一部定理一五は,神なしには何ものもあり得ないnihil sine Deo esseということを示しています。したがって様態は神なしには存在し得ないことになります。そして第一部定理二五が示しているのは,神は単に様態の存在の起成原因であるだけでなく,様態の本性の起成原因でもあるnon tantum est causa efficiens rerum existentiae, sed etiam essentiaeということです。さらに第一部定理二六は,様態が作用する原因も神であることを示します。要するに様態に関連するあらゆる事柄の起成原因は神であるということになります。他面からいえば,様態の起成原因は様態の外部にあるということです。
なぜスピノザがひとつめでなくふたつめの公理とこの見解を関連付けたかということは,デカルトの論証自体を詳しく検討しなければ説明できません。しかし前もっていっておいたように,僕はこの考察においてはそれはしません。デカルトがどのような論証を試みているのかについては,岩波文庫版の『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の訳注に紹介されています。また,『スピノザの方法』の第五章では,ここでとりあげている備考について詳しく検討されています。僕はここでは,デカルトのふたつめの公理と関連させて,デカルトが困難であるほど完全であり,容易であるほど不完全であると認識しているというスピノザの見解は正当なものであるとだけしておきます。なのでもしもこれらの点についてもっと詳しく知りたいという方があれば,それらを参考にしてください。
困難であるほど完全であり,容易であるほど不完全であるとみなしたところで,完全であるものは不完全なこともなし得るということを帰結させられるというものではありません。困難であるとか容易であるということが,あるものについて絶対的にいわれるというわけではなく,その原因についていわれるという点では何ら変わるところがないからです。確かに完全であるとか不完全であるとかいうことは,ある種のものに対しては絶対的な意味でいうことができるかもしれません。ですが備考でスピノザが示した例に倣えば,人間と蜘蛛のどちらが完全であるかはむしろ決定できないことになるでしょう。もちろん人間と天使を比較する場合にも同様です。
『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理七備考でスピノザがデカルトの論証に疑問を呈するとき,まずスピノザが主張しているのは,デカルトが何を容易といい,何を困難といっているのかが分からないということです。したがってデカルトが論証のために援用しているふたつの公理のうち,これはひとつめの公理に関係しているといえるでしょう。スピノザはその疑問の理由について,どんなものであっても絶対的な意味で容易とか困難とかいわれることはあり得ず,もしもそういわれ得るとしたらそれはその原因に関してなのであり,原因に関してそのようにいわれる以上,異なった原因については同一物が同一時に,容易であるとも困難であるともいわれ得るからだという主旨のことをいっています。
スピノザはこのために蜘蛛の比喩を用いています。すなわち蜘蛛は人間が大きな困難をもってしか,すなわち大変に困難な原因をもってしか張ることができない網を容易に張ります。だからといって蜘蛛は人間が容易になすことについて容易になすというものではありません。つまり網を張ることが大きなことであり,それをなすから人間がなす小さなこともなせるというものではないのです。よってこれだけでひとつめの公理は不十分になるのであり,論証を崩すだけであればこれで十分だと僕は考えます。スピノザはこの後で,人間は天使にさえなすことが不可能と思われる多くのことを容易になすといっていますが,この部分はある種のサービスと僕は思います。というのはこの一文は,人間が蜘蛛よりも困難な多くのことをなすという意味にもなりますが,もしデカルトの公理が正しければ,人間は天使がなすことはすべて容易になすということも帰結させるからです。つまりここでは純粋に哲学的な事柄だけが述べられているのではなく,宗教的なことも意図的に記述されているというのが僕の判断です。
これは,ライオンの自然権が部分的に人間の自然権を凌駕するからといって,ライオンの自然権が人間の自然権より完全な自然権であることにはならないこととパラレルな関係にあります。ここでは完全ということが困難ということに置き換えられているのです。
自然のうちには頻繁に生じる出来事もあれば稀にしか生じない出来事もあります。このことは自然法則lex naturalisに何ら反するものではありません。なぜなら第一部公理三により,一定の原因が与えられることによって結果は必然的に与えられるのだからです。つまり原因がしばしば与えられれば結果もそれだけ多く与えられますし,原因が滅多に与えられなければ結果が与えられることもそれだけ少なくなるからです。いい換えれば出来事の生じ方に頻度の差があること自体が,自然法則すなわち神の本性の必然性necessitasに含まれていることになります。
頻繁に生じようと稀に生じようと,それは同一の法則に従っています。ですから結果が生じる頻度と結果が生じる難易度にはまったく関係はありません。多くの原因が与えられようと少ない原因が与えられようと,与えられてしまえば必然的にnecessarius結果は与えられるのですし,法則自体は「唯一」なのですから,容易な原因がたびたび与えられ,困難な原因があまり与えられないというものでもありません。
