スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

デカルト&第五部定理一四の意義

2006-09-23 22:33:22 | 哲学
 カーリーEdwin Curleyの著書Behind the Geometorical Method:A Reading of Spinoza's Ethicsについては感想を書きましたが,デカルト哲学についてはほとんど言及していなかったので,補足の意味で少し。
                         
 デカルトRené Descartesの哲学がなければ,スピノザの哲学はあり得ませんでした。また,哲学史という観点からすれば,デカルトが占める地位は,スピノザの地位よりずっと大きいかもしれません。しかし,スピノザの哲学について考えている人間の立場からすれば,デカルトの立場というのは不十分なのであって,全面的にではないとしても修正されるべき哲学としてあるというのが普通の考え方だと思います。そして,スピノザの哲学は,ひとつの方法でデカルトの哲学を乗り越えたものであるということになるかと思います。また,スピノザ自身,『エチカ』の中においても,デカルトの考え方について,それを厳しく非難している部分があります。ですので,デカルト的な立場からスピノザを読むというのは,スピノザの側からいえば本当はあり得ないことであって,それは,乗り越えたものが,乗り越えられたものに再び還元されてしまうということにほかならないのです。これではスピノザがその哲学においていわんとしたことを正しく理解できる筈もないと僕は思います。
 この考え方が一面的であるといえばそうかもしれませんが,デカルトの側からスピノザを読むのではなく,スピノザの側からデカルトを読む(そこにある意味を汲み取る)というのが,スピノザの哲学について考える場合,あるいは『エチカ』を読解しようとする場合には,本来採用するべき手法であると思います。

 明日は青森記念2日目優秀にあたる八甲田賞があるので予想します。確たるラインはふたつ。山崎-坂本-佐々木の北日本と吉岡-合志-小川の西国。位置のない残りの3選手は村本-渡辺と山口。先行1車のようなものなので山崎選手◎に期待。競られなければ坂本選手○もチャンス。競りで隊列が短くなれば吉岡選手▲と合志選手△で捲り一閃。

 人間というのは本来は受動的なものです(第四部定理四)。これを少々強引ですが,人間は「自然状態status naturalis」にあっては受動的であると考えるならば,そういう「自然状態」の人間の精神mens humanaがまず形成する観念ideaは,自分の身体corpusの受動passioの観念,すなわち,自分の身体が外部の物体corpusに刺激されるaffici観念であり,また,それによって,自分の身体を刺激するafficere外部の物体が現実的に存在すると表象するimaginari観念(第二部定理一七)であるということになると思います。
 そこで,もしも人間がそうした「自然状態」にあって第一に形成するようなそうした観念を,神の観念idea Deiと関係させることができるのであれば,それによって人間は,神が実在することを知ることができると考えることは可能だと思います。つまりこの考え方からすれば,人間は「自然状態」において,それ自体で神の実在を認識し得るということになるのです。第五部定理一四が,神が実在するということを人間がそれ自体で知り得るということに対してもつ意義は,僕の考えではこの点にあります。
コメント
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