スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ブロディの涙&必要な説明

2015-02-28 19:27:05 | NOAH
 カブキやエリックの尽力もあり,全日本復帰を果たした後の超獣は,これといって問題も起こさずに全日本での仕事を全うしました。これは馬場のブロディの扱いが,優れたものであったことをブロディ自身も認識できたからだろうと思います。とはいえ復帰したのは1987年の10月,プエルトリコで同地のブッカー兼レスラーに殺されてしまったのが1988年の7月ですから,その期間は非常に短かったことになります。ただ,ブッカーに刺されるということは,その時点でもリング内外を問わずブロディのエゴイズムは継続していたと考えるべきでしょうから,移籍前も復帰後も,全日本のリングではこれといった問題を起こさなかったのは,馬場の手腕が大きかったことの証明にもなるかと思われます。
                         
 この短い期間の中で特筆しておくべき出来事は,1998年3月の日本武道館大会で,ジャンボ・鶴田を破ってNWAインターのチャンピオンに輝いたことでしょう。この試合も僕は現地で観戦していました。ブロディの試合を生で観ることができたのは,残念ながらこれが最後になってしまいました。
 この試合はその内容よりも,勝利した後でブロディがアリーナの観客席になだれ込み,ファンと喜びを分かち合った姿が何より印象的です。僕は友人とふたりで,1階席か2階席で観ていましたから,ブロディの近くに行くことはできませんでした。ただ友人は,ブロディが喜びのあまり涙を流しているという意味のことを言い,確かに後でテレビや雑誌で確かめたところ,このときのブロディは泣いていたようです。
 もちろん,復帰した全日本でかつて手にしていた王者に返り咲いたことが嬉しかったからブロディは涙を流したのでしょう。しかしそれと同時に,全日本プロレスに復帰することができたこと,日本で自分の好きなように仕事をする場所に戻ってくることができたということも,ブロディにとっては大きな喜びであったのだろうと僕は推測します。あのときのブロディの歓喜の涙には,そういう意味も含まれていたように思えるのです。

 個物res singularisの作用の決定の説明を,スピノザの場合から確認します。
 第一部定理二八の意味は,最も単純には,あるres singularisXを存在と作用に決定するのは,Xとは別のres singularisYという様態的変状様態化した神であるということでした。厳密にいうと,Xが存在することやXが作用することは,Xそれ自体とは異なる何かと考えられるでしょうから,本当にXと措定すべきであるのは,res singularisそれ自体であるよりは,res singularisの存在および作用であると僕は考えます。とくに現状のように,res singularisが現実的に存在し,また作用することを考察の対象に据える場合には,この区別は非常に重要になります。というのもこの場合には,原因とされるres singularisYも,現実的に存在していると考えられなければならず,結果とされるres singularisが,神の無限な観念が存在するといわれる限りにおいて存在すると把握される場合とは,事情が異なってくるからです。ですから僕がここでres singularisXという場合には,Xの存在とか作用,とりわけここではライプニッツがスピノザを訪問するという作用について考察するのですから,Xの作用を念頭に置いていることに留意してください。
 第一部定理二八備考でスピノザがいっているのは,このときに,res singularisYが,res singularisXの作用に対して,最近原因であるということだと僕は解しています。いい換えれば,この作用に対して,Y以外の遠隔原因は存在しないということであると解しています。するとこのことから,Xの作用は,Yによって十全に説明できるということが帰結します。これもいい換えれば,この作用を十全に説明するためには,Y以外の説明は不要であるということです。
 したがって,ライプニッツがスピノザを訪問するという作用の十全な説明は,それを決定するres singularisYが何かということが,そのすべてであることになります。
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使嗾&作用の決定

2015-02-27 19:25:56 | 歌・小説
 ドストエフスキーとゲーテの稿で紹介した,『ファウスト』のメフィストフェレスによる老夫婦殺害と,『悪霊』のフェージカによるマリヤ殺害は,単に火事だけが一致しているわけではなく,他者の欲望を犯人が代行するという形式の殺害であった点でも一致しています。このように,自分自身の欲望を仄めかすことで他者を唆す効果をあげ,自身の手を汚さず悪事を他者に実行させることによって,自身の欲望を充足させる行為のことを,亀山郁夫は使嗾という語句で表現しています。
                         
 僕は亀山の記述に出会うまで,使嗾という語句を知りませんでした。それどころかこれを「しそう」と読むということすら分からなかったほどです。また,この語句を知った後でも,亀山以外にこれを用いている文章を発見したことはありません。なおかつ,使嗾の嗾という字も,見つけたことがありません。ですから非常に特殊な語句であるといっていいと思うのですが,上述した複雑な状況を,たった一語でいい表すことができるのはとても便利ですから,この特殊な語句を使用していくことにします。
 「父殺し」というのが,亀山によるドストエフスキー文学読解の重要なキーワードのひとつでした。そしてそれと同様に,使嗾も重要なキーワードとなっています。亀山のドストエフスキー読解のうち,純粋なテクスト読解のケースでは,そのほとんどすべてがどちらかのキーワードに関連しているといっていいくらいだと思います。
 ドストエフスキーの小説で,明らかに使嗾が物語上で重要となっているのは,『悪霊』ではなく『カラマーゾフの兄弟』であると思われます。スメルジャコフによるフョードル殺害は,イワンによる使嗾であると読解しないと,テクストの意味が十全に伝わってこないようになっているからです。この使嗾に関しては,いずれ僕の考え方も示すことにしましょう。
 僕はスメルジャコフの父はグリゴーリーであると考えていますので,純粋な意味では「父殺し」とは違うかもしれません。でも,亀山が重視するふたつのキーワードが,ふんだんに盛り込まれた作品だといえそうです。

 第一部定理二八によって十全に説明される事柄があるとします。それを文章命題の形で表現します。それは真偽不明であるとライプニッツは判断することになります。このとき,個物res singularisが存在および作用に決定されることを,ライプニッツならどのように説明するのかという点に,僕はとても興味があるのです。というのは,僕の考えでは,ライプニッツの哲学ではこのことが,きわめて運命的な仕方でしか説明できないからなのです。
 真偽不明の文章命題の例材としては,すでにスピノザとライプニッツが会うという命題を使用しています。ですからここでもそれを使うことにします。ただ,このままの形でこの命題を用いると,作用に決定されているres singularisとは何かということが分かりにくくなります。なので,ライプニッツがスピノザを訪問するという命題に変形しましょう。現実的なことをいえば,これらふたつの命題は等置できるというわけではありません。ライプニッツがスピノザを訪問したところで,スピノザが不在であったり,会うことを拒否したりすれば,ふたりが会うということはないからです。しかしここでは作用に決定されるres singularisを容易に理解できるようにするために置き換えているのですから,このようなことは問題にはなりません。当然のことですが,変形された文章命題においては,作用に決定されるres singularisとは,ライプニッツです。
 次に,スピノザの哲学では,res singularisの存在というのは,二様の仕方で理解されることになっています。そして第一部定理二八は,res singularisの存在がどちらの仕方で理解される場合にも成立すると僕は考えています。しかしここでは,考察の課題との関係から,res singularisが現実的に存在するといわれる場合にのみ絞ります。要するに現実的に存在するライプニッツがスピノザを訪問するという場合を考察するという意味です。第一部定理二八はどちらの場合にも成立するのですから,このように的を絞ってしまっても,何も問題はありません。
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汎神論論争&運命的

