スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スポーツニッポン賞習志野きらっとスプリント&徳の認知

2024-07-19 19:04:42 | 地方競馬
 愛知から2頭,高知から1頭,佐賀から1頭が遠征してきた昨晩の第14回習志野きらっとスプリント
 クビほど前に出ていた外のエンテレケイアがそのまま譲らずハナへ。内から追っていたオールスマートが控えて2番手。3番手にカプリフレイバーとハセノエクスプレスで5番手にスワーヴシャルル。2馬身差でイモータルスモーク。7番手にプライルード。この後ろはビリーヴインミー,リュウノユキナ,ティアラフォーカス,マッドシェリーの集団。その後ろがブンロートとロイヤルパールス。最後尾にスマートセラヴィーという隊列。最初の400mは22秒6のハイペース。
 3コーナーでエンテレケイアのリードが2馬身ほどに広がり,2番手はまだオールスマート。この後ろからスワーヴシャルルとプライルードが並んで追い上げてきてその後ろがイモータルスモーク。直線に入ると逃げたエンテレケイアがさらに後ろとの差を広げていき,楽に逃げ切って圧勝。内を回って追ってきたスワーヴシャルルが6馬身差で2着。2番手追走の佐賀のオールスマートが1馬身半差で3着。
 優勝したエンテレケイアは南関東重賞初勝利。JRAでデビューして1勝。3歳のうちに浦和に転入。転入先が浦和だったこともあり,1400mと1500mを中心に走っていましたが,900mや1000mでの好走もあり,強敵相手に戦えるのはむしろそうした距離と思えました。かなり優秀なタイムなので,圧勝になったのは当然。逃げたのがよかったということでしょうが,これまでで最高のパフォーマンスになりました。父はアジアエクスプレス。Entelecheiaは完成された現実性を意味する哲学用語。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手報知オールスターカップ以来の南関東重賞34勝目。その後に川崎記念を勝っています。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞67勝目。第9回,10回に続き4年ぶりの習志野きらっとスプリント3勝目。

 理性ratioによる認識cognitioはそれ自体が有徳的な認識ですから,第四部定理二三は,現実的に存在する人間は理性によって事物を認識するcognoscere限りでは有徳的であるといっているのと同じです。これは第四部定理二四からなお一層明らかだといえるでしょう。したがってすべての人間は理性的である限り有徳的であるということになりますから,人間に一般のvirtusの何たるかを示そうとするのであれば,これだけで十分だといえます。そしてこの意味において,すべての人間に共通の徳というものが,スピノザの哲学にもあるといえるのです。
                                   
 ところがスピノザは,その前の第四部定理二二系では,徳の唯一にして第一の基礎は,現実的に存在する各々の事物のコナトゥスconatusであるといい,理性によって事物を認識すること,いい換えれば現実的に存在する事物の能動actioであるとはいわないのです。それがなぜかといえば,人間に共通の徳が何であるのかということを示すことを意図しているのではなく,現実的に存在する各々の人間が,自身の徳とは何かということを正しく認識し,そのことを通じて人間に共通の徳とは何かということを正しく知るということが重要であるとスピノザが考えているからだと僕は思うのです。よって,現実的に存在するある人間が,人間に共通の徳を知るということは,自身のコナトゥスを正しく把握してそのコナトゥスに従って行動することによって知られることになる帰結事項なのだと僕は考えます。だから,人間に共通の徳というのは,いわゆる主体の排除によって各々の現実的に存在する人間に知られることになる帰結事項であり,徳そのものの第一の規準は,人間の本性natura humanaにあるのではなく,各々の人間の現実的本性actualis essentiaにあると僕はいうのです。
 前もってこのようにいっておいたのは,徳の第一の規準が自分自身にあるというなら,各々の人間が自己のコナトゥスに従うことがそれぞれの徳ということになり,スピノザは現実的に存在する人間が利己的に行動することを徳として推奨しているというように解されるおそれがあるからです。実際にはスピノザはそのようなことを主張しているわけではありません。徳の何たるかを知ることの方を重視しているのです。
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汎悪霊論&第四部定理二三

2024-07-18 19:16:33 | NOAH
 『悪霊』のスタヴローギンの告白の第一節の中で,スタヴローギンがチホンに,神を信じないで悪霊だけを信じることができるかを尋ねる部分があります。この部分を佐藤優は『生き抜くためのドストエフスキー入門』の中で取り上げていて,これを書いているときのドストエフスキーにはスピノザのことが念頭にあったのではないかと推測しています。
                                        
 僕はドストエフスキーがスピノザを知っていたとすら思わないので,これは牽強付会でないかと思いますが,このことについては別に僕の考え方を説明します。なぜ佐藤がこのことをスピノザと絡めて考えているのかといえば,それはスピノザの哲学が汎神論であること,あるいは汎神論だといわれていることと関連しています。スピノザの哲学では自然のうちに存在するのはそれ自身のうちにある実体と,実体のうちにある実体の変状としての様態だけですが,存在する実体は神だけなので,自然のうちに存在するものは神であるか,神の変状としての様態だけであるということになっています。スタヴローギンはそれに対して,実際には自然のうちに存在する実体は悪霊だけであって,悪霊以外のものはすべて悪霊の様態である,つまり僕たち人間も,神の様態などではなくて悪霊の様態であるという意味のことをいいたいのだと佐藤は解しているわけです。つまりスピノザの汎神論に対していえば,スタヴローギンは汎悪霊論を主張していると佐藤はみているわけです。
 スピノザの哲学を解釈する立場からみれば,この解釈はまるで成立しません。しかしそれは哲学的観点なのでまた別に考察します。哲学的には成立しませんが,文学評論としては成立するといえるでしょう。一般的には神と悪霊は相対立するものと考えられているのであって,汎神論というものが成立するのであれば,汎悪霊論というのも成立するとはいえるからです。そして人間が神の様態であるのかそれとも悪霊の様態であるのかという問いは,神と悪霊をそのような関係として解する限りでは文学的にも十分にあり得る問いだといえるからです。

 virtusの規準は自分自身にあるわけですが,だからスピノザの哲学においては人間に共通の徳というものがないのかといえば,そういうわけではありません。これは再三にわたっていっていることですが,第四部定理三五にあるように,理性ratioに従っている限りではすべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致するからです。したがって,たとえばAという人間が現実的に存在するとして,Aの徳の規準はA自身ではありますが,その徳の第一にして唯一の基礎であるAのコナトゥスconatusは,たとえばその他の人間であるBが理性に従っている限りでは,Bのコナトゥスに一致するでしょう。このことが現実的に存在するすべての人間に妥当するわけですから,現実的に存在する人間のコナトゥスは,人間が理性に従っている限りでは一致することになり,したがって徳の何たるかも一致することになるのです。第四部定理四系は,こうしたことが現実的に生じるということについては否定しているといわなければなりませんが,少なくとも論理的には,すべての人間にとって共通の徳があるということになります。
 ただし,このことは,主体の排除と関連させていわれると僕は考えます。すなわち,理性に従って事物を認識すれば,だれがそれを認識しても同一の認識cognitioに至るので,だれが認識しているかを問うことは無用であるというのと同じ意味で,人間に共通の徳は,だれが認識しても同じ徳であるからだれが認識しているか問う必要はないという観点から,人間に共通の徳があると結論されるべきだというのが僕の見解opinioです。なぜなら,理性に従うということ自体が徳であるという前提が,スピノザの哲学にはあるからです。これは第四部定義八から明らかであって,この定義Definitioからして,たとえば現実的に存在する人間が受動的な欲望cupiditasに隷属しているならその人間は有徳的であるといえないということになるでしょう。これは第四部定理二三で次のようにいわれています。
 「人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは,有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識〔妥当な認識〕することによって行動するように決定される限りにおいてのみそう言われる」。
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書簡八十二&徳の規準

2024-07-17 19:25:32 | 哲学
 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが最後にスピノザに出した手紙が書簡八十二です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。1676年6月23日付でパリから出されました。この時点ではライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもまだパリにいたのではないかと推定されます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではチルンハウスがライプニッツのために,シュラーGeorg Hermann Schullerに対する紹介状を書いたことになっていて,それはたぶんライプニッツがパリを発つ時点でチルンハウスがパリにいたということを意味していると僕は解します。チルンハウスが所持していた『エチカ』の草稿がステノNicola Stenoの手に渡ったのはローマでのことですから,その後でステノがパリを離れたことは間違いないと思われます。
                                        
 チルンハウスはこの書簡ではひとつの質問をしています。これは,どのようにして延長Extensioの概念conceptusから事物の多様性がアプリオリに証明されるのかというものです。チルンハウスはスピノザがそのことについて何か考えをもっているのだけれども,そのことを証明したことがないので,それを知りたいと思ったのです。ただ前もっていっておけば,スピノザはそのような仕方で事物の多様性が証明され得るというようには考えていません。そう考えていたのはデカルトRené Descartesで,しかしデカルトは,そのことは人間が認識できる事柄を超越しているのだとして,なぜそうなるのかということの証明Demonstratioはしていません。スピノザは,事物の多様性を証明するためにはデカルトのような方法methodusでは不可能であるというように考えていたのであって,この質問に関しては,チルンハウスがデカルトの見解opinioとスピノザの見解を混同しているといえそうです。
 チルンハウスはそれを知りたい理由として,ある事物の本性essentiaからはひとつの特質proprietasだけが導出されるからだとしています。つまりひとつの事物の本性から多様な事物が特質として導かれることはあり得ないとチルンハウスは考えているのです。このことをチルンハウスは数学的な観点から説明しています。ある特定の事物の本性から多数の特質が導出されるということが,たとえばどのようなことであるのかということをチルンハウスは知りたかったということになります。

 國分の検討を順序立てて追っていく前に,今回は僕の方から前もって簡単な結論を示しておきます。スピノザの道徳論の第一の規準となるものは何かといえば,それは自分自身です。このことを僕は次のような論理に訴求します。
 第四部定理二二系で,virtusの第一にして唯一の基礎はコナトゥスconatusであるといわれています。これは一般論としてそういわれていて,後でみるように実際にそう解釈することも可能ですが,一方で一般論として解するのは危険な面を含んでいます。というのも,コナトゥスというのは第三部定理七でいわれているように,各々の事物の現実的本性actualem essentiamを構成するからです。したがって,Aの現実的本性とBの現実的本性が異なる分だけ,AのコナトゥスとBのコナトゥスは異なるといわなければなりません。したがって第四部定理二二系でいわれていることは,Aの徳の第一にして唯一の基礎はAのコナトゥスであり,Bの徳の第一にして唯一の基礎はBのコナトゥスであるというように解しておく方が安全です。AのコナトゥスとBのコナトゥスは異なるので,Aの徳とBの徳もその分だけ異なるということになり,これは結局のところ,現実的に存在する人間の数だけ徳があるということになってしまうのですが,徳の第一にして唯一の基礎がコナトゥスであるといわれている以上,このように解釈しておく方が間違いは起こりにくいでしょう。
 第四部定理二五は,ほかのもののためつまり自分以外のもののためにコナトゥスを発揮することはないといっています。したがって徳の唯一にして第一の基礎であるコナトゥスは,その人のためにのみ発揮されます。すなわちAのコナトゥスはAのためにのみ働くagereコナトゥスであって,BのコナトゥスはBのためにのみ働くコナトゥスです。したがって,Aの徳はAのために働くコナトゥスを第一にして唯一の基礎とするのですから,Aの徳の基礎はA自身であるというのと同じです。このことはBにとっても同様で,現実的に存在するすべての人間に同様であるということになるでしょう。これはつまり,徳の第一にして唯一の基礎は,現実的に存在する人間にとって,その人間自身であるということになるでしょう。
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サマーナイトフェスティバル&目的

2024-07-16 19:29:47 | 競輪
 松戸競輪場で開催された昨晩の第20回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは真杉‐吉田の栃木茨城,北井‐郡司‐松谷の神奈川,脇本‐古性の近畿で新田と山口は単騎。
 古性がスタートを取って脇本の前受け。3番手に真杉,5番手に山口,6番手に北井,最後尾に新田で周回。残り3周のホームの出口から北井が上昇を開始。脇本は突っ張りましたが,ホームに戻って北井が叩いて先行。ただ叩くまでに時間が掛かったので,郡司が古性に阻まれ,単騎の先行に。古性に阻まれた郡司は真杉にも飛ばされてレースから脱落。残り1周のホームに戻ってから脇本が発進。ただ北井との先行争いで脚を使っていたためそれほどスピードが上がらず,このラインの後ろを追走した真杉がバックから捲っていくとあっさり捲り切り,そのまま優勝。古性の牽制を乗り越えたマークの吉田が4分の3車身差の2着に続いて栃木茨城のワンツー。後方からの捲り追い込みになった新田が外から4分の3車輪差で3着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は西武園記念以来の優勝。ビッグは競輪祭以来の3勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。このレースは北井の先行意欲が最も高そうでした。脇本が前受けしたのは,北井が抑えに来たら突っ張るという心積もりがあったからで,実際に激