スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

中央競馬関係ブログ&根拠

2008-02-29 18:51:07 | 中央競馬
 以前,僕が頻繁に利用する競馬サイトと,チェックしている騎手のブログを紹介しました。今日はこれ以外で,僕がチェックしている中央競馬関係の主なブログ・コラムを紹介します。
 河村清明さんの“競馬場通り”の住人。基本的に日常を綴るものですが,ときに鋭い問題提起があります。競馬とは関係ないですが,朝青龍関の問題に関するこの意見は,僕の考え方に近いものがありました。
 須田鷹雄さんの須田鷹雄の日常・非日常。これはまとめて更新されるケースが多いです。
 ブックログ。これは競馬ブックのトラックマンによる公式ブログ。僕は週刊競馬ブックを読んでいますし,中央では専門紙も競馬ブックを使っています。
 坂井千明さんのチアキのトレセン便り。坂井千明さんは元JRAの騎手で,後進の指導にもあたっている方です。
 丹下日出夫さんらによる丹下の懺悔。残念ながらホースニュース馬は廃刊になってしまいましたが,これはまだ続くようです。
 島田明宏さんの日記。内容は確かに日記ですが,不定期更新です。
 日刊競馬の柏木集保さんの重賞レース回顧。これはコラムで毎週月曜の更新。ほかに土曜メインレース展望,日曜メインレース展望もあり,これらはそれぞれ金曜と土曜に更新されます。
 先日のフェブラリーステークスでは場内実況も担当した山本直也アナウンサーのデジタル万馬券。これは予想で,タイトル通りの穴狙いです。
 僕の場合はこれくらい。なお,田中勝春騎手のブログと,中村将之騎手のブログを追記しておきます。

 明日からは名古屋記念が開催されます。地元地区ですし,小嶋選手が中心になるでしょう。

 第二部定理四九でスピノザが精神というとき,これは明らかに人間の精神のことを意味していると考えられます。そこでこの定理が,とくに人間の精神に限定しないで,一般に意志と観念との間に成立するというなら,その根拠を示しておくことが必要でしょう。
 これにはふたつの方法があって,ひとつは,この精神というのを,人間の精神に限定せず,どんな精神であっても妥当することを示す方法です。もうひとつは,精神という枠組みを取り払って,一般に意志と観念について考えても,この定理の内容が妥当であることを示す方法です。そしてここでは後者の方法を採用することにします。というのは,第一部定理三二についての考察から,ここでは意志が思惟の様態であるということ,すなわち,とくにある精神のうちにあると考えられなくとも,もしも意志というものがあるなら,それは思惟の様態であるということが明らかになっていると前提しているからです。
 今,第二部定理四九系から導き出したい事柄は,一般的な意味で意志なるものと観念なるものが同一のものであるということです。そこでもしも意志が一般的に思惟の様態であると考えることができるならば,それと同一のものも当然ながら思惟の様態であるということになるでしょう。これだけで現在の目的というのは達成することができます。したがって,第四部定理四九が正しいならば,意志は必ず思惟の様態としてありますから,このことは単に人間の精神のうちにある意志にのみ妥当するわけではなく,一般に意志であるものすべてに妥当することになり,このことが観念の場合にも妥当するということになるわけです。
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王将戦&第二部定理四九

2008-02-28 20:26:29 | 将棋
 王将戦七番勝負第五局。久保利明八段の封じ手は桂馬の頭を攻める▲7五歩。ここからの分かれで先手は飛車を取り,後手はと金を作りましたが,このあたりはさすがに先手がリードしているのではないかと思います。
 この後,かなり激しい攻め合いに進展して第1図。ここは先手の勝ちのようです。
          
 ここから△1七歩成▲同香となった局面から観戦。先手の勝ちというのは検討の結果であって,このときはどちらの勝ちか分かりませんでした。以下,△同香成▲3七玉△1九角▲4八玉△5三金までは最善手の応酬のようで第2図。
          
 この形は後手玉が詰みません。よって先手は▲3三銀と打ってすべて清算し,▲4五桂から▲3三角と王手で角を受けに利かせてから▲5九玉と手を戻して第3図。
          
 この第3図は先手玉が詰むか詰まないかだけの勝負。実際には詰みませんので先手の勝ちなのですが,先手が玉を逃げ間違えたために詰んでしまい,後手の逆転勝ちとなりました。最終的な敗着が出たのは第4図。
          
 実戦はここで▲7五玉と上に出ましたが,△6四金があって詰んでしまいました。▲7六玉ならば△8六飛に▲7七玉と下に逃げて詰まなかったようです。また△7五歩ならそこで▲同玉と取り,△6四金には▲8四玉と逃げれば,そこで△8三歩と打つ一歩がないので,逃れているようです。後手にとってはまさに一歩千金でした。それにしても,第3図から△6九歩成と成り捨て,▲同玉△6七香▲7八玉にまた△6八香成と捨てて(先手は取らなかったわけですが)追っていく順は,プロとしては当然なのでしょうがとても勉強になる手順でした。
 久保八段としては時間が残っていただけに惜しまれる逆転負け。これで羽生善治王将の4勝1敗となり,防衛が決定しました。一方的な展開となる将棋が多かった今シリーズとしては,この将棋は好内容であったと思います。
          

 第二部定理四九系は,まずは個々の意志作用と個々の観念が同一のものであるという意味をもつのですから,この系が正しいということを示すためには,このこと自体を証明すればよいわけです。そしてこのことは,第二部定理四九に訴えることによって,一応は直接的に帰結します。そこでまずは定理四九をみておくことにします。「精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も,すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない」。
 ここでスピノザは,意志というものをある肯定ないしは否定と考えています。もしも一般的に意志というものを考えた場合には,これは不自然であると感じられるかもしれませんが,これを問題にしますとそれこそ別のテーマを立てざるを得ないほどの厄介なことになりますので,今は意志をそのようなものと理解することにします。また,このように理解することは,少なくとも一理ある考え方だと僕は思います。
 ところで,ここでひとつ問題が生じています。この定理でスピノザが精神の中には,というとき,これは前後の脈絡からして明らかに人間の精神を意味しています。しかし,この定理はこのように考えてしまうと,人間の精神のうちにおける意志と観念についてのみの言及になりますので,一般に観念と意志とが同一のものであるということを示そうという現在の目的に適合しません。よってここでは,この定理から人間の精神という限定を外し,一般に意志なるものについて言及されているものとみなすことにします。
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エンプレス杯&第二部定理四九系の意味

