スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

共同通信社杯&マシュレとの関係

2012-04-30 18:39:43 | 競輪
 今年から年1回に戻った第28回共同通信社杯は,名古屋競輪場を舞台に27日に開幕し,有力選手が相次いで脱落していく中,今日の決勝を迎えました。並びは佐藤-渡辺-成田の北日本,鈴木ー望月の南関東,脇本-稲垣-南-柴崎の中部近畿。
 スタートは南が取って脇本の前受け。鈴木が5番手で7番手から佐藤の周回。残り3周のバック,脇本が誘導と接触したようで落車。稲垣が誘導との車間を開けると,後方の佐藤が発進し,ホームでは叩いて前に。佐藤はそのままほとんどスピードを落とさず,残り2周から先行という形に。稲垣が4番手で7番手に鈴木で一列棒状。残り1周のバックに入ると後ろの動きを待たずに渡辺が番手捲り。こうなっては別ラインは手も足も出ず,そのまま渡辺の優勝で,マークの成田が2着に続いて北日本のワンツー。捲り追い込みをかけた稲垣が外に行ったので,北日本2車の間を突こうとした南が3着。
 優勝した福島の渡辺一成選手は昨年12月の伊東温泉記念以来のグレードレース制覇。ビッグはこれが6度目の決勝で,初優勝。脇本のアクシデントは関係なく,後ろ攻めとなった時点で佐藤は行く気満々だったよう。後続に反撃させないような先行となりましたし,持ち味はスプリント能力ですので,半周くらいならば問題ありません。競技にも力を入れていて,今年の目標はむしろオリンピックであったと思いますが,その前に本業の方で結果を出しました。オリンピックに出るようなら,そちらでの活躍にも期待したいところです。

 『短論文』の「認識は純粋な受動である」という一文をどのように解釈するのかという立場の相違とは別に,スピノザの哲学の認識論のこうした側面が,マシュレによる属性の認識の理解に,深く影響しているということは間違いないところだと思います。すなわち僕はこの一文があってなお,スピノザの認識論には重大な変更はなかったと考えるわけですが,そうであるならば,少なくともそれを一般的な意味において理解すれば,人間の精神による属性の十全な認識を,人間の精神による受動であるとみなすことは,大いに可能であると考えられるからです。
                         
 マシュレは第一部定義四における知覚を,第二部定義三説明における知覚であると解することから訴訟を開始しました。しかしその訴訟過程において,むしろそれを撤回するかのように,人間の精神による神の属性の認識は,受動であるとも能動であるともいえないような認識であるといっています。僕は人間の精神による認識作用は,あるいはもっと広くどんな事物のどんな作用も,能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えますから,そのこと自体には同意できません。しかし一方で,最初はそれを人間の精神による受動であるといっていたマシュレが,中途からはそれを能動でも受動でもないような思惟作用であると主張するようになったのは,マシュレがそれを,単に受動であるとは解せないと考えたからだろうと思うのです。いい換えればマシュレにとって,たとえそれがオートマティックな,あるいはシステマティックな思惟作用であるとしても,ただそれだけを理由としてその認識を受動であるとはいえなかったのだろうと思うのです。したがって逆にいうなら,こうしたマシュレの訴訟過程というのは,少なくともスピノザの哲学の認識論に関しては,そのどこが重要な点であるのかということについて,よく気が付いていたことの証明であるように思います。だから僕は,何を能動と解し何を受動と解するのかという点ではマシュレには同意できませんが,たとえそれが一般的な意味では受動としか理解できないような思惟作用について,受動であると断言しなかった点では,むしろマシュレの考え方に同意したいくらいなのです。
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近代競馬150周年記念天皇賞&思想の背景

2012-04-29 18:45:39 | 中央競馬
 国内の平地レースでは最も長い距離の大レースとなる第145回天皇賞(春)
 発走後,少し押しながらゴールデンハインドの逃げに。ビートブラックが続き,大きく離れてナムラクレセント。さらに大きく離れてユニバーサルバンクとトウカイトリックで,残りの馬がここから少し離れて追走というレース。最初の1000mは60秒0で,昨日からの馬場状態を考えればスローともいえるミドルペースなので,こんなにバラけるようなレースになるのはおかしかったとはいえます。
 2番手のビートブラックが2周目の3コーナーでは前に出て,ゴールデンハインドもそれなりに食い下がって直線。まだ後続とは大きな差がついていて,ビートブラックも大きくはばてず,貯金を生かす形で4馬身差の快勝。後続の馬群からは中を割ったトーセンジョーダンが2着。大外のウインバリアシオンがさらに2馬身差の3着。
 優勝したビートブラックはまだ重賞も勝ったことがなく,伏兵中の伏兵であったとはいえます。2番手の馬が3コーナーで先頭に立ち,そうもばてないのなら,大きく離れて追走した馬は手も足も出なくなるのは必然。そういう意味ではそうしたレースに持ち込んだ鞍上の手腕が大きかったと思いますし,馬場状態やメンバー構成上の展開面などの恩恵も受けたといえるでしょう。単騎ではなく,2頭で先行していたというのも,後ろを幻惑する意味ではよい結果をもたらしたと思います。一族の活躍馬としては1991年と1992年のJRA賞最優秀障害馬のシンボリクリエンス
 騎乗した石橋脩騎手はこれが大レース初制覇。管理している中村均調教師は2004年のJBCスプリント以来の大レース制覇で春秋通じて天皇賞は初勝利。

 実は僕がスピノザの思想的背景にはあまり関心がないというとき,それはただ単に,スピノザが生きていた時代の雰囲気がスピノザの思想に与えた影響には関心がないとか,あるいはスピノザ自身の個人的な状況が,その哲学に与えた影響に関心がないということだけを意味するのではありません。もっと直接的にその哲学に関係してくるような思想的な背景に関しても,スピノザ自身が言及しているという場合にはもちろん別ですが,そうではない限りは僕はあまり関心をもっていないのです。
 『へーゲルかスピノザか』の日本語版には,補論として,鈴木一策の「アルチュセール学派とスピノザ主義」という論文がついています。この中で,スピノザの哲学とキリスト教の考え方,とくに原罪についての考え方の関係が説明されています。こうした神学がスピノザの思想に実際にある影響を与えていたのか否かは,僕には分かりません。そうであったかもしれませんし,そうではなかったかもしれないでしょう。ですからこの論文の是非に関しては僕は態度を留保しますが,そのことに僕は関心があるかないかといえば,はっきりありません。つまりスピノザの哲学が神学から重大な影響を受けていようと,あるいはいっかな影響を受けていないのだとしても,僕にはあまり関係がないのです。なぜならたとえどちらの場合であろうと,少なくとも僕にとっては,スピノザの哲学の内容そのものに関する興味は,それによって増したり減じたりするものではないからです。
                         
 思想に直接的に関係すると思われるような場合でもそうなのですから,それとは関係がないような部分でスピノザの哲学を成立させた背景がどんなものであったのかということに,僕があまり関心を抱くことがないというのは当然です。だから僕は清水禮子の研究そのものにはあまり関心をもちませんが,彼女がスピノザの哲学の認識論に関して,ある重大な変更があったと考えていることは確かですし,その変更の背景に関する研究は,スピノザの哲学の研究としては大いに意味をもち得るものでしょう。ですからこうしたことに関心があるという方には,『破門の哲学』はかなり面白く読めるのではないかと思います。
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棋聖戦&『破門の哲学』

2012-04-27 18:53:34 | 将棋
 3年連続の挑戦を目指す深浦康市九段と,タイトル戦初登場を窺う中村太一五段によって争われた昨日の第83期棋聖戦挑戦者決定戦。第18期銀河戦決勝トーナメント1回戦で一局だけ対戦していて,それは中村五段の勝ち。
 振駒で中村五段の先手。深浦九段が横歩取りに誘導。中盤は難しいのではないかと思えたのですが,一遍に先手必勝に近い局面となりましたので,その辺りを。
                         
 先手が▲8三角と打ち,後手が7四にいた飛車を逃げたところ。ここで▲4六金と出たのですが,おそらくこの手が勝着だったのだと推測します。▲5五金と出られると飛車の行き場がなくなる後手は△5四歩ですが,さらに▲4五金と進出。▲5四金を防いで△5三銀ですが▲7七桂と援軍を送りに。△4四桂▲4六飛と少し緩和してから△1四角と出ましたが,▲6五桂が実現。△3六銀の攻め合いにも相手をせず▲5三桂成。△同王に▲6五銀と打ちました。
                         
 進出した後手の銀が質駒となっていて,ここは先手勝勢。そのまま一気に先手が押し切りました。
 勝った中村五段が挑戦を決めるとともに,六段昇段。これは4年前の師匠の確信の通り。とにかく駒が前に前にと出ていくような,勢いに満ち溢れた将棋で,羽生善治棋聖との五番勝負が楽しみ。第一局は6月6日です。

 『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』における,認識は純粋な受動であるというスピノザのことばを,文字通りに『エチカ』における受動passioそのものであると解した場合にはどうなるのでしょうか。この場合には,少なくとも『短論文』を執筆していた当時のスピノザは,事物の認識に関して,精神能動actio Mentisをまったく認めていなかったと理解することになります。いい換えれば,第二部定義三説明における知覚perceptioのみを人間の精神mens humanaはなすのであって,事物を概念するconcipereということはないとスピノザが考えていたと理解するということです。一方で,『エチカ』においては,明らかに精神の能動をスピノザは認めています。これは反論の余地がないところでしょう。したがってこの場合には,『短論文』を執筆していた当時のスピノザの哲学における認識論と,後に『エチカ』を執筆したときのスピノザの哲学の認識論との間には,ある重大な乖離があるとみなすことになります。すなわちこの間に,スピノザの哲学には,無視することができないような重大な変更があったということになるでしょう。
 僕はこのような立場は採りませんが,そのように考える学者というのももちろんいます。というよりも,実際にスピノザが文章として残している内容をみる限りでは,そう理解する方が自然であるということは,僕自身も同意せざるを得ません。たとえば清水禮子の『破門の哲学』は,そうした観点からの研究であると僕は理解しています。
                         
 基本的にこの著書における清水の研究は,スピノザの哲学それ自体の内容を明らかにするということよりも,スピノザがそのときそのときに,ある思想を有するようになった背景,とくにスピノザの生活環境という意味での背景の探求に力点が置かれています。僕はある人間が何らかの思想を抱くとき,その人間の時代的背景とかもっと個人的な生活条件といったものが,大きな影響を与えるということ自体は否定しません。たとえばマルクスの哲学とか社会学,あるいは部分的には経済学も含めて,その思想を背後から支えているのはこうした観点だといえると僕は理解します。しかし一方で,僕の関心というのはスピノザの哲学の内容だけであって,その背景ではないので,この点に関してはここでは言及を控えます。
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女流王位戦&純粋な受動

2012-04-26 18:49:13 | 将棋
 名城を誇る兵庫県姫路市での開幕となった第23期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は甲斐智美女流王位が3勝,里見香奈女流名人が6勝。なお,これは第61期NHK杯の予選の結果を含めたものです。
 振駒で甲斐女流王位の先手。4手目に角交換する変わった序盤戦でしたが,先手の向飛車,後手左美濃となりました。
                         
 後手が飛車先を伸ばしたのに対し,先手はいきなり▲同桂と取りました。これは並べていて最も驚いた一手。後手は昼食休憩を挟んで△5五歩と突き,▲同歩と取らせてから△8五飛。先手は▲8六歩と突いていくのではなく,▲9六角と打ち,△8四飛に▲6三角成と馬を作ったのですが,△3五桂▲3六銀としてから△8五角。
                         
 どうもこの後手の一連の手順がうまかったようで,ここでは後手の駒得が生きる展開となっているようです。先手はよくて千日手でしたが,後手の方から打開。先手の反撃を見切った後手が押し切りました。
 四つ目のタイトルに向って里見名人が先勝。第二局は来月8日です。

 『エチカ』より以前のスピノザの認識論についても考えておくことにします。
 1658年頃に成立したと思われる『神,人間,及び人間の幸福に関する短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』においてスピノザは,認識cognitioというのはある純粋な受動passioであって,事物について精神mensないしは知性intellectusがそれを肯定したり否定したりするのではなく,事物自身が精神や知性のうちで自分自身について肯定したり否定したりするのである,という主旨のことをいっています。
 この純粋な受動というのをどう解釈するかは,見解が分かれるところだろうと思います。僕の解釈を述べれば,これは『エチカ』でいわれている,あるいは僕がこのブログにおいて理解している受動とは異なります。というのは,たとえ知性がある事物を概念するconcipere場合であっても,そこには精神の決意というものは不在なのであって,むしろそれはオートマティックな,あるいはシステマティックな作用なのであるということは,すでに今回の考察において明らかになっています。そして『短論文』における純粋な受動ということが実質的に意味している内容というのは,そのことと合致しているように僕には思えるからです。
 僕はスピノザの認識論というのが,『エチカ』において重大な変更が行われたというようには理解しないといいましたが,そのように理解する理由というのが,この点に存します。すなわち,『短論文』においていわれていることと,『エチカ』で主張されていることとの間に,とくに重大視しなければならないような差異はないというように考えるのです。
 たぶんドゥルーズGille Deleuzeは僕と同じように理解しています。少なくともスピノザの哲学の認識論において,初期の頃と『エチカ』の執筆時において,どこか重大な変化があったというようにはドゥルーズは考えていないということだけは確かなことだと思います。僕はドゥルーズによるスピノザの認識論の解釈に関しては,やや疑問を感じる点があるのですが,この点に関してだけいうならば,僕はドゥルーズの主張していることが正しいと考えていますし,その見解を支持します。
 しかし一方で,これを『エチカ』における受動と理解することも,不可能ではないということ,というよりももしかしたらその方が自然であるかもしれないということは,僕も認めます。
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しらさぎ賞&決意の不在

2012-04-25 18:52:56 | 地方競馬
 レースの焦点は2着争いであろうと目された第50回しらさぎ賞。サクラサクラサクラが競走除外となって11頭。
 サクラサクラサクラが除外となればギオンゴールドの逃げは自然。クラーベセクレタが2番手でマーク。内にリアンローズが差なく続き,センゲンコスモ,ツキノテンシ,スズリスペクトという隊列に。前半の600mは38秒0で,これはスローペース。
 クラーベセクレタがどこで先頭に立つかで,レースの結果が大きく左右されるだろうと考えていましたが,3コーナー手前では逃げ馬に並び掛け,コーナーを回りながら先頭に立って直線に。ここからはほぼ独走で,7馬身差の圧勝。早めに来られたギオンゴールドは苦しくなりましたが,ペース自体は早くなかったので,追い込みが届く展開でもなく,好位に位置していたツキノテンシが2着で3着はセンゲンコスモ。
 優勝したクラーベセクレタは昨年12月のクイーン賞以来の勝利で,南関東重賞は7勝目。ほかに重賞1勝。重賞を勝つくらいの馬ですから,ここはアクシデントでもない限り負けることは許されないレースで,力通りの圧勝となりました。この馬にとって最適の距離ということはないのではないかと思いますが,この相手ではスピード能力が違いすぎます。母の父はタイキシャトル。Clave Secretaはスペイン語で秘密の鍵。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は2月のユングフラウ賞以来の南関東重賞制覇。第46回,第47回,第48回と3連覇していて,2年ぶりのしらさぎ賞4勝目。管理している船橋の川島正行調教師は第46回以来のしらさぎ賞2勝目。

 このスピノザの認識論には,際立った特徴があるといえると思います。そしてそれは,僕たちが人間の精神による事物の認識のあり方として一般的に把握しているイメージに,大きく反するものであるのではないかと思います。
 一般的に僕たちは,人間の精神が事物を認識するときに,何を認識しまた何を認識しないのかということについて,その認識をなす精神の決意といったものが介在すると考えてはいないでしょうか。あるいは,人間の精神によるすべての認識がそうではないのだとしても,少なくともその一部には,人間の精神の決意,あるいは自分自身の事物の認識についていうならば,自分自身の精神の決意によってその認識が決定されていると考えているのではないでしょうか。ところがスピノザの哲学の認識論の結論によれば,人間の精神による事物の認識というのは,きわめてオートマティックな,あるいはきわめてシステマティックな作用なのであって,そこにはその認識作用をなす人間の精神による決定が入り込む余地は,いっかなないのです。そしてそれは,ここまで詳しく探求してきたように,第二部定義三説明における,知覚の場合にのみ妥当するというわけではなくて,人間の精神がある概念をなすという場合にも同様なのです。
 実はスピノザのこうした認識論というのは,必ずしも『エチカ』において初めて明らかにされたというわけではありません。むしろ哲学的探求を始めた当初から,スピノザは,論理的にそのことを明らかにしたかということは別にしても,そうした考え方を有していたようです。というよりも,『エチカ』以前のスピノザの哲学は,むしろこの点に関しては,より先鋭的であったといえるかもしれません。僕は必ずしも『エチカ』において,スピノザがそれまでの考え方を一新したというようには考えていません。少なくとも僕たちの一般的なイメージと比較していうのなら,考え方の変更を余儀なくされたというようにも思わないです。ただ,『エチカ』においてはそれまでにはなかった共通概念というのが導入されていて,それによって精神の能動というのが,それ以前よりも具体的に明らかになったといえることは事実であると思います。
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左大腿骨亀裂骨折&認識

2012-04-24 18:37:15 | NOAH
 ジャイアント・キマラは馬場の復帰戦の対戦相手に選ばれたのですが,そこでも少し触れたように,このときの馬場の欠場は,前年の世界最強タッグ決定リーグ戦の試合中のアクシデントによる左脚の大腿骨の亀裂骨折でした。当時の状況については後に馬場自身も説明していますし,その後の状況の詳細を含めたものとしては,プロレス雑誌に馬場へのインタビューも含めてまとめられています。さらに馬場の死後,ほかのインタビューなども含めて一冊の本となりました。
                         
 事故があったのは1990年11月30日の帯広大会。馬場はアンドレ・ザ・ジャイアントと組んでファンクスと試合をしました。ドリー・ファンク・ジュニアは試合中に,相手を場外戦に誘うために独特のロープワークを駆使することがありましたが,この試合でも馬場を相手にそれを利用。両者がもつれ合って場外に転落したようです。場外には選手の衝撃を緩和するためにマットが敷いてあります。しかしこのとき,マットとマットとのつなぎ目の部分に若干の隙間が生じていて,馬場は運悪くそこに転落。患部をそこで強打して骨折してしまったとのことです。
 馬場はそのまま帯広市内の病院に入院しました。しかし元子夫人は一刻でも早く東京に帰った方がよいと判断。東京の主治医に連絡すると,すぐに連れてくるようにとのことでしたので,12月3日には移動。病院から救急車で帯広空港へ移動。特殊なリフトで非常口から機内へ。機内では前後の席を50席ほど潰したそうです。羽田空港にも救急車が待機していて,おそらく同様の方法で飛行機から下ろされ,そのまま都内の病院に搬送されて入院ということで,普通に考えればかなり無理がある大移動だったようです。
 ただ,この大移動を強行したことは結果的には幸いしたよう。馬場は帯広ではかなり痛がっていたようなのですが,移動してからはそういう素振りをあまり見せなくなったとのことです。インタビューは12月20日に行われたとのこと。全治3カ月ですから完治していたわけではありませんが,回復は順調であったといえるのではないでしょうか。

 このスピノザの哲学における認識論の結論は,こと人間の精神mens humanaだけに限っていうならば,第一部定理二五系からも帰結しなければなりません。
 なぜなら,第二部定理一一,そして具体的には第二部定理一三により,人間の精神というのは神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisです。よって第一部定理二五系により,現実的に存在する人間の精神は,否応なく必然的に神の思惟の属性を一定の仕方で表現しつつ実在します。いい換えれば,何らかの思惟作用をしつつ実在するということになります。
 ところで,第二部公理三によれば,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念ideaです。したがってあらゆる思惟作用のうち,その第一にあたることは何らかの観念を形成するということなのです。しかるに,これは無限知性infinitus intellectusでも有限知性でもよいのですが,ある知性がその知性のうちで何らかの観念を形成するとき,これをその知性が形成する観念の対象ideatumを認識するというのです。したがって,思惟の様態のうちの第一のものが観念であるということは,思惟作用のうち第一のものは認識cognitioであるということになります。したがってあるものが何らかの思惟作用をしつつ実在するということは,そのあるものが何らかの認識をしつつ実在するといっているのに等しいことになります。よって人間の精神が現実的に存在するならば,その人間の精神は,否応なしに何らかのものを認識する,すなわちオートマティックに,あるいはきわめてシステマティックに何らかのものを認識するということになるからです。
 これ以前のテーマとの関連でいうなら,このことは第二部定義三に関する考察と大いに関係しています。僕はその考察において,なぜこの定義Definitioが観念の発生というのを含んだ定義であるといえるのかということを,詳しく分析しました。ここではその仔細に立ち入ることはしませんが,僕がそのときに最大の根拠としたことが,思惟の様態は何らかの思惟作用をなすから思惟の様態なのであって,もしもあるものが思惟作用をなさないなら,それは思惟の様態としては存在し得ないということでした。これと同様に,人間の精神は認識をするから思惟の様態なのであって,それを否定するなら,人間の精神は思惟の様態ではないと主張するのと同じであると僕は考えます。
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大楠賞争奪戦&認識論

2012-04-22 18:39:42 | 競輪
 おおくすということばの響きからはどうしてもオークスを連想してしまいます。しかしオークスは樫であり,楠ではありません。今日は武雄記念の決勝でした。並びは牛山ー宗景-関の茨城栃木,岡田ー尾崎の埼京,藤木に内藤,井上-荒井の九州。
 荒井,藤木,牛山の3人が飛び出し,まず先頭には牛山が立ちましたが,上から藤木が交わして誘導の後ろに入り前受け。牛山が3番手,6番手が井上で8番手から岡田という周回に。残り3周のバックから岡田が上昇すると,井上がこれに続き,打鐘前のバックで井上が岡田を叩くと,その上を牛山が交わして先行態勢に。打鐘で藤木も追い上げましたが,そのまま牛山が突っ張る形で先行。ホームから井上が発進したのですが,立て直して巻き返してきた藤木と荒井が被り,井上の後ろに藤木が入り,さらに岡田が続くという隊列で関東勢を捲りきりました。井上は捲ったところで一杯。直線は藤木が抜け出して優勝。追った岡田が2着で,岡田マークの尾崎が3着。
 優勝した京都の藤木裕[ゆたか]選手はこれが記念競輪初優勝。直後に共同通信社杯が控えている関係もあり,仕上がり途上の選手が多かったのでしょう,優勝候補と目された選手が次々と敗退するシリーズとなり,ややメンバーに恵まれた面はあると思います。ただ,ここ1,2年のうちに力をつけてきた選手で,このメンバーでは最も若い27歳ということで,伸びしろもあると思いますから,またどこかでいいレースを見せてくれるのではないかと思います。

 この認識論の前提が意味している最も重要な事柄は何でしょうか。それは,第二部定理九というのは結果から原因へと遡及している定理Propositioですが,この無限連鎖の一部分だけを抽出し,これをある精神mensの内部における認識作用に当てはめたならば,これは原因から結果へと辿ったとしても成立するということです。
 つまり第二部定理九は,次のように解釈することが可能なのです。もしも神Deusが現実に存在するある個物res singularisの観念ideaに変状したならば,これを原因として,現実に存在する個物の観念が生じる。そしてこの個物の観念を原因として,また別の個物の観念が必然的に発生する。そしてこのようにして無限に進むet sic in infinitum。
 したがって,ある精神のうちに個物の観念が発生したならば,あるいは個物の観念ではなくても一般性の低い共通概念notiones communesが発生したならば,必然的にnecessario何らかの認識作用がその精神のうちには生じるということになります。なお,僕はこのことはあらゆる精神にとって妥当する認識論であると考えますから,ここでは単に精神といっておきます。ただ現在の考察の課題は,人間の精神mens humanaによる事物の認識cognitioについてですから,これを人間の精神についてのみの言及であると考えてもらっても構いません。人間の精神もまた精神であることには違いありませんから,このことが妥当するということは間違いありません。
 これがスピノザの哲学の認識論の最大の特徴であると僕は考えているのです。すなわち,知性intellectusのうちにある観念が生じたならば,必然的にこれを原因として別の観念が発生するのです。しかもこれは,第一部定理三六により,仮にその作用が第二部定理九の様式で説明できないものであるとしても,妥当しなければなりません。
 ところで,知性とは個々の観念の総体のことなのですから,知性のうちには必然的に何らかの観念があります。つまりその観念を原因として何らかの観念が必然的に発生するというのですから,知性は現実的に存在する限り,否応なしに何らかの認識作用をなすということになるでしょう。否応なしにということは,知性の思惟作用とは,実は非常にシステマティックな,あるいはオートマティックなものであるということになるのです。
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マイナビ女子オープン&認識論の前提

2012-04-20 19:02:27 | 将棋
 将棋まつりを直後に控えた山形県天童市での対局となった第5期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 長谷川優貴女流二段の先手で,▲7六歩△3四歩▲5六歩。上田初美女王は角交換して馬を作る手順を選択。序盤の段階で先手が失敗したようで,後手の手厚さが生きるような将棋に。苦しいながらも先手も反撃しての終盤戦となったのですが,何とも不思議な終り方になりました。
                         
 ここで▲5五桂と金取りに打ちましたが,△同香。こうやった以上は▲同金でしょうが,△6二龍と素抜かれました。さらに▲7七角と打って突破を企てましたが,△7九飛▲4四金△7七飛成とその角も取られました。
                         
 第1図の時点で先手の非勢は否めないのでしょうが,もう少し何とかできなかったのだろうかという気はします。第2図に至っては大差で,後手の勝ちとなりました。
 上田女王が連勝で防衛に王手。第三局は来月15日です。

 これで今回の考察の課題の大部分を解決することができました。そこでこれらのことから最終的な結論を導き出していくことにします。そのために,改めて明らかになった事柄を確認しておきましょう。
 まず,人間の精神が現実的に存在するならば,その精神は何らかのものを必然的に認識します。そしてこの認識は,第二部定義三説明における知覚と概念の両方を含みます。
 次に,そうした観念,これは知覚の場合には混乱した観念であり,概念の場合には十全な観念ということになりますが,それらの観念が現実的に存在する人間の精神のうちに発生したならば,この観念を原因として別の観念が必然的に結果として生じます。つまりこれが人間の精神による事物の認識作用であるということになります。そしてそれは,知覚の場合にはそのすべてが,また概念の場合にも少なくともその一部は,第二部定理九の様式で説明されることになります。
 ただし,僕はこれで人間の精神によるすべての認識作用が網羅されていると考えているわけではありません。僕自身は,人間の精神による事物の知覚は,必然的に個物の知覚であると考えるので,知覚作用に関してはこれですべてが説明されていると考えています。ただこれには反論があるかもしれません。しかしこのことは今は措いておくことにします。一方,概念の場合には,僕はこれまで説明してきたことで,そのすべてを説明し得たとは考えていません。単純にいっても,第三種の認識を理論的に説明するということは,現在の僕の能力では無理があります。さらに,僕は人間の精神が神,ならびに神の属性を十全に認識する,すなわち概念するということを認めますが,この種類の認識については,この認識作用からは外れることになると考えています。
 しかし一方で,人間の精神による事物の認識作用の大部分は,これまでの考察の仕方によって説明することが可能であると思います。そしておそらくこのことは、異論のないところでしょう。よってここでは,これをもってそれを人間の精神による事物の認識であるとしておきます。つまりこれが,スピノザの哲学の認識論の前提となるわけです。
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東京スプリント&第二部定義六の根拠

2012-04-18 20:32:55 | 地方競馬
 地方競馬所属馬が2着までに入れば,かしわ記念とさきたま杯への優先出走権が付与される第23回東京スプリント
 先手を奪ったのはスターボードで,これはあまり考えていませんでした。コアレスピューマ,ナイキマドリードと南関東勢が先行。好位にダイワディライト,サマーウインド、セイクリムズン,セレスハントといったあたり。前半の600mは34秒6で,ミドルペースといっていいかと思います。
 直線入口で前3頭は雁行状態になりましたが,手応えに最も余裕があったのは逃げたスターボードで,一旦は後ろを離しました。追ってきたのは馬群を捌くように外に持ち出したセイクリムズンで,わりと楽に逃げ馬を捕えると,最後は1馬身半の差をつけ快勝。中団から馬群を縫うように内目を追い上げたフジノウェーブが2着に届き,3着に粘ったスターボード。
 優勝したセイクリムズンは前走の黒船賞に続く重賞5勝目。絶対能力で最上位とはいえないかもしれませんが,近況を加味すれば優勝候補の筆頭で,ここはそれに応えた形。ここのところは逃げていましたが,元々は差す競馬もできる馬で,今日はそういう形で勝ったのは収穫でしょう。安定性の高いタイプですから,当面はこの路線の主役を張っていくことになると思います。アストニシメントヤマトナデシコの分枝。甥には障害重賞1勝のオープンガーデン
 騎乗した岩田康誠[やすなり]騎手,管理している服部利之調教師は東京スプリント初勝利。

 もうひとつは,スピノザの哲学における完全性という概念との関係です。
 スピノザは第二部定義六において,事物の完全性というものを,その事物の実在性と等置しています。事物の実在性というのは,その事物が実在する力,あるいは第三部定理七で示されているような,事物の現実的な力のことです。つまりスピノザは事物の完全性という概念を,その事物が有している力という観点から把握しようと努めているということになります。
 このこと自体は単にスピノザ自身の考え方であるといってしまえばその通りではあります。しかし,スピノザがそのように事物の完全性を把握する根拠というのを求めるとするなら,それはその力というのが,単にその事物自身が有している力というのではなくて,むしろそれは神の力の分有であるという観点が大きく影響しているからだと僕は考えるのです。
 なぜなら,まず,第一部定理一一第三の証明というのが,第一部定義六からそれ自体で帰結してくるということは,今回の考察の中でもすでに触れた通りです。したがって,神というのは,実在性という観点においては,最高に完全なものであるということになります。いい換えれば,神以上の実在性を有するもの,すなわち実在において神よりも完全であるようなものは何もないということです。したがって,実は万物が神の力を分有することによって実在が可能になるということは,神の完全性を分有することによって実在が可能になるといっているに等しいということになるでしょう。つまり実在し得るいかなるものも,それは神の完全性を分有しているということになります。よってその意味において,その事物は完全であるということになるでしょう。そしてこのことを逆に考えれば,こうした神の完全性を分有しない一切のものは,実在することが必然的に不可能であるということになります。いい換えればそうしたものは不完全であるということになります。
 このことから理解できるのは,完全なものは実在し得るものであり,不完全なものは実在し得ないものであるということです。こうした根拠によって,スピノザは完全性を実在性と等置し得たのだと僕は考えています。
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星旗&汎神論の意味

2012-04-17 18:33:41 | 血統
 一昨日の皐月賞を勝ったゴールドシップの基礎輸入繁殖牝馬は,1924年にアメリカで産まれた星旗。明治から続く日本古来の血統のひとつで,小岩井農場とともに日本競馬の発展に寄与した宮内省下総牧場の輸入で,ファミリーナンバー16‐h。星旗はもちろん輸入後につけられた和名で,英名はFairy Maidenです。直訳すれば妖精少女といったところでしょうか。
                         
 歴史が長いですから活躍馬は多数あり,現在もいくつかの分枝が残っています。日本競馬史の中で有名な馬といえばまずは星旗直仔で第8回の日本ダービーに優勝,種牡馬として13頭もの大レース勝ち馬を出し,殿堂入りを果たしたクモハタ。ダービーの前に蹄の病気を起こし,戦後には伝染病に罹患し,殺処分されてしまった馬です。
 そしてもう1頭,星旗の曾孫で第23回の日本ダービーを優勝したのがハクチカラ。その翌年に秋の天皇賞と有馬記念を連覇し年度代表馬に選出されるとその翌年夏からアメリカ遠征を敢行。ずっと現地に滞在し続け,11戦目となるワシントンバースデイステークスを優勝。これが記念すべき日本馬による史上初の海外重賞制覇でした。この馬も殿堂入りを果たしています。
 実は大レースの勝ち馬は僕が産まれた翌年の菊花賞を勝ったニホンピロムーテーを最後に途絶えていました。よってゴールドシップの皐月賞は,実に41年ぶりのこの一族による大レース制覇。ただし活力が完全に衰えていたというわけではなく,たとえば一昨年の目黒記念を勝ったコパノジングーもこの一族を祖に持つ馬です。

 今回の考察における第一部定理二四系証明第一部定理三六別の証明のように,事物の実在ないしは事物が自身の実在に固執する傾向を力という観点から把握してみるということは,さらに『エチカ』のほかの部分,ひいてはスピノザの哲学の全体に関する理解という観点からも,多大な影響を及ぼしてくるであろうと僕は考えています。それは主だってはふたつの点に関係してきます。そこで,今回の考察の主旨からはやや逸れるかもしれませんが,僕の考え方をここで示しておきます。
 スピノザの哲学は一般的に汎神論であると評されています。僕自身は必ずしもそうであるとは認識していないのですが,それはここではおいておきましょう。ところで,一般的に汎神論という考え方がどのようなイメージで把握されるだろうかということを考えてみれば,それはごく簡単に示すなら,万物には神が宿っている,というようなものだろうと思います。第一部公理一の実在的意味というのは,自然のうちに実在し得るものは,神であるか,そうでなければ神のある属性の変状であるということでしたから,一般的な意味における汎神論のイメージに『エチカ』の哲学を合致させるならば,この点が該当するということになると思います。
 しかし,実際に神のある属性の変状というのが何を意味するのかといえば,それは神の有する力を分有したものであるということです。そしてそうであるがゆえに,第一部定理三六で意味されていることは,ここから直ちに結論されてくるのです。つまり,スピノザの哲学における汎神論というのは,ただ単に万物には神が宿っているというように理解されるような,いわば静態的なあるシステムないしは組織に関わるような言及ではありません。むしろダイナミックな自然の生成に関わるような言及であると理解されなければならないわけです。以前にも説明したように,スピノザの哲学における神は,信仰の対象ではなくむしろ認識の対象ですから,万物に神が宿るということを,森羅万象に対する信仰のようなものと考えることは大いなる誤りですが,ただ単に万物に神が宿っていると理解することも,同様に誤解であると僕は考えているのです。
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よさこい賞争覇戦&利点

2012-04-16 18:31:00 | 競輪
 昨日は高知記念の決勝もありました。並びは武田-芦沢の茨城に岡部が続き,武井がこのラインで番手戦。脇本-山口-柴崎の近畿中部,阿竹ー大塚の西国。
 武田がスタートを決めて前受け。周回中から番手戦で,中団が阿竹,後方から脇本に。打鐘前のバックに入る前から脇本が上昇。武田は一旦は踏み込みましたが,打鐘では脇本が叩いて先行。柴崎は離れそうでしたが何とか続き,武田が4番手。ホームから阿竹が巻き返していきましたが,これは柴崎の横あたりで一杯。このため武田がインに包まれピンチかと思いましたが,バックで阿竹が後退し始めたので,そこから発進。内外入れ替わりながらの番手は武井が奪いましたがこちらは番手確保で一杯。山口の牽制をものともせずに捲りきった武田が優勝。山口が2着で3着は柴崎。
                         
 優勝した茨城の武田豊樹選手は2月に久留米記念を優勝していて,GⅢはこれが16勝目。このレースもそうでしたが,このシリーズは力の差を見せつけるような完全優勝。3番手に入れそうでしたが,そうしなかったのは,中団を確保できれば十分に捲れるという自信があったからでしょう。内に詰まったのは誤算だったと思いますが,落ち着いて対処できたのは,余裕のなせる業であったように思います。久留米記念の直前には当地の東王座戦も制しており,強い選手はどこでも強いですが,バンクとの相性もよいのでしょう。

 現在の考察との関連で,第一部定理三六別の証明が有している利点というのは,それが自然のうちに実在するどんな事物にも適用可能であるということを含んでいることです。なお,スピノザは形相的・客観的を使い分けるときに,形相的な事柄だけを自然とみなし,客観的な事柄についてはそうはみなさないと思われるふしが『エチカ』には散見されます。しかし僕はその見解には疑問を有しています。なぜなら,スピノザが第三部の序言で述べているように,自然は常に同じであり,その力はいたるところで同一ですが,このことは思惟の属性にも妥当すると僕は考えるからです。第三部定義三で示されているように,感情というのは,精神にも身体にも,いい換えれば思惟の属性のある状態にも延長の属性のある状態にも該当する,『エチカ』においてはある特別な概念ですが,自然の力が同一であるという観点の下にそうした感情に関して考察することが可能であるということは,実はスピノザ自身も,この力が思惟の属性にも該当するということを認めているというように僕は解釈します。よって僕自身が自然という場合には,それは単に形相的な事柄だけを示すのではなく,客観的な事柄まで含んでいるというように考えてください。
 スピノザによる第一部定理三六証明は,第一部定理二五系を経由しています。よってそれは個物という概念を通しての訴訟過程となっています。ゆえに第二部定理三七により,個物の観念ではないとされている共通概念に関しては,第一部定理三六でいわれている事柄が妥当するのかどうか,疑念を生じさせる余地があるといえるでしょう。しかし力という観点を通じた別の証明は,すべての事物に妥当しますから,その疑念が入り込む余地がありません。すでにある人間の精神が現実的に存在するならば,その人間の精神の一部が共通概念によって構成されるということは,第二部定理三八系の意味によって明らかです。すなわち共通概念は自然のうちに実在するもののひとつであるということが明らかになっているわけです。つまり共通概念を原因として,何らかの結果が必然的に生じるということも,明らかになったのだと考えることができるわけです。
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皐月賞&第一部定理三六別の証明

2012-04-15 19:00:00 | 中央競馬
 2年ぶりに中山競馬場へと戻ってきた第72回皐月賞
 メイショウカドマツがまずは先手を奪いましたが,ゼロスが外から並んでいき逃げ争いに。向正面ではゼロスが先頭に立ちましたが,2頭が後ろを大きく引き離し,最初の1000mが59秒1の超ハイペースになりました。3番手集団を形成したのがアダムスピーク,ディープブリランテ,コスモオオゾラといったところ。グランデッツァは後方3番手,発走後にマイネルロブストと接触し躓いたワールドエースが後方2番手,最後尾がゴールドシップ。
 今日は馬場の内目の状態が悪く,馬群が大きく外を回るレース。そんな中,3コーナー手前あたりからゴールドシップは内を通り,イン捲りのような形で順位をあげると,直線は馬場の三分から四分どころに持ち出し,鮮やかに突き抜けて快勝。大外を回って伸びたワールドエースが2着。2頭の間を通ったディープブリランテがコスモオオゾラの追撃を凌いで3着。ワールドエースの1頭内のグランデッツァが5着ですので,力が上と見られた5頭が掲示板を独占。順当な結果といえると思います。
 優勝したゴールドシップはこれまで5戦して3勝,2着2回。前走で共同通信杯を制していました。少し間隔が開いていたのは課題でしたが,仕上がりには問題なかったようです。通ったコースに利があったことは確かですが,わりと差をつけていますので,その好騎乗がなくてもあるいは勝てていたかもしれません。はっきり抜け出したとは思いませんが,大崩れはせずに活躍し続けていくものと思います。父がステイゴールド,母の父がメジロマックイーンという好相性の配合。数多くの馬が輩出している日本在来の母系で,この馬に近い最近の活躍馬だと,平地重賞と障害重賞を2勝ずつしているカネトシガバナー
 巧みな騎乗をした内田博幸騎手は昨年の大怪我もあり,一昨年のダービー以来の大レース制覇で皐月賞は初勝利。管理している須貝尚介調教師は開業3年強で大レース初制覇となりました。

 これで第一部定理三六を,力という観点から証明するために必要な諸々の条件がすべて整いました。
 まず第一部定理三四により,神の本性と神の力というものは,同一のものであると考えられなければなりません。よって,第一部定理一六で神の本性の必然性から無限に多くのものが生じるといわれていることは,神の力から無限に多くのものが生じると置き換えることが可能であるということになります。
 次に,第一部定理二四系によれば,それがどんな事物であったとしても,その事物が自己の存在に固執する傾向は,神を原因とします。いい換えればそれは,神の力から無限に多くのものが生じるといわれるときに,その無限に多くのもののひとつを構成するということになります。したがって第一部公理四により,事物が自己の存在に固執することの認識は,神の力の認識に依存するということになります。よって事物が自己の存在に固執するというその力は,神の力によって理解されなければなりません。いい換えればどんな事物も,それが実在するなら,あるいは実在し得るのであれば,神の力を,少なくとも一定の仕方では分有しているということになります。
 したがって,神の力から必然的に無限に多くのものが生じるのであれば,その力を一定の仕方で分有するものからは,少なくとも一定の数のものが必然的に生じるのでなければなりません。そして第一部定理一五により,そうした神の力を分有しないものは,自然のうちに実在することができないでしょう。あるいはこのことは,第一部公理一の実在的意味からも明白です。よって自然のうちに実在するどんなものからも,必然的にある結果が生じるということになります。逆にいうなら,それ自身が自己の存在に固執するその力から,一切の結果を生み出さないようないかなるものも,自然のうちには実在し得ないということになるのです。ここまでの訴訟過程から理解できると思いますが,そうしたものが実在すると主張するということは,実は第一部定理一五を否定していること,すなわち神に依存せずともあることも考えることも可能な何らかのものが実在すると主張することに等しいのです。
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農林水産省賞典中山グランドジャンプ&第一部定理二四系証明

2012-04-14 18:46:05 | 中央競馬
 日本馬のみでの争いとなった第14回中山グランドジャンプ
 逃げたのはテイエムブユウデンで,追ったのがメルシーモンサン。前半はこの2頭が後ろを大きく離すというレースになりました。大いけ垣付近で一旦はメルシーモンサンの方が前に出ましたが,その後の向正面では一杯に。再びテイエムブユウデンが先頭に立つと,3番手グループの一角を形成していたバアゼルリバーが追って2番手に上がり,後方から中団を追走のマジェスティバイオも上がってきて,この3頭が雁行するように直線に。テイエムブユウデンはここからすぐに脱落,直線の最終障害付近で外のマジェスティバイオが先頭に立つと,あとは離していき優勝。バアゼルリバーが2着で,勝ち馬の後ろから追い込んだコスモソユーズが3着。
 優勝したマジェスティバイオは昨年暮れの中山大障害に続く大レース2勝目。前哨戦のペガサスジャンプステークスも勝っていてこれで3連勝。現在のこの路線では敵となり得る馬がいません。5歳ですからまだまだ走り続けられる筈で,よほどの新星が現れない限り,この馬の天下は長く続くものと思います。馬場の悪化で勝ち時計が5分を超えるようなレースとなりましたが,そうした究極のスタミナ勝負でも結果を出したのは収穫といえるでしょう。はとこにキングヘイロー。Majestyは陛下。
 騎乗した柴田大知騎手は第13回に続く連覇で,大レースも2勝目。管理している田中剛調教師は中山大障害以来の大レース制覇で,こちらも大レース2勝目。

 第一部定理二四系の冒頭で,この帰結としてといわれているのは,当然ながら第一部定理二四の帰結として,という意味です。つまりスピノザはそうした訴訟過程を通してこの系を帰結させています。しかし現在の考察では,その訴訟過程とは異なり,力という観点からこの系を導き出しました。よってここではそうした相の下にこの系を証明することにします。
 第三部定理七によれば,事物が自身の存在に固執するのは,その事物の現実的本性にほかなりません。ところでこうした現実的本性を有するものは,第一部公理一の実在的意味により,神であるか,そうでなければ神のある属性の変状であるかのどちらかです。しかるに第一部定理三四により,神の本性と神の力は同一です。したがって,事物が自己の存在に固執する傾向は,その事物の現実的な力であると考えられます。
 このことは,個物の存在のうち,個物が現実的に存在する場合について考えれば,より明瞭です。なぜなら,第一部定理二八が示すように,個物が現実的に存在するようになるのは,ほかの個物によって一定の原因が与えられるからです。いい換えれば第一部公理四により,個物が現実的に存在するようになる力は,ほかのものから与えられるような力です。むしろ個物にとってそれが実在することがひとつの力であるといえるのは,それが単に実在するようになるからであるというよりは,実在するその個物が,その実在に固執する傾向を有するからだといえるからです。
 こうした事物の力というものが,神の実在する絶対的な力の分有であるということは,第一部公理一の実在的意味に,力という観点を導入することによってすでに明らかになっています。いい換えればこの力の原因は神なのです。よって,事物が自身の存在に固執する力の原因は神であるということになります。つまり,第一部定理二五系は,個物が神の本性を一定の仕方で表現するといっていますが,個物というのは,自身の有に固執することによって,神の有への絶対的な力というものを,部分的に,すなわち一定の仕方で表現しているのだ,ということになるでしょう。
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エゴイズム&第一部定理二四系

2012-04-13 18:28:13 | NOAH
 長州とブロディの,おそらくはただ一度の対戦が,プロレスとしては非常に不自然な内容となってしまった原因は,ひとえにブロディの方にあったと僕は思っています。僕はリングを降りたブロディが,ひとりの人間としてどのようなパーソナリティを持ち合わせていたのかということには,あまり興味がありませんし,詳しくも知りません。ただ,リングに上がったブロディ,あるいは文字通りにリングに上がるというのではなく,プロレスラーとしてのブロディというのは,極端にエゴイスティックな面があったように思います。そしてその試合を左右したのは,ブロディのそうした部分であったろうと思うのです。
 基本的にブロディは,試合の内容においても,また試合に至るサイドストーリーにおいても,自分が中心に位置しなければ我慢がならないように見受けられました。これは馬場もいっていることですが,ブロディは相手のやり方に順応せず,自分が好きなように暴れ回ることを好んだようです。当時のアメリカの大きな団体ではあまりこうした試合は受け入れられないので,弱小団体をあちこち回っていたのですが,むしろその方が自分の好きなように試合ができるので,たとえギャラは安価でも,ブロディにとってはその方がよかったのでしょう。
 こうした理由から,対戦相手に求めるものも大きかったのだと思います。ブロディは日本でも時に短時間で試合を終らせてしまうことがありましたが,それはブロディにとって,相手が自分とプロレスをするのに相応しくないからであったのだろうと思います。ブロディの決め技は多くの場合,ニードロップでしたが,まさに相手を足蹴にするようなプロレスを展開したわけです。
 長州力が相手でも,あるいはブロディにはそうしたエゴイズムが働いたのかもしれません。そしてそれは,馬場や鶴田,天龍などと比較したとき,長州は体格的にやや劣っていたからではないでしょうか。そしてもしこの推測が正しいなら,ブロディが健在で,長州よりもさらに体格で劣る三沢と対戦したとき,どのようなプロレスを展開し,また三沢がそれに対してどのように立ち向かったのか,非常に興味があるところです。

 事物が実在し得るということは,その事物の力を意味します。逆にあるものが実在し得ないのであるなら,それはそのものの無力ないしは無能を意味します。このことはそれ自体で明らかです。また,第一部定理一一の第三の証明でスピノザが依拠していることが,まさにこの点にあるわけですから,スピノザ自身もこのことについては認めると考えられます。
 第一部公理一の実在的意味というのは,まさに事物が実在するという場合の意味です。したがってこの意味を,そのまま力という観点に置き換えることが可能であるということになります。するとその意味は,自然のうちに実在するものは,実在する絶対的な力を有する神であるか,そうでなければその力を分有するような,神のある属性の変状だけであり,それ以外のものは実在することが不可能であるということになると思います。
 もちろんこのことは,もしもこれをただそれだけでみるならば,自然のうちに実在し得るものは,実在する力を何らかの形で有するものだけであって,そうした力を有さないようなものは実在することができないといっているだけです。いわばきわめて当然至極の事柄だけを表明しているにすぎません。しかしここで重要なのは,神のある属性の変状が実在する力というものは,まさにそれが神のある属性の変状であるという理由によって,神の実在する力の分有なのだということです。
 『エチカ』において,こうした意味を伴っている部分があるとすれば,それは第一部定理二四系であると僕は考えています。
 「この帰結として,神は物が存在し始める原因であるばかりでなく,物が存在することに固執する原因でもあること,あるいは(スコラ学派の用語を用いれば)神は物の「有ることの原因」でもあること,になる」。
 僕はスコラ学派の哲学に関しては詳しくありません。ただ,岩波文庫版の『エチカ』ではこの部分にひとつの訳注がついています。それによればここで有ることの原因といわれているのは,ラテン語ではcausa essendiで,トマス・アクイナスの用語とのことです。本質と訳されているessentiaと,少なくとも語源的には何らかの関係があるとみなしてよいと思います。
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東京中日スポーツ賞クラウンカップ&第一部定理三四

2012-04-11 20:46:34 | 地方競馬
 優勝馬には羽田盃の優先出走権が付与される第15回クラウンカップ
                         
 事前に逃げを宣言していたキョウエイロブストがハナへ。マークしたのがベルモントシェリーで,コンテパルティロ,キタサンツバサ,シラヤマヒメと続きました。前半の800mが48秒9という超ハイペースになったことも影響したでしょう,縦長の展開に。
 前の5頭のうち,ベルモントシェリー,シラヤマヒメ,コンテパルティロは脱落。逃げたキョウエイロブストにキタサンツバサが並び掛け,一旦は後ろを離して叩き合い。競り勝ったのはキタサンツバサの方でしたが,前半に飛ばしたつけかゴール前では外を追い込んだビッグライトとハテンコウが急追。とくにビッグライトの脚色がよく,同厩舎のキタサンツバサに並ぶところまでいきましたが,頭差で凌いだキタサンツバサの優勝。ビッグライトが2着で,首差の3着に逃げ粘ったキョウエイロブスト。
 優勝したキタサンツバサは昨年10月に新馬を勝つと連勝。4ヶ月ほど休んだ初戦は負けましたが叩き2戦目となった前走を勝ち,4戦3勝でここに出走。南関東重賞で確たる実績を残していた馬が不在で,混戦ながら1番人気に支持されていましたが,その期待にこたえた形。一線級と混じってどこまでやれるかははっきりとは分かりませんが,まだ底を見せていないということは確かで,楽しみではあります。多くの活躍馬が輩出する一族で,伯父に重賞1勝のキタサンチャンネル,伯母に重賞1勝のキタサンヒボタンなど。
 騎乗した浦和の繁田健一騎手は2006年のロジータ記念以来となる実に久々の南関東重賞制覇。クラウンカップは初勝利。管理しているのは船橋の佐藤賢二調教師で,こちらもクラウンカップ初勝利。

 第一部公理一の実在的意味が明らかになったのであれば,このことから第一部定理三六が必然的に帰結してくるのだと僕は考えます。なぜなら,第一部定理一六により,神の本性の必然性からは無限に多くのものが生じなければならないのですから,神のある属性の変状の本性からも,無限に多くではないとしても,いくつかのものが必然的に生じなければならないであろうからです。というよりも,その本性の必然性からいくつかのものが生じるからこそ,そうしたものは神のある属性の変状であるといえるのではないでしょうか。
 このことは,スピノザによる第一部定理三六証明の過程のように,力という観点を導入すればさらに分かりやすいでしょう。そこでそのために,ここではさらに第一部定理三四を援用しておくことにします。
 「神の能力は神の本質そのものである」。
 ここで能力といわれているのが僕がこのブログでは単に力といっている事柄であり,本質といわれているのはこのブログでは本性ということばに統一している事柄です。よってこの定理をこのブログ流に表現するなら,神の力は神の本性そのものである,ということになります。
 この定理は証明するのは簡単です。まず第一点として,第一部定理一一が示しているのは,神が自己原因causa suiであるということです。そして第二点目として,第一部定理一六が示しているのは,神は万物の原因であるということです。スピノザの哲学における自己原因と原因との関係をどのように考えるべきであるのかということは,前回のテーマで詳しく考察しました。ですからここではそれを蒸し返すことはしませんが,最も単純ないい方をしてしまえば,このふたつは実は同じ意味なのです。そしてそれはどのような意味において同じであるのかというなら,第一部定理一一も,第一部定理一六も,神自身の本性の必然性から,いい換えれば,神の定義Definitioである第一部定義六から,直接的に帰結するという意味においてということになります。すなわち神が自己原因であるということも,また神が万物の原因であるということも,神の本性からの帰結事項なのです。よって神の力というのは,神の本性そのものであるということになるのです。
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