2015-02-26 19:13:14 | 哲学
 ニーチェとゲーテの稿で触れたように,ゲーテはスピノザを好んでいました。また,ニーチェもこれをよく心得ていました。そしてゲーテのスピノザ受容に関して考える場合に,外すことが許されない論争があります。それが,ゲーテ自身も参加したとみなせる,汎神論論争といわれるものです。
 ことの発端は,スピノザのことを死んだ犬と表現した文豪のレッシングです。レッシングはヤコービと交友がありました。しかしレッシングの死後に,ヤコービは、レッシングはスピノザを非難していたけれども,それは表向きの態度にすぎず,実際にはスピノザ主義者であったし,自分がスピノザ主義者であるということをヤコービに対しては認めていたという主旨の暴露をしたのです。
 レッシングが死んだ後での暴露ですから,それが本当のことであったかどうかは不明です。ただ,ヤコービはスピノザのよき理解者であったとはいえ,神学的観点に立脚する反スピノザという立場ではありましたから,この暴露自体の影響力は非常に大きかったものと思われます。そこで生前のレッシングと親しかったメンデルスゾーンが,もはや何も反論することができないレッシングに代わって,ヤコービとの論争に挑みました。これが汎神論論争といわれるものです。ゲーテはヤコービともメンデルスゾーンとも知り合いでしたから,必然的にこの論争に参加することになったのです。
 このとき,メンデルスゾーンは,レッシングのために,ふたつの道を選択することが可能であったように僕には思えます。ひとつは,ヤコービが主張していることはでたらめであって,レッシングは本当はスピノザ主義者などではなったという仕方で,貶められたレッシングの名誉を回復させる道です。もうひとつは,スピノザ主義というのは一般的にイメージされているように,性質が悪い思想ではないのだから,レッシングがスピノザ主義者であったとしても何の問題もないと主張することです。これはいってみれば,貶められているスピノザ主義自体の名誉を回復させる道といえるでしょう。
 メンデルスゾーンが選択したのは,後者の道でした。

 順序立てて概略化していえば,僕が初めて神という概念に具体的なイメージを伴わせることができたとき,意志と善意という二者択一があって,僕は意志の方を選択しました。この選択がスピノザへのインスピレーションを産みました。そして『エチカ』を熟読することによって,今度は意志と必然という二者択一を迫られ,僕は必然の方を選択することになったのです。そこでここからは,最初の二者択一でライプニッツのように善意の方を選択した場合に,そこから派生してくると思われる,別の事柄について考えていくことにします。事前に少し触れておいたように,ライプニッツが宿命とか運命と規定するような事柄,スピノザの哲学でいえば,第二のタイプと第三のタイプの必然に関連する事柄です。
 まず最初に,ライプニッツにとって,神を必然的なものと規定することと,神を運命的な存在,あるいは宿命的な存在と規定することは,同じ意味であったと考えられます。いい換えれば,第一部定義七のように自由を定義することに,ライプニッツは異議を申し立てるであろうと予測されます。おそらくライプニッツにとって,運命や宿命の反対の概念が自由であったと理解できるからです。なので,それ自身の本性の必然性によって存在と働きに決定されることは,それ自身といわれているものを運命的なものと規定することだとライプニッツは判断するというように僕は考えます。もちろんスピノザ哲学の意味で強制されるといわれるようなものは,当然ながら運命的であるものに分類しなければなりません。要するにスピノザが自由であると規定しているものも強制されると規定しているものも,いずれもライプニッツにとっては運命的であると規定されることになります。
 神の自由の領域を設定するということは,ライプニッツにとっては,この意味において神を運命的な存在から抜け出させることであったわけです。ライプニッツ自身の規定に従うなら,それが成功しているということは確かであろうと僕も認めます。しかしスピノザが強制的と規定している存在に関しては,ライプニッツにとっても運命的な存在のままであるといわなければならないでしょう。
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TOKYO MX賞フジノウェーブ記念&等置の根拠

2015-02-25 19:19:26 | 地方競馬
 好メンバーが揃った第6回フジノウェーブ記念。コアレスピューマが右前脚の怪我のため競走除外で15頭。真島大輔騎手が9レースで負傷したようで,カネトシディオスは増田騎手に変更。
 できればリアライズリンクスは逃げたかったろうと思うのですが,ジェネラルグラントが譲りませんでした。リアライズリンクスの外のセイントメモリーまで,3頭が雁行して先行。やや離れてミラーコロ,ピエールタイガー,アルゴリズムの3頭,さらにエベレストオーとナイキマドリードも差がなく続いて5頭の好位集団。また差が開いて中団グループの先頭にサトノデートナという隊列。最初の600mは35秒2のハイペース。
 先行3頭が雁行のまま直線に向きましたが,一番外のセイントメモリーはとても手応えがよく,そのまま楽々と抜け出して4馬身差の圧勝。リアライズリンクスが粘り込もうとするところ,馬群を割るように伸びたサトノデートナがこれを交わして2着。リアライズリンクスが半馬身差で3着。
 優勝したセイントメモリーは昨年10月のマイルグランプリ以来の勝利で南関東重賞は5勝目。ほかに重賞1勝。最近は行き振りが悪くなっている印象があり,能力は上位でもこの距離では苦しいのではないかと推測していたのですが,今日は楽に先行できました。こういうレースができれば重賞クラスの能力ですから,楽勝になっても不思議ではありません。大井コースの適性が高いということもあるのでしょう。僕は現状は距離はもっと伸びた方がよいのではないかと考えていたのですが,考え直す必要があるのかもしれません。叔父に1999年の北九州記念を勝ったエイシンビンセンス
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手はマイルグランプリ以来の南関東重賞制覇でフジノウェーブ記念は初勝利。管理している大井の月岡健二調教師もフジノウェーブ記念初勝利。

 スピノザ哲学におけるの概念を,意志と必然の双方に当て嵌めてみましょう。
 神が自由意志によって物事をなすということを肯定するには,力を可能的なものと考えなければなりません。というのは,もし神の力の中にある事柄はすべて現実化すると規定してしまえば,直ちにその意志は自由意志ではないことが帰結してしまうからです。対して,神の本性の必然性によって物事が生起するという場合には,力は可能的なものでなく,現実的なものと規定されます。力を可能的なものと理解することはできないのですから,神に自由意志を帰するのは誤りであることになります。
 しかしこのことは,以下の論証過程の方が,論争的な意味においては有効かもしれません。
 神の本性に自由意志を帰するということと,なし得ることのすべてを神はなさないということは同じ意味でした。そしてそれは実は,神はやればできるという主張とも異なっているのです。なぜなら,できるからといってすべてやってしまうと,そこに自由意志を帰することができなくなるからです。つまり神に自由意志を帰する意見というのは,神はなし得ることのすべてをなさないという意見であるだけでなく,なし得ることのすべてをなせないという意見でもあるのです。要するにこれは,神にはなし得ないことがあると主張しているのと同じです。しかしなすことが力なのですから,この意見は,少なくとも部分的には,神は力と正反対の意味で無力であることを主張しているのと同じになるのです。無力を最高に完全な実体の本性ないしは特質として規定することほど不条理な意見はないのではないでしょうか。したがって,神が最高に完全であるということを是認する限り,神の本性に自由意志を帰することは不条理であることになるのです。
 ここから,僕が,神はなし得ることのすべてをなすということと,神になし得ないことはないということを等置した理由も分かると思います。神はなし得ることのすべてをなすは,必然に該当します。神になし得ないことがあるというのが意志に該当します。よって神になし得ないことはないは,必然に該当しなければならないからです。
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泗水杯争奪戦&力

