スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リング外の要求&条件外の定義

2016-07-31 19:14:24 | NOAH
 仮面貴族ナルシストであったのは間違いなく,しかし客を呼ぶことができるレスラーであったということも確かなので,ナルシズムの理由もそれ自体では不条理なものではなかったと僕は考えています。ただ,マスカラスのナルシストぶりというのは,リング内で自分本位のプロレスをするということだけに留まっていたわけではなく,リングを降りてからの扱いにも及んでいました、
                                     
 馬場は『馬場伝説』のインタビューではマスカラスが強い選手ではなかったと言っていますが,それ以外の要求については語っていません。ですが『全日本プロレス超人伝説』の中で門馬忠雄は,馬場の日本プロレスでの最後の巡業で,鹿児島の島々を船で回ったときのエピソードとして,船室やシャワーに関して文句ばかり言っているのを目撃したと書いています。門馬はマスカラスが人気に驕って天狗になっていると感じたそうです。この一件でマスカラスはほかの選手と比べて我儘すぎると思い,これ以降はマスカラスのことを嫌いになったと告白しています。
 門馬はそのとき,日本プロレスの外国人係であったジョー・樋口の堪忍袋の緒が切れて,ものすごい見幕でマスカラスのことを怒鳴りつけていたと書いています。樋口は『心に残るプロレス名勝負』の中でそれを書いています。このとき台風の影響で飛行機が欠航になったので,漁船を借りての移動だったそうなのです。ですがマスカラスは飛行機でなければ嫌だと言い張ったので大喧嘩になったとしています。マスカラスはメキシコでもほかの選手とは別待遇を受けていて,それを日本でも要求したので,だいぶてこずったと樋口は書いていますから,これ以外にもさまざまな要求があったのでしょう。
 超獣エゴイズムというのも,チェーンのようなリング内のことだけを要求したのではなく,リング外での扱いについての要求もたぶんあったのではないかと僕は想像します。ですがそういうことは語られていません。マスカラスについては語られているということは,よほど常識を逸脱した要求をしていたということなのではないかと思います。

 第二部定義二をみると,ある事物とその事物の本性は一対一で対応し合うということは明白です。一方,僕は定義されるものAと定義される内容Bが,一対一で対応し合わなければならないと考えました。これでみると第一部定理八備考二でいわれているように,定義された内容Bが定義される事物Aの本性を含むことは,定義の条件を満たしているとみなせます。そして僕はこのことが,『エチカ』のすべての定義,すなわちA群の定義にもB群の定義にも妥当しなければならないと結論しています。ですが実際に『エチカ』のすべての定義がそのようになっているということを,僕は認めることはできません。
 第二部定義六が,実在性realitasあるいは完全性perfectioの本性を説明しているとは僕には思えません。ここでいわれているのは実在性と完全性は一対一で対応し合うということだけであって,一方が他方の本性であるという意味に解することはできないと思います。
 第四部定義八は,徳virtusの本性を説明しているとみなせないこともないと思いますが,僕はそう認めません。ここでは人間のpotentiaとは人間の能動actioであるという意味で人間の力の本性が説明されているのであり,それが人間の徳であるといわれていると僕は解します。一般に徳と力が一対一で対応し合うということについては僕は認めますが,この意味で徳の本性が一般的に説明されているとは僕はみなしません。
 ただし,どういう表現が適切であるか定かではありませんが,この定義というのはきわめて人間的な定義ではあります。あるいは第五部定理四二で,至福beatitudoが徳の報酬ではなく徳それ自体であるということ,つまり人間の至福とは彼岸的なものではなく現世的なものであるということを結論するための戦略的な定義です。戦略的というのは,人間の至福というのを彼岸的なものとみなす神学的な意見に反駁することを意図しているという意味です。かような意味においてこの定義は『エチカ』のほかの定義とは質的に一線を画していると考えられます。この定義がほかの定義と異質である理由は,むしろそちらの点に依拠しているのかもしれません。ですから定義論の範疇には相応しくない可能性はあります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『こころ』の破綻&真の定義

2016-07-30 19:03:55 | 歌・小説
 『悪霊』は作品内作者が知り得ないことが記述されているという意味で構成的な破綻が生じています。『こころ』も同じように作品内作者の話法による記述ですが,『悪霊』に顕著にみられるような構成的な破綻は含まれていないように僕には思えます。むしろ『こころ』はこの手法を用いたために,作品の奥行きが深くなっているというのが僕の評価なので,この手法を採用したことは成功だったのではないかと考えます。
                                     
 ただ,プロットの展開上で,前後の辻褄が合わなくなっているという意味での破綻は『こころ』にも含まれています。そのうちおそらく最も有名な破綻というのは,中の最後の部分と下の関係にあります。
 中十六で私は目方の重い郵便物を受け取ります。それを懐に差し込み,しばらくしてから読みます。それは先生からのものでした。枠の中に嵌められた字画という描写があるので,おそらく原稿用紙に書かれていたものでしょう。このとき私の父は生命の危険がありました。ですが私は,最後の部分に先生の安否を気遣わせる文言があるのを目にし,帯を締め直して手紙を袂に入れ,停車場に向かってそのまま東京行きの汽車に飛び乗ります。そして三等列車の中で,袂に入れておいた手紙を最初から読み始めます。これで中が終ります。
 私が受け取ったのは先生の遺書で,下一は冒頭からその遺書の記述です。そして下五十一まで,下のすべては先生の遺書,すなわち私が中十六で受け取った郵便物なのです。
 これだけの分量のものが原稿用紙に書かれていたとして,それが何枚になるのかは分かりません。ですが,懐に差し込むとか,袂に入れておくなどということが容易にできるような分量ではないことは間違いありません。先生の遺書の分量を減らすことは不可能ですから,中十六以降の記述には明らかに破綻があることになります。
 漱石はこのことには気付いていたかもしれません。ですが朝日新聞の新聞小説としてこれを書いていたので,中の部分を書き直すことはできなかったのです。なので後で単行本化するときにも,そのまま放置したのでしょう。

 第一部定理八備考二でいわれていることが,『エチカ』のB群の定義にだけ妥当すればよいか,それともA群の定義にも妥当しなければならないかという点は,どちらの解釈も不可能ではないと思います。先に僕の見解だけいっておけば,このことはA群の定義にも妥当しなければなりません。
 もしもこれがB群の定義にだけ妥当すればよいという結論を出すためには,当該部分でスピノザが真の定義といっている部分を,B群の定義という意味と同じに理解しなければならないと僕は考えます。実際にスピノザは書簡九では定義を二種類に類別していますし,僕はA群の定義を唯名論という立場を表明したものと解しています。唯名論的に命名された定義が真の定義から外れるという解釈は不可能ではないのであって,そのゆえに備考で述べられていることはB群の定義にだけ妥当すればよいという見解に一理あることは僕も認めます。
 しかし,スピノザの分類はシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡で述べられていることであって,『エチカ』でスピノザがそういう分類をしているのではありません。ですからその分類をそのまま『エチカ』の定義に該当させることはできないと僕は思います。むしろ『エチカ』で定義については分類がされてない以上,『エチカ』の定義はすべてその備考でいわれていることに合致していると考える必要があると僕は判断するのです。
 ではなぜスピノザはそこで単に定義とはいわずに真の定義といったのでしょうか。それはおそらく,定義されるものの本性を含んではいない定義と,『エチカ』でスピノザ自身が示した定義の間の差異を意識したからだと僕は考えます。たとえばデカルトは神を最高に完全な実体と定義しました。スピノザからするとこれは神の本性を含んでいない定義です。スピノザはこの種の定義を偽の定義とみなし,第一部定義六のような定義を神の真の定義とみなしたのだと思います。このような意味でスピノザは真の定義といういい回しを用いたのではないでしょうか。
 このゆえに僕は定義が定義されたものの本性を含むということが,『エチカ』のすべての定義に妥当しなければならないと考えます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第三部諸感情の定義二〇&第一部定理八備考二

