スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

日本テレビ盃&比較

2021-09-30 18:59:50 | 地方競馬
 昨晩の第68回日本テレビ盃
 サルサディオーネがハナへ。2番手にクリソベリル。3番手にダノンファラオとメイショウダジン。4馬身差でノンコノユメ。6番手にラストマン。ここから大きく離れてクインザヒーロー。8番手にシュプレノン。4馬身差でクラトリガー。大きく離れてメイショウオオゼキ。最初の800mは48秒7のハイペース。
 サルサディオーネのリードは直線の入口で2馬身くらい。ここからクリソベリルが差を詰めにいきましたが詰まらず,クリソベリルの方が一杯に。クリソベリルの外からメイショウダジンでクリソベリルとメイショウダジンの間にダノンファラオ。メイショウダジンの外からはラストマンとノンコノユメが伸びてきました。4頭のうち最も前に迫ったのはダノンファラオでしたが,サルサディオーネには届かず,逃げ切ったサルサディオーネが優勝。半馬身差の2着にダノンファラオ。1馬身差の3着がメイショウダジンでクビ差の4着にラストマン。4分の3馬身差の5着がノンコノユメ。
 優勝したサルサディオーネスパーキングサマーカップに続いて3連勝。重賞はその前のスパーキングレディーカップ以来の4勝目。このレースは能力を十分に発揮すればクリソベリルが負けることはないというメンバー構成。2番手で追走して自身が一杯になってしまったのは,まだ力を出せる状態になっていなかったということでしょう。そういう状態のクリソベリルが2番手だったことで,それより後ろの馬はクリソベリルを目標とし,結果的に逃げたサルサディオーネへのマークが甘くなり,逃げ切りを許すことになりました。これまでの重賞3勝はいずれも牝馬重賞でしたので,サルサディオーネは大きな実績を加えたことになります。父はゴールドアリュール。母は2002年に東京プリンセス賞を勝ったサルサクイーン
 騎乗した大井の矢野貴之騎手はスパーキングレディーカップ以来の重賞5勝目。日本テレビ盃は初勝利。管理している大井の堀千亜樹調教師はスパーキングレディーカップ以来の重賞5勝目。日本テレビ盃は初勝利。

 このことは,情報開示型のゲームと比較すれば,より理解が容易になると思います。ここでは将棋と比較してみましょう。
 将棋は,双方が入玉した場合のような例外がありますが,基本的に,自分の玉が詰んでしまう前に相手の玉を詰ますことで勝ちになるゲームです。ですから将棋にも,ふたつの性質があります。ひとつはなるべく早く相手の玉を詰ますように指すことで,もうひとつは,なるべく自分の玉が詰むのを遅れさせるように指すことです。一般的には前者は攻め,後者は受けといわれますので,攻めと受けというふたつの本質があることになります。実際には,詰めろ逃れの詰めろに代表されるような,攻防を兼備した手が将棋にはしばしば出現しますので,ある一手だけを抽出して,それが攻めの本質の一手なのか受けの本質の一手であるかを問うことはあまり意味がありません。
 このことは,麻雀にもある程度までは妥当しているといえるでしょう。すなわち,自分が得点を獲得することを目指す本質は攻めの本質で,自分が得点を失うこと,あるいはほかのプレイヤーが得点することを阻止することは,受けの本質に該当すると考えられるからです。そして将棋の場合と同様に,麻雀のある一手だけを抽出すれば,それは攻防兼備の一手であるということがありますから,やはり将棋の場合と同様に,麻雀の場合でも,ある一手だけを抽出して,それが攻めの手であるのか受けの手であるのかを問うことは,あまり意味がないことになります。
                                   
 相違はやはり情報の開示性にあるのであって,将棋の場合は,プレイヤーが得ている情報が完全に一致していますから,攻める場合でも受ける場合でも同様の条件で考えることができます。したがって,攻めの論理も受けの論理も,同じ前提で考えます。ですから,それによって蓄積される第二種の認識cognitio secundi generisというのは,攻めの場合でも受けの場合でも同じです。このために,現実的にそうであるかどうかは別としても,攻めの場合でも受けの場合でも,第三種の認識cognitio tertii generisが同じように有効になります。たとえば,相手の玉が詰むかどうかを直観的に認識するcognoscereのも,自分の玉が詰むかどうかを直観的に認識するのも,条件は同じです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川青流戦&蓄積

2021-09-29 19:11:47 | 将棋
 26日の午前に鶴林寺で指された第11期加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 服部慎一郎四段の先手で矢倉。後手の井田明宏四段は雁木。ただ組み合うような将棋ではありませんでした。この将棋は先手の方がよいように思えたのですが,進んでみるとかなり後手がよくなっていました。最初の僕の見立てがおかしかったのかもしれませんし,あるいは逆転したのかもしれません。
                                        
 第1図で後手は☖3八歩と打ちました。先手は一旦は☗3三歩成☖同金と成り捨ててから☗4九王。歩を打ったのを生かして☖3九金ですが☗同銀☖同歩成☗同王と進みました。
                                        
 この後の進展からすると,第2図はもう後手が容易には勝てない形となっているようです。5七の銀は取れるのですが,飛車を取られる展開となってしまうからです。
 第1図では☖3七歩との比較で迷ったという感想が残っています。ただそれも後手が簡単には勝てなさそうです。この局面では☖7六角と打って詰めろを掛ける手は単純ながら厳しそうにみえます。それでも後手が勝てないのなら,第1図はすでに難解か,先手に分がある局面なのかもしれません。
 服部四段が勝って1勝1敗。第三局は同日の午後に指されました。

 推測という要素が必要になると,直感すなわち第三種の認識cognitio tertii generisの働きが鈍くなる場合があると僕は考えます。近藤が,自分が失点することを防ぐことを目指す場合,あるいは同じことですが,ほかのプレイヤーが得点を獲得することを防ぐ場合は,直感すなわち第三種の認識が有効ではないということの理由が,この点にも存すると僕は考えているということです。
 この推論は,当然ながら第二種の認識cognitio secundi generisを基にして行われることになります。しかしこれは開示されていない情報に対する推測なので,いかに第二種の認識を基に考察したとしても,必ず正しい結論が得られるというものではありません。第二部定理四〇から分かるように,僕たちが何らかの正しい結論を得るためには,その原因causaすなわちその結論を得るための前提となっている情報もまた正しいのでなければなりません。ところがその前提となるべき部分が情報として開示されていないのであれば,その前提が正しいか正しくないかということは分かりません。これは注意が必要で,前提が絶対に正しくならないというわけではなく,正しい前提を得られる可能性はあるのですが,だからといってその前提が正しいということを確知させるような要素はないということです。つまりいくら推測したところで,その推測が正しいか正しくないかを,推測したプレイヤーは確実に知るということができないのです。
 第五部定理二八は,第二種の認識の蓄積が第三種の認識の契機となるという意味のことをいっています。ところが上述したことから分かるように,開示されていない情報に対する推測は,いくら第二種の認識を基にしてなされたとしても,それは確実視することができないような,あるいは少なくとも確実視することが困難な推測なのですから,第三種の認識の契機となるような第二種の認識の蓄積にはならない,またはとてもなりにくいのです。このために,自身が得点を加算することを目指す場合には,開示されている情報を基に考察するので第三種の認識の契機となるような第二種の認識が蓄積されやすいため,直感が有効となる場合もあるのですが,失点を防ぐためには,それほど有効にはならないのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川青流戦&情報