2015-02-24 19:12:05 | 競輪
 年に1度の昼間開催,四日市記念の決勝。並びは岡田-武田-平原-浦川-稲村の関東と浅井-村上の中部近畿で内藤と大塚は単騎。この並びでの関東結束は驚きでした。
 スタートを取ったのは浅井でそのまま前受け。岡田が3番手,4番手の武田の後ろを,ラインの平原と単騎のふたりの3人で取り合うような周回に。残り2周のホームで岡田が上昇。浅井は迷わず引きました。このとき,武田の後ろはインに大塚,外が内藤で,この競りの後ろに平原。そのまま岡田がふかしていって打鐘。武田の後ろは内藤が競り勝ち,大塚は後退。今度はインから平原が追い上げて内藤との競り。バックに入ると武田が発進。しかし早めに引いて前を見据えて捲った浅井のスピードが断然で,あっさりと武田を差して優勝。マークの村上が4分の3車身差の2着で中部近畿のワンツー。展開的には絶好だった武田は半車身差の3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は昨年の四日市記念以来の優勝で記念競輪12勝目。地元となる四日市記念は連覇で2勝目。ここはレース展開は読みやすく,番手から発進するだろう武田を捲れるか捲れないかの力勝負。その勝負に勝ったということでしょう。ただあまりにあっさりと捲ったという印象はあり,武田は本調子にないと考えておくべきかもしれません。力は非常に安定していて,決勝はほとんど外さないし,大敗もほとんどしないのですが,1着は意外と少ないタイプ。ですがコンスタントに力は発揮しているわけですから,記念競輪はもとより,ビッグで優勝という可能性も,出走するなら常にあるといえると思います。

 俗に「やればできる」という表現があります。しかしただそういい立てているうちは,実際にやればできるかどうかは不明です。実際にやってみることによってしか,その表現を正当化することはできません。
 このことから理解できるように,潜在的な意味においてできるということは,何らの力potentiaでもありません。力とみなし得るのは実際にやるということのうちにしかないのです。
 このことを哲学的に記述するならば,力とは可能的possibilisなものではなくて,現実的なものであるということになります。そしてスピノザの哲学の力は,そのように規定されていると理解するべきであると僕は考えます。スピノザは必然と不可能を対義語とします。これはすなわち必然とは力であり,不可能とは力と真逆の意味において無力impotentiaであるという意味に解することができます。一方,偶然と可能は,第一義的には,人間の知性intellectusのような有限知性の認識cognitioの限界に関連してのみ規定されます。すなわち,現実的な力ではあるけれども必然的necessariusだと理解しきれないことが偶然といわれ,現実的な力ではないにも関わらず不可能であるとは理解しきれないことが可能といわれるのです。スピノザが可能的な力は認めず,ただ現実的なものとしてのみ力を規定していることは,これらの概念notioの措定の仕方からも明白であると僕は考えます。
 したがって,たとえば人間には理性ratioによって事物を認識するcognoscere力があるという言明は,実際にその人間が理性的に事物を十全に認識している場合には有効ですが,そうでない場合,たとえば人間が事物を表象している場合には無効であると把握しておくのが的確であると僕は考えています。理性による事物の認識は確かに人間の力ではありますが,それは抽象的な意味において人間の知性に備わった力であるということをスピノザの哲学では意味しないと僕は考えるのです。それは人間は理性的に事物を認識することが可能であるという意味なのであり,力を現実的なものと規定するスピノザの哲学には相応しくない理解の仕方であると考えるからです。もちろん理性だけでなく,あらゆる意味で力と規定できるものについて,これが妥当すると僕は考えています。
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第四部定義八&神がなし得ること

2015-02-23 19:45:12 | 哲学
 第四部定理五二について説明したときに少しだけ触れていることですが,この定理Propositioは,単に理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoが,人間にとって最高の満足であるということだけを意味しているのではありません。同時にそれは,人間にとって最高の徳virtusであるということを意味しています。なぜなら,スピノザは,人間にとっての徳というのを,人間が働く力agendi potentia,すなわち能動actioと同一視するからです。第四部定義八をみてみましょう。
                         
 「徳と能力とを同一のものと私は解する。(Per virtutem, et potentiam idem intelligo. )言いかえれば(第三部定理七により),人間について言われる徳とは,人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて,人間の本質ないしは本性そのもののことである(ipsa hominis essentia, seu natura.)」。
 理性は精神の能動actio Mentisです。ですから人間の精神mens humanaが理性によって事物を認識するcognoscereというとき,それはその人間の精神が十全な原因causa adaequataであるという意味です。それがこの定義Definitioでいわれている,人間が自己の本性の法則のみによって理解されることです。よって理性から生じる自己満足が人間にとっての最高の満足であるならば,それは同時に人間にとって最高の徳であるということにもなるのです。
 一般的には,徳というのは,人間の外部にあるものというように把握されているかもしれません。しかしスピノザはそのようには理解せず,人間の本性からそれを定義します。ただし,この場合の本性には少しの注意を要するかもしれません。
 第三部諸感情の定義一は,欲望cupiditasを人間の本性と等置します。スピノザはここではこの意味において徳を本性と等置するのではありません。そこには能動と受動の相違があると考えておくのが妥当だと思います。つまり人間が受動的である場合には,欲望がその人間の本性であり,人間が能動的である場合には,徳いい換えれば理性がその人間の本性なのです。だからこの観点において,欲望と理性,あるいは欲望と徳は,反対概念であることになります。
 ただし,第三部定理五九から分かるように,能動的な欲望というのも存在します。その意味で欲望が人間の本性とみられる場合には,上述の条件はすべて成立しないと考えるべきでしょう。