2016-07-29 19:10:31 | 哲学
 第三部諸感情の定義一九において,スピノザは好意favorという感情affectusを愛amorの一種と規定しています。愛が好意の一種ではなく,好意が愛の一種です。これは僕たちの日常的な語法とは違っているように感じられるかもしれませんので,スピノザの哲学の感情論について考える場合にはよく注意しておかなければならない事柄のひとつであるといえるでしょう。
                                     
 愛の反対感情が憎しみodiumであるように,好意にも反対感情があります。それが次の第三部諸感情の定義二〇で示されている憤慨indignatioです。
 「憤慨とは他人に害悪を加えた人に対する憎しみである」。
 愛の反対感情が憎しみなのですから,愛の一種である好意の反対感情が憎しみの一種になるのは当然でしょう。そしてここでは,他人に親切をなした人という,好意という感情を受ける対象との比較で,憤慨という感情を受ける対象は,他人に対して害悪を与えた人と規定されていることになります。
 ここでも注意が必要なのであって,僕たちは一般的には,自分に対して何か害悪が加えられたときに,その害悪を加えた相手に対して憤慨するといういい方をします。同様に自分に親切をなした人に対して好意を抱くといういい方もするでしょう。しかしスピノザの感情論では,そのような場合は憤慨とも好意ともいわれないのです。自分に対して親切あるいは害悪が与えられた場合の感情に関してはスピノザは何も規定していません。ただし第四部定義一と二から,親切をなす対象は善bonumとみなされ,害悪を加える対象は悪malumとみなされることになるでしょう。
 この定義Definitioの後の説明で,スピノザは好意も憤慨も通常の用法では別の意味であるということを知っているといっています。そしてこれらの定義はそれらのことばの意味の説明ではなく,ある感情の本性naturaをひどく食い違わない語で示すことにあるとしています。要するに唯名論の立場を表明したA群の定義なのです。

 B群の定義DefinitioにおいてはさしあたってBが何であるかを規定する必要があります。すなわちAをBと解するintelligere,ないしはBであるものをAという,という場合のBがAにとっての何に該当するかを考えなくてはなりません。ここまでの考察で明らかになっているのは,AとBは一対一で対応し合わなければならないということだけだからです。
 書簡九でスピノザがB群に言及するときには,本性essentiaが求められていたり本性に不確かな点があるものを説明するために役立つ定義と説明していました。これでみるとBはAにとっての本性であることになります。『エチカ』では似たことが,しかしもっと強い意味を含む可能性を残しつつ記述されています。
 スピノザは第一部定理八備考二の中で,第一部定理五,すなわち同一の本性naturaを有する実体substantiaがひとつしかないということを,当該部分の論証Demonstratioとは別の仕方で証明しています。そのとき,その証明の前提条件のひとつとして,以下のことを示しています。
 「おのおのの物の真の定義は定義された物の本性のほかは何ものも含まずまた表現しない」。
 この論証の部分はスピノザがフッデJohann Huddeに送った書簡三十四と同一です。この書簡が送られたのは1666年1月です。おそらくフッデ宛の書簡の方が先に書かれ,後に同じ内容のものを『エチカ』に備考Scholiumとして書いたあるいは加えたというのが僕の想定です。フッデ宛の書簡はスピノザに対する質問への返答で,質問の方はおそらくフッデ自身の希望に対する編集者の配慮から,遺稿集Opera Posthumaに掲載されていないので,具体的な内容は不明な部分があります。ただ,スピノザはフッデが尋ねたような疑問を抱かれるということをあまり想定してなく,なるほどそういう疑問もあるのかと理解したので,『エチカ』にも同じことを記述したのではないでしょうか。この想定が正しいとしたら,フッデは単にレンズのような自然科学の面だけでスピノザに貢献したのではなく,哲学的な面の功績も少なくなかったということになるでしょう。
 BがAの本性であるとして,それはB群の定義には必ず妥当しなければなりません。A群の定義の場合にも妥当しなければならないのでしょうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王位戦&区分法

2016-07-28 19:41:19 | 将棋
 有馬温泉で指された第57期王位戦七番勝負第二局。
 木村一基八段の先手で相矢倉。先手の早囲いに対して後手の羽生善治王位が7筋の歩を交換。先手も3筋の歩を交換して第1図のように進みました。
                                     
 先手は後手の飛車を9筋に追いやっています。ですが後手の玉の方がずっとしっかりしています。先手がやり損っているのではないかと感じる局面でした。
 ▲5四歩と取り込み△同銀に▲5五銀とぶつけました。このまま交換するのは後手が損。△6五銀と歩を取るのも有力そうですが△4五銀と反対側に交わしました。
 ▲6六銀と引くのは固めつつ角筋を通す気持ちいい手ですが△3六銀と角取りに出られ▲9一角成△同飛▲5二飛成という進展になりました。
                                     
 相手の飛車を僻地に追いやって龍を作るのは大きな戦果ですが,駒損も大きくて尋常な手段とは思えません。こういう勝負手がこの局面で必要であったなら,やはり第1図の時点では先手の作戦負けなのではないでしょうか。
 羽生王位が勝って1勝1敗。第三局は来月9日と10日です。

 第一部定義六がA群の定義であるなら,絶対に無限ということを認識するために必要とされる内容を説明するために不可欠であるものの定義に関しては,逆にA群であることはできず,B群でなければならないというのが僕の見解です。すなわちそれが無限に多くの属性から成っている実体と説明される必要があるなら,実体を定義した第一部定義三や属性を定義した第一部定義四はB群の定義でなければならないと僕は考えるのです。絶対に無限を認識するために,すでにそれらの認識が必須となっているなら,それらは単に実体なり属性なりといわれているだけでは不十分であり,スピノザが書簡九で記述していたいい回しに従えば,実体および属性を説明するのに必要な定義が要求されているといえるからです。
 厳密にいえば,たとえば実体も属性もA群の定義であって,しかしそれら各々を説明するために必要な定義の中にB群のものが含まれているとしても問題はありません。ですがこういう循環は論理的には無限に継続することが可能で,最終的にB群の定義が要求されるのは間違いありません。なので僕はその循環を回避するために,第一部定義三と第一部定義四は,B群の定義であると解します。
 これらがB群の定義であるならば,様態を定義した第一部定義五もB群です。第一部公理一の意味から,自然のうちには実体とその属性,そして様態だけが存在するのですから,実体の定義がB群なら様態の定義もB群でなければなりません。これはちょうど自由の定義がA群であるなら強制の定義もA群であるというのと同じ根拠です。
 また,様態の定義がB群の定義である場合には,何らかの様態の定義についてもやはりB群であることが必要だと僕は考えます。したがって物体を定義した第二部定義一や観念を定義した第二部定義三もまたB群の定義でなければならないというのが僕の見解です。
 『エチカ』のすべての定義について,それがA群に属するのかB群に属するのかということをここでは示しません。ですがここまでの説明から,僕がどのような条件でA群とB群を区分するのかということは理解してもらえたのではないかと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五稜郭杯争奪戦&A群とB群