2021-09-28 19:04:32 | 将棋
 25日に鶴林寺で指された第11期加古川青流戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は服部慎一郎四段が0勝,井田明宏四段が1勝。
 加古川市長による振駒で井田四段の先手となって相掛かり
                                        
 第1図で☖1四歩と突いた手を服部四段は局後に悔やんでいました。先に☖4四歩と突き,先手が角をどのように処置するのをみてから指し方の方針を決めなければならなかったようです。
 先手は☗9六歩と逆の端歩を突きました。後手はそこで☖4四歩と突きましたが,この場合は☗2七角。後手は☖1五歩と突き越しましたが先手も☗9五歩と突き越しました。
                                        
 この☗9五歩では本当は☗3六飛の方がよかったそうです。しかし☗9五歩も端攻めをみせた厳しい手。とくに後手が1筋を突き越したのと比べると価値が高く,ここで先手が優位に立つことになりました。
 井田四段が先勝。第二局は26日に指されました。

 情報共有型ゲームと情報非共有型ゲームの特徴の最も大きな差異は,実力の反映のされ方にあります。ですがほかにも差異があるのです。それは,第二種の認識cognitio secundi generisによって考えるべき事柄の差異で,この点が近藤のいっていることと関連します。
 近藤は麻雀がもつふたつの性質のうち,自分が得点を獲得しようとする場合は第三種の認識cognitio tertii generisが有効であるけれど,自分が失点を回避しようとする場合,あるいは同じことですが,自分以外のプレイヤーが得点を獲得することを阻止しようとする場合は,第三種の認識が有効ではないといっていました。そしてその理由のひとつとして,麻雀が情報非共有型ゲームであるということがあげられると僕は考えています。すでにいったように,近藤は麻雀が情報非共有型ゲームであるということを前提としていますから,このことには何も触れていませんので,僕の方からこのことの意味を示しておきたいのです。
 情報非共有型ゲームというのは,そのゲームのプレイヤーにすべての情報が開示されていないゲームを意味しますが,このとき,開示されている情報の方に目を向けると,各々のプレイヤーが得ている情報には相違があります。たとえばトランプのようなゲームを複数人でプレイする場合,各々のプレイヤーは自分のカードについての情報は開示されていますが,他のプレイヤーのカードの情報は開示されていません。麻雀もこれと同じで,自身の手の情報は開示されていますが,他のプレイヤーの手は開示されていないのです。
 このとき,もしも自分が得点を獲得するということを目指すのであれば,自分の手を中心に考えていくことになります。つまり開示されている情報を規準として考えていくことになります。しかし,他のプレイヤーが得点を獲得することを阻止することを目指すのであれば,考える規準は自分の手ではなく,他のプレイヤーの手になります。つまり,考える規準が,開示されていない情報になるのです。したがってこの場合は,開示されていない情報がどのような情報であるのかということ,すなわちそのプレイヤーの手がどのような手であるのかということを推測するという思考が必要になってくるのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大成建設杯清麗戦&実力の反映

2021-09-27 19:04:54 | 将棋
 23日に赤坂で指された第3期清麗戦五番勝負第一局。対戦成績は,里見香奈清麗が23勝,加藤桃子女流三段が6勝。
 大成建設の副社長による振駒で里見清麗の先手となり5筋位取り中飛車。後手の加藤三段が居飛車穴熊で先手が銀冠の持久戦になりました。
                                        
 ここで先手が☗1四歩と突いたのが直接的な敗着となりました。☖同歩に☗1三歩。ここで☖同香なら☗2五桂で先手もやれるのですが後手は熟考して☖同桂と取りました。
 ここで☗2五桂打としても歩がないので攻めになりません。また☗1四香は☖同銀☗1九銀という筋があります。よって☗5六桂と打ちました。対して☖1五香。
 第1図の時点ではこれを☗同香と取れるとみていたようですが,それは☖1九銀でも☖1七銀でも後手が勝てます。なので予定を変更して☗6九桂と打ちましたが☖1九香成と取られました。
                                        
 第2図となっては先手から端を攻めにいったのに逆襲されています。これで著しく形成を損ねることになりました。
 加藤三段が先勝。第二局は来月13日に指される予定です。

 情報共有型のゲームは,情報非共有型ゲームと比べて,実力に反映された結果が生じやすいという特徴を有します。たとえば明確な力量の差がある場合,ここでは極端に,ルールを覚えたての初心者とプロが戦うという仮定をしますが,この両者が戦った場合,情報共有型ゲームで初心者が勝つということはまずありません。もちろん人間がやることなので,ひどいうっかりをするとか,反則を犯してしまうということがないことはないので,初心者が勝つ可能性が0ということはありませんが,数値として示せば限りなく0に近くなります。そしてこれは,1回の勝負だけに限ったことではありません。どれほどの対戦を重ねていっても同じです。つまり,初心者とプロが10回の対戦をして,そのうちの1回でも初心者が勝つという可能性もまた,数値として示せば限りなく0に近いのです。
 情報非共有型のゲームだと,このことが成立しません。初心者とプロが対戦すれば,もちろんプロが勝つ可能性の方が高いですが,初心者の勝つ確率が限りなく0に近いということはあり得ません。まして初心者とプロが10回の対戦を重ねて,そのうちの1度でも初心者が勝つ可能性になると,1回の勝負で勝つ確率がその回数の分だけ増加していくことになります。つまり,1回の勝負で初心者が勝つ確率をXとすれば,10回のうち1度でも初心者が勝つ確率というのは,Xの10倍,すなわち10Xか,それに近似した数値になります。近似した数値というのは,たとえば1回の勝負で初心者が勝つ確率が10%あるという場合では,その10倍が100%になってしまいますが,そうはならないということです。他面からいうと,1回の勝負で初心者が勝つ確率が10%あるというゲームであれば,そのゲームで10回の勝負をして,プロが全勝するという確率が,限りなく0に近くなってしまうということです。
 すでに示したように,麻雀は情報非共有型のゲームです。近藤はそういうゲームでの理論と直感について語っているのです。この点は注意してください。それらは,たとえば将棋のような情報共有型ゲームにおける理論と直感とは,異なった性質をもつ筈だからです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善知鳥杯争奪戦&情報の共有性