2008-02-27 19:30:19 | 地方競馬
 今年は少しばかり小粒なメンバーでの争いとなった感が否めなかったエンプレス杯
 発走後に押していった笠松のクインオブクインの先手。アイスドール,トキノミスオースと続き,内にサヨウナラ,外にラピッドオレンジ。押した分,最初こそやや早めでしたが,1周目の正面をすぎたところではかなりペースが落ち,固まっての競馬になりました。
 残り800メートルから一気にペースアップ。ここでラピッドオレンジがついていけなくなり,替わってニシノナースコールが上昇。コーナーではトキノミスオースも脱落し,クインオブクインの外にアイスドールが並びかけて直線に。ここでずっとインで控えていたサヨウナラが,前が開いたのをみて追い出すと,一気に抜け出しました。2着争いは前2頭の叩き合いに思われましたが,馬場の中ほどを通ったニシノナースコールの末脚がよく,2頭を交わして2着。途中でスローに落として逃げたクインオブクインが3着に残り,アイスドールは4着まで。
 優勝したサヨウナラは昨年3月の1600万条件以来の勝利となり,重賞は初制覇。これが7勝目になりますが,過去の6勝のうち4勝を左回りで上げていて,左回りの適性が高かったようです。今日はずっとコースロスなく内を回ってきた岩田康誠騎手の手綱捌きも見事でした。
 2着のニシノナースコールは今日が休養明け。今後もこの路線である程度は戦えるという目途が立ったのではないでしょうか。

 王将戦は先手の久保利明八段が四間飛車。羽生善治王将は急戦を選択。この将棋はさすがに封じ手の局面で差がついているということはないように思います。

 かつて第一部定理三二,また第一部定理三二系一について考えたことがありました。その結論として,意志というものが絶対的な思惟,あるいは思惟の属性そのものではなく,思惟の様態であるということについてはすでに結論として出ています。ここで重要なことは,これは人間の意志にのみ妥当するような結論ではなくて,あらゆる意志,すなわち神の意志に関しても同様に妥当な結論であるということです。したがって,神の意志といえども,それは神の絶対的本性に属するようなあるものではなくて,神の思惟の属性を原因として生じるような思惟の様態であると考えなければいけないということは,スピノザの哲学においては,神について考える場合にもまた意志について考える場合にも,絶対的な前提となる事柄なのです。スピノザの哲学とニーチェの哲学との間にある対立にのみ関連させていうならば,ニーチェは「神は死んだ」ということによって,スピノザのいう意味での神,すなわち第一部定義六に定義されるような神の存在そのものを否定しますので,これは大した問題にはなりませんが,多くの哲学は神の本性としての絶対的な意志というものを認めますので,そうした哲学とスピノザの哲学との間には,大きな隔たりがあるということになります。
 そこで,第二部定理四九系で,観念が意志と同一であるといわれるなら,これにより観念もまた思惟の様態であるということが出てくることになります。よって,もしもこの系が正しいのであれば,意志は思惟の様態であるのだから,観念もまた思惟の様態であるということ,すなわちここで導き出したい事柄が出てくるということになりますので,今はこの系をこのような意味の上から理解するということにします。    
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矢内理絵子女流名人&第二部定理四九系

2008-02-26 18:55:05 | 将棋トピック
 女流名人位戦で見事に三連覇を飾った矢内理絵子女流名人。倒した相手が清水市代女流二冠,中井広恵女流六段,斎田晴子女流四段というのも,これは先行世代の三強ですから価値があるところ。この棋士たちが簡単に屈するわけはありませんが,今後は同世代,あるいは下の世代との争いが中心となっていくかもしれないと予感させる結果です。また矢内名人は最近の成績も素晴らしく,女流王将戦の挑戦者決定トーナメントはベスト4進出,初代女王の座をかけてのマイナビ女子オープンも決勝五番勝負進出,ネット棋戦の女流最強戦もベスト4に残っています。また,棋王戦は予選の一回戦を突破しました。
 矢内名人は1993年にプロになり,1995年に女流王位戦の挑戦者に。ここは敗れましたが,1997年に再び挑戦,この女流王位が初タイトル。これを一期で失冠すると女流名人までタイトル獲得がならなかったことを考えれば,最近の充実振りは素晴らしいといえます。以前は序盤巧者という印象だったのですが,最近は終盤の切れ味も増し,また悪くなったときの粘り方の技術も上がった感じです。
 ところで,矢内名人が初タイトルに挑戦した際の将棋世界の記事に,新幹線に乗り合わせた清水市代女流二冠(当時の女流王位)がにっこりと微笑んだという記述があります。筆者はここに清水二冠の第一人者としての姿を見た,としています。
 矢内名人は昨年のレディースオープンで,里見香奈女流初段を破って優勝しました。その回顧記事の中に,僕はそのときの清水王位の姿のようなものを感じます。とくに,これから間違いなく自分のライバルとなるであろう相手に,
 
 お互い我慢の展開だったので、里見さんの若さが出たというところでしょうか。
 しかしそれは良いことです。
 積極的に局面を打開する、その姿勢はごく自然であり、これほど大きな舞台でもその指し手を選べる度胸は素晴らしいと思いました。

 というようなことはなかなかいえるものではないと思うのです。また,将棋番組の聞き手を務めるときの,視聴者や解説者に対する配慮にも光るものがあると個人的には感じています。そういう意味でも,単に棋力という面だけでなく,女流の第一人者に相応しい存在となっているように思うのです。

 明日は川崎でエンプレス杯。これは難しく,一応はアイスドール◎,ラピッドオレンジ○,サヨウナラ▲の順。トキノミスオース△とクインオブクイン△。カネショウバナナが取消しています。

 また,明日から王将戦七番勝負の第五局です。羽生善治王将が勝てば防衛という状況で,久保利明八段の踏ん張りに期待したいところです。

 観念というものが絶対的な思惟ではないということ,あるいは観念は思惟の属性そのものではなく,思惟の様態であるということは,現在の考察と関連ささせるならばそうも深く追求する必要のあることではありません。しかしスピノザの哲学における観念論の中にあっては,これは大事な事柄であると僕は考えていますので,ここでこのことを『エチカ』に訴えることにより,まったく別の観点から証明しておくことにします。
 ここではこのために,第二部定理四九系を使うことにします。「意志と知性とは同一である」。スピノザが意志と呼ぶところのものは個々の意志作用の総体のことであり,また知性とは,個々の観念の総体のことです。したがってこの系がまず意味している事柄は,意志と観念とは実は同一のものであるということになります。
 実際には,意志というものは知性というものを超越し得ると考えることが哲学では多く,スピノザの哲学とニーチェの哲学との対立のひとつにそうした考え方があると僕は思っています。この系は本来はこうした観点から示されていると考えられるべきもので,意志は観念を超越しないというスピノザの主張であるといえるでしょう。これについてはいずれ別のテーマとして論じる必要があると思います。しかし今はこの意味を離れ,むしろ観念が意志と同一であるということ,いい換えれば,観念の本性と意志の本性は同じなのであるという点にのみ着目することにします。
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東西王座戦&観念の本性