2016-07-27 19:00:49 | 競輪
 被災地支援として行われた昨日の函館記念の決勝。並びは新山‐菊地の北日本,木暮‐山下の関東,近藤‐成清の千葉,川村‐三谷の近畿で竹内は単騎。
 新山がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に川村,5番手に近藤,7番手に木暮,最後尾に竹内の周回。残り3周のバックから木暮が上昇。コーナーの入口で菊地の横に。ですが前を叩くつもりはなかったようです。川村が引いてしまったので木暮が3番手,川村が5番手,7番手で内の近藤と外の竹内が併走という隊列でホームを通過。バックに入ってから近藤が内を上昇。打鐘でもまだペースはさほど上がらず,ホーム入口手前から新山が発進。展開上は成り行き先行ですが,新山はたぶん逃げる気満々だったと思いますから,絶好のマイペース先行といえるでしょう。近藤は5番手を確保し川村が6番手と後ろの隊列は乱れましたが,この時点で4番手の山下と5番手の近藤の車間が開いてしまい,近藤以下は不発。前の選手で直線の踏み合いになりましたが,最後まで順番は変わらず,逃げ切った新山の優勝。マークの菊地が1車輪差の2着で北日本のワンツー。3番手の木暮も半車身差で流れ込んで3着。
 優勝した青森の新山響平選手は記念競輪初優勝。この開催は有力と思われた選手が続々と脱落し,記念の決勝レベルとしてはやや手薄のメンバーに。新山はFⅠなら優勝候補ですので,チャンスもあるだろうと思っていました。ただこのレースは楽な展開になったのが大きかったです。木暮や近藤は先行するというタイプの選手ではありませんが,先行する可能性が最も大きそうな選手が前受けしているのに,だれも叩かずマイペースでの先行を許すというのは,ちょっとほかの選手に策がなさ過ぎたようには思います。まだデビューして1年の22歳の選手ですから,新山の将来は有望でしょう。

 ここからは唯名論的定義を,定義されるものAについて言及しているものという意味で,A群の定義Definitioと命名します。これに対して定義された内容Bに関して言及されている定義についてはB群の定義と命名しましょう。これ自体が一種の定義であって,それはA群の定義であるということになります。
                                     
 第一部定義六をA群の定義と分類できるのなら,絶対に無限absolute infinitumという本性essentiaを十全に認識するcognoscereことによって帰結する特性のうち,絶対に無限な実体substantiaに固有に適合するものの定義に関しては,いずれもA群の定義に分類できると僕は考えます。したがって第一部定義七自由libertasとか,第一部定義八の永遠性aeternitasの定義というのを,A群に属する定義であると僕は解します。実際には第一部定義七の方は,自由だけではなく強制も定義していて,それは神Deusの特性には該当しません。ですがこれは自由ではないものは強制といわれるという意味における自由の反対概念なので,自由の定義がA群の定義である以上,強制の定義もA群の定義としてよいと僕は考えます。
 スピノザがこのような定義をした意図と絡めていえば,これらの定義をA群と考えるのは誤りかもしれません。永遠性についてはともかく,スピノザは同時代の哲学および神学において認識されていた神や自由の定義を誤謬errorとみなし,それを正そうとする意図を有していたと考えられなくもないからです。そうであるならばスピノザは神とはこのような存在者でなければならず,また自由とはこういうことでなければならないと考えていたというべきなのであって,この場合にはどちらの定義もB群に属する必要があるでしょう。ですが僕はそのような思想的闘争を挑んでいるわけではありません。また,信仰される神だけを神とみなすのであれば,神は存在しないと主張することも辞しません。少なくともそのような態度で臨むのであれば,やはりこれらの定義はA群の定義であると解しておくのが安全であると思います。絶対に無限な実体が存在するということは第一部定理一一第三の証明から明白であり,しかしそういう存在者のことを神とみなすことができない人が,現代でも数多く存在するのではないかと考えているからです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王座戦&唯名論的定義

2016-07-26 18:55:33 | 将棋
 昨日の第64期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は佐藤天彦名人が2勝,糸谷哲郎八段が3勝。
 振駒で糸谷八段が先手となり佐藤名人の横歩取り。
                                     
 先手が2六の飛車を引いた局面。ここから△2四飛▲2五歩△3四飛と進みました。飛車交換を挑んで相手に受けさせるのは気持ちのいい手順ですが,第1図は単に△3四飛と回る手もないわけではなく,善悪は難しいところと思います。実戦は先手がうまく押さえ込むことに成功したのではないでしょうか。
                                     
 第2図は後手が△5四歩▲同歩と角道を開けつつ歩を切った局面。ここで△3六歩と取り込み▲同銀△5八歩▲4八角△3八歩▲4七銀△5五銀▲2八飛と進展。押さえ込みを狙った筈の先手が退却し後手が前進してきているので,展開的には後手が圧倒的に優勢になっていなければならないところ。ですが実戦の先手の指し回しはよい辛抱だったようで,まだ先手も十分に指せる局面でした。僕はこの将棋ではこの一連の手順が最も印象に残りました。
                                     
 第3図は後手が金を打った局面。これは手番を渡すので怖い手ですが,後手が勝ちの局面だったようです。先手は▲7四桂とは取らずに▲8六桂ともう一枚設置。△2六金と飛車を取られたところで▲7四桂左△8三王として▲2六角と金を取り,▲8二金を狙いました。
 そこが勝敗を分けた局面。後手は△8一歩と受けましたが▲8二桂成△同王▲7四金が自玉の上部を手厚くしつつの詰めろで先手の勝ちになっているとのこと。△8一歩ではなく△8二歩なら8一に逃げる余地があり詰めろではなく後手が勝てていたようです。ただ部分的にいえば△8一歩より△8二歩の方がよいケースというのはレアだと思われるので,仕方がない敗着であったように思います。
 糸谷八段が挑戦者に。王座戦五番勝負は初出場。第一局は9月6日です。

