スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

泗水杯争奪戦&スぺイクの証言の注意点

2017-02-28 19:08:33 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された四日市記念の決勝。並びは山中‐内藤の南関東,浅井‐坂口‐志智の中部,稲垣に竹内,取鳥‐井上の西国。
 浅井がスタートを取って前受け。4番手に稲垣,6番手に取鳥,8番手に山中で周回。残り3周のバックの出口から山中が上昇開始。内藤の後ろに取鳥が続きました。山中がホームで浅井を叩いて前に出ると,切り替えていた取鳥がバックから発進して打鐘。このラインを追った稲垣がコーナーからホームにかけて発進していこうとしましたが,うまく取鳥がスピードアップしたため井上の外で併走に。しかしこの競りは井上が勝ち,稲垣は3番手に後退。竹内の後ろでこれを見ていた山中がバックの入口から発進。出口の手前で捲り切りました。後方まで引いた浅井はその外を捲りにいきましたが直線の手前で内藤がうまくブロック。そのまま粘った山中が優勝。1車輪差の2着争いは写真判定となりましたがマークの内藤が続いて南関東のワンツー。立て直した浅井は迫ったもののタイヤ差の3着まで。浅井マークの坂口もタイヤ差の4着と大接戦でした。
 優勝した千葉の山中秀将選手は記念競輪初優勝。このレースは若い取鳥の先行が予想されたところ。しかし稲垣が意外なほど早い段階で叩きにいったため,実質的に先行争いのような展開となりました。その直後に位置を取れたのがまず大きかったといえるでしょう。着差から推測するとスピードダウンしなければ中部勢のワンツーになっていた可能性も高く,マークの内藤もいい仕事をしたといえそうです。

 ここまでに示してきたことを根拠に推測を進めれば,スぺイクは確かにスピノザのことを称えようとする動機を有してはいたものの,スピノザの日々の生活態度が品行方正であったこと,いい換えれば敬虔pietasであったことについてコレルスJohannes Colerusに証言するときには,それを大袈裟に語ることはあったとしても,作り話をするということはなかっただろうと思われます。たとえば僕はスぺイクが,あたかも自分の面前でスピノザはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの資金提供を辞退したというようにコレルスに語ったのだと思いますが,これは,資金提供を辞退したという事実に脚色を加えたものであって,実際にスピノザがそれを辞退したという点については疑う必要はないのだと解します。ただ,この種の脚色はほかの部分にも加えられている可能性は残りますから,この点についても,コレルスによる伝記を読む際には注意する必要はあると考えます。
                                     
 一方,スピノザの生活態度がキリスト教の教えに背くものではなかったということが,直接的にキリスト教と関連付けて説明されている箇所については,より大きな注意が必要かと思われます。ルター派の説教師であったコレルスに証言する際には,スぺイクにとってはそれを伝えることの方がより重大であったと考えられるからです。なのでこの種の説明については,完全に事実に反するようなスぺイクの創作,いってみれば脚色ではなく脚本ないしは原案のような内容すら含まれているという可能性も排除しない方がよいだろうと思います。フロイデンタールJacob Freudenthalが,証言者としてのスぺイクに疑念を抱いている点について,僕はこういった理由からそれは合理的な指摘であるとみなします。ただ,フロイデンタールはその根拠を,スぺイクがひとりの人間としていい加減であったということ,悪くいえば平気で噓をつくような人間であったということに求めているようなふしがあるのですが,僕はそうではなく,むしろスぺイクにはそのような嘘をつくようなはっきりとした動機があったという点に根拠を求めるという相違があるということです。
 そこで,どのような記述について疑いを有するのが妥当であるか,具体的に示してみます。
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決断力&証言の対象

2017-02-27 18:59:42 | 将棋トピック
 久しぶりに将棋関係の書籍を紹介します。5冊目は羽生善治の『決断力』です。
                                     
 著者が羽生善治という本は数多く,僕にとっては玉石混淆なのですが,最も推奨できるのが現在のところではこの『決断力』です。
 帯を読むと正しい決定を下すための指南書のようになっているのですが,この本はそれを直接的に教えるものではありません。むしろ本の題名にあるように決断を下すことを人間の力と把握し,その力の源泉がどこにあるのかを多角的に検討した内容です。
 将棋は先行きが見通せなくても手番であれば何か指さなくてはならないルールになっています。先行きが見通せないのは人間の知性が有限であるからであり,また時間の制約があるからです。そういう場合でも次の一手を決定しなければならず,その決定こそが決断であって,それを下す力が決断力です。したがって,それを下せばどういう結果が出るか分かっているような決定は決断ではありません。いい換えれば決定を下すときに,それが正しい決定なのか正しくない決定であるかが判然としていない場合の決定が決断なのであり,決断力というのはそういう場合に決定を下す力のことです。
 ここから理解できるように,決断力というのは将棋の指し手を決定するときに限定して要請されるような力ではありません。僕たちの日常生活の中でも,その決定を下すことによってどういう結果が待ち受けているのかは判然としていないという場面は往々にして存在するからです。そしてそのときに,それを決定する力の源泉がどういったところにあるのかを多方面から検討することによって,よりよい決断,すなわちよい結果を得られやすい決断を下すことが,より多く可能になるでしょう。ですから,この本はどのようにすれば正しく決断できるのか,正確にいえば正しく決断する可能性を高めることができるのかということを,それ自体で直接的に指南するものではありませんが,間接的には有益であるといえると思います。

 スぺイクはおそらく日々の生活に追われ,スピノザの哲学的思想を詳しく知ろうとする欲求をもつ余裕がありませんでした。そしてスピノザは自身の哲学的見解を多くの人びとに伝えようとすることについて禁欲的であったと思われます。よっておそらくスピノザが自身の思想をスぺイクに対して詳しく語ることはしなかったと推定されます。そもそもスピノザはフェルトホイゼンLambert van Velthuysenに対する反論の中で,自分の生活態度をみれば無神論者でないことをフェルトホイゼンは理解するだろうといっています。スぺイクは実際にそれを見る立場にあったのですから,自分が無神論者ではないということをスぺイクは分かっているとスピノザは思っていたでしょう。そして実際にスぺイクはスピノザのことをそのように認識し,それによってスピノザを敬愛し尊敬もしたのだと僕は解します。要するに自分の思想が無神論に至るものではないということをスピノザはその思想を詳しく語らずとも,態度によってスぺイクに対して示すことができたのであり,スピノザにとってはそれで十分であったのだろうと僕は思います。
 したがって,スぺイクがスピノザを称えようとする場合に,それをスピノザの思想と絡めて説明することはできなかっただろうと僕は解します。なのでスぺイクはそれを,スピノザの日々の生活態度とだけ関連させて説明したのだと思います。そしてこのことはリュカスJean Maximilien Lucasの伝記の場合にも同様なのですが,リュカスがスピノザの生活態度がキリスト教の教えと相容れるものであったということについてはほとんど説明していないのに対して,スぺイクがそのような説明もしている理由は,取材者がコレルスJohannes Colerusであったということに起因しているのではないかと僕は思うのです。リュカスが自身の手による伝記の読者をどのような人と推定していたのかは分かりませんが,少なくともルター派の説教師であったコレルスのような,宗教色あるいはキリスト教色の強い人間だけを想定していなかったということだけは確かだと思えます。対してスぺイクは,自身で伝記を書いたのではなく,コレルスの取材に対して証言したのです。つまりスぺイクはコレルスだけを念頭に話しているのです。
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グレート・小鹿&慎重姿勢