 自由意志voluntas liberaを神Deusの本性essentiaに帰すると,神には可能な事柄がいくつかあって,そのうちひとつを意志によって選択することになります。厳密にいうとひとつでなくても構わないのですが,可能な事柄として残余の部分が残らなくてはいけません。そうでないとその意志を自由意志と規定することができなくなるからです。したがって神の力potentiaのうちには,可能であるけれどもなさない事柄が必ずあるということになります。
 これに対して,神に必然性necessitasを帰すると,神の力のうちにある事柄はすべて現実化されます。他面からいえば,神はなし得る事柄に関してはそのすべてをなすということになります。そのように考えれば,可能だけれどもなさない事柄があるというのは,なし得る事柄のすべてを神はなし得ないという意味であることが理解できるでしょう。
 このとき,意志と必然のどちらが最高に完全な神に相応しいかといわれれば,僕は迷わずに必然の方を選択します。つまり,なし得る事柄のすべてをなし得ないというよりも,なし得る事柄のすべてをなすという方が最高に完全な存在であると考えるのです。矛盾めいて聞こえるかもしれませんが,神はなし得る事柄のすべてをなすという言明は,神にはなし得ない事柄は何もないという言明に等置できると僕は考えるからです。第一部定理三五は,神はなし得る事柄をすべてなすという意味に理解することが可能だと僕は考えます。一方,第一部定理一六は,神の本性の必然性から無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で生じることを明示しています。ですから等置できるかどうかは別にしても,神がなし得ることのすべてをなし,かつ神になし得ないことは何もないということは,『エチカ』では両立しているといえます。
 ただし,必然と不可能が対義語であることには留意してください。僕は神が不可能な事柄を必然的にnecessarioすることができるといっているのではありません。むしろ不可能である事柄が必然的な事柄になるということはないから,神にはなし得ないことは何もないという意味が成立するのだと考えているのです。虚偽falsitasが真理veritasになるとか,無が有esseになるというのも,同様の意味であり得ないことです。
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フェブラリーステークス&意志と必然

2015-02-22 19:02:22 | 中央競馬
 JRAの今年の大レースの開幕戦,第32回フェブラリーステークス
 逃げると思われたコーリンベリーが出負け。その影響もあってかダートコースに入る付近では横一線。その中から最内のコパノリッキーが先頭に立ちましたが,外からアドマイヤロイヤルが押していき,コパノリッキーを制して逃げの手に。どういう考えであったか分かりませんが,思ってもみなかった展開でした。外に切り返してコパノリッキーが2番手。さらにキョウワダッフィー,グレープブランデー,レッドアルヴィス,ワンダーアキュート,インカンテーションまでほぼ一団で追走。少し離れてコーリンベリー,サンビスタ,ベストウォーリアの3頭という隊列に。前半の800mは46秒9のハイペース。
 コパノリッキーは外から被されることなく4コーナーでも2番手。直線に入るとすっと先頭に立ち,一旦は3番手以降との差が開きました。追ってきたのはキョウワダッフィーの外まで出たインカンテーション。残り200m付近からゴールにかけて差を詰めましたが,振り切ったコパノリッキーが優勝。半馬身差でインカンテーションが2着。馬群の中からインカンテーションを追うように進出,最後はその外に出たベストウォーリアが4分の3馬身差で3着。
 優勝したコパノリッキーは前哨戦の東海ステークスから連勝。大レースは昨秋のJBCクラシック以来の4勝目。フェブラリーステークスは第31回に続く連覇で2勝目。ホッコータルマエが回避したここは能力最上位。スムーズさを欠くと能力を十全に発揮できない一面があるため,多頭数で内目の枠に入ったのは個人的に少しばかりの不安を感じましたが,うまく番手で流れに乗れましたので,その不安が現実化することはありませんでした。先行力があるのは強みで,今後も大レースを勝っていくものと思います。父は第20回を勝ったゴールドアリュール。祖母の従弟に2002年の大阪杯,2005年の大阪杯と毎日王冠を勝ったサンライズペガサス
                         
 騎乗した武豊騎手は昨年の帝王賞以来の大レース制覇。第20回,23回,25回を優勝していて7年ぶりのフェブラリーステークス4勝目。管理している村山明調教師はJBCクラシック以来の大レース制覇。第29回と31回を制覇していてフェブラリーステークスは連覇で3勝目。

 僕は第一部定理三三は真理であると考えていました。したがって,唯一の現実世界の起成原因として,神の自由意志を規定したわけです。ところが,ちょっと考えれば分かった筈なのですが,このような意志はとても自由意志であるとはいえません。なぜなら,結果として発生する世界が唯一であるなら,原因としての神の意志も唯一であることが帰結するからです。これはつまり,神はこの現実世界を産出するようにしか意志することができなかったのであり,それとは異なって意志する可能性はなかった,あるいは不可能であったということになってしまうからです。それしか意志することができないのに,その意志を自由意志ということは,確かにスピノザが指摘するように不条理であると僕には思えました。
 この不条理を脱するのには,ふたつの道があるといえます。ひとつはスピノザが主張しているように,自由意志を神に帰することを断念し,必然性,必然の第二のパターンにおける必然性を神に帰することです。もうひとつは,あくまでも神に自由意志を帰し,現実世界が唯一の世界であると考えることを断念することです。いい換えれば,可能世界の存在を是認することです。
 元来が僕は可能世界の存在を否定していたわけですから,最初の道を選択したこと,すなわちスピノザ主義を選択したのは当然であったかもしれません。しかし同時に,スピノザがこれを,神の本性から帰結する特質から説明する仕方が僕には鮮やかに感じられて,その説明も僕がスピノザ主義を選んだことに大きく影響しています。
 デカルトが神の本性として示した,神は最高に完全であるということを,スピノザは神の本性とは認めていません。スピノザにとって神の本性は,神が絶対に無限であることだからです。しかし一方で,だから神が最高に完全であることを,スピノザが否定するかというなら,そうではありません。それは神の本性ではないけれども,神が絶対に無限であるということから必然的に流出するような神の特質ではあるという意味において,是認します。
 このとき,必然と自由意志のどちらが最高に完全な神に相応しいといえるでしょうか。
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棋王戦&神の意志と人間の意志

2015-02-21 19:55:04 | 将棋
 北國新聞会館で指された第40期棋王戦五番勝負第二局。
 羽生善治名人の先手で相矢倉渡辺明棋王が▲4六銀のときに△4五歩と突く流行の指し方を採用。先手が4筋に飛車を回って攻勢に出ましたが,あまりよくない構想だったのではないかと思われます。
                         
 7八で金銀交換が行われた局面。ここで後手は△4六歩と垂らしました。この手が間に合うという結果になったということは,すでに後手がリードを奪っていたのではないでしょうか。
 ▲5七金寄で受けるのではやはり辛いのではないかという感じがします。後手は△4七銀と打ちました。▲同金△同歩成では▲4六金と出られなくなるので▲1六飛と逃げるのは当然でしょう。打った銀が働かなければひどいですが,△3八銀不成としておき,▲4六金のときに△2七銀不成。飛車が逃げられないので▲3五金△1六銀不成と進みました。
                         
 ここまできてしまうともう先手が如何ともし難くなっているように思えます。▲4四歩から攻めを続行しましたが,すぐに後手の反撃が決まりました。
 渡辺棋王の連勝。第三局は来月8日です。

 僕のスピノザへの接近の理由は,あるいは第一部定理三三備考二から説明できるのかもしれません。そこでいわれている真理というのを,スピノザの哲学とみなせば,僕は神が善意によって物事を決定するという意見と比べたなら,スピノザの哲学に近い意見をもっていたと理解することができるからです。今となっては覚えていないインスピレーションというのも,こうした理由から当時の僕に発生したのかもしれません。なおかつ僕は世界とはこの現実世界が唯一なのだと考えていました。つまり可能世界の存在を認めていなかったことになります。だから第一部定理三三が真理であると考える点でもスピノザとは一致していたのです。
 もうすでにこの部分に,僕がスピノザ主義者になる兆しというのを見出すことができると思います。そして僕がはっきりとスピノザの哲学が真理であって,自由意志の主体としての神という,僕のイメージの方が誤謬であると考えるようになったのは,スピノザ自身のこの点に関するふたつの説明によります。要するに僕はこのときに熟読したスピノザの言説により,スピノザ主義という立場をとることになったのです。そのふたつの説明を,順に明らかにしていきましょう。
 まずひとつは,もしも神の意志が自然あるいは世界や宇宙の原因であると規定するなら,人間の意志もまた神の意志の結果でなければならないというものです。第一部定理一七備考でスピノザが示していることは,そのゆえに神の意志と人間の意志は,たとえていうなら本物の犬と星座の犬のようなものであり,ただ記号だけが一致するのであって,思惟の様態として,あるいは意志の形相として理解されたならば,まったく異なったものだということです。僕は人間に自由意志がないという観点から,自由意志を神に帰したわけですが,そのように神の意志を,一般的に人間の意志として認識されるような思惟作用によって理解することは,無意味であるといっても差し支えないのです。いい換えれば,神の本性に意志が属するという言明は,この仕方では何事も意味しないといえるでしょう。
 これが第一の理由です。しかし第二の理由の方が強力でした。
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被害妄想&スピノザへの接近

2015-02-20 19:21:56 | 歌・小説
 僕は高校1年くらいの時期には,確かに出っ歯に関連する被害妄想がありました。実はこの種の被害妄想が,『漱石日記』にもあります。僕からみても漱石はひどい被害妄想の持ち主であったと思えます。
                         
 漱石の日記は,自身の感情を吐露するものと,そうした要素をいっかな表出しないものとがあります.後者の日記を書いていたときにも,あるいは被害妄想を抱いていたかもしれませんが,明らかに頻出している部分があります。それが⑨の1914年10月から年末に書かれたもの。日記には書かれていませんが,漱石は留学中にも明らかに被害妄想と思われる感情を抱いていて,このふたつの時期は漱石の心境に似たような部分があったのかもしれません。
 漱石の被害妄想の大枠は決まっています。何か他人の行動で嫌な思いをした場合に,それはその相手が自分に不快感を与えるために意図的になしていると判断することです。いろいろな例があるのですが,どの内容をみても,それは漱石の妄想にすぎず,相手がそんなことを意図しているわけがないと僕には思えます。大概の人がそのように感じるでしょう。
 漱石の心情のダイナミズムだけをみれば,ここでは第三部定理四九備考でスピノザが示したことが生じていることになります。つまり相手が意図的に,要するに自由な意志で自分に嫌がらせをしていると漱石は妄想していたわけで,その分だけその相手に対する憎しみは,漱石の胸のうちでとても大きなものになっていたのではないでしょうか。日記を読めば,それを書かずにはいられないような漱石の心境だけは理解できます。
 たびたび嫌な思いをさせられるのは,それだけ頻繁に関わっているからです。したがって被害妄想の中心をなす相手は,きわめて身近な人間です。留学中でいえば下宿先の同居人であり,日記の当該部分であれば,夫人や女中といった人たちです。そうした人たちからみれば,自身が漱石に腹を立てられなければならない理由というのが不明であった筈です。少なくともこの時期の漱石の近辺では,憎しみの連鎖というのが日常的に発生していたのではないかと思えます。

 僕が初めて『エチカ』を読んだのは学生時代です。哲学的興味はそれ以前からありましたし,それ以降も現在まで継続しています。そうした哲学的思索の過程の中で,僕は人間には自由意志が存在しないという結論に至りました。老人に席を譲る場合という具体例で考えて得ることができた結論でした。つまり第一部定理三二というのを,人間の精神にだけ該当させたなら,僕は自力でそこまでは辿りついたことになります。その後で僕は,もしも自由意志というものが自然のうちに存在するのだとしたら,それは神の意志をおいてほかにはあり得ないだろうと推測したのです。
 スピノザだけでなく,デカルトを読んだこともありましたから,哲学の中で神という概念に触れたことはあったわけです。しかしそれまでの僕にとって,神というのはスピノザやデカルトが示しているような意味において概念的に把握できるような何かでしかなく,具体的なイメージが伴ったものではありませんでした。僕が神を初めて具体的なものとして把握することができたのが,この自由意志の主体として僕自身が措定した存在のことでした。要するに自然は,あるいは世界はとか,宇宙はといってもよいですが,それは神の意志によって始まるのだというように規定したわけです。
 このときに僕はスピノザの哲学に対するあるインスピレーションを感じたのです。なぜそう感じたのかということは,今となってはよく分からないところがあるのですが,たぶんその当時の僕にとって,スピノザが示している世界観のイメージというものは,そのときに僕が規定したような世界観に重なり合っていたのだろうと思います。
 それで僕は再び『エチカ』を読むことになりました。そして,僕が規定したような世界と,スピノザが主張している世界というのは,実際にはいっかな重なり合わないようなものであるということを理解したのです。ただ,僕は,神が自由意志によって世界を創造したというようには規定していても,それが善意であるというようには少しも考えませんでしたし,この現実世界に対して、何らかの可能世界があるとも少しも考えてはいませんでした。
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真理獲得の方法&意志と善意

2015-02-19 19:24:41 | 哲学
 『個と無限』の第六章では,スピノザの方法論に関する考察がなされています。方法論というのは内容が多岐にわたるので,幅広い考察が必要とされます。ここでは方法論中の方法論ともいえる,知性intellectusが真理veritasの獲得に至る方法論が,スピノザの哲学の中でどのようになっているか,僕の考え方を説明します。
                         
 真理とは真の観念idea veraの総体です。なので真理の獲得とは知性による思惟作用です。したがって,真理を獲得するための方法論ということが第一義的に意味するのは,どのような思惟作用をなせば,知性は真理を獲得できるのか,いい換えれば事物を真に認識するcognoscereことができるのということになります。
 しかし,この種の方法論はスピノザの哲学にはないと僕は理解しています。その根拠は第二部定理四二の意味です。もしも僕たちが真理の獲得の方法を知りたいと欲するならば,少なくとも真理とは何であるのかということを知っていなければなりません。ところが真理の規範,すなわち真理と虚偽falsitasとを分つもの,正確にいうなら真理と虚偽を分かつ方法を知性に教えるのは,虚偽ではなくて真理なのです。したがって,もしもある知性が虚偽,すなわち混乱した観念idea inadaequataだけで組織されていたなら,この知性は真理とは何であるかを知り得ません。ですから真理を獲得する方法がどんなものであるかなどは知る術がないのです。
 逆にいうと,真理,つまり十全な観念idea adaequataが与えられれば,その知性は真理と虚偽を分かつことが可能になります。つまりたったひとつの十全な観念さえ知性のうちにあれば,その知性は一般に真理と虚偽を分かつことが可能になるのです。したがってこの知性は,いかにして真理を獲得するのかも知ることができるようになるのです。
 要するに,真理獲得の方法を知るということと,真理を知るということは,同じことであるというようにスピノザの哲学ではなっていると僕は考えています。事物をひとつ十全に認識すれば,必ず真理を獲得する方法も知ることができますが,それが達成される前に,真理の獲得の方法だけを単独で知るということは不可能であるというのが僕の考えです。