 スピノザがA,すなわち定義されるものに注目して説明しているタイプで表明している立場は唯名論です。つまりスピノザは,定義される内容すなわちBが知性によって十全に認識されるのであれば,その観念の対象ideatumはどう記号化されてもよい,あるいは少なくともどのように記号化されても構わない場合があるということを主張しているのです。
 第二部定義四とか第三部定義一というのを僕がこのタイプの定義であると解するのは,観念の場合であれ原因の場合であれ,それらの定義で説明されている内容が十全adaequataと記号化されなければならない理由ないしは必然性はどこにもないと考えるからです。これらの定義において重要なのは,前者の場合でいうなら真の観念が有している内的特徴denominatio intrinsecaを知性が十全に認識するということであり,後者の場合でいえばある原因がそれだけで結果を生じさせているということを知性が十全に認識することなのであって,そう認識された観念対象が便宜的に十全な観念とか十全な原因といわれているにすぎません。いい換えればまず先に十全性という概念があって,その概念がどのような概念であるのかが認識されなければならないというものではないのです。
 これと似たような定義として,第一部定義六をあげることができると僕は考えています。ここでは絶対に無限な実体というのが知性によって十全に認識することが求められているのであって,それを神というということに絶対的な意味での必然性が存在するとはいえないからです。実際に第一部定理一一の文言というのは,そこで証明されようとしているのは神が存在するということなのではなく,絶対に無限な実体が存在するということだと解することが可能になっているように思えます。スピノザは神が存在するということを証明したわけですが,同時代のほとんどの人びとからは無神論者であるとみなされました。そういう人びとの意見では,スピノザが定義している神はかれらの神ではなかったからです。少なくとも神が信仰の対象であるという見解をもつ限り,この定義は唯名論的立場から表明されていると理解しておく方が安全と思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『悪霊』の構造&再分類

2016-07-25 19:04:54 | 歌・小説
 『悪霊』という小説の構造は,作品内作者が出来事を語るという形式になっています。しかしこの手法は明らかに失敗しています。作品内作者である記者は,自身が明らかに知り得なかったと推定できることまで記述してしまっているからです。なぜこのような大きな破綻が生じてしまったのか,他面からいえば作者であるドストエフスキーは,ここまで大きな破綻を出してしまいながらなぜこういう手法を採用したのでしょうか。
                                     
 はっきりとした理由はまったく分からないのですが,考えられ得る点があるとすれば,『悪霊』という小説は,検閲を受けていたドストエフスキーによるプロパガンダ的作品であったということです。本来ならばこの小説は,作品内作者などは登場させず,ドストエフスキー自身が作者として書いたということにすれば,何らの破綻も起こさずに済むことでした。作品の作者がいわば神的な視点に立って,登場人物の行動および思想について説明するというのは,小説では基本的な手法であり,いい換えれば作者がそういう立場から登場人物たちを動かすということは,小説においては許されているものだからです。なのにそういう手法を選択せず,あえて作品内作者を登場させたということは,ドストエフスキー自身はこの作品における政治的プロパガンダについて,作者である自身からは語りたくなかったのだという推測は成立することになります。自分で語るのは嫌だったので,作品内作者である記者を通じてそれを言わせたのだという推測です。
 この推測がさほど誤りではないと仮定すると,ふたつのパターンがあり得るように僕は思います。ひとつはドストエフスキーは小説を通じても自身が何らかの政治的発言の主体と解されることに抵抗があったという場合です。だから主体を記者に置き換えたのです。もうひとつはここで展開されているプロパガンダの内容にドストエフスキーは心底から共鳴していたわけではないという場合です。なのでドストエフスキーは作者自身ではなく,記者にプロパガンダを代行させたのです。この場合,ドストエフスキーの転向は表向きのものであったということになるでしょう。

 もう一度,書簡九のスピノザの分類を振り返りましょう。スピノザはそこで,それ自身が吟味されるためにのみ立てられる定義と,定義されるものの本性が求められているときにそれを説明するための定義とに分けていたのでした。僕は『エチカ』の定義は記述上はすべてが前者であると判断します。ですが記述は前者でも後者が同時に求められなければならない定義もあると解します。第二部定義五第二部定義五説明の内容から僕は定義であることについて是認しますが,それは前者だけではあり得ず,後者も同時に求められるのです。つまり僕は前者だけで適当なものを純粋種,後者も必要なら亜種と規定したわけです。
 これをまとめるために,スピノザの分類を別の観点から解釈し直すことにします。スピノザはAをBと解する,他面からいえばBであるものをAであるというというのはよい定義としています。これは分類上は前者です。しかしこれを,Aが吟味されるために立てられる定理とは解さないことにします。ここではスピノザは定義されるものAだけに注目して,ある立場を表明しているのだと解するのです。したがって,定義されるものの本性が求められる定義というのを,それがたとえAをBと解するという形式で記述されているのだとしても,AよりもBの方に着目して,定義における何らかのルールについてスピノザは言及しているというように解します。つまり,定義されるものに注目した場合と,定義される内容に注目した場合とに分類を変更するということです。僕が純粋種というのは当然ながら定義されるものに注目した定義であり,亜種といったのは定義される内容に注目した定義ということになりますが,このような分類に変更したなら,もはやそれらを純粋種といったり亜種といったりすることは不適当だということになるでしょう。同様にスピノザ自身の分類も,定義のあり方の分類としては正確さを欠いているということになります。もちろんここでいう正確さを欠くというのは,僕の考察の上では役に立たない,あるいは混乱を齎すだけの分類だという意味です。
 では先に,定義されるものAに注目した場合を探求していきます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第四部定理二六&第二部定義五説明

2016-07-24 19:26:00 | 哲学
 第四部定理二八では,最高の善bonumまた最高の徳virtusが神Deusの認識cognitioにあるということが示されていました。この理由のひとつは,神が最高に完全summe perfectumという特質proprietasを有していることです。そしてこれは認識されるものからの説明です。もうひとつ,認識する側からの理由というのもあります。それは理性ratioの特質に関係するものです。そういう特質が示されているのは第四部定理二六です。
                                     
 「我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は,理性を用いる限り,認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない」。
 ここで認識することといわれているのは,十全に認識することという意味です。これは理性による認識が必然的にnecessario十全な認識であるということからまず明らかで,そのゆえに理性が有益と判断するのは,十全な認識に役立つことだけであり,もし事物を混乱して認識することに役立つ何かがあるのだとしたら,理性はそれを有益とは判断しないということも帰結します。
 次に努力といわれているのは,ある意欲を意味するのではありません。たとえ理性による認識であっても,精神は自動機械automa spiritualeに類するものなので,何を認識し何を認識しないのかということを精神,理性的な精神が選別できるわけではありません。第三部定理七でいわれているような意味において,それが現実的に存在する理性の本性に属しているということです。
 最後に,十全な認識に役立つものを有益であると判断するというのは,第四部定義一により,そうしたものを善と認識するという意味です。たとえばXが何かほかの事物を十全に認識することに役立つなら,理性はXを善と判断するということです。
 この最後の部分から,神の認識こそが最高の善であるということは明白であるといえるでしょう。第一部定理一五により,どんなものも神なしに十全に認識し得ないということが明らかです。だからあるものを十全に認識させることに最高に役立つのは,神,あるいは神の観念idea Deiであるからです。

