スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ダービー&否定の否定

2010-05-30 18:33:53 | 中央競馬
 ここ数年の日本の競馬は牝馬によって牽引されてきました。しかし今年の3歳は牡馬復権の世代になりそうな予感。現時点でのその頂点を決定するのがダービー。ダノンシャンティが骨折のために取り消し,17頭で争われました。
 ペルーサが出遅れ。外からシャインがいきましたが先手を奪ったのはアリゼオ。コスモファントムの3頭で後ろを少し離しました。ヴィクトワールピサは好位の内。ペルーサは後方3番手あたり。最初の1000mは61秒6。スローペースは予想されましたが超スローペースとなったため,折り合いに苦労しているように見受けられた馬も多かったです。
 ペルーサはペースもあって向正面から漸進していき,中団の外で直線に入りましたが伸び脚は見られず。ちょうどペルーサが上がってきたあたりに位置し,最も折り合っているように見えた1頭のローズキングダムが先頭に立つと,ほぼ同じ位置にいたエイシンフラッシュがその1頭内から追撃してきて,これを捕えて優勝。ローズキングダムが2着で,十分には折り合えなかったように見えたヴィクトワールピサが内から2頭目を捌いて3着を確保。
 優勝したエイシンフラッシュは正月の京成杯で重賞を制覇した後,皐月賞まで休養して3着。最もローテーションにゆとりのあった馬で,それが最後の爆発力につながったのかもしれません。今日はほとんど直線だけの競馬というレース形態となり,おそらく総合力より瞬発力を問われるこういう競馬の方が向いているのでしょう。
 騎乗した内田博幸騎手,管理している藤原英昭調教師ともに昨年末の東京大賞典以来の大レース制覇で,ダービーは初優勝となりました。

 ここまでのことから,僕たちが排尿という運動自体の観念を精神のうちに想起する場合には,これを否定するような意志作用が同時にあることはできないということが経験論から明らかになりました。いい換えれば,僕たちは自分の身体の排尿という運動を精神のうちに想起する場合には,排尿を我慢すること,つまりこれは排尿の否定,厳密にいえば失禁の否定かもしれませんが,失禁も排尿の一種ですから排尿の否定という意味では同様で,それを否定するということになるのです。
 一般論としていうならば,Aの否定の否定ということが,すぐにAの肯定となるとはいえません。僕もそのように考えますし,これについては論拠を提示することはできませんが,おそらくスピノザもそのように考えるのではないかと思います。したがって,排尿の否定の否定が僕たちの精神のうちにあるということが,排尿の肯定が僕たちの精神のうちにあるということに,ただそれだけで直ちに結び付くとはいえないかもしれません。しかしこの場合は,いささか異なった事情もあるように思えるのです。
 排尿という運動自体は,人間の自己保存の法則に則した運動です。したがって,自分自身の身体の場合でも,あるいはもっと一般的に人間の身体すべての場合でも,それに対して排尿という運動を僕たちは肯定します。すなわち,排尿の否定の否定は直ちに排尿の肯定を意味するものではないかもしれませんが,少なくとも僕たちの精神のうちには,こうした種類の排尿の肯定があるということ自体は疑い得ないのです。
 このような排尿を肯定する意志作用が,自分自身の身体であれ人間の身体であれ,そうした観念なしにあることができないのはいうまでもないことであり,とくに説明の必要はないでしょう。しかしもしも僕たちの精神のうちにこうした種類の排尿の観念が存在する場合には,自分の身体に対しであれ人間身体一般に対してであれ,それが自己保存の法則に適合している以上はそれを肯定することなしにあることはやはりできません。しかもこれを否定するような意志作用は,この場合にはあることができないと結論付けられているのです。
 よってこのように考える限り,確かに経験的にも排尿の観念とこれを肯定する意志作用というのは同一のものであるということができるのではないかと思います。
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王位戦&排尿の場合

2010-05-29 19:05:36 | 将棋
 昨日の第51期王位戦挑戦者決定リーグ最終一斉対局。白組の大一番は勝った方が最低でもプレーオフに進出できる羽生善治名人と丸山忠久九段の一戦でした。対戦成績は羽生名人が33勝,丸山九段が17勝。
 ここは羽生名人の先手で丸山九段の横歩取り△8四飛。おそらくは後手の構想に破綻があったためと思われますが,先手の大きな歩得に。結果的には後手の中盤の指し方が不可解になってしまいました。
                    
 先手としては手数を伸ばして後手の攻め疲れを待つような指し方も考えられそうですが,ここで▲6三角成と一気に決めにいきました。△同歩に▲5五銀と厚みを加え,△7四飛▲同歩△6五桂にも受けずに▲5四銀の進出。△5七桂左成と王手は掛けられますが▲6九玉と逃げておき,△4七成桂となったところで▲5三桂(第2図)の王手が決め手。
                    
 以下,△3二玉に▲7二飛△4二銀▲4一桂成で決まっていました。中盤で優位に立ち,最後は読み切って勝った先手の快勝譜といえそうです。
 羽生名人が勝って4勝1敗。白組は1敗で並走していた戸辺誠六段も勝ったのでプレーオフに。これは6月1日に指されるとのことです。

 僕たちが自分自身の排尿我慢した経験を想起することによって証明される,この表象像と意志作用との関係は,当然のことながら排尿を我慢する場合だけに特有に該当するのではなく,排尿という運動自体の場合にも妥当します。ただし,僕たちは一般的に排尿の分節でいえば放尿をなす場合には,排尿という運動を肯定するような意志作用については大抵の場合には意識することがありませんので,これを経験に訴える場合の説明の仕方は排尿を我慢する場合とは少し違ってきます。
 この考察における約束事では,ある人間の身体が排尿という運動をなすとき,この人間の精神のうちには,この運動を否定するような思惟の様態は存在しないということになっています。そこで,僕たちが放尿をしている場合,要するにトイレで排尿をなす場合のほとんどはこれにあたりますから,これを想起してみます。これは実際にほとんどの人が毎日のようになしていることなので,想起すること自体は困難ではない筈です。すると,確かに僕たちがこの運動をなしているときには,これを否定するような思惟の様態は自分の精神のうちに実在しなかったということが理解できると思います。
 これは実は当然のことなのです。なぜなら,もしもそうした思惟の様態が自分の精神のうちに実在するということは,具体的には僕たちの精神のうちに排尿を我慢する意志作用があったということを意味しますが,この意志作用があるときは,むしろ身体は排尿という運動を我慢しているということ,つまりこれらのふたつは同一個体であるということがすでに明らかになっているからです。したがって,こうした種類のいかなる思惟の様態も,放尿している自分自身の身体の表象像とは同時にあるということができないのです。つまりこの両者の関係は,一方があるなら他方が,他方があるなら一方が,あることも考えることもできないような,矛盾した関係にあるのです。
 したがって僕たちは,こうした排尿に関してそれを想起する場合には,排尿という運動を否定するようないかなる思惟の様態の現在も否定しなければなりません。これが,排尿の観念の場合にも,経験的にこの観念とこれを肯定する意志作用とが同一のものであるということを説明する場合のベースとなります。
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王位戦&表象像と意志作用

2010-05-28 20:16:44 | 将棋
 第51期王位戦挑戦者決定リーグ最終一斉対局。今日は紅組から勝者は最低でもプレーオフ進出,敗者はリーグから陥落と明暗を分ける渡辺明竜王広瀬章人五段の将棋を。公式戦初対局です。
 リーグ戦はあらかじめ先後が決まっていてここは広瀬五段の先手。渡辺竜王の2手目△8四歩から先手の5筋位取り中飛車。相穴熊の将棋になりました。
                    
 ここから先手が▲5四歩と仕掛け,角交換から▲4四銀と飛び出しました。後手の8筋からの攻めは自玉から遠いですので,その間に盤面の右側でポイントを上げようという算段。以下,△3四歩の受けに金を取って△同金に▲4四金のただ捨て。△同金と取らせてから▲7一角と打ち,金を取り返しながら馬を作ったのが第2図。
                    
 先手の攻めがこれできまっているわけではないでしょうが,ペースは先手が握っている感じです。後手の飛車を7二に寄らせた関係で,後手からの攻めをまた少し遅くして,あまり忙しくはなっていないのも大きい気がします。
 実戦もこの後,後手は大駒を自陣に引きつけたり投入したりするような粘り方をせざるを得ないような展開に。そうなると先手は攻撃だけに焦点を絞れるのが大きく,相穴熊の将棋では往々にしてあることですが,ほぼ一方的な内容で押し切っています。
 広瀬五段が勝って4勝1敗。同じく3勝だった佐藤康光九段は破れたため,紅組の優勝が決定。挑戦者決定戦に進出しました。白組についてはまた明日にでも。

 僕たちが排尿我慢する意志を有したとき,実際に僕たちの身体は排尿を我慢していたということは,だれしも否定することはできないであろうと思います。ところで,実はこのこと自体が,僕たちの精神のうちにある知性と意志,すなわち個々の観念と個々の意志作用とが同一のものであるということを,経験的に明らかにしていると僕は考えるのです。
 なぜならば,まず,僕たちがこのこと自体,すなわち自分の精神が排尿を我慢しようとしている場合には常に自分の身体が排尿を我慢する運動をなしていたということを肯定するとき,僕たちの精神のうちには必ず排尿を我慢している自分自身の身体についての表象像が現実的に存在します。これはそうした表象像が存在しなければ,このことを肯定すること自体が不可能ですからそれ自体で明らかでしょう。一般的にいえば,僕たちがある事柄を肯定しまた否定するためには,その肯定や否定の対象となるものが観念として存在していなければならないからです。念のためにもしもこのことを『エチカ』に訴えるなら,第二部公理三を利用することができると思います。
 この表象像は,表象の種類でいうならば,知覚であるというよりは想起であるといった方がいいでしょう。実際に僕たちがこのことを肯定するときにイメージするのは,かつて自分が排尿を我慢しようとしていたときの自分の精神であり,自分の身体であるといえると思うからです。しかしこの想起という表象像の中には,同時に必ず排尿を我慢することを肯定するような意志作用が含まれています。これも,この場合に僕たちがイメージしているものがそうした状況にある自分の精神であるということからそれ自体で明らかだといえるでしょう。
 つまり,排尿を我慢している自分自身の身体の想起の表象像,すなわち観念と,これを肯定する意志作用は,常に同時に僕たちの精神のうちにあるということになり,しかも一方がなければもう一方が,もう一方がなければ一方が,表象することができないような関係にあるといえるでしょう。つまりこの観念と意志作用は同一のものであって,単にそれをどのような観点からみているかにすぎないということが,このことのうちに含まれているといえると思うのです。

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さきたま杯&平行論の経験的証明

2010-05-26 19:15:46 | 地方競馬
 かきつばた記念の再戦模様となったさきたま杯
 サプライズゲストが逃げを宣言していましたが,実際に先手を奪ったのはスリーセブンスピンの方。スマートファルコンは出足があまりよくありませんでしたが3番手まで押し上げ,これをマークするようにスーニ。最初の600mは35秒7で,さほどではありませんがハイペース。
 向正面中ほどで出し抜けを食わせるようにスーニが一気に動きましたが,スマートファルコンはきちんと対応。このペースアップで2頭と後ろが大きく離れ,マッチレースと思わせましたが,直線に入ると先に動いたスーニの脚が上がり,これを尻目にスマートファルコンが4馬身の差をつける圧勝。ずっと内を回ってきたノースダンデーがぐんぐんスーニに迫りましたが,これはわずかに届かず,スーニが2着は確保し,ノースダンデーは3着まで。
 優勝したスマートファルコンかきつばた記念からの連勝で,重賞はこれが節目の10勝目。このレースは昨年も制していて連覇。斤量差はありますが,今日は勝ちにきた相手を突き放すかなり強い内容。完全に休養前の力を取り戻していますし,あるいはさらに力をつけているのかもしれません。今後の路線に注目です。父はゴールドアリュール
 騎乗した岩田康誠騎手は一昨年もこのレースを制していてこれが3連覇となるさきたま杯3勝目。管理している小崎憲調教師は連覇でさきたま杯2勝目です。

 排尿を我慢する人間の身体的運動がどのような秩序によって獲得されるのか,これは諸個人によって異なりますので具体的な仕方では説明できませんが,一般的な意味においては,少なくともそうした習得が可能であるということについてはこれで証明することができました。そしてこのことは,人間の精神がいかなる秩序によって排尿という運動を我慢する意志作用を有するようになるのかということもまた,少なくとも一般的な仕方では明らかにすることができたということを意味します。なぜならこの意志作用というのは,実際に排尿という運動を我慢している自分自身の身体の知覚を肯定する思惟の様態であり,したがってこの身体と平行論における同一個体であるということがすでに明らかになっているからです。
 そしてこのことは,経験が僕たちに示していることとも合致しています。すなわち,僕たちが排尿を我慢する意志作用を意識するとすれば,実際にそのとき,僕たちの身体は排尿を我慢する何らかの運動をなしているからです。逆に,もしも自分の身体の内部にこの運動が生じていなければ,僕たちは排尿を我慢しようという意志作用を有することはないでしょう。
 同様のことが尿意の場合にも妥当しているといえます。すなわち,僕たちが尿意を覚えるのは,実際に僕たちの身体のうちに,もちろんこれも個人差があるわけですが,ある一定の量以上の尿が溜まっている場合に限られているのであって,そうでない場合には僕たちが尿意を感じるということはないからです。
 このように,いかに意志という思惟の様態と自分の身体のある状態という延長の様態との関係おいて,一方が他方に対して原因であったり結果であったりし得ると誤解している場合があったとしても,実は経験論が教えるところは,平行論という論理が正しいということなのであって,それが誤謬であるということではありません。そしてこのことが,知性と意志が同一であるという第二部定理四九系で主張されていることもまた,教えてくれているのではないか僕は思うのです。
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取手記念&スピノザ的スピノザ

2010-05-25 19:05:06 | 競輪
 自転車競技の全日本プロ選手権があった関係でしばらくお休みだった記念競輪も先週の土曜から再開。その取手記念は今日が決勝(動画)でした。
 並びは古屋に伏見-成田の福島,岡村に大内,金子-東口の中部近畿,小川-紫原の福岡。
 前受けが金子で3番手に古屋。6番手に小川で8番手が岡村という周回。残り2周のホームに入るところで小川から上昇。金子を叩くと続いた岡村がさらに叩き,バックではこれを古屋が抑えて打鐘から先行。一列棒状の中,小川がインを上がり岡村の後ろ,5番手に。岡村がバックから捲っていくも車間を開けていた伏見が満を持して発進。そのままマークの成田を引き連れて優勝,福島のワンツー。3着にはコーナーでインを突いた紫原。
 優勝した福島の伏見俊昭選手はずっとコンスタントに走っていますが昨年5月の風光る以降は1年強グレードレースの優勝はなく,記念競輪はその前,3月のいわき平記念以来となる通算23勝目。優勝できていなかったのはたまたまで,力が衰えたとかそういうことではありません。ここは有力選手の欠場や脱落があり,決勝のメンバー構成からは大本命。無風で番手を回って当然の優勝ではありますが,そのわりには成田に意外と詰め寄られたという印象です。

 あくまでも部分的にではありますが,この排尿の秩序付けに関連していると思われるある論考があります。それは田島正樹さんの「スピノザ的スピノザ」という論文で,これは現代思想の1987年9月号の特集スピノザの中に収録されています。
                   
 田島さんは別に排尿ないしはこれを我慢する運動について述べているわけではなくて,一般的な人間の身体の運動能力,といってもこれはピアノの演奏なども含めた意味での運動能力の人間の身体による獲得について説明しているのですが,これを幼児の言語習得過程と対比させ,さらにこの人間の身体の運動能力の習得と同様のことが,人間の精神による知覚能力の習得にもいえるということを示しています。
 このことを現在の僕自身の考察に関連させていうならば,人間がある外部の物体の刺激によって排尿という運動をなすことを習得し,その結果として,そうした刺激を受けないうちは排尿を我慢する運動をなすことを習得するということと,人間の精神がトイレを代表とするようなある外部の物体を知覚することによって排尿という運動をなしてもよいと判断ないしは意志したり,逆にそうした外部の物体を知覚しないうちは排尿を我慢するべきであると判断あるいは意志するということは,それぞれが同じ様式によって説明することができるということになります。そしてこれはまさにここで秩序の獲得として説明してきたことに合致しているといえるでしょう。
 正直にいますと,「スピノザ的スピノザ」というこの論文に関しては,僕は部分的にはそのまま肯定することができないところもあります。ただ,この運動能力ならびに知覚能力の獲得について説明している「身体は観念を表現する」という章に関しては確かに田島さんのいわれている通りであると思いますし,この部分は僕がここで展開している考察の理解の助けにもなるだろうと思います。
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オークス&排尿の秩序付け

2010-05-23 19:05:27 | 中央競馬
 牝馬クラシック2冠目の第71回オークス
 好発はアグネスワルツでしたがこれを制してニーマルオトメの逃げ。先頭と2番手,2番手と3番手はやや開いてのレース。ショウリュウムーンが今日は早めの3番手。好位勢の直後にアプリコットフィズ。オウケンサクラとサンテミリオンはこれらの後ろの中団で,これを見るような形でアパパネ。最初の1000mは60秒6。今日の馬場状態を考えればかなりのハイペース。
 直線に入るとすぐにアグネスワルツが先頭に。これをサンテミリオンが追い掛け,交わして先頭に立つと外からアパパネ。脚色はアパパネがよく,事実一旦は先頭に立ったと思うのですが,ここから馬体が合うとサンテミリオンが差し返し,ほとんど並んだままゴール。長い長い写真判定となりましたが,結果は日本の大レース史上初の1着同着。アグネスワルツが3着に粘りました。
 アパパネ桜花賞から連勝で大レース3勝目。距離が不安視されましたが,同世代の牝馬相手ということで,能力で相殺された格好。逆にいえばそれだけ高い能力を持っているということだと思います。父はキングカメハメハ。馬名はハワイ棲息の鳥。
 サンテミリオンは今年1月のデビューから連勝。フラワーカップを3着に負け桜花賞出走はならなかったもの,オークストライアルのフローラステークスを制していました。一旦は交わされてからの巻き返しで,非凡な勝負根性であると思います。父は2004年JRA賞年度代表馬のゼンノロブロイ。馬名はフランスの地名。
 アパパネに騎乗したのは蛯名正義騎手。桜花賞以来の大レース制覇でオークスは1999年以来の2勝目。管理している国枝栄調教師も桜花賞以来の大レース制覇で,オークスは初勝利。
 サンテミリオンの鞍上は横山典弘騎手。先週のヴィクトリアマイルに続く2週連続の大レース制覇。オークスは初制覇。管理しているのは古賀慎明[まさあき]調教師はこれが大レース初制覇です。

 現実的にいいますと,,すなわちある人間の身体を何らかの秩序に従って運動ないしは静止に決定するようにする様式は,現在の考察の対象としている排尿という運動に関連する場合には,この運動を我慢することを秩序付けるというよりは,むしろこの排尿という運動自体とある外部の物体,具体的にいえばそれはたとえばトイレということになりますが,その知覚を秩序付けていくことだといった方がいいかもしれません。この知覚と排尿という自分の身体の運動とが一定の秩序を形成していくにしたがって,この知覚が生じない場合には,身体は自然と排尿という運動を我慢するようになっていくからです。いい換えればこの運動を自然に習得していくようになるのです。
 もっとも,排尿自体にせよこれを我慢することであるにせよ,こうした運動は人間の身体がなす延長作用であり,知覚というのはそれに対しては人間の精神がなす思惟作用であるということになりますから,第三部定理二に準拠してより正確にこれをいい表わすならば,たとえばトイレを代表するような外部の物体からの自分の身体に対する刺激と,排尿という運動を秩序付けていくことが躾であるといった方がいいかもしれません。
 人間の身体がこのように秩序付けられ得るということについては,たとえば各人における表象像の連結の相違を説明した第二部定理一八の備考とか,表象の動揺について説明した第二部定理四四の備考などは,直接的にこれに言及しているわけではありませんが,身体の秩序付けが行われ得ないならばこうしたことは可能ではないといえますから,スピノザの考え方とは齟齬を来すということはないでしょう。表象はあくまでも思惟作用ではありますが,第二部定理一八系の証明にあるように,人間の精神がどんなものであれ何かを表象する場合には,それと同一個体であるとみなされなければならない何らかの運動がこの人間の身体のうちに生じているからです。要するにこれは,ある事柄を延長の属性のもとで説明するのか,それとも思惟の属性のもとで説明するのかの相違にほかならないと思います。
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順位戦展望&躾

2010-05-22 19:11:33 | 将棋トピック
 第68期名人戦は羽生善治名人が4連勝で三浦弘行八段を降して防衛。これにより第69期順位戦に参加する棋士が決まりましたので,例年のようにクラスごとに展望してみます。
 A級。ここはだれが挑戦者になっても不思議ではないですし,逆にいえばだれが降級してもおかしくありません。僕の注目はいよいよここまで上がってきた渡辺明竜王と,復帰してきた久保利明二冠です。
 B級1組。ここは深浦康市王位が本命。力では佐藤康光九段が続くと思いますが,前年の回顧に著したような理由で苦戦することも考えられ,その場合には参加1年目で昇級争いに加わった松尾歩七段の出番でしょうか。
 B級2組。ここは半分くらいの棋士は上のクラスにいてもおかしくないと思えますので今期も,若手,中堅,ベテランが入り混じっての大混戦でしょう。個人的な期待は阿久津主税七段で,戦いぶりに注目したいのは連続昇級中の戸辺誠六段です。
 C級1組。ここは広瀬章人五段,宮田敦史五段,村山慈明五段,豊島将之五段といった,将来を大いに嘱望される若手による昇級争いになるような気がします。というかなってほしいです。
 C級2組。大所帯で対戦相手に大きく左右されるクラス。糸谷哲郎五段,稲葉陽四段,佐藤天彦五段といったあたりは将来のA級候補ではないかと思うのですが,ひとりくらいは上がれるでしょうか。
 全日程が終了しましたら回顧する予定です。

 ここでいう幼児期を脱しますと,人間の身体は排尿という運動をある場合には我慢するようになります。というか,そのように排尿を我慢するようになることをここでは幼児期を脱することと規定しているわけです。そのときに,いかにして人間の身体というのがそういう排尿を我慢する運動というのを獲得していくのかということについては,厳密に考えるなら,一人ひとりによってその獲得の秩序は異なっていますので,これをそういった意味で具体的に示すということはできません。ただ,一般的にはこうしたことは躾といわれていて,人間が躾をされる様式というのが異なる分だけその獲得の秩序は異なってきますし,仮に完全に同一の躾をされたとしても,個人個人の身体の本性が異なる分だけこの運動の獲得の秩序も異なってくるでしょう。『エチカ』でいえばこのことは岩波文庫版113ページの第二部自然学②公理一から明らかだといえますし,第三部定理五六とか第三部定理五七の感情に関する考え方からも,スピノザの哲学に適した考え方であると思われます。
 そこで躾というのを一般的に定義すれば,これは人間の身体の運動を,各々の秩序に沿うように変化させるということであるということになります。こうしたことが可能であるのは,再び岩波文庫版117ページの,第二部自然学②要請三に示されている理由によるでしょう。いい方を変えますと,ある物体が,多くの個物によってその全体を組織されていればいるほど,その物体は外部の物体によってそれだけ多くの仕方で刺激されることが可能になります。よってそういった物体ほど,新たな運動を獲得し得る,ないしは獲得しやすいということができるのだろうと思います。したがって,人間に躾ということが可能となっているのは,同じページの第二部自然学②要請一にあるように,人間の身体が,それ自体が複雑な組織によって構成されている数多くの個体によって組織されている,きわめて複雑な物体であるからだといえることになると思います。
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東京プリンセス賞&幼児期

2010-05-21 19:09:46 | 地方競馬
 桜花賞馬と2歳女王の対決という図式になった昨晩の第24回東京プリンセス賞
 内のピエールパピヨンを抑えてギンガセブンの逃げ。ピエールパピヨン,スクロヴェーニ,アヴィニヨンと続き,ショウリダバンザイとプリマビスティーは並ぶように後方3,4番手。最初の800mは48秒4。不良馬場でスピードが出やすいということもあったでしょうがこれは超ハイペース。
 先行集団の直後にいたスターオブジュリアが早めの競馬で直線入口では2番手。さらに直線に入ると逃げ粘るギンガセブンも交わして先頭へ。漸進してきたショウリダバンザイがこれを目標とするように上がってきて,少し馬体を離しての叩き合い。さらに後方に控えていたトーセンウィッチがこの2頭の間に入り,ゴール前でぐいっと出て優勝。外のショウリダバンザイが2着で内のスターオブジュリアが3着。
 優勝したトーセンウィッチはJRAデビュー。6戦して勝てずに昨年暮れに南関東転入。転入初戦は4着でしたが,その後に2連勝してクラシック路線で戦ってきました。やや展開面で恵まれた面はあり,レースの内容からも能力はショウリダバンザイの方が上のような印象ですが,うまくチャンスをものにして南関東重賞を制覇しました。父はキングカメハメハ
 ここは主戦の船橋の張田京[たかし]騎手の騎乗。昨年暮れの東京シンデレラマイル以来の南関東重賞制覇。東京プリンセス賞は1999年以来となる2勝目。管理している船橋の川島正一調教師は開業4年目で南関東重賞初制覇となりました。

 まずは赤ん坊ないしは幼児期の人間の身体について考えてみます。もちろん自分のその当時のことについては,それが記憶に残っているという人は,仮にいたとしてもごくごく少数ではあるでしょう。しかし経験的観点というのは,必ずしも自分自身の経験が記憶として現前するかどうか,つまり表象の種類でいえば想起できるのかどうかということが重要なのではありません。むしろ対象となる事柄,この場合でいえば赤ん坊とか幼児期の人間の身体というのがいかなるものであるのかということについて,何らかの観念があるということが重視されます。なんとなればそうした観念さえ有しているならば,自分自身にはその経験がないという場合でも,経験論というのは有効です。これはたとえば失禁について考えてみれば明白であって,別に失禁した経験がないからといって,失禁を対象として物事を考えるということが,経験論的な価値を失うわけではありません。自分自身にその経験がないことでも,その観念の対象を自分自身と結び付けて考えることができるのなら,経験論は必ずや有効でしょう。そして失禁と同様に,赤ん坊とか幼児期という観念を,自分自身の観念と連結することができない人間がいるとは僕には思えないのです。
 現在の考察に合わせていうならば,ここでいう赤ん坊とか幼児期の人間の身体というのは,排尿という運動を我慢することがない人間の身体ということになります。実際に,人間は少なくともある時期まで,この運動を我慢しないということについては,異論は出ないでしょうから,ここではこのように規定しておきます。そして排尿という運動を我慢しないということは,身体のうちに一定の量以上の尿が蓄積された場合には,ただちにその尿が身体の外部に排出されるということを意味します。この運動は,もしも幼児期の人間の身体のうちに排尿の観念があると仮定するなら放尿ということになり,それがないということであれば失禁のうちの第2ないしは第1のタイプとなるわけですが,これはどちらであると考えてもらっても構いませんので,ここではそれ以上は追及しないことにします。
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女流王位戦&後天性の根拠

2010-05-20 19:21:57 | 将棋
 互いに小ミスを繰り返す終盤の競り合いを挑戦者が制して開幕した第21期女流王位戦第二局。
 対局開始直後から駆け引きがありました。清水市代女流王位の初手は▲2六歩が圧倒的に多いのですが本局は▲7六歩。甲斐智美女王の△3四歩に▲6八玉(第1図)と上がりました。
                
 これは△5四歩からのごきげん中飛車を許さない指し方で,作戦でしょう。
 第1図で後手を持ってどう指すかは人によって考え方が分かれるでしょう。僕ならば△8四歩と突き,もしも先手が▲7八金を急いで駒組みするようなら陽動振飛車も視野に入れるというように考えてみたいです。
 甲斐女王は△9四歩を選択。先手の▲9六歩を見て△4四歩と角道を止め,オーソドックスな三間飛車へ。僕は思いつきませんでしたがこれも一理ある指し方。というのは三間飛車に対しては居飛車穴熊が有効な作戦ですが,9筋の突き合いがあるので先手は穴熊に組みにくい意味があるからです。△4四歩に対する先手の▲2六歩も大事なところで,こうしておかないと△3二飛に▲2五歩が間に合わず,後手に石田流に組まれてしまいます。
 将棋はこの後,先手が5筋位取りというこれまたクラシカルな戦法を採用。対して後手がすぐに飛車を5筋に転換してその位を目標にして戦いへ。このあたりは後手がうまくやったように思います。その後,先手の命運を託したような端攻めの前に一時的には危ないところもありましたが,最後は鋭い決め手で後手が制しています。
               
 これは龍を1九から引いたところですが,僕には即座には意味が分かりませんでした。しかし▲9四歩に△7七香という妙手がありました。甲斐女王の最近の充実ぶりを表す一手であったと思います。
 甲斐女王が2連勝。このままここもストレートで奪取となるのでしょうか。第三局は来月2日です。

 第三部定理二の考察の最後に,補足として,排尿の価値観に関してスピノザの哲学から注釈を加えました。このとき,完全性という価値観からみれば,排尿という運動自体は,それが失禁であろうと放尿であろうと,同様の意味で人間の完全性を示す運動であり,対して排尿を我慢する運動の方は,そういった意味での完全性を示すことはなく,したがってある人間が排尿を我慢する力が著しく弱いような場合でも,そのゆえにその人間がほかの人間よりも不完全であるということはできないと結論しました。人間が一般的に現実的本性としてなす力と,個々の人間が現実的本性によってなす力とは異なると考えられるからです。これは,人間が先天的なものとしてなす力と,後天的に獲得したなす力は異なっているという意味になりますから,このことは現状の考察と大いに関連しているといえるでしょう。
 排尿を我慢する運動の秩序の獲得が後天的なものであるということは,実はこの秩序の獲得の仕方や様式には,個々の人間によって差異があるということを示しています。このことは経験的にもはっきりとしていて,この秩序を容易に獲得する人間もいれば,この秩序を獲得するのが困難な人間もいるわけです。また,早いうちからこの秩序を獲得する人間もいますし,なかなかこの秩序を獲得することができない人間もいます。失禁の分類の具体例でいえば第1のタイプに属するおねしょについて考えるのが分かりやすいかと思いますが,物心がついてからはおねしょなどはしたことがないという人間もいるでしょうし,かなり遅い時期まで,あるいは成人した後でもおねしょをするという人間もいます。個々の人間身体がなし得ること,すなわちこれがスピノザの哲学における力ということになりますが,これは個々の身体が異なるだけ異なっているわけですから,このことだけをもってしてある種の身体は完全であり,別の種の身体は不完全であるといならば,なし得る事柄が異なるだけ完全と不完全が生じることになってしまい,完全の意味は成立しなくなってしまいます。
 一方でこうした事実自体が,ある人間身体が排尿という運動を我慢するなら,この運動は人間の身体の本性に組み込まれているのではなく,この人間が獲得した秩序であるということを示しているように思います。つまり論理的に考えても経験的に考えても,身体が排尿を我慢する秩序は後天的に獲得されるものであるということになるでしょう。
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大井記念&秩序の獲得

2010-05-19 20:43:47 | 地方競馬
 最近の南関東重賞としてはかなりの好メンバーでの争いになった大井記念
 好発からランキングの逃げ。マズルブラストが2番手。大体の位置取りが決まったのは1周目の正面に入ってからで,セレンは内の6,7番手あたりで,ボンネビルレコードがその直後。さらにその後ろがルースリンド。最初の1000mは62秒8で,この距離のわりには遅くならず,ミドルペース。
 ランキングの逃げは3コーナーまで。マズルブラストが交わして先頭に出ましたが,さらに外からグラストップガンがこれを楽々と交わしていき直線へ。これらの動きを見て外に持ち出したセレンが追われると,あっさりとグラストップガンを捕まえて優勝。直線も最内をぐいぐい伸びたボンネビルレコードが2着に上がり,一旦は抜け出したグラストップガンが3着。
 優勝したセレンは昨年12月の勝島王冠以来の南関東重賞3勝目。末脚で勝負するタイプの馬で,とりこぼしと思える負け方もありましたが,ここはわりといい位置につけられ,力で他を圧倒したといったところ。距離は本来はもう少し短い方がいいのだろうと思います。今後も活躍が期待される1頭で,どこかで重賞制覇を成し遂げてほしいものです。父はマーベラスサンデー
 騎乗した船橋の石崎隆之騎手は勝島王冠以来の南関東重賞制覇。大井記念は2003年以来の4勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師は初の大井記念制覇です。

 もしも人間の身体が排尿という運動を我慢するような作用を,単純にそうした運動としてのみとらえ,この因果関係の連結を調べようとするならば,これはその人間の身体の物体的運動にのみ還元されます。おそらくこれはある筋肉の収縮運動のようなものと思われ,したがってこの運動の原因となるものがいかにして同じ身体のうちに発生するのかということが,この運動自体の因果関係の説明であるということになるでしょう。実際のところは僕はこうした分野に関してはまったくといっていいほどその基礎的な知識すら欠けていますから,筋肉の収縮運動という表現自体も正しいといえるのかどうか不明ではありますが,いずれにしてもこうした事柄は生理学という学問が明らかにするべきものであって,哲学的な課題ではないように思います。スピノザが第二部自然学で,ごく簡単に物体の基本的な事柄にのみ触れて,それ以上のことを探求しなかったのには,もちろん時間的な余裕がなかったということもあるでしょうが,もちろんこの場合は生理学に限らず物理学のような自然科学全般の課題ということにはなりますが,そうした学問の課題であるという理由もあったからだと思います。したがって,この原因と結果の連結については,この考察でもこれ以上の深入りはしません。
 ただ,こうした運動が発生する秩序に関しては別です。というのも,排尿という運動を我慢するということは,一般的な意味における人間の本性には属しません。これは排尿という運動自体が自己保存の法則に則った運動であるという点から,第三部定理七によって明らかであるといえるでしょう。したがって,排尿という運動の方は,一般的な意味で人間の現実的本性の一部を構成すると考えられるのですが,排尿を我慢するという運動の方はそうではありません。
 もしもある事柄が,現実的に存在するあるものの本性に属するのであるなら,それはそのものの本性に先天的に備わっているものであると考えることが可能です。つまり排尿という運動の場合にはそのように考えても,正しいかどうかはまた別かもしれませんが,構わないわけです。しかし排尿を我慢する運動の方はそのように考えること自体が認められませんので,個々の人間が後天的なものとして獲得する事柄であるということになります。問題はこの獲得の秩序にあるといえるでしょう。
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シンガポール航空国際カップ&身体の秩序

2010-05-17 19:29:39 | 海外競馬
 日本時間昨夜10時前,シンガポール航空国際カップGⅠがあり,日本からは2007年のこのレースの覇者であるシャドウゲイトと,昨年の札幌記念でブエナビスタを降して優勝したヤマニンキングリーの2頭が渡航しました。
 動画にはありませんが,シャドウゲイトはゲートに入った後で暴れてしまい,外傷を負ったとのことで競走除外。走ったのはヤマニンキングリーのみ。後方外目の位置取り。4コーナー手前では最後尾に下がり,何の見せ場もないまま最下位に敗退しました。
 シャドウゲイトは2007年に勝った後,かなり調子を落としていましたが最近になって復調。年齢的に当時と同等の力まで戻っていたかどうかは分かりません。しかし2007年と今年では段違いで今年の方がメンバーが強く,同じだけの力を取り戻していたとしても,勝ち負けまでは難しかったのではないかと思います。ただ走れなかったのは非常に残念。ヤマニンキングリーは能力的にはシャドウゲイトよりも劣ると思われますので,最下位はともかく,勝負に加われなかったこと自体は仕方がないのではないでしょうか。
 勝ったのは南アフリカのLizard's Desire。ドバイワールドカップ,クイーンエリザベスⅡ世カップと連続して2着だった馬で,初のGⅠ勝ち。ここは展開が両レースよりも向いた気がします。

 こうした一般的帰結を得ることができれば,これを現在の考察と絡めることによって,今度は次のように考えていくことができます。
 スピノザの哲学を特徴づける平行論における同一個体というのは,第二部定理七により,原因と結果の連結と秩序は完全に一致します。したがって僕たちはAについて考える場合に,Aを形相的なもの,といっても人間が認識する形相的なものは第二部公理五により物体だけですから,Aを物体ないしは物体の延長作用,すなわち運動あるいは静止という観点から考えても,あるいはAを客観的なもの,要するにAの観念あるいはこの観念が観念であるかぎりおいて含んでいる肯定である意志作用として考えても,さらにはAを人間が意識するもの,つまり観念の観念として考えても,結局のところ同一の結論を得ることができるということになります。これは第二部定理七の備考の中でスピノザが述べていることと同じです。
 そこで,これまで,我慢の秩序というのを客観的なもの,すなわち意志作用として考えてきたのですが,これは人間の身体のある運動と考え,その観点から考察しても構わないということになります。実際のところ,人間の精神によるある種の外部の物体の知覚は,経験的な観点からいって,確かに人間が排尿という運動を我慢する意志作用ないしはこの意志作用によって肯定される観念の部分的原因となっているということについては疑い得ないものの,しかしなぜある種の知覚はこの意志作用の部分的原因となるのかということをきちんと論理的に示すことはそうも容易いことではありません。そこで今度はこの点について観点を変え,我慢というのを人間身体の秩序として考えていくことにします。おそらくこの方が,いかなる秩序によって我慢という運動が人間の身体のうちに生じ,そして人間の精神はこの自分の身体の状態を知覚するのかということを,より簡単に,理解しやすい方法で説明できると思われるからです。
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ヴィクトリアマイル&一般的帰結

2010-05-16 19:11:04 | 中央競馬
 現役牝馬2強の4度目の対戦となったヴィクトリアマイル
 ベストロケーションが逃げてこれにブラボーデイジーが絡み,この2頭で後ろを少し引き離す展開。レッドディザイアは10番手前後,ブエナビスタはその2,3頭後ろからの追走。前半の800mは45秒5で,最近のレースからすればハイペースかもしれませんが,極端なものではありません。
 ここのところの東京競馬場は飛ばしていってもそんなには止まらない馬場状態。このレースも前の2頭がかなり粘りましたが,力尽きたところで抜け出したのは先行勢の後ろからレースを進めていたヒカルアマランサス。これに大外に持ち出したブエナビスタが襲い掛かり,捕えたところでゴール。3着は大接戦でしたが,ブエナビスタと前後する位置からうまく内目を捌いてきたニシノブルームーンでレッドディザイアは4着まで。
 優勝したブエナビスタは前々走の京都記念以来の7勝目。大レースは昨年のオークス以来の4勝目。ここは力量は最上位。現状はおそらくもう少し距離があった方がよく,そのために苦しい位置取りとなったものと推測されますが,最後はその力を見せつけた形。牡馬を相手にしても活躍が期待されます。父はスペシャルウィーク,母はビワハイジ,祖母がアグサン。馬名はスペイン語で絶景。
 鞍上は横山典弘騎手で昨年のマイルチャンピオンシップ以来の大レース優勝。管理している松田博資[ひろよし]調教師は昨年のオークス以来の大レース優勝。ヴィクトリアマイルは共に初制覇です。

 ここまでの考察により,次のことまではすでに明らかになっています。
 まず,自分の身体の排尿という運動を我慢する観念は,実際に自分の身体が排尿という運動を我慢している状態の知覚です。いい換えればこの両者は平行論における同一個体の関係にあります。よって実際にこの運動が自分の身体のうちに生じないのであれば,この観念はこの人間の精神のうちに生じることがありません。逆にもしもある人間の精神のうちにこの知覚が生じているなら,この人間の身体は実際にこの運動をなしているということになります。これは膀胱に一定以上の量の尿が溜まった身体の状態と,その人間の精神によって知覚される尿意という観念との間でも同じです。僕たちがそれを意志作用としてではなく,観念自体として意識するのは,尿意の方ですから,経験的には後者の方が理解しやすいでしょう。
 次に,排尿を我慢することを肯定する意志作用というのは,排尿を我慢している自分の身体の観念を力という観点からみた思惟の様態です。いい換えれば,この両者は同じ思惟の様態です。よって,この意志作用と排尿を我慢している自分の身体も同一個体であるということになります。したがってこの意志作用もまた,実際に身体が排尿を我慢するという運動をなす場合にしかこの人間の精神のうちに生じません。そして逆に,ある人間の精神のうちにこうした意志作用が生じる場合には,この人間の身体は実際に排尿を我慢しているということになります。
 したがってこのことから,一般的に次のことが帰結します。ある延長の様態AとAの観念は同一個体であり,さらにAの観念を肯定する意志作用もAと同一個体です。したがって実際にある人間の身体のうちにAがなければこの人間はAを知覚したり意志したりしません。そしてある人間の精神のうちに自分の身体のうちのAの知覚や意志作用が生じる場合には,この人間の身体のうちに実際にAが生じているということになります。
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ナイスランディング&経験的観点

2010-05-15 19:14:41 | 血統
 先日の天皇賞を勝ったジャガーメイルの曽祖母はナイスランディングという馬で,この馬がジャガーメイルの日本での母系祖先にあたります。ファミリーナンバー1-w
                     
 この系統からの大レースの勝ち馬は初。これまでのこの一族最大の活躍馬は,僕の競馬キャリアの中でも初期に重賞を4勝したイクノディクタス。重賞4勝のうち3勝が5歳のときにあげたもので,この年,1992年にはJRA賞の最優秀古馬牝馬に選出されています。大レースは勝てなかったものの,翌年には安田記念でヤマニンゼファーの,宝塚記念ではメジロマックイーンの,それぞれ2着になりました。
 イクノディクタスとジャガーメイルは同じ一族とはいえ,両馬の日本での母系祖先となるナイスランディングで初めて祖先が一致しますので,関係としてはかなり遠め。ジャガーメイルにわりと近いところでは一昨年のスワンステークスなど重賞2勝をあげている同い年のマイネルレーニアがいて,この2頭はそれぞれの母が姉妹ですので,従兄弟という関係になります。
 イクノディクタス以降は,この一族からはマイネルレーニアまで重賞の勝ち馬が輩出しませんでした。しかしすぐにジャガーメイルが登場したわけで,競馬ではこういう場合にはさらに活躍する馬が続出するというケースもあります。これからしばらく,この一族を出自とする馬たちには注目の必要があるかもしれません。

 論理的に考えますと,なぜ僕たちは尿意は観念それ自体として,逆に我慢の思惟の様態についてはそれを意志作用として意識するのかは,仮説めいたものを立てることができるだけであって,僕の手には負えない難問です。ただ,論理的な面を重視せずに,経験的な側面からのみこのことを考えるなら,次のように考えるのも僕にはリアルに感じられます。
 僕が第三部定理二を経験的な角度から分析したのは,一般的には人間は自らの意志によって自分の身体をある運動ないしは静止に決定できると思い込んでいるけれども,それは誤りであるということを例示するためでした。しかしこの思い込みが,このことと大きく関係しているように考えることができるのです。
 僕たちが排尿を我慢する意志作用を精神のうちに有するのは,我慢の秩序によります。すなわち尿意以外の外部の物体の知覚がこれと大きく関係します。これをこの知覚によるひとつの判断,と考えるなら,それは現時点の状況下においては排尿をなさない方がよいという判断になるでしょう。そこで例の思い込みにより,排尿を我慢する意志作用というのを強く意識するようになるのです。つまりこの意志作用によって排尿という運動をなさないように自分の身体を決定できると思い込むからです。
 逆に,このときに尿意を観念としてではなくむしろ意志作用として意識すれば,すでに説明したようにこの意志作用は排尿という運動を肯定しますから,この意志作用によって身体は運動に決定され,実際にそこで排尿という運動をなしてしまう,つまり排尿の分節でいえば放尿をすると思い込むことになります。これは前述の判断と矛盾しています。よって人間はこの場合には尿意を観念として意識し,意志作用としては意識しないということになるのです。
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女流王位戦&理由

2010-05-13 19:56:00 | 将棋
 二冠を死守したい清水市代女流王位に,二冠を目指す甲斐智美女王が挑戦する第21期女流王位戦五番勝負の第一局。対戦成績は清水女流王位が5勝,甲斐女王が2勝。
 振駒で甲斐女王の先手。先手中飛車,後手居飛車の対抗形はこうなれば予想された通り。持久戦に進展しました。
                
 ここからようやく本格的な戦いに突入。後手は△9五歩と催促。先手は▲7五歩。△6六歩▲同銀としてから△8四飛と受けたのに対し,▲8五歩△同桂▲8九飛。△9六歩の取り込みに▲8五飛△同桂▲同桂で先手は桂得しながら飛車交換。後手は△6七歩の垂らしを入れ,▲8一飛△6九飛と打ち合い,先手は▲2六桂(第2図)と設置しました。
                
 得した桂馬を急所とされる地点に打ったわけですが,この手は急ぎすぎで,△6八歩成を受けておく方がよかったとのこと。戦いになっても元の流れを持続させておいた方がこの場合はよかったということになり,将棋というのは本当に難しいものだと思います。
 実戦はこの後,双方が決定的な決め手を与えないような指し方で大混戦に。最後は徹底抗戦で埋め尽くされた後手陣の駒を,手筋も駆使して剥がすことに成功した先手が勝っています。
 甲斐女王が先勝。この方がシリーズ自体は面白くなったといえるのではないでしょうか。第二局は20日です。

 僕たちが尿意意識する場合にはそれを観念として意識し,逆に排尿という運動を我慢することを意識する場合にはむしろそれを意志作用として意識する理由は何かということは,今回の考察を少し離れるかもしれませんが,ひとつ興味深いことではあります。そこで単に意識のレベルの面だけでもこのことを考えてみたいのですが,しかしそれがはたしてなぜなのか,はっきりとしたことはわからないというのが僕の正直なところです。
 ただし,次のように考えることはできると思います。人間の身体にとって排尿という運動は,自身の完全性を維持する行為,いい換えれば自己保存の法則に適合した行為です。したがって僕たちはそれを意識する場合には,これを力として意識する必然性はあまりないということになるでしょう。この場合には僕たちにとっては,自分の身体がどのような状態にあるのかということを知ること,意識することが重要なのであって,それがどのような力であるのかということを知ることは,それに比べれば重要ではないからです。
 一方,排尿を我慢するということは,第一義的に考えるなら,自己保存の法則に反します。いい換えればこれは自然の法則に反した行為であるといえます。もちろん僕たちははっきりとした理由,つまり具体的に我慢の秩序として説明され得るような秩序によってこうした運動をなすわけですが,この場合には観念としてはそうした秩序の背景としてあるような事柄が意識されることが重要で,第二部定理九で説明されるような観念の連結は,そのゆえにそうした力が発揮されなければならないという方向に進んでいくでしょう。したがってこの場合には,我慢することはそれ自体の観念としてより,そうした意志作用として意識される方が自然であるということになります。
 これはひとつに説明の仕方であって,正しいと主張しようとしているわけではありません。論理的には個々の観念と個々の意志作用とは同一のものだということがすでに明らかになっていますから,この点についてはそもそも今回の考察は正しい解答を必要とはしていないということもまた事実であると思います。
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川崎マイラーズ&意識

2010-05-12 20:59:44 | 地方競馬
 川崎に移籍して地元では初の出走となる白毛のユキチャンが注目を集めた川崎マイラーズ
                  
 先行したいと思われる馬が多く,展開の予想も困難でしたが,サプライズゲストがわりとすんなりと逃げました。ヴァイタルシーズが2番手で,その後ろにユキチャンとイーグルショウ。前半の800mは48秒3。ハイペースに近いミドルペースといったところでしょうか。
 ヴァイタルシーズは向正面で脱落。ユキチャンも4コーナーを回るところでは遅れ始め,前4頭の直後につけていたクレイアートビュンが3番手に。軽量のサプライズゲストがかなり粘りましたが,最後は力でねじ伏せるようにイーグルショウがこれを捕えて優勝。サプライズゲストが2着で3着にクレイアートビュン。
 優勝したイーグルショウは新馬,特別と連勝するなど,早くから期待は集めていた馬。しかし2歳,3歳と思うようにレースを使えず,昨年になってようやく順調さを取り戻し,今年になって上級条件でも好走するようになっていました。南関東重賞はこれが初制覇ですが,軌道に乗ってきましたので,もう少し活躍できるのではないでしょうか。父は重賞2勝のスエヒロコマンダー
 騎乗したのは主戦の大井の坂井英光騎手。2月のユングフラウ賞以来の南関東重賞制覇。このレースは今年が2回目で初制覇。管理している大井の山藤統宏[さんとうもとひろ]調教師はこれが初の南関東重賞制覇です。

 意識と無意識の関係は観念と観念の観念という関係になるわけですが,実はこのことが,今回のテーマである第二部定理四九系で示されている,知性と意志とが同一のものであるということ,あるいはもっと具体的にいうなら,個々の観念と個々の意志作用とは同一であるということを,一般的に理解させにくくしているのではないかと僕は考えています。というのも,僕たちはあることを考えるという場合には,必ずそれを意識して考えます。というか,どんなことであれ,それを意識しなければ考えることはできないといった方がいいかもしれません。ところが僕たちはある事柄を意識する場合には,観念の形相,要するにこれがスピノザも第二部定理二一の備考でいっているように観念の観念ということになるのですが,このように観念をあるひとつの形相としてみる場合には,まさに観念を形相として意識する場合もあれば,むしろ観念を力として意識する場合もあるからです。いい換えれば,観念を観念として意識する場合と,観念を意志作用として意識する場合とがあるのです。そして大抵の場合,意識はあるひとつの事柄に集中しますから,この両者を同時に意識することはあまりないといえるでしょう。
 たとえば僕たちが自分自身の尿意という観念を明確に意識するとき,これを僕たちはまず観念として意識すると思います。実際に僕たちが意識する尿意というのは,自分の身体に一定の量以上の尿が溜まった状態,ないしはその溜まった尿を自分の身体が排出しようとしている運動の観念なのであって,そうすることによって自分の身体の現実的本性を維持ないしは向上しようとする自己保存の力としては意識しません。僕が尿意を意志作用としてではなく観念として規定したのもこうした理由によります。
 一方,排尿を我慢する場合には,僕たちはむしろこれをそうした力として,つまり我慢することの肯定として意識するでしょう。これを自分の身体が排尿という運動を我慢しようとしている状態の観念として意識することは,経験的に考えてもないだろうと思います。
 しかしこれはあくまでも意識のレベルの話です。観念と意志とが同一であるということは,むしろこうした意識からは離れ,ある無意識のレベルで考えなければならないのです。そうしないと,知性と意志が同一であるということは理解できないでしょう。
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