2021-09-26 19:04:57 | 競輪
 青森記念の決勝。並びは阿部‐坂本‐佐々木の北日本,吉沢に東口,深谷-東-石毛の南関東で上田は単騎。
 だれも前受けしたがらないような発走。バックに入ってから東が外から誘導の後ろに入り,深谷の前受けに。4番手に阿部,7番手に吉沢,最後尾に上田という隊列で周回。残り3周のバックの出口から吉沢がゆっくりと上昇。ホームで深谷を叩きました。このラインに続いていた上田が,コーナーから上昇していき,バックに入るとすぐに吉沢の前に。ここから阿部が発進。打鐘で上田を叩いて先行。4番手に上田,5番手に吉沢,7番手に深谷の一列棒状に。バックに入ると上田が発進。これに合わせて坂本も番手捲りを敢行。スピードは上田が優っていましたが,佐々木の牽制が入って失速。直線は佐々木が坂本を差し切って優勝。大外からの捲り追い込みになった深谷が半車輪差まで迫って2着。直線の入口の手前で吉沢の内から佐々木にスイッチする形になった東口が4分の3車身差で3着。坂本は4分の1車輪差で4着。
 優勝した福島の佐々木雄一選手は記念競輪初優勝。このレースは脚力では深谷ですが,北日本勢の並びからは二段駆けが予測されましたので,展開面ではこちらが有利。それを深谷が力でねじ伏せられるかが焦点でしたが,北日本の3番手を回った佐々木に軍配が上がりました。佐々木は今年はFⅠでも優勝がありませんし,昨年もFⅠで1回の優勝があるだけという選手ですが,この開催は共同通信社杯に出走しなかったメンバーでの争いなので,その点でも恵まれた面があるといえそうです。ただ,上田の勢いは坂本を上回っていましたから,その捲りを止めたという点では,よい仕事をした上での優勝だったといっていいと思います。

 一般に人は他人が何を考えているか分かりません。ですから,頭脳ゲームの最中に,対戦相手が何を考えているかも分からないのです。しかし,他人が何かを考えているとして,何を規準としてその何かを考えているということが分かる場合は,一般的に人に生じ得ます。ですから頭脳ゲームの場合も,それが生じるというケースがあるのです。
 たとえば将棋の場合,対局相手が何を考えているかということはまったく分かりません。しかし,何を規準として考えているのかということは分かります。なぜなら,盤面の駒の配置や双方の持駒が何であるのかという情報が,対戦しているふたりに共有されているからです。いい換えれば,自分がそれを規準として考えているのと同じ規準で,相手もそれを考えているということになるのです。これをここでは情報共有型ゲームと名付けておきましょう。このタイプのゲームとしては,囲碁やチェス,オセロといった,ボードゲームの多くが含まれます。
 これに対して麻雀は,対戦相手の手は分からない上に,次に相手が捨てる牌が何であるのかとか,次に自分が引いてくる牌が何であるのかということは分かりません。つまり将棋のようにすべての情報が同じようにプレイヤーに共有されているというわけではないのです。そこでこのタイプのゲームは,情報共有型ゲームに対して,情報非共有型ゲームといっておきましょう。このタイプのゲームとしては,トランプに代表されるようなカードゲームの多くが含まれます。
                                        
 これでみれば分かるように,麻雀というのは卓上で牌を用いるゲームですから,見かけの上では盤上で駒を使う将棋のようなボードゲームと似ているのですが,ゲームの本質としては,たとえばポーカーのようなカードゲームに近似しているのです。そしてこの相違,つまり情報共有型ゲームであるか情報非共有型ゲームであるのかという相違が,ゲームにいくつかの特質を齎すことになるのです。
 これは現状の考察とは無関係ですが,この特質についてもひとつだけ指摘しておきましょう。おそらく最大の特質の相違は,実力の反映のされ方にあると思われますので,それはそれで重要な観点であろうからです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王座戦&直感の有効性

2021-09-25 19:00:58 | 将棋
 22日に鶴巻温泉で指された第69期王座戦五番勝負第三局。
 永瀬拓矢王座の先手で相掛かり。早い段階から戦いになりましたが,その後で双方が自陣に手を入れ粘るような将棋となり,中盤がとても長い将棋になりました。
                                        
 先手が香車を打った局面。後手の木村一基九段はこの十数手前にミスを犯したと思っていて,ここでは不利と考えていたようです。ですがこの局面はまだ難しかったのです。
 ☖8四金と打ったのが敗着。龍取りですが無視して☗2四香と取られ,☖8五金☗2一香成☖同玉☗2四桂と攻め合われました。
                                        
 第2図となっては先手の攻めが早く,後手の敗勢となっています。第1図では☖2五香と打つか☖1五銀と逃げるかすれば,まだまだ難しかったようです。
 永瀬王座が勝って2勝1敗。第四局は来月5日に指される予定です。

 麻雀には本質的にふたつの性質があるということを,近藤は明言してはいません。しかしそのことを理解しているのは間違いありません。もっとも,近藤は麻雀のプロですから,それを理解しているのは当然といえば当然でしょう。しかし近藤がそれをはっきりと理解しているということを,明確に示している記述が著書の中にあるのです。理論と直感の区分は理念的なものではありますが,それを前提とした上で,近藤は第一の性質,すなわち自分が得点を獲得することで1位を目指すという性質を果たすためには直感は有効であるけれど,第二の性質,自分が得点を失うことを防御する,他面からいえばほかのプレイヤーが得点を獲得することを阻止して自身が4位になることを避けるという性質を果たすためには,直感はそれほど有効ではないという主旨のことをいっています。したがって近藤は,性質に応じて直感を用いるべきだといっているのですから,ふたつの性質があるということは,この主張の暗黙の前提となっているといえるでしょう。
 近藤はこの主張の根拠を示していますが,この点については僕の方から指摘しておきたいことがあります。近藤の著書は麻雀に関連するものですから,当然ながら麻雀というゲームについて語るということが前提となっています。いい換えれば麻雀そのものをほかのゲームと比較して検討するということをしていないのは当然です。ですが僕の考えでは,ほかのゲームと比べたときに,なぜ麻雀には近藤がいう直感,スピノザの哲学でいう第三種の認識cognitio tertii generisがあまり有効にはならないことの理由が含まれているのです。僕の方から指摘しておきたいのはそのことです。
 ここでは分かりやすくたとえば麻雀を将棋と比較します。麻雀は3人ないしは4人でするゲームであり,将棋はふたりで行うゲームですが,その点はここでは考えなくて構いません。共通するのは麻雀も将棋も頭脳ゲームあるいは頭脳スポーツであるという点です。頭脳を使うゲームである以上,考えるということは重要です。このとき,対戦した相手が何を考えているのかということはプレイヤーには分かりません。他人の考えていることが分からないのは当然です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯白玲戦&性質