 スピノザがよい定義Definitioといっている分類と,僕の分類の間で差異が生じました。ここからはその差異を埋めていく作業です。しかしそのための障害となりそうな定義がありますので,それを考察しておきます。
 第二部定義五は,スピノザが書簡九でいっている内容と照合すると,よい定義とは認められていない,単なる主張と解する余地があると思います。スピノザがこれを定義として成立すると判断したのは,その直後の説明に起因すると僕は考えます。
 「私は無限定な継続と言う。なぜなら,存在の継続は決して存在する物の本性自身によっては限定されることができないし,また同様にその起成原因によっても限定されることができないからである。起成原因は物の存在を必然的に定立するがこれを除去することはないのだから」。
 要するにスピノザは,知性intellectusがある現実的に存在する個物res singularisを十全に認識することがあったとしても,その個物の持続duratioの限界を認識することはできず,だからその持続についてはそれが無限定なものと認識する,あるいは認識せざるを得ないといっているのです。僕は現実的に存在する個物の本性には,その個物が持続するdurareものであるということが属していると考えていますから,このスピノザの説明自体は納得できます。
 厳格にいうならこの説明というのは,第二部定義二の意味とか,あるいはそれと同じような意味を事物の本性essentiaだけでなく事物の起成原因causa efficiensに対しても適用することで論証されているということになるとは思います。つまりこれは公理系の内部では定義としては不適当で,定理Propositioでなければならないということもできるでしょう。ただ,知性が現実的に存在する個物を十全に認識する,すなわちそれを概念するconcipereなら,その存在の持続を無限定と認識するというのは,公理的性格を帯びていると僕は認めることができますから,これを定義とすることを僕は許容できます。
 一方,これが定義として成立するなら,僕の分類における純粋種ではあり得ません。これは無限定な継続を持続というだけでは不十分で,持続するものが概念されることを要求するからです。なので僕の分類上は,この定義は亜種としておきます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷津の雑感⑤&純粋種と亜種

2016-07-23 19:15:34 | NOAH
 谷津の雑感④の続きです。
 谷津は1990年3月に試合中に頸椎を負傷して欠場。復帰したのは5月14日の東京都体育館サムソン・冬木と組み,タイガーマスクと川田利明のチームとの対戦でした。この試合中にタイガーが覆面を脱ぎ,素顔の三沢に回帰した一戦です。谷津はその前に,三沢を素顔に戻すことを馬場に進言したといっています。実際にこの試合中,谷津がタイガーの覆面に手を掛ける場面もあり,タイガーが覆面を脱ぎやすい状況にもっていったのは事実。なので進言したのが虚偽だとは僕は思いません。ただし実行については最終的に馬場が決断した筈で,その決断の理由が谷津からの進言であったというようには僕は考えていません。
 谷津はこの後,7月途中から試合を欠場し,8月にSWSに移籍しました。この理由については,この時点でジャパンプロレスからの同僚が永源遥だけになってしまったことと,負傷が完全に癒えていない自分に三沢や川田が気を使うのはよくないと考えたという二点を説明しています。谷津は天龍源一郎が離脱した全日本が盛況を迎えるためには三沢や川田がトップクラスにいくほかないと考えていたので,自身は身を退いたという意味だと僕は解します。谷津はSWSからは多額の移籍金を受け取っていないとしていて,要は金銭面が移籍した理由ではないといっているわけです。この部分が真実であるかは僕には判断がつきかねます。ただ,三沢や川田の上昇が必要だと考えていたのはおそらく真実で,事実として全日本はむしろこの後で最良の時代を迎えたのですから,その点は慧眼であったと思います。ただし,そういう時代を迎えるほどに全日本の人気が出るとは考えていなかったのではないでしょうか。
 移籍自体は契約違反であったようで,裁判になりました。これについても興味深い発言がありますので,それを最終回にすることにします。

 定義されるものAと定義の内容Bが一対一で対応し合わなければならないのだとしたら,BとはAにとって何であるのか,あるいは何でなければならないのかということが当然のように問われ得ることになります。なので単純にAをBと解するという定義がスピノザがいうよい定義であったとしても,Bに関してはその内容を問わなければならないのです。
                                     
 ただし,これは一般的にそういうことができるという意味です。どんな定義であったとしてもそれを問わなければならないというものではありません。確かにスピノザが書簡九でいっているように,それ自身が吟味されるためのみに立てられる定理,立てられなければならない定理というのは存在するでしょうし,公理系を全体としてみれば,そういった定義はむしろ必要とされるでしょう。いい換えれば知性が十分に理解することができる,すなわち概念することができさえすれば十分な定理もあるのです。たとえばBがAの何らかの性質,それは本性natura,essentiaであろうと特質proprietasであろうとあるいは共通概念notiones communesに類するものであろうと何であっても構わないのですが,そういう性質を意味するという場合に,この性質のことをAという,あるいはそういう性質を有するものについてはすべてAというというタイプの定義もあることになります。『エチカ』でいえば第二部定義六とか第四部定義八などはそういうタイプの定義であると僕は考えます。
 このようなタイプの定義の場合は,BがAにとって何かを問わなくて構いません。一方で,後に示すように問うべき定義というのもある筈で,したがって僕は実はスピノザが最初に分類したパターンのうち,僕が第一のパターンといったもののうちに,純粋種と亜種とがあると考えます。問わなくてよいのが純粋種で,問うべきなのは亜種です。
 僕の見解を示せば,第一部定義七第一部定義八も純粋種です。また第二部定義四第三部定義一なども,純粋種に数え上げてよいと考えます。これらの定義は定義されているものの性質について何かを示そうとしているというより,ある性質を有するものについて,それを定義されているものというということを示そうとしているからです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

模倣の欲望&対応

2016-07-22 19:15:27 | 歌・小説
 第三部諸感情の定義三三で示されている競争心という感情は,基本感情affectus primariiのうちのひとつである欲望のうち,とくに他者の欲望を模倣することによって発生する欲望のことをいいます。いい換えれば感情の模倣affectum imitatioによって生じる欲望は,すべからく競争心といわれることになります。
 こうした感情というのは,亀山郁夫の文学論のキーのひとつになっています。もっとも亀山はスピノザ主義者ではありませんし,おそらくスピノザを読んではいないでしょうから,競争心とか感情の模倣といった,『エチカ』に著されていることばを用いることはありません。ですがこれを僕は「父殺し」や「使嗾」といった概念と同じ程度に,亀山は重視して文芸作品の読解を行っていると僕は解します。一方,僕自身はスピノザ主義者ですから,この観点において亀山が示している概念は不要です。僕はそれを感情の模倣というスピノザ主義に特有の概念によって説明することができるからです。たとえば先生の神聖な恋を恋したKの恋への模倣であるということを,僕はスピノザ主義的に解します。ですがスピノザ主義者ではない亀山には,これとは別の概念が必要になるのです。もちろん亀山の専門はロシア文学ですから,『こころ』を読解するということはありません。ですがもしも亀山がそれをすると仮定したなら,ロシア文学の読解のための概念装置をそのまま適合させるだろうと思われます。
                                   
 いろいろな著書で示されていますが,ここでは『共苦する力』から示します。この本の中で亀山は,フランス人哲学者のジラールの,模倣の欲望という概念をとりあげています。亀山の説明ですと,人は必ず誰かが欲望しているものだけを欲望するというのがジラールの見解のようで,これはスピノザとは違った考えです。ただそれはおそらく,欲望という感情自体の定義の相違に由来すると僕には思えます。亀山はこのジラールの概念を読解に大いに用います。ですが僕にはこの概念は不要なのです。

