スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

朝日杯将棋オープン&観念の永遠性

2023-02-24 19:53:44 | 将棋
 有楽町朝日ホールで指された昨日の第16回朝日杯将棋オープンの決勝。対戦成績は藤井聡太竜王が14勝,渡辺明名人が2勝。
 振駒で藤井竜王が先手となり,渡辺名人の雁木。先手の棒銀という戦型になりました。
                                        
 第1図から☖7五歩と攻めていったのですが,これが拙速であったようです。
 ☗5五歩☖7六歩☗8六角☖5五歩☗7四歩☖8五桂☗6四角☖同銀という手順で角交換に進み,その瞬間に☗7三角と打たれました。
                                        
 これは取るほかありませんが,先手は駒損ながらと金を作ることに成功。このと金がすぐに後手玉を寄せるのに役立つわけではないのですが,後手の飛車を押さえ込んで先手の上部が厚くなったのが大きく,後手が攻めることが難しくなりました。なので第2図は先手が焦らずに着実に攻めていけば勝ちが近づいてくるという局面となっているようです。第1図では後手は何か手を渡すような手を指さなければいけなかったようです。
 藤井竜王が優勝。第11回.12回,14回に続き2年ぶり4度目の朝日杯将棋オープン優勝です。

 主体の排除との関係で何度かいっていることですが,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるという場合は,この観念の形相formaは神DeusのうちにあるXの十全な観念と同一です。このことは汎神論と関係しているのであって,現実的に存在するAという人間の精神のうちにXの十全な観念があるということは,Aの精神の本性essentiaを構成する限りで神のうちにXの十全な観念があるということなのです。いい換えれば,神がAという様態的変状modificatioに様態化した限りで,神のうちにXの十全な観念があるということなのです。
 この様式で説明される限りでのXの十全な観念は持続するdurareといわれる存在existentiaと解さなければなりません。なぜならAは現実的に存在する人間と仮定されていて,その存在の継続は限定されるからです。要するにAが死んでしまえばAの精神は現実的に存在することを停止するのであって,したがってその一部を構成するXの十全な観念も存在することをやめます。よってXの十全な観念は持続するものであって,永遠aeternumであるわけではありません。ただ,これはこの様式で説明される限りでのことです。確かにAが存在することをやめればAの精神のうちにあるXの十全な観念は存在することをやめるでしょうが,だからといってそれは,Aの精神のうちにあったXの観念が十全な観念であることをやめて混乱した観念idea inadaequataになることを意味しているわけではありません。たとえAが死んでも,Xの十全な観念はXの十全な観念なのであって,この限りではXの十全な観念は永遠です。つまり,現実的に存在するAがXを十全に認識するcognoscereというのは,Xを永遠のものとして認識するというのと同じ意味でなければなりません。これは現実的に存在する人間が事物を十全に認識するすべての場合に該当するのであって,共通概念notiones communesそのものを認識するときも,共通概念に基づいて理性ratioによる推論を行うときも,また第三種の認識cognitio tertii generisによって個物res singularisを認識するときにも妥当します。このことは第二部定理四四系二第五部定理二九から明らかだといわなければなりません。一方,十全な観念が存在することをやめるような要因としては,ここで説明したこと以外には考えられません。
コメント
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