2021-09-24 19:14:41 | 将棋
 18日に金沢で指された第1期白玲戦七番勝負第二局。
 渡部愛女流三段の先手。先手がすぐに2筋を突き越したこともあったか,後手の西山朋佳女流三冠のノーマル四間飛車。しかし先手が左の銀,後手が左の金を前線に進出させていく力将棋になりました。後手の金が先手の角と交換になったことで,その駒得の分だけ後手が有利に。ただそれほど大きな差はつかないまま進んでいきました。
                                        
 先手が7七の桂馬を跳ねて後手の角が5三から逃げた局面。ここから☗2五桂☖同歩と桂馬の交換になりました。
 ここで☗同飛は当然の一手と思えるのですが,あまりよくなく,☗1六飛と逃げた方が優りました。なぜかはその後の進展で分かります。
 桂馬が交換になったので後手はすぐに☖7六桂と打ちました。ここも☗7四歩と攻め合った方がよかったらしいのですが,それは後手の角も利いてくるので怖い面もあり,☗7七銀と受けたのは仕方がないように僕には思えます。ただ☖6八桂成☗同金に☖3四角が厳しい両取りになりました。
                                        
 後手の歩が2五にあり先手の飛車が1六にいたのなら,第2図の両取りはありませんでした。なので第1図から2図に至る途中では,☗2五同飛より☗1六飛の方が優ったのです。
 西山三冠が勝って連勝。第三局は来月2日に指される予定です。

 これらのルールの中で,最も注意してほしいのは,麻雀というゲームは得点を競い合うゲームであるけれど,その得点は絶対的なものではなく,相対的なものであるという点です。その点から,麻雀というゲームには,ふたつの性質があるということが導かれるからです。
 得点を競い合い,最も得点を獲得した人が1位になり,原点はすべてのプレイヤーが同一ですから,麻雀というゲームは得点を獲得しないで1位になるということは不可能です。したがって,1位になるためには,得点を獲得することを目指さなければなりません。これが麻雀というゲームが有するひとつめの性質です。
 得点は相対的なものなので,だれかほかのプレイヤーが得点を獲得することで,自分の得点が失われる場合があります。これはいくつかのパターンがあって,多くはひとりが得点を獲得してほかの3人が得点を失う場合と,ひとりが得点を獲得してひとりが得点を失う場合です。これ以外に小さな得点の動きとして,ふたりが得点を獲得してふたりが得点を失う場合と,3人が得点を獲得してひとりが得点を失う場合もあります。もちろん,だれの得点も上下しないということもあります。これ以外に,たとえばルール違反などでひとりだけが得点を失うというケースもありますが,これはゲームの性質とは関係しません。このことから,だれかが得点を獲得することを阻止するということも,麻雀というゲームでは重要な性質になります。それは同時に,自分が得点を失うことを防御するという意味もあるからです。これがふたつめの性質です。
 ひとつめの性質は,自身が1位を獲得するための性質だといえます。ふたつめの性質も,自身が1位になるために重要であるともいえますが,最初にいったように,得点を獲得しなければ1位にはなれないのですから,自身の失点を回避するだけでは1位にはなれません。なのでこちらの性質は,1位を獲得するためというより,4人の中でなるべく上位の順位になるための性質と便宜的にいっておきます。他面からいえば,なるべく4位にはならないようにする性質です。
 このふたつの性質は,細かなルールの相違とは無関係な性質です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレ玉杯オーバルスプリント&ルール

2021-09-23 19:20:10 | 地方競馬
 第32回テレ玉杯オーバルスプリント
 押してアランバローズがハナへ。3馬身差の2番手にテイエムサウスダン。2馬身差の3番手にグランドボヌール。4番手にティーズダンク。3馬身差でアンティノウスとダノンレジーナ。2馬身差でベストマッチョとラプタス。2馬身差でトロヴァオ。3馬身差でカツジとサクセスエナジー。2馬身差の最後尾にハイランドピークととても縦に長い隊列。最初の600mは34秒9のハイペース。
 向正面でアランバローズとの差を詰めていったテイエムサウスダンが,3コーナーを回ると外からアランバローズの前に出て先頭に。3番手以下は離れ,内からティーズダンクが追い上げてきました。直線に入るとアランバローズは一杯になり,テイエムサウスダンが抜け出して快勝。直線はアランバローズの外に出したティーズダンクが2馬身差で2着。アンティノウスもよく脚を伸ばしましたが,ぎりぎりで粘ったアランバローズが5馬身差の3着。アンティノウスはハナ差で4着。
 優勝したテイエムサウスダン黒船賞以来の勝利で重賞3勝目。このレースはラプタスとアランバローズの先行争いが第一の注目点でしたが,ラプタスが飛び上がるような発馬になってしまったため,アランバローズが難なく先手を奪いました。ところが発馬後に押していたためにオーバーペースに。このためにアランバローズに近い位置でレースをしていた馬に展開が向きました。ほかの馬と比べたとき,テイエムサウスダンの55キロというのは恵まれていたのも確かでしょうし,枠がアランバローズよりも外だったのも有利に働いたと思います。父はサウスヴィグラス
 騎乗した岩田康誠騎手と管理してる飯田雄三調教師はテレ玉杯オーバルスプリント初勝利。

 近藤が直感は理論よりも優れている理由としてあげている答えが出る速さは,スピノザが第三種の認識cognitio tertii generisが第二種の認識cognitio secundi generisよりも優れている理由のひとつとしてあげている,明瞭さ,方法としての明瞭さに重なり合う部分があります。逆にいえば,精神の眼によって一瞥の下にものを認識するcognoscereということは,それが一瞥の下であるということによって,認識としての優秀性を担保しているといえるのです。
                                        
 一方で,理論の麻雀と直感の麻雀というのは,一種の理念型のようなものであって,実際にはそのふたつが融合して麻雀というゲームは進んでいくと近藤はいっています。これは麻雀というゲームはだれがやってもそのように進んでいくとはいいきれないと思うので,近藤は麻雀をそのように進めていると解した方がいいでしょう。その例が著書ではいくつか挙げられていますが,そこに踏み込むためには,麻雀というゲームの基本的なルールと,そのルールから生じるゲームそのものの性質の把握が必要なので,その点だけ僕が簡単に説明します。
 実は麻雀というゲームには統一されたルールがありません。基本的な点でさえ相違があります。しかしここではそこまで考えなくても大丈夫です。どんなルールであっても共通な点だけを把握すれば十分だからです。
 麻雀は3人か4人でプレイするゲームです。ただし著書では4人でのプレイだけが取り上げられていますから,4人でするとしておきます。この4人が,得点を争い,高得点の人から順に1位から4位までが決定されます。このとき,この得点というのは,絶対的なものではなく相対的なものです。つまり,ゲームの途中でだれかが得点を獲得すると,その分だけだれかが得点を失うことになるということです。ゲームが開始される時点で,各々のプレイヤーには原点といわれる得点が平等に与えられています。原点が何点であるかも統一されていませんが,たとえばそれが25000点であれば,ゲームのボードに該当する卓の中には4人で100000点の得点があることになり,この得点を4人のプレイヤーで奪い合う形でゲームが進行します。この基本的なルールは,4人の場合でも3人の場合でも同様です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典白山大賞典&速さ

2021-09-22 19:05:13 | 地方競馬
 第41回白山大賞典
 メイショウオオゼキとマイネルキラメキは発馬後の加速が鈍く3馬身ほど遅れました。逃げたのはメイショウカズサ。2番手にスワーヴアラミスとヒストリーメイカー。4番手にマスターフェンサーとティモシーブルーとミューチャリー。7番手にヴェンジェンスとトップロイヤルでここまでは一団。3馬身差でニーマルサンデー。ここから大きく離されてエイシンレーザー。3馬身ほど離れた最後尾をメイショウオオゼキとマイネルキラメキが併走という隊列で1周目の正面に入ってきました。スローペース。
 1周目の正面からスワーヴアラミスがやや上昇して単独の2番手に。2周目の向正面では3番手にヒストリーメイカー,4番手にマスターフェンサー,5番手にミューチャリーでその後ろがヴェンジェンスとティモシーブルーという隊列に。3コーナーを回ると逃げたメイショウカズサが後ろとの差を広げ,2馬身差でスワーヴアラミス。その内からマスタフェンサー,外からはミューチャリーが追い上げてきて3頭が横並びに。逃げたメイショウカズサはここで得たリードをフィニッシュまで守り切り,鋭く逃げ切ってレコードタイムで優勝。横並びの3頭は最後まで2着争いを演じましたが,外を回ったミューチャリーが3馬身差で2着。真中のスワーヴアラミスがクビ差の3着に粘り,最後の伸びを欠いたマスターフェンサーは半馬身差で4着。
 優勝したメイショウカズサは前々走のプロキオンステークス以来の勝利で重賞2勝目。このレースは能力ではミューチャリー。ただ小回りコースには不安があり,その場合は実績を残しているマスターフェンサーが有力という見立て。メイショウカズサはうまく逃げることでその2頭を封じました。プロキオンステークスを勝ったときも重馬場でのレコード勝ちでしたので,このようにレコードタイムが出るような馬場に対する適性もかなり高いのだと思われます。父は2008年にピーターパンステークスを勝ったカジノドライヴ
                                        
 騎乗した川田将雅騎手は第40回に続く連覇で白山大賞典2勝目。管理している安達昭夫調教師は白山大賞典初勝利。

 この部分の近藤の説明については,いくつかの注意をしておかなければなりません。
 近藤は直感の麻雀と理論の麻雀とを分類して,直感の麻雀の方が優れているという意味のことをいっています。つまり第三種の認識cognitio tertii generisに依拠した麻雀の方が,第二種の認識cognitio secundi generisに依拠した麻雀よりも優れていると考えているのであり,その点で第三種の認識は第二種の認識よりも優れているとみています。ただ,直感の麻雀と理論の麻雀というのは,一種の理念型のようなものであって,現実的にそういう麻雀が存在するというものではありません。少なくとも,ゲームの中のある一打について,それが直感の麻雀なのか理論の麻雀なのかを問うことはほとんど無意味であると近藤はいっています。つまり答えが出る速さが違うがゆえに,直感は理論に優るのですが,常に直感に基づいて麻雀を打つというわけではないのです。実際のゲームは,直感と理論とが融合して進んでいくという主旨のことを近藤はいっています。
 次に,近藤が第三種の認識が第二種の認識よりも優れている理由として示している,答えの出る速さというのは,単に時間の面で速いということだけを意味すると解するのは危険だと僕は思います。僕はスピノザが第三種の認識が第二種の認識よりも優れていると考えている理由として,みっつの点をあげました。すなわち方法として明瞭であるということ,より大きな自己満足acquiescentia in se ipsoを齎すということ,そしてより大きな徳virtusであるということです。近藤がいっている答えの出る速さというのは,このうち方法として明瞭であるということと大いに関連しています。スピノザがその実例を示している第二部定理四〇備考二で,第三種の認識は第二種の認識と比べたときにも明瞭であるといわれるとき,それは同時に答えが出るのが早いということも含んでいるからです。計算をして答えを出すより一瞥の下に答えを出した方が速くなるのはそれ自体で明らかでしょう。そして答えが出るのが速いということは,それがより明瞭であるということの理由になっているのです。つまり答えを出す方法がより明瞭になる理由のひとつとして,答えが速く出るということは含まれているのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京モノレール賞ゴールドジュニア&理論と直感

2021-09-21 19:16:57 | 地方競馬
 昨晩の第2回ゴールドジュニア
 コパノミッキーとナックファルコンが並んで逃げるレース。3番手にママママカロニ。4番手はブリジットとカプティフとサンエイジロー。7番手にグロリアスセプターとダダダン。9番手にフレンドスイープとウィシュアポナスタとバイザウェイ。12番手のコーミズアムールまでは集団。シェーナディーヴァは7馬身くらい遅れました。前半の600mは34秒8のミドルペース。
 3コーナーからママママカロニが上昇。3頭が横並びになるとナックファルコンは後退。逃げたコパノミッキーとママママカロニが並んで直線に入ってきましたが,手応えの差は歴然。追ってきたママママカロニが先頭に立つとあとは後ろを引き離す一方の楽勝。勝ち馬からは離されたものの逃げ粘ったコパノミッキーが9馬身差で2着。直線の入口でもまだ後方2番手だったコーミズアムールが馬場の三分どころをよく伸びて1馬身4分の1差で3着。
 優勝したママママカロニはこれでデビューから3連勝での南関東重賞制覇。これだけの差をつけたのですから,よほど抜けた能力をもっていたということでしょう。この距離でこれだけ強いレースをすると,距離が延びることにいくらかの不安を感じないでもありませんが,血統面からはその心配はなく,また成長力もありそうな印象は受けます。父は2013年にNARグランプリのダートグレード競走特別賞,2014年にJRA賞の最優秀ダートホースとNARグランプリのダートグレード競走特別賞,2015年にNARグランプリのダートグレード競走特別賞に選出されたホッコータルマエで,その父はキングカメハメハ。母の父はステイゴールド。祖母の3つ下の半弟に,2005年のJRA賞で最優秀短距離馬に選出されたハットトリック
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は先週の戸塚記念に続いての南関東重賞26勝目。ゴールドジュニアは初勝利。管理している大井の森下淳平調教師は南関東重賞14勝目。ゴールドジュニアは初勝利。