 書簡九シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに対して明示した定義Definitioのふたつのパターンのうち,僕が第一のパターンとしたタイプの定義が,『エチカ』のすべての定義を占めています。ではもうひとつのパターンに関しては,『エチカ』の定義を分析する際には有用ではないのかといえば,僕は必ずしもそうは考えていません。これは次の事情によります。
 一般に,AをBと解するという命題は,BであるものをAというという命題に置き換えることが可能です。この場合,Aが定義されるものを指示し,Bはその定義内容を意味すると考えてください。なのでAをBと解するという命題が定義として成立する,スピノザのいい方に倣えばよい定義であるのなら,BであるものをAというという命題もよい定義でなければならないと僕は考えます。
 おそらくスピノザもそのことを是認するものと思います。たとえば第二部定義二というのは明らかにBであるものをAというという形式で記述されています。ですがこの定義は,あるものの本性に属するものは,それがなければあるものが,またあるものがなければそれが,あることも考えることもできないようなもののことと解する,というようにいい換えることができる筈です。つまりこの定義も第一のパターンの定義であるということができなければなりません。つまりAをBと解するがよい定義であるというのと同じ意味で,BであるものをAというもよい定義だとスピノザは認めなければならないと僕は考えます。なお,本性に関するこの定義は,スピノザの定義の概念を複雑にさせていると僕は考えています。ですがそれは後に詳述するでしょう。
 このことから明らかなのは,AとB,すなわち定義されるものと定義された内容は一対一で対応し合わなければならないということです。つまりAをBと解するのなら,公理系の内部でBであるものをAというだけではまだ不十分なのであって,BであるものはAだけであるということができるのでなければなりません。もっと単純にいうと,AがBであるだけでは不十分で,BであるのはAであり,Aだけである,A以外のものはBではないことが成立しないといけないのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶対的権限&第一のパターン

2016-07-21 19:13:46 | 哲学
 スピノザは自身の政治論ないしは国家論に関するホッブズとの相違を,イエレスJarig Jellesに宛てた書簡五十の冒頭部分で簡潔に説明していました。それによれば,ホッブズの国家論では市民が国家に対して自然権jus naturaleを全面的に譲渡している,他面からいえば市民の自然権の行使に対して国家が絶対的な権限を有しているけれども,スピノザの国家論においてはそれはなく,ホッブズが自然状態と規定しているような状態において個人が保持しているとみなされている自然権を,そっくりそのまま国家状態の市民も保持しているというものでした。少し別の面からもこれを検討してみます。
                                       
 これがホッブズとスピノザの,自然状態と国家状態の概念についての相違から生じているのは間違いありません。ホッブズにとって国家とは,万人の万人に対する戦いと表現される自然状態を,人間が克服した結果として得られる状態のことです。ホッブズが実際に国家がそのようにして成立したと考えていたのか,それとも現にある国家状態を上手に説明するための思考装置としてのみそう考えていたのかは僕には分かりません。ただ,その点に関してホッブズがどう考えていたのかとは関係なく,これでみれば自然状態と国家状態,すなわち自然と国家とが対立的な関係に置かれていることは一目瞭然といえるでしょう。哲学的にいえばこの考え方は,理性によって感情を統御することが可能であり,それが人間にとっての倫理であると規定したデカルトの考え方と近似性があるのではないかと僕には思えます。
 それに対してスピノザは,ホッブズのようには自然と国家を対立するものとは考えません。むしろ国家もまた自然の一部であると考えます。ですから自然状態であろうと国家状態であろうと,個人が自然権を同じように有するということは,きわめて当然の帰結でした。
 スピノザはこの部分の末尾に,自然状態においてはこれが常道だと書いています。これはホッブズのような考え方をする人には意味不明かもしれません。国家も自然の一部なので,市民に対して絶対的権限を有することは現実的に不可能であるとスピノザはいいたいのです。

 シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九の中で,第一のタイプの定義についてスピノザが示している事例は以下のようなものです。
 もしも公理系の製作者が,実体はただひとつの属性のみを有するといったとします。スピノザによればこれは単なる主張です。したがって証明する必要があります。つまりこのテーゼは公理系の内部では定理として記述されなければならず,定義としては不適当であることになります。
 しかしもしも,実体はただひとつの属性からなるものと解するというなら,これは定義として成立するとスピノザはいっています。ただこの場合には,公理系の内部に複数の属性からなる有が出現したときに,それを実体とは記述できなくなります。いい換えればその条件が守られる限りにおいて,これは定義として成立するテーゼであることになります。
 実際にはスピノザは後者の命題について,それはよい定義であり得るといっているのであり,定義として適当であるか不適当であるか,あるいは定義として成立するか成立しないかということを明確に言及しているわけではありません。ここでは便宜的にスピノザの説明をそのように解するということです。
 また,スピノザが実例としてこのテーゼを出したのは,書簡八でフリースが出した別の質問と関連付けるためです。実際にはスピノザは実体がただひとつの属性から成ると考えているわけではありません。第一部定理一一が無限に多くの属性から成る実体が必然的に存在すると主張していることからそれは明らかでしょう。そしてこの場合に実体とは第一部定義三でいわれている実体のことにほかなりません。
 スピノザの最初の分類に則していうならば,たぶん『エチカ』の定義というのはそのすべてがこのタイプの命題であるのです。この形に最も適合して記述されているのは,第三部定義一第三部定義二です。ここでは私はAをBと解するという形式になっているからです。しかし第一部定義一とか先述の第一部定義三のように,だれがという主語がなく単にAをBと解するという形式で記述されていても,これはこのパターンに分類されるというのが,現時点での僕の見解です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

習志野きらっとスプリント&二種類の定義

2016-07-20 20:44:05 | 地方競馬
 地方競馬スーパースプリントシリーズファイナルの第6回習志野きらっとスプリント
 好発はリコーシルエット。1馬身は前に出たので普通はこの馬の単独の逃げになるところですが,フラットライナーズは追っていき,3コーナーに入るあたりでは併走から外のフラットライナーズが前に出るような形に。アドマイヤサガスが3番手。途中から行き脚が鈍ったように見えるルックスザットキルが何とか4番手。ネオザウイナー,イセノラヴィソンと外枠勢がこれらを追う位置。ランドクイーン,ラッキープリンス,サトノタイガーらが続きました。最初の400mは23秒1。これは超ハイペースなので,この距離のレースとしては縦長に。
 4コーナーではフラットライナーズが先頭。並んでいったのがアドマイヤサガス。結局はこの2頭のマッチレース。その時点ではアドマイヤサガスの方が手応えは優勢に思えたのですが,最後まで抜くことができず,優勝はフラットライナーズ。半馬身差の2着にアドマイヤサガス。大外を追いこんだサトノタイガーが4分の3馬身差まで詰め寄って3着。
 優勝したフラットライナーズは南関東重賞初制覇。昨年は南関東のクラシックに参戦した馬で,素質は高いものがありました。古馬とはB級からの対戦になりましたが苦戦。しかし3月に出走した1200m戦で勝利。次の大井の1400mのレースは負けましたが4月にA級との混合戦を1200mでで勝利。前走の川崎でのトライアルも差し切って勝ち,これで3連勝。つまりスプリント戦に高い適性があったということでしょう。ここも最近は苦戦が多かったJRAオープンからの転入馬が2着になっているように,現状のこの路線はJRA勢に能力の高い馬が多いので,重賞を勝つのは難しいかもしれませんが,地方馬のみでのスプリント重賞ならまだ勝てるのではないかと思います。母の父はタイキシャトル。母の半姉に1998年の優駿牝馬,1999年の中京記念,マーメイドステークス,府中牝馬ステークスを勝ったエリモエクセル
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年の平和賞以来の南関東重賞制覇。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している船橋の林正人調教師も習志野きらっとスプリント初勝利。

 『スピノザ哲学研究』の12章の冒頭では,スピノザの哲学における事物の定義Definitioがいかなるものかが検討されています。僕はこのテーマについてはそれを主題に考えたことはありません。ですがほかのテーマにとっての必要性から,幾度となく定義がいかなるものであるのかを説明しました。とはいえそれは各々のテーマのための検討なので,一方でいっている説明と他方でしている説明とが,喰い違って理解されているおそれを感じています。よい機会ですのでここからそれらを矛盾なくまとめ上げることにします。なのでここからの検討は,工藤の論考とは直接的には関係しません。スピノザの哲学においてはどのようなテーゼが定義として成立し得て,逆にどのようなテーゼは定義として成立し得ないのかということの,僕の一般的な見解を示すことに比重が置かれます。
 まず基本的にスピノザは,定義,これはとくに公理系の内部での定義を意図していると思われますが,その中で成立する定義には,タイプの異なった二種類のものがあると考えています。この二種類の分類が,第一の分類であると僕は解します。そしてそのうちのひとつは,単なる言語の問題なので,文法的に成立するならそれ自体で定義として成立し得るとスピノザは考えていて,もうひとつのタイプは,実際に何が定義されるのかということと関係するので,ただ単に文法的に成立しているのはもとより,命題が真であるというだけでも定義としては成立し得ないとスピノザは考えているというのが僕の見解です。
                                     
 スピノザはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九の中で,この二種類の分類について触れています。スピノザが述べている順番は,僕が上に示したものとは逆ですが,第一のタイプの方が結論を出しやすいので,僕はそちらを先にしました。僕の順序に則していうなら,前者はそれ自身が吟味されるためにのみ立てられる定義で,後者は本性が求められているものを説明するために役立つ定義です。後者は命題が真でなければならないのは当然ですが,前者の場合にはその必要がないとスピノザはいっています。つまり真の命題でなくとも成立する定義があるとスピノザはいっているのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サマーナイトフェスティバル&スピノザの前提

2016-07-19 19:07:58 | 競輪
 川崎競輪場で被災地支援競輪として実施された昨晩の第12回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは平原‐武田‐諸橋の関東,深谷‐金子の師弟,吉田‐浅井の中部で村上と園田は単騎。
 浅井がスタートを取って吉田の前受け。3番手に平原,6番手に村上,7番手に深谷,最後尾に園田という周回に。残り3周のバックから深谷が上がっていこうとすると先に村上が動き,これを平原が追って,ホームで吉田を叩いた平原が前に。さらに深谷が叩き,園田も続いて前に。引いた吉田が上昇していき,最後尾になった村上はこちらに切り替え,バックで吉田が深谷を叩き,村上まで出て打鐘。吉田はそのままスピードを緩めなかったので早めのかまし先行に。3番手に村上,4番手に深谷,6番手が園田で7番手に平原という一列棒状でホームを通過。バックに入ると浅井が外へ自転車を振りつつ後ろを警戒。直後の村上は何とかバックの中ほどで発進するもその後ろの深谷はまったくタイミングがつかめず。村上は浅井に半車身くらいまでは迫れましたが,浅井の再三の牽制で前には出られず,コーナーから踏んでいった浅井を追う形に。平原は浮いた深谷の影響を受けたため,バックから内を回った武田が村上を追い,直線は村上の外から粘る浅井に迫ってフィニッシュ。しかしこの猛追は届かず,優勝は浅井。8分の1車輪差の2着が武田で半車身差の3着に村上。
 優勝した三重の浅井康太選手は前回出走の福井記念からの連続優勝。ビッグは昨年の競輪グランプリ以来の4勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。吉田は愛知ですが深谷ラインとは連係せず,中部が別ラインの勝負。しかしやり合うことは考えにくく,場合によっては協力するようなレース展開もあり得るとみていました。村上がうまく浅井を追ったので4人で並ぶことにはなりませんでしたが,ラインの厚い関東を後方に置くことには成功。たとえば園田も村上を追い掛けていて,浅井の内を突くようなレースになっていたら厳しかったかもしれませんが,自身のインに割り込まれるようなレースにはならず,早めに駆けた吉田を最大限に利し,村上の捲りを封じることにも成功しての優勝。なかなか大変なレースであったとは思います。2着に突っ込んだ武田は伸び脚が目立ち,調子を取り戻しつつあるかもしれません。

 スピノザは硝石の本性を単に永遠の真理として認識していたというより,永遠であるからそれは不変であるということを主軸にロバート・ボイルRobert Boyleと議論していたように僕には思えます。つまりボイルは現実的に存在する硝石の実証実験を行った上で,硝石は分解され得るし生成もされ得ると主張したのに対して,スピノザは硝石の形相的本性が永遠であるということを論拠として,硝石の本性は不可分的なものでなければならないと主張していると僕は解するのです。これはボイルからすれば硝石は分解されもしないし生成されることもないとスピノザが主張しているという意味になりますから,そういう見解を受け入れられなかったのは当然のことと思えます。
                                     
 したがってこのときのスピノザは,硝石という個物の存在を,神の延長の属性に含まれているいるものとして前提していたというよりも,端的に分割不可能なものと前提していたと解する方が正確かもしれません。要するに第一部定理一三系物体的実体は分割不能であるとスピノザがいうとき,そのような物体的実体としてスピノザは硝石の本性を前提していたように思われるのです。
 どのような仕方でこれを説明するにしても,この論争におけるスピノザの前提が,『エチカ』の自然学において物体,とくに現実的に存在する物体について言及する場合とは相容れないということは間違いないように思います。むしろそれに則していたのはボイルの方であったというべきでしょう。したがってボイルが実証という方法で示した事柄を,議論していた当時のスピノザは受け入れていなかったとしても,後にはその見解を受け入れるようになったという工藤の見解は正しいものと思います。つまりその意味において,スピノザは実証主義的見解を是認するに至ったということは,極度の誤謬ではないと思います。ただし思考の方法論としては,スピノザは実証的なものより合理的なものが確実な認識の基礎になるという見解は変えていないと僕は考えますので,このような意味においてスピノザが合理主義者から実証主義者になったというのは誤りだと思います。
 ボイルとの論争に関しての考察はこれで終了です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典マーキュリーカップ&硝石の把握

2016-07-18 19:19:03 | 地方競馬
 第20回マーキュリーカップ
 先手を主張する馬が不在。ゆっくりとマイネルバイカがハナへ。正面では2頭が2番手を併走していましたが,向正面に入るあたりでケイアイレオーネが単独の2番手,タイムズアローが3番手に。この後ろはハイフロンティア,ストロングサウザーで加わっていったのがマイネルバウンスとクラージュドール。ユーロビートがこれらの後ろでそれをマークするような位置にソリタリーキング。超スローペースだったものと思います。
 3コーナーを回るとケイアイレオーネがマイネルバイカに並び掛けていってややペースアップ。タイムズアロー,クラージュドールが前を追い掛け外を回ったのがユーロビートで内からストロングサウザー。直線に掛けてマイネルバイカが外に出したので,外を回った馬は距離をロス。開いた内に突っ込んだのがストロングサウザーとタイムズアローでさらにその内からマイネルバウンス。外に出して粘り込みを図ったマイネルバイカ,大外になってしまったユーロビートの5頭による争い。ここからストロングサウザーだけは抜け出して優勝。2馬身差の2着はその外のタイムズアロー。ハナ差の3着がさらにその外のマイネルバイカ。大外のユーロビートが半馬身差の4着で最内のマイネルバウンスはアタマ差の5着。
 優勝したストロングサウザーは2月の佐賀記念以来の重賞2勝目。このレースはJRAからトップクラスの出走がなく,南関東から上位の馬が遠征してきたので大混戦。結果的にコース取りが明暗を分けた部分も大きかったように思います。ただ,2着争いが熾烈だったところを抜け出しているので,快勝だったことに間違いはありません。とはいえこれより上のレベルで戦うのはまだ苦しそうという印象が残りますから,相手次第でまたチャンスを得られるかといったところではないかと思います。父はハーツクライ。Southerは南風。
 騎乗した田辺裕信騎手と管理している久保田貴士調教師はマーキュリーカップ初勝利。

 『スピノザ哲学研究』では,スピノザがロバート・ボイルRobert Boyleと硝石の本性に関して論議しているときには,ボイルは硝石を現実的に存在する物体として把握していたのに対して,スピノザはそれを理性の有entia rationisと解していたという主旨で記述されています。これはスピノザが硝石の本性を現実的に存在する物体の本性としては認識していなかったという意味において僕の見解と同一です。したがってその点においては僕は工藤の見解に同意します。ただしスピノザの哲学を全体としてみた場合には,この説明は好ましくないと僕は考えています。
                                     
 スピノザの哲学における理性の有というのは,真の意味における有ではありません。いい換えれば実在的有ではありません。しかしボイルと論争していたときのスピノザが,硝石を実在的有と把握していなかったというようには僕には思えないのです。むしろ個物の存在に則していうなら,ボイルは硝石の現実的本性actualis essentia,すなわち現実的に存在している硝石の本性について言及しているのに対して,スピノザは神の属性の中に含まれている硝石の形相的本性について言及しているように思えるのです。個物は神の属性に含まれて存在していようと現実的に存在していようと,実在的有であるという点に変わりはありません。なので僕はスピノザが理性の有として硝石の本性を認識していたという説明は,正確さを欠く一面があると思うのです。
 ただし,スピノザが,理性によって認識される硝石の本性を認識していたというなら,僕はそれを否定はしません。第二部定理四四系二から明らかなように,理性に基づいて硝石の本性を認識するというのは,硝石の本性を永遠の相の下に観想するということにほかなりません。しかし硝石の現実的本性は永遠の相の下に把握されるものではありません。現実的に存在する本性が永遠に存在するというのは,持続のうちに存在するものが永遠のうちに存在するといっているのと同義であり,それ自体では不条理であるからです。
 もっとも,このようにいうと,単にスピノザが硝石の本性を永遠の真理として認識していたという側面だけが強調されそうです。それはそれで誤解を生じるかもしれません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第三部定理五〇&分解と生成

2016-07-17 19:03:20 | 哲学
 スピノザはバリングPieter Ballingに送った書簡十七の中で,人が感覚する前兆とか予兆について詳しく語っています。『エチカ』の中でこれと最も関連するのが第三部定理五〇です。
                                     
 「おのおのの物は偶然によって希望あるいは恐怖の原因であることができる」。
 岩波文庫版で恐怖と訳されているmetusを,僕は不安と訳すということは再三いっている通りです。ですからこの定理はこのブログの表記だと,どんなものも偶然に希望や不安の原因となり得るということになります。
 どうしてこのようなことが起こり得るのかということの基本は,第二部定理一八にあります。この定理によって,僕たちはある表象像から別の表象像へと容易に移行するということ,いい換えればAを表象することによってBを連想するということがしばしば生じるということを理解します。このとき,Aは希望も不安も感じさせないような表象であったとしても,Bは希望なり不安なりを感じさせる表象であるという可能性はあり得ます。しかるにこの人はAを表象すればBを連想するのですから,Aはそれ自体では希望の原因でも不安の原因ではないとしても,Bを連想させる限りでは希望または不安の原因であることになります。かくしてこの人にとってAは,偶然によって希望または不安の原因となるのです。
 バリングは自身が表象した泣き声,おそらくそれは空耳ですが,その表象像から自分の子どもの死の表象像を連想しました。このためにバリングにとって空耳の表象像は,偶然によってバリングの不安の原因になったといえます。他面からいえば,その泣き声から自身の子どもの死を連想しなかったなら,バリングにとって空耳の表象は,バリングに不安も希望も感じさせないような表象であったといえるでしょう。

 現実的に存在する硝石といわれる物体にある外部の原因が与えられることによって,その物体の運動と静止の割合が破壊され,いい換えるならその特定の有機的結合を果たしている運動と静止の割合に変化がもたらされるなら,その物体はもはや硝石といわれる物体としては現実的に存在し得なくなります。ただしそれは,物体が存在しなくなるという意味ではあり得ません。物体は物体として存在し続けるけれども,硝石といわれる固有の物体としては存在し得なくなるという意味です。よってこの場合には,硝石といわれる物体とは異なった運動と静止の割合を有する物体が存在するようになります。化学的にいえば,硝石が分解されるというのを,『エチカ』の哲学に基づいていうならこのように説明されるということです。
 『エチカ』では詳述されていないのですが,この現象から逆の場合も生じ得るといえます。すなわちある固有の運動と静止の割合を有するいくつかの物体に,外的な原因が与えられることにより,それらいくつかの物体が有機的に結合を果たす結果,硝石といわれる物体に固有の運動と静止の割合に変化するなら,それによって硝石の本性を有する物体が現実的に存在し始めるようになります。前の場合が硝石の分解を意味するのなら,こちらは硝石の生成を意味するといえるでしょう。
 このようにして,『エチカ』では現実的に存在する硝石は分解され得るし,逆にいくつかの物体の有機的結合によって硝石が生成され得るということが是認されているといえます。このことからスピノザとロバート・ボイルRobert Boyleの間で交わされた硝石の本性に関する論争を探求した場合には,それに則したことをいっているのはボイルの方であって,スピノザはむしろそれに反駁しているように僕には思えます。なので,この当時のスピノザには,後に『エチカ』の自然学に示したような物体に関する見解というのが,確たるものとしては存在していなかったと思えるのです。そしてボイルは実際に硝石が分解されるということを実証しているといえるので,『エチカ』の見解はその分だけ実証主義的見解を取り入れているというように解することも可能と思うのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする