スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

銀河戦&非行

2015-09-30 19:42:21 | 将棋
 昨日の夜に放映された第23回銀河戦決勝。収録日は7月27日。驚いたことに過去に一局しか対戦がなかったとのこと。
 振駒で先手になった深浦康市九段が,佐藤天彦八段が得意とする横歩取りを避けるような手順で角換りに誘導。その関係で先手が2五まで歩を伸ばし,後手は飛車先不突きの相腰掛銀に。その得を生かすために後手は6筋に位を取り,飛車を回って角を打ちました。
                         
 ここで先手は▲8六角。△同角▲同銀に再び△6四角と打ちました。もっともこれは桂馬の頭を受ける意味もあったと思います。
 先手は▲2四歩△同歩と突き捨てて▲7五歩。ここから△同歩▲7四角△8二飛▲5二角成△同飛▲7四金まではどちらも避けようがない手順であったと思います。
 ここは分岐ですが後手の選択は△5五角。▲同銀△同銀▲7三金で先手が桂得の分かれになりました。
                         
 第2図は先手の駒得ではありますが,7三の金はいかにも変な位置という感じがするので,互角に近いのではないかと思っていました。
 手番の後手は△6六歩▲同歩に△6七歩の垂らし。先手も▲2三歩と垂らし返し。後手は桂馬を入手して7六に打ちたいので△3五歩でしたが,▲6三金△9二飛▲5三金で懸案だった金が使えることになり,ここで先手がリードしたのではないかと思います。
                         
 第3図から後手は△5ニ歩と打ち,▲4三桂を打たせて反撃に。ですが先手ががっちりと受けきり勝ちを決めています。
 深浦九段の優勝。銀河戦は3度目の決勝進出で初優勝でした。

 書簡七十六の本題の最初のところで,スピノザはアルベルトをローマカトリックから離脱させるために,カトリックの反対者たちがやるような,司祭や司教の非行を暴き立てることはしないと書いています。それは卑しい心情の持ち主がやることであり,アルベルトを憤激させるだけであるからだと説明しています。
 この理由については僕にはよく理解できるのです。第三部定理四〇の憎しみの連鎖を避けるためであったと考えられるからです。ただ、スピノザが非行ということで何を意味しようとしていたのかがよく分かりません。スピノザのテクストからして,カトリック反対者は一般的にそうした事柄を示したと読解できます。つまり非行というのはよく知れ渡っていたことのように思えるのです。この観点から僕は次のように理解しておきます。
 『宮廷人と異端者』によれば,ライプニッツにはエルンスト・フォン・ヘッセン=ラインフェルス伯爵というカトリック信者の知り合いがいました。エルンストはライプニッツの教会再一致のプロジェクトにひどく惚れ込んでいたとされています。
 1683年8月にエルンストに宛てた手紙の中で,ライプニッツは宗教機関による体罰あるいは拷問の問題を取り上げたそうです。スチュアートによれば,この問題はプロテスタントにとって大きな関心の的であったとされています。つまり教会再一致を実現するための大きな足枷になり得る問題であったことになります。
 スチュアートは別の文脈でこのエピソードを挿入しているので,はっきり書かれていないのですが,これは宗教裁判とか異端審問を念頭に置いていると思われます。それを宗教機関による体罰とライプニッツが表現していたなら,プロテスタントの関心の的になり得たのは,僕には何となく分かります。世界史的に有名な例を用いましょう。
 ブルーノはローマカトリックによる宗教裁判の結果,火炙りの刑に処せられました。これは一般的にはブルーノが地動説を唱えたためであるとされています。ただ,宗教的にいうと,ブルーノはプロテスタントのルター派に親近感を抱いていました。つまりこれは異端審問でもあったわけです。
コメント

新人王戦&返信の理由

2015-09-29 19:47:02 | 将棋
 第46回新人王戦決勝三番勝負第一局。公式戦初対局。
 振駒で先手になった菅井竜也六段が5筋位取り中飛車。大橋貴洸三段が後手番ながら超速銀の急戦で迎えうち,先手が穴熊に。
                         
 膠着状態で千日手も懸念された局面。先手は▲6八角と打開にいきました。判断自体は悪くなかったものと思われます。
 △同角成▲同金に△2四角と打ちました。ここから▲5七金△5六歩▲4六金と進出。読み筋だったと推測します。
 △5二飛と回り▲5八歩と受けさせて△8二飛と戻りました。先手は8筋を突破されるのは防ぎようがありませんから,ゆっくりはしていられません。まず▲3六歩と突き△5四銀に▲3五歩と攻めていきました。後手はそこで△8六歩の攻め合いを決断。ここから▲3四歩△8七歩成▲3八飛△7八と▲3五金とノーガードの攻め合いに。ここはさすがに△同角と取って▲同飛に△2四金と受けました。
                         
 ここで▲3八飛と逃げたため△8九飛成~△3五歩を許して先手が敗勢になったとの感想です。攻め合うのは無理という判断だったようですが,実戦は穴熊の利点がまったく生きない展開になってしまいました。
 大橋三段が先勝。第二局は来月14日です。

 アルベルトからの書簡六十七に対して,スピノザは返事を書く気はなかったようです。実際には書いた手紙の冒頭部分から,僕はそう判断しています。その意に反して返事を送ることにしたのは,スピノザとアルベルトの共通の友人から頼まれたからとスピノザは書いています。
 アルベルトとスピノザがステノの改宗について話題にしたという事実が,ふたりの関係が少なくとも1667年には継続していたことを証明すると僕は考えます。ただ,元々はスピノザはアルベルトの父であるコンラート・ブルフのアウデルケルクないしはトゥルペンブルフの家あるいは別邸で世話になったのでした。ですからアルベルトとの関係が継続していたということは,コンラートとの関係もまた継続していたと解するのが自然であると思います。なので返信の冒頭でスピノザがいっている共通の友人とは,本当はコンラートのことを指している可能性があると思います。アルベルトがカトリックに改宗したことは,ブルフ一族の一大スキャンダルであり,だからアルベルトを再びカトリックからプロテスタントに戻すことを最も願っていたのは,コンラートをはじめとするブルフの一族であったと推測されるからです。『ある哲学者の人生』でも,スピノザはコンラートの個人的な依頼によって返事を書くことに決めたのだとされています。ただし,ナドラーはそのように断定していることの根拠を示しているわけではありません。
 この返信が『スピノザ往復書簡集』の書簡七十六です。出されたのは六十七と同じ1675年ではありますが,12月になっています。アルベルトからの手紙をスピノザが手にしたのがいつであったかははっきりと分からないのですが,いくらかの間があったのは間違いないところでしょう。書簡の順番通りとすれば,スピノザはこの間にオルデンブルクおよびシュラーと書簡のやり取りをしていますし,フェルトホイゼンにも手紙を送っています。つまりその気になればアルベルトにももっと早い段階で返事を送ることができた筈です。
 遺稿集に掲載されただけのことはあり,書簡七十六にはほかにも僕の興味を惹くことがいくつ書かれています。
コメント

大山名人杯倉敷藤花戦&書簡六十七

2015-09-28 19:25:02 | 将棋
 第23期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が8勝,本田小百合女流三段が2勝。
 振駒で里見名人が先手になった将棋は千日手に。先後を入れ替えての指し直し局は後手の角交換四間飛車。戦いが始まったらすぐに差がついてしまいました。
                         
 ここで先手が即座に☗6五歩と反発しました。
 ☖同歩に☗3五歩☖同歩と突き捨ててから☗6五桂。後手は銀を逃げずに☖3六歩と伸ばしました。先手も☗3四歩と打ち返して☖3七歩成☗3三歩成☖2八と☗2二とで桂馬と飛車の取り合いに。後手は☖6四銀と逃げましたので☗3一飛で先手が飛車を先着。すぐにどうこうはないので☖1九とで後手が香得。先手もすぐに☗1一飛成と取り返せましたが☖1八飛に☗5九香と受けることになりました。
                         
 第2図となっては後手が香車を手持ちにした上での手番。先手は歩切れでもあり,はっきりと後手が優勢でしょう。第2図のように受けなければならないのであれば,先手は飛車でなくと金で香車を取った方がよかったと思いますし,一直線の手順が悪かったのであれば,どこかで先に銀を取っておくべきだったと思います。
 里見女流名人が挑戦者に。倉敷藤花戦は失冠した21期以来の三番勝負出場。

 ステノからの書簡とアルベルトAlbert Burghからの書簡は,定説で出された年が同じだけでなく,共にフィレンツェからのものであった点でも一致しています。このうちアルベルトからの書簡六十七についていえば,僕には論評するべき事柄を見出すことができません。この書簡は論理のかけらもない単なる罵詈雑言にすぎないからです。僕はブレイエンベルフWillem van Blyenburgからの2通目の手紙,書簡二十について,『スピノザ往復書簡集Epistolae』のうちで最も退屈なもののひとつといいましたが,書かれていることだけでいえば,まだそちらの方が内容があると思えます。
 書簡六十七が二十ほど退屈でなかったひとつの理由は,この手紙は二十ほどは長くないからですが,もうひとつ,当時のローマカトリックがどのような方法で信者を獲得し勢力の拡大を企てていたのかが垣間見えるからという理由もありました。
 スピノザは返事の中で,これに関連する重要なふたつの事柄を述べています。ひとつはローマカトリックそのものについてで,教会の規律は政治的なものであり,大衆を欺くことによって人心を抑制するのに最適な方法だということです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で,聖書は服従obedientia,obsequium,obtemperantiaを教えることによって人びとを敬虔pietasにすると主張しているので,これは全面的に否定的な意味ではありません。ただ,欺かれた大衆というのは,理性ratioによって敬虔であることができない人という意味を含むので,アルベルトをそういう人物であると規定していることにはなります。
 もうひとつはアルベルト自身に関してで,アルベルトがカトリック信者になったのは,神Deusに対する愛amorからではなく,迷信の唯一の原因である地獄への不安metusによるものだというものです。このスピノザのアルベルト評が正しいということは,書簡六十七を熟読すれば明白であると僕は考えます。
 アルベルトは書簡の中でスピノザのことを憐れな小人間,地上の虫けら,それどころか塵芥,虫の餌食と罵倒しています。僕の推測では,これはアルベルト自身が入信に際して言われたことをそのままスピノザに書いたのでしょう。当時のカトリックはこういうふうに信者を増やしていったのだと思います。
コメント

奥さんの認識&アルベルトとステノの書簡

2015-09-27 18:58:44 | 歌・小説
 奥さんが私に,Kは自殺したと言わずに変死したと言ったことに合理的な理由があったとすれば,ふたつのうちのいずれかであると僕は考えます。
                         
 ひとつは実は奥さんはこの発言で,何も隠し事をしていなかったというものです。つまり奥さんはKが変死したと認識していたのであり,自殺したとは思っていなかった,もっといえば知らなかったというものです。
 純粋にテクストだけを参照すれば,このような読解が不可能ではないと僕は認めます。
 先生が自殺したKを発見したのは深夜あるいは未明でした。午前6時前になり,先生は下女を起こしに行きました。その足音を聞いて奥さん,この奥さんはKが変死したと言った奥さんではなくその母親ですが,下宿先の奥さんが目を覚ましました。それで先生は奥さんを部屋に連れて行くのです。テクストはここから自殺直後の謝罪へと続いていきます。
 その後の処理を中心的に担ったのは奥さんでした。先生は奥さんの指示で医者や警察を訪ねています。そしてこれら一切の手続きが終了するまで,だれもKの部屋に入れなかったとあります。すなわち後の奥さん,この時点でのお嬢さんも入ることはなかったのです。
 その後,先生と奥さんのふたりでKの部屋を掃除し,Kの遺体は私が寝ていた部屋の方へと移しました。テクスト上,お嬢さんが出てくるのはこの後になっています。先生はKの実家に電報を打ちに出掛け,また戻ると奥さんとお嬢さんが遺体の前で並んで座っていたのです。
 ですからお嬢さんはKが自殺したと分からなかったとするのも不可能ではありません。しかし常識的には無理があるでしょう。先生とK,奥さんとお嬢さんの4人がひとつの家で暮らしていたのです。Kが自殺したことにお嬢さんが気付かないというのはあり得ないと思われるからです。なので僕はこの読解は採用しません。つまりお嬢さん,後の奥さんはKが自殺したと知っていて,変死したと言ったのだと解します。

 現在の『スピノザ往復書簡集』で,ステノの書簡がアルベルトからの書簡の後ろに配置されているのは以下の理由によります。
 1673年頃とされていますが,おそらくアルベルトはライデン大学の研究生であったとき,イタリアに旅行しました。これは見聞を広める目的であったと推測されます。ところが現地でカトリックに入信してしまいました。プロテスタントから改宗したのです。
 これは名門であったブルフ家には,大きなスキャンダルであったようです。ファン・ローンはオランダをキリスト教国家としていますが,実際にはプロテスタント国家でした。ヨハン・デ・ウィットはローンに,聖書なしでは生きていかれないという主旨の発言をしていますが,そのときの会話の中で,カトリックに関して否定的な言及もみられます。つまりウィットは政治的にはプロテスタントの牧師に悩まされていたのですが,宗教的信条は一致していたのです。少なくともプロテスタントがカトリックと対立するという意味においては,完全に一致していたといっていいでしょう。ウィットは思想の自由には寛容で,スピノザやデカルト主義者が何を考えたとしても,秩序を乱さなければ構わないと考えていました。ですがこの種の寛容さも,カトリック思想に対しては有していませんでした。
 議会派の最有力政治家であったウィットがそうなのですし,コレギアント派に寛容であったとされるのでやはり同様に議会派ではなかったかと思われるブルフ家もプロテスタントを信仰していたのですから,プロテスタントの牧師たちの支持を集めていた王党派の政治家も同様であったと考えてよいでしょう。だから一家からカトリック信者が出現したということ自体が,ブルフ家のスキャンダルになり得たのだと思われます。
 アルベルトがスピノザに宛てた書簡は,1675年のもの。すなわちカトリック信者としてのアルベルトからのものです。そしてステノがスピノザに宛てた書簡は,1671年という説もありますが,定説は1675年で,同じようにカトリック信者で,もしかしたら司祭であったかもしれないステノからのものです。なのでこれらは一括りにされました。
コメント

啓蒙の不可能性①&アルベルト

2015-09-26 19:12:14 | 哲学
 共通概念によってスピノザと啓蒙思想を中和し,そこにスピノザ主義的な啓蒙の可能性を僕は見出しました。でも実はこの可能性は,事実上は不可能性を示しているともいえるのです。そのようにいえる理由がふたつあると僕は考えています。まずスピノザの哲学における認識論に絡めて説明してみましょう。
 スピノザの哲学では,人間の精神による事物の認識が,一般的な意味でいうなら,純粋な受動になっています。つまり精神は意図的にある事柄を認識したりしなかったりするのではありません。むしろ与えられた原因によって必然的に認識するか,何の原因も与えられずに認識することが不可能であるかのどちらかなのです。僕たちはその与えられた原因のすべてを認識することができないので,あるいは第二部定理九の無限連鎖のすべてを認識することは不可能なので,自分自身の認識についてさえ,偶然と可能によって説明できると思いがちです。ですが神の視点からは,人間の精神の認識のすべてもまた必然と不可能によって説明され得るのであり,実際に認識はそのようにして生じています。
 このとき,ある人間が別の人間を啓蒙することが可能であることを認めるためには,これも普通に考えたなら,人間の精神の認識が可能的なものでなければなりません。というのは啓蒙される人間の認識は,偶然であっては啓蒙とはいえないでしょうが,必然であっても啓蒙とはいい難いからです。そうではなく,ある人間Aにとって可能的であったけれども実現していなかった認識が,Bによって現実化されるということが,BがAを啓蒙するということの一般的な意味である筈だからです。
 したがって,ある人間Xが別の人間Yと関係して,Yに何らかの共通概念が生じたとしても,それは必然的に生じるのであり,Yにとって可能的だったものが現実化したのではありません。いい換えればXはあらかじめYを啓蒙するという意図のもとに,この関係を構築することは現実的には不可能なのです。

 ヨハネス・ファン・デル・メールからの質問の書簡が掲載されていないことが,その書簡がなかった根拠になると僕は考えています。書簡六十七が掲載され,ステノの書簡の掲載が見送られたことは,その根拠を補完する材料になると思います。
                         
 六十四はアルベルト・ブルフからスピノザに送られたものです。
 ユダヤ人共同体から破門されたスピノザは,一時的にアムステルダムに住めなくなり,アウデルケルクのコンラート・ブルフの家ないしは別邸で世話になったのでした。コンラートはアムステルダム市の裁判官としていますが,大臣なども務めた人物で,要はアムステルダムの有力な貴族のひとりでした。アルベルト・ブルフはその息子です。コンラートとの混同を避けるため。ここからはアルベルトと名前で表記します。アルベルトがその家ないしは別邸に行かなかったとは考えにくいので,1656年にはふたりは知り合っていたと判断します。
 アルベルトからの書簡は1675年に出されていて,『ある哲学者の人生』ではそのときアルベルトは24歳だったとされています。なので1651年に産まれたとして,ふたりが出会ったとき,まだアルベルトは5歳でした。ですから知り合ったといっても,この頃は特別の関係があったとは思えません。
 1668年,すなわち17歳でライデン大学の研究生になりました。研究内容が哲学で,スピノザとの関係は続いていました。このことはスピノザがアルベルトに宛てた返信の中で,ステノについて語り合ったと書いていることから確実視できます。語り合った内容はもちろんステノの改宗についてです。ナドラーがいうように,その改宗が1667年であるなら,それ以後のことになるからです。スピノザはこのときはライデン郊外のレインスブルフではなく,ハーグ郊外のフォールブルフに住んでいたわけですが,たぶん会って話をしていたのではないかと思います。アルベルトが研究生であったこと,スピノザの方が20近く年上であったことから考えて,このふたりの関係は間違いなく師弟に類するものだったと推測されます。ナドラーもアルベルトはスピノザの門弟であったとしています。
コメント

王座戦&書簡の番号

2015-09-25 19:08:25 | 将棋
 六日町温泉で指された昨日の第63期王座戦五番勝負第三局。
 羽生善治王座の先手で佐藤天彦八段の横歩取り。先手の中住いに後手が玉を右辺に囲おうとする将棋に。
                         
 後手が歩を垂らした局面。僕の印象と感想戦の内容を合わせると,先手が必要以上に局面を悲観していたのではないでしょうか。▲2一角と打っていますが,早くも勝負手であったようです。先手の判断が正しかったのなら,問題はこれ以前にあった筈です。
 ここからは後手が問題なく角を召し取るか,その間に先手が勝負できるかという展開に。
 △2四歩▲3七桂△4二金▲7七銀に△5二金上で角を捕獲にいきました。
 ▲6六銀△4一金▲4五桂。後手は初志貫徹で△2二角と受けました。
 ▲3三桂成△同角▲7五銀△8二飛▲7七桂でいよいよ△3一金。
 ▲3五桂△3四銀に▲4五銀ですが△3五銀と桂馬の方を取り,仕方のない▲同歩に△2一金で角を取りきりました。
                         
 後手は形だけでいえば非常に悪く,横歩取りの場合は多少の駒得ではよくならないケースもありますが,この将棋は大きな駒得で,さすがに優勢になっています。
 佐藤八段が勝って2勝1敗。第四局は来月6日です。

 『ある哲学者の人生』では,ステノがカトリックに改宗したのは1667年であるとされています。ただしナドラーは,ステノがオランダで改宗したのか,イタリアに移ってから改宗したのかは示していません。
 1675年にはステノは司祭になっていたかもしれません。そして自身がかつてきわめて親しかったと語っているスピノザにフィレンツェから書簡を送りました。『スピノザ往復書簡集』の書簡六十七の二がそれです。ナドラーもこれが史実と考えています。しかし,実際に書簡が送られたのは1671年であるという説があることも紹介されています。
 書簡の番号が六十七の二となっているのは理由があります。この書簡は遺稿集には掲載されていなかったのです。そのときに公刊されたのは74の書簡でした。そして相手別に番号がつけられていました。
 1885年に5回目のスピノザ全集が編纂されたとき,新たに発見された10通の書簡が掲載され,書簡の数は84になりました。これを機に,相手別だった番号順が,年代別に改められています。現在もこの番号が使用されています。この後に,さらに2通の書簡が掲載されることになりました。ステノの書簡はこの2通のうちの1通になります。ですがこのときには書簡の番号が研究者によって広く利用されていました。なのでこれら2通は,関係が深い書簡の二という番号がつけられたのです。ステノの書簡は,書簡六十四と関連性があるということです。
 書簡六十四は遺稿集に最初から掲載されていたものです。つまり遺稿集の編集者は,六十四は公開する価値があり,ステノの書簡にはないと判断したのです。この理由として考えられるのはただひとつです。六十四にはスピノザが返事を出しているのに対し,スピノザはステノに返事を書かなかったからです。もちろんこれは僕の推測にすぎませんが,この推測が正しいということについては僕は自信があります。これは両方を読めば分かることで,単にふたつの書簡だけで比べたら,六十四よりステノの書簡の方がずっと内容があるからです。スピノザの返事に公開価値があったから,六十四も価値があると判断されたのでしょう。
コメント

オールスター競輪&ライプニッツとステノ

2015-09-24 19:14:52 | 競輪
 松戸競輪場で行われた昨日の第58回オールスター競輪の決勝。並びは新田-神山の東日本,桐山-渡辺-武井の南関東,竹内-大塚の西日本,稲垣-稲川の近畿。
 いくらかの牽制の後,神山がスタートを取ったので前受けになったのは新田。3番手に竹内,5番手に桐山,8番手に稲垣の周回。残り3周のホームから稲垣がゆっくりと上がっていき,バックで新田を叩きました。さらに外から桐山も上昇。バックの出口で稲垣を叩いて前に出ると,先に桐山を行かせた竹内が発進。桐山を叩くとそのままふかしていったので,大塚と桐山の車間が開き,追ってきた新田がホームで3番手に。打鐘まで一列棒状になりました。残り1周のホームからまず桐山が動いたものの,前のスピードがよくただ浮いただけ。バックの出口から新田が発進。猛烈なスピードで捲りきり,そのまま後ろを離して優勝。離されながらもどうにか追った神山が3車身差で2着。後方からの捲り追い込みになった稲垣が半車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は3月の日本選手権競輪に続いてビッグ4勝目,GⅠ3勝目。現状の力量からいえばこのメンバーでは負けられないくらいの相手関係になりました。競輪は展開に左右されますから,それでも必ず勝てるというものではありませんが,残り2周のホームでうまく3番手に入ったところで勝負ありとなりました。後ろを千切って楽勝になったのは,そういう展開になったからでしょう。純粋な脚力では現時点でトップだと思います。

 スピノザが死んだのは1677年2月21日。シュラーGeorg Hermann Schullerがライプニッツに送った手紙から,たぶん4月には遺稿集の編集は始まっていたと思います。実際に出版されたのは同年の暮れでした。
 ステノは司祭になった後,1677年にはドイツに赴任しています。汎神論論争におけるメンデルスゾーンの選択ヤコービの戦略的なものであったと解するべきと思いますが,メンデルスゾーンがスピノザ主義を弁護する立場を選べた一因に,ドイツはプロテスタントが優勢であったことがあると僕は考えます。状況はこの時代も同じで,やはりプロテスタントが優勢でした。ですがカトリックの信者もいるにはいました。ステノはそうした人びとのためにドイツで奔走したそうです。
                         
 『宮廷人と異端者』でいわれている,ライプニッツとステノが共同でしていた仕事が何なのかは僕には分かりません。また,僕には資料が少ないこともありますが,ふたりが知り合いだったことを確定するようなものも発見できませんでした。
 このときライプニッツがハノーファで仕えていたのはヨハン・フリードリヒで,カトリック信者でした。元々はプロテスタントだったのですが,1651年に改宗。ただし,一族の中でも改宗したのはこの人だけ。家臣たちもほとんどプロテスタントであったようです。1666年に宮殿を建設。そこでローマカトリックの礼拝を行っていたために,顰蹙を買っていたとスチュアートは書いています。
 ライプニッツには教会再一致という夢がありました。つまりカトリックとプロテスタントが和解して,ひとつのキリスト教となる夢です。ライプニッツは自身の哲学がこの目的を達成するのに資するようにと考えていたようです。ただ,哲学そのものにはここでは立ち入りません。
 まとめると,カトリックの司教だったステノは,スピノザの遺稿集が編纂されている時期には,ライプニッツがいたドイツにいました。そしてライプニッツのパトロンはカトリック信者でした。さらにライプニッツは自身の夢から,ステノと関係をもつ契機はあったことになります。少なくとも関係があってもおかしくはなかったといえるでしょう。
コメント

テレ玉杯オーバルスプリント&ステノ

2015-09-23 19:11:55 | 地方競馬
 シルバーウィーク最終日の第26回テレ玉杯オーバルスプリント
 ハナを奪ったのはルベーゼドランジェ。サウンドガガが2番手。おそらく逃げたかったであろうリアライズリンクスは外の3番手でこの3頭が先行。単独の4番手にタガノトネールで,以下,リックムファサ,ジャジャウマナラシ,レーザーバレットが差なく続きました。最初の600mは36秒5のミドルペース。
 自分の競馬ができなかったリアライズリンクスは向正面で後退。ルベーゼドランジェ,サウンドガガ,タガノトネールの3頭が雁行で直線に。追った2頭は脚色が鈍く,ルベーゼドランジェに追いつけず。外から3頭の外に出したレーザーバレットが伸び,粘るルベーゼドランジェを交わして優勝。1馬身半差の2着に逃げたルベーゼドランジェ。サウンドガガをクビだけ交わしたタガノトネールが4分の3馬身差で3着。
 優勝したレーザーバレットは重賞初勝利。デビュー当初から期待されていましたが伸び悩み,昨年暮れから短距離路線に使われるとオープンを2勝。重賞もメンバー次第で手が届くところまできていました。ただ,成績からみるとトップクラスとは差がある印象で,今日くらいのメンバーであればまだチャンスがあるでしょうが,もっと強い馬が相手だと勝つというところまでは大変ではないかと思われます。伯父に1997年の中日スポーツ賞4歳ステークスを勝ったオープニングテーマ。Laser Bulletはレーザー銃弾。
 騎乗した戸崎圭太騎手は第25回に続きテレ玉杯オーバルスプリント連覇で2勝目。管理している萩原清調教師はテレ玉杯オーバルスプリント初勝利。

 『宮廷人と異端者』では,スピノザ遺稿集が編集されていた頃,ライプニッツが一緒に仕事をしていたというカトリックの司教はニコラス・ステノであったとされています。これはラテン語名です。出身はデンマークで,デンマーク名でニールス・ステンセンと表記されることもあります。地質学や解剖学の分野でも名をなし,耳下腺の導管のひとつはステノ導管と名付けられていたとのことですので,ここではラテン語名の方を用います。ケルクリングDick Kerkrinkと表記するのと同じような理由であり,それ以上の特別な意味があるわけではありません。
                         
 ステノは1660年から1663年まで,ライデン大学で生物学の研究を行っています。ちょうどスピノザがライデン郊外のレインスブルフRijnsburgのヘルマン・ホーマンHermann Homanの家に寄宿していた時期と重なっていて,おそらくこの頃にスピノザと知り合いました。後に紹介する,オランダを離れたステノからスピノザへの書簡において,ステノはスピノザのことをきわめて親しかったと書いていますから,時期は別に知り合いだったことは史実です。ステノはスピノザより6歳若く,学生時代のことであるなら,師弟のような関係であったかもしれません。ステノは書簡の中で,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は匿名で出版されているけれども,著者はスピノザであると思うという主旨のことを述べています。たぶんそれは親しかった時代に,哲学なり神学なりの話があったからだと推測されます。少なくともその部門にはステノが詳しかったとは思えませんので,スピノザとステノは師弟関係に近かったろうと思います。
 畠中尚志の説明だと,プロテスタントだったのですが,たぶんオランダ時代にカトリックに改宗し,フィレンツェに行きました。そして司祭になっています。僕の調査では司祭になった時期に説がふたつあり,ここでは1675年から1677年の間としておきます。自然科学の分野で功績をあげていることからも類推できますが,後で示すそれ以外の根拠から,僕はステノは知的な意味においてかなり有能な人物であったと考えています。教会の内部で出世することができたのも,そのためであっただろうと思っています。
コメント

スピノザの目論見&ライプニッツの葛藤

2015-09-22 18:58:54 | 哲学
 『知性改善論』が未完のままで終ってしまったことに関するドゥルーズの見解に,僕は疑念を抱いています。つまりその見解には同意できないのです。
                         
 僕はドゥルーズの説明が,非常に合理的なものとなっていることは認めます。単純に論理的に考えれば,ドゥルーズの説明には瑕疵はないのであり,この側面からこの見解を否定することは不可能であると考えています。それでも僕が疑念を抱いてしまうのは,もっと単純な観点に依拠しています。
 ドゥルーズの見解を肯定するためには,以下のことを認めなければなりません。
 スピノザは『知性改善論』において,真理獲得の方法を示すことを,少なくとも目的のひとつにしていました。これには僕も同意できます。ところがそれがトートロジーに陥ることによって中断されてしまったとするなら,その方法に関する結論に何の考えもないままスピノザは『知性改善論』を書き始めたのでなければなりません。これはそれ自体で明らかといっていいでしょう。つまりドゥルーズの見解というのは,ある問題の解決に何の目論見がない状態で,スピノザはその問題について書くことを始めたと仮定しないと成立しないのです。
 僕はこのことをリアルに感じることができないのです。哲学者が何かを書くというときに,問題だけは分かっていても答えは分からないという状況でとりあえず書き始めるということがあり得るでしょうか。僕にはそれはあり得ないことだと思えるのです。解決の道筋がついたから書き始めるのであって,『知性改善論』もそうであったに違いないと僕には思えます。
 ですから,僕はスピノザが真理獲得の方法を示すことに何らの方策ももっていなかったとは考えません。むしろそれがあったから書いたと考えるのです。したがって『知性改善論』は確かにトートロジーに陥ったところで終了してしまっていますが,このトートロジーを断つ方法というのも,『知性改善論』を書き始めたときのスピノザのうちには存在したのだと考えます。

 ライプニッツはその気になればスピノザ遺稿集の出版を簡単に阻止できる立場にあったとしましょう。しかしそうしなかったとすれば考えられる理由はひとつしかありません。ライプニッツは遺稿集の出版を望んでいたのです。もちろんそれはスピノザが書いたものを読みたかったからでしょう。僕はこれはライプニッツの純粋な知的好奇心であったと思いますが,もう少しひねって考えれば,それを読むことによって,有効な反論ができると思ったためかもしれません。世間的にいえばこれは背教行為にほかなりませんが,自分で明かさなければだれにも分からないことですから,ライプニッツにとって危険とは思えなかったのでしょう。
 一方で,スピノザと関係があったことが暴露されることは,宮廷人としての自らの立場を危うくしますから,それをライプニッツが不安に感じていたことも事実であったと思います。この間にシュラーとの間で書簡が交わされているのは,ライプニッツに不安があったことの証明であると思われます。
 これらふたつは各々を単独でみれば別の感情です。他面からいえば,異なった観念対象ideatumから生じる感情です。ですからライプニッツのうちで両立し得ます。しかしこれらの感情が,遺稿集の出版の表象に結び付けられる場合には,相反する感情になり得ます。なぜなら知的好奇心は遺稿集が出版されてほしいという欲望と結び付きますが,不安は遺稿集が出版されてほしくないという欲望に結び付くからです。こうなるとふたつの感情はライプニッツのうちで両立し得なくなります。いい換えれば,少なくともどちらかの感情は消滅することになります。
 ライプニッツの場合,それが相反する感情である限りにおいては,遺稿集の出版を欲する感情が,欲さない感情を消滅させたことになります。元来の感情に関連付けていうなら,ライプニッツの知的好奇心は,自分の立場を危うくする危険に対する不安よりも強かったということになります。
 たぶんライプニッツにはこういった葛藤が実際にあったと思います。自らの危険を顧みないほど,ライプニッツはスピノザの遺稿を読みたかったのでしょう。
コメント

Kの恋&妨害運動

2015-09-21 19:10:43 | 歌・小説
 Kの自殺をKは変死したと奥さんが私に告げたことは,その表現とは別の観点からも,重要な事柄を読解できるかもしれません。
                         
 先生とKは共に奥さんのことが好きでした。先生との同居が認められたときからの既定路線であったと思われますが,奥さんは先生と結婚したのです。これでみれば先生は恋の勝者でKは敗者です。この事実を知っている限りでは,恋の敗北がKの自殺の要因ではないかと奥さんは考え得た筈だと僕には思えます。ところが奥さんは,Kが死んだ理由は分からないし,先生もそれは分かっていないだろうと推定しているのです。
 僕はKの自殺の理由は恋の敗者になったことではないと読解しています。ですがそれは関係ありません。仮に奥さんが僕と同じように理解していたのだとしても,Kがかつて自分に恋していたことを知っていたならば,奥さんが私に,Kが死んだ理由が分からないなどとは言えなかっただろうと思うからです。つまりこの発言は,奥さんはKが自分に恋心を抱いていたとは知らなかったということを意味するのではないかと思えるのです。
 この推定を強化する別のテクストがあります。先生の遺書のKの死後の出来事を綴った部分に,奥さんはなぜKが死んだのだろうと尋ねたと書かれています。もし先生もKも奥さんが好きだったと知っていたら,奥さんは先生にこんなことを尋ねたりはしないだろうと思われます。さらに結婚した後で,奥さんは先生に,Kの墓参りに行くことを提案しています。この結婚をKもきっと喜んでくれるからというのがその理由となっています。
 これらから総合して,やはり奥さんはKの恋を知らなかったのだろうと僕は読解します。したがって,遺書の中で先生がこのことを書いているので,Kが奥さんを好きだったということは,先生と私との間だけの秘密であったと解してよいでしょう。先生の秘密が何であるかは相変らず不明ですが,Kの秘密は私と先生だけの間で共有されていたことになります。

 スピノザは生存中に,『エチカ』を出版する意向をもっていました。1675年にその実行のため,住んでいたハーグからアムステルダムに出掛けています。でもこの時期には1670年に匿名で出版した『神学・政治論』の著者がスピノザであることは公然のものになっていました。そのスピノザが別の著作を出版しようとしているという噂が流れ,スピノザを無神論者とみなしていたカルヴィニストやデカルト主義者の論難が強まっていました。さらに1672年にはヨハン・デ・ウィットが虐殺され,王党派が実権を握っていたため,政治的状況もスピノザには不利になっていました。この状況で出版を強行すれば,スピノザ自身が処罰されかねなかったのです。このためにスピノザは出版を中断せざるを得ませんでした。オルデンブルクに宛てた『スピノザ往復書簡集』書簡六十八は,こうした状況について述べたものと断定してよいと思います。
 結果的に『エチカ』の出版は,スピノザが存命中は不可能でした。この意味ではスピノザの反対者たちの妨害運動が実を結んだといえるでしょう。ですからスピノザの死後,遺稿集が出版されると噂されたときにも,同様の妨害運動が発生しました。そしてこれは,アムステルダムのユダヤ人,オランダ国内のカルヴィニストやデカルト主義者の間だけの運動ではありませんでした。スピノザの死後ほどなく,ローマで緊急の会合が開かれ,カトリックのヴァチカンの委員会が,遺稿集の出版を阻止するために努力を惜しまないという主旨の決定を出していたのです。今から考えれば,スピノザひとりをこれほど多くの人びとが恐れたのは不思議ですが,これはおいておきましょう。
 『宮廷人と異端者』によれば,スピノザの遺稿集の編纂がなされていたちょうどそのとき,ライプニッツはローマの最高位の人びとと繋がりがあったカトリックの司教と一緒に仕事をしていたとあります。これが事実なら,ライプニッツは遺稿集の出版を阻止できたことになります。編集者のひとりがシュラーであることまで知っていたのですから,密告すればよかったからです。でもライプニッツはそれを口外しませんでした。
コメント

悪役商会&ライプニッツの不安

2015-09-20 19:05:56 | NOAH
 ラッシャー・木村が馬場を兄貴と呼ぶことによって結成された義兄弟タッグ。最初のうちは世界最強タッグ決定リーグ戦に出場したり,世界タッグのタイトルに挑戦したりもしていましたが,そのうちに自然な形で興行の前半戦の最後の試合を務めるようになりました。このチームが結成される以前,まだ国際血盟軍が存在した頃は,馬場&○○対木村&鶴見という試合がほとんどの会場で組まれ,それは概ね前半戦のラストでしたから,本来あるべき位置に戻ったということになります。
 この義兄弟タッグに対抗するチームとして結成されたのが悪役商会。永源遥と大熊元司が中心で,後に渕正信も加わりました。初期の頃は馬場&木村&○○対永源&大熊&○○という6人タッグがほとんど。馬場のチームに加わることが多かったのはマイティ・井上や百田光雄で,悪役商会側には渕が入っていることもありましたし,ほかに菊地や泉田も入っていたと思います。悪役商会はショッキングピンクをチームカラーにしていました。渕は最初のうちは黒いタイツで試合をしていましたが,あるとき,リング上でその黒いタイツを脱いだら下にピンクのタイツを履いていたという仕方で,このチームカラーに染まりました。僕が最初は渕は悪役商会ではなかったというのは,本当の意味で入会したのはこのときだったと判断するからです。菊地はピンクのコスチュームでは戦わなかったと思いますが,泉田はピンクでした。でもそれは大熊が死んだ後だったかもしれません。
 義兄弟タッグと悪役商会の試合は,決まったパターンがあったのですが,いつ観戦しても面白かったです。試合のリード役は今から考えれば永源ではなかったかと思うのですが,そうであったら永源の才能はなかなかのものであったと評価しなければならないと思います。
 当時の全日本プロレスは年間試合数が多く,必然的に地方での興行も多くありました。たぶんそういった会場に足を運ぶファンの中には,年に何度もプロレスをライブ観戦できないという人が多かったと思います。おそらくそういう人たちにとっては,僕などよりもこの試合をずっと楽しめたのではないでしょうか。

 シュラーならばスピノザの死に際して,遺品となるべき金銭や小刀を盗んだとしてもおかしくないと多くの識者が考えているとしても,それが誤解である可能性はあります。しかしもしも本当にシュラーがそのような人物であったとしたら,かなり貪欲な人間であったと理解できることになります。つまり僕は大方の識者のシュラー評に基づいて,シュラーならば『エチカ』の草稿に関連しても,一儲けしようと思い立って不思議のない人物であったと解するのです。
 ライプニッツが遺稿集に関するシュラーの力量をどの程度まで信頼していたかは不明です。ただ結果だけでいえば,それがライプニッツを十分に満足させるものでなかったことは確かだと思います。ライプニッツがスピノザに宛てた1通の書簡と,それに対するスピノザの返信が遺稿集には含まれていたからです。
 もっとも,後にシュラー自身がとりなしたように,この書簡は光学に関連するものでしたから,それほど重大ではなかったのかもしれません。ただ,スピノザからの返信には,秘密裏に文通を継続するための提案が明らかに含まれていました。さらにチルンハウスがシュラーを介してライプニッツに『エチカ』の草稿を読ませることの可否をスピノザに問うた書簡の中には,神学および哲学に関してふたりには文通した事実があることが書かれていましたし,ライプニッツが『神学・政治論』に高い評価を与えたとも記されていました。こうしたことが暴露されれば,宮廷人としてのライプニッツの立場を危機に陥れる可能性が十二分にあったといえます。ですからライプニッツにとっては,光学に関連するやり取りがスピノザとの間にあったということが明るみに出たことよりも,こちらの方がもっと大きな問題であったかもしれません。それでも実際に神学および哲学に関連した書簡が掲載されなかっただけでも,ライプニッツは喜ぶべきであったともいえるでしょう。
                         
 これでみれば分かるように,スピノザの遺稿集が出版されるということ自体が,ライプニッツには不安の種であったに違いありません。『宮廷人と異端者』の中には,この当時のライプニッツの行為に,驚くような記述がされています。
コメント

自然権の発生&ネコババ

2015-09-19 19:17:53 | 哲学
 ライオンの自然権について説明したことと,スピノザが第四部定理六八で主張していることを合わせれば,そもそも自然権という概念がいかにして発生するのかが分かります。
                         
 個物の存在が神の属性に包容されている場合,そこには善悪はありません。これを自然権で考えれば,どんな個物の自然権も侵害されることはないという意味になります。しかし実際に僕たちがそのように認識し得るのは,前もって自然権という概念を知っているからなのです。自然権に限らず,僕たちは一般的に権利というものを,侵害してはならない力として与えられていなければならないものと理解します。そのような理解が可能なのは,権利が侵害され得る力であるからです。ですからもしも一切の力の侵害が存在しないとしたら,僕たちは権利という概念を認識することはなかったでしょう。よって,個物がただ属性に包容されて存在しているなら,そこには一切の権利の概念が発生することはなかったといえます。当然ながらこの場合には自然権という概念も発生しなかった,すなわち存在しないということになるのです。
 したがって自然権の発生は,個物が現実的に存在する場合に限られれます。他面からいえば,個物の力が侵害されるということは,個物が現実的に存在して初めて生じることになるのです。
 これは再びライオンの自然権で考えれば容易に理解できるところです。ライオンにはシマウマを食う自然権があります。しかし現実的に存在するライオンが,現実的に存在するシマウマを食う力は,他の原因によって阻止され得ます。単純にいって2頭のライオンが1頭のシマウマを食うために争うなら,2頭のライオンの自然権,あるいは少なくとも片方のライオンの自然権というのは必然的に侵害を受けることになるからです。
 こうしたことがすべての個物の力に当て嵌まることになります。よって人間の場合も同様です。人間の現実的本性がなし得ることが,他の人間によって阻害されるということが生じ得るわけです。このときに,自然権が現実的な問題として人間に現れてくるということになるのです。

 シュラーが『エチカ』の草稿で一儲けを企んだと僕が推測する根拠は,以下の点にあります。
 『スピノザの生涯と精神』のコレルスの伝記には,スピノザの死の当日の出来事について宿主であったスペイクの証言があります。それによれば,スピノザはスペイク一家が教会に出掛けていた午後にひとりの医師に看取られて死にました。医師は帰ったスペイクにスピノザが死んだことを告げると,夕方にアムステルダムに帰ってしまいました。このとき,スピノザが机に置いていたいくらかの金銭と銀の柄の小刀が紛失していました。はっきり書かれていませんが,スペイクは医師がそれらをネコババしたと主張しているのです。
 スペイクは死後の遺稿の扱いについて,スピノザから重大な依頼を受けていました。スペイクはその仕事を果たしました。僕たちが『エチカ』を読めるのは,このときスペイクが言われた通りの処置をしたからです。そしてスペイクはスピノザの葬儀の世話もしています。要するに費用の代替をしたということです。こうしたことから考えて,スペイクが嘘の証言をしているとは考えにくいでしょう。
 コレルスはおそらく医師の名誉を慮って,イニシャルだけ示しています。それが示しているのは,おそらくコレギアント派を通じて知り合った,スピノザが信頼していた友人のひとりのメイエルです。ところが識者の多くは,メイエルはこのような行為をする人物ではないと考えています。コレルスの伝記の訳者である渡辺義雄からして,このような記述はメイエルにとっては迷惑でしかなかったと訳注を入れています。
 シュラーはチルンハウスには,スピノザが死んだときに自分がそこに居合わせたといっています。つまり医師はメイエルでなくシュラーだった可能性もあります。スペイクが勘違いするとか,スペイクがふたりをよく知らない限りにおいては,シュラーが偽名を用いることも不可能ではないからです。そしてシュラーならば,ネコババしても不思議ではないと考える識者が多いのです。
 僕はシュラーがネコババしたとはいいません。でも,多くの識者に,シュラーがそうみられているのは看過できないと思います。
コメント

王座戦&シュラーの目論見

2015-09-18 19:09:11 | 将棋
 大阪で指された昨日の第63期王座戦五番勝負第二局。
 佐藤天彦八段の先手で角換り相腰掛銀。羽生善治王座の6筋位取り。後手からの仕掛けで本格的な戦いに。
                         
 後手が端に歩を垂らした局面。厳密にいうと後手の仕掛けは無理気味で,正しく応接すれば先手が受けきれるという局面なのだと思います。ですが正確に受けるのは簡単ではありませんから,まだ難しいと判断してよいように思います。
 取らずにすぐに▲8七金と上がりました。△9五香▲9八歩。
 後手は△6五銀とぶつけ▲同銀△同桂。
 ここで▲7八玉と寄り,△6三飛に▲6六銀と受けました。
                         
 手順中,▲7八玉と寄ったのがよい手で,ここは後手の攻めが切れ筋になっています。実戦は第2図で後手が△6四歩と打ったので,じり貧のような将棋になってしまいました。△7五歩と指すほかなかったとの感想ですが,それでも後手が苦しいようです。
 佐藤八段が勝って1勝1敗。第三局は24日です。

 『スピノザ往復書簡集』の中に,ライプニッツとスピノザの間で交わされた書簡のすべて,なかんずく哲学や神学に関連されたものがまったく含まれていないのには,シュラーの尽力があった可能性は否定できません。シュラーが遺稿集の編集者のひとりであったことは『ある哲学者の人生』でも断定されていて,確かにシュラーにはそれが可能であったといえるからです。
 『宮廷人と異端者』では,こうしたことはシュラーがライプニッツに恩を売ろうとしただけであって,実際にシュラーがそれをなしたかどうか,なせる立場にあったかどうかさえ疑わしく思えるように記述されています。ライプニッツはそのときハノーファにいて,シュラーの行動を逐一監視できたわけではありませんから,可能性としてはそれは否定できないし,スチュアートの考え方を合理的に説明できるようにも思えます。
 シュラーはスピノザの死の直後に,ライプニッツに対し,スピノザの死の報知とともに『エチカ』の草稿を購入する気はないかという打診の手紙を送っています。1ヶ月ほどライプニッツが逡巡している間に,シュラーからそれを打ち消しました。公共の利益のために『エチカ』を出版することが決まったからだという理由になっています。これは遺稿集の出版が決定したという意味です。
 これらがすべて事実であるなら,スピノザが死んだ時点では遺稿をどう扱うかは何も決まっていなかったことになります。したがって,それより前の時点でシュラーがライプニッツの手紙を処分することはできなかった筈です。たとえ手紙が存在していたとしても,それが公開されないならば,ライプニッツにとって何も危険なことはありません。いい換えれば,遺稿集が出版されると決まったから,それを秘匿する必要が生じたのだからです。
 『エチカ』の草稿の件に関していえば,シュラーはそれをライプニッツに売ることを本気で考えていたと僕は思います。そしてそれは金銭を得るためでなかったかと推測します。しかしそれを公刊するなら,編集者としてより大なる金銭的利益が得られると目論み,ライプニッツに売ることを拒絶したのではないかと思います。
コメント

虐げられた人びと&ライプニッツとシュラー

2015-09-17 19:23:51 | 歌・小説
 ニーチェの「汝自身を助けよ」に類する「おのれ自身を愛せ」ということばがある『虐げられた人びと』の書評です。
                         
 亀山郁夫は『ドストエフスキー 父殺しの文学』の中で,『虐げられた人びと』はドストエフスキーが大衆作家として大きな人気をかちとるきっかけになった作品であるといっています。僕にはこれが実に言い得て妙な説明だと思えます。『虐げられた人びと』の作者は大衆作家であり,他面からいえばこの本の読者は大衆であったという気がするからです。簡単にいうならそれは,この本がとても読みやすい作品であるということです。
 『虐げられた人びと』は1861年の作品です。この後,1864年に『地下室の手記』が書かれます。小説の形式には似たところがあります。どちらも手記として構成されているからです。ですが『虐げられた人びと』は『地下室の手記』よりずっと理解しやすいと思います。登場人物は『虐げられた人びと』の方がずっと多いですが,それら登場人物の役柄の割り当て,単純にいえば善人であるか悪人であるかという二分法ですが,それがきわめて明解になっているからです。
 1886年に『罪と罰』を書いて以降,ドストエフスキーの小説の登場人物は,このような二分法によって規定することができなくなります。これも単純にいってしまえば,ひとりの人物の中に善なるものと悪なるものが混在するようになるからです。ドストエフスキーは『白痴』で無条件に美しい人間を描こうと決意したのですが,それでも主人公であるムイシュキン公爵が,純粋なる善人であると理解するのは不可能に僕には思えます。いい換えればこれより後のドストエフスキーは,いわゆる大衆作家というのとは違った作家になったように思うのです。
 こうした事情から,人物像の深みというものは『虐げられた人びと』にはありません。少なくともこれ以降のドストエフスキーの作品と比べた場合には,それは間違いないと思います。ですが僕はそのことをもってこの作品を否定しようとは思いません。大衆作品には大衆作品なりのよさもある筈だからです。ただ,小説として上質であるというようには思えませんでした。

 『ある哲学者の人生』では,スピノザを訪問するためにオランダに行ったライプニッツは,事前にチルンハウスの紹介状を携えてシュラーに会ったとされています。
 この説明は僕には不思議に思えます。ライプニッツに『エチカ』の草稿を見せることの可否をスピノザに問うチルンハウスの手紙を仲介したのがシュラーです。そこでのやり取りのうちに,『神学・政治論』を高く評価したライプニッツが,それを主題にスピノザと文通していたという主旨のことが書かれています。つまりシュラーはライプニッツを知っていたし,スピノザが書簡を通じてライプニッツを知っていたということも知っていたのです。なのにライプニッツがシュラーに会うために,なぜ紹介状を要するのかが分からないからです。
 『宮廷人と異端者』では,シュラーはライプニッツのアムステルダムにおける情報提供者という位置付けになっています。しかし少なくともこのブログにおいては,この規定は不適当です。ライプニッツとシュラーの間を取り持ったのは間違いなくチルンハウスであったと思います。よってそれはチルンハウスがパリでライプニッツに会った1675年後半以降です。シュラーは1679年に28歳で早世しています。ですからライプニッツの人生の中でシュラーと関わりをもった期間はそう長くありません。一方,シュラーの人生の中でも,ライプニッツと関係した期間よりはスピノザと関係した期間の方が長かった筈です。ですから僕にとってはシュラーは,スピノザの友人のひとりであり,とくにスピノザが信頼していた友人のひとりであったことになります。ただ,スチュアートは,どちらかというならスピノザよりライプニッツに力点を置いて書いています。したがってシュラーの位置付けが,ライプニッツの視点からなされるということについては,理由のないことではありません。そしてライプニッツにとってシュラーが情報提供者であったのも,間違いではないでしょう。
 ただ,スチュアートは,シュラーやチルンハウスからスピノザに宛てた書簡の一部はライプニッツの差し金だったと考えているようです。この点は僕には同意できないです。
コメント

報知盃東京記念&シュラー

2015-09-16 20:45:14 | 地方競馬
 JBCクラシックの指定競走になっている第52回東京記念
 逃げたのはファイヤープリンス。ユーロビートが2番手につけました。アウトジェネラル,ウインペンタゴン,カキツバタロイヤル,キタサンシンガー,トーセンアレスまでは離れず続いてここまでが先行集団。中団の先頭にタイムズアロー。ガンマーバースト,クラシカルノヴァに正面でフォーティファイドが追い上げて取りつき,あとは後方にプレティオラスなど。最初の1000mは65秒3で超スローペース。
 ファイヤープリンスは押しながら直線入口まで踏ん張りましたがすぐにユーロビートが先頭に。追ってきたのは4コーナーで3番手まで進出していたタイムズアローと5番手にいたカキツバタロイヤルの2頭で,この3頭の激しい競り合い。しかし後方追走から馬群を縫って追い上げ,最後は最内に進路を取ったプレティオラスが瞬く間にこれらを抜き去って優勝。ユーロビートが2馬身半差で2着は確保。大外のカキツバタロイヤルがハナ差の3着で真中のタイムズアローはアタマ差で4着。
 優勝したプレティオラスは5月の大井記念を勝って以来の実戦で,南関東重賞連勝で4勝目。東京記念は第50回を優勝していて2年ぶりの2勝目。戦績から明らかなように,大井コースの長距離戦を得意にしていてここは狙った一戦。能力的に最上位とはいい難いのですが,この舞台ならばチャンスはあると思われました。重賞ですとさすがに苦戦となりますが,南関東重賞なら,これからもチャンスは大いにあるでしょう。母の父はダンスインザダーク。従兄に2012年の京浜盃を勝ったパンタレイ。Pretiolasはラテン語で褒美。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は大井記念以来の南関東重賞制覇。東京記念は第50回以来2年ぶり2勝目。管理している大井の森下淳平調教師も東京記念は第50回以来2年ぶり2勝目。

 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからスピノザへの書簡の一部を仲介しているシュラーGeorg Hermann Schullerは,スピノザの死を看取った医師ではないかとされています。コレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaだとマイエルLodewijk Meyerという別の人物になっていて,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』でもその説が紹介されていますが,ナドラーSteven Nadlerもそれがシュラーであった可能性を否定はしていません。少なくともシュラー自身は,後にチルンハウスに宛てた手紙に,スピノザが死んだときにそこに居合わせたと書いたようです。
 ヨハネス・ファン・デル・メールという名前が書き間違いであるとすれば,シュラーによるものではないかという説があります。つまりシュラーはただ医師としてスピノザの死に関わりを有しただけでなく,死後の遺稿集Opera Posthumaの編纂にもある程度の関わりをもっていたと判断してよいものと思います。
 シュラーはスピノザの友人で,おそらくスピノザが信頼していた友人のひとりに加えてよいものと思います。遺稿集の編集に参加できたということが,その証明であると僕には思えます。ただしシュラーは1651年生まれで,スピノザよりも20近く年少ですから,年齢が近かった友人たちとは意味合いに相違がある可能性は高いかと思います。
                         
 このシュラーというのはスピノザの友人たちのうちでは,研究者によってあまりよく書かれていないケースが多いです。典型的なのは『宮廷人と異端者』で,へまな裏切り者で信用が置けないという形容がされています。スチュアートは人物を戯画的に描きがちなので,これ自体はそのまま受け取るのは危険かもしれません。ただ,シュラーの同居人だったヘントという人物が,シュラーはろくでなしのならず者だと評していたという事実があるようです。これとて一面的な見方ですが,シュラーはそのようにみられ得る人物だったことは否定できないことになります。
 畠中尚志もシュラーには否定的で,性急で不慎重な人柄であったと推定しています。これはシュラーからスピノザに宛てた書簡からのシュラー評です。畠中にはシュラーを否定的に評価する必然性はありませんから,スチュアートのいっていることも,極端な誤解を帯びているとは考えなくてよいでしょう。
コメント