2008-02-25 18:52:37 | 競輪
 今年は別府競輪場を舞台に3日間にわたって争われた東西王座戦。決勝は昨日でした。
 レース順にまず。Sは渡辺選手で新田選手の前受け。3番手に山崎選手,6番手に武田選手,8番手に平原選手で周回。残り2周のホームで平原選手が上昇を開始すると武田選手がここを追い,バックで新田選手を叩いた平原選手を武田選手がさらに叩くと打鐘で山崎選手が抑えました。すぐに発進しなかったので新田選手がインから進出,これを見た山崎選手がホームから先行。岡部選手は自ら離れるような形になり新田選手が3番手。レースはこのまま後続が動けず,余裕をもって直線から踏み出した佐藤選手が山崎選手を捕えて優勝。2着は山崎選手で3着にも新田選手。
 優勝した岩手の佐藤友和選手は昨年も東王座を制していて,それ以来のビッグ2勝目。グレードレースでは小田原記念以来の優勝。ここはすんなりと山崎選手の番手を回って展開に恵まれましたので当然の優勝。GⅠ制覇が待たれる選手です。
 続いて西。小嶋選手が自力で4分戦。前受けは北津留選手で,3番手に小嶋選手,香川選手がここを追走し,6番手に石丸選手,8番手に永井選手の周回。残り2周のバックで永井選手が上昇し,石丸選手が追走。バックで永井選手が前に出ると内の北津留選手と外の石丸選手で3番手の取り合い。永井選手はホームまで誘導を使い,退避したところで先行。これを外から石丸選手が追い上げると,浜口選手が離れて番手にはまりました。バック,小嶋選手の捲りに合わせて石丸選手も番手捲りを打ちましたが,小嶋選手のスピードが上回り,最後は突き抜けて快勝。2着は接戦になりましたが,石丸選手の番手から出た三宅選手が,小嶋選手の番手の小倉選手を抑えました。
 優勝した石川の小嶋敬二選手はビッグは寛仁親王牌以来で,西王座はやはり昨年も優勝しています。グレードレースは四日市記念以来。中部で連係せずに自力を使ったのが勝因。3番手の争いがあったことにより,前段が短くなりましたので,かなり落ち着いて仕掛けることができたのではないでしょうか。ここでは力が違いました。

 これは当り前のことですが,十全な観念というのは観念であるわけです。したがって一般的に観念の本性であるような事柄,またそうした観念の本性から導かれるような特質についてはすべて,十全な観念にも含まれていることになります。十全な観念の発生について考える場合に,僕はこの点から最初にアプローチしてみたいと思いますので,最初に観念一般の本性なるものを確認しておきます。事物の本性というのは事物の定義によって示されるわけですから,この場合には観念の定義である第二部定義三を参照することになります。
 さて,十全な観念の発生に関連して,僕がこの定義に依拠して導き出しておきたい最も重要な事柄は,この定義のうちには,観念というものが神の思惟の属性それ自体とは異なるようなあるものであるということが含まれていることです。実際この第二部定義三においては,観念がある思惟作用をなすとみられる限りにおける精神に依拠して説明されています。したがって,ここで仮にこの精神なるものをある絶対的な思惟,あるいは神の思惟の属性であると考えるとしても,そこから導かれるような観念については,思惟の属性そのものではないということが明らかだといえるでしょう。
 よって観念なるものは思惟の様態であることになります。このことは第一部公理一の意味からもそうでなければならないでしょう。そしてこのことは観念である十全な観念にも妥当しなければならない事柄ですので,もしも十全な観念があるのであれば,それは思惟の様態としてあるということになります。無限様態であれ有限様態であれ,とにかく様態としてあるということがここでは大事なことです。
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フェブラリーステークス&十全な観念の発生

2008-02-24 19:07:25 | 中央競馬
 中央競馬では2008年初の大レースとなる第25回フェブラリーステークス
 先手を奪ったのはヴィクトリー。ダートは初めてですし,砂を被るよりは,という判断も働いたためでしょう。発馬が悪かったフィールドルージュはリズムが悪く,向正面で競走中止。左肩跛行という事由ですので,今後の競走生活に大きな影響を及ぼすものではないと思います。
 前半の800メートルは46秒7。少し早めのミドルペースといったところでしょうか。距離面が心配されたヴァーミリアンですが,難なく好位の外でレースを進めることができました。
 直線,ヴィクトリーを交わしてデアリングハートが先頭に立ちましたが,外のヴァーミリアン,さらに外のワイルドワンダーは楽そうな手応え。追い出されたヴァーミリアンが一気に弾けて先頭に立つと,そのまま後続の追撃を許さずに快勝。ワイルドワンダーは最後に止まってしまい,内目の苦しい位置から馬群を割って伸びてきたブルーコンコルドが,最後はむしろヴァーミリアンに詰め寄るくらいの脚色で2着。ワイルドワンダーが3着でした。
 優勝したヴァーミリアンはこれでJBCクラシック,ジャパンカップダート,東京大賞典と大レースばかり4連勝で大レース5勝目。父はエルコンドルパサー,母系はスカーレットインクの一族で,馬名の意味は朱色。距離に関する心配は杞憂で,現役ダートナンバーワンの力を遺憾なく発揮しました。管理する栗東の石坂正調教師は東京大賞典以来の大レース制覇で,フェブラリーステークスは初制覇。騎乗した武豊騎手も東京大賞典以来の大レース優勝で,フェブラリーステークスは一昨年のカネヒキリ以来の3勝目となります。
 2着のブルーコンコルドは一時期は長い距離でも走っていましたが,どうも相手関係もあったようで,やはり1600メートルがベストなのでしょう。
 3着のワイルドワンダーは少し掛かっていたように思え,最後の伸びを欠いたのはその辺に要因がありそう。こちらはこれくらいの距離がぎりぎりかもしれません。
 今日は強風が吹き荒れ,最後の直線はかなりの向い風であったようで,全般的に追込み型には厳しい状況であったと思われます。

