スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&平和と敬虔

2022-07-21 19:21:52 | 将棋
 17日に万松寺で指された第93期棋聖戦五番勝負第四局。
 永瀬拓矢王座の先手で相掛り。後手の藤井聡太棋聖が歩を損する代償に手を得する順に進めました。将棋は中盤で優位に立った後手が攻勢を強めて押し切ったという内容でしたが,分岐は多くあったようです。その中から特に僕の印象に残ったものを紹介します。
                                        
 実戦は第1図から☗8六飛☖同飛☗同歩☖8七歩と進み,☗7一飛☖4二王の交換を入れてから☗9七角と進みました。王手のところはともかく,一本道の進行だと僕には思えたのですが,そうではなかったようです。
 第1図では☗9四歩と香車を取ってしまう手もあったとのこと。☖8七桂成☗同金☖同飛成で損をしているようですが,そこで☗9七角と上がるのだそうです。
                                        
 第2図は☗5三角成を受ける手を指しても☖8九龍としても☗8六飛と回って先手も勝負にはなります。確かにこの順も先手にとって有力であったでしょう。
                                        
 3勝1敗で藤井棋聖が防衛第91期,92期に続く三連覇で3期目の棋聖となります。

 社会契約説に関する僕の解釈が正しいということを強硬に主張するものではありません。ただ,社会契約が実在的有entia realiaであり得ないということは間違いないことであり,スピノザの哲学では実在的有であるものに基づいて考えていかなければならないと僕は考えますから,仮に社会契約説に関してスピノザが何らかの仕方で考え方を改めたのだとしても,その相違は重視しなくていいでしょう。『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を書いているときは社会契約が実在的有であり,『国家論Tractatus Politicus』を書いているときには実在的有ではなくなった,あるいは同じことですが理性の有entia rationisになったということはあり得ないですし,『神学・政治論』を書いているときのスピノザが,社会契約は実在的有であると思い込んでいたということは,あり得ないとはいいませんがかなり考えにくいでしょう。
 これと同じように,たとえ敬虔pietasということが『国家論』では主題化されてないとしても,人間が敬虔であることを重視していることは,『神学・政治論』でも『国家論』でも同様であると僕は考えます。つまり第六章第三節でスピノザがいっていることは,国民が敬虔であるように国家Imperiumは組織されていなければならないということであると解します。そしてそのことによって,国家もまた敬虔であることができるのです。つまり,国民全体によって組織されるひとつの個物res singularisとしての国家も敬虔であることができるのです。そしてそれがこの部分で,平和paxと絡めて記述されているのです。
 これでみれば,スピノザが平和ということで何をいおうとしているのかが理解できます。ここでいわれている精神mensの一致というのは,各々の国民の精神が一致することを意味しますが,そのこと自体は現実的ではなく,各々の国民が敬虔であることによって和合するということを意味するのでなければなりません。そしてそれによる国家の状態が平和といわれるのです。いい換えれば平和とは,国家にとっての敬虔,国家をひとつの個物としてみたときの敬虔を意味するのです。もっともこれは,国家だけを意味するのではありません。おそらく人間の集団によって構成される組織が敬虔であるとき,その組織は平和であるといわれるのです。
コメント
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