2017-02-26 19:15:21 | NOAH
 僕のプロレスキャリアが始まった頃,大熊元司のタッグパートナーはグレート・小鹿で,このチームは極道コンビと呼ばれていました。極道コンビ,国際プロレスから移籍してきたマイティ・井上阿修羅・原のコンビ,そして石川敬士佐藤昭雄のコンビの3チームによって,アジアタッグは争われていたのです。
 この6選手のうち,僕に最も印象が薄いのが小鹿なのです。たとえばほかの5選手は,それぞれどんな得意技をもっていたか記憶にあるのですが,小鹿だけはどんな技を多用していたのかどうしても思い出せません。6人のうち小鹿と佐藤のふたりは,日本テレビで試合が中継されることがほかの4人よりもかなり少なかったと思うので,仕方ないかもしれません。そして佐藤はソバットを得意として,当時の全日本プロレスではこの技を使う選手がほかにいなかったので,中継は少なくても印象に残ったのだと思います。ということは小鹿にはほかの選手が使わないようなオリジナルな得意技というのはなかったのかもしれません。
 また,佐藤はフロントとしての能力を買われ,アメリカにわたってリングを降りて活躍の場を見出しました。原は金銭トラブルがあって解雇されています。石川は輪島大士の引退とともに,僕には唐突に思えましたが全日本プロレスを退団しています。大熊は悪役商会に加入して,現役のままこの世を去りました。井上は現役は引退しましたがレフェリーとして全日本プロレスに残り,NOAHの旗揚げのときにもレフェリーとして移籍しています。このように5人はどうして全日本プロレスから存在しなくなったか覚えているのですが,小鹿がいつどのような経緯で全日本プロレスを去ったのかも僕の記憶にはありません。
 なので僕にとっても小鹿は,大日本プロレスを設立してからの方がよく知っています。わりと全日本プロレスを観戦していた僕がこのような記憶しかありませんから,全日本時代の小鹿についてよく知っているという方は,本当の小鹿ファンで全日本ファンといえるのではないでしょうか。

 スピノザが1669年暮れか1670年の初めにフォールブルフVoorburgからデン・ハーグに移り住んだとき,オランダ政治の実権はヨハン・デ・ウィットJan de Wittが握っていました。ですがその後,ウィットは失脚し,反動的勢力を支持する民衆によって虐殺されました。これにより政治権力は議会派から王党派へと移行したのです。そして1674年には『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は禁書に指定されました。ですから1671年よりも1675年の方が,スピノザは自身の哲学思想をあからさまにすることに対して,より慎重になっていたと考えられます。つまり僕はスピノザがスぺイクの家に間借りすることになった時点でも,自身の哲学思想を語ることについてはたぶん慎重であったと思うのですが,そうした姿勢はスぺイクの家に住んでいる間により増進したのではないかと思うのです。
                                     
 すでに1671年の時点でスピノザは,イエレスJarig Jellesに宛てた書簡四十四の中で,『神学・政治論』がオランダ語訳で出版される予定があることを知り,その出版を阻止するように依頼しています。おそらくフラゼマケルJan Hendrikzen Glazemakerが蘭訳したであろうその本は,この依頼によって出版を阻止されました。僕はスピノザがこの本の著者であるという理由によって処罰されなかったのは,それがラテン語で書かれたものであったこと,すなわちインテリだけが読むことができるものであり,多くの一般民衆は読むことができなかったという点にあるかもしれないと思っていて,さらにそれをオランダ語で出版しないようにすることについては,実際に政治権力を握っていた議会派の政治家からアドバイスがあったのかもしれないと思っています。しかし理由はどうあれ,それを多くの民衆が読めるような形で出版することをスピノザが望まなかったということは事実なのであり,それは自身の思想をだれかれ構わず明らかにすることに対して慎重であったスピノザの姿勢と調和するものだと思えます。つまりこうした様ざまな事情から,スピノザは自身の思想については,スぺイクには多くを語らなかっただろうと推測するのです。スぺイクは日々の生活に追われる民衆のひとりであることを,スピノザは承知していただろうからです。
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印象的な将棋⑬-1&スピノザの姿勢

2017-02-25 19:30:16 | ポカと妙手etc
 昨年の銀河戦は藤井猛九段が優勝しました。その原動力となったのは自身が開発した四間飛車藤井システムです。印象的な将棋が多くあったのですが,最もうまくいった将棋として,本戦トーナメントの一回戦の将棋を選びました。
                                     
 四間飛車藤井システムにはいくつかの形があるのですが,後手の選択によって第1図は出現する筈です。
 ここで☗7八金と上がるのが最も手堅い手で,それなら実戦とは別の展開になります。ただ,手堅いというのは妥協したともいえるわけで,先手は穴熊を目指したのですから実戦のように☗9八香と上がるのは最も強い手だといえるでしょう。それで悪くなるというわけではないと思います。
 この形は後手があらかじめ☖4五歩と突いて角道を通していますので,☗9八香と上がられれば即座に仕掛けることになります。何かの拍子に☗9八玉と寄って角筋を避ける手が消えているからです。☖8五桂と跳ねました。
 この仕掛けへの対応策はいくつかありますが,☗5九角☖6五歩に☗3七角と転換するのは最も多い手順かもしれません。後手が6筋を突いてきたのでこれが香取りとなるからです。
 ただ☖6六歩☗同銀☖6五歩☗7七銀までは先手としても仕方ないところでしょう。
                                     
 香取りは残っているので第2図は後手としてもゆっくりはしていられません。

 書簡四十六が送られたのは1671年11月で,これはすでにスピノザがスぺイクの家に住むようになってからのことです。つまりその時点でスピノザはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのことを,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読むに値する人物,すなわち理性的に思索することができる人物であると認識していたことになります。ところが1675年にチルンハウスシュラーGeorg Hermann Schullerを介してライプニッツに『エチカ』の草稿を読ませることの許可を求めたとき,スピノザはそれを許しませんでした。その理由は書簡七十二に示されていて,ドイツのフランクフルトで顧問官を務めていたライプニッツが,なぜチルンハウスが滞在していたパリにいるのか,納得することができないからとしています。同じ書簡の中でスピノザは,ライプニッツが確かに自由な精神を持ち合わせた人物であるということは肯定しているのですが,それでもなお,『エチカ』を読ませるのには時期尚早であると判断を下しているのです。
 実際にはチルンハウスはその指令を守らず,少なくとも草稿の一部はライプニッツに読ませたか,詳しい内容を話したかのどちらかであると推定されます。ですがそうした歴史的事実は今は関係ありません。自由な精神をもっていることを認めている人物にさえ,『エチカ』の草稿を読ませようとはしなかったというスピノザの姿勢が重要です。
 書簡四十六では,『神学・政治論』を送ることを提案しているので,スピノザは自身の思想を他者に教えることに慎重であったとは断定できないようにも思えます。その時点でもスピノザはライプニッツと会ったことすらなく,スぺイクと比較するなら,見知っていたスぺイク以上の他者であったという見方も不可能ではないからです。ですが,『神学・政治論』は公刊されていたものですから,別にスピノザが送らずともライプニッツは読めたでしょうし,そもそもその文面からは,すでにライプニッツがそれを読んでいるという可能性もスピノザは否定していません。ですからそれを送ることを提案したことよりも,『エチカ』の草稿を読ませることを認めなかったということの方が,スピノザの基本的な姿勢に合致するのではないかと僕は考えます。
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永遠の夫&スぺイクの生活