 今回のテーマである第二部定義四について考えるべき事柄のうち,これで十全な観念の本性ということについて,また,この定義が十全な観念の本性を十分に含んでいると考えられるということについてはこれで理解できましたし,また,スピノザがなぜ十全な観念だけをここで定義し,その他の観念,すなわち真の観念,混乱した観念,誤った観念についてはそれらを定義しなかったのかということも十分に理解できたと思います。よって残る問題は,事物の定義というものは,定義される事物の本性と発生を示していなければならないとされるスピノザの哲学の約束事に関連して,この第二部定義四のうちに,十全な観念の発生というものが,どのような意味で含まれているといえるのか,ということになります。実際,この定義は,単に十全な観念について,それ自体で知られ得るような真の観念が有するすべての内的特徴を有するような観念であるといわれているだけなのですから,これを一読しただけでは,ここに十全な観念の発生が示されているということに関しては,はなはだしく疑問であるといわざるを得ないような気がします。
 ところで,もしもこの定義に十全な観念の発生が含まれているということを先に仮定するとするならば,この定理はある観念の内的特徴について説明している定義なのですから,十全な観念の発生もまた,観念の内的特徴に依拠するということになると思います。この定義が観念の発生を含んでいようと含んでいまいと,この定義から考え始める限りはこのようにしか考えることができないと思われますので,ここでもこのことを前提するということにします。
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棋王戦&観念の定義

2008-02-23 21:37:11 | 将棋
 棋王戦五番勝負第二局。もしかしたら一手損角換りシリーズになるかもしれないと思っていたのですが,羽生善治二冠の作戦はごきげん中飛車。佐藤康光棋王は絶対といっていいほど③Bに進め,本局もそうなりました。
 所用を済ませて観戦を始めたのが第1図の局面。その前,44手目の△4四角が決断の一手で中盤の難所といえるところと思います。後手はかなり考えて△6四銀引としました。
          
 この後,後手が桂損して馬を作る展開となって第2図。ここで先手もかなり考えていましたが,▲2七飛と銀を守りました。手番を渡すような感じで,この手は少々意外でした。
          
 ▲2七飛に対しては千日手を狙う手段もありましたが後手は△1五桂。指せるとみての打開と思います。第3図まで進んだところでは,攻め駒は不足していますが,先手の指し方が難しいように思え,後手が指しやすいのではないかと思っていました。
          
 ここから第4図までは僕が観戦しながら検討していた予想手順のひとつの通りに進みました。しかし僕の検討通りに進むようではむしろどこかに問題があるような気がします。
          
 第4図から▲8四歩。金が質駒になっているのに手抜いて△6五歩はびっくりしたのですが,こう進めるところなのでしょう。この後,先手はもたれるような指し方をして後手が反撃に。先手は必然手が多いので大体予想通りに進んだのですが,ここも予想通りなので後手の指し回しには問題があったかもしれません。そうして迎えたのが第5図。
          
 ここで△6四銀というのは僕には絶対に思い浮かばない手。こういう手が出たからには後手の勝ちになったのだろうと思いました。ところが実戦は第6図のように進み,ここで△8七銀▲同金から詰ましにいきましたがこの先手玉は詰まないために先手の勝ちになっています。
          
 第6図から,△8七銀▲同金に△同桂成といくのも,▲同玉は詰みですが▲同馬で詰まないようです。
 第一局では懸命の粘りが報われなかった佐藤棋王ですが,ここは相手のミスを誘って逆転勝ち。シリーズも1勝1敗になりました。次からも白熱した戦いが見られそうです。第三局は3月8日。また土曜日です。

 明日はフェブラリーステークスです。やはりヴァーミリアン◎が中心にはなりますが,距離,ローテーションからも,絶対的な信頼は置けないでしょう。ワイルドワンダー○,フィールドルージュ▲,メイショウトウコン△,ブルーコンコルド△,ロングプライド△まで。

 また,東西王座戦も決勝を迎えます。まず。山崎-佐藤-岡部の北日本,武田-神山の茨城栃木,平原-後閑の関東,新田-渡辺の静岡。迷いますが佐藤選手。西は永井-浜口の岐阜に中部で小嶋,この後ろに小倉。石丸-三宅の岡山,北津留-西川の九州,香川は単騎。小嶋選手の出方によるわけですが,浜口選手で。

 これにより,『エチカ』における観念の定義の流れというのを理解することができます。すなわち観念はまず,観念とは何かということが,前々回のテーマであった第二部定義三において定義されます。ここでは一般的に観念なるものが定義されているわけですが,この観念そのものをもしも観念のふたつの特徴からみた場合には,混乱した観念と誤った観念が除外されている点にも注意してください。それではこの定義の妥当性に疑問が生じるようですが,この妥当性の根拠には確たるものがあるのであって,とくに定義の実在性という観点から考えたとき,それは一層強固なものであるといえると思います。
 続いて第二部定義四では,それ自体で知られ得るような第一部公理六に依拠することによって,今度は十全な観念なるものが定義されるわけです。そして『エチカ』における観念の定義というのはこれだけです。というか,これで十分なのです。なぜなら,事物の定義というのはその事物の本性と発生とを示すわけですが,今は発生を無視してとくに重要であると考えられる本性の方に着目しただけで,真の観念の本性を示そうとするならば,それは十全な観念に注目するという意味ですから,真の観念としては定義することができません。一方,混乱した観念は無なのですから,そもそもそれの実在性を定立するような固有の本性自体がないと考えられ,よってそれもまた定義することができません。最後に,誤った観念というのは外的特徴からみられる限りでの混乱した観念のことなのですから,混乱した観念を定義することができない以上,同様に定義することができないようなある観念であるといえるからです。
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金盃&第二部定理七系

2008-02-22 18:29:21 | 地方競馬
 大井競馬で長く活躍してきた内田博幸騎手はJRAの騎手試験に合格,3月からは地方競馬での騎手免許を返上して,JRA所属の騎手になります。大井で騎乗する南関東重賞は,一昨日の第52回金盃が最後になるかもしれません。
 予想通りにサンキューウィンの逃げ。ロイヤルボスが2番手で,ナイキデラックスとレッドドラゴン。ルースリンドとナイキアースワークはその後ろ。前半の1000メートルが62秒6のミドルペースになりました。
 3コーナー手前でサンキューウィンが失速。ロイヤルボスが自然と先頭に立ち,その後ろの4頭も続きましたが,直線に入るとナイキデラックスは脱落。最内で粘るロイヤルボスにレッドドラゴンが襲い掛かりましたが,馬場の中ほどから鋭く伸びたルースリンドが一蹴して優勝。ルースリンドをマークしてさらに外から一旦は伸びたものの最後は突き放されたナイキアースワークが2着。レッドドラゴンが3着でした。
 優勝したルースリンドは昨年7月のスパーキングサマーカップ以来の勝利で,南関東重賞もそれ以来となる2勝目。父はエルコンドルパサー。この間の成績からこの馬は重賞でも勝てそうな力があることがはっきりしていますので,南関東重賞のここは順当な勝利。有終の美を飾った大井の内田博幸騎手は大井の前開催でも重賞のTCK女王盃を制しています。金盃は昨年も勝っていて連覇,通算で5勝目となりました。
 2着のナイキアースワークもJRA時代に重賞を勝っている馬。こちらは順調に使えない弱みを抱えていますが,大きな反動が出ないようであれば,斤量が不利な状況でありながらルースリンドにここまで迫りましたので,やはり重賞戦線でも活躍していけるのではないでしょうか。
 ここのところ懐がかなり寒い状況でしたので,三連単で4890円とはいえ,個人的にはありがたい結果でした。

 明日は棋王戦五番勝負の第二局。また熱戦を期待します。

 この混乱した観念の本性については,第二部定理七系を参照すればさらによく理解できるでしょう。
 「この帰結として,神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば,神の無限な本性から形相的に起こるすべてのことは,神の観念から同一秩序・同一連結をもって神のうちに想念的に〔すなわち観念として〕起こるのである」。
 この系からして,神のうちには,形相的に実在する,あるいは実在し得るすべてのものの観念があって,かつそれは十全な観念であるということが理解できるからです。しかも,第一部定理一五により,あらゆるものは神のうちにあるわけですから,これ以外の観念はあるということ,すなわち実在的であるということがないことになります。よって十全な観念のみが実在的な観念であって,十全な観念の対義語である混乱した観念は非実在的な観念であるということがここからも出てきます。よって非実在的である,いい換えれば無であるような混乱した観念には,それに固有の本性はないということになります。
 混乱した観念がある,という言明は,ただ人間の精神をはじめとする有限な知性に着目した限りで正しいといえるような言明です。確かに人間の精神は,大抵の場合は,十全な観念よりずっと多くの混乱した観念によって構成されているでしょう。しかしこれらのどの観念も,神と関係付けられる限りでは十全な観念なのであって,この観点から考える限り,混乱した観念がある,という言明自体が,実は偽の命題なのです。したがって,混乱した観念には固有の本性はないという結論もまた,第二部定義二との関係において,何らの矛盾を生じさせることはないと思います。
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女流名人位戦&混乱した観念の本性

2008-02-21 18:56:04 | 将棋
 今までずっと女流名人戦と表記してきましたが,女流名人位戦が正しい名称だという指摘を渡辺竜王がしていました。ということで今日からは女流名人位戦と改めます。その五番勝負第三局は昨日指されたわけですが,できれば同日に別のタイトル戦を行うのは避けてほしいです。これは将棋界のためにもならないことのような気がします。
 先手,斎田晴子女流四段の作戦は四間飛車。矢内理絵子女流名人は得意の左美濃。互いに金銀4枚で固める持久戦に。後手の方から第1図のように開戦し,中盤の戦いに入りました。
         
 6・7筋に2・3筋の折衝も絡んで第2図。この△6三飛は部分的に変な形ですが,ここへ逃げたのは好判断だったのではないかと思います。
         
 この飛車が馬と交換になって後手は桂馬をきれいに捌いて第3図。ここでは後手がうまくやっているような感じがします。
         
 この後,後手は飛車を取るチャンスがあったのですが見送って第4図に。ここでは先手も勝負はできそうな形勢になっているように思えます。
         
 実戦はここから△3一銀打と受けました。先手は▲1五歩△同歩を入れてから▲2二桂成と取り,△同銀に▲1三歩と叩いて△同銀で第5図。
         
 1筋の突き捨てをさらに生かすならここで▲1四歩もあると思いますが実戦は▲2三香成。しかしこの攻めは切れてしまいました。第6図の▲2五歩で角が逃げられず,部分的には厳しいですが,この形は後手玉が安全。ということで後手から決めに出ました。ここでは1筋の突き捨てもかえって仇となってしまった印象です。
         
 第7図の△2六桂が最終的な決め手といえるでしょう。
         
 以下▲同金に△1七銀と打ち,▲2九玉に△2六金が詰めろ。▲3九玉には△5七角と王手し,▲4八飛に△6八とで先手玉は必死。後手玉はまったく詰みませんので後手の勝ちとなりました。
         
 矢内名人が3連勝で女流名人3連覇達成。清水市代女流二冠から奪取し,中井広恵女流六段を相手に防衛した後,斎田四段相手にも防衛を果しましたのでこれは価値が大きいです。

 明日から別府競輪場で東西王座戦が開催されます。

 それが外的特徴から判断されるような観念であるがゆえに,真の観念の本性なるものはないと考えることができるわけです。するとこれと同じことによって,誤った観念にもそれに固有の本性はないということが理解できます。誤った観念は真の観念の対義語であり,同様に外的特徴からそうみなされる観念だからです。
 したがって観念と本性との関係でいえば,残る問題は混乱した観念にはそれに固有の本性があると考えられるのかどうかということになります。いい換えれば,真の観念の本性というものを考える場合には,その真の観念が十全な観念とみなされるようになるのと同様に,誤った観念の場合にも,誤った観念の本性を考えようとする場合には,それが混乱した観念とみなされるようになるのかどうかという問題です。
 ここではこのことを,十全な観念と混乱した観念との関係において考えてみます。実のところこれらふたつの観念の関係は,ただ十全な観念が真理であり混乱した観念が虚偽であるというだけでなく,十全な観念が実在的なものであるのに対し,混乱した観念は非実在的なものであるということになっているのです。つまり十全な観念と混乱した観念の関係は,有と無の関係にあるわけです。
 そこでこのことに注意して第二部定義二をみれば,この定義のうちには,事物の本性はその事物の実在性を定立するようなあるものであって,それを排除するようなものではないという意味が汲み取れます。よって,無であるようなものに本性があるというのはそれ自体で不条理な主張であるということになります。なぜなら,無であるものに固有の本性があるなら,その本性によって無の実在性は定立され,したがってこの無は有であるということになってしまうからです。よって,混乱した観念にはそれに固有の本性はないと考えるべきであろうと思います。
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王将戦&第二部定義二との関係

2008-02-20 20:00:09 | 将棋
 王将戦七番勝負第四局。久保利明八段の封じ手は△3五銀。まあ,△2一歩の方が無難かもしれませんが,これはひどい屈服ですし,こう打つようでは1日目の△4二金は悪手でしたと自ら認めるようなものかもしれず,当然の一着ともいえそうです。部分的には▲3四飛から一気に攻め合う順もあるとは思いますが,現状は後手玉の方が形がよいので危険なのでしょう。羽生善治王将は▲2八飛と自重。金を打って飛車を取ることにより駒損を快勝してから玉型を整備してから取った飛車を打ち込みました。ただしこの飛車はすぐに取られることになり,あれれという感じがしないでもありません。
         
 しかしこれは取りにいった後手の金の形もひどいようです。以下,後手は金を戻していきましたが,この手損は大きく,この間に先手が快調に攻め,駒得に。後手ももう一枚の飛車を入手し,二枚飛車での攻めをみせ,部分的には厳しい形ですが,この時点では駒損が大きすぎます。先手はしっかり受けてから寄せに入り,そのまま押し切りました。投了図,玉が逃げては銀をただ取られますし,△7一角と打つわけにもいきませんので投了も当然でしょう。
        
 感想戦では1日目の手順が問題となったようですので,どうやらまた封じ手時点では差のついていた将棋だったようです。
 これで羽生王将が3勝1敗と防衛に王手。第五局は27日と28日に指されます。

 『エチカ』において十全な観念が定義されているのに,真の観念が定義されていないのは,真の観念の本性なるものがないからです。事物の定義は事物の本性を含むというのがスピノザの哲学における約束事ですから,固有の本性を有さないような真の観念は定義するということ自体が不可能なのです。
 ところで,第二部定義二が示していることは,少なくとも自然のうちに実在することができるようなどんなものにも,それに固有の本性があるということです。真の観念が自然のうちに実在することが可能であるというのはそれ自体で明らかでしょうから,これで考えれば,真の観念にはそれに固有の本性がないと主張することは,はなはだしく不条理であるように思えます。
 なぜ真の観念には固有の本性がないということになるのかといえば,それは事物にとっての本性というのがその内的特徴でなければならないのに対し,真の観念というのが外的特徴から判断されるような観念だからです。そこでもしも真の観念がある場合に,これを外的特徴から判断せずに,内的特徴に依拠して判断するならば,その本性を見出すことができるでしょう。しかしその場合には,それはもはや真の観念とはいわれずに,十全な観念といわれることになるのです。
 十全な観念と真の観念というのは,観念のふたつの特徴からいわば理性的に分けられているだけであって,形相的にみるならば完全に同一のものです。真の観念は外的特徴からみられるものであるからそれに固有の本性はないといわれるだけのことで,それが内的特徴からみられた場合の十全な観念には固有の本性があるのですから,このことは第二部定義二に反するというわけではないということになると思います。
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銀河戦&真の観念の本性

2008-02-19 19:06:54 | 将棋
 7日に放映された銀河戦のEブロック5回戦,勝又清和六段と中村亮介四段の一戦で,あまり見られないような攻め筋が出ましたので紹介してみます。
 中村四段が先手で得意の四間飛車。これに対して後手の勝又六段が,飛車先を突かず,6一の金も動かさずに天守閣美濃に囲うという工夫をして第1図。
        
 ここから△7四歩▲3九玉に△7二飛と寄り,▲2六歩に△7五歩▲同歩△6四銀と仕掛けました。
        
 先手は▲7四歩△同飛として▲7八飛とぶつけましたが後手は△8四飛。金が動いていないので先手の飛車は成ることができません。
        
 ここから▲6五歩は当然の反発。対して△8八角成▲同飛△6五銀としたために,▲3五歩以下の反撃が厳しく,この将棋は先手の快勝に終りました。
        
 ではこの仕掛けが無理であったのかといえばそうでもなく,第3図からの▲6五歩には△5五銀とし,▲5六歩に△4四銀と引いておけば,後手も少なくとも互角には戦えていたようです。
        
 参考図以下は,飛車成りを受ける▲7七飛に△5三銀のような手順が予想され,後手は△7三桂と跳ねることもできそうです。実戦的なことをいえば勝ちにくいような気もしますが,四間飛車に対してこういう指し方も成立するようです。

 王将戦は後手番の久保利明八段のごきげん中飛車。羽生善治王将は本局は③Bを選択しました。28手目の△4二金が波紋を呼ぶ一着。先手は▲2四歩と仕掛け,角金交換の駒損で飛車先突破を目指し,後手が得した角で△1二角と受けたところ▲2三歩として封じ手。できれば△3五銀としたいですが,▲3四飛で部分的には危なそう。ただし玉型は後手の方がいいので,これもあるかもしれません。△2一歩の方が無難な感じはします。

 明日は女流名人戦五番勝負の第三局も指されます。矢内理絵子女流名人が一気に防衛を決めるか,斎田晴子女流四段が一頑張りするかという一戦です。

 大井では金盃。これはルースリンド◎が中心。ロイヤルボス○とレッドドラゴン▲を相手に,ナイキアースワーク△とアウスレーゼ△。

 十全な観念の本性に対して,もしも真の観念の本性というのを考えてみたらどうでしょうか。
 第一部公理六は公理であって定義ではありません。これはとりもなおさず,ここでいわれていることが真の観念の本性に属するわけではないということを意味します。実際,ある事物の本性というのは,その事物の内的特徴を意味するわけですが,観念が観念されたものと一致するということは,その観念にとっての外的特徴を意味するわけですから,この公理が真の観念の本性を示してはいないということは間違いないと思います。
 ところが,真の観念というのは,まさにある観念がそうした外的特徴から考えられた場合に,観念されたものと一致する場合にそうみなされる観念なのです。いい換えれば,そうした外的特徴のみによってそういうことができる観念です。ですから,真の観念には真の観念に固有の本性はないということになると思います。
 スピノザの哲学においては,事物の定義というのが事物の本性を示すということになっています。これで考えれば,それに固有の本性がないような真の観念というのは,実は定義することができないようなあるものであるということになります。十全な観念が今回のテーマである第二部定義四においてきちんと定義されているのに対して,真の観念が第一部公理六で公理として示されていることには,こうした理由があるからだと僕は考えています。
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わかれうた&正当性

2008-02-18 19:09:22 | 歌・小説
 このところ,よく眠れない夜が多くなってきています。
 『永久欠番』の記事をエントリーしたときに,伯父と友人を相次いで亡くしたことに触れました。あの記事は僕の中ではちょっとしたレクイエムのつもりでした。僕が眠れなくなったのは今月の初めからで,もしかしたらふたつの別れと関係しているのかもしれません。
        
 変なことをいうようですが,僕は死と失恋というのは,どことなく似ているような気がするのです。今日は中島みゆきの「わかれうた」でそれについて話してみます。

   別れの気分に 味を占めて
   あなたは 私の戸を叩いた
   私は 別れを 忘れたくて
   あなたの眼を見ずに 戸を開けた


 このように歌われている以上,間違いなくこの歌は失恋のことを歌っています。しかし次の部分はどうでしょう。

   恋の終わりは いつもいつも
   立ち去る者だけが 美しい
   残されて 戸惑う者たちは
   追いかけて焦がれて 泣き狂う


 もちろんこの部分も失恋を対象として歌われています。しかし残される者の立場はどうでしょう。追いかけて焦がれて泣き狂うのは,失恋の場合も死の場合も,似たようなものではないでしょうか。そして死にゆく相手のことを,美しいと感じたりはしないでしょうか。
 死も失恋も同じ別れです。そしてそれは無際限な別れであるといえるでしょう。そういう意味だけでも,このふたつは似たところがあると思います。しかし何より決定的なのは,これらふたつの別れは,残される者にとって,不条理なものと感じられる点にあるでしょう。そう,死も失恋も,単なる無際限の別れであると同時に,不条理な別れだと思うのです。

   眠れない私は つれづれに
   わかれうた 今夜も口ずさむ


 最近は,眠れない夜が多くなっているのです。

 明日から王将戦七番勝負の第四局です。羽生善治王将が勝てば防衛に王手,久保利明八段が勝てば2勝2敗のタイですから,これは大きな一番といえそうです。

 十全な観念と真の観念の相違というのは,ただその観念ideaが内的特徴denominatio intrinsecaからみられるのか,それとも外的特徴denominatio extrinsecaからみられるのかという点にのみあるわけです。したがって,単に観念を形相的にformaliterみるとすれば,十全な観念idea adaequataと真の観念idea veraとの間には,実は一切の差異がないということになります。よって第二部定義四のように,十全な観念を定義する場合に,あるいは別のいい方をすれば,十全な観念の本性を示そうとする場合に,真の観念に依拠してそれを説明することが果たして適切であるのかという,いわば第二部定義四の定義Definitioとしての正当性に関していくらかの疑問が生じてきます。
 これを考えるときに重要なのは,真の観念は『エチカ』の中ではある定義として定義されているのではなくて,第一部公理六において,公理Axiomaとして示されているという点にあると僕は思っています。というのは,一般にある事柄が公理として示されるということは,そのことはそれ自体で僕たちに知られ得るということを意味しているからです。そして確かに,真の観念がその対象ideatumと一致するということ,あるいは真の観念であるからにはそれが観念されたものと一致していなければならないということは,それ自体で僕たちが知り得ることであるのではないかと思います。
 よってある観念の外的特徴については,僕たちはそれをそれ自体で知ることになります。そこでそうした外的特徴によって知られるある観念について,それを内的特徴からみた場合というように十全な観念を定義することには,定義としての正当性が十分にあるのではないかと思います。これは,それ自体で知られ得るようなあるものについて,その本性essentiaを一般的な仕方で説明しているといえるからです。
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佐世保記念&十全な観念の本性

2008-02-17 18:51:55 | 競輪
 スピノザは『エチカ』の第二部定理一八の備考で,人間は自分の習慣による身体への秩序付けに呼応して,ある観念から別の観念へと移行するという意味のことをいっています。佐世保という観念から,僕は浪人生Neoの観念へと移行します。皆さんはどうでしょうか。今日は佐世保記念の決勝(動画)でした。
 どうもこの動画は残り1周から始まっていけません。最終的に先行となったのは佐藤選手。3番手が内に吉田選手,外に井上選手でしたが,バックに入ると井上選手はこの位置へのこだわりを出さずに捲り発進。前が2車であったこともあるでしょうが楽々と捲りきりました。紫原選手が少し離れてしまった感じでしたが,佐藤選手は番手に入るだけの余力がなく,追いついて直線勝負。ゴール前で僅かに井上選手を捕えた紫原選手が優勝。井上選手が2着で3着にも小野選手と,九州の上位独占で決まっています。
 優勝した福岡の紫原政文選手は先月の立川記念に続き早くも今年2度目の記念競輪優勝。前回の広島FⅠも完全優勝していまして,かなり好調のようです。今日は小野選手もいましたので井上選手の番手は微妙な面もあったと思うのですが,小野選手が3番手で妥協していました。九州の結束力が結果的に上位独占を果したということでしょう。

 事物の本性とは事物の内的特徴であり,観念の本性は観念の内的特徴なわけです。そこでこのことに注意するならば,第二部定義四が,十全な観念の本性を示しているということは分かるのではないかと思います。なぜなら,十全な観念の本性とは,十全な観念の内的特徴であって,この定義はまさにその内的特徴を説明しているからです。
 もちろん,十全な観念の本性が,真の観念の内的特徴を完全に含む観念であるということ,これはいい換えれば,その外的特徴によって判断されるべき真の観念を,内的特徴から判断したものであるという意味になるかと思いますが,この言明だけでは不十分であると感じられるかもしれません。しかし,もしも十全な観念というのを,このように一般的な仕方で定義しようとするならば,僕はこれ以外の方法はないと思うのです。
 というのは,第二部定義二が示していることは,どんな事物にもそれに固有の本性というものがあって,かつそうした本性というのはそのある事物に固有のものであるということです。よって,AとBが異なるならば,Aの本性とBの本性とは異なります。このことは形相的に考えようと客観的に考えようとどちらの場合にも妥当します。したがってAの十全な観念の本性とBの十全な観念の本性とは異なることになります。そこでこのとき,Aの十全な観念とBの十全な観念,またそれだけではなくあらゆる事物の十全な観念に共通である事柄は何かといえば,それはその観念を外的特徴から真の観念と判断した場合に,それが有しているすべての内的特徴を有しているということに落ち着くことになると思うからです。
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秒読み&観念のふたつの特徴

2008-02-16 19:35:27 | 将棋トピック
 朝日杯将棋オープンの本戦1回戦,佐藤康光二冠と郷田真隆九段の対戦では,ちょっとしたハプニングがありました。詳細は後藤記者観戦記をお読みください。これに関連して,僕もいくつか思うところを書いてみます。
 本来は規則として定められているものは厳密に適用されるべきです。しかしこれを厳密に適用することを記録係の奨励会員に求めるのは酷であるのも事実。このあたりは後藤記者もいっている通り。したがって,もし秒読みのルールを厳格化するならば,記録係の制度も改正しなければならないでしょう。
 しかし一将棋ファンとしての率直な感情をいえば,曖昧な領域を残すのも悪くないとは思うのです。59で指すのと60で指すのとで,読む量に格段の相違が出るとも思えません。また,時間切れの反則で終ってしまうような将棋は正直なところ観戦したくありません。それならば,明らかに指せなかった場合には反則負けは当然ですが,指せたか指せなかったか微妙というケースは指したことにしてほしいという思いもあるのです。
 記録係に10を読ませるのは酷であるというのは,逆にいえば,間に合ったと判断させるのも酷であるということ。今回のケースはその記録係がはっきりと間に合ったと言っていることからして,間に合っていたのだろうと推測します。だから郷田九段もその時点ではなく,もう覆らないと分かっている局後に指摘したのではないかと思います。しかし着手がそういうタイミングになったのは,佐藤二冠に非があり,本人も認めているようにマナー違反といわれて仕方がないでしょう。まだ20代の頃ですが,NHK杯でも解説者が「今のは」というくらいきわどいタイミングの指し手もありました。そういう意味では,郷田九段が勇気をもってこれを指摘したのは,単に佐藤二冠の今後だけでなく,将棋界全体のためにもよかったのではないかと思います。
 しかし一方で,相手の着手がぎりぎりだったからその後は考えられなかったというのはどうかとも思います。郷田九段にはとても酷ないい方になってしまいますが,相手の着手がきわどかったので考えられなくなったというのは,郷田九段の精神力にも少しの問題があるようにも思えるからです。
 ハプニングそのものに関しては佐藤二冠に100%の非があります。だからそれを指摘した郷田九段の勇気は賞賛に値すると思います。佐藤二冠も今後は十分に気を付けるべきでしょう。しかし,プロ棋士であるならば,○○だから十分に考えられなかったとは,言ってほしくなかったという思いもあるのです。

 明日は佐世保記念の決勝です。並びは佐藤-山田の北日本,吉田-古田の中部,石丸-豊田の岡山,井上-紫原-小野の九州。佐藤選手か井上選手か迷うところです。

 それではこれらふたつの特徴と,観念との関係をまとめておきます。ただし,原因と結果の秩序と連結に関しては,後で別の問題として扱いますので,ここでは本性だけに関連させて説明します。
 一般に事物の本性とは,その事物の内的特徴です。そしてこれは観念の場合にも同様です。よって,三角形の本性は三角形の内的特徴を示しますし,三角形の観念の本性は三角形の観念の内的特徴を示します。ただし観念の場合には,その観念が有限な知性のうちにあると考えられる限りでは,ある観念が,その観念の本性を十分には含んでいないというケースがあります。そこでこの観点からみた場合に,もしもある観念がその観念の本性を十分に含んでいるならば,この観念は十全な観念といわれますし,もしもこの観念がこの観念の本性を十分に含んでいなければ,あるいは別のいい方をすれば,この観念以外の本性をも含んでいるならば,この観念は混乱した観念といわれることになります。
 外的特徴とは,ある形相的事物の本性と,その事物の観念の本性とを比較する場合,すなわち,形相的事物の内的特徴と観念の内的特徴とを比較する場合の特徴のことです。そこでもし,これらふたつの内的特徴が一致するならば,その観念は真の観念といわれることになりますし,逆に一致しない場合には,この観念は誤った観念であるとみなされることになるわけです。もちろん誤った観念も,それはある有限な知性に関連させる限りで成立するような観念です。
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佐世保バーガー賞&外的特徴

2008-02-15 19:04:42 | 競輪
 佐世保記念2日目優秀の佐世保バーガー賞(動画)ですが,名物とはいえこの名称はどうなんでしょう。賞品にハンバーガーでも出るのかな。
 並びですが九州は結束。菅原-小野-井上-紫原-合志でこの後ろに吉田。ということで佐藤-山田の北日本に石橋がつけて6対3という変則2分戦。
 菅原選手の先行は当然ですが,残り1周のホームでは小野選手の後ろに吉田選手が入っていました。これを外から佐藤選手が捲り発進。ただし山田選手は離れて単騎。小野選手のブロックも強烈でしたが佐藤選手は乗越えました。このブロックで小野選手と菅原選手の車間が開いたので,バックでは佐藤選手が番手に入れる態勢でしたが構わず捲りきり,逆に菅原選手が佐藤選手の番手に。離れた3番手が小野選手でその後ろは内の吉田選手と外の山田選手で併走。その後ろに石橋選手。
 直線,捲られた菅原選手が佐藤選手に再度詰め寄りましたが振り切って佐藤選手が1着。菅原選手が2着で,小野選手が前に追いつこうとするスピードに乗って外を伸びた石橋選手が3着に入りました。
 佐藤友和選手は今年に入って少し調子が悪いのかなと思わせましたが,今日は強いレース。この力があればやはり優勝候補のひとりでしょう。もっともそのためには明日の準決勝をクリアしなければいけません。
 井上選手が何もできなかったのは吉田選手が変則的な動きをしたからではないかと思いますが,やはり自力を出してこそですから,最初から割り切って別線で勝負した方がよかったのではないでしょうか。

 内的特徴denominatio intrinsecaというのがあるならば,当然のこととして外的特徴denominatio extrinsecaというのもあるわけです。そこで観念ideaの外的特徴とは何であるかといえば,これは第二部定義四の中にすでに示されています。すなわちこの定義Definitioの後の説明で,スピノザは十全な観念idea adaequataを内的特徴によって定義することについて,その対象ideatumとの一致を除外するためであるといっているからです。したがって,観念と観念されたものとの関係というのが,観念の外的特徴になるわけです。
 このように考えれば,十全な観念と真の観念との相違がどこにあるのかということが理解できます。つまり,ある知性intellectusのうちに十全な観念がある場合にはそれは常に真の観念idea veraでもあって,逆に真の観念があるならばそれは常に十全な観念でもあるわけですが,それを十全な観念というか真の観念というかは,この観念を内的特徴という観点から考えるのか,それとも外的特徴という観点から考えるのかという,いわば観点の相違にのみ依存するのです。
 十全な観念の対義語を僕は混乱した観念といいます。これはラテン語のidea inadaequataの訳で,岩波文庫版では非妥当な観念とか非十全な観念と訳されています。一方,真の観念の対義語としては僕は誤った観念ということばを用います。よって観念は,内的特徴から考えられる限り,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであり,もしも外的特徴から考えられるなら,真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかです。もちろん,ある観念が混乱した観念であるなら,それは誤った観念ですし,逆に誤った観念であるなら,それは混乱した観念でもあるということになります。
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