 スピノザは明らかに第三種の認識cognitio tertii generisは第二種の認識cognitio secundi generisよりも優良な認識であると考えています。したがって,第三種の認識で認識した事柄について,それを第二種の認識で説明するということは,より優良な認識で認識した事柄について,そこまでは優良でない認識によって説明するということを意味するのですから,そうしたことを求められた人が,そのことについて苦痛に感じるということがあり得るということは,間違いないように僕には思えます。
                                        
 この部分の考察の最初にいっておいたように,近藤はこのことについては何も言及していません。ただ,第三種の認識が第二種の認識よりも優良な認識であるということ,あるいは近藤のことばに則していえば,直感による認識は理論に基づく認識よりも優れた認識であるということについては,近藤も同じ考えを有しています。それを近藤は,麻雀の打ち方と関連させて記述しています。
 近藤によれば,理論に基づく麻雀,つまり第二種の認識による麻雀は,多くの情報を分析し,それを精査して結論に辿り着きます。結論というのはそのときにどのように打つのかということです。したがって,もしもそれが未経験の事象であったとしても,基づいた理論さえ正しければ,よい結果に繋がります。麻雀というのはゲームの性質として不確定な要素を多く含むので,必ずよい結果を出すことができるとはいえないので,1度だけの勝負だとどれほど理論が正しくても負けることはありますが,多くの回数で勝負すれば,上位に入るというような意味のことをいっていると解してください。
 これに対して直感に基づく麻雀,すなわち第三種の認識に基づく麻雀は,どのように打つかということの答えが一瞬で出るのが特徴です。結論が出た後で,本当にそれでいいかを精査する,すなわち第二種の認識で精査する場合もあると近藤はいっていますが,その局面でどうするのかという結論がすぐに出るという点で,優れているともいっています。理論に基づく麻雀と,直感に基づく麻雀とでは,答えの出る速さが違います。そしてその速さの違いから,直感の麻雀は理論の麻雀よりも優れているというように近藤は考えているのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共同通信社杯&優良

2021-09-20 18:58:10 | 競輪
 岐阜競輪場を舞台に争われた第37回共同通信社杯の決勝。並びは新山‐新田‐守沢の北日本,平原‐杉本の関東,郡司‐鈴木の南関東で山口と清水は単騎。
 郡司がスタートを取って前受け。3番手に清水,4番手に平原,6番手に山口,7番手に新山で周回。残り2周のホームまで動きがなかったので,平原が上昇の構え。郡司はスピードアップして対応しました。バックに入ると清水が内から進出。そして外から新山も発進。打鐘で郡司を叩いた新山の先行。清水は飛びつこうとしましたが3番手の守沢に阻まれ,ホームでは4番手に。直後の郡司が動こうとして,清水の外までくると清水が牽制し,ふたりで競り合う形に。後方に構えていた山口がその外から発進。新田が番手捲りと牽制で対応しようとしたもの,乗り越えた山口が優勝。山口マークのようなレースになった平原が半車身差で2着。郡司マークから直線で山口と平原の間を突いた鈴木がタイヤ差の3着。新田は4分の1車輪差の4着で新田マークの守沢が4分の1車輪差で5着。平原マークから大外に回った杉村が4分の1車輪差の6着で波乱の決着。
 優勝した岐阜の山口拳矢選手は5月の平塚のFⅠ以来の優勝。グレードレースの初優勝をビッグで決めました。このレースは脚力で上位の新田が新山の番手を回るということで絶対的に有利。実際にそういう展開になったのですが,発進が遅れてしまったために山口の捲りを許すことになりました。新田も先行選手ですから,新山を庇おうとする気持ちが強くなることは理解できますが,この並びを選んだのであれば,後方の動きとは関係なく,最終周回のバックの入口あたりからは番手捲りを敢行してほしかったと思います。優勝した山口は,力はあるのですが競走の方向性が定まっていないという側面があり,車券の面では買い方が難しい選手のひとりだと感じています。一般的にはこういう選手はこのレースのように,ラインが細かく分かれるレースを得意とします。

 僕たちは喜びlaetitiaを希求して悲しみtristitiaを忌避します。それは僕たちの現実的本性actualis essentiaが,第三部定理七にあるように,自分自身の有esseに固執しようとするconaturからです。有とは,potentiaという観点からみられる限りでの存在existentiaにほかなりません。いい換えれば,力という観点からみられる限りでの本性naturaである実在性realitasのことを意味します。よって僕たちの現実的本性は,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行することに固執するのであり,逆により大なる完全性からより小なる完全性へと移行することは忌避します。なぜなら,第二部定義定義六により,完全性とは実在性のことにほかならないからです。よって第三部諸感情の定義二第三部諸感情の定義三により,僕たちは喜びを希求し,悲しみは忌避することになるのです。
                                   
 第三種の認識cognitio tertii generisによって生じる自己満足acquiescentia in se ipsoは,第一種の認識cognitio primi generisおよび第二種の認識cognitio secundi generisによって生じる自己満足より大きな自己満足です。第五部定理二七で,第三種の認識によって生じる自己満足が最高の自己満足であるといわれていることからこれは明らかです。そして自己満足は第三部諸感情の定義二五によって喜びの一種です。つまり第三種の認識によって生じる自己満足は,その他の認識によって生じる自己満足より,僕たちの現実的本性に適っていることになります。なおかつ第三種の認識というのは,僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなって僕たちの精神のうちに生じるのですから,第四部定義八により,僕たちの徳virtutemです。よって第五部定理二五にあるように,第三種の認識でものを認識するcognoscereことは,僕たちにとって最高の徳でもあるのです。
 これらのことから分かるように,明らかにスピノザは,第三種の認識をその他の認識よりも,優良な認識と考えています。もちろん第三種の認識が,第一種の認識と比べたときに優良な認識であるということは,それ自体で明らかだといえるでしょう。しかし第三種の認識は,第二種の認識と比べたときにも優良な認識なのです。すなわち,第三種の認識は第二種の認識よりも方法として明瞭であり,より大きな自己満足を僕たちに与え,そして僕たちにとってより大きな徳でもあるのです。ひとつの面だけで優良なのではありません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リコー杯女流王座戦&最高の自己満足

2021-09-19 19:03:51 | 将棋
 17日に指された第11期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が19勝,伊藤沙恵女流三段が6勝。
 振駒で里見名人の先手になり中飛車。伊藤三段が三間飛車にっての相振飛車。後に相向飛車の形になりました。
                                        
 第1図から☖3五銀と出て攻めにいきましたが,これが敗着となりました。先手は☗4一銀と打ち☖6三金に☗3一角。☖2四飛と逃げるのは仕方がなく☗4二角成。
                                        
 後手から攻めに出たのに先手の方が後手玉に迫ることになりました。第1図で5三の地点の守備を放棄するのは危険で,☖7二金のような手で手を渡す方が優りました。
 里見名人が挑戦権を獲得第3期,6期,7期,8期,9期,10期に続く6期連続7度目の五番勝負出場です。

 第二種の認識cognitio secundi generisによって自己満足acquiescentia in se ipsoが発生し得るということを具体的に説明するのは,それほど難しいことではありません。たとえば第三部定理五三は,僕たちは自分自身や自分自身の働く力を観想するagendi potentiam contemplaturと喜びを感じるlaeturといっています。この喜びlaetitiaは第三部諸感情の定義二五でいわれている自己満足にほかなりません。しかるにこの定理Propositioは,もしも僕たちが自分自身を観想したり自分の働く力を観想したりしさえすれば,必然的にnecessario喜びを感じるといっているのですから,もしも僕たちが第二種の認識によって自分自身を認識したり,自分自身の働く力を認識したりしさえすれば,必然的に自己満足を感じることになります。よって僕たちは,第二種の認識で僕たちの働く力を認識するcognoscereことがあるとするなら,それだけで第二種の認識によって自己満足を感じるということが証明できるのです。
 ところで,第二部定理三八系は,僕たちの精神mensのうちには共通概念notiones communesがあるということを示しています。第二部定理三八から分かるように,この共通概念は僕たちの精神のうちで十全adaequatumです。つまり僕たちの精神の能動actio Mentisによって僕たちの精神のうちに生じる思惟の様態cogitandi modiです。よって僕たちは,自分の精神が働く力というのを認識することができるのです。したがって,第二種の認識によっても僕たちは自己満足を感じるということがあります。
 第五部定理二七がいっているのは,こうしたいくつかの仕方で人間が感じる自己満足のうち,最高のものは僕たちが第三種の認識cognitio tertii generisでものを認識したときに感じる自己満足であるということなのです。すでに示したように,自己満足は基本感情affectus primariiの中では喜びの一種ですから,第三種の認識によってものを認識したことによって感じる喜びが,その他の仕方でものを認識したことによって感じる喜びよりも大きな喜びであるという意味でもあります。第三部諸感情の定義二により,喜びとはより小なる完全性perfectioからより大なる完全性への移行transitioですから,第三種の認識から生じる自己満足が最高の自己満足であるということは,それが最も大きな完全性に僕たちを移行させる,いい換えれば大なる完全性へ移行する幅が最も大きいというようにスピノザは考えているのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王座戦&その他の自己満足

2021-09-18 19:02:54 | 将棋
 15日に西浦温泉で指された第69期王座戦五番勝負第二局。
 木村一基九段の先手で相掛かり。先手が強く攻め込んでいきましたが,後手の永瀬拓矢王座が早逃げしたのがよい判断で,決定的な差はつけられずにすみました。
                                        
 第1図は互角なのですが,先手は後手玉を逃がしてしまったと判断していて,どうも諦め模様だったようです。☗1一飛と打ちました。
 後手はここから反転攻勢に出て☖7八と。ここで☗2一飛成とできないと☗1一飛と打った意味があまりないように思えるのですが,☗同銀☖7七歩としてから☗2一飛成でした。後手の攻めが少し遅くなったとはいえるかもしれませんが,この手順は変調のように感じます。後手玉はまだ詰めろではないので☖7八歩成。
 ここでも攻め合いに出られなければいけないように思いますが☗4八玉の早逃げ。しかし☖6八とと寄る手があって,この早逃げもあまり効果的ではありませんでした。
                                        
 これはただですが☗同角は後手玉への脅威が弱まる上に☖6七銀と打たれて困ります。攻め合いに転じましたがほどなく先手の投了となりました。第1図は☗7七角と取って受けに回ればまだ難しかったようです。
 永瀬王座が勝って1勝1敗。第三局は22日に指される予定です。

 第五部定理二七で最高の精神の満足summa Mentis acquiescentiaといわれるときの満足は,自己満足acquiescentia in se ipsoを意味します。そしてそれが最高の自己満足であるのなら,それ以外にも自己満足があることになります。最高の精神の自己満足は,第三種の認識cognitio tertii generisでものを認識するcognoscereことによって生じる自己満足なのですから,それ以外の自己満足は,第一種の認識cognitio primi generisでものを認識することによって生じる自己満足と,同様にものを第二種の認識cognitio secundi generisで認識することによって生じる自己満足だといえるでしょう。第三部諸感情の定義二五では,もしも現実的に存在する人間が,自分自身を認識することによって喜びlaetitiaを感じるのなら,その喜びは自己満足であるとされています。したがって僕たちは自分自身を混乱して認識したとしても,それによって喜びを感じるということがあり得ますから,確かに第一種の認識によっても自己満足は発生し得ます。また,第三種の認識によって自分自身の働く力agendi potentiaを観想して喜びを感じる場合が,精神の最高の自己満足なのですから,それと同じ様式で,人間は第二種の認識によって自分自身の働く力を観想するcontemplariということがあり得ることになり,そのときに喜びを感じれば,それは自己満足であることになります。具体的にそれぞれの例を示しておきましょう。
 第三部諸感情の定義二八で言及されている高慢superbiaという感情affectusは,あらゆる感情の中でスピノザが最も否定的に評価する感情であるといって差し支えありません。しかるにこの感情は,自分について正当以上に感じるものなのですから,当然ながら自分自身の認識を含んでいます。一方,この感情は自己に対する愛amorを基礎としています。愛は第三部諸感情の定義六から分かるように,喜びの一種です。したがって,高慢という感情は,自分自身についての認識を含んだ喜びであることになります。これは自己満足の定義Definitioの要件を満たしていることになります。つまり,高慢という感情は,自己満足の一種なのです。よって第一種の認識から自己満足が生じ得ることになります。高慢という感情は,自分自身について正当以上に感じているということが必要条件であり,この自分自身の観念は,それ自体で明らかなように,混乱した観念idea inadaequataであるからです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

叡王戦&満足

2021-09-17 18:57:52 | 将棋
 13日に指された第6期叡王戦五番勝負第五局。
 振駒で藤井聡太二冠の先手で相掛かり。後手の豊島将之叡王は7筋の歩を取らせて2枚の銀を前線に繰り出していく作戦。厳密には無理があったようで,先手がうまく対処してリードを奪い,そのまま押し切ったという一局だったと思います。
                                        
 この局面は金銀の働きに差があってすでに先手が有利だと思われます。ここで☗8三歩☖同飛と飛車をどかして☗4四歩と取り込みました。☖3六歩☗同飛☖3五金とされて怖いところもあるようですが☗同飛☖同角☗4五金。
                                        