事実はこの通りなのですが,僕たちはしばしば生じることは容易であり,滅多に生じないことは困難であると表象しがちです。そしてそれが出来事自体に内在的に備わっている性質であるかのようにも思いがちです。つまり自然のうちには容易なことと困難なことが,僕たちの知性intellectusを離れて存在するというように認識してしまうのです。
スピノザは,デカルトにはこうした類の思い込みがあって,それを哲学的な意味における完全性perfectioないしは完全と関係づけていると理解していると僕は考えています。その根拠は『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理七の後の備考です。この本はデカルトの哲学の解説書なのですが,スピノザはその備考の中でデカルトの考え方には難点があるとし,スピノザ自身の考え方を示しています。
問題となっている第一部定理七というのは,神が存在するということは,人間のうちに神の観念があり,そういう人間が存在するということから証明することができるというものです。ただしスピノザはその定理自体を問題視はしていません。このことをデカルトが論証するときの方法を問題としています。
これは第三部定理五九備考に示されています。
「妥当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を,私は精神の強さに帰する。そしてこの精神の強さを勇気と寛仁とに分かつ。(Omnes actiones, quae sequuntur ex affectibus, qui ad Mentem referuntur, quatenus intelligit, ad Fortitudinem refero, quam in Animositatem, et Generositatem distinguo.)勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると解する」。
十全な観念から生じるあらゆる欲望は精神の強さFortitudinemといわれます。このうち,認識する人,つまり欲望する人の利益に関わる欲望は勇気Animositatemといわれます。そして認識する人すなわち欲望する人以外の利益にも関わる場合には,寛仁Generositatemといわれるのです。
精神Mentemが事物を十全に認識することは,第三部定理三から分かるように精神の能動Mentis actionesと関係します。すなわち精神の能動によって何らかの欲望が生じるとき,そうした欲望は精神の強さといわれます。ただ,精神の強さというのをそれ自体で欲望とみるのは変かもしれませんから,備考にあるように,そうした欲望は精神の強さに帰せられるといった方がいいかもしれません。 第三部定理五九は,精神の能動と関係する欲望が存在するということを示します。ですからそうした欲望が精神の強さに帰せられるというのは,不条理なことではありません。勇気という欲望と寛仁という欲望が,特別なふたつの欲望であるということが,この備考からみてとれます。
共通の自然法lex naturalisから優劣のある自然権jus naturale,naturale jusが発生すると仮定します。もし僕たちがそのように認識したならば,そうした自然法に対して劣った自然権を発生させないような自然法を希求することになるでしょう。他面からいえばそういう自然法を認識することになるでしょう。法概念というのはそういうものだからです。
いうまでもなく僕がここでしているのは仮定の話です。もしも知性intellectusが「唯一」にして共通の自然法を十全に認識するなら,優劣のある自然権を認識するということは不可能です。これは必然と不可能が対義語であることに注意すれば簡単に理解できる筈です。自然法が「唯一」で共通であるなら,そこから生じる自然権はいずれも必然的に生じるのです。したがって僕たちがそれをどのように表象するimaginariかということを別にすれば,その自然権には優劣はありません。いい換えればこの場合の優劣は,自然権そのものに内在する性質としてあるのではなく,表象上のものとしてあるということになります。僕がこういう仮定の話をするのは,分かりやすくするために,結果の方から原因に遡及する説明をしているからです。
この自然法と自然権の関係が,神Deusの本性の必然性necessitasと各々のものの本性の間にも適用されることになります。つまりもしも各々のものの本性に優劣の差が生じるのであれば,そうした優劣を生じさせない必然性すなわち自然法則lex naturalisが要求されることになります。これは神のために要求されるのです。なぜなら,劣ったものいい換えるなら不完全な本性を発生させる神と,完全なものだけを発生させる神とを比較して,どちらが完全な神であるかというなら,当然それは完全なものだけを発生させる神であるということになるからです。なのでフェルトホイゼンLambert van Velthuysenやフーゴー・ボクセルのように,各々のものの本性の間に完全性perfectioの差異があるという見方は,かえって神に不完全性を帰すことになると僕は考えるのです。逆にいえばスピノザが第二部定義六で,完全性を実在性と等置させたのは,この種の不完全性が神に付与されるのを避けるためだったともいえるでしょう。
スピノザはおそらく,デカルトもこの種の過ちを犯していると考えています。