2017-02-24 19:22:07 | 歌・小説
 ドストエフスキーの小説の中には,主人公が典型的なコキュであり,なおかつ寝盗られ願望を有しているということが明瞭である作品があります。それが1869年の秋にドレスデンで2ヶ月から3ヶ月ほどの期間で書き上げられた『永遠の夫』です。『白痴』と『悪霊』の間に書かれたもので,この当時のドストエフスキーは経済的に困窮していた,というか借金で首が回らないような状況だったので,金策のために大作の中間に書かれた中編という意味合いが強い作品です。
                                   
 そういう事情で書かれたものなので,ドストエフスキー自身はこの小説のことをあまり気に入っていなかったようです。『ドストエフスキー 父殺しの文学』では,ドストエフスキーが姪に宛てた手紙の中で,『永遠の夫』のことを呪わしい中編小説と記し,この小説を書くことは苦役であって,書いた当初からこの小説のことを憎んでいたと告白しているというエピソードが紹介されています。
 しかし,ドストエフスキーが自作をどのように評価していたかということとは関係なく,僕はこの小説は傑作であると思いました。亀山郁夫もこれが大好きな作品のひとつであると書いています。ただ,僕がこれを傑作と思った理由は,たぶん亀山が大好きと感じる理由とは違うと思います。
 僕はドストエフスキーというのは,一流の心理小説家であると思っています。その心理小説という観点からこれを秀作と思うのです。この観点に限定するなら,これは『賭博者』と双璧をなす傑作です。
 主人公はパーヴェル・パーヴロヴィッチ・トルソーツキイという男。この男が妻の死後に,妻に多くの愛人がいたこと,一人娘の本当の父親が自分ではないということを知ります。その上で妻の浮気相手と出会います。白眉はその後のトルソーツキイの心理の変化のありようです。その有様のリアルさを,ぜひこれを読んで体感してほしいと思うのです。

 もしスぺイクリュカスJean Maximilien Lucasがしたように,スピノザの思想とキリスト教の教えとの融和性をコレルスJohannes Colerusに語ったとしても,コレルスはそれには反駁したし,そうした見解を認めることもなかったと思います。ですが実際にスぺイクとコレルスの間でそういうやり取りはなかっただろうと僕は推測します。スぺイクがスピノザの思想に詳しかったとは思わないからです。
 画家の親方というのがどういう身分であったのかは分かりませんが,さらに家賃収入も得てほかの仕事もしていたのですから,経済的に余裕があったとまではいえないと思われます。その理由のひとつには,夫人との間に多くの子どもがいたということがあったでしょう。そうしたことからも,おそらくスぺイクは日々の生活に手一杯で,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』や『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』などを読むような時間的な余裕があったように思えません。スピノザがそれらの著者であるということを知らなかったという可能性は低いでしょうし,そうした著作のゆえにスピノザが批判の対象となっていたということは知っていたと思いますが,その哲学思想の内容を詳しく知っていたということはないと思うのです。ですからコレルスがそれについてどう把握していたのかということは関係なく,スぺイクがスピノザの哲学について何かを言及するということは,そもそも不可能であったと僕は判断します。
 ただ,この点についてはスピノザの側からも検証する必要があります。もしスピノザが自主的に自身の哲学について話すようなことがあれば,スぺイクはその概略については知り得るでしょうし,さらに詳しいところまで知る機会を得るだろうからです。実際にスぺイク一家とスピノザの関係は良好なものであったと考えられますから,そうした機会が絶対になかったとまでは断定できないでしょう。
 書簡四十六でスピノザはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対し,もし『神学・政治論』をまだ入手していないのなら,それを送りますと書いています。スピノザはこの本の読者を,理性的に思索する人に限定したいと思っていました。ですからライプニッツはそれを読んでも構わない人物だとその時点では認識していたことになります。
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岡田美術館杯女流名人戦&行いの融和性

2017-02-23 19:20:55 | 将棋
 昨日の第43期女流名人戦五番勝負第五局。
 主催である報知新聞の副社長による振駒上田初美女流三段の先手になり里見香奈女流名人のごきげん中飛車。①の変化で☗3六歩とは突かずに☗7八玉と寄り,先手の穴熊,後手の美濃囲いという戦型になりました。終盤の寄せ合いに入るまでが長く,寄せ合いに入ってからも大混戦が延々と続く手数の長い将棋に。寄せ合いに入ったところでは先手が有利だったと思われますが,後手玉を取り逃がす結末となってしまいました。
                                     
 8三で清算して後手玉をおびき出したところ。ここで☗8六銀と当たりになっていた銀を逃げつつ圧力をかけにいきました。対して☖8四香。
 玉頭戦のようになっているので,上部を厚くした方が有利になりますのでこの2手は当然の指し手だったと思います。それでいえば次は☗8五銀打とするのが有力でしたが☗7五銀と逃げました。ですがこのために☖6五龍とその銀に当てつつ歩を取られ,入玉されるおそれが生じました。
 先手は☗8四銀☖同王と取って取った香車を☗6九香と打ちました。ただこれは☖6七桂と打たれてあまり効果的ではなかったようです。むしろ☗8六銀とやはり手厚く打ち,☖7四王には☗8二角と脱出路を封鎖するのが優ったようです。
 ☗7八馬と逃げつつ桂馬を取りにいきましたが☖6六銀不成と使われました。同じように☗8六銀と打てば☖7九桂成とはできなかったようなので,この交換は明らかに先手が損をしたように思います。
 ここから☗8六角☖7五銀打☗9五角☖7四玉と進みました。これで後手玉は6四~5五へと逃げ出せることがほぼ確定。いきなり後手が勝ちの局面になってしまいました。
                                     
 ☗9五角のところでは☗7五同角と取る手もあったようですが,どうも☗7八馬と逃げた手が甘かったようで,それが敗着という結論になったようです。
 3勝2敗で里見女流名人が防衛第36期,37期,38期,39期,40期,41期,42期に続いての八連覇で通算8期目の女流名人です。

 リュカスJean Maximilien Lucasの伝記に対してコレルスJohannes Colerusの伝記の中には,スピノザの思想とキリスト教の間の融和性を記述した部分は皆無です。これはある意味では当然です。なぜならコレルス自身がスピノザの思想は無神論であるとみなしていて,それに対して激しい批判を加えているからです。もしかしたらこの点に関しては,スぺイクが何を言ったとしても,コレルスの認識は変ずることがなかったかもしれません。コレルスは批判のために数多くの反駁者を紹介していますが,その中にブレイエンベルフWillem van Blyenburgが含まれています。ちょうどブレイエンベルフがスピノザの考え方を否定したのと同じ理由がコレルスのうちにもあったと解するのが妥当であり,この点に関してはコレルスは譲らなかったであろうと想定されます。つまりブレイエンベルフがそうであったようにコレルスもまた,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の冒頭にスピノザが注意しておいたような,それを読むのに相応しくない人物に該当していたのだろうと僕は思っています。
 ところが,リュカスの伝記の中にはみられなかった点,すなわちスピノザの行いがキリスト教と融和的であったという記述がコレルスの伝記には含まれています。実際にその部分だけを読めば,スピノザは本当に無信仰であったのだろうかと疑いたくなってしまうような内容が含まれているのです。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,コレルスの伝記が,スぺイクの家に間借りしていた時代のスピノザは,キリスト教の実践者となったという通念を生み出すことになったと書いていますが,確かにそのような通念を産出する要素がこの伝記の中には含まれているのです。
 なぜそのような記述がコレルスの伝記に挿入されたかというと,僕にはふたつの要素が考えられます。コレルスはスぺイクの証言を基にそのように記述しているわけですから,これは他面からいえば,なぜスぺイクはそのような証言をコレルスに対してしたのかという理由であることになります。
 ひとつは,おそらくスぺイクは,スピノザの哲学思想にはほとんど関心がなかったであろうということです。つまり思想面とキリスト教の融和性については,スぺイクは証言できなかったろうと思うのです。
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ユングフラウ賞&聖職者批判

2017-02-22 19:26:12 | 地方競馬
 第9回ユングフラウ賞
 内からスターインパルス,ゴーフューチャー,ピンクドッグウッド,アップトゥユーの4頭が行く構え。スターインパルスとアップトゥユーの2頭が抜け出し並んで発走後の正面を通過。コーナーでスターインパルスが単独の先頭に立ち,向正面に入ると2馬身ほどのリードに。2番手にアップトゥユー。この後ろはまた3馬身ほど開いてゴーフューチャーでしたが,正面では前4頭の直後にいたステップオブダンスが並んでいきました。この後ろは内のグラスサファイヤと,先行争いから遅れてしまったピンクドッグウッドの併走に。最初の600mは35秒9の超ハイペース。
 3コーナーを回るとスターインパルスのリードが徐々に縮まっていき,アップトゥユーの外にステップオブダンスが追い上げてきてこの3頭が抜け出す形に。直線に入るとアップトゥユーがスターインパルスを捕えて先頭に立つも,さらに外からステップオブダンスが差し切って優勝。アップトゥユーが4分の3馬身差で2着。ずっとインを回り直線ではスターインパルスとアップトゥユーの間から伸びたグラスサファイヤがフィニッシュ直前でスターインパルスを捕えて1馬身差で3着。スターインパルスがアタマ差の4着で後方からの競馬になったアンジュジョリーもアタマ差の5着まで迫りました。
 優勝したステップオブダンスは11月に新馬を勝った後,2戦続けて3着。ここが南関東重賞初挑戦で初勝利。新馬は2着に2秒以上の差をつけていたので素質があることは確かでしたが,前走はここにも出走した2頭の後塵を拝していたので軽視していました。今日は超ハイペースの恩恵をいくらか受けた形でさらに斤量差もありましたが,2着馬は確かな実力がある馬で,フロックということはありません。ですから桜花賞でも有力候補となるでしょう。父はゴールドアリュール。半兄に2009年の毎日杯を勝ったアイアンルック
 騎乗した船橋の森泰斗騎手ニューイヤーカップ以来の南関東重賞制覇。ユングフラウ賞は初勝利。管理している大井の藤田輝信調教師もユングフラウ賞初勝利。

 スぺイクはたぶん『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読むような人ではなかったと僕は推測しますが,リュカスJean Maximilien Lucasが読んだことは間違いないと断定できます。それをどの程度まで正確に理解したかは把握しかねますが,新約聖書が教えることと理性ratioが教えることは,結果的には同じことであるという点は確実に理解していたといえるでしょう。そしてリュカスが伝記の中で,スピノザとキリスト教を関連付けて記述しているのは,ほぼこの最後の部分に限られています。
                                     
 ほぼ,というのは,厳密にいえばもう一箇所だけ,関連付けられているといえる部分があるからです。それは,スピノザがシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの遺言によって定められた年金の額を減らして受け取ったことを記述した部分です。そこでリュカスは,スピノザのこうした行いは,無闇に他人の財産を欲しがる聖職者によっては滅多に実行されることがない行いであるといっています。聖職者というものは正当な相続人を差し置いて遺産を遠慮せずに受領するし,そのためには老人や信者の弱みにつけこむことすらするのだといって,スピノザが称えられ,聖職者が批判されています。
 ここでリュカスが聖職者というときには,おそらく反動的なカルヴァン派の牧師たちが念頭に置かれているものと思われます。ただしこの文脈は,そうした聖職者を批判し,そのことによって遺族すなわち正当な相続人が受け取る遺産を増額させたスピノザの行いを称えるものであり,スピノザが聖書の教えに一致する行いをしたという文脈となっているわけではありません。さらに文章自体が,リュカスによる聖職者に対する批判であると明確に理解できるようになっていて,スピノザが聖職者を批判したというように解釈できるようにはなっていません。もちろんスピノザ自身のうちにもそういう批判精神が存在したということを僕は全面的には否定しませんが,ここの文意が,スピノザの行いとキリスト教の教えの一致を示すことにはなかったということだけは明らかだといえるでしょう。
 したがってリュカスの関連付けは,スピノザの思想とキリスト教の教えに限られるのであり,行い自体は関連付けられているわけではないのです。
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第四部定理九&スぺイクとリュカス

2017-02-21 19:11:44 | 哲学
 第四部定理一六では,善悪の認識が未来に関係する場合には,善bonumを希求し悪malumを忌避する欲望cupiditasが,現前するものに対する欲望に容易に凌駕されてしまうことが示されています。要するに僕たちは,それが未来と関係する限りでは悪であると認識していても,現時点において喜びlaetitiaであるならば,そちらの方を欲望してしまいがちであるということです。ダイエットに悪影響であると知っていながらケーキを食べてしまうとか,翌日の仕事に影響が出ると分かっているのに深酒してしまうといったような事柄は,こうした様式によって発生するといえます。
                                     
 ただ,このことは欲望という感情affectusのみに妥当するというわけではありません。一般に感情というものは,その感情を与える原因が現実的に存在している,あるいは現実的に存在すると表象される場合には,その原因が現実的に存在すると表象されない場合よりも強力です。それを示しているのが第四部定理九です。
 「感情は,その原因が現在我々の前にあると表象される場合には,それが我々の前にないと表象される場合よりも強力である」。
 この定理Propositioでは,感情の原因が現実的に存在すると表象される場合と,現実的には存在しないと表象される場合が比較されています。これは僕が前に説明した消極的な比較を,より積極的な仕方に置き換えたといういい方が可能です。もしそうであるならこのままでいいでしょう。しかし,現実的に存在すると表象されないということと,現実的に存在しないと表象されるというのは,同じことではなく,前者はより広範にわたると考えることもできます。そしてそれが異なった事象であると解するなら,むしろ現実的に存在すると表象される場合と,現実的に存在すると表象されない場合が広範にわたって比較されているのだと解する方がよいと僕は考えます。というのもこの定理は,表象像imago,imaginesが過去あるいは未来に関連させられる場合と,現在に関連させられる場合を比較しようという意図を有しているからです。そしてその限りにおいて,この定理は第四部定理一六の論拠となり得るでしょう。

 僕はスぺイクの証言のすべてが虚飾に満ちたものであったとは考えません。スピノザが敬虔pietasであったということはリュカスJean Maximilien Lucasの伝記からも明らかで,確かにリュカスにもまた,スピノザを賛美する動機はあったでしょうが,ふたりが同じように同じ事柄を虚言によって賛美することは不可能であると思われるからです。なのでスピノザが敬虔な人物であった,他面からいえば生活上の無神論者ではなかったということは真実であったと考えます。
 さらにいうと,リュカスがスピノザの敬虔さないしは品行方正さを称えるとき,それは主に金銭や地位に対する私心のなさが強調されます。スぺイクもそういう部分でスピノザを称える証言をしたと思われ,そうした記述がコレルスJohannes Colerusの伝記の中にも見られます。そしてたぶんこの点が,スぺイクがスピノザのことを尊敬した理由の大きな部分を占めると僕は思います。実際にスぺイクがスピノザに敬愛の情を有していたということを僕は肯定しますので,そうした部分に関しては,リュカスの場合にもスぺイクの場合にも誇張はあると解するのが安全かと思いますが,そのすべてが虚偽であるというようには解する必要はないのではないかと思います。少なくともそうでないと,スぺイクがスピノザに好意を抱く理由が欠けてしまいますし,リュカスにしても,単にスピノザの思想に共鳴したというだけで,スピノザの生活を全面的に賛美するとは考えにくいからです。リュカスもまたスぺイクと同様に,スピノザの日々の生活の多くを知っていたと思われるからです。
 しかし,スぺイクがスピノザを賛美する文脈のうちには,リュカスがあまり多くを記述していない事柄があります。それが宗教すなわちキリスト教と関連する事柄です。リュカスがスピノザの聖書と理性の分離に関してどの程度まで理解していたかは分かりません。リュカスは伝記の最後の部分で,新約聖書のキリストの掟が人間を神Deusと隣人への愛amorに導くが,スピノザによればそれは理性ratioが人間に教えるものであるとしていて,これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の主張に同じです。ですが同時に理性がキリスト教を規定するともいっていて,これは違った見解だといえるでしょう。
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読売新聞社杯全日本選抜競輪&スぺイクの動機

2017-02-20 19:04:50 | 競輪
 被災地支援競輪として取手競輪場で開催された第32回全日本選抜競輪の昨日の決勝。並びは平原‐武田‐諸橋‐神山の関東と三谷‐稲垣の近畿で新田と和田と浅井は単騎。
 武田がスタートを取って平原の前受け。周回中に動いた新田が5番手で6番手に三谷。稲垣の後ろを和田と浅井の両者が狙うような周回に。三谷が動いて平原を抑えようとしたのが残り2周のホーム。平原は下げず,稲垣と併走で打鐘。ここから三谷が本格的に発進して抑え先行。番手戦はコーナーで平原が奪うとホームでまた稲垣が追い上げてきましたが,再びコーナーで平原が奪いきりました。最後尾まで下げていた新田はホームから発進。コーナーで競りの影響もあって外を回らされましたがバックで三谷を捕えました。平原が三谷の後ろから新田を追い,直線で差して優勝。マークの武田が4分の3車輪差の2着で関東のワンツー。新田が半車身差の3着で,バックから発進していった浅井も半車輪差の4着まで迫りました。
                                     
 優勝した埼玉の平原康多選手は前回出走の大宮記念に続いて連続優勝。ビッグは11月の競輪祭以来で8勝目。GⅠは7勝目。全日本選抜競輪は2013年以来4年ぶりの2勝目。このレースは単騎の選手が3人もいる中で4人でラインを組めた関東勢が数的に優位。武田の地元なのでもしかしたら少し無理に駆ける可能性もあると思っていましたが,強引なレースはしませんでした。武田が迷わずスタートを取っていますので,前受けから番手狙いというのは当初からの作戦のひとつとしてあったものと思います。いいレースをしたのは新田で,だれかマークしてくれる選手がいれば結果は違っていたかもしれません。

 場合によってはコレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaよりリュカスJean Maximilien Lucasの伝記が信用に値するとフロイデンタールJacob Freudenthalが考える理由は,証言者としてのスぺイクHendrik van der Spyckが信用に値しないからでした。このゆえにフロイデンタールはコルトホルトSebastian KortholtやベールPierre Bayleにも疑念を抱いているのですが,僕はコレルスの伝記に焦点を絞ります。というのも僕が考えたいのは,スぺイク自身にあるからです。
 『スピノザの生涯』を読んで,確かにフロイデンタールの見解に一理あると僕は思いました。ですがそのことは,コレルスの伝記の中に明確に誤りである事柄,すなわちスピノザがあたかもスぺイクの面前でシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの金銭の提供を辞退したことが記述されているからではありません。むしろスぺイクはスピノザに好意を抱いていた,あるいは敬愛の情をもっていたという点にあるのです。そうであるならスぺイクには,スピノザを実際よりも立派な人物として他者に語る動機が存在するといえます。つまり,リュカスの日記は僕にも必要以上にスピノザを賛美している部分があるように感じられ,それはリュカス自身が親スピノザという立場であったことが動機となったと思われるのですが,それと同じことが,スぺイクの場合にも該当する可能性があると僕は考えたのです。
 スぺイクに実際に取材したふたりのうち,セバスティアン・コルトホルトが書いたのは,父Christian Kortholtが書いた『三人の欺瞞者論De Tribus Impostoribus Magnis』の序文です。つまりその著書はスピノザを欺瞞者とみなしていることが明らかで,スピノザを批判しようという意図を有していることが明らかです。一方,コレルスはルター派の説教師であり,その説教を聞くためにスぺイクが出掛けることによってふたりは知り合いました。したがってコレルスはキリスト教を信仰していなかったスピノザのことを快くは思わないであろうということを,スぺイクは容易に推定できたでしょう。したがってそのふたりにスピノザのことを話す場合には,スピノザのことを美化して話したとしておかしくありません。それはスピノザのためでもありますし,自分のためにもなり得ます。すなわち無信仰のスピノザに5年半にもわたって部屋を貸していたことの弁明にもなり得るのです。
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フェブラリーステークス&ドイツ文化とオランダ文化

2017-02-19 19:17:08 | 中央競馬
 第34回フェブラリーステークス
 大外からインカンテーションがハナを奪いにいったところ,ニシケンモノノフが内から競り掛けていき,一時的に2頭で3番手以降を引き離す形。譲らなかったインカンテーションの逃げになり,控えたニシケンモノノフは外に切り返しての2番手。3番手にコパノリッキー。4番手はモーニンとケイティブレイブの併走。この後ろにアスカノロマンと徐々に進出してきたホワイトフーガ。ベストウォーリアが単独で追走しゴールドドリームとキングズガード,さらにブライトラインとノンコノユメという隊列に。ここから差が開き後方に控えたのがエイシンバッケン,サウンドトゥルー,カフジテイク,デニムアンドルビーの4頭。前半の800mは46秒2のハイペース。これは発走後に先行争いがあった分です。
 隊列が定まってからはペースも落ち着き,直線に入るところでは逃げたインカンテーション,ニシケンモノノフ,コパノリッキー,ケイティブレイブの4頭が雁行で,内から進出してきたホワイトフーガまで加わった5頭が集団。この中でニシケンモノノフがよく頑張りましたが,これら5頭の外から伸びてきたゴールドドリームが捕えて先頭に。競り合った馬たちが後退したため開いた内から伸びてきたベストウォーリアが迫って2頭の競り合い。しかし最後まで抜かせなかったゴールドドリームが優勝。ベストウォーリアがクビ差で2着。いつものように大外から追い込んだカフジテイクが4分の3馬身差で3着。
 優勝したゴールドドリームはユニコーンステークス以来の重賞制覇で大レース初勝利。ヒヤシンスステークスも勝っていて,休養明けで古馬との初対戦となった武蔵野ステークスでも2着に食い込んでいるようにこのコースの適性が高い馬。武蔵野ステークスは重馬場だったとはいえかなりいいタイムで走っていましたので,能力的な裏付けもありました。これまでの戦績からすると距離が伸びるのはあまりよくないかもしれませんし,地方競馬への馬場適性にも課題があるかもしれないので,どの程度まで活躍できるのかはやや未知数なところも残ります。ただ,克服することができないような課題ではないと思いますので,超一流馬の域まで到達することも可能な馬だといえるでしょう。父は昨日急死した第20回の覇者のゴールドアリュールで父仔制覇。
                                     
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手はエリザベス女王杯以来の大レース制覇。第33回に続く連覇でフェブラリーステークス2勝目。管理している平田修調教師は2012年のNHKマイルカップ以来の大レース2勝目。

 あとのふたり,すなわちセバスティアン・コルトホルトとコレルスJohannes Colerusには,ベールにみられるような個人的にして特殊な事情はなかったようです。なのでなぜふたりが,スピノザを思想的には無神論,つまり信仰fidesをもたない人であると認めているのに,その生活は敬虔pietasであったということを,客観的に記述することができたかはよく分かりません。とりわけコレルスは,ルター派の説教師としての立場から,スピノザがキリスト教を信仰していなかったことについて厳しく非難しています。そうであるならそのような批判を受けるべき存在であるスピノザが,品行方正に暮らしていたということを伝記として記述し,多くの人に読ませようとするのは,コレルスにとっては不都合な真実を不特定多数の人に知らせるようなものであったのではないかと思えます。なぜなら,それは自分の説教などは聞かずとも,敬虔な生活を送ることが可能であるということを伝えようとすることに等しいと思えるからです。
 ただ,一点だけこのふたりに共通していることがあります。コルトホルトはドイツからオランダまで出掛けてスぺイクを取材したのです。一方,コレルスはドイツで説教師になった後,オランダに招聘されて,そこで生涯を終えました。つまりふたりともドイツ人であったのです。これに対してスピノザはマラーノすなわち人種的にはユダヤ人ですが,産まれ育ったのはオランダです。フェルトホイゼンLambert van Velthuysenはユトレヒトで産まれていて,これはフランス軍による占領前のことですから,オランダ人です。なのでドイツの文化とオランダの文化には,信仰心と生活との間の関係に対する考え方に相違があったというのは,可能性としては指摘できます。
 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもドイツ人でした。そしてライプニッツもまた,信仰心はなくても敬虔であることは可能であるという実例としてスピノザに言及しています。ライプニッツとスピノザが会見したのは一週間ほどだったと思われますので,ライプニッツがスピノザの生活をすべて知っていたとは思えませんが,考え方としてスピノザやフェルトホイゼンより,同じドイツ人のコルトホルトやコレルスに近かったのは間違いないでしょう。
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棋王戦&ベール

2017-02-18 19:56:32 | 将棋
 北國新聞会館で指された第42期棋王戦五番勝負第二局。
 渡辺明棋王の先手で千田翔太六段は2手目に☖3二金。先手は振飛車にはせず☗2六歩。ここで☖4一玉と寄ったら別の将棋になったのかもしれませんが☖8四歩だったので,先手は矢倉を目指すことになりました。後手は角換りよりは矢倉の方がよいと思っていたかもしれません。脇システムのような形に。先手が手損で角を交換した代償に棒銀から端を攻め,後手が馬を作って飛車を取っての攻め合いに。
                                     
 後手が2八にいた飛車を成ったところで先手が歩を突いた局面。☖1五龍と取れますが☖同歩☗同銀☖同銀☗同角と進めました。受けきって勝つのは難しいとみたか,攻め合って勝てるとみたかのどちらかです。
 ☖7七歩と叩き☗同桂に☖8五歩。7七に引けなくなっているので☗同桂☖同銀☗同銀と進みまた☖7七歩と叩きました今度は☗同王の一手。ここから☖7三桂☗7四銀と進んだところで思わしい攻め方がなかったようで☖2三金と受けに回ることに。ですがここまで進めてしまってから受けに回るのでは苦しそうですから,それで勝てるかどうかは別に,攻める前に何らかの受け,☖2三金と飛車の横利きを通す手以外なら☖2三歩と打つとか☖2二玉と上がっておくとかしておいた方がよかったのではないでしょうか。先手は☗1二歩☖同飛と飛車筋をずらしてから☗6八角と逃げました。
                                     
 ここで☖5七銀と捨て☗同角に☖8五桂打☗6七王。さらに☖7八龍と切って☗同王☖1八飛成☗4八銀☖7七金☗6九王☖6七歩と垂らして攻めていきましたが☗5九銀打と受けられて詰めろが続かなくなりました。仕方なく☖5六歩と打ちましたが☗1三歩と詰めろで垂らした局面は先手の勝勢になっているのでしょう。
                                     
 渡辺棋王が勝って1勝1敗。第三局は来月5日です。

 3人のうち,ピエール・ベールにはやや特殊な事情があったようです。
 ベールは1647年産まれのフランス人です。父はカルヴァン派の牧師でした。1669年にカトリックに改宗し,またカルヴァン派に戻ったことで迫害され,ジュネーブに逃げ出さなければならなくなりました。そこでデカルト哲学を知りました。その後,ジュネーブやフランスのルーアン,パリなどで家庭教師を務め,1675年にフランスのスダンで大学教授となり,1681年にはオランダのロッテルダムの大学に移って教授を続けています。しかし1693年に,宗教に対して懐疑的な面をもっているとされ教職を追われ,それ以降は1706年に死ぬまで,在野の批評家として活動しました。
 スピノザからみるとデカルトの哲学にはよき面と悪しき面があります。その悪しき面のひとつが,方法論的懐疑という,どんな事柄も疑ってみるという方法です。第二部定理四三から理解できるように,スピノザは精神mensのうちに真の観念idea veraが存在するなら,それが偽であると疑うことは不可能としているからです。これに対していえば,ベールはその悪しき面を極度に見倣った人でした。デカルトは最後は疑っている自分の精神が存在することは疑い得ないと結論し,この結論を基に合理主義的哲学を構築したのですが,ベールはその合理主義に対しても疑いをもつ人であったようです。
 この結果としてベールは,神学と哲学,信仰fidesと理性ratio,宗教と倫理というのを,切断して考えるようになりました。したがってある人間が信仰心をもつかもたないかということと,ある人間が道徳的であるか不道徳であるかということ,いい換えれば行動の上で敬虔pietasであるか無神論者であるかということも,切断して考えるようになったのです。なので,明らかに信仰心をもたないのに敬虔である人物が現実的に存在するなら,それはベールの考えの正しさを証明するようなものでした。よってスピノザという人物の発見は,ベールにとって喜びlaetitiaであり得たのです。
 スピノザが敬虔であったことは,聖書に心服しながら放埓な生活を送るような人間がいるのと同じで,驚きには値しないとベールはいっています。
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輪島大士&思想と生活

2017-02-17 19:19:37 | NOAH
 石川敬士が全日本プロレスを退団したのは,輪島大士が大成できずに引退したことの責任を取るためだったという話があります。石川と輪島は同じ角界出身ですが,全日本プロレスにはほかにも角界出身者がいましたから,それは退団の理由にはなりません。僕はこの話は真実か虚偽かもわかりませんし,真実であったとしてその理由も見当がつきません。
 輪島は大相撲で横綱を張り,14回も幕内最高優勝を果たしたトップアスリート。同時代に北の湖がいたのですからこれは凄い記録です。引退後は親方になりましたが不祥事を起こして1985年の暮れに廃業を余儀なくされ,翌1986年に全日本プロレスに入門しました。
 日本でのデビュー戦の相手がインドの狂虎ネイチャーボーイのNWA王座にも挑戦したり不沈艦とPWF王者決定戦を戦うなど,それなりの扱いは受けましたが,天龍源一郎阿修羅・原などと対戦するようになると対戦相手の期待に応えられず,精彩を欠くようになり,1988年に引退しています。
                                   
 『1964年のジャイアント馬場』では,輪島が「スター」になれなかったのは,輪島の人気に嫉妬した馬場が,解説などで輪島を貶めるような発言を繰り返したからだとされています。『マイクは死んでも離さない』では,輪島は視聴率が取れるレスラーだったとされていて,人気があったのは間違いありません。だからそれに馬場が嫉妬することがあったのも事実だった可能性は否定できません。ただ,僕がみる限りでは輪島のプロレスはトップで長く戦っていくことができるようなプロレスではありませんでした。重要な場面でのスピード感に明らかに欠けていたからです。なので結果論ではあるのですが,その理由がどういったものであったとしても,単に人気があるというだけで輪島をトップまで押し上げることをしなかったこと自体は,的確であったのではないかと僕は思っています。

 本題からは外れてしまうのですが,直接的にであれ間接的にであれスぺイクへの取材を基に書いた3人には,それ以外の共通点があります。
 フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは書簡四十二の中で,自分はスピノザ,といってもこの書簡を書いた時点でのフェルトホイゼンには匿名で出版された『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者がだれであるか分かっていなかったので,単に著者となっていますが,その生活などは知りたくもないし興味もないと書いています。フェルトホイゼンにはスピノザが信仰fidesを否定しているように思えたので,無神論者とみなし,堕落した生活を送っている人間であると想定されたからです。それに対してスピノザは書簡四十三の中で,もしフェルトホイゼンがスピノザ自身の生活ぶりを知ったならば,自分のことを無神論者などとはみなさないであろうと応じています。スピノザは自分が無神論者であるとは思っておらず,むしろ敬虔pietasであるという自己認識を有していたのです。
 このやり取りは,どちらの場合であれ,信仰をもたない,というのは事実上はキリスト教を信仰しないという意味ですが,そういう人間は敬虔であることはできず,必然的に無神論者となるということが一般的な認識であるとみなしている点で共通します。フェルトホイゼンはその認識を規準にスピノザの生活を推測したのですし,スピノザの方はそれが一般的な認識であるという前提の下に,その一般的認識が誤りであるといっているからです。なので無神論者とは放埓な生活を送るものであり,その場合に神Deusとはキリスト教神学的な意味での神に限定されるというのが一般的な認識であったとこのブログでは推定しています。
 ところが,前述の3人は3人とも,そうした認識cognitioを共有していません。むしろ信仰心すなわちキリスト教の神に対する信仰を有していなくても,敬虔であることが可能であるということは,自明のことであるかのように認識しているのです。つまり信仰上の無神論と生活上の無神論の間には必然的な因果関係はないという点で一致しているのです。実際に3人はスピノザが思想上は無神論者であるとみなし,しかしその生活は敬虔なものであったことを主張しています。
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行人&尊敬の理由

2017-02-16 19:27:11 | 歌・小説
 『それから』のときにいった,コキュとはいえないけれど寝盗られ願望があったかもしれないと解せるのは『行人』の主人公である一郎です。ただこの小説は僕には難解なので,先にその大枠を僕がどのように理解しているかを説明します。
                                   
 小説の主題となっているのは,知性を代表する知識人と非知性すなわち情念を代表する大衆の軋轢であると僕はみています。こうした軋轢はいつの時代にも存在します。スピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の序文で注意していることはそれでしょう。聖書ないしは神に服従obedientia,obsequium,obtemperantiaして敬虔pietasになるのでも理性ratioに従って敬虔になるのでもどちらでも構わないと主張したのは,スピノザにとってその軋轢を解消する方法であったといえます。また現代においても,2016年は非知性が猛威を振るった一年であったといってそうも間違っていないでしょう。ですから小説の主題としては,凡庸だといえなくもありません。ただ『行人』にはふたつほど際立った特徴があります。
 ひとつはこの軋轢が家庭内で生じる点です。すなわち知性を代表する知識人の一郎が,情念的な家族との生活の中で疲弊していくという仕方で物語が展開していくことです。テクストそのものは一郎に対して共感的あるいは同情的な視点から記述されているといえますが,実際にそこで語られているのは知性の側の誤謬であり失敗であると僕はみます。つまりスピノザが示したような軋轢の解消法を,一郎は発見することができなかったのです。
 この,発見できなかったということがもうひとつの特徴を構成しているというのが僕の見方です。一郎は知識人であり,非知性の側に歩み寄ることはできません。したがってこの軋轢は何ら解消されぬまま物語も終焉します。つまり最初に提示されているような問題が何も解決されないまま物語が終るのです。それはその軋轢は普遍的なもので,時代を超越して無際限indefinitumに続くということを暗示しているといえますが,最初から最後まで一郎と家族の間の関係性に変化がみられないというのは,ひとつの小説としてみればやはり大きな特徴だといえるのではないでしょうか。

 スぺイクが好感を抱き,おそらく尊敬していたであろうスピノザの人間性は,一言でいえばスピノザが敬虔pietasであったということに尽きます。先述したコンスタンティンConstantijin Huygensの場合もこれは同様で,コンスタンティンはスピノザが敬虔な人間であること,そういう生活を送っていることをよく知っていたのです。ですからカルヴァン派の牧師たちがスピノザのことを無神論者と非難することを否定することができたのでしょう。
 オーステンスを介して交わされたフェルトホイゼンLambert van Velthuysenとの間の書簡四十二と書簡四十三から理解できるように,信仰fidesをもたない人間は生活の上で無神論者に陥り,敬虔であることはできないというのがこの時代の一般的な認識でした。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においてその認識が誤りであることを示しました。そして事実,信仰をもたないけれども敬虔であるという人間,すなわちスピノザが現実的に存在するということをコンスタンティンは知っていたのだというのが,僕がいっていることの意味になります。
 スピノザとスぺイクは5年半にもわたってひとつ屋根の下で暮らしたのです。ですからコンスタンティンが知ったように,スピノザが敬虔であるということをスぺイクが知ったとして何ら不思議ではありません。そしてその敬虔さに尊敬の念を抱くことがあったとしてもやはり不思議ではないでしょう。実際にスぺイクの証言を基に構成されたコレルスJohannes Colerusの伝記には,スぺイクと共に過ごした時代のスピノザがいかに敬虔な人物であったのかということが多く記述されています。当然ながらそれはスぺイクがそうしたことを多くコレルスに語ったからです。後に述べる理由から,僕はスぺイクの証言のすべてが信用に値するとは考えません。ですがそのすべてが創作であったとはそれ以上に考えられないことです。そしてスぺイクがそうしたことを多くコレルスに対して証言した理由は,いかにスピノザが敬虔な人物であったかを伝えたかったからであり,伝えたかったのはスピノザのその部分をスぺイクが高く評価していたからだと思います。スぺイクに取材したセバスティアン・コルトホルトにも,スぺイクはそれらのことを伝えたことでしょう。
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東京中日スポーツ賞金盃&スピノザとスぺイク

2017-02-15 19:12:45 | 地方競馬
 第61回金盃
 クラージュドールは発馬直後に躓いてしまい離れた後方から。先手を奪ったのはサブノクロヒョウでストゥディウムが追い掛けていきました。この2頭は1周目の正面に入ったところで並び,そのまま3番手以降との差を広げていく形に。レイディルアレナとユーロビートが並んで追走していましたが,1周目の1コーナーを回ってユーロビートが単独の3番手に。これをタイムビヨンドがマークするように進み,一時的に控えたレイディルアレナの後ろにジャルディーノとキープインタッチ。ウマノジョーとキスミープリンスとオリオンザジャパンの3頭が併走で続き,その後ろにトーセンハルカゼ。ここからは差が開いてデュアルスウォードとクラージュドール。ヴァーゲンザイルは向正面で取り残されました。最初の1000mは65秒5のスローペース。
 3コーナー手前でストゥディウムが後退してユーロビートが単独の2番手に。ここから一時的に逃げたサブノクロヒョウがリードを広げましたが,余裕をもって追走していたユーロビートが直線では難なく交わすと抜け出して快勝。馬場の中ほどからキープインタッチが伸びて2番手に上がるも,その内からウマノジョーが交わして2馬身差の2着で同一厩舎のワンツー。さらに外からクラージュドールも脚を伸ばして1馬身4分の3差で3着。キープインタッチは4分の3馬身差で4着。
 優勝したユーロビート東京記念以来の勝利で南関東重賞は3勝目。ここは転入初戦となったオリオンザジャパンとの力関係は不明でしたが,それ以外に対しては能力上位。オリオンザジャパンがもてる能力を十全には発揮できないという結果になりましたから,きわめて順当な優勝といえるでしょう。戦績から分かるように小回りコースは苦手で大きく割り引く必要があります。したがって条件は限られることになりますが,能力の減退はないようですから,今後も活躍可能でしょう。実際に1勝しているように,条件が整えば重賞でも戦える馬です。父はスズカマンボビューチフルドリーマーアサマクインの分枝。
 期間限定免許で騎乗した吉原寛人騎手は東京記念以来の南関東重賞制覇。金盃は初勝利。管理している大井の渡辺和雄調教師も金盃は初勝利。

 スピノザはスぺイクの家で最後の5年半を暮らしました。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,その間のスピノザとスぺイク一家の関係は,和やかで親密であったようにみえるとされています。おそらくこれは事実で,僕の推測ではスぺイクはスピノザに対して好感を抱いていたし,好意をもって接したのです。だからスぺイクはスピノザの遺言めいた指示を守り,机をリューウェルツJan Rieuwertszが滞りなく入手できるように取り計らったのだと思います。
                                     
 スピノザの葬儀の費用は,最終的にはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの遺族から提供を受け,リューウェルツが支払いました。コレルスJohannes Colerusの伝記には,リューウェルツがその費用を同封した手紙をスぺイクに送ったと記されています。ですがこの手紙は3月6日付です。スピノザが死んだのは2月21日で,葬儀は25日には終っていました。コレルスは懇願を受けたスぺイクが葬儀の世話をしたとだけ記述していますが,要するに費用は一時的にスぺイクが立て替えたのです。満員の乗合馬車が6台も出るほど大きな葬儀で,さらに埋葬後に近隣住民を自宅に招いてワインも振舞ったとされています。これは一宿主がその下宿人の葬儀に対して執り行うレベルの葬儀の規模を超越しているように思われます。僕がスぺイクはスピノザに好感を抱いていたと推測する根拠はこれです。少なくとも両者の関係が,単なる宿主と下宿人というものであったとは思われません。スぺイクはスピノザに好感をもっていたし,それは敬愛していたとか尊敬していたということばで表現するのが的確な感情であったと思うのです。
 ではなぜスぺイクがスピノザに対してそこまでの感情を抱くに至ったかといえば,スぺイクがスピノザの日常生活を熟知していたからだと僕は思うのです。王党派の支持者であったコンスタンティン・ホイヘンスConstantijin Huygensは,王党派との結びつきが強かったカルヴァン派の牧師たちの非難には目もくれず,スピノザが自身の別荘に立ち寄ることを拒みませんでした。それはコンスタンティンがスピノザがどういう人間であるかをよく知っていたからだと僕は推測しました。コンスタンティンと同じことが,スぺイクにも当て嵌まると僕は考えるのです。
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王将戦&スぺイク

2017-02-14 19:34:58 | 将棋
 備中屋長衛門で指された第66期王将戦七番勝負第四局。
 久保利明九段の先手で5筋位取り中飛車ごきげん中飛車を先手で指して,郷田真隆王将が①-Bの変化に進めたような形の将棋でした。通常の形と比較すると先手は☗1六歩が突けていて,これは美濃囲いにとって大きな手なので,①-Bの変化では少し得をしているかもしれません。
                                    
 後手が3一の銀を上がった局面。先手はここで☗5四歩☖同歩と仕掛け☗2二角成☖同王と手損で角を交換した上で☗5四飛と走りました。後手が☖5五歩と打ったのは飛車を捕獲する狙いだったと思うのですが☗7七桂と跳ねられたところで長考に沈み,そのまま封じ手となりました。
 封じ手は☖3三銀でこの手は意図を把握しかねます。小鬢が開いていてはどうしてもまずい変化があったのだと推測するほかありません。先手は☗7一角と打って☖7二飛に☗2六角成と馬を作りました。これは大きな戦果ですが代償に0手で飛車を寄らせたようなもので☖7五歩から反撃を受けることに。
 ここからびっくりするような一直線の攻め合いに突入します。☗6六歩☖7六歩☗6五歩☖7七歩成☗6四歩☖7八と☗6一銀☖6九と☗7二銀不成がその手順。
                                    
 今日の昼過ぎにこの手順をみたとき,これは後手に分があるのではないかと思えました。この後の手順からどうもその直観が正しかったようです。先手にとって仕方のない一直線であったのなら,仕掛け方に拙いところがあったということになるのではないでしょうか。
 郷田王将が勝って1勝3敗。第五局は来月1日と2日です。

 スピノザが死んだときの宿主であったヘンドリック・ファン・デル・スぺイクは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では画家の親方であったと記されています。親方というのが何を意味するかは僕は分かりません。主に室内装飾画を集中的に描き,肖像画を手掛けることもあったそうです。『人と思想 スピノザ』には,この時代のオランダでは部屋を飾るための一枚画は大いに必要で,そうした需要は中流所得の商人や農家にも及んでいたと書かれていますので,おそらくそういう絵を描いて生計を立てていたと思われます。ただ,スぺイクにとってはそれだけでは十分ではなく,ほかに家賃収入があり,さらに軍隊に奉仕する事務弁護士も務めていたようです。
 妻はイダ・マルガレータ・ケッテルリンフ。あるエピソードとして紹介した夫人はこのケッテルリンフです。スピノザが住むようになったとき,ふたりの間に3人の子どもがありました。そしてスピノザが死ぬまでの5年半の間に,さらに4人の子どもが産まれています。おそらく一家全員,といっても幼い子どもをそこに含めていいかは微妙ですが,ルター派のプロテスタントであったものと推定されます。
 スぺイクが死後のスピノザのために果たした役割は,かつて書いたように甚大です。スピノザはスぺイクに対し,もし自分が死んだときには,書簡も含む原稿の類のすべてを入れてある執筆用の机を,リューウェルツJan Rieuwertszに送るように依頼していました。スぺイクはその指示を忠実に守りました。このために『エチカ』も含む未発表,といっても何人かは知っていたでしょうが,公にはされることがなかった遺稿をリューウェルツは入手することができ,遺稿集Opera Posthumaを編纂し発刊することも可能になったのです。もしこのときスぺイクがスピノザの指示を無視していたなら,僕たちがスピノザが書いたものを今のような形で読むことは不可能だったのかもしれないのです。
 ただ,スピノザはこの時代のオランダにおいては,激しく論難される存在でした。ルター派の説教師だったコレルスJohannes Colerusも,思想面では伝記の中でスピノザを厳しく批判しています。なぜスぺイクは指示を無視し,机を廃棄したりしなかったのでしょうか。
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