スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

香港国際競走&有限知性の観念

2018-04-30 18:53:47 | 海外競馬
 日本時間で昨日の夕方に開催された香港のシャティン競馬場でのチャンピオンズデー。2つのレースに3頭の日本馬が遠征しました。
 チェアマンズスプリントプライズGⅠ芝1200m。
 ファインニードルはやや出負けするような発馬。すぐに追い上げていき5番手のインに収まりました。前の3頭が4番手以下を離していくレースでそのままインを回って直線に。やや外に持ち出されて残り300mくらいから追われましたが前に迫る脚はなく勝ち馬から4馬身差の4着。
 発馬は少し残念でしたが,離していった3頭のうちの1頭が優勝,優勝争いをした残る2頭は後ろから差してきた馬で,その3頭からは3馬身以上の差が開いての4着でしたから,どちらにせよ優勝争いに加わるのは難しかったでしょう。騎手は巧みに乗ったのではないかと思います。
 クイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。
 ダンビュライトは発走後は逃げ馬に絡んでいくような形で4分の3馬身差くらいの2番手を追走。1馬身差で勝ち馬が追走しそこから4分の3馬身差くらいにアルアイン。3コーナーを回ると前の2頭,3番手の2頭はほぼ横並び。ダンビュライトは逃げ馬を潰すことはできましたが自身も一杯となり勝ち馬から9馬身半差の7着。アルアインは止まったわけではありませんが伸び脚も欠き,流れ込むような形で6馬身半差の5着でした。
 このレースは逃げ馬が有力視されていて,ダンビュライトは楽に逃げさせまいというレースをしました。ペースは遅かったのですが,競り合った分の消耗が大きかったのでしょう。アルアインは現地での調教でかなり駄々をこねていたようで,遠征自体が向かなかったのが大きな敗因となったように思います。

 観念ideaが単に人間の精神mens humanaのような有限な知性intellectusとだけ関連付けられる場合は,異なった保証の方法が求められます。なぜなら観念がたとえばある人間の知性の一部を構成しているとみられる限りにおいては,それが十全adaequatumであるとは限らず,混乱した観念idea inadaequataである場合もあるからです。
                                
 第一部定理一五により,すべてのものは神なしにはあることも考えることもできないnihil sine Deo esse, neque concipi potest,したがってどのような観念であってもそれは神なしにあることも考えることもできないので,本来的にはこれは次のような仕方で保証が求められなければなりません。それは,第二部定理一一系によって,人間の精神は神の無限知性の一部であるということを第一の論拠にする方法です。このことによって,人間の精神というのが神の無限知性intellectus infinitusが存在しなければあることも考えることもできないものであることが明白になっているからです。
 この系Corollariumの具体的な意味は,もしある人間の精神の本性naturaを構成する限りで神のうちにXの観念があるといわれるなら,その人間の精神のうちにはXの観念があり,その観念はその人間の精神において十全であるか混乱しているかを問われず,その限りにおいて十全であるならその人間の精神において十全であり,その人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで十全であるといわれるならその人間の精神においては混乱しているということです。しかるにその人間の精神の本性だけを構成していようと,ほかのものの観念も有する限りであろうと,それが無限知性の一部であるということに変わりはなく,無限知性のうちでは十全です。ある人間の精神において十全であるか否かはその人間の精神とどう関連付けられているかにのみ関わっているのであり,無限知性の全体と関わっているわけではないからです。
 おそらくスピノザが第二部定理三六でいいたかったのはそういうことで,それがある人間の精神のうちで十全であろうと混乱していようと,同一の必然性necessitasで生じているのです。そして無限知性というのは思惟の属性Cogitationis attributumから第一部定理二一の様式で生じる直接無限様態です。これらを総合すれば,確かに観念の十全性は担保されているでしょう。
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天皇賞(春)&神のうちの観念

2018-04-29 19:08:09 | 中央競馬
 第157回天皇賞(春)
 ヤマカツライデンが好発から先頭に立ちましたが,外からトミケンスラーヴァが追い掛けてきて1周目の3コーナーに掛けて競り合いに。ヤマカツライデンが譲らずにハナ,トミケンスラーヴァが2番手で落ち着き1周目の正面へ。3番手以下はガンコ,シュヴァルグラン,カレンミロティック,ソールインパクト,ミッキーロケット,クリンチャーの順で続きここまでは一団。少しだけ間があってチェスナットコート。また少しだけ間があってトーセンバジル。さらに2馬身ほどで後方集団の一番前にレインボーライン。その後ろにサトノクロニクル,アルバート,ピンポン,シホウの順で5頭が集団。やや離れてトウシンモンステラ。またやや離れてスマートレイアーが最後尾という隊列。最初の1000mは60秒1のミドルペース。
 ヤマカツライデンはさほどペースを上げたわけではないのですが,2番手以降が控えたために2コーナーから2周目の向正面にかけて2番手以降との差が12馬身ほどに。これが3コーナーに掛けて徐々に縮まっていき,ガンコ,シュヴァルグラン,トーセンバジルの3頭が雁行で追っていきました。直線に入ってヤマカツライデンは一杯。ガンコが先頭に立ったものの外のシュヴァルグランとの手応えの差は歴然としていて,あっさりとシュヴァルグランが先頭に。追ってきたのは最内からミッキーロケット,シュヴァルグランをマークするように外からクリンチャー,トーセンバジルの直後からクリンチャーの内に入り,ミッキーロケットとシュヴァルグランの間に進路を取ったレインボーライン,大外から追い込みをかけたチェスナットコートの4頭。レインボーラインがよく伸び,シュヴァルグランを内から捕えて優勝。粘り込みを図ったシュヴァルグランがクビ差で2着。最後はシュヴァルグランと同じ脚色になってしまったクリンチャーが半馬身差で3着。最内のミッキーロケットがクビ差の4着で大外のチェスナットコートは4分の3馬身差で5着。
 優勝したレインボーラインは前哨戦の阪神大賞典からの連勝で大レース初制覇。このレースはシュヴァルグランが格上で,長距離への適性も高いので,それ以外の馬が勝つシーンをあまりイメージできなかったのですが,こちらは大レースでの上位入着があり,距離も苦にしないので,シュヴァルグランが負けてしまう場合には最も勝つ可能性が高いだろうなと思っていました。このレースはシュヴァルグランが王道のレース運びをして抜け出し,力は出したものと思います。レインボーラインは直線の進路選択が巧みで,その分だけ差し切ることができたということではないでしょうか。意外に人気にはならないタイプなので,馬券的な妙味は高い馬です。父はステイゴールド。6つ上の半姉に2010年にローズステークスを勝ったアニメイトバイオ。7代母がレディチャッターの3代母にあたります。
 騎乗した岩田康誠騎手は2015年の桜花賞以来の大レース制覇。第137回以来10年ぶりの天皇賞(春)2勝目。天皇賞も2勝目。管理している浅見秀一調教師は2008年の桜花賞以来の大レース制覇。第117回以来20年ぶりの天皇賞(春)2勝目。天皇賞も2勝目。

 真理veritasであるか虚偽falsitasであるかの保証が具体的にどうなされるかということは,ふたつの観点から別々の説明をする必要があると僕は考えます。ひとつはある観念ideaが神Deusの無限知性intellectus infinitusの一部を構成しているとみられる場合であり,もうひとつは観念がたとえば僕たちの知性とだけ関連付けられる場合,いい換えればそれが人間の知性のうちにあるとみられる場合です。
                                
 すでに示したように,第二部定理三二により観念は神に関係づけられる限りではすべて真の観念idea veraです。そして真の観念である観念はすべからく十全な観念idea adaequataであるのですから,それらはすべて十全な観念です。いい換えれば無限知性のうちには混乱した観念idea inadaequataすなわち誤った観念は存在しないのです。ですから,神のうちにある観念がすべて十全adaequatumであるということが論証されれば,それが真理であるということは担保されるのであり,それ以上の説明は必要とされません。
 第二部定理七系は,神の無限な本性infinita Dei naturaから形相的にformaliter,すなわち知性の外に起こるすべてのことの観念が,神の思惟の属性Cogitationis attributumから客観的にobjectiveすなわち知性のうちに観念として生じるということを示しています。ですからこの系Corollariumの意味のうちには,神のうちにある観念はすべて十全であるということが含まれています。なぜなら第二部定理七により,観念と観念されたものideatumの原因と結果の連結connexioと秩序ordoは同一であるからです。スピノザはこの定理を証明するときには,第一部公理四だけを援用していますが,この公理Axiomaだけを援用してこの定理が証明されるということの意味として,第二部定理七でいわれている物というのが,物体corpusというようなことではなく,観念されたものであるということが含まれていなければならないからです。
 したがって,第二部定理七系は,すでに神のうちにある観念がすべて真理であるということを具体的に保証しているのです。この系は観念の本来的特徴denominatio intrinsecaによって神のうちにある無限に多くのinfinita観念がすべて十全であるといっているのに等しいからです。よって外来的特徴denominatio extrinsecaに言及している第二部定理三二がそれを保証するのではありません。むしろスピノザの証明Demonstratioにあるように,この定理は第二部定理七系によって担保されるのです。
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評価の混入&真偽の保証

2018-04-28 18:55:49 | 歌・小説
 幼少期の漱石が勤勉家であったかのように十川信介の『夏目漱石』には書かれています。それが史実ではなかったとは僕には断定できませんが,単に史実から類推した十川の評価である可能性も残されているので,史実であったと断定してしまうのも危険であると考えます。
                                    
 こうした評価は十川の伝記に特有のものではなく,伝記という形態の作品には混入しやすいものといえます。ですから僕たちは伝記を読むにあたっては,何が史実であって何が伝記作家の評価であるのかということに常に注意していなければならないのです。そしてなぜこのような注意が要されるのか,いい換えれば伝記には史実に混じった伝記作家の評価が入り込んでしまうのかということは,わりと容易に説明できることです。
 伝記作家がだれかの伝記を記述しようとすのは,必ずその作家が伝記の対象となっている人物に対して何らかの関心を抱くからです。だれでも何の興味も抱けないような人物のことをわざわざ調べて,その人の伝記を書こうとは思わないでしょう。このときこの関心ないしは興味が,伝記そのものの中に伝記の対象となっている人物にとっての事実だけでなく,伝記作家の評価を混入させるのです。ひとつの事実であっても人によってそれをどのように価値判断するのかということは異なり得ます。これは第三部定理五一から明らかで,伝記作家が伝記の対象者にとっての事実から受けた刺激によって伝記の文章を記述すれば,このような事態が容易に生じてしまうのです。いい換えればそれは伝記作家の現実的本性actualis essentiaによって生じている事態であるといえます。ですからそれは作家が意図的な操作を加えるために記述するという場合もあるにはあるでしょうが,大部分は無意識的に挿入されていると考えるのがよいのではないでしょうか。
 したがって,伝記作家が伝記の対象にどのような種類の関心あるいは興味を抱いているのかということは,伝記を読む際には意外と重要です。その内容によって,どのようなバイアスを掛けて読むべきかを知ることに有益であるからです。

 第一部公理四は,結果の認識cognitioが原因の認識に依存するといっています。したがって,ある事柄が認識され,認識されたその観念ideaが真理veritasであるか虚偽falsitasであるかということも,その原因に依存しなければならないことになります。ところが観念されたものideatumは観念の原因ではないので,その観念が真理であるか虚偽であるかということに関与できないことになります。いい換えれば観念されたものはその観念が真理であるか虚偽であるかを保証し得ないということになるのです。
 この論点はおそらくスピノザ以前の哲学とスピノザの哲学を大きく切り離すものでした。また,僕たちがスピノザの哲学を理解するときにも大きな注意が必要とされる部分ではないかと思われます。すなわち,観念されたものと一致する観念は第一部公理六により真の観念idea veraであり,このことはスピノザとそれ以外の哲学者の間でも相違はない筈なのですが,このことはその観念が真理であることを何ら保証するものではないとスピノザはいっているのです。従来は観念が観念の対象に一致するということが,その観念が真理であることの証拠であるというようにみなされていたのであり,また僕たちもそのように判断してしまいがちではないかと思うのです。ですがスピノザはそれを認めていないのです。
 これは要するに,観念の外来的特徴denominatio extrinsecaは観念の真偽を決定する場合に重要ではないということです。実際のところ真の観念は真理ではあるのであり,したがって観念されたものと一致している観念は真理ではあります。ですがそれは真理であるというだけで,真理であることを保証はしないというのがスピノザの考え方です。一方,観念の本来的特徴denominatio intrinsecaは,観念とその観念の原因の関係のことですから,こちらは観念が真理であることを保証し得ることになります。つまり観念が真理であることの保証は観念の本来的特徴が担うのであり,外来的特徴が担うのではないのです。いい換えれば,それが真理であることを保証する観念は十全な観念idea adaequataであって真の観念ではありません。逆にそれが虚偽であること,つまり真理ではないということを保証するのは混乱した観念idea inadaequataなのであって,誤った観念ではないのです。
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捏造の意図&基本原理

2018-04-27 19:01:06 | 哲学
 『スピノザ―ナ15号』で高木久夫がいっているように,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』ではスピノザは確かにある捏造を行っているのだと僕は考えます。しかし,それがスピノザの主張したいことと関連して,重要な捏造である,いい換えれば主張の正当性を弱めるような捏造であるとは僕は考えないです。
                                     
 捏造された部分と関連してスピノザが最も主張したかったことは,理性ratioが聖書に従うべきであるということを主張する懐疑論者scepticiだけが誤っているわけではなく,聖書が理性に従うべきであるということを主張する独断論者dogmaticiも同じような過ちを犯しているのだということであったと僕は解します。これは『神学・政治論』において,前者は理性なしに狂っているのだけれども,後者は理性とともに狂っているのだという意味のことが記述されているのですから,少なくともスピノザにそのような主張があったということは疑い得ないでしょう。
 このときにスピノザは,懐疑論者の代表としてはマイモニデスMoses Ben Maimonidesを批判し,独断論者の代表としては,自身が捏造したとみられるアルパカルを批判したのです。実際にはアルパカルは独断論者を代表するようなユダヤ教学者ではないということは高木がいう通りであると僕は考えますが,しかしスピノザの主張の主旨からすれば,独断論者の誤りを指摘することができるのであればそれはだれでも構わなかった筈であり,アルパカルである必要はなかったのです。むしろ高木が匂わせているように,スピノザが独断論者として自身のうちで解していたのは,マイエルLodewijk Meyerであったでしょう。
 このようなわけですから,僕は実際にアルパカルが独断論者を代表するような人物であるとスピノザが考えていたとは思わないですし,アルパカルの主張をスピノザが誤って解釈したというようにも解しません。むしろそれらについては正確に把握していて,あえて捏造を行ったのだと解します。アルパカルはさほど有名ではないのですから,捏造を行うには適した人物であるとスピノザは考えたという可能性すらあるように思えます。
 『神学・政治論』には確かに捏造があったと考えるべきでしょう。ですがそれはスピノザの主張の主旨には影響していないと僕は考えます。

 観念ideaと観念されたものideatumの間には因果関係はありません。したがってXとXの観念の間には因果関係がありません。よってXはXの観念がなくても存在することができますし,Xの観念はXがなくても存在することができます。ところがXの原因がYであるならXの観念の原因はYの観念で,逆にXの観念の原因がYの観念であるならXの原因はYであるということは成立するとスピノザはいいます。このいわゆる平行論はなぜ成立するのでしょうか。
 この主だった理由は,第二部定理七系にあるように,神が思惟する力Dei cogitandi potentiaは神が働く力agendi potentiaと等しいということです。このために,第二部定理六でいわれていることは,神のすべての属性attributumに対して同じ秩序ordoと連結connexioで思惟の属性Cogitationis attributumのうちに生じることになるからです。第二部公理五によって僕たちは神の属性を認識するとすれば,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性しか認識できないので,このふたつの属性の間でしか説明することが困難なのですが,神が延長の属性として働く力と等しい思惟する力が思惟の属性から発生するので,延長の属性における原因と結果の秩序と連結は,思惟の属性におけるそれと同一になります。したがって,物体Yから物体Xが生じるということが延長の属性の働く力から生じるなら,物体Yの観念から物体Xの観念が発生することが思惟の属性の思惟する力として発生するのです。このためにXとXの観念,あるいはYとYの観念の間には因果関係が存在しないにも関わらず,Xの原因がYであるならXの観念の原因はYの観念であり,逆にXの観念の原因がYの観念であるなら,Xの原因はYであるということになります。これがいわゆる平行論の基本原理であるといえるでしょう。
 この基本原理が,観念の原因という論点に,逆方向から作用していることは明白でしょう。平行論というのは,物体corpusの原因と結果の秩序と連結は物体の観念の原因と結果の秩序の連結と同一であるということもいっているのであり,これはそのまま物体の観念の原因は物体ではないし,物体の原因はその物体の観念ではないということを意味するからです。そしてこれがもうひとつの論点である,観念の真理性とも関係するのです。
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マイナビ女子オープン&神の創造

2018-04-26 19:03:49 | 将棋
 甲府で指された昨日の第11期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 加藤桃子女王の先手で西山朋佳奨励会三段の角道オープン四間飛車。先手から角を交換して後手は向飛車に。先手が自陣角を打って手放す代償に一歩を得する展開になりました。
                                     
 先手が桂馬を跳ねた局面。これを後手は☖同桂と取りました。
 昨日は1度しかアクセスする時間的余裕がなく,その1度がその局面で,とても驚きました。これは☗2二角成で飛車が取れるからです。僕は現在は指しませんが,指していた頃は居飛車党でしたから,これで振飛車が指せるなどということはあり得ないと思えたのです。
 ☖3七桂成のときにできれば☗1八飛と逃げたいのですが,それは☖2九角があり,先手が率先して振飛車に捌かせてしまったような展開になってしまいます。なので☗2六飛は仕方ないところでしょう。後手は☖4七成桂☗同金で駒損を少し回復して☖7六銀と歩損も解消。先手は☗6六馬と受けて☖6五銀打と使わせてから☗1一馬でまた駒得を広げたのですが,これは後手が銀を打った効果の方が高く,先手は単に☗6八桂と受けるべきだったようです。後手はさらに手厚く☖5四金。
                                     
 これは☖5五桂と打とうという狙い。本来ならここで香車を使って攻め合うか受けるかの手段がないといけないのですが,なかったようで☗7九桂と受けました。後手はそれでも☖5五桂。金取りなので☗4八金と逃げ☖4七歩に☗5八金右で手順に固めましたがそこで☖3七角が痛打。☖4八歩成は避けなければならないので☗2七飛は仕方ないですが,後手が☖1九角成で香車を入手できるのが大きく,ここで後手が優位に立っています。
                                     
 ここで先手は☗4一飛と攻め合いにいきましたが後手は1筋の馬で飛車を追いつつ一歩を入手してから6筋を清算し☗6六香の田楽刺し。そのまま一方的に押し切りました。
 西山三段が勝って1勝1敗。第三局は来月16日です。

 観念ideaは観念されたものideatumがなくてもあることも考えることもできるということは,観念されるものは観念がなければあることも考えることもできないということを意味するのではありません。観念が観念されたものなしにあることも考えることもできるように,観念されたものもその観念なしにあることも考えることもできるものです。スピノザは第二部定理六で,各々の属性attributumの様態modusはそれが様態となっている属性の下で神Deusを原因とするといっています。したがって観念は思惟の様態cogitandi modiですから,思惟の属性Cogitationis attributumを原因とします。このときその観念が物体corpusの観念であるとしたら,物体は思惟の様態ではありませんから,物体の観念は物体を原因とはしません。よって第一部公理四により,物体の観念は物体なしにあることも考えることができるものであることになります。第一部公理三により,ある物体の観念が発生する原因が与えられればその物体の観念は存在することになりますが,物体はその原因ではあり得ないからです。
 これとちょうど逆に,物体は延長の様態ですから延長の属性Extensionis attributumを原因とします。しかるにその物体の観念は思惟の様態なのですから,その物体の原因ではあり得ません。よってある物体はその物体の観念がなくてもあることも考えることもできるものだということになります。スピノザの時代にはおそらくこのことは重要な意味を有していました。なぜならこのことは,神があるものの観念を有することによって,いい換えれば神があるものを認識することによって,そのものが存在するようになることを否定するからです。たぶん神の創造はそのような意味を有していたでしょうし,現代においても神の創造というのはそのような事柄として認識されるのではないかと思います。したがってスピノザは,このような意味での神の創造を全否定したということになります。現代よりも宗教religioが強力であった時代ですから,このような考え方に対する反響が大きかったであろうことは容易に想像できます。
 ただし,スピノザは次のことは認めます。もし物体Xの原因が物体Yであるなら,物体Xの観念の原因は物体Yの観念です。これが俗に平行論といわれるものです。
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しらさぎ賞&意味の転換

2018-04-25 19:02:31 | 地方競馬
 高知から1頭が遠征してきた第56回しらさぎ賞。真島大輔騎手が疾病のためアップトゥユーは森泰斗騎手に変更。
 先行争いは激しくなりましたが,先手を奪いきったのはコーリンベリー。ここから概ね半馬身から1馬身の間隔でスターインパルス,ラーゴブルー,コスモフットライト,アップトゥユーまでの5頭で先行集団を形成。2馬身差でニシノラピートとディーズプリモが好位。4馬身ほど間があってフジノドラマ。さらに5馬身ほど開いてコスモパープルとファイトユアソング。6馬身ほど離れてビーインラプチャー。大きく離れてタッチスプリントという隊列。最初の600mは35秒1のハイペース。
 3コーナーを回るところでスターインパルスが後退し,2番手にラーゴブルー。コスモフットライトは3番手にくらいついていましたが押してようやくついていくという感じ。後方から捲り上げてきたファイトユアソングが大外から上昇し,直線の入口では逃げたコーリンベリーまで捲り切って先頭に。しかし内で脚を溜めていたラーゴブルーがそのまま内から抜けてきて2頭の優勝争いに。脚を長く使ったファイトユアソングが先に力尽き,優勝はラーゴブルー。ファイトユアソングが4分の3馬身差で2着。直線の入口では4番手まで上がっていたニシノラピートが,コーリンベリーは抜いて2馬身半差で3着。
 優勝したラーゴブルーは南関東重賞初挑戦での初勝利。JRAで昨年1月にデビュー。しかし未勝利戦を勝ち上がれず,南関東に転入。昨年の暮れが転入初戦でそこから4連勝。前走はこのレースのトライアルで2着に入ってここに出走していました。未勝利を勝ち上がれなかったとはいえJRAでの最後の2戦は3着,2着。おそらく馬がよくなっていた時期で,転入後は500万との交流戦も3馬身差で快勝しているくらいですから,成長していたのは明らか。このレースは斤量を課せられる実績馬よりも,格下でも勢いがある斤量の軽い馬が勝つという傾向が顕著でしたから,この馬が勝つ可能性が最も高いと考えていました。レースの傾向に見合った52キロでの優勝ですから過大に評価することは慎むべきだと思いますが,底を見せていないのは事実ですから,もっと斤量関係が不利になっても好走できる可能性も大いにあるでしょう。父はハーツクライ。母の父はキングカメハメハ。4つ上の半姉が2013年にフローラステークスとローズステークスに勝ったデニムアンドルビー。母の10歳上の半姉がトゥザヴィクトリー。Lago Bluはイタリア語で青い湖。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手ユングフラウ賞以来の南関東重賞24勝目。第53回,54回に続き2年ぶりのしらさぎ賞3勝目。管理している川崎の内田勝義調教師は第51回以来5年ぶりのしらさぎ賞2勝目。南関東重賞は14勝目。

 観念ideaの原因causaを思惟の属性Cogitationis attributumの内部に求めることは,従来の考え方を大きく逸脱するものであったと僕は思っています。同時に,僕たちが観念について思い込んでいることとも違っているのではないかと思うのです。
 観念は必ず何かの観念です。すなわち観念には観念の対象ideatumが存在します。これをスピノザの哲学の用語で示せば,観念には必ず外来的特徴denominatio extrinsecaがあるということになります。いい換えれば外来的特徴を有さない観念は存在しないということになります。これはそれ自体で明白だと納得できるところだと思います。
 このとき,観念の原因を観念の対象に求めると,観念は観念されたものがなければあることも考えることもできないものだということになります。もし何かが精神mensや知性intellectusの外部に存在していて,それが認識されることによってそのものの観念が発生するのだと解するなら,それは観念をこのようなものとみなしているのと同じです。この場合には観念されるものが観念に対して先行していなければならないからです。
                                
 ところが,もし観念の原因を観念されたものでなく,思惟の属性の内部に求めるのであれば,これとは違ったことになります。なぜなら第一部公理三により,原因が与えられさえすれば結果effectusは必然的にnecessario生起するのですから,観念されたものがなくても,観念の原因があるならその観念はあることになるからです。つまり,観念には必ず観念されたものがあるということ,いい換えれば観念には外来的特徴が必ずあるということをスピノザは是認するのですが,その意味はかなり転換されているのです。観念には外来的特徴が必ずあるのですが,その外来的特徴がなくても観念はあることができるのです。すなわち観念は必ず観念されたものを付随させますが,観念されたものがないとしても,観念自体はあることができるのです。観念には外来的特徴があるということ,観念は必ず観念されたものを伴っているということは,そのようにして発生する観念が有している性質のひとつにすぎないのです。
 なお,このことは逆の場合にも成立します。現代ではどうか分かりませんが,スピノザの時代にはそちらも重要であったと思われます。
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国元の事情&観念の原因

2018-04-24 19:01:25 | 歌・小説
 奥さんは先生との同居を決定するときに,単に先生が下宿人として適しているかだけでなく,の結婚相手として相応しいかという観点からの面接をしたのは間違いないと思います。しかし一方で,それは財産目的というのとは違っていたと解します。そう解さないと,先生と静の結婚をKに告げたときの状況を先生に尋ねられたとき,Kの「私は金がない」ということばを嫌味とは受け止めなかったがゆえに先生に包み隠さず話したという解釈が成立しないからです。結婚が財産目的であったなら奥さんはそれを伏せる筈なので,財産目的ではなかったということは前提でなければならないと僕は考えるのです。
                                     
 ただし,次のことはいえます。奥さんの面接は先生の記述では身元や学校や専門についていろいろと質問したことになっています。そしてたぶんこのとき,Kが同じ面接を受けていたとしたら,合格しなかった可能性はあると思います。端的にいえば,奥さんは将来的に困窮にあえぐ可能性があるとみた人物を静の結婚相手としては選ばなかったでしょう。ですからこのような意味でそれが財産目的であったというなら,それは財産目的ではあったのです。ただ,奥さんは面接をした時点で,どれほどの財産が先生にあるのかということについては確たることを知っていたわけではないと思います。実際に先生は身元について質問されたとはいっていますが,それは財産についてであったとはいっていません。先生は長男の悲劇を味わっているので,それを質問されたらきちんとそう書くし,そもそもそのようなところで下宿する気にはならなかっただろうと思います。
 このことは下十五からもある程度は確かめられます。先生はそれまで国元の事情について多く語らなかったけれど,あまりに求められるから話したと書いています。ということはそれまでは奥さんも静も,その事情を何も知らなかったのです。
 財産があることは結婚にはプラスに作用した筈です。でも最初の時点で結婚相手として合格したのは,財産そのものとは異なった事情であったと僕は思います。

 それが真の観念idea veraか十全な観念idea adaequataかの相違は,観念を外来的特徴denominatio extrinsecaからみるか本来的特徴denominatio intrinsecaからみるかという,いってみればこれも観点の相違にすぎないといえるのに,なぜこの相違の方を僕が重要視するのかという理由は,ふたつの論点から説明することができます。ひとつは観念の原因という論点であり,もうひとつは観念が真理veritasであることの根拠という論点です。僕がこれを論点という語で説明するのは,少なくともスピノザの哲学は,スピノザ以前の哲学と比較したときに,このふたつの点において明瞭な相違があるからです。
 まず原因の論点から説明しましょう。
 観念が外来的特徴からみられ,それが観念されたものideatumと一致するとき,この観念は真の観念といわれます。このとき,スピノザ以前の哲学では,基本的に観念されたものが観念の原因であると規定されていました。つまりあるものXが知性intellectusの外にあって,そのXが知性によって認識されることによってXの観念がその知性のうちに生じるとみなされていたのです。結果は原因がないと存在し得ませんから,この場合でいえばXが存在しなければXの観念,Xの真の観念は存在し得ないとみなされていたのと同時に,原因は何らかの意味で結果に先行しなければならないので,Xの真の観念があるためには,Xが事前に知性の外に存在していなければならないともみなされていたのです。
 ところがスピノザはこれを否定します。第二部定理五は,ごく簡単にいえば,観念の原因は神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumであるといっています。しかるにXが知性の外にあるなら,それは当然ながら思惟の様態cogitandi modiではあり得ません。いい換えれば思惟の属性の外にあるものです。つまりスピノザは,観念の原因が観念されたものではあり得ないということをこの定理Propositioで主張したことになります。さらに第二部定理九は,この場合のXを物体corpusであると規定するなら,物体Xの観念の原因はそれとは別の物体たとえば物体Yの観念であるということをいっています。そしてこの場合,第二部定理七により,物体Xの原因が物体Yであることになるのです。要するに物体Xの観念の原因は,物体Xではなく,物体Xの原因である物体Yの観念なのです。
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十全な認識の契機&十全な観念

2018-04-23 18:56:57 | 哲学
 『スピノザ―ナ15号』の矢嶋直規の論文は,スピノザの哲学では「理性の導き」によって混乱した観念idea inadaequataが十全な観念idea adaequataになるといわれていると読解できるようになっています。矢島の論考はヒュームDavid Humeの哲学との関連なので,矢嶋自身がそう考えているかどうかは分かりませんが,何度かいっているように,僕はそのような考え方は不適切であると考えています。ただし,識者の中には,これに近い考え方をしている人もいますので,先にそちらの例を示しておきます。
                                     
 僕の解釈ではドゥルーズGille Deleuzeは混乱した観念が十全な観念になるということに対して肯定的です。『スピノザと表現の問題』を読む限り,少なくともドゥルーズは,人間がXを混乱して認識することがXを十全に認識することの契機になると考えていて,この面で事物を混乱して認識することにも意義があると解していることは間違いないと思います。僕はたとえばXを混乱して認識することによってそれを十全に認識しようという意欲がその人間に湧き得るということは否定しないので,その意味で混乱した認識が十全な認識の契機になることは否定しませんが,だから混乱した認識cognitioにも意義があるというようには考えません。
 『スピノザという暗号』を読むと,田島正樹は混乱した認識が十全な認識になるということを全面的に肯定しているように思えます。田島は観念をパズルに喩え,混乱した観念はほかとの結びつきを欠いたパズルの1ピースで,十全な観念は完成したパズルに嵌った1ピースであると指摘しているからです。これは同じピースが混乱していたり十全であったりすると主張しているようなもので,ひとつのピースを全体と連関させることで,混乱していたものが十全になると主張しているのと同然であると僕は解するからです。
 したがって,僕はそれに疑義を抱きますが,混乱した観念が十全な観念になるという解釈も,まったく成立しないというわけではありません。僕がなぜそのことを否定するのかということについては,また別に示すことにします。

 ある観念ideaが真の観念idea veraであれば十全な観念idea adaequataでもあります。そして十全な観念であるなら真の観念でもあります。逆に真の観念ではない,つまり誤った観念であるなら十全な観念ではない,すなわち混乱した観念idea inadaequataであり,混乱した観念であるなら誤った観念なのです。なのになぜ真verumといわれたり十全adaequatumであるといわれたりするか,誤っているといわれたり混乱しているといわれるかといえば,スピノザは観念には外来的特徴denominatio extrinsecaと異なる特徴があると考えるからです。これはスピノザの哲学に特有の,少なくともスピノザ以前の従来の哲学とは異なった,スピノザの哲学に特有の考え方といえます。この特徴のことを僕は観念の本来的特徴denominatio intrinsecaといっています。
 したがって,観念は外来的特徴からみられるなら真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかであり,本来的特徴からみられるなら十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかです。よって真であるか十全であるかは,その観念を外来的にみるか本来的にみるかの相違ということができます。この意味において,中井がいっているように,事物を十全に認識するということと事物を真に認識するということは,ほぼ同じ意味であることになるのです。
 外来的特徴とは,観念と観念されたものideatumがどういった関係にあるかということでした。観念と観念されたものが一致すればそれは真の観念といわれるのであり,第一部公理六から分かるように,スピノザもこのことは否定しません。これに対して本来的特徴というのは,第二部定義四から分かるように,観念されたものとは無関係に,観念それ自体が有している特徴のことです。スピノザは第一部公理三で,原因が与えられないと結果は生じないといっています。スピノザがいう原因というのはすべからく起成原因causa efficiensのことです。よってどんな観念も何らかの起成原因が与えられることによって生じます。この観念の原因とその観念の関係が,スピノザがいう本来的特徴です。
 僕は真の観念と十全な観念はほぼ同じ意味だけれどそれは相違があるという意味であって,その相違の方がスピノザ哲学の理解の上では重要だといいました。なぜかをここから説明していきます。
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ゴールド・ウイング賞&同じ意味

2018-04-22 16:48:42 | 競輪
 西武園記念の決勝。並びは新山‐成田‐和田の北日本,平原‐芦沢の関東,浅井‐吉田の中部,三谷‐井上の西日本。
 浅井がスタートを取って前受け。3番手に新山,6番手に平原,8番手に三谷という意外な周回に。残り3周のバックから三谷が上昇。井上の後ろに平原も続きましたが,三谷はすぐには抑えにいかず,新山の横で蓋をしながらホームを通過。打鐘前のバックに入ってから浅井を叩きました。進路ができた新山がここで発進。そのまま三谷を叩いて先行。4番手に三谷,6番手が浅井。新山が発進したときにバックを踏んでしまった平原が8番手の一列棒状に。バックから浅井が発進。三谷がこれに併せて出て浅井は失速。しかし三谷にも捲る余力は残っていませんでした。直線に入ってから新山を抜きにいった成田の外から和田が突き抜けて優勝。三谷マークから成田と和田の間を伸びた井上が半車輪差で2着。逃げ粘った新山が半車身差の3着で伸びを欠いた成田がタイヤ差の4着という大波乱の結果に。
 優勝した宮城の和田圭選手は1月の大垣のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初優勝。このレースは新山の先行が有力で,だれが4番手を取るのかが最大の焦点。ただ,平原,浅井,三谷と力がある選手が揃っていたので,互いにあまりに牽制し合うようだと新山の逃げ切りも含めて北日本勢にも優勝の可能性があるだろうと思っていました。三谷はうまく4番手を取りましたが,取るときに脚を使ったため,捲るだけの余力は残っていなかったよう。なので北日本勢に有利な展開のレースとなったのですが,和田の突き抜けての優勝は個人的にノーマークだっただけに驚きました。

 ある観念ideaが外来的特徴denominatio extrinsecaからみられた場合に真の観念idea veraなら,その観念は同時に十全な観念idea adaequataでもあります。したがってある人間の知性intellectusあるいは精神mensのうちに,Xの真の観念があるなら,それはXの十全な観念ですから,その人間の精神のうちにXの十全な観念があるということになります。
 逆に,その観念が真の観念ではない場合,すなわち誤った観念である場合は,その観念は十全な観念ではありません。よってある人間の精神あるいは知性のうちにXの誤った観念がある場合には,その人間の精神ないしは知性のうちに,Xの十全な観念があることにはなりません。そして外来的特徴からみられたとき,真の観念ではない観念は誤った観念といわれるように,十全な観念ではないという観念についてもそれを明示する語があります。これを僕は混乱した観念idea inadaequataといいます。よってある人間の知性ないしは精神のうちにXの誤った観念があるときは,その人間の精神あるいは知性のうちにXの混乱した観念があるのです。
 ただし,ここでも気を付けなければならないことがあります。第四部定理一は,誤った観念は真の観念が真verumであるというだけでは除去され得ないという意味のことをいっています。したがって,Xの真の観念とXの誤った観念は,同じ人間の精神あるいは知性のうちに同時にあることができるのです。よってXの十全な観念とXの混乱した観念が,同時に同じ人間の精神ないしは知性のうちにあるということも生じ得ます。
                                     
 次に,Xの十全な観念がある人間の精神あるいは知性のうちにあるなら,この人間の精神あるいは知性のうちにはXの真の観念があるのであって,逆にXの混乱した観念がある人間の知性あるいは精神のうちにあるのなら,その人間の精神あるいは知性のうちにはXの誤った観念があるのです。この意味において,『ゲーテ『親和力』における「倫理的なもの」』でいわれているように,事物を真に認識するというのと事物を十全に認識するというのは,ほぼ同じ意味です。いい換えれば真の観念と十全な観念はほぼ同じ意味であり,誤った観念と混乱した観念もほぼ同じ意味です。
 ではなぜふたつのいい方がされるのでしょうか。
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ロッタレース&真の観念

2018-04-21 18:55:33 | 血統
 フサイチパンドラの母は1992年にアメリカで産まれたロッタレース桜花賞を勝ったアーモンドアイにとっても輸入基礎繁殖牝馬になります。パロクサイドファミリーナンバーは同じ8-fですが,別の分枝として発展しています。
                                    
 ロッタレースの産駒で重賞を勝ったのはフサイチパンドラだけで,それ以降の産駒をみてもアーモンドアイが2頭目の重賞勝ち馬。ただ牝系は広がっていますので,日本での活躍馬が輩出する可能性は残っています。
 遡ると世界的な名牝系。ロッタレースの母の産駒,つまりロッタレースの兄には有名種牡馬が2頭います。また,ロッタレースの姉から続く系譜は何頭かが輸入されていて,ロッタレースの9つ上の半姉の子孫には1996年に神戸新聞杯を勝ったシロキタクロスや昨年の東京記念を勝っている現役のサブノクロヒョウがいます。さらに4つ上の半姉の子孫には2013年のNARグランプリで3歳最優秀牡馬に選出されている現役のインサイドザパークがいます。
 名牝系の起点となっているのはロッタレースの祖母です。その子孫で日本で活躍した馬の中には,2003年に中山金杯を勝ったトーホウシデンや,2008年にピーターパンステークスを勝ったカジノドライヴがいます。
 ヨーロッパでもアメリカでも,そして日本でも活躍馬が出ている牝系で,どの程度が輸入されているか僕には不明ですが,少なくともロッタレースの祖母の子孫からは日本での活躍馬が間違いなく出てくることでしょう。

 それが知性intellectusあるいは精神mensの内にある場合と外にある場合があるのですが,観念ideaには必ずその観念の対象ideatumが存在しています。このとき,その観念が観念されたものと一致しているなら,この観念は真の観念idea veraといわれます。つまりある観念が真の観念であるということの意味は,その観念が観念の対象と一致しているということです。僕は観念が有するこの特徴を,観念の外来的特徴denominatio extrinsecaといっています。要するに真の観念とは,ある観念がその観念の外来的特徴からみられた場合のひとつの規定であることになります。
 もちろん観念は,観念されたものと必ず一致するというものではありません。スピノザの哲学においては第二部定理三二により,観念は神と関連させる限りquatenus ad Deum referunturでは必ず真の観念です。いい換えれば観念されたものと必ず一致します。そして第一部定理一五により,どんなものも,すなわちどんな観念も,神なしにはあることも考えることもできないnihil sine Deo esse, neque concipi ものです。ですから神と関連させることができない観念というのは存在しないのであって,この意味においては,どんな観念も外来的特徴からみられる限りでは真の観念であることになります。ただ,僕たちの精神あるいは知性というのは有限finitumであるがゆえに,それらの観念のすべてを神と正しく関連付けられるというものではありません。このために僕たちの精神あるいは知性のうちには,神と正しく関連付けることができない観念というのも生じ得るあるいは存在し得ます。この意味においては観念の対象とは一致しない観念というのも存在します。したがって,外来的特徴からみられた場合に真の観念ではないというような観念は,それが存在するというのであれば,たとえばある人間の知性とか精神のような,有限な精神ないしは知性のうちにのみあるということになります。このような限定的な条件を付随させたうえで,観念の対象と一致しないような観念は,誤った観念といわれます。ですから観念は外来的特徴からみれば,真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかです。
 このとき,ある人間の精神あるいは知性のうちに,観念されたものと一致する観念があるなら,その観念は十全な観念idea adaequataでもあります。
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フサイチパンドラ&観念の観念

2018-04-20 19:16:19 | 名馬
 8日の桜花賞を勝ったアーモンドアイの母はフサイチパンドラです。
 2歳11月のデビューで新馬戦を勝利。そのまま阪神ジュベナイルフィリーズに向かって3着と,高い資質を早々に示しました。しかし年末の500万条件は3着。
 3歳初戦に出走したオープンも6着と敗れましたが2月に500万を勝つとフラワーカップで2着。賞金を加算したことで出走した桜花賞は14着の大敗でしたがオークスでは2着に巻き返しました。
 秋から主戦が角田晃一騎手から福永祐一騎手にスイッチ。初戦はローズステークスで3着。秋華賞も3着。エリザベス女王杯は差がある2着の入線でしたが,1着入線馬が直線での斜行で降着処分を受けたために繰り上がって優勝。思わぬ形で重賞初制覇を決めるとともに大レース制覇を達成しました。現行制度では2着の筈で,幸運だった面もあります。中1周でジャパンカップに進むとディープインパクトの5着と善戦しました。
 4歳初戦に初ダートとなるエンプレス杯を選択して2着。この後,日経賞が9着,マイラーズカップも9着。歩む路線についての試行錯誤があったようです。ヴィクトリアマイルに出走しましたが12着、
 夏は北海道へ。クイーンステークスは5着でしたが藤田伸二騎手にスイッチした札幌記念を逃げ切って重賞2勝目。藤岡佑介騎手でダートのエルムステークスに出走しましたがここは11着と大敗。
 変わったローテーションで連覇を目指したエリザベス女王杯はクリストフ・ルメール騎手が乗って2着。再び藤田騎手の騎乗となったジャパンカップアドマイヤムーンの9着。有馬記念も藤田騎手で登録しましたが出走取消となり,現役を退きました。
 世代的に牝馬のレベルが高かったため,大レースは幸運な形で1勝しただけ。ただ,成績として記録に残っている以上の能力はあった馬だと思います。

 これもスピノザの哲学に特有というわけでなく,哲学全般に妥当することですが,観念ideaは必ず何かの観念であって,何の観念でもない観念というのは存在しません。いい換えれば観念には必ず観念されたものideatumがあります。このことは,自身の精神mensあるいは知性intellectusのうちにある何らかの観念について反省的に考えればだれにでも明らかだと思います。
 ただ,このときにはひとつだけ注意が必要とされます。それは観念されたもの,すなわち観念の対象は,必ずしも精神ないしは知性の外にあるとは限らないということです。
                                
 たとえば僕の手元に岩波文庫版の『エチカ』があるとして,僕がそれがそこにあるということを認識したと,すなわちそれがそこにあるという観念が僕の精神あるいは知性のうちにあると仮定してみましょう。このときに観念されたものは僕の手元にある『エチカ』であって,これはそれ自体で明らかなように僕の精神や知性の外にあるものです。これが,観念の対象が精神あるいは知性の外にあるという場合です。
 しかしこのときに,僕は自分の精神ないしは知性のうちに『エチカ』の観念があるということを認識することができます。他面からいえば,僕は僕の精神あるいは知性のうちに文庫本の『エチカ』の観念があるということを知ることができます。この認識において観念の対象になっているのは僕の精神あるいは知性のうちにある岩波文庫版の『エチカ』の観念なのであり,これは僕の精神ないしは知性の内にあります。したがってこれは観念の対象が精神あるいは知性の外にあるのではなくその内にあるという場合です。
 ごく一般的にいえば,僕たちが何事かについてそれを知っていると認識するときには,自分の精神ないしは知性の内にその何事かの観念があることを認識しているのであり,観念されたものは自分の精神あるいは知性の内にあるその何事かの観念です。こうした観念は観念の観念idea ideaeといわれ,観念の観念の対象は観念であり,それは精神あるいは知性の内にあるものということになります。なお,あることを知っていればそれを知っているということも知ることができるので,この関係は無限に進むことになります。
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東京スプリント&認識と観念

2018-04-19 19:07:17 | 地方競馬
 昨晩の第29回東京スプリント
 内から競り掛けてきたフラットライナーズを制してグレイスフルリープの逃げ。2番手にフラットライナーズで3番手がゴーディー。4番手はブルドッグボス,キタサンミカヅキ,ネロの3頭。この後ろにアピア,ウインオスカー,ラブバレット,ニシケンモノノフの4頭が差がなく続き,さらにサブノジュニア,エイシンスパルタン,サトノタイガーの3頭が集団。一団馬群の最後尾がスノードラゴン。ここから離れてラクテ,さらに離れてチェダーという隊列。前半の600mは34秒4のハイペース。
 3コーナーを回ってフラットライナーズは後退。グレイスフルリープを追ってきたのはネロでしたが,最終コーナーのコーナーワークでまた差が開いてしまい,グレイスフルリープも最後の200mは疲れたようですがこれを差し切るほどの脚を使えた馬もなく,楽に逃げ切る形で優勝。ネロを追ったのは最内のサブノジュニアとその外のブルドッグボス,そしてネロの外からキタサンミカヅキの3頭。キタサンミカヅキの脚が優って1馬身半差で2着。2着争いの中では粘り込む形になったネロが半馬身差の3着。最内のサブノジュニアがクビ差の4着でこれは大健闘。ブルドッグボスはハナ差で5着。
 優勝したグレイスフルリープ兵庫ゴールドトロフィー以来の勝利で重賞3勝目。前走は1400mのレースで大逃げになって潰れるという内容でしたので,スプリント色が濃くなってきたように思われ,距離が短縮するここはチャンスがあると思われました。ただ,このレースの勝因は,よい枠を引けてさほど急かさずに逃げることができたことと,不良馬場の影響か鋭い脚を使うことができた馬が皆無になってしまったことが大きかったように思えます。確たる能力がある馬なのですが,勝ち負けには条件が付くタイプという評価が適切で,条件の整わないレースでは軽視する手もあると思います。逆に条件さえ整えば,さらにレベルアップした相手とも好勝負が可能でしょう。父はゴールドアリュール。Graceful Leapは優美な飛躍。
                                     
 騎乗した武豊騎手と管理している橋口慎介調教師は東京スプリント初勝利。

 当該箇所では十全に認識するということと真に認識するということがほぼ同じ意味であるといわれています。
 Aという人間がいて,Aの精神mensあるいは知性intellectusのうちにXの観念ideaがあるとき,AがXを認識するといわれます。これはスピノザに限らず,哲学における認識cognitioと観念の関係の決まり事であるといっていいでしょう。したがって,十全に認識することと真に認識することがほぼ同じ意味なら,ある観念が十全adaequatumであることとその観念が真verumであることはほぼ同じ意味であると解して間違いありません。これは観念をそれ自体である事物のようなものとして把握する観点からいわれるか,それともある人間の精神ないしは知性が何らかの思惟作用をなすという観点からいわれるかという相違でしかないからです。
 ただし,スピノザの哲学においてこれを考える場合には,観念が十全であるということと観念が真であるということはほぼ同じ意味であるという,観念をそれ自体である事物のようなものとして把握する観点を用いる方が,より安全である,いい換えれば誤解を犯しにくいだろうと僕は思います。というのは,スピノザの哲学の認識論には,主体の排除という,これはスピノザの哲学に特有といっていい視点があるからです。事物を認識するという観点から把握すると,あたかもある人間が何らかの事柄を主体的に認識し,その認識作用に関して真であるとか十全であるといわれているようなイメージを受けやすいのではないでしょうか。しかし逆に観念をある事物のようなものと把握した場合には,それがだれの精神あるいは知性のうちにあるのかということとは関係なく,単に観念についてそれが真であるとか十全であるといわれているイメージが抱かれやすいだろうと僕は思うのです。なので中井は認識について十全であることと真であるということがほぼ同じ意味であるといっていますが,僕はある観念について,それが真であるということと十全であるということはほぼ同じ意味であるという視点からこれを考察します。もっともこのことは,ここで考えようとすることとは無関係なので,その方が誤解を起こしにくいということだけ理解してもらえれば十分です。
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ブリリアントカップ&十全と真

2018-04-18 19:24:17 | 地方競馬
 大井記念トライアルの昨晩の第1回ブリリアントカップ。笹川騎手が病気のためタイムズアローは戸崎騎手に変更。
 まずトロヴァオが先頭に立ちました。しかしペースをまったく上げようとしなかったため,外から上がっていったグレナディアーズが1コーナーでトロヴァオのハナを叩き,向正面にかけて4馬身から5馬身ほどのリードをとっての逃げに。控えた2番手がトロヴァオで3番手にタービランス。4番手はムサシキングオーとリッカルド。6番手がラッキープリンスとディアドムス。その後ろにオリオンザジャパン,タイムズアロー,トーセンハルカゼ,サージェントバッジの4頭の集団。2番手からここまではほぼ一団。2馬身ほど開いてウマノジョー。その後ろにクラージュドール。後方2番手にシャドウパーティーとサブノクロヒョウで最後尾にタマモネイヴィーという隊列。前半の1000mは63秒4のミドルペース。
 3コーナーに掛けてグレナディアーズのリードが縮まっていき,コーナーは内からグレナディアーズ,トロヴァオ,タービランス,リッカルドの4頭が雁行で周回。勢いに優ったのは外の2頭で,直線の入口では大外のリッカルドが先頭でその内のタービランスが2番手。結局その態勢のままでフィニッシュとなり,優勝はリッカルド。1馬身4分の1差の2着にタービランス。向正面で前の4頭を追って動き出したものの最後は一杯となってしまったディアドムスが5馬身差で3着。実力上位と目された3頭が上位を独占するきわめて順当な結果となりました。
 優勝したリッカルドフジノウェーブ記念に続いて南関東重賞3連勝。ここ2戦よりは相手が強くなっていて,1800m,1400mと使った後の2000m戦でしたので,不安な点がなかったわけではありません。自身の位置はスローペースでしたが,それでも折り合いを欠くところはなく,その時点で勝負あったというレースに。ただ,距離が伸びるのはプラスではなく,適性はもう少し短い距離にあるような印象は受けました。重賞にチャレンジしてほしいと思います。父はフサイチリシャール。3代母がアリアーン。母の7つ上の半兄が1999年に東京大賞典を勝ったワールドクリークで3つ下の半弟がNARグランプリで2010年2011年にダートグレード競走特別賞馬に選出されたスマートファルコン
 騎乗した大井の矢野貴之騎手はフジノウェーブ記念以来となる南関東重賞13勝目。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞4勝目。

 僕がいう汎神論論争についてはすでに何度も書いています。また,僕はゲーテJohann Wolfgang von Goetheの自然学に対する関心はありません。このために『ゲーテ『親和力』における「倫理的なもの」』に関して多く語ることはありません。ただこの本は,その研究の性質からして,僕とは逆にゲーテの自然学には大いに関心があるけれど,スピノザの哲学にはあまり興味がないという人も読む可能性があると思います。なので一点だけ,スピノザの哲学の基礎的な部分に関連する事柄で,この著書の中では詳しく触れられていない事柄についてその概要を述べておくことにします。こうした主旨なので,スピノザの哲学を知っている方にとってはごく当然と思われるような内容になるであろうということを前もっていっておきます。
                                     
 この本の第一部の第2章3節に,スピノザの哲学において十全な認識といわれる場合の十全なというのは,真のという意味にほぼ等しいという意味の記述があります。これは中井がスピノザの哲学を正しく解釈している証明だと僕は考えます。なぜなら中井は,十全なというのと真のというのは完全に同じ意味であるとはいわず,ほぼ等しい意味であるといっているからです。ほぼ等しいというのは,実際にはやや相違があるという意味です。そこに相違があるという解釈をしなければ,スピノザの哲学の特徴をうまく把握することはできません。ですがこの意味合いのことがいわれている文脈は,ほぼ等しいということの方に重点が置かれていて,相違があるという点は無視されています。これだと,中井のようにスピノザの哲学のことをよく知っているなら何の問題も生じないのですが,よく知らないという場合には,単にスピノザは同一の事柄を異なったいい方をしているというように解釈される危険性を伴っているように僕には思えるのです。実際にはスピノザはわざわざ同じ事柄を十全adaequatumといったり真verumといったりするのであり,前述したようにその使い分けをきちんと把握することがスピノザの哲学の正しい理解には不可欠なのです。
 なので,十全と真とが,どのような意味において同じであり,どのような意味において相違があるのかということを示していきます。
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叡王戦&ゲーテ『親和力』における「倫理的なもの」

2018-04-17 19:07:13 | 将棋
 14日に名古屋城で指された第3期叡王戦七番勝負第一局。金井恒太六段と高見泰地六段は公式戦初対局。
 事前に振駒で先手に決まっていた金井六段は持時間5時間を選択。後手の高見六段の横歩取りに先手が青野流で対抗する将棋に。
                                     
 後手が5二の玉を早逃げした局面。ここから先手は後手の飛車を取りにいったのですが,後の展開からするとこれが失着で,とりあえず☗2二龍と銀取りに入って後手に受けさせておくべきだったのだろうと思われます。
 実戦は第1図から☗7五金と打ち☖5四飛☗6五金☖5五飛☗同金の飛車角交換に持ち込みました。しかし☖7四桂が厳しい手。このときに先手の龍が2三にいるのがマイナス要素になっています。
                                     
 感想戦の感じだとここで先手は諦めたようで☗6五桂と攻め合いにいきました。ただこの手はぬるい手なので,苦しくてもとりあえず☗7五銀と逃げておいて,手数だけは伸ばしにいくという指し方をする棋士もいるのではないかと思います。こういうのは個人の性格にもよりますが,ちょっと淡白な気もしました。
 ☖8九角に☗7九飛と受けるのもおそらく負けを早める手だったと思いますが,これは自分が負けということが分かりやすい局面に誘導するサービスだったかもしれません。
 ☖7八角成☗同飛☖8九角☗7七飛☖6六桂☗同歩☖5七桂成。後手としては気持ちの良い手順の連続で王手龍取りが掛かり,先手の投了となりました。
                                     
 高見六段が先勝。第二局は28日です。

 『ゲーテとスピノザ主義』と関連する論考もこれで終了ですが,関連した書籍を紹介しておきます。
 僕は僕がいう汎神論論争に対する興味から『ゲーテとスピノザ主義』を読んだのですが,この本は僕が思っていたほどそのことに触れられていません。汎神論論争についてもう少し詳しく知りたいのであれば,中井真之の『ゲーテ『親和力』における「倫理的なもの」』をお勧めします。
                                     
 この本は題名からするとゲーテJohann Wolfgang von Goetheの自然科学の概念のひとつである親和力に関する研究書というイメージを抱かれるのではないかと思います。実際にそのイメージは間違いではありません。中井の探求の中心は,親和力は自然科学の概念でありながら倫理的な色彩も帯びていて,その倫理的色彩にスピノザ哲学が影響を与えているということであるからです。ただこの本には「F・H・ヤコービの「スピノザ主義批判」との関連において」という副題が与えられています。もしこの副題がなかったら,僕はこの本を手に取ることもなかったかもしれません。そしてこの副題から分かるように,ゲーテとヤコービFriedrich Heinrich Jaobiのやり取り,すなわち僕がいう汎神論論争の一部についてもその中に取り上げられているのです。
 内容は二部構成になっています。親和力に関する研究は主に第二部でなされています。この部分は自然科学に対する知識がある程度は必要とされるもので,僕はゲーテの自然科学そのものに関心があるわけではありませんから,内容の是非について何かをいうことはできません。ただ中井はここにスピノザの哲学の影響があるとみているので,スピノザの哲学と関連した考察はこちらの部分にも含まれています。
 第一部の方はゲーテにおけるスピノザの受容に関する論考で,親和力に関する論考のための前提になっています。このとき,『ゲーテとスピノザ主義』ではゲーテのスピノザ受容が多角的に考察されているのですが,中井の論考ではそのほとんどが汎神論論争と関連していて,メンデルスゾーンMoses Mendelssohnが何をいい,またヤコービが何をいい,ゲーテが何をいったのかが,ずっと詳しく紹介されているのです。なので汎神論論争に限定すれば,こちらを読む方が有益でしょう。
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大楠賞争奪戦&私論のまとめ

2018-04-16 18:58:31 | 競輪
 昨日の武雄記念の決勝。並びは阿部‐小松崎の北日本,和田‐山賀の南関東,村上‐坂口の近畿中部,松川‐山田‐園田の九州。
 和田がスタートを取って前受け。3番手に村上,5番手に松川,8番手に阿部で周回。残り3周のバックを過ぎると阿部が上昇。松川の外で蓋をしながらホームへ。ここで村上が動いて和田を叩くとバックに入って阿部が村上を叩いて先行態勢。阿部ラインを追った松川がそのまま阿部を叩きにいって打鐘からは先行争いに。この先行争いはホームで松川が強引に前に出ました。ただ途中で村上が園田をどかして山田の後ろに入ろうとしたので口が開き,山田の後ろに小松崎がスイッチ。小松崎の後ろに村上‐坂口という隊列になりました。バックで村上が発進するとコーナーから山田も番手捲りで応戦。山田マークになった小松崎が村上を牽制して村上はやや失速。そのまま粘り切って優勝は山田。うまく立ち回ることになった小松崎が半車身差で2着。直線で最内を伸びてきた園田が1車輪差で3着。
 優勝した佐賀の山田英明選手は前回出走の国際自転車トラック競技支援競輪から連続優勝。GⅢ2勝目で記念競輪は初優勝。ここは山田の地元ということもあり,前を任された松川には先行意欲が高いだろうと思われました。阿部の抵抗は予想されましたが,強引にでも松川が先行することができたので,その時点で優勝のお膳立ては整ったというレースに。園田が離れずについてこられれば,もっと楽なレースになっていたものと思われます。

 排他的感情および排他的思想に関連する私論はこれで終了とします。特定の個人,国家Imperium,宗派,民族といった人間あるいは人間集団をターゲットとした排他的思想がスピノザの哲学の下に許容され得ないことはいうまでもありません。とりわけ僕が詳細に検討したように,不安metusおよび憤慨indignatioという感情は,容易に排他的思想に転化してしまう面があるので,スピノザ主義者たらんとする人はそれをよく弁えておかなければならないと思います。
                                
 第三部定理一三により,僕たちは僕たちに悲しみtristitiaを与えるものを忌避しようとします。加えて僕たちは時間tempusを表象しますから,不安という感情affectusに苛まれることは避けようがありません。そしてその不安の対象が人間であったり人間集団であったりすることもあるでしょう。一方,僕たちは第三部定理二二の様式の感情の模倣imitatio affectuumをしますから,憤慨という感情に捉われるということも避けようがありません。スピノザ主義は人間や人間集団に対する不安や,憤慨といった感情に刺激されることを禁止するものではありません。それらは人間の受動的自由に属することであり,それを禁ずることは不可能なことを要求しているのに等しいからです。ですがスピノザ主義者は,そうした感情に刺激されたときにも,それに支配はされないように,常日頃から気を付けておかなければなりません。そうでなければ僕たちは第三部諸感情の定義二八の意味であれ第四部定理五七備考の意味であれ,容易に高慢superbiaに支配される排他主義者になってしまうでしょう。いい換えれば第三部定理二六備考にいう狂気の人となってしまうでしょう。
 さらに第四部付録第二四項にいわれるように,人間に対する憎しみodiumは,憎んでいる相手と友情を育むことを妨害する,あるいは拒絶するという意味において非礼であるだけでなく,社会正義に反する感情であるのです。僕たちは僕たちの自然権jus naturaeを拡張するために社会ないしは国家Civitasを形成するのです。したがって人に対する憎しみに支配されることは,僕たちの自然権の拡張にとってむしろ不利益になるということを理解しておく必要があります。それが僕たちは無法律の下で暮らすことになるという意味であるからです。
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