 確たる読みの裏付けがあったというよりは,仕方がない展開だったようですが,第2図で後手からうまい反撃がなく,一旦は☖1三角と逃げざるを得なかったので☗5四金と出て後手玉が見えてくるようになりました。
                                        
 3勝2敗で藤井二冠が叡王を奪取。叡王は初の獲得になります。

 第五部定理二七で最高の精神の満足summa Mentis acquiescentiaといわれるとき,この満足は自己満足acquiescentia in se ipsoを意味します。これが自己満足であるということは,ここからの考察において重要なので,この満足が自己満足であるということを論証しておきます。
 自己満足という感情affectusは,第三部諸感情の定義二五において定義されています。それによれば,自己満足は基本感情affectus primariiとしては喜びlaetitiaの一種であって,もしも現実的に存在する人間が,自分自身を認識するcognoscereことによって,あるいは自分自身の働く力agendi potentiaを認識することによって喜びを感じる場合は,とくにその喜びは自己満足といわれるということになっています。
 第五部定理二七の精神の最高の満足は,この要件を満たしています。なぜなら,この精神の最高の満足は第三種の認識cognitio tertii generisから生じるとされているからです。これは要するに,現実的にある人間が第三種の認識で何事かを認識することによって生じる満足なのですから,そこには当然ながら第三種の認識で何事かを認識した自分自身の観念ideaが含まれているからです。よってこれは,人間が自分自身を観想するcontemplariことによって生じる満足なので,自己満足であることになるでしょう。また,人間が第三種の認識で何かを認識するということは,その人間の精神mens humanaが十全な原因causa adaequataとなって何事かを認識しているのです。いい換えればそれは,第三部定義二により,その人間の精神の能動actio Mentisによって何事かを認識しているのです。すなわち,現実的に存在する人間の精神が第三種の認識によって何かを認識するという思惟作用は,その人間の精神の能動つまり精神が働く力を意味するのであって,その人間の精神の受動passioすなわち精神が働きを受けるpatiことを意味することはありません。したがってこの満足は,自分の精神が働く力を観想することによって生じる喜びであるということになり,この点でも第五部定理二七の満足は,第三部諸感情の定義二五の自己満足の要件を満たします。つまりここでいわれている精神の最高の満足というのは,自己満足を意味することになります。
 この定理Propositioは,それが精神の最高の満足,精神の最高の自己満足であるといっています。よってこれ以外にもこの種の満足があることになります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンケイスポーツ盃戸塚記念&優れた認識

2021-09-16 18:54:39 | 地方競馬
 昨晩の第50回戸塚記念
                                        
 好発はギャルダル。内からキャッスルトップが追い抜いての逃げ。控えたギャルダルが2番手。3番手にトランセンデンスとジョエルとランドファースト。6番手にセイカメテオポリスとギガキング。8番手にサヨノグローリー。9番手にスセリヒメとブライトフラッグ。ピースオブホースだけが前の10頭から大きく離れた最後尾。超ハイペースでした。
 2周目の向正面でキャッスルトップとギャルダルの差が半馬身くらいに。トランセンデンスとジョエルがそれを追い,ランドファーストは後退。セイカメテオポリスとギガキングがその後ろになりました。3コーナーではギャルダルが先頭に出てキャッスルトップは一杯。ジョエルが2番手でトランセンデンスが3番手に。3馬身ほど離れてセイカメテオポリスとギガキング。直線に入って一旦はギャルダルが後ろとの差を開きましたが,トランセンデンスとジョエルが並んでまた差を詰めていきました。さらに最内を回ったセイカメテオポリスが,ギャルダルとトランセンデンスの間から鋭く伸び,粘ろうとするギャルダルを差し切って優勝。1馬身差の2着は大接戦。制したのは真中のトランセンデンス。外のジョエルがハナ差の3着。内容的には最も強かったギャルダルはハナ差で4着。
 優勝したセイカメテオポリスは南関東重賞初制覇。このレースは実績馬が多く出走していて,この馬はこれまでの戦績では劣っていたので,僕は軽視していました。ただ,春のクラシックで結果を出せなかったのは,体調面が整っていなかったからなのかもしれません。大接戦となった2着争いの3頭は,実績上位でしたから,位置取りがよかったとはいえ,この馬も遜色のない力をもっていたと解するべきでしょう。川崎コースに対する適性も高いのかもしれません。母の父はディープスカイ。Meteo Polisはフランス語で,おそらく天気予報を出す会社のことだと思われます。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手はスパーキングサマーカップに以来の南関東重賞25勝目。第44回以来となる6年ぶりの戸塚記念2勝目。管理している大井の渡辺和雄調教師は南関東重賞6勝目。戸塚記念は初勝利。

 理由はどうあれ,たとえ方法の上でのことであったとしても,第三種の認識cognitio tertii generisによって認識するcognoscereことの方が,第二種の認識cognitio secundi generisによって認識することより明瞭であるというなら,第三種の認識は第二種の認識より優れているという結論を出すことができるように思えます。要するに,第二部定理四〇備考二では,第三種の認識は第二種の認識よりも優れた認識であるという意味のことがいわれているのだと解することができそうです。そしてこの解釈は,必ずしも誤りであるとはいえない面があると僕は考えています。
 たとえば第五部定理二五は,ものを第三種の認識で認識することは精神mensの最高のvirtusであるといわれています。ここでいわれている徳とは,第四部定義八でいわれている徳にほかなりません。したがってその定義Definitioに倣う限り,もしもある人間が現実的に存在しているとして,この人間の精神mens humanaにとっての徳とは,その人間の精神が十全な原因causa adaequataとなって何かを認識するということにあります。第一種の認識cognitio primi generisはこの様式の認識には該当しませんが,第二種の認識と第三種の認識はどちらもこの様式に適った認識です。よってものを第二種の認識で認識するということは,それを認識する人間の精神にとっての徳であり,同様に第三種の認識でものを認識することも,その人間にとっての徳です。
 第五部定理二五がいっているのは,ものを第二種の認識で認識することも第三種の認識で認識することも,同じように徳ではあるけれども,どちらが最高の徳なのかといえば,それは第三種の認識で認識することの方であるということになるといえるでしょう。したがって少なくとも徳という観点からは,スピノザは第三種の認識の方が第二種の認識よりも優れているといっていると解して間違いないように思えます。
 さらに第五部定理二七は,人間の精神が現実的に存在するとき,その精神にとっての最高の満足summa Mentis acquiescentiaは,ものを第三種の認識で認識することによって生じるといっています。つまり,ものを第一種の認識で認識したり第二種の認識で認識したりすることによって,仮に満足が生じるとしても,その満足は第三種の認識でものを認識したときに生じる満足ほど強くはないのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする