スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋聖戦&神

2017-06-02 19:16:04 | 将棋
 淡路島で指された昨日の第88期棋聖戦五番勝負第一局。対戦成績は羽生善治棋聖が1勝,斎藤慎太郎七段が0勝。
 振駒で斎藤七段の先手。矢倉の出だしから後手が急戦,先手が早囲いを含みに進めていき,クラシカルな形の先後同型に落ち着きました。昔の相矢倉らしい攻め合いになりましたが,分かれは少しだけ先手に分があったようです。
                                     
 後手が☖7七歩と垂らして先手が取った局面。ここで☖7五角といったのはこれしかない手だったようです。
 先手は☗同歩と取ったのですが,☗同角と取った方がよかったようです。また,感想戦の手順と実戦のこの後の展開を総合すると,ここでいきなり☗4四角としてしまうのも有力であったかもしれません。
 後手は☖8六歩と突いて先手は☗同歩と取りました。ここでも☗4四角はあったという感想が残っています。後手は☖6七歩と打ちました。
                                     
 先手はここで☗4四角として詰ましにいきました。実戦の手順は少しややこしくなったのかもしれませんが,逃れていました。☗同飛と取ってから☖7六銀に☗4四角の方が難しかったようです。勝ちと思っていたようなので仕方がありませんが,結果的に☗4四角のタイミングが勝敗を分けることになった一局だったといえそうです。
 羽生棋聖が先勝。第二局は17日です。

 現代の日本人の読者にとっては有益なスピノザの哲学の入門書がいくつもあります。ですからスピノザの哲学の入門書として『スピノザの哲学』を講読することは僕はお勧めしません。当然ながら現代の入門書はある程度の歴史が踏まえられた上で書かれたものですから,入門書として読むなら新しいものの方が有益であると僕は考えるからです。むしろ日本におけるスピノザの哲学の研究を歴史的に把握しようとする場合に読むことをお勧めします。というか,そういう意図を有しているなら桂の著作は読まなければならないとさえいえると思います。
 とはいえ,僕は桂の記述については,2点ほど気になるところがありました。なのでそれについては僕の考えを記しておくことにします。
 第二章第三部の中に,スピノザの哲学では神Deusが一切の原因causaであり管理者であり操縦者であると考えられているという主旨に読める記述があります。このうち,神が一切の原因であるというのはその通りであって僕も同意します。しかし,管理者とか操縦者というとき,桂が何を意味しようとしているかを別にすれば,僕はこのようないい方は誤解を産出するだろうと思います。というのもこのいい方は明らかに神を人格的に理解する方向に思惟Cogitatioを推進させると思うからです。たぶん僕たちが普通にイメージするような意味においては,神は管理者でも操縦者でもないと僕は考えます。
 スピノザが神というとき,それを十全に理解する上で欠かせない要素はふたつあると僕は考えています。ひとつは第一部定義六でいわれているように,神が絶対に無限な実有ens absolute infinitum,無限に多くの属性から成っている実体substantiam constantem infinitis attributisであるということです。このことは神の存在existentiaと関わります。第一部定理一一第三の証明が明らかにするように,この定義Definitioそのものから神が必然的にnecessario存在することが帰結するからです。この場合,神の存在が人間の存在と,思惟の上では切り離せることになります。
 もうひとつは第一部定義一で,本性が存在を含むものcujus essentia involvit existentiamが自己原因causam suiであるといわれるとき,神だけが自己原因であるという点です。このことは神の本性essentiaと関係します。この場合には神の本性と人間の本性が切り離せません。
コメント
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