スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

オレの人生・プロレス・旅&第一部定理一五備考

2014-05-31 18:51:04 | NOAH
 馬場が残した馬場自身の資料としては,ほかに『オレの人生・プロレス・旅』があります。
                         
 これは1998年の12月にジャイアントサービスから出版されたもの。馬場は1999年1月31日に亡くなっていますので,死の直前に出版されたということになり,遺作といっていいでしょう。
 著者は馬場ですが,馬場の死後に評論家の菊池孝が明らかにしたところによれば,制作にあたっては菊池が手伝ったそうです。菊池は自身の役目は話の引き出し役で,5回から6回,2時間から3時間ほど会ってテープを回したといっています。ただ,テープを起こす際に何も手伝わなかったとは考えにくく,実際は馬場が語った事柄を菊池が再構成したものと考えた方がよいように思います。『王道十六文』のあとがきで,馬場は菊池だけ個人名を出して感謝の念を書いていますので,菊池が馬場の著書の出版を手伝うのは,以前からあったことだと考えられます。
 自伝的内容ですが,いわゆる自伝とは大きく異なります。この本は時系列にはなっていないからです。16の題材をテーマとして,時系列とは無関係に馬場がそれについて語っています。そのテーマとは順に高校野球,プロ野球,日本プロレス,酒,麻雀,全日本プロレス,日本の旅,稼ぎ,アメリカの旅,煙草(葉巻),ギャンブル,ゴルフ,アザー・スポーツ,食事・甘いもの・コーヒー,喧嘩,読書・音楽・絵です。
 馬場が一人称でそれらについて語るという構成になっています。テーマとの関係から,ここでしか明らかになっていないような内容も多くなっています。また,古くから親しくしていた記者を相手に話したものという性質から,ざっくばらんというか,とてもくだけたものになっていて,読みやすさという点では一番かと思います。
 記録的な価値という意味ではそれほど高いとはいえないかもしれません。ただ馬場の人間性は,最もよく表れているといえるのではないでしょうか。

 無限であるものはすべからく永遠性を有するということ。これはスピノザの哲学のテーゼとして成立すると僕は考えています。たとえば第一部定理一三系というのは,そのことを暗に示していると考えられるからです。
 この系は,第一部定理一五備考で言及されることになります。スピノザはそこで,物体的実体が有限であり,分割可能であると考える著作家たちに対して,反論を試みています。そしてそうした著作家たちの見解が,どのような基礎の上に成立しているかを説明します。その基礎とは,無限である量を仮定することではありません。むしろ無限なる量が測定可能であり,なおかつそれが有限な部分から組織されていると仮定することなのです。これを受けてスピノザは次のようにいっています。
 「無限なる量は測定可能ではなくかつ有限な部分から成りえない」。
 この言明は,無限というのはある量なのではあるけれども,それを測定することは不可能であるというように読解することができます。しかし僕の考えでは,このテクストをそのように理解するのは危険です。もしもある事物が量であるならば,それは必ず分割可能であると理解されるおそれがあるからです。したがってこのテクストが述べているのは,無限というのは測定不可能な量であるというように解するよりも,端的に無限とは量ではないと解する方が安全なくらいで,量的概念によって考えられ得ないというのが真の意味でしょう。逆にいえば,もしもある事物が何らかの量的概念によって十全に認識され得るならば,その事物は無限ではない,つまり有限であるということになります。
 このテクストをこう読解すれば,無限であるものが永遠であるということが必然的に帰結すると僕は考えます。なぜなら,無限であるものがもしも永遠性を有さないと仮定するならば,それはある持続のうちに説明されなければなりません。しかし持続というのは明らかに量的概念だからです。つまりある事物が持続の相の下に認識されるなら,その事物は無限ではないのです。同様に時間でも空間でもなんでも,量的概念によって認識可能であるものは,すべからく無限ではありません。つまりそれは有限であるということになります。
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MEGAMI&一義性の相違

2014-05-30 19:17:27 | 歌・小説
 同じようにカタルシスを得ることができ,曲調やテンポに似通った部分があるとしても,聴いたり口ずさんだりすることで刺激される感情には,それぞれ相違があります。これは『エチカ』の第二部定理一六からの必然的な帰結。僕の場合,「鳥になって」なら悲しみに強く刺激され,「肩に降る雨」でも悲しみに刺激されますが,同時に希望とか勇気といった類の感情にも刺激されます。これに対して「泣きたい夜に」は愛に刺激されるので,明らかに系統の違いがあると感じています。第三部定理五一は,こうした刺激状態が僕に特有であり,だれにでも該当するわけではないということを示します。ただ僕自身,同じようにカタルシスを得ることに成功していても,実際に得ているそれは,異なったものなのでしょう。ただ,どのように異なっているのかということは,僕自身もよく理解できていませんし,まして説明することはとてもできないのです。
 愛に刺激されるという意味では,「泣きたい夜に」よりもさらに強くその感情を喚起させられるものがあります。それが「MEGAMI」です。回数でいえば「泣きたい夜に」には及ばないでしょうが,こちらも数多く聴いています。
                         
 この楽曲はさびとなる部分がハイライトで,確かにその部分で愛が喚起されるといえます。ただフレーズとして僕が好きなのは別の部分です。

  どのみち短い 眠りなら
  夢かと紛う 夢をみようよ


 あるいは2番の同じ部分。

  どのみち終わらぬ 旅路なら
  夢とも知らぬ 夢をみようよ


 題名もそうなのですがこの歌には神話的な味付けがなされているように感じます。学生時代のある授業の試験に,神話をひとつ作成せよというものがあったのですが,僕はそのときに中島みゆきの楽曲を参考にしました。これはその中の一曲で,その点でも僕の個人的な思い出に残っています。

 第一部定理二一証明でスピノザが用いている実例は,直接無限様態の永遠性を証明する際にだけ言及されているのではありません。直接無限様態の無限性を証明するときにも使われています。したがって,直接無限様態が無限であるといわれるとき,スピノザはその無限性を,属性の無限性と一義的に把握していたと僕は理解しています。第一部定理二二は第一部定理二一と同様の訴訟過程で証明されるのですから,このことは間接無限様態にも適用されます。つまりこの部分は,なぜ僕が無限の一義性を神およびその属性だけからではなく,無限様態も含めた上で解釈するのかということの根拠ともなっています。
 ただし,『エチカ』の読解という点に関していうならば,永遠の一義性と無限の一義性には相違があってもおかしくはないとも僕は考えています。というのも第二部自然学②補助定理七備考のテクストは,明らかに延長の属性の間接無限様態は,それ自体が無限に多くの個物res singularisによって組織されているひとつのres singularisであると読解できるような内容になっているからです。つまりこの部分に依拠するのであれば,無限の一義性から無限様態,少なくとも間接無限様態を排除するという読解にも,一理あるといわなければならないでしょう。
 これに対して,永遠性に関しては,これと類似するようなテクストは,『エチカ』のどこを探しても存在していないように僕には思えます。ですから永遠の一義性から無限様態を排除する読解を許容するような要素は,『エチカ』のうちにはないと思うのです。むしろ第一部定義八説明のテクストというのは,そのような理解を許容しないということを強調するようなテクストであるように僕には感じられます。
 したがって,永遠の一義性に関する僕の結論というのは,僕自身の中では確固たるものであることになります。そこでこのことが,無限の一義性の把握のあり方に関して,どのような影響を及ぼしてくるのかということを,ここで詳細に考えておくことにします。
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宮廷人と異端者&実例

2014-05-29 19:11:09 | 哲学
 スピノザとライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの関係をまとめ上げたものとして,マシュー・スチュアートの『宮廷人と異端者』があります。日本語訳を担当しているのは「スピノザのマテリアリスム」の桜井直文と『概念と個別性』の朝倉友海。
                         
 1976年11月のライプニッツのスピノザ訪問が主題。第一章と第十二章がそれに充てられています。第二章から第十一章まではそれまでのふたりの人生が中心。偶数章がスピノザで奇数章がライプニッツ。第十三章以降は,スピノザ訪問後のライプニッツに焦点が集中。ですから全体の分量からいえば,スピノザよりもライプニッツに対する言及の方が多くなっています。
 著者はいわゆる専門の研究者ではありません。1990年代半ば,経営コンサルタントとしてオランダに滞在しているとき,スピノザとライプニッツに関して何かを書いてみようと思い立ったとのこと。最初はそれを小説にしようと思い,そのうちに戯曲の方がよいのではないかと思い始め,最後には映画の脚本にするのがベストだと考えたとのこと。その後,アルカイダによるアメリカに対するテロ攻撃が勃発。アメリカの政治がその後に神権政治的方向に走り始めたと感じたとき,スチュアートはスピノザとライプニッツの出会いに思いを至らせ,このことを何の脚色も加えずに,事実そのものとして呈示するのがよいだろうと構想。こうして2006年にこの本が出版されることになりました。日本語版の刊行日は2011年11月30日です。
 上記のような構想の下に書かれたものなので,事実だけを呈示しているといいながら,ドラマ仕立てになっているという印象は残りました。部分的にはふたりの会見を盛り上げるための,ある程度のフィクションが混在していると前提した方がいいと思います。
 僕はライプニッツには詳しくないので,その一端を知る上で大いに役立ちました。そもそもスピノザが異端者といわれる理由は分かっていましたが,ライプニッツが宮廷人といわれなければならない理由すら,僕はよく知っていなかったくらいです。ただ,ライプニッツを見る視点に,やや悪意がこもっているような印象が残ったのも事実です。

 僕は永遠の一義性は神Deusとその属性attributum,そして各々の属性の無限様態modus infinitusから把握されるべきだという考えです。まずその根拠を示します。
 第一部定理二一証明で,スピノザは神の観念というのをひとつの実例として示します。これは神が有する神自身の観念という意味で,思惟の属性の直接無限様態である無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusのことです。この定理において証明されるべき事柄が何かという観点から,このように理解しなければ,こうした実例を出す意味がありません。その上でスピノザは,この無限知性は属性によって,ここは正確には思惟の属性Cogitationis attributumによってというべきですが,永遠であると証明を結んでいます。
 ここには,無限知性は思惟の属性という原因によって永遠aeterunusなのであり,属性がその本性によって永遠であるのとは異なるという意味合いを見出すことも可能です。これはちょうど,実体substantiaおよび属性と,無限様態の無限性の由来の相違にある関係と同一です。しかしこと永遠性aeternitasという点にのみ着目するならば,無限知性と思惟の属性は同じ意味で永遠であるといわれていると解さなければなりません。そうでない限り,無限知性は思惟の属性によって永遠であるという言明自体,意味を失ってしまうからです。したがって思惟の属性の永遠性と無限知性の永遠性を,スピノザは一義的に解釈していたと僕は考えます。
 無限知性は具体例のひとつです。この定理は一般に直接無限様態が永遠であることを証明するための定理です。よって一般に,各々の属性の永遠性とその属性の直接無限様態の永遠性を,スピノザは一義的に把握していたという解釈が成立します。
 次に第一部定理二二証明は,第一部定理二一証明と同一の仕方で進められるとだけスピノザはいっています。ということは,当然ながら間接無限様態の永遠性に関しても,スピノザはその間接無限様態が様態化している属性の永遠性と一義的に理解していたといわなければなりません。
 第一部定理二三は,これ以外の仕方では無限様態は発生しないことを示しています。したがっていかなる無限様態の永遠性も,神およびその属性の永遠性と一義的に理解されるべきだと僕は結論します。
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農林水産大臣賞典さきたま杯&永遠の一義性

2014-05-28 19:12:25 | 地方競馬
 最近の交流重賞は力量差が明白と思えるレースも多いのですが,今日の第18回さきたま杯は,12頭のうち9頭は勝って不思議ではない能力があると僕には思えるメンバーでの難解なレースになりました。
 ナイキマドリードは揉まれ弱く,内枠に入ると逃げるケースが多くなりますが,ここも2番枠から先導。すぐ外をセイントメモリーが追い,タガノジンガロも続きました。あとはインからセイクリムズン,ノーザンリバー,ダノンカモンの3頭。最初の600mは36秒0でハイペース。
 向正面で外からトキノエクセレントが進出。そのままスピードを緩めずにコーナーを回り,捲りきる形になって先頭に。わりと差が開きましたが,さすがに直線は一杯。外からノーザンリバーがぐんぐんと追い込み,ゴール直前で捕えて優勝。トキノエクセレントはクビ差で2着。ずっとインを回るレースになったセイクリムズンが2馬身差の3着。
 優勝したノーザンリバーは先月の東京スプリント以来の重賞4勝目。混戦メンバーでしたがその中で実力最上位と思われたのがこの馬で,そういう意味では順当な勝利。前走も2着とはいえ差は僅かだったように,非常に安定して走っています。現在のこの路線の中心的存在であることは間違いなく,取りこぼすことがあったとしても,大きく負けることは考えにくいのではないでしょうか。父はアグネスタキオン,半兄に2011年のエルムステークス,2012年のダイオライト記念,2013年の浦和記念,今年の佐賀記念を勝っている現役のランフォルセ。甥に2009年のJRA賞最優秀3歳牡馬のロジユニヴァース
 騎乗した蛯名正義騎手と管理している浅見秀一調教師はさきたま杯初勝利。

 因果性Xが持続duratioの相に属することの論拠は,松田自身が示したものではありません。僕が再構成したものです。ですからその根拠から僕が自身の見解の正当性を主張し,松田の誤りを指摘したとしても,独善的であるといわれかねません。実際には松田には,僕が気付かなかった有力な論拠が別にあるかもしれないからです。なのでこの部分の論争に関しては,一歩だけ譲ってみます。
 松田は因果性Xを持続の相に属すると主張し,僕はそれは,分類するなら永遠の相species aeternitatisに属さなければならないと考えます。因果性Xというのは,神Deusの属性attributumから無限様態modus infinitusが発生する因果性です。僕と松田の間にあるこの乖離は,無限の一義性をどう把握するのかということに関する,僕と朝倉や福居との間にあった乖離と非常に似通っているといえます。僕が解するところでは,朝倉も福居も,無限の一義性を神あるいはその属性の無限性に依拠して解釈し,無限様態の無限性をそこからは除去します。これに対して僕は,無限様態も含めた上で,無限を一義的に理解するべきであるという考え方です。これに倣っていうならば,僕と松田との間には,永遠の一義性という観点において,はっきりとした断絶があるといえるのではないでしょうか。つまり永遠の一義性というものを,松田は神の永遠性および属性の永遠性のみによって解釈し,無限様態の永遠性に関しては,そこから削除します。いい換えれば第一部定義八に示されるものを実在的にいうならば,それは神とその属性だけであり,無限様態はそれには該当しないと考えます。それに対して僕は,無限様態もまた第一部定義八でいわれている永遠性aeternitatemを有するような実在であり,したがって永遠性は,神とその属性だけによってではなく,無限様態まで含めた上で一義的に解釈されるべきであると考えるのです。
 朝倉流と福居流は,無限様態を個物res singularisに類するものと把握するべきであるという前提です。res singularisを永遠であると規定することはおそらく不可能であるだろうと僕は思います。ですから永遠の一義性に関しては,朝倉も福居も松田と同じ立場であると理解するべきでしょう。
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別府八湯ゆけむりカップ&定義からの帰結

2014-05-27 19:04:46 | 競輪
 全プロがあったので2週間ぶりとなった別府記念の決勝。並びは及川-菊地の北日本に立花,後閑-木暮-山下の関東,菅原-小野-小倉の西国。
 スタートを取った後閑の前受け。4番手に菅原,7番手に及川で周回。残り2周のホーム入口で,菅原が山下との車間を開けて及川を牽制。及川はホームに入ってから発進。菅原は飛びつきを狙っていたのかもしれませんが失敗。前で待っていた後閑が立花をどかして3番手に割り込んで打鐘。ここから菅原が発進し,ホームでは及川を叩きましたが小野が離れたため単騎に。バックから後閑が発進。遅れていた小野が木暮の横まで追い上げていたこともあり,これも単騎の捲りに。小野の後ろから小倉が後閑にスイッチし,小倉の後ろを菊地が追う形になり直線。小倉もある程度は差を詰めましたが,粘った後閑が優勝。1車輪差の2着が小倉。2車身差の3着が菊地。
 優勝した東京の後閑信一選手は昨年9月のオールスター競輪以来のグレード制覇。記念競輪は2011年10月の京王閣記念以来で通算21勝目。別府記念は1997年の前節を優勝していて17年ぶりの2勝目。オールスターを優勝した後は苦しんでいたのですが,前の開催あたりから調子を取り戻しているように見受けられ,この開催もそれを維持できているようでした。この年齢で自力で勝負するというのは並大抵のことではなく,それだけにいつもいつも良い結果を残すというわけにはいかないでしょうが,体調さえ整えばまだまだやれるということを証明してみせましたので,優勝回数はまだ増やしていくことが可能であるように思います。

 無限様態の永遠性第一部定義八から理解するためには,無限様態がこの定義に該当するような事物であるかどうかを確認しておかなければなりません。つまり無限様態の永遠性というものが,無限様態の定義のみから帰結するということを確かめておく必要があるでしょう。
 スピノザは事物の定義と事物の本性を等置します。この点だけに注目するなら,それ自身の本性からそれ自身の存在が帰結するものだけが,永遠性を有すると解されなければなりません。この場合,無限様態は永遠であることは不可能です。第一部定理二三が示しているのは,直接無限様態は神の絶対的本性を原因として存在し,間接無限様態は直接無限様態を原因として存在するのであり,これ以外のいかなる仕方でも無限様態は存在しないということだからです。いい換えれば無限様態は外部の原因によって存在するのであり,それ自身の本性によって存在するのではありません。なのでこの点を重視するなら,僕がいっていることよりも松田がいっていることの方が正しいということになります。
 ただし,確かにスピノザは事物の定義とその事物の本性を等置するのですが,事物の定義の要件としては,その事物の本性と発生が含まれているということを示しています。この条件に依拠するならば,無限様態の定義には,その無限様態の発生が含まれるということになります。そしてこの場合の発生が含まれるということを,僕はその存在が含まれるということだと理解します。したがってこの観点からは,無限様態の定義には,無限様態の存在が,何らかの仕方で含まれる筈です。そしてこのように無限様態が定義される限り,その定義からは無限様態の永遠性が必然的に帰結すると僕は考えます。このように理解できるなら,僕のいっていることが正しく,松田のいっていることが誤りであるということもできるでしょう。
 スピノザは実際には無限様態に定義を与えていませんので,何ともいえないのは事実です。ただ第一部定義八で,その本性から存在が帰結するものを永遠とはいわず,その定義から帰結するものが永遠であるとしたことには,この点へのスピノザの配慮があったものと考えます。
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王位戦&無限様態の永遠性

2014-05-26 22:28:25 | 将棋
 第55期王位戦挑戦者決定戦。公式戦初対局。
 振駒で千田翔太四段の先手になった将棋は,互いの駆け引きから相早囲いの相矢倉。しかし中盤で千日手に。
 入れ替わって木村一基八段が先手での指し直し局は時間があったので久々にみっちりと観戦。横歩取り△8四飛に。
                         
 これはよくある局面で,△2二銀と上がるのが普通ですが△2四歩と打ったのでいきなり手将棋に。▲8七歩△9四歩▲4八銀に△6二玉と,こちらに囲う構えを見せました。ただ先手は過剰に意識せず応対したので,後手の玉型以外は部分的にありそうな形へと進展。
                         
 先手が後手の飛車を7筋に呼んで角を交換した局面。△同桂と取りました。横歩取りでは桂馬で取るのは形ですが,この場合は△2四歩と打った手を咎められる可能性があるので,指しにくいような気がします。あるいは先手としても目論見が外れたかもしれません。△8八歩があるので▲7七桂。以下△6四角▲8六角△7四飛▲6四角△同飛▲8六飛△8四歩▲3八金△2五歩と進展。さすがに後手には不本意な展開と思えましたが,先手も局面をはっきりさせるのはまだ難しそうに感じていました。
                         
 ここで▲8三角と打った手はまったく考えていなかったのですが,好手でした。すんなりと馬を作られては後手はじり貧ですので動くほかありません。△2四飛▲5六角成△2六歩▲2八歩△4五角に▲4六馬。ここから△2七歩成▲同歩△同角成▲3四歩△3八馬▲2四馬△4五桂まで,検討していた手順のひとつでした。
                         
 ここで▲3三歩成と成り捨てたのはまたまったく考えていなかった手で,俄かには意味もよく分かりませんでした。△同銀に▲4六馬と引いたので,催促する意味だと理解しました。△4九金▲5九銀△同金▲同王△4八銀▲6九王△5七桂成は後手としてもこう迫るしかないような順。しかし▲6八銀と上がって,先手は盤石になりました。
                         
 以降は反撃に転じた先手が,鮮やかに後手玉を寄せて勝っています。
 木村八段が挑戦権を獲得第50期王位戦以来のタイトル戦出場で,初のタイトル獲得を目指します。

 第一部定理二二の方を見てみましょう。ここでは間接無限様態について言及されています。そしてスピノザは,それが常に存在するとはいっていませんし,永遠であるともいっていません。必然的に存在するといっているだけです。
 この必然的necessariusという語句が,必然の第一のタイプに該当することは,僕には間違いないと思えます。だとしたらスピノザは,間接無限様態は永遠であるという代わりに,必然的であるといったことになります。さらにここでは,時間経過を示す常にという語句は用いられていません。したがってこの定理のこの部分は,間接無限様態は第一部定義八でいわれている意味において永遠であると解釈するのが妥当だと考えます。
 間接無限様態が永遠であるなら,直接無限様態も永遠でなければなりません。第一部公理四が成立するのは,結果の完全性は原因の完全性に依存するからです。そして間接無限様態は直接無限様態を原因として起成する結果です。なので間接無限様態が永遠であり,直接無限様態は無限定に持続するものであるなら,結果の完全性が原因の完全性を上回ることになります。第一部定義八説明での,永遠性と無限定な持続の峻別の仕方からして,永遠であるものの完全性が無限定に持続するものの完全性を上回ることは間違いないからです。
 第一部定理二一と定理二二から考える限り,直接無限様態も間接無限様態も永遠である,第一部定義八の意味で永遠であると考えるのが妥当だと僕は結論します。つまりスピノザは,無限定に持続するものに永遠という誤った形容をしたのではありません。永遠であるものに常に存在するという誤った形容をしたのだと僕は理解します。
 蓋然性から考えても,このように理解する方が安全だと思います。第一部定義八説明では,スピノザは永遠性と無限定な継続とを,明確に峻別しています。だから松田は永遠の相と持続の相を,数的に区別が可能なふたつの相として分節するのです。そうであるなら,スピノザが無限定に継続するものについてそれを永遠であるという可能性は低く,もし誤るとすれば,永遠であるものを常に存在するという可能性の方が高いのではないでしょうか。
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優駿牝馬&論拠

2014-05-25 18:51:59 | 中央競馬
 牝馬クラシック第2戦,第75回優駿牝馬
 逃げたのはペイシャフェリス。エリーザベストとマイネグレヴィルが追走。マジックタイム,バウンスシャッセ,ブランネージュまでが差なく好位を形成し,向正面に入るとマーブルカテドラルもこのグループに加わっていきました。これらの直後がヌーヴォレコルトで,ハープスターは後方3番手。前半の1000mは60秒7でスローペースとはいえ,僕が思っていたよりも流れました。
 直線に入るところで馬群が凝縮。そして内から外に広がっていきました。直線の半ばあたりまで,まだどの馬が勝つのか分からないような状況でしたが,前にいた馬たちの外に出てきたヌーヴォレコルトがまず抜け出し,そのまま先頭を譲らずにゴール板を駆け抜けて優勝。1頭だけ他馬とは関係のない大外を追い込んだハープスターがクビ差で2着。内から馬群を捌いてきたバウンスシャッセがさらにクビ差で3着。
 優勝したヌーヴォレコルトはこれが重賞初制覇となる大レース優勝。とはいえ一連のクラシック路線で上位に入っていましたので,単勝でも2番人気の支持を集めていました。2着馬は別格のレースをしたわけで,レースセンスの差で今日は上回りました。3着馬とは直線の半ばまで同じ位置にいたのですが,こちらが外でしたのでスムーズに抜け出せたのに対し,相手は内からさらに馬群を通り抜けなければならないレースになり,着差が着差ですから勝負のポイントとしては意外と大きかったかもしれません。マイルでも対応していましたが,距離が長い方が持ち味を生かしやすいように思います。父はハーツクライ。はとこに昨年の優駿スプリントアフター5スター賞を買っている現役のハードデイズナイト。Nuovo Recordはイタリア語で新記録。
 騎乗した岩田康誠騎手は昨年末の香港スプリント以来の大レース制覇。国内ではスプリンターズステークス以来。オークスは初勝利。管理している斎藤誠調教師は2007年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース2勝目。

 因果性Xが持続duratioの相に属する理由について,松田自身は詳しい説明を与えていないので,松田が指摘している事柄から,おそらくこうであろうと思われる論拠を,僕が再構成することにします。
 第一部定理二一は,直接無限様態が常に存在すると弁じています。そしてこのことが,直接無限様態が永遠に存在するということであるということは,この定理Propositioから一読して明らかであるといわなければなりません。しかるに常にというのは,継続する時間tempusの中で常であるということを意味します。つまりそれは属性attributumの内部,いい換えれば持続の相において常にという意味なのであり,属性の外部,永遠の相species aeternitatisにおいては妥当しません。別のいい方をすれば,あるものが永遠であるのならば,そのものは常に存在するとはいわれ得ない筈なのです。したがってここで直接無限様態が永遠であるといわれていることの本当の意味は,持続の相において常に存在するということなのであり,第一部定義八に示される永遠性aeternitasとは異なります。むしろここでスピノザは,第二部定義五で持続が無限定な継続といわれるとき,現実的に無限定に継続するもののことを,永遠と形容しているにすぎないことになります。
 松田の主張の要点は,おおよそ上述したようなものになるであろうと予想されます。そしてこのうち,常にという語句が,永遠であるもの,第一部定義八で永遠性を有するといわれているものに対しては相応しい形容ではないという点は,僕も同意できます。たとえば昨日も今日も明日もという具合に,いつでも存在するものが常に存在するといわれるべきであるのに対し,ある事柄が昨日も今日も明日もという具合に,常に真理veritasであるからそれが永遠の真理であるといわれるべきではないと僕は考えるからです。
 しかしこの論拠には,はっきりとした弱みがあるともいえます。というのは,このことのうちには,スピノザが無限定に継続するものに対して永遠という誤った形容をしたということを示す根拠が薄弱であるといえるからです。というのも逆に考えれば,スピノザは永遠であるものに対して常に存在するという誤った形容をしたのだと理解することも可能だからです。
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襖&難点

2014-05-24 19:14:28 | 歌・小説
 Kの自殺の理由は,先生との恋の争いに敗れたからではないと僕が解釈している根拠は,襖に関連するテクストの読解からです。そしてこの襖というのは,『こころ』ではこの部分だけでなく,象徴的な意味で重要な役割を果たしているように思います。
                         
 奥さんの拒絶を振り切ってKを同居させたとき,先生はこの屋敷の最も広い八畳間を下宿部屋として与えられていました。そしてここには控えのような四畳間が付属していました。先生は八畳間にふたつの机を並べてKと同居し,控えの間は共有にする腹積もりでした。しかしKは狭くてもひとりでいたいと言い,控えの四畳間を自分の部屋としました。このためにふたりは襖を挟んで同居することになったのです。
 この襖は物語の中で何度か開閉されます。その極致が下の三十五から三十七にかけて。Kがお嬢さんへの恋心を先生に告白する場面です。奥さんもお嬢さんも不在の日の午前10時ごろ,Kは不意にこの襖を開けます。しばらく敷居の上に立っていたKは,つかつかと先生の座敷に入り,本心を先生に打ち明けたのです。Kの話が終ったとき,先生は茫然として何もことばを発することができませんでした。
 午後になり,正気を取り戻した先生は,自分もお嬢さんへの好意をKに告白するべきであると思いました。しかし閉じられている襖を自分から開けるということができず,Kがまた開けてくれるのを待つだけでした。しかしその襖が開くということはなかったのです。
 このことから理解できるのは,各々の部屋は各々の心の内部を象徴し,襖を開くという行為は,自分の心のうちを見せることの象徴なのです。Kが自殺の決行前に襖を開けたのは,先生が起きているかどうかを確かめるためであり,また,先生を第一発見者にするためであったと推測されます。しかし象徴的な意味では,自殺するときに,Kは少しだけ自分の心のうちを先生に見せようとしたのだとも読解できます。
                         
 襖にこの種の象徴性を見出すのは,僕に特有の読解ではありません。一例として『反転する漱石』の「眼差としての他者」をあげておきます。

 因果性Xは属性が無限様態を産出する因果性です。ですからそれは属性の外部にあるということは不可能です。なぜならもしもそれが属性の外部にあるとしたら,原因であるものに「先立つ」ような形で因果性があると主張することになるからです。作出原因causa efficiensが,自己原因を概念としてそのうちに含むと仮定したとしても,原因と結果があるからそこに因果性があるのであり,このような主張は第一部公理三に反しているといわなければなりません。したがって因果性Xは属性の内部にあることになります。つまり因果性Zと因果性Aとは数的に区別されなければならない因果性であり,逆に因果性Bとは数的に区別することが不可能な因果性です。別のいい方をすれば,因果性が永遠の相と持続の相によって数的に区別されるとき,因果性Xは持続の相の因果性に属することになります。
 ところが,第一部定理二一と二二を見ればすぐに分かるように,スピノザは無限様態は永遠であるといっています。つまり永遠であるものを産出する因果性が,永遠の相に属することはできず,持続の相に属さなければならないということが,松田の結論には含まれていることになります。これが僕がいったこの結論の難点です。
 松田自身はこの難点に気付いています。そしてそれをどう解決するべきかも示しています。しかしそれは「二重因果性の問題」の本論のうちにではなく,欄外の脚注として,ロラン・カイヨワの表現に依拠するという,ごく簡単なものです。
 難点にも気付いているし,解決策も示してはいます。でも僕は松田のこの手法には疑問というか不満を感じます。松田はスピノザの哲学を形而上学的見地から構成することを全体として目指しています。しかも第一部定義八説明でスピノザが永遠性と無限定な持続を峻別することを,その見地の重要な要素のひとつとして呈示しています。そうであるならば,無限様態が永遠であるとスピノザがいうとき,なぜそれを永遠の相に属するものではなく,持続の相に属するものと解するべきであるのかということを,もっと詳細に説明するべきではなかったかと思うのです。
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スピノザとライプニッツ&因果性X

2014-05-23 19:05:52 | 哲学
 ヨハン・デ・ウィットが好戦的な反動的勢力に扇動された民衆によって虐殺されたことを知ったスピノザが,抗議の紙を貼りに行こうとして大家に止められたというエピソードは,スピノザとデ・ウィットの関係についてエントリーしたときの冒頭に示したように,『ある哲学者の人生』では,スピノザがライプニッツに話した内容であるとされています。
                         
 ライプニッツは1646年産まれ。スピノザがアムステルダムで産声をあげたのが1632年ですから,14という年の差がありました。スピノザが匿名で『神学・政治論』を刊行したのが1670年。この翌年,1671年にライプニッツはスピノザに手紙を書いています。これがライプニッツからスピノザに出された最初の手紙であったようです。
 スピノザと親しくしていた人物のひとりに,ドイツ人数学者のチルンハウスがいました。無限様態とは具体的に何であるのかを問う手紙をスピノザに書いているくらいで,スピノザの生存中には刊行されなかった『エチカ』の草稿の内容までよく知っていたくらい,スピノザとは親しかった人物です。ライプニッツは1675年にこのチルンハウスと知り合いました。スピノザはチルンハウスに対して,ライプニッツに『エチカ』の草稿は見せないようにと忠告したようですが,どうもチルンハウスはその忠告を守らず,ライプニッツにそれを見せたようです。したがってライプニッツは,『エチカ』の内容について,かなりの程度まで知っていたと推測できます。スピノザの哲学に対するライプニッツの疑問は,テーマとして取り上げましたし,また別の角度から取り上げますが,ライプニッツがこういう具体的な疑問をもてたのは,チルンハウスのおかげであったといえるでしょう。
 1676年に,ライプニッツはパリを去り,ロンドンからアムステルダムを経由して,当時はハーグに住んでいたスピノザを訪ねました。11月18日前後のことだったようです。ナドラーは,ふたりは数週間にわたって何度か顔を合わせたと書いています。

 松田がcausa efficiensを作出原因と訳す理由は,それをデカルトの概念から理解し,産出の原因という意味を浮き彫りにさせるためです。松田が自己原因をcausa efficiensの一種であると理解していることが確実であるとは僕にはいえないのですが,訳の理由をこのように述べている以上,ルールとして設定した作出原因と起成原因のうち,松田がいう作出原因は作出原因の方に該当するとしておきます。
 すると松田の結論は次のように読み替えられることになります。Z,A,Bの因果性は,一義的に作出原因を示します。このうちBは,第二部定理八で導入された属性の中の持続の相に属します。一方,ZとAは,属性の外部,つまり持続の相の外部の永遠の相に属します。そしてZとAは,相即不離です。したがってZおよびAとBは,数的に区別される二種類の因果性でなければならず,ZとAは数的には区別できないことになります。
 この結論が含む大きな難点というのは,これで『エチカ』に示されているすべての因果性が説明されているわけではないという点にあります。実在的にいえば,Zは神が自己原因であるという因果性で,これは第一部定義六ないしは第一部定理一一に示されます。Aは神の本性を構成する属性が自己原因であるという因果性で,これは第一部定理一〇です。そしてBは個物res singularisが時間の経過のうちに別のres singularisを起成するという因果性で,第一部定理二八です。しかし『エチカ』にはまだほかにも因果性が示されています。それが第一部定理二一と二二に示されている因果性,すなわち神の属性が無限様態を起成するという因果性です。
 この因果性が存在するということ,そしてもちろんそこには産出の原因という意味が明確に含まれているということは松田も認めています。そこでこの因果性を,松田は示していませんが,仮に因果性Xと規定してみましょう。Xは永遠の相と持続の相の,どちらに属する因果性でしょうか。いい換えればXはZおよびAと同一でしょうか,それともBと同一なのでしょうか。
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東京スポーツ賞川崎マイラーズ&作出原因と起成原因

2014-05-22 19:16:20 | 地方競馬
 昼過ぎまでの雨の影響が残り,不良馬場でのレースになった昨晩の第6回川崎マイラーズ
                         
 出鞭を入れたオキナワレッドがまずは前に出ましたが,外からほぼ馬なりでサトノタイガーが交わしていきこの馬の逃げに。2番手にもソルテが浮上し,さらにはポイントプラスも3番手に。オキナワレッドはこれらの後ろのインで,外のスマートジョーカーとほぼ併走。ロンドンアイがその後ろに。前半の800mは48秒6のミドルペース。
 サトノタイガーの逃げ脚は快調で,3コーナーを回るとポイントプラスが脱落。直線ではソルテも苦しくなり,鮮やかな逃げ切りでサトノタイガーが3馬身差で優勝。スマートジョーカーにもさほどの伸び脚はなく,ロンドンアイがソルテに詰め寄り,ほぼ並ぶようにゴール。しかしハナ差だけ粘っていたソルテが2着でロンドンアイは3着。
 優勝したサトノタイガーはJRAで5勝したオープン馬で4月から浦和に転入。初戦のオープンはおそらく距離が長かったために5着でしたが,前走のオープンは2着。そのときの勝ち馬もJRAから転入した強豪で,これなら南関東重賞で通用しそうだと思わせました。たぶんスピードを生かす競馬が適したタイプで,馬場状態や展開も味方はしたのでしょう。ただ今日のようなメンバーであれば,この後も一定程度の活躍は約束されていると思います。父はキングカメハメハ,半兄に2007年のシンガポール航空国際カップを勝ったシャドウゲイト。祖母は1988年のテレビ東京賞3歳牝馬ステークスと翌年のクイーンカップを勝ったカッティングエッジナイトライトシャダイプリマの分枝。
 騎乗した川崎の町田直希騎手は2010年の黒潮盃以来の南関東重賞制覇。川崎マイラーズは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師も川崎マイラーズは初勝利。

 デカルトの公式見解は,置かれていた時代状況を無視するなら,欺瞞的なものです。ただ,その公式見解で一線を超えることを踏みとどまっているとデカルトが考えていたことは,間違いないだろうと思われます。
 デカルトは神にはcausa efficiensは存在しないといったのでした。そしてこのcausa efficiensには,産出の原因という意味が含まれます。つまり神には産出の原因がないというのがデカルトの表向きの主張です。ということは,たとえば神を自己原因であると定義したとしても,それは一線を超えていることだとデカルトは理解していたということも間違いないでしょう。そしてこのときデカルトは,自己原因というのをcausa efficiensの一種であると考えていたという仮説が成立します。
 自己原因が産出の原因を含むということは,スピノザの哲学の場合にも同じであり,デカルトの考え方と一致します。しかしスピノザの哲学は,自己原因とcausa efficiensは,共に産出の原因を含むという点では一致しますが,概念としては別の仕方で分けられます。それは,causa efficiensが自己原因の一種,あるいは『エチカ』で用いられる用語を導入するなら,変状であるという分類です。
 これに対してデカルトは,自己原因がcausa efficiensの一種であると理解していたという仮説が成立しています。そしておそらくこの仮説は正しいように思えるのです。すると同じようにcausa efficiensという用語を使っていても,デカルトとスピノザの間には,大きな乖離が発生していることになります。
 デカルトには自己原因への言及がないので,本当のところは不明です。なのでその妥当性も不明です。しかし思考の安全性を確保するためには,ふたりは同一の語句で異なった概念を示しているとしておくのがよいと僕は判断します。
 そこでこれ以降のこのブログ上のルールを設定します。デカルト的にcausa efficiensというとき,それを作出原因と訳します。スピノザ的にいう場合には,起成原因です。
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女流王位戦&作出原因の意味

2014-05-21 20:14:47 | 将棋
 旧伊藤伝右衛門邸で指された第25期女流王位戦五番勝負第三局。
 甲斐智美女流王位の先手で中飛車。先手が5筋の歩を交換したところで後手の清水市代女流六段が動き,先手がそれを咎めにいこうとしたため駒損の猛攻。うまくやったようなのですが,そのまま決めるまでには至らず,先手にも反撃の手順が回り,攻め合いになりました。
                         
 先手が桂馬を打ったところで,もうすでに先手がよくなっているかもしれません。△4二銀と逃げる手が考えられるところですが,△2九飛成で攻め合いを選択。この飛車成りもある手だと思えます。当然▲5三桂成。以下は△2七飛成▲3七金。
 ここで△5五桂と打って▲4八王に△2八龍~△1九龍で香車を取る手順もありそう。実戦は先に△2九角と打ち,▲3八銀に△5五桂。ただこれは▲4八王と逃げられたとき△3八角成と取るよりなく,▲同金上に△2九龍で後手を引くことになりました。
                         
 第2図となっては激戦も終焉近し。▲6二飛成以下,先手が勝ちました。
 甲斐女流王位が2勝目。第四局は来月4日です。

 松田の結論は,松田自身も気付いている,ある難点を含んでいます。ただこの難点について説明するためには,まだ保留している,作出原因の意味を確定させなければなりません。
 作出原因が,僕が起成原因と訳しているcausa efficiensの訳であるということは,松田自身も認めています。ただ,だから僕がいう起成原因と松田がいう作出原因の意味が完全に一致していることにはならないのが,ややこしい点です。僕はあくまでもスピノザの哲学に則して起成原因を概念として理解しますが,松田がcausa efficiensを起成原因とは訳さず,作出原因と訳す理由のひとつに,causa efficiensをデカルトの哲学で用いられている意味で使用するというものが含まれているのです。デカルトの概念とスピノザの概念が一致するなら何も問題は生じません。でも僕にはそのように理解するのは,危険性を伴うように思えるのです。
 デカルトがcausa efficiensということばを用いるとき,そこには産出の原因という意味が含まれているというのが,松田がcausa efficiensを作出原因と訳す最大の理由です。そしてcausa efficiensに産出の原因という意味が含まれているという点については,松田は別の個所を示していますが,たとえば第一部定理二四の意味などからしても,スピノザの哲学にも妥当すると僕は考えます。
 しかし僕の理解では,産出の原因という意味を含む概念というのは,スピノザの哲学ではcausa efficiensだけではありません。自己原因にもそれは含まれるのです。そして同じように産出の原因という意味を含む,自己原因とcausa efficiensが,概念として明確に区別される,つまり自己原因は第一部定義一に示される産出を意味し,causa efficiensは第一部定理一七備考で示される産出を意味するというのが,スピノザの哲学において肝要な部分のひとつだと僕は考えます。そしてこの点において,デカルトとスピノザのcausa efficiensという概念は,完全には重なり合わない可能性があると僕は思います。
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先生との同居&松田の結論

2014-05-20 19:11:55 | 歌・小説
 お嬢さんの美貌のゆえにKを同居させれば,Kがお嬢さんに好意を寄せるであろうということが,Kの同居に対する奥さんの拒絶の理由のひとつであったと前提してみましょう。するとひとつ,疑問に感じられることが浮上します。美貌のゆえに好意を寄せると推定するなら,それはKにだけ特別に該当するとは考えられないからです。もしも男が娘に好意をもつことを回避したいのであれば,奥さんは本当はだれも下宿させることはできなかった筈なのです。ところが先生を下宿させるとき,奥さんは簡単な面接をしただけで,同居に合意しているのです。
                         
 なぜ奥さんは先生との同居については拒絶しなかったのか。奥さんが合理的に行動していると考える限り,答えは簡単です。奥さんは,Kが娘に好意を寄せてもらっては困ると思ったのに対し,先生が娘に好意を寄せる分には一向に構わないと思っていたのです。
 Kを同居させることを奥さんが拒んだ理由のひとつに,それが先生のためにならないというのがありました。これはわざわざ恋敵となるであろう人物を同居させる必要はないという意味であったと解釈できることになります。ということは,ゆくゆくは娘を先生と結婚させることは,奥さんにとっての既定路線であったと考えられます。ですからそれは先生のためにならないというのは,半分だけの事実であったともいえます。それは確かに先生のためにはならなかったでしょうが,それと同時に,奥さんのためにもお嬢さんのためにもならないような行為であると奥さんは考えたと理解しておく方が,より正確であるように僕は思います。
 おそらくこの既定路線は,単に奥さんにとってそうであっただけでなく,お嬢さんも同意していたものと思われます。Kの自殺の直前に,先生が急にお嬢さんとの結婚を奥さんに申し込んだとき,奥さんはあっさりと受諾し,それはお嬢さんも同意済みであるという主旨のことを言いました。それは,Kとの同居を拒絶した時点で決まっていたことだし,そもそも先生を下宿させた時点で決定していたのだと僕は読解しています。

 持続duratioないしは時間tempusという観点は,『エチカ』では第二部定理八において導入されるというのが松田の観点です。これは『スピノザの形而上学』のうち,「二重因果性の問題」のひとつ前に収録されている「スピノザ形而上学の解釈仮説の構築」という論文で詳しく説明されています。ここではそちらについては詳しく取り上げませんので,興味があるならお読みになってください。現状の考察との関連で重要な点だけごく簡単に指摘しておけば,第二部定理八でスピノザが示そうとした意図には,属性attributumの内部,とりわけ思惟の属性Cogitationis attributumの内部に,時間の観点を導入することにあったというのが松田の見解です。すなわちそこでいわれている存在しない様態modiとは,現在は存在していないが過去には存在したか,過去にも現在にも存在していないが未来には存在することになる様態であり,そこに現在,過去,未来という時間が導入されていることになります。
                         
 たぶんこの見解自体に異論が生じることが予想されます。確かにこの定理Propositio自体の解釈については松田がいう通りであったとしても,それが時間性を導入する意図のもとになされていると断言できるとは限らないからです。しかしそのことはここでは目を瞑っておきましょう。松田の見解のうちで現在の考察との関連で重要なのは,この定理がどのような意図のもとに示されることになったのかということではなくて,時間つまりは持続という観点が,属性の内部に導入されていると松田が解している点にあるからです。そしてこのことが,永遠の相と持続の相を松田が数的に区別する根拠となっているのです。
 因果性Zと因果性Aは,属性の内部に導入されているような因果性ではないと松田は主張します。因果性Zは属性によって本性essentiaを構成される実体substantiaの産出producereを意味する因果性で,因果性Aというのは属性自体が産出されることを示す因果性ですから,少なくとも本性の上で,それらが属性の内部に「先立つ」ようにあることはできないと僕は思いますから,この意味において僕も松田に同意します。その上で松田は,属性の外部にある因果性が永遠の相の因果性であり,属性の内部にある因果性が持続の相の因果性であると理解し,そのゆえにこれらは数的に区別されなければならないと結論することになるのです。
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シンガポール航空国際カップ&第一部定義八説明

2014-05-19 18:56:40 | 海外競馬
 昨日,シンガポールのクランジ競馬場で行われたシンガポール航空国際カップGⅠ芝2000mに,昨年のダービー卿チャレンジトロフィー,鳴尾記念,函館記念,札幌記念を勝っているトウケイヘイローが出走しました。
 12頭が出走して9番ゲートから。内から2頭が前にいきましたが,発走後の長いホームストレッチを利し,1コーナーではトウケイヘイローが先頭に。バックストレッチに入る付近でリードは1馬身半~2馬身ほど。バックストレッチではそのリードがさらに広がり,一時的には4馬身~5馬身位になったのではないでしょうか。3コーナーを回ってから差が詰まり始め,直線の入口で1馬身位。それでもまだ手応えはあったように見えましたが,残り300m付近で最初に追い掛けてきた勝ち馬に交わされ2番手。さらに外を2頭が併走で追い込んできて,これらにも残り100m前後で抜かれて4着でした。
 刻んだラップは残り400m地点までが24秒96,23秒63,23秒61,23秒78で,最初が遅いのは加速の時間があるためと考えれば,トウケイヘイロー自身は一貫したラップで走り,差が広がったり詰まったりしたのは,ほかの馬の走り方によるもの。馬場状態が影響しますから,このラップが妥当であったかは別に,トウケイヘイローはこういう競馬をする馬ですから,自身の力は十全に出し切ったものと思います。ただ,このレベルで勝ち負けのレースをするためには,2000mという距離はやや長いかなという印象は残りました。

 スピノザが永遠と持続をどのように分類しているかを確認しておきます。
 第一部定義八で永遠性を定義した直後に,スピノザは以下のような説明を与えています。そして松田が最重要視しているのはこの部分です。
 「このような存在は,ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ,そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されえないからである。たとえその持続を始めも終りもないものと考えようとも」。 
 僕の解するところでは,この説明のうちには,スピノザの哲学にとってふたつの重要な要素が含まれています。ひとつめは,定義で永遠性を存在のことと示した上で,それを事物の本性と類比的に説明している点です。このことからスピノザは,一般に事物の本性というものは永遠であると理解していたことになります。つまりある事物が持続のうちに存在するのだとしても,その事物の本性に関しては永遠の相の下に認識され得ると考えていたことになります。ただ,こちらの意味は現在の考察とは無関係です。
 もうひとつは,永遠性は持続とは異なって,時間という観点からは説明することができないということです。これは逆にいえば,もしもある事物が時間という観点の下に説明され得るのだとしたら,その事物は持続する事物であって,永遠ではないという意味です。わざわざ最後の部分で,たとえ持続を始まりも終りもないものと考えたのだとしても,それは永遠とは異なるといっているのは,おそらくこの点を強調したかったためであると推測されます。
 始まりも終りもないような持続は,第二部定義五で言及されています。そこではこのことが無限定な持続といい換えられています。無限定な持続とは,あくまでも時間の観点から説明されている事柄であり,それは永遠とは同一視することができないと理解しなければなりません。松田はとくにこの点を強調します。そしてその見解には,僕としても反論する余地はいっかなありません。
 僕の見解では,この永遠と持続の関係は,無限と無限定の関係に対応します。つまり無限と無限定の間に決定的な差異があるように,永遠と持続の間にも差異があるのです。
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ヴィクトリアマイル&永遠の相と持続の相

2014-05-18 19:09:06 | 中央競馬
 春のマイル女王決定戦,第9回ヴィクトリアマイル
 外から好発だったヴィルシーナがハナへ。逃げると思われたクロフネサプライズは控えて2番手。その後ろは内がキャトルフィーユで外がケイアイエレガント。その後ろも内にホエールキャプチャ,外にローブティサージュが併走。さらに内のメイショウマンボと外のエクセラントカーヴが続き,その後ろは内でやや掛かっていたように見えるストレイトガールと外にスマートレイアーで併走。前半の800mは46秒2で,ミドルペースにきわめて近いスローペースといったところ。
 ヴィルシーナを捕まえにいったのはホエールキャプチャ。しかし交わすというところまで至らず。ヴィルシーナの内からはメイショウマンボが追い上げてきましたが,ヴィルシーナはこれも凌いで逃げ切って優勝。メイショウマンボは半馬身差で2着。メイショウマンボの後を追い,最後の最後でヴィルシーナの外に出たストレイトガールがアタマ差で3着。以下,クビ差で4着のホエールキャプチャ,ハナ差で5着のキャトルフィーユまで,直線まで内を回っていた馬での上位独占。
 優勝したヴィルシーナは昨年のヴィクトリアマイル以来の勝利。このレース連覇で大レース2勝目。それ以降は6戦して掲示板も確保できていなかったため,今日は人気を落としていました。ただ前走は不向きと思える1400mのレースで,先行することができなかったにも関わらず3馬身程度しか負けていなかったので,復活の兆しは見せていました。持ち味は競り合ったときの頑張りで,今日はそれが存分に生きる形。タイムが早くなるレースへの適性も高いのでしょう。ただ,牡馬を相手にするとまったく結果を出せていないので,牝馬戦に特有の強さを発揮するタイプである可能性はあるでしょう。父はディープインパクト。叔父に2011年のラジオNIKKEI賞を勝ったフレールジャック,同じく3月の中日新聞杯を勝っている現役のマーティンボロ。Verxinaはロシア語でВершинаで頂上。
 騎乗した内田博幸騎手は昨年のジャパンダートダービー以来の大レース制覇。第8回に続いてヴィクトリアマイル連覇で2勝目。管理している友道康夫調教師も第8回からの連覇でヴィクトリアマイル2勝目。大レースもそれ以来の制覇。

 それを永遠の相species aeternitatisと持続の相に分類するならば,因果性Zと因果性Aが永遠の相に属するということは,僕にも納得できます。ただし僕は,因果性をそのように分類することの妥当性に関して,松田に同意しているわけではありません。朝倉の結論は,因果性を垂直と水平の二種類に分類してしまうこと自体が,解釈上の困難を産み出しているというものでした。そうであるなら朝倉は,因果性を永遠の相と持続の相に分類することにも,否定的な見解を示すであろうということが,容易に推測されます。つまり松田と朝倉は,この観点において,決定的に対立するでしょう。そのときに僕がどちらの立場に妥当性を見出すかと問われれば,それは朝倉の立場ではないかと思うのです。したがって,僕は永遠の相と持続の相に因果性を分類すること自体には懐疑的ですが,もしも分類しなければならないのだとしたら,ZとAは永遠の相に分類されなければならないという程度で松田に同調していると理解しておいてください。
 こうした松田の主張から理解できるのは,実際に松田が数的に区別しているのは,因果性そのものではないということです。むしろ永遠の相に属するものと,持続の相に属するものが数的に区別されているのだといえます。そして持続の相に属する因果性というのが,『エチカ』でいえば第一部定理二八に代表されるような因果性であることは当然です。松田はこれを諸様態modi,modusが諸様態を時間経過の中に産出する因果性と説明し,ZとAに対しては因果性Bと規定しています。
 この因果性Bが,持続の相に属さなければならないということについても僕は納得します。ただそれは,ZとAが永遠の相に属さなければならないということに納得しているというのと同じ程度の同調です。これらの同調は,松田の論理展開を理解するための必要から迫られた,便宜的なものだと理解してもらっても構いません。
 ZおよびAと,Bが数的に区別されるのは,前者が永遠の相に属し,後者が持続の相に属するからです。ただ,これ自体のうちには,これらが数的に区別されるべき理由は含まれていません。松田の主張の核心はその先にあります。
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トリーティ&ZとAの同一性

2014-05-17 19:16:19 | 血統
 アラホウトクの母系の基礎輸入牝馬は,彼女の曾祖母になるトリーティ。1959年にオーストラリアで産まれた馬で,敗戦後の一時期は,オーストラリアから多くの馬が輸入されていました。Treatyは条約。ファミリーナンバー4-lで,日本で走っているこのファミリナンバーの馬の多くはトリーティの流れを汲んでいるのではないかと思います。
                         
 実はこの一族からの重賞の勝ち馬が,アラホウトク以後は先日の兵庫チャンピオンシップエキマエまで途絶えていました。ですから分枝は広がっていても,どちらかといえば廃れつつある一族なのかもしれません。ただ,僕の競馬キャリア以前には,大レースの勝ち馬も出ていました。
 トリーティは1966年にフラワースウィースという馬を産んでいまして,分枝はこの馬から広がっています。その直仔で1976年に誕生したのがビンゴガルー。1978年に朝日杯3歳ステークスを勝って最優秀2歳牡馬に。翌年には皐月賞も勝ちました。アラホウトクの母のビンゴモレロがビンゴガルーのひとつ上の全姉ですので,アラホウトクは皐月賞馬の姪であったわけです。
 アラホウトクの半兄にビンゴチムールという馬がいました。この馬は1986年の目黒記念をレコードタイムで勝っています。僕の競馬キャリアの直前で,このレースはビデオで視ただけですが,この馬の現役の末期は僕の競馬キャリアの範囲内。サクラユタカオーが天皇賞を勝ったのはこの年の秋ですが,このレースにはビンゴチムールも出走していました。
 一族の重賞の勝ち馬は以上の4頭。その他ではアラホウトクとビンゴチムールの従兄に皐月賞4着,ダービー3着,菊花賞2着とミスターシービーが制した三冠レースすべてで好走したビンゴカンタという馬がいて,この馬の現役末期も僕の競馬キャリアにぎりぎりで収まっています。

 因果性Zと因果性A同一性があるということは,単純に文言上だけで理解するなら,松田も認めるところだといえます。「二重因果性の問題」は,数的に区別できる二種類の因果性の存在を認めているのですが,因果性Zと因果性Aに関しては,数的に区別することは不可能であるという結論になっているからです。
 僕は因果性Zと因果性Aというのは,そのように規定することができるということを前提として,同一の因果性を他面から表現しているという考え方です。松田はこれとは違った観点から,ZとAの数的区別不可能性を結論付けているので,僕の考え方にも同意するのかどうかは不明です。実体が自己を産出するということと,実体が属性を産出するということは相即不離であると松田はいっているのですが,この相即不離ということが,完全に同一であるということを意味しているかどうかが,明確には分からないからです。ただ仮にそこには差異があるのだとしても,ここで考えなければならないのは因果性の数的区別なので,このことは無視することにします。
 松田は数的に区別可能な因果性に関しては,永遠の相の因果性と持続の相の因果性とに分類します。逆にいえば因果性がそのように区別される場合にだけ,それらの因果性は数的に区別されると主張していることになります。しかしZとAは両方とも永遠の相の因果性に属します。なのでZとAは数的には区別が不可能であるというのが松田の主張の概要です。
 この部分で松田は,ZとAというのを,三角形と三辺形の類比で説明しています。実はここが僕にはよく分からない部分です。三辺形ということで,松田が何を意味させようとしているのかが不明確だからです。僕の理解ではこれらふたつは同一のものを異なった記号で表現しているにすぎません。そうであるなら,松田は三角形と三辺形が数的に同一であるのと同じ意味で因果性Zと因果性Aは数的に同一であるといっているので,ZとAは記号上の相違があるだけだといっていることになります。これは僕の考え方と一致しています。ただその後で松田はZとAを図で示しているのですが,それを見るとこれとは違ったことをいっているようにも思えるのです。
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