 神Deusの本性essentiaに意志voluntasが属するという意見opinio,いい換えれば,神が意志によってすべての物事を決定するという意見は,神が第一原因causa primaであるということ,それも絶対に第一の原因であることを意味します。もしも神がほかから決定されて意志するというなら,その意志は神の本性に属するのではなく,それ以外の原因によって決定される思惟作用であることになってしまいますから,これはそれ自体で明らかでしょう。したがって,第一部定理一六系三というのは,意味合いに大きな違いこそあれど,守られることになります。
 もちろんこのとき,意味合いの相違というのを軽く見積もってはいけません。神からの人格の剥奪は徹底されなければならないからです。しかし,この意志を単なる意志として設定するのではなく,善意として設定する場合には,他面からいえば,複数の選択肢の中から神は必ず最善のものを選択すると設定するならば,第一部定理一六系三さえ否定されることになります。このゆえに,第一部定理三三備考二の意味が成立するのです。
 複数の選択肢から神が最善であるものを選択するなら,少なくとも神はそれを選択する以前に,何が善bonumでありまた何が悪malumであるかを知っている必要があります。厳密にいうと,神が選択したものが最善であると規定することにより,この条件からは免れるのですが,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがこの規定をすると,第三部定理四九が示すような神に関連する問題を拭うことができないので、ここでは神が事前に善悪を知っていなければならないという条件を絶対的なものと規定しておきます。そして神は善という目的に向って物事を決定するということになります。
 これは全体でいえば,神の外部に神自身が努力しなければならないような目標というものを立てて,神はその目標を達成するように作用するといっているのに等しいといえます。したがって神は絶対に第一の原因ではなく,むしろその目標が第一原因であるということになるでしょう。要するに神が善意で事物を決定するというライプニッツのような意見というのは,スピノザからすれば,善こそが絶対的な第一原因であると主張しているのと同じことになるのです。
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ユングフラウ賞&人格の剥奪の根拠

2015-02-18 19:19:35 | 地方競馬
 南関東競馬は早くも牝馬クラシックのトライアル。第7回ユングフラウ賞。今野騎手と酒井忍騎手が負傷のため,ビナファミリーは町田騎手,リボンスティックは佐藤博紀騎手に変更。
 ゼッタイリョウイキがかなり押していきましたが,外からアクティフが被せるようにハナへ。2コーナーを回るとトーセンマリオンとロゾヴァドリナの2頭が並び掛け,3頭が雁行するように先行し,ゼッタイリョウイキが4番手。カリエン,リボンスティックの2頭が差がなく続き,その後ろはやや開いてブライトギャル,サピド,スターローズの3頭という隊列。最初の600mは36秒7で超ハイペース。
 3コーナーを回るとトーセンマリオンがアクティフを潰しにいき,ここでアクティフとロゾヴァドリナは脱落。外を捲ってきたのがリボンスティックで,直線はこの2頭で競り合いに。リボンスティックがトーセンマリオンを競り落として抜け出したのですが,大外をスターローズが強襲し,2頭がほぼ並んでゴール。写真判定の結果,スターローズが届いて優勝。ハナ差の2着にリボンスティック。トーセンマリオンは4分の3馬身遅れて3着。
 優勝したスターローズは北海道でデビューして3勝。昨年暮れに南関東に転入していずれも大きな差をつけて連勝。ここは相手強化の一戦でしたが見事に突破しました。今日は展開に恵まれた一面があり,2着馬や3着馬の方が内容的には強いレースであったかもしれません。ただ,距離が伸びるのはプラスに働きそうな印象があり,本番の桜花賞でも候補の1頭ではないでしょうか。父は2000年と2001年のアンタレスステークス,2002年と2003年の平安ステークス,2003年のマーチステークスを勝ったスマートボーイ。母の従妹に2006年のキーンランドカップを勝ったチアフルスマイル
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は一昨年のアフタ5スター賞以来の南関東重賞制覇。ユングフラウ賞は初勝利。管理している船橋の山本学調教師もユングフラウ賞初勝利。

 神を十全に認識するため,いかなる意味においても人格の剥奪が完遂されなければならないことの論理的根拠は,第一部公理四にあると僕は理解しています。
 第一部定理一から形而上学的に理解できるのは,神が人間に本性の上で「先立つ」ことです。第一部定理一五からは,それが実在的に正しいということも分かります。したがって,神は人間の原因ではあり得ますが,人間が神の原因であるということはあり得ません。本性の上で先立つものは後発のものに対して原因ではあり得ても結果ではあり得ないということは,それ自体で明らかでしょう。したがって,人間の本性に依拠して神の本性を類推することは,本性の上で後発のものに依拠することによって,先立つものを認識するという思惟作用になります。第一部公理四は,結果の認識が原因の認識に依存しなければならないことを示していますから,これはそれに反する思惟作用です。だから,人間的なものによって神の本性を規定しようとするのは,本末転倒な行為であることになります。
 これはちょうど,自己原因と原因の関係をどう把握するべきなのかということとパラレルな関係にあります。作出原因という概念を広くとったとき,自己原因causa suiと起成原因causa efficiensは共に作出原因に該当します。このうち本性の上で先立つのは自己原因です。ですから自己原因を起成原因のようなものと把握すること,すなわちそれ自身を作出する原因であると把握するのは誤りであり,むしろ起成原因が自己原因のようなもの,つまりそれ自身以外のものを作出する原因であると理解されなければならないのでした。これと同じことが,神と人間の間にも妥当しなければならないのです。
 よって神が人間のようなものだと把握することは,いかなる意味においても誤りであるということになります。むしろ第二部定理一〇系が示しているように,人間が神のようなものだ,つまり人間とは人間という様態的変状様態化した神の属性であると認識されなければならないのです。
 この根拠が,神に善意を認めることが大きな誤りであることの根拠にもなります。
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王将戦&人格の剥奪

2015-02-17 19:36:39 | 将棋
 浦和で指された第64期王将戦七番勝負第四局。
 郷田真隆九段の先手で渡辺明王将の角交換四間飛車。棋譜からみる限り,中盤では差がついていたのではないかと思われます。
                          
 3一にいた金が逃げて歩が成った局面。後手は△6四銀と引きました。▲2一角成とされるので損だと思えるのですが,次の△5五角を打つための手順でしょう。
 先手としても△9九角成は許せないので▲6六桂と受けました。後に攻めに役立つかもしれないので,受けるならこう打ちたい気がします。△1九角成は気が利かないような印象もありますが,角を打った以上は当然の手ではないでしょうか。
 先手は▲2二龍と金取りに侵入し,△5二金寄に▲4三歩と垂らしました。これで攻めは確実になりましたので,それ以上に早く寄せられさえしなければ勝てる局面に。
 後手は△2九馬と桂馬を入手。先手は▲4二歩成△6二金寄という交換を入れてから▲7九金と自陣に手を入れました。
                          
 と金で攻めれば駒は入手できますので,金を自陣に使っても攻めには影響がありません。逆に後手からは手の出し方が難しくなり,この局面は先手の勝勢に近いくらいではないかと思います。第1図以降の後手の手順が仕方ないものであったのなら,すでに第1図の時点で先手が大きくリードをしていたということでしょう。
 郷田九段が勝って2勝2敗。第五局は来月12日と13日です。

 おそらくスピノザは,多くの人びとが神Deusを十全に認識することが困難であるのは,そうした人びとが,神を人間であるかのように表象するからだと考えていたのだと推測します。だから神から人格を剥奪することが,人びとが神を十全に認識するために,最も必要な条件であると考えたのではないでしょうか。
 これも推測ですが,たぶんスピノザは,人びとが神を人間のように表象するのは,その表象をしているのが人間であるからだと考えていたと思います。たとえば馬が人間と同じように神を表象することができるとすれば,馬は神を馬のように表象するでしょうし,三角形に表象が可能であったとすれば,三角形は神を三角形のように表象するであろうとスピノザは考えていたのだと思います。スピノザは完全性perfectioという概念conceptusにおいては,人間にも馬にも三角形にも差を与えませんでした。逆にいえばそれは,人間には神を人間のように表象する特権が与えられてはいないということでもあるのです。
 スピノザによる神からの人格の剥奪は,とても徹底しているように僕には感じられます。たとえば神は人間のような身体corpusを有さないというなら,それはたとえばライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにも同意可能な人格の剥奪であったと思います。それと同様に,スピノザは神が人間と同じようには思惟しないという意味でも神から人格を剥奪します。そしてそればかりでなく,おおよそ神に関する事柄を,人間的なものから理解することを否定するという意味でも神からの人格の剥奪を行っています。たとえばスピノザは神の力というものを,王の力,いい換えれば主権者の力であるかのように理解することも否定します。主権というのは人間にだけ関連するような概念なのであり,神の力とは何も関係がないからです。第一部定理三四は,神の力というのを,神の本性essentiaと同一視します。これは当然のことなのです。なぜなら完全性すなわち実在性realitasというのは,力という観点から把握される限りで,事物の本性そのものだからです。神の力と人の力は,各々の本性が異なる分だけ異なります。新約聖書に倣っていうならば,皇帝のものは皇帝に,神のものは神に,とスピノザはいっているのです。
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ロゴージンと去勢派&第一部定理三三備考二の意味

2015-02-16 19:19:01 | 歌・小説
 ナスターシャと鞭身派には関係があるという読解が『ドストエフスキー 謎とちから』には示されているのですが,同時に,そのナスターシャをムイシュキン公爵と奪い合う関係になるロゴージンには,去勢派との関係が濃厚であるという読解も呈示されています。僕はスメルジャコフとムイシュキンには似たようなところがあると思っていたのですが,スメルジャコフの場合は江川卓も去勢派との関係を示唆していますので,亀山郁夫の読解が正確なら,スメルジャコフとロゴージンの間にも相似的関係があることになります。
                         
 ロゴージンが住んでいる屋敷の構造が去勢派のそれに該当するのだそうです。つまり去勢派はロゴージンの父親で,ロゴージンは去勢派の家庭で育ったとみられます。もっともこの点は僕には分かりません。ただ,去勢派にとって神の愛を得るための近道は,蓄財なのだそうです。僕はこの点に,ロゴージンを去勢派とみる有力な根拠を見出します。しかしそれは,ロゴージンが金持ちであるからという理由だけではありません。
                         
 僕が『白痴』で最も不思議に感じられたのは,ムイシュキンのライバルである男は,性的な事柄を嫌う,あるいは性的不能者とも考えられるムイシュキンと正反対に,好色なあるいは性に達者な男であるべき筈なのに,ロゴージンからはそういった要素がいっかな感じられなかったことです。なぜ単に金持ちで,性には執着心を感じさせないような人間としてドストエフスキーはロゴージンを設定したのかということは,僕にとって『白痴』の謎のひとつでした。しかしもしもロゴージンが去勢派であるのなら,この謎は解けるわけです。
 『白痴』が書かれた時代,去勢の措置は義務付けられていたわけではないそうですが,もしロゴージンの父が厳格な去勢派なら,ロゴージン自身も去勢されていた可能性はあると亀山は書いています。ロゴージンの殺人のときに使われたナイフは,ロゴージンが大事に持っていたものです。そのナイフは,去勢されてしまったことのロゴージンなりの代償であったのかもしれません。

 第一部定理三三備考二の引用部分でスピノザがいいたいのは,概ね次のようなことだと僕は解しています。
 スピノザは,意志voluntasが神の本性natura,essentiaに属することを是認しません。したがって第一部定理三二系一にあるように,神が意志の自由によって働くことはありません。むしろ第一部定理一七で示されているように,神は神自身の本性の必然性necessitasによって働くのであり,それ以外の一切の要因によって働くことはありませんし,作用するようにほかから決定されるということもありません。
 だから,神の本性に意志が属するという意見,いい換えれば,神が自由な意志によってすべての事柄を決定するとか,神はその自由意志によって神自身の原因でありまた万物の原因であるという意見は,真理とは隔たった意見であるといわねばなりません。しかし,この意見は,神が善意によってすべてのことをなすという意見に比べれば,まだましな意見であるとスピノザはいっているのです。つまり,神が善意によってことをなすという意見は,おおよそ神を認識するあり方として,最悪のものに近いとスピノザは考えていたと推測できます。ライプニッツは,その最悪の仕方で神を措定せざるを得なかったということになるのです。
 この部分は,かつてテーマとして説明したように,僕がスピノザ主義という立場を選択することになった契機といっていい部分です。これが現状の考察と深く関わってきますので,改めて繰り返しますが,その前に,なぜ神に自由意志があるという意見の方が,神が善意によってことをなすという意見よりもましであるといえるのかを検討しておきましょう。
 備考の引用部分に,ライプニッツであれば神からの人格の排除を発見するでしょう。そしてこの意味において神から人格を剥奪することは,スピノザの哲学にとって大きな仕事であったと僕は考えています。しかしそれは無神論的な意味においてではありません。スピノザは,単に神が存在するということを証明するということよりは,人が神について十全に認識するということの方を重要視していました。『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』がそのテーマを中心視していることから,これは明白だといえます。
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読売新聞社杯全日本選抜競輪&第一部定理三三備考二

2015-02-15 19:14:26 | 競輪
 静岡競輪場で開催された第30回全日本選抜競輪の決勝。並びは山崎-菊地の北日本,平原-武田-岡田の関東,稲垣-大塚の西日本で桐山と浅井は単騎。
 スタートを武田が取って平原の前受け。4番手に稲垣,6番手に浅井,7番手が山崎,最後尾に桐山で周回。残り2周のホーム入口手前から山崎が上昇。平原を叩くと,続いていた桐山が単騎で前を斬りました。バックで稲垣がその外から被せていき,引いた平原が打鐘から巻き返して先行。ラインで出切り,4番手に稲垣,成り行きからこの後ろがインの桐山と外の大塚での競り合いに。競りの後ろにいた浅井がバックから単騎で捲っていくと,稲垣も発進。車間を開けていた武田が呼応して,3人が併走するような形。一旦は稲垣が前に出たかに見えますが,コーナーで内から抜き返した武田が先頭で直線。外に浮くような形で厳しかったかに思えた浅井が武田を捕えるも,後方で控えて最後に脚を使った山崎が大外から交わして優勝。マークの菊地が山崎の内から半車輪差の2着に続いて北日本のワンツー。浅井が4分の1車輪差で3着。
                         
 優勝した福島の山崎芳仁選手は昨年9月の岐阜記念以来の優勝。ビッグは2012年のオールスター競輪以来の優勝で通算13勝目。GⅠは9勝目。全日本選抜は2007年2009年に優勝していて3勝目。稲垣は小細工をするタイプではないので,早い段階で関東勢と争うことが予期できましたので,大きなチャンスではないかと考えていました。実際には最終周回のバックからになりましたが,浅井も発進したので,結果的に恵まれることになりました。多くの選手がギアを大きくしたのは,山崎が大きなギアで活躍するようになったのが契機だったと思います。規制によって大きなギアはかけられなくなりましたが,むしろ今の山崎にとっては歓迎すべき材料であったのかもしれません。今年は復活もあり得るのではないかと思っています。

 ライプニッツが主張していることは,実際には確かめようがないことです。僕たちが知ることができるのは現実世界だけであり,それ以外の可能世界については知りようがありません。なおかつ現実世界に関しても,そのすべてを十全に認識するということは人間には不可能であるといえます。ですから現実世界が最善の世界である根拠を示してみよと問われたなら,ライプニッツはきっと答えられないだろうと僕は思います。ライプニッツ自身が,現実世界と比較すべき可能世界を知っているわけではないからです。
 論理的に考えれば無茶なことを主張していると僕は思いますが,ライプニッツが構築すべき哲学のあり方としては,こうした方法だけが許されたものであったという事情は僕にも分かります。また,仮にライプニッツの主張に乗り,無限に多くのモナドの実在を認めたときに,僕たちがそのうちに実在するこのモナドが最善のモナドではないということを証明してみよと逆にライプニッツに問われたならば,僕もそれに正しく答えることはできません。現実世界が最善であるか最善でないかは,この場合はそれこそ真偽不明であるとしかいえないからです。神が善意によってあるモナドを現実的に実在化させるということと,ある事柄は真偽不明である,いい換えれば真理であるか非真理であるかが解答不能であるということの間には,実はある関連性があるのだと僕は考えています。ただ,その関連性についての説明は後回しにします。
 僕にとって興味深いのは,ライプニッツのように,神が善意であることをなすということを,スピノザが強く否定していることです。第一部定理三三備考二をみてみます。
 「一切を神の勝手な意志に従属させ,すべては神の裁量に依存すると主張するこの意見は,神がすべてを善の考慮のもとになすと主張する人々の意見ほどは真理から遠ざかっていないと私も認める」。
 これは長い備考の最後の段落の冒頭です。この前の部分で,スピノザは神の本性に自由な意志を認める主張に対する論駁をしているので,そうした主張が,この意見と書かれているのであり,そこにそれ以上の意味はありません。
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朝日杯将棋オープン&善意

2015-02-14 19:30:26 | 将棋
 有楽町朝日ホールで指された第8回朝日杯将棋オープンの決勝。午前の準決勝を勝ち上がった両者の対戦成績は羽生善治名人が30勝,渡辺明二冠が32勝。
 振駒で先手になった羽生名人の5筋位取り中飛車。渡辺二冠は穴熊を目指し,先手も潜り,双方が金銀4枚の相穴熊に。
                         
 先手が5筋を突き捨てて桂馬を跳ねた局面。後手は☖9五歩。これはほかに指す手が難しかったための選択ではなかったかと推測します。ここからは必然的に戦いに。
 ☗同歩☖同香は当然。すぐに角を切る手もあるでしょうが,実戦のように☗9六歩☖同香としてから☗3一角成の方が得のように思います。☖同金は普通の取り方でしょう。
 ここは岐路で☗9六香もあったでしょうが,すぐに☗5二銀と打ちました。
 後手も選択肢があり,☖5三飛☗4三銀成☖同飛といった展開も考えられるところでしたが☖9九香成としました。☗6三銀不成で一時的に大きな駒損になりますが,☖5五香で先手の飛車も逃げ場がありません。この手順は先手が☗9六歩と打ったのを咎められる可能性がある点が魅力的だと思います。
 ☗同飛☖同歩は当然。8二か8三に飛車を打つところで☗8二飛も当然といえるでしょう。後手は☖9三角打と繋ぎ,これも当然の☗8一飛成に☖7八飛と打ち込みました。
 たぶん後手が狙っていた反撃。対して☗7五香と打ちました。
                         
 ただなのですが☖同歩☗8五桂は後手が困りそう。したがって二枚の角が無能と化し,後手は歩で取れる香車を角と交換せざるを得ない展開に。どうやら第2図まで進んだ局面では先手がリードを奪っているといえそうです。
                         
 羽生名人が優勝。第3回,5回,7回と優勝していて朝日杯将棋オープンは連覇で4度目の優勝。通算でも前回のこの棋戦以来,43回目の棋戦優勝となっています。

 表象imaginatioであれ十全な認識cognitioであれ,神Deusを自由な存在existentiaと人が認識すれば,人はときに神に大きな愛amorを感じますが,場合によっては大きな憎しみodiumを感じてしまうということは,第三部定理四九から明らかだといえます。ですから単に現実世界の選択を神の自由の領域として措定するだけでは,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが哲学の目的とした,神学への貢献が図られるとはいえません。仮に多くの人が神を憎むようになるということであれば,むしろキリスト教を危機に晒す哲学であることになってしまうでしょう。
 だったら神の選択を必然的なものにすればよいかといえばそうではありません。それがライプニッツが考える人格の排除だからです。しかし結果effectusとして,人格の排除に徹したスピノザの哲学よりも,それを否定したライプニッツの哲学の方が神が憎まれるということになってしまうと,ライプニッツは明らかな失敗を犯したことになります。つまり神に人格を認めつつ,人びとがその神を信仰fidesの対象objectumとして崇めるような内容に自身の哲学を構築させなければ,ライプニッツの目的finisは達成できません。僕が現実世界の神による選択の方法を,ライプニッツは説明する必要があるといったのは,こうした理由からです。
 ここで折り合いをつけ得る方法としては,僕にはひとつしか思い浮かびません。それは神の自由な意志voluntas liberaによる選択が,最良の選択であると規定することです。いい換えれば,神の意志は単なる意志というよりは,善意とでもいうべきものによる選択であると規定することです。実際にライプニッツの規定はそのようになっていると僕は解します。確かに個々の事態を抽出すれば,神を憎みたくなるような事象は発生します。しかし世界を全体としてみれば,この現実世界が無限に多くのinfinita可能世界の中で,最善の世界であるというのが,それを簡略化した説明になろうかと思います。
 ここから,神はあらゆる可能世界の内部を知っているということが帰結します。しかしそれは真偽を知っているという意味ではないと僕は解します。だれにとって真偽不明かはここでも棚上げされていて,単に善意だけが現実世界の選択の規準になっていると僕は解しています。
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