スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

プロモーターとしての馬場&物の表現

2013-05-31 19:09:18 | NOAH
 馬場はレスラーとして超一流でした。一方,全日本プロレスを設立してからは,興行を主催するプロモーターという立場にもなったのですが,こちらの面でも一流であったようです。これについてはルー・テーズが証言しています。
                         
 馬場は1999年1月31日に死にましたが,その死は少しの間だけ伏せられることになり,正式に報道されたのは翌日の午後7時の記者会見を受けて。ですから新聞紙上では2月2日付の朝刊での報道となったのです。
 朝日新聞はこのニュースを一面と社会面で報じましたが,その中にテーズのコメントがありました。その中に,馬場は経営者としても一流で,約束は必ず守り,ギャラの未払いはもちろん,遅配もなかったと語っています。一般常識からすれば,当然のことといえるかもしれませんが,テーズによればこれはプロレス業界では異例であったそうです。確かに興行が主な収入源ですから,ひとつ失敗があれば,経営者が金銭の確保に困窮するということはあり得るでしょう。馬場の全日本プロレス設立には,アメリカ修行時代に稼いだ高額のファイトマネーが有意義に働いたのだろうと思うのですが,こちらにも同様のことがいえたかもしれません。
 ゲーリー・オブライトは,UWFインターで居場所を失いつつあった時期に馬場からオファーを受けました。そこで今後の身の振り方について,当時のUインターの顧問格であったテーズに相談したそうです。するとテーズは,馬場は正直で誇り高いプロモーターであるから,もしも全日本プロレスに行くチャンスがあるなら,そう選択するべきだとアドバイスをしたそう。オブライトは1995年10月から全日本で仕事をするようになりましたが,テーズの助言が大きかったと語っています。
 しかし,馬場のプロモーターとしての手腕を語る上で欠かせないのは,もっと別のことだと僕は思っています。

 物が神の本性の必然性に合致するすべての作用をなし,それに反するあらゆる作用をなさないということが,その物にとっての否定でも限定でもないということは,物自身に注目するだけでも帰結するように思えます。というのも直前の第一部定理二五系では,物というのは神の属性の変状なのであって,神の属性を一定の仕方で表現する様態であるといわれているからです。
 このことからして,物は神の属性を表現する限り,何ら否定的ではないし,限定的でもないと理解されなければなりません。むしろ物にとって限定あるいは否定とは,それが神の属性を表現しないということの方にあるといえます。したがって,物は神の本性の必然性に則している限りでは限定されたものとも否定的なものともみなすことはできませんが,もしも神の本性の法則に反して作用するということがあったとしたなら,その場合には否定的なもの,限定的なものとみなされなければならないのです。
 したがって,もしも物が,神による決定と無関係に,いい換えれば自由原因である神の決定以外の原因によって作用するということがあるとしたら,それは物が神の属性を一定の仕方で表現していないような作用である,つまり神の本性の法則に反する作用であるということですから,むしろ物自身にとって否定的な作用だといわざるを得ません。同じように,もしも物が自由原因である神の決定を覆して,決定されたその作用をなさないということがあるとしたら,それもまた神の本性の必然性に反すること,すなわち神の属性を一定の仕方で表現していないということですから,やはり物にとって自身の否定であると解さざるを得ないのです。
 このように考えるならば,第一部定理二六第一部定理二七も,物について一切の否定も限定も含んでいないということは,もはや明白であるといえるでしょう。むしろこれらふたつの定理に反して物が作用するということがあるとしたら,そのことの方が物にとっての限定であり否定であるということになるのです。
 物は神の決定に従う限りで積極的であり得るのですが,それに反する限りでは積極的ではあり得ないと考えなければなりません。
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王位戦&神の決定

2013-05-30 19:28:23 | 将棋
 それぞれのリーグを全勝で駆け抜けた両者での対戦となった昨日の第54期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は佐藤康光九段が10勝,行方尚史八段が7勝。
 振駒で行方八段の先手。佐藤九段の一手損角換り4からのダイレクト向飛車。角を打ち合って取り合う形から,後手が早々に端に角打ち。構想力が問われる将棋になりましたが,後手の指し方がまずかったようで,一直線の攻め合いに入ったところでは先手が優位に立っていたように感じられます。ただ,実際に進んでみるとかなり難しかったです。
                         
 先手が王手と歩を成ったところ。△5一王と逃げていますが,△5二王だと自信がなかったという先手の感想があります。▲6三とと取ることができました。対して△6二歩と受けていますが,これは終盤の手としては迫力不足の感じ。▲5二銀△同飛▲同と△同王で清算。▲3四角と王手しました。そこで△4三銀と受けたのが決定的な敗着だったようです。先手は▲7一飛と打ちました。
                         
 このとき,4三に打ってあるのが金だと後手の駒台に銀があり,△8六金▲同歩△8七銀と角にヒモを付けながら攻め込む順があったとのこと。これを逃したので第2図からは△3四銀▲7六飛成。これは一時的にであれ先手玉がかなり安全となり,勝負の帰趨が見えたようです。一手違いになったのは個人的には驚きだったのですが,先手がそのまま勝っています。
 行方八段が勝って挑戦者に。タイトル戦初出場。第一局は7月10日と11日です。

 このように帰納的に考えるなら,第一部定理二六第一部定理二七で神の決定といわれている事柄を,実はそんなにも重大な事柄とは考えなくてもよいように思えてこないでしょうか。実際,神による決定の質的な意味での重さというのは,それがどんな決定であったとしても均一なものとして考えられなければならないのです。そしてそうであるならば,各々の具体的な決定というのをみるとき,それは一つひとつが重大な決定であると考えることも可能ですが,逆に,決定などとは意識しなくてもよいような決定なのだと考えることもできる筈だからです。
 これらの定理でいわれている物の作用に関していうならば,もはやそれを神による決定という要素を捨象してしまっても,考えることが可能です。すなわち,物は神の本性の必然性に適合するような作用であれば,その作用をすべてなすでしょう。逆に神の本性の必然性に反するような作用があるとしたら,そんな作用をなすことは絶対にないでしょう。また,物が現に作用をするとして,その作用の側からこれをみる場合には,すでに示したように,物はそれが神の本性の必然性に適合するからその作用をするのであり,それ以外の,その物がなさない作用に関しては,それが神の本性の必然性には合致しないからなさないということになります。
 したがってこれをまとめれば,物は神の本性の必然性に十全に従って,従うということばが何か強制的な要素をイメージさせてしまうのであれば,神の本性の必然性に則して,ある作用をなしたりなさなかったりするということになります。しかるに神の本性の必然性というのは,神自身のうちから生じます。というか,神の本性の必然性とは,力という観点から把握される神の本性そのもののことだと考えられるべきでしょうから,第一部定理三四により,それは神の本性そのものなのです。したがってこれは第一部定義七でいわれている自由であるものにほかなりません。よって,物が神の本性の必然性に則して作用したり作用しなかったりすることは,何らその物にとって否定的なことではありませんし,限定的なことでもないということになります。
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農林水産大臣賞典さきたま杯&決定の重さ

2013-05-29 18:49:21 | 地方競馬
 上位馬にそれほどの力量の差がないと思えるようなメンバーでの対戦となった第17回さきたま杯
 先手を奪ったのはサイモンロード。ただ,コアレスピューマとナイキマドリードが絡んでいき,3頭が雁行。ティアップワイルドも差のない4番手に続き,セイクリムズンはその後ろ。以下,ダイショウジェット,コスモワッチミー,ハルサンサン,スーニと続き,下げて最後尾から外を追い上げたテスタマッタがその後ろに。最初の600mは36秒6で,ミドルペースといえると思います。
 雁行した3頭のうちナイキマドリードの手応えがよく,3コーナーでは先頭に。外を捲るように追い上げてきたテスタマッタが2番手まで上がって直線。そのままの勢いでテスタマッタが外から差し切り優勝。馬群を抜け出して追い込んだセイクリムズンが半馬身差で2着。粘ったナイキマドリードが2馬身差で3着。
 優勝したテスタマッタは昨年のフェブラリーステークス以来の勝利で重賞4勝目。大レースを2勝している馬ですから,優勝候補の1頭。浦和の1400mというのが向くとは思えなかったので,個人的には軽視していたのですが,先行争いが激しくなって幸いしました。能力の高さはもちろんですが,ジョッキーの好騎乗も大きな勝因となったように思います。Testa Mattaはイタリア語で正気でない頭。
 騎乗した戸崎圭太騎手は第15回以来2年ぶりのさきたま杯2勝目。管理している村山明調教師はさきたま杯初勝利。

 物の作用というものは,必然的であるか,そうでなければ不可能であるかのどちらかです。すなわち必然的であるならば物はその作用をなすでしょう。いい換えれば神は物がその作用をなすように決定するでしょう。逆に不可能であるならば,物はその作用をなしません。いい換えれば,神が物にそうした作用をなすように決定することはありません。他面からいえば,物がそうした作用をなさないように決定するということになります。
 このことから分かるように,神による決定,これは物の作用への決定に限ったことではなく,神による決定といわれ得るすべての場合に妥当しますが,そこには質的な意味において重さの大小といったものはありません。あるのは必然であるか,それとも不可能であるかのどちらかでしかないのです。
 これもまた,僕たちが決定ということを普通に認識している場合と大きな隔たりがあるといえるのではないでしょうか。僕たちは容易に思えるような決定がなされる場合には,大した決定がなされたわけではないと考えがちです。とくにそれがごくごく容易に感じられたならば,その決定を決定として意識することさえない場合というのがあるように思えます。これに対して,何か困難と思えるような事柄が決定された場合には,重大な決定がなされたというように認識します。しかし神による決定には,こうした意味での重さの差異はいっかなありません。そもそも困難さとか容易さといった事柄は,必然と不可能の中間から発生してくるのだといえると思いますが,神による決定は,必然であるか不可能であるかのどちらかでしかないのですから,その決定に質的な差異,あるいは重さの差異といったものがないということは,当然といえば当然のことであるともいえます。
 ところで,物の作用が必然であるか不可能であるかのどちらかであるということが判明したならば,これを帰納的に考えることも可能になります。つまり,現に物がある作用をなすならば,それはそのことが神の本性の必然性に合致しているからなのです。これと逆に,物がある作用をなさないのは,それをなすことが神の本性の法則に反するからだといえます。
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宇都宮ワンダーランドカップ&決定の内実

2013-05-28 18:52:47 | 競輪
 全プロがあったために少し間のあいた記念競輪。宇都宮記念は今日が決勝でした。変則的な並びとなり,神山拓弥ー幸田の栃木,武田-神山雄一郎の茨城栃木に藤田,田中ー和泉田の千葉で,浅井と松岡は単騎。
 スタートは田中が取ってそのまま前受け。最初は武田が3番手にいましたが,上昇した浅井を入れて武田は4番手に。7番手に神山拓弥,最後尾に松岡という周回に。残り2周のバックに入ってから神山拓弥が上昇し,田中を叩いたところで打鐘。松岡が続かなかったので,武田が切り替えるように田中と3番手並走。そのままホームから踏み込んでいき,武田の先行に。最初に捲っていったのは田中。さらに外を松岡。松岡の勢いがよく,出るところまでいったのですが,単騎ですから神山雄一郎がスイッチ。バック9番手になった浅井も大外を捲り追い込み,これが届いての優勝。松岡は捕えた神山雄一郎が2車身差の2着。力尽きた感じの松岡は4分の3車身差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は昨年11月の松阪記念以来となる記念競輪7勝目。宇都宮記念は初優勝。バックで最後尾ですから位置取りとしては最悪に近いものでした。ただ,捲り合戦のようなレースとなったため,かえって脚を残す結果となり,むしろ幸いしたともいえそう。やや調子を落としているのかなという感じがあったのですが,やはり力があります。記念競輪に出走すれば優勝候補でしょうし,またビッグも獲得できるのではないでしょうか。

 このように考察してきますと,第一部定理二六第一部定理二七で決定ということばが用いられるとき,それは僕たちが普通に決定ということばの意味としてイメージする内容と,だいぶかけ離れているものであるということが理解できます。個物の作用に限らず,スピノザが神の決定というとき,そこに含意されている内容は,端的にいってしまえば,神の本性の必然性に合致する事柄はどんなことでも生じ,逆に神の本性の必然性に反する事柄は絶対に生じることがないということなのです。
 僕たちは普通はそうは考えません。僕たちは困難であると思えるようなことはそれだけ生じにくく,逆に容易であると感じられるようなことはそれだけ生じやすいと認識するのが普通でしょう。しかしスピノザの哲学においてはこれが妥当しません。そもそも困難さとか容易さというのは,事物の本性に属するわけではありませんし,事物の本性から帰結する特質ですらないと考えるべきなのです。それらは存在するというならば,思惟の様態としてのみ存在し得るというべきです。ですからどう高く見積もったところで,困難さも容易さも理性の有以上のものではあり得ないと僕は思います。いい換えればそれらは,実在的有ではないのです。
 ではこのような意味における神の決定というものと,関連する要素を『エチカ』の中から見出そうとするなら,それは,必然と不可能が対立概念であるということ,そして偶然と可能は,精神の欠陥,あるいは欠陥とまではいわないとしても,認識の不足に依拠するということであると僕には思えます。すなわち,神の本性の法則に合致するような事象は,それがどんなに困難に思われるとしても必然的に生じ,逆に神の本性の法則に反するような事象というのは,たとえそれがどんなに容易に感じられるようなことであったとしても,生じることが不可能なのです。つまり困難さとか容易さといった認識が,偶然とか可能といった認識に直接的に結びつくのですが,実際には,どんな事象も必然的であるか不可能であるかのどちらかでしかないということになります。
 個物の作用は事象のひとつです。ですから上述のことが該当することになります。
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キャットクイルとパシフィカス&決定の要素

2013-05-27 18:55:53 | 血統
 昨日の日本ダービーを素晴らしい末脚で差し切ったキズナ。この馬の母は1990年に産まれたキャットクイル。Catequilはインカ帝国の神の名前のようです。ファミリーナンバー13-a
                         
 1994年に輸入され,繁殖生活は日本のみ。初年度産駒が1998年の桜花賞と秋華賞を勝ち,JRA賞最優秀3歳牝馬,2000年にはトゥザヴィクトリーなどを降してエリザベス女王杯に優勝,JRA賞の最優秀4歳以上牝馬に選出されたファレノプシス。いきなり大物を出したことになります。
 1999年に産まれた産駒は日本では出走せず,アメリカの調教師に預けられました。このブログでいう馬の国籍ではアメリカ馬となったわけです。Sunday Breakと名付けられたこの馬は,GⅠには手が届かなかったものの,後の2008年,馬の国籍では今度は日本馬となるカジノドライヴが勝つことになるピーターパンステークスGⅡを2002年に勝っています。
 キズナはファレノプシスからみて15歳下の半弟。まだ活力を維持していたわけで,キャットクイルは素晴らしい繁殖牝馬だといえるでしょう。
 キャットクイルが輸入された背景には,9歳上の半姉,パシフィカスが日本で繁殖生活を送っていた点が挙げられます。Pacificusはするめいかという意味もあるようですが,人名だと思います。
 こちらはイギリスで繁殖生活を送ってから1989年に輸入。そのときにシャルードの仔を宿していて,1990年産の日本での初年度産駒は1993年に菊花賞を勝ってJRA賞年度代表馬,翌1994年には天皇賞(春)とベガも出走した宝塚記念に優勝,JRA賞最優秀4歳以上牡馬に選出されたビワハヤヒデ
                         
 翌年の産駒は1993年に朝日杯3歳ステークスに勝ちJRA賞最優秀2歳牡馬,1994年は皐月賞,日本ダービー,菊花賞の三冠と,有馬記念を優勝,JRA賞年度代表馬に選出,引退後の1997年に殿堂入りを果たしたナリタブライアン
 さらにナリタブライアンの全弟で1995年に産まれたビワタケヒデは,1998年にラジオたんぱ賞を勝ちました。
 キズナからみるとパシフィカスの3頭の仔は,従兄になるわけです。
 久々の重賞勝ち,大レース勝ち馬ですが,近親も多く輸入され,日本での枝葉は広がりつつあるところ。一族でみれば,さらに大レースの勝ち馬が輩出してもおかしくないと思います。

 神が物を作用に決定するという命題と,物が神によって作用に決定されるという命題が,同じような意味において真の命題であると仮定して,重要になってくるのは,ここで決定といわれていることを構成する要素がどのようなものであるのかということです。いい換えれば,神が物を作用に決定するという命題,および物は神によって作用に決定されるという命題は,『エチカ』においてはどのような意味をもっているのかということです。
 再三にわたっていっているように,『エチカ』の神は意志によって働いたり作用したりするような実体ではありません。したがって当然のことながら,この決定も神の意志による決定ではないということになります。いい換えれば,神の意志はこれらの命題の決定の要素を構成したりはしません。
 もしも神が意志によって働くものであるとしてみましょう。この場合,神が物を作用に決定するということの意味は,神がその意志によってある物に何らかの作用をさせ,またある物には何の作用もしないように決定するということになります。一方,物はこの決定からは逃れられないということはすでに明らかになっていますから,要するにすべての物は神の意志に随意して,ある作用をなしたりなさなかったりするでしょう。この場合,確かに神は自由に物に対して決定をなし,物は神によってすべての作用を強制されると考え得ると僕は思います。しかし神は意志によって決定を下すわけではありませんから,このような仮定は無意味といえば無意味でしょう。しかし,もしもこのように考えなければ,強制ということを規定することができないのであるなら,ただ単に,これは仮定にすぎない,そして真理ではないというだけで,ふたつの命題が物に関する強制を含意していないということにはなります。
 では実際に決定を構成する要素は何であるのかといえば,それは神の本性の必然性なのです。つまり神はその本性の必然性によって物を作用に決定します。逆にいえば,もしも神が物をある作用に決定しないとすれば,それはその物がその作用をなすことが,神の本性の法則に反しているからだと理解しなければなりません。
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東京優駿&補足

2013-05-26 19:04:14 | 中央競馬
 今年もこの日がやってきました。第80回東京優駿
 サムソンズプライドも可能ならば逃げたかったでしょうが,枠順の差もあってアポロソニックがハナへ。サムソンズプライドがすぐに2番手に控えたので,ペースは緩みました。このために今日も折り合いをつけられなかったメイケイペガスターが向正面で外を上昇。途中から先頭に。これらに続いたのがペプチドアマゾンで,ここまでが先行グループ。ロゴタイプがフラムドグロワールと並んで好位の先頭。内のクラウンレガーロ,外のミヤジタイガと共にコディーノがこれをマーク。その後ろのインコースに控えたのがエピファネイア。外にはタマモホットプレイ。後方グループの先頭にヒラボクディープで,マイネルホウオウが続き,ラブリーデイとキズナが並んで追走。最初の1000mは60秒3で,ミドルペースに近いかもしれませんが,やはりスローペースでしょう。
 今日は前が止まりにくい馬場でこのペースでしたから,前にいた組のうち伏兵の2頭,アポロソニックとペプチドアマゾンがかなり粘りました。しかしそれを直線で外に出されたエピファネイアが交わして先頭に。しかしそれも一瞬だけ。さらに外を豪快に伸びたキズナが一気に抜き去り,半馬身差で優勝。エピファネイアが2着。1馬身4分の1差でアポロソニックが3着に粘り込みました。
 優勝したキズナは毎日杯,京都新聞杯と連勝中で,大レースは今日が初出走。連勝中と相手は違いましたが,末脚の鋭さは特筆もので,通用はするだろうとみていた馬。スローペースで瞬発力勝負になったのはこの馬にとってはよかったのではないかと思います。器用さには欠けるタイプという印象で,広々としたコースに適性が高いのではないでしょうか。今後もかなり活躍が見込める筈です。父は第72回優勝のディープインパクトで父仔制覇。半姉にJRA賞で1998年に最優秀3歳牝馬,2000年に最優秀4歳以上牝馬に選出されたファレノプシス
                         
 騎乗した武豊騎手は昨年のマイルチャンピオンシップ以来の大レース制覇。第65回のスペシャルウィーク,66回のアドマイヤベガ,69回のタニノギムレット,第72回のディープインパクトと制していて,8年ぶりの東京優駿5勝目。管理している佐々木晶三調教師は一昨年の宝塚記念以来の大レース制覇。日本ダービーは初勝利。

 この結論は,さらに別の観点から補足することができます。僕は第一部定理二六でいわれている必然ということばの意味に注目したのですが,そうではなく,神が物を作用に決定するという場合の,決定ということをどのように理解するべきかということに着目しても,結論は同様のものとならざるを得ないからです。「スピノザのマテリアリスム」での論考は,どちらかといえばこの観点に主眼を置いているように僕には思えます。
                         
 まず,ごく一般的に,次のことが正しいと仮定しておきます。たとえばAがBに対してある決定をなすということが真理であるなら,いい換えれば,この言明が真の命題であるとするならば,BはAによって決定されるということも真の命題でなければならないということです。マシュレは働きと作用は観点の相違に帰着すると主張したようですが,もしもそのように主張するのであるなら,その原理というのは,この一般論を基軸として派生するのだと僕は思います。ただし,前にも述べたように,僕自身は働きと作用を観点の相違に帰することには疑問を抱いています。
 そこでこの一般論からすれば,決定ということは,決定するものと決定されるものとの,ふたつの観点を共有していると理解することが可能です。第一部定理二六に関していうならば,それは物を作用に決定するものとしての神と,神によって作用に決定されるものとしての物であるということになります。そして,神が物を作用に決定するということは,真の命題であるとみなさなければならないわけですから,物が神によって作用に決定されるということも,真の命題としてみなされなければならないということになります。
 厳密にいうなら,僕はこの点に関してもある疑問を抱きます。というよりも,このことの正当性を疑わしく思います。つまりここでいわれている決定に関しては,この一般論が妥当しないのではないかという疑念を有しているのです。ただし,これについては現在の課題にとってそれを深く追求する必要性がありませんから,便宜的に無視してしまうことにします。つまり,神による物の作用への決定に関するふたつの命題を,真の命題とみなすことにします。
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長編の理由&必然の意味

2013-05-25 18:54:46 | 歌・小説
 ドストエフスキーの小説が長いものとなっている理由として,僕は登場人物の数が多いこと,そしてそうした数多くの登場人物が交わす会話の分量が多いことを上げました。これはいわば小説の内部に原因を求めたといえます。『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』の中で,貝澤哉が,僕が知らなかった別の観点からこの事情を説明しています。
                         
 ドストエフスキーが小説を書いていた時代,ロシアの識字率というのは,多く見積もっても20%を超えていませんでした。つまり小説を読むことができるという人は,それだけでインテリとみなすことができたのです。そしてロシアは広大な国家ですから,そうしたインテリというのも各地に分散していました。このために,町で書店を営むということはほぼ不可能でした。よってこの時代の小説は,単行本として読まれるということがあまりなかったのです。
 各地のインテリには書物に対する渇望はありました。それに応えるべく,文芸誌のようなものが多く発行され,これらは書店を通してではなく,宅配で売られました。このためにこの時代は雑誌の編集者の方が作家より立場が強く,実際にドストエフスキー自身も雑誌の編集に携わっています。そして小説の多くはこうした雑誌に掲載されました。
 この時代,ドストエフスキーに限らず,ロシアの小説はおそろしく長いものが多いのですが,そこにはこういった要因があったようです。買い手であるインテリの要求に応えるためには雑誌は可能な限り厚くする必要が編集側にあり,作家はそれに応えるために小説自体を長くしたのです。一話で完結するわけではなく,何冊かに分けて発表されるとなればなおさらだったでしょう。
 確かにこういった外的要因に強いられて,ドストエフスキーの小説も長編が多くなったのまもしれません。登場人物の多さとか,会話の分量の多さなども,むしろ必要性に迫られたからだと考えることもできそうです。

 それでは第一部定理二六必然ということばが用いられるとき,それはどのような意味でいわれているのかということが問題になってきます。もしもこれが自由との関連において用いられているのなら,それは積極的であるといえる要素を構成することが可能です。しかしもしも強制との関連でいわれているのだとしたら,それは積極的であると規定することができる要素を構成するということは不可能であるということになります。
 結論からいえば,僕はこれを自由との関連で解釈するべきであると考えています。ただ,これを説明するためには,もしもこれが強制との関連で必然的といわれているなら,この定理はどのように解釈されることになるのかということを考えておいた方が分かりやすいと思うので,先にそちらの方を考えておくことにしましょう。
 第一部定理二六をひとつの命題としてみるならば,この問題というのは,必然的ということが,何についていわれているのかという問いとほぼ同列に扱うことができると僕は思っています。そこでもしもこの必然的ということが,強制との関連でいわれていると仮定するならば,それは作用に決定される物についていわれているのです。第一部定義七と照らし合わせたときに,この定理でいわれている神の決定というのを,強制と関連付けて理解することは,第一部定理一七系二からしてできません。ですからこのことは間違いないといっていいでしょう。
 ところが,この解釈は,少なくともスピノザが意図しているところとは異なります。なぜなら,第一部定理二六証明の①の部分というのは,物が作用に決定されているということが積極的なもののためであるといっているからです。これはここまでの考察に関連させていうならば,物が作用に決定されているということのうちに,それが積極的であるとみなし得るような要素が含まれているのでなければならないということを,スピノザが主張しているということになるからです。したがってここでいわれている必然的ということを,強制との関連で理解するということは,スピノザの主張に明らかに反しているということになるのです。
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人と思想スピノザ&必然

2013-05-24 18:53:25 | 哲学
 スピノザと言語について説明したときに,工藤喜作の『スピノザ』を参照しました。
                         
 これは清水書院から発刊されている「人と思想」というシリーズの中の一冊。このスピノザ編はシリーズナンバーで58となっています。僕はスピノザしか所有していませんが,その巻末を見ますと200冊近くがあって,一大シリーズといえるでしょう。あくまでも掲載されているのがそれだけということで,その後に発行されたものがあるとすれば,200を超えていると思われます。発行は1980年。僕が所有しているのは第9刷で,2005年のものですから,そういう可能性はあると思います。
 人と思想というシリーズの題名からも理解できますように,この本は大きくいえば二部構成になっています。すなわちひとつはスピノザの生涯に関しての解説。僕が参照したのはこちらということになります。そしてもうひとつはいうまでもなくスピノザの思想の解説です。これはおそらくこのシリーズのすべてがそうなっているのではないでしょうか。ただし実際にはスピノザ編は三部構成となっていて,第一部がスピノザが生きていた時代の解説に充てられ,第二部がスピノザの生涯の解説となっています。
 スピノザは哲学の形而上学的側面よりは,実践の側面を重視していたと僕は考えています。ただ,この本の第三部,すなわちスピノザの思想の解説部分は,その大部分が『エチカ』の解説となっています。もっとも,スピノザの思想ということになれば,それを代表するのは『エチカ』をおいてほかにはないでしょうから,これは当然といえば当然かもしれません。
 哲学書にありがちな読みにくさはまったくありません。スピノザに関する入門書としては,とても良質なものだと思います。

 もうひとつ,「スピノザのマテリアリスム」に関連して,その首尾一貫性が保たれていると僕がみなす根拠,いい換えれば,僕が桜井直文とこれに関する結論の共有をする根拠としてあげたいことは,第一部定理二六そのものの中にあります。それは,物が作用に決定されるならば,それは神から必然的に決定されたのだとスピノザが主張している点です。ただし,これについて考える前に,ここでいわれている必然的ということをどのように解釈するべきであるのかということを確認しておかなければなりません。
                         
 第一部定義七は,まず,自己の本性の必然性のみによって存在し,働きに決定されるものは自由であるといっています。よってこれでみるならば,必然というのが自由と関係するということは明白でしょう。しかし一方で,ほかから存在と作用に決定されるものは必然的であるともいわれています。つまりこれでみるならば,必然ということばはむしろ強制のいい換えなのであって,自由とは対立するものであると理解しなければなりません。
 要するに『エチカ』は,自由であるものに関しても強制されるものに関しても,必然的であるといういい方が可能であるようになっているのです。いい換えれば,それが積極的であるとみなす要素が可能である事柄に関しても,逆にそれが積極的であるとみなすことが不可能になる要素に関しても,同じように必然的であるといい得るような内容を有しているのです。そしてスピノザは,必然ということがどのようなことを示すのかということに関しては定義を与えていませんから,今回の考察のように,そのどちらに解釈するのかによって結論が異なってしまうような場合には,どのような意味においてスピノザが必然ということばを用いているのかということを,その都度,確かめておかなければならないのです。
                         
 このような,必然ということばに関する問題意識というものは,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も有しています。実際に第一部定義七には訳注が付されていて,そこでは,この定義においては自由と必然が対立概念をなしているけれども,必然というのが自己の内部の法則とみなし得る場合には,むしろ自由と必然は合致すると説明されているのです。
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東京スポーツ賞川崎マイラーズ&一連の流れ

2013-05-23 18:52:19 | 地方競馬
 昨晩の第5回川崎マイラーズ
                         
 先行馬が揃っていましたので,どういう展開になるか予断を許しませんでしたが,事前に何が何でもハナを切ると宣言していた陣営の気迫が功を奏したか,トーホウオルビスが先手を奪取しました。2番手でマークしたのがピエールタイガー。リアライズノユメ,アーリーロブスト,クラーベセクレタ,エミーズパラダイスで,隊列はわりとすんなり決まりました。前半の800mは49秒5で,意外にもミドルペースに。
 先行各馬に力量差がありますので,3コーナーではトーホウオルビスは一杯。ピエールタイガーが先頭に立ち,追うことができたのは内のクラーベセクレタと外のエミーズパラダイスの2頭のみ。直線に入るとエミーズパラダイスも徐々に脱落。クラーベセクレタも前に届くような脚色ではありませんでした。先行各馬の後ろに位置し,4コーナーでは4番手まで上がってきていたスマートジョーカーが目の覚めるような末脚でこの2頭を鮮やかに外から差し切り,最後は2馬身半の差をつけて快勝。ピエールタイガーが2着。クラーベセクレタは1馬身半差で3着。
 優勝したスマートジョーカーは昨年6月から7連勝していた上昇馬。南関東重賞初挑戦で初制覇。ここは今までとは相手が違っていまして,ひとつの試金石であったのですが,一気に突破したのは立派というほかありません。展開の利がありましたし,斤量の恩恵もありましたから,純粋な能力で今日のメンバーでトップに立ったとは断言しにくい面もありますが,競馬の内容は素晴らしいものですから,南関東重賞では今後も中心的存在の1頭になるでしょう。父はサウスヴィグラス。全妹に昨年の桜花賞を勝っている現役のコテキタイ
 騎乗した大井の御神本[みかもと]訓史騎手は先週の大井記念も制覇していますので,2週連続の南関東重賞勝利。川崎マイラーズは初勝利。管理している船橋の川島正一調教師も川崎マイラーズ初勝利。

 では第一部定理二六第一部定理二七を,ふたつの観点のうち,どちらの観点から解するべきであるのかといえば,それは神の観点であろうと僕は思うのです。なぜなら,これらの定理がふたつの観点から読解が可能であるというのは,あくまでもこれらの定理を単独で抽出してみた場合にという条件が必要とされるからです。もしもこの条件を排して,『エチカ』における定理の配列の連関を重視してこれらの定理を眺めれば,それは神の観点に立って示されている定理であるとしか僕には考えられません。
 直前の第一部定理二五備考で,神が自己原因であるということと神が万物の原因であるということは同一の意味であるとスピノザは主張しています。このとき,自己原因というのはその定義である第一部定義一からして,第一部定義七でいわれている自由なものであるということは明白です。一方,神が万物の原因であるということは,それと同一の意味であるといわれているのですから,この場合にも神は自由なものとして万物の原因であるということでなければなりません。また,このことは単に第一部定理一七系二の反芻にすぎないともいえるでしょう。
 したがってスピノザがこれらふたつの定理の直前で主張していることは,神は神自身の本性の必然性によって働くものであるということだと解するべきだと思うのです。そしてその一連の流れの中から,まず第一部定理二六というのが出てきます。したがってこの定理は,作用をするように決定された物が主語とされているのですが,実際は神の本性の法則の働きによって,物は作用することになるということだと思うのです。そして第一部定理二六の後半部分と第一部定理二七は,物がそうした神による決定から逃れられないということを主眼に主張されているのではなくて,物を作用に決定する神の働きというのは絶対的なものであるということを主眼としていると思うのです。
 したがってこれは物に関するある限定や否定ではありません。いい換えれば,物が作用に強制されるという主張ではありません。むしろ神の本性の必然性に依拠して,物は作用することになるという主旨であると僕は理解するのです。
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女流王位戦&ふたつの観点

2013-05-22 19:20:44 | 将棋
 福岡県飯塚市の旧伊藤伝右衛門邸での対局となった第24期女流王位戦五番勝負第三局。
 里見香奈女流王位の先手で初手から▲2六歩と居飛車を明示。甲斐智美女流四段の△3四歩に▲2五歩。この指し方は相居飛車にすると後手が少し得をするということになっていて,甲斐四段はそれを選択しました。ちょうど前日から始まった名人戦と同じ立ち上がり。名人戦は矢倉に進みましたが,この将棋は互いに5筋を突いてから角換りという,定跡にはまったくない将棋に。先手は5筋に飛車を回り,銀が5五に出て中央を制圧。わりと早い段階から差がついていたものと思われます。
                         
 △5六歩の垂らしに中央の銀を引いた局面。ここで△2七角と打っていきましたが,結果論でいえば,別の差し方をするべきであったと思われます。▲3六角△同角成▲同歩までは一直線と思えます。そこで再度の△2七角。この手はあまりいい手ではなかったと思いますが,手の流れだけでいえばこれ以外にはあり得ないように思えます。そこで▲5四角。手をこまねいていては角の行き場がなくなりますから△3五歩はこの一手。そこで▲4八金と上がりましたが,この手が好手だったように思います。△3六角成▲同角△同歩と交換になったところで▲5六飛。△8六歩▲同銀としてから△2八角と打っていきましたが,ここではこれくらいしかやりようがないのかもしれません。▲3六飛△1九角成▲3四歩△同銀▲同飛となって,先手の駒得になりました。
                         
 攻めに効いていたとはいえない先手の香車と,後手の守りの銀の交換なので,単純な銀香交換よりもさらに先手の得が大きそうで,ここでは先手がはっきりとしたリードを奪っているといえそうです。将棋は後手からの反撃が有効な形ではなく,ほぼ先手が一方的に攻めて勝利を収めました。
 里見女流王位が勝って防衛に王手。第四局は来月5日です。

 第一部定理二六後半部分第一部定理二七も,ある否定あるいは限定を含んでいるわけではないと僕が考える根拠は,ふたつあります。それを順に説明しておきます。
 まず最初のものは,『エチカ』の全体の連関あるいは流れの中において,これらふたつの定理がどのような位置付けにあると理解されるべきなのかという考え方です。
 それだけを単独で抽出してこのふたつの定理を読解すると,両方ともふたつの観点から読むことが可能な文章になっていると思います。ひとつは,ここまでの考察で主に提出してきたもので,これを物の観点から読解するものです。この場合,ものは神に決定されることによって作用することが可能となり,その決定を受けなければ作用をなすことは不可能であり,かつその決定を受けたならばそれを覆して作用しないということも不可能であるということになります。
 しかし一方で,実はこれらの定理というのは,神の観点という別の観点から読解することも明らかに可能だと思うのです。この場合には,神が決定することによって物は作用することになり,その決定は絶対的なものであるということになります。念のためにいっておきますが,この場合に神の決定というのは,神の意志による決定ではありません。神の本性の必然性による決定です。
 物の観点からふたつの定理を読解するなら,確かにそれは物に対する限定ないしは否定的なことについて言及されているといえます。しかし神の観点からこれらを読解するなら,むしろそこでいわれていることは神の働きそのもの,しかもそれは神の本性の法則のみに従うような神の働きであるということになります。いってみればこれは第一部定義七でいわれている自由であるものについて言及されているということになります。したがってこのようにこれらの定理を解する限り,そこには純粋な肯定だけが含まれているのであって,一切の否定や限定は含まれていないと理解されなければなりません。もちろん,それが純粋な,絶対的な肯定であるから,直ちに積極的であるとはいえないかもしれません。しかし少なくとも,積極的といい得る要素を十全に構成しているといえます。
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スズカマンボ&結論の共有

2013-05-21 19:02:56 | 名馬
 日曜日のオークスメイショウマンボの優勝でした。馬名は父であるスズカマンボからとられたものです。
 祖母がキーフライヤー。母の従兄のダンスインザダークなど,近親に多くの重賞勝ち馬がいる良血。
 デビューは2歳8月。2戦目の未勝利で初勝利。4戦目に京都でオープンを勝ちました。
 クラシックを目指してトライアルのオープンを2着して皐月賞に挑戦。これはダイワメジャーの17着と大敗。京都新聞杯2着で賞金を加算してダービーへ。これはキングカメハメハの5着でした。
                         
 休養に入って秋は古馬相手の朝日チャレンジカップで復帰。武豊騎手騎乗で重賞初制覇。これをステップに菊花賞に向いましたが6着。さらに鳴尾記念も使いましたが2着でした。
                         
 また休養し4歳春はオープン特別で復帰。これは3着でしたが続く天皇賞(春)で安藤勝己騎手の好騎乗に導かれ,大レース制覇を達成しました。
 これで休養。この年の秋に3戦,翌春も1戦したのですが,3着が最高。大敗も多くそれで引退となりました。
 重賞2勝,大レース1勝は,種牡馬になる馬としてはとくに秀でたものではありません。ただし,母系の優秀性は強力なバックボーンとなる筈。メイショウマンボが初の重賞勝ち産駒にして大レース勝ち馬ですが,まだ大物が出てもおかしくはない魅力のある種牡馬だと思います。

 一見したところ矛盾したことを主張しているようにも思える「スピノザのマテリアリスム」に,首尾一貫性を保たせるために必要なことは,実はたったひとつしかありません。それは第一部定理二六後半部分第一部定理二七でスピノザが示している,ものは神Deusによる決定なしには作用することがなく,また逆にある作用をするように決定されたならばその決定を覆して作用しないようにすることはできないという場合の,神による決定というのを,第一部定義七に照らし合わせたときに,強制するといわれるような決定ではないと『エチカ』を読解することです。そして実際にこの読解は行われています。そこでは,第一部定理二六の決定が積極的なものであるならば,その決定を否定的な限定determinatioと解することはできないという主旨の記述がありますし,その少し前には,この決定は第一部定義七で強制されたといわれている決定ではないという主旨の記述もあります。
                         
 先述したように,桜井直文はその読解の根拠として,働きと作用の相違に注目しました。つまり作用の直中には働きがあるという解釈をすることで,それは第一部定義七における強制ではないと解釈したのです。神は神自身の本性natura,essentiaの必然性necessitasによって働くagereものですから,確かにこの観点からも,この決定というのが,自由であるといわれるべき決定なのであって,強制されたといわれるような決定ではないということは明らかにできていると僕も思います。ただ,僕自身は論拠としてはこのことを採用はしませんので,桜井の論拠,あるいはマシュレの論拠というべきなのかもしれませんが,それについてはこれ以上の是非を問うような言及はしません。もしも興味があるというのであれば,実際に「スピノザのマテリアリスム」を読んで,各々でその正当性を判断してください。
 ただし,僕は桜井が提出している結論に関しては同意します。すなわち第一部定理二六と第一部定理二七でいわれている決定というのは,何ら否定的な事柄,ないしは限定的な事柄を含むものではないという見解については,僕も桜井とそれを共有します。そこで,ここからは僕がそう理解する根拠を説明していくことにしましょう。
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クリスフライヤー国際スプリント&首尾一貫性

2013-05-20 18:48:02 | 海外競馬
 日本時間で昨夜8時50分の発走となった,シンガポールでのクリスフライヤー国際スプリントGⅠ芝1200mに,2010年のセントウルステークス,2011年のオーシャンステークスとCBC賞を勝っているダッシャーゴーゴーが出走しました。
 11頭立てで9番枠。やや出負けしたように見えましたが,それほど後方になることはなく,前に2頭,その後ろに2頭,そしてその後ろの外という位置からの追走に。あまり動きのないまま直線に入ってきましたが,ここから追い出されると伸びを欠き,最後は流すように10着入線。といっても1頭は直線で落馬していますので,実質的には最下位でした。
 状態がどの程度のものであったかは分かりません。ただ仮に絶好調であったとしても,この馬の力では厳しいのではないかとみていました。日本からもようやくこの路線で世界を相手に戦える馬は出てきたのですが,それは本当にトップクラスの馬に限られるということなのではないでしょうか。

 このように検討してみると,「スピノザのマテリアリスム」は,どこか矛盾していることを主張しているというような印象を受けないでしょうか。なぜなら,第一部定理二六後半部分は,第一部定義七に照らし合わせれば,ものは神に強制されない限り作用することはないと主張されているように思えます。そして第一部定理二七というのは,ものはその強制から逃れることができないと主張されているように思えます。しかるに第一部定義七で強制されるといわれているとき,それは明らかに強制されるものについての否定ないしは限定なのであって,このことが積極的であるといわれ得る事柄の要素を構成するということは不可能です。しかし一方では,第一部定理二六の後半部分も第一部定理二七も,それが積極的であるといわれ得るような要素を構成すると考えなければ,「スピノザのマテリアリスム」の主張は成立しないのです。したがってこれでみれば,そこでは相反する,あるいは両立することが不可能であるようなふたつの事柄が,同時に主張されているかのようなのです。
                         
 実際にはこれは抱かれる印象だけを基にしたもので,桜井直文は矛盾したことを主張しているというわけではありません。むしろ桜井の主張というのは首尾一貫したものだと読解できるようになっています。そしてその場合に桜井が重視するのが,働きと作用のスピノザの哲学における相違です。もののある作用の真っただ中に神の働きがあるということから,この作用というのは積極的とみなされる要素を構成するということになっています。マシュレは働きと作用というのは,単に観点の相違にすぎないと主張したと桜井はいっています。ただし,僕はこれについては,単に観点の相違,いい換えれば同じ事柄の別の側面であると理解することは,必ずしも妥当ではないのではないかと思っています。また桜井は,確かにそうしたマシュレの主張についてはそこで紹介しているものの,自身の見解というものを明確にしているとはいえず,これをどう考えているのかは不明です。
 もっとも,桜井の首尾一貫性の保ち方との関係を除去すれば,このことは現在の考察とは直接は無関係です。
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優駿牝馬&強制と自由

2013-05-19 18:45:40 | 中央競馬
 この時期の3歳牝馬にとっては過酷と思える条件の第74回優駿牝馬
 このメンバーですとクロフネサプライズの逃げになるのは自然。追っていったのは2頭でサクラプレジールとトーセンソレイユ。好位から中団にかけては集団となり,クラウンロゼ,ティアーモとフロアクラフト,リラコサージュ,エバーブロッサム,メイショウマンボとアユサンとスイートサルサまで。最初の1000mは59秒6のハイペース。実はスローな流れになることを予想していたのですが,逃げ馬は抑えが効かなかったのではないかと思います。
 今日はあまり前が止まらない馬場状態ではありましたが,さすがにこのペースでは先行勢は苦しく壊滅。かといって後方から届くような馬場状態ではなく,中団に位置していた馬に有利に働きました。その1頭,メイショウマンボが直線で大外に出されると瞠目の末脚で一気に突き抜け,1馬身半差で快勝。これを追うような競馬になったエバーブロッサムが2着。前半は最後尾に位置したデニムアンドルビーもよく伸びてはきましたが,今日のところは2馬身差の3着が精一杯。
 優勝したメイショウマンボは前々走のフィリーズレビュー以来の重賞2勝目で大レース初勝利。そのときの内容が非常に強く思えましたので,桜花賞は大敗でしたがここも候補の1頭と考えていました。フィリーズレビューは能力で勝ったもので,距離が延びた方が本領を発揮できるタイプなのでしょう。ただし馬場状態と展開が有利に作用した一面もあったとは思います。父は2005年の天皇賞(春)を勝ったスズカマンボ。母の父はグラスワンダー。母のはとこに2008年のフィリーズレビューとローズステークスを勝ったマイネレーツェル
 騎乗した武幸四郎騎手は2006年の菊花賞以来の大レース制覇でオークスは初勝利。管理している飯田明弘調教師は厩舎開業24年強で大レース初勝利。

 まとめると次のようになります。
                         
 第一に,桜井直文が「スピノザのマテリアリスム」において,第一部定理二六証明の積極的ということばに関して,その読解の根拠としている部分を『エチカ』に見出すとすれば,それは第一部定理一七系二をおいてほかにないと僕には思えます。
 第二に,第一部定理一七系二は,必然的に第一部定理一七から帰結するのでなければなりません。
 第三に,第一部定理一七から第一部定理一七系二を導出する際には,スピノザによる自由の定義である第一部定義七が欠かせません。
 すると,これらのことから,あるひとつの事柄が解明します。それは,積極的ということを桜井のように読解するのであるなら,第一部定義七のうちに,その根拠となる要素が含まれていなければならないであろうということです。
 そこで第一部定義七を注視すると,少なくともその後半部分というのは,積極性を欠くような事柄について示されていると僕には思えます。なぜならば,もしもあるものが存在ないしは作用する場合に,ほかから強制されることによって決定されるならば,それは明らかにそのものに関する限定であるとしか理解できないからです。そしてあるものに関する限定というのが,そのものについて積極的とはみなせないような要素を構成しているということは,そもそもこの部分の考察を開始した契機となる疑問であったわけです。
 したがって,第一部定義七のうちに含まれる積極的といわれる要素をなす部分というのは,この定義の前半部分をおいてほかにはないと考えなければなりません。要するにそれは,自己の本性の必然性のみによって存在し,また自己の本性の法則のみによって働きに決定されるもの,要するにスピノザが自由といっているものが,積極的であるといわれ得ることになります。
 一方,第一部定理一七系二は,そうした意味での自由原因であるものは神だけであると主張しています。つまり,ひとり神のみが自由原因であるということであり,このことは,ひとり神のみが積極的なものであるということになります。つまり積極的の被修飾語は,この場合には神であるということになるでしょう。
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アイネスフウジン&自由

2013-05-18 19:07:06 | 名馬
 ファストフレンドの父はアイネスフウジン。僕は学生時代に競馬にのめり込んでいくことになったのですが,その時代を駆け抜けた名馬の1頭です。プロポンチススターライトの分枝。
 2歳の9月にデビュー。3戦目で未勝利を脱出するといきなり朝日杯3歳ステークスに出走。これを1分34秒4という当時としては破格のタイムで優勝。この年のJRA賞の最優秀3歳牡馬に選出されました。
 年が明けて2月の共同通信杯4歳ステークスに出走。ここも勝って朝日杯がフロックではなかったことを証明。続いて弥生賞に向ったのですが,ここはメジロライアンの末脚に屈して4着でした。続く皐月賞も2着。このレースを勝ったのは,同じプロポンチス系スターライトの分枝にあたる馬でした。
 この年のダービーは史上最多,196517人の入場者数を記録。その大観衆の目前で1番人気に応え,メジロライアンの追撃を封じて逃げ切りで優勝。レース後,騎乗した中野栄治現調教師を称える中野コールが自然発生したのは,日本競馬史の名シーンのひとつです。
 足元に弱さを抱えていた馬で,これが現役最後の一戦に。この年もJRA賞の最優秀4歳牡馬に選出されています。
 種牡馬としてはライバルだったメジロライアンに大きく水を開けられてしまいました。ファストフレンドが代表産駒。というか,唯一の重賞勝ち馬です。

 論証Demonstratioという観点からいうならば,第一部定理一七から第一部定理一七系二を導出する際に鍵となるのは第一部定義七です。これにより,自身の本性naturaの必然性necessitasによって働きactioに決定されるならばそれは自由libertasといわれ,ほかのものによって作用するように決定されるならばそれは必然的necessariusないしは強制されるといわれることが分かります。第一部定理一七は,神Deusが神の本性の法則によって働くagereものであることを示しています。よって神は自由です。したがって神があるものの原因であるといわれる場合,それは自由原因causa liberaであるといわれることになるのです。
 僕はそれに詳しいわけではありませんが,アリストテレスの哲学やスコラ哲学の立場からするなら,そもそも第一部定義七のように自由を定義すること自体が問題視されることになるのでしょう。自由原因というのが,そうした立場においては精神mensの決意に従うような原因であるならば,それは自由というのが精神の決意と不可分な関係にあるからだとしか考えられないですが,スピノザによる自由の定義は,それに反しているからです。
 なぜスピノザが自由をこのように定義したかについては,僕はこんなふうに考えています。
 スピノザにとって意志voluntasというのは思惟の様態cogitandi modiです。ですからそれを神に帰すことはスピノザにはできませんでした。神は実体substantiaであり,実体は第一部定理一により様態に対して本性の上で「先立つ」からです。そこでスピノザにはふたつの道がありました。ひとつは自由と意志を不可分のものとみなし,自由も神には帰さない道です。そしてもうひとつの道が,自由を意志から切断することによって,自由に関しては神に帰す道です。このうちスピノザは後者の道を選択したということだと思うのです。
 だから僕の考えだけでいえば,第一部定義七というのは,それを神に帰すための自由の定義Definitioであるという一面があると思うのです。とくに意志と自由の関係を重視するような立場からするならば,苦肉の策のように思われるかもしれません。
 ただスピノザもそうですし,僕も唯名論の立場にいます。したがって何が自由ということばによって意味されるかには頓着はしません。別のことばで表現されても一向に構わないのです。
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ファストフレンド&自由原因

2013-05-17 19:03:04 | 名馬
 一昨日の大井記念を勝ったフォーティファイドの母,ファストフレンドは,牡馬を相手に大レースを2勝した名馬の1頭です。
 血統面は奥手のタイプで,デビューも3歳の5月。準オープンの身で挑戦した5歳4月のマリーンカップを優勝。重賞初制覇を達成し,オープン馬になりました。さらに6月にスパーキングレディーカップも制すると,7月のエンプレス杯,10月のクイーン賞と重賞3連勝。続く中央の牡馬相手のオープンも制し東京大賞典へ。しかしここはアリアーン産駒のワールドクリークに屈して2着でした。
 6歳になり,川崎記念は3着。フェブラリーステークスもウイングアローの3着。少し休んで5月の東海ステークスで重賞5勝目を上げると,帝王賞でついに大レース制覇を達成しました。そのまま休まずエンプレス杯に出走して連覇。
 秋の緒戦に選択した南部杯は4着でしたが,続く東海菊花賞で重賞7勝目。第1回のジャパンカップダートはウイングアローの5着に敗れましたが,東京大賞典ではレギュラーメンバーを2着に降して大レース2勝目。この年のNARグランプリで特別表彰馬に選出されました。
 翌年も現役を続行。しかし川崎記念はレギュラーメンバーを捕えられずに2着。フェブラリーステークスは6着と崩れました。どうやら年齢面から能力が減退していたようです。6月まで3戦したのですが,いずれも勝てず,引退となりました。
 フォーティファイドはファストフレンドの3頭目の産駒。現時点では代表馬といえるでしょう。

 第一部定理一七から第一部定理一七系二が帰結するのですから,第二部定理一七系二でスピノザが自由原因というとき,それがどのような原因であることを意味しているのかということは,もはや一目瞭然でしょう。いうまでもなくそれは,神が第一部定理一七で示されている存在であるがゆえに自由原因であるといわれるのです。すなわち,神は神自身の本性の法則,あるいは本性の必然性のみによって働くものであり,ほかのものから強制されるということがないから自由原因であるというわけです。
 アリストテレスの哲学,そしてその哲学を引き継いだものとしてのスコラ哲学においては,精神の判断に従って働く原因が自由原因といわれ,それに反して,あるいはそれに則らず,自然法則に従って働く原因は自然的原因あるいは必然的原因といわれていたわけです。これでみればスピノザが示す自由原因というのは,精神の決意に従うか従わないかを問う前に,そもそも精神の決意自体がその中に含まれていません。なおかつ,神の本性の必然性というのを,自然法則とみなす限りにおいては,むしろこの分類では自然的原因ないしは必然的原因の方に近似した概念であるといえるでしょう。とくに自由というものを意志の自由から帰結すると考えるような立場からはそのようにみられるでしょうし,一方でスピノザ自身も,神の本性の必然性と,自然の法則というのを同一のものであるとみなすような立場に立っていると僕は理解しますから,このことはなおのこと妥当するのではないかと思います。
 これでスピノザがどのような原因に関して,それを自由原因というのかということは分かりました。ただしこのことは,なぜ第一部定理一七から第一部定理一七系二が帰結するのかということを含んではいません。いい換えるなら,このことは第一部定理一七系二の論証とはなっていないといえるでしょう。何を自由原因と考えるのかということはスピノザの考え方次第ではあるかもしれませんが,なぜそれが自由原因であるといえるのかということはそれとは別の問題であるといえるからです。もちろんスピノザには,それを自由原因とみなす十分な根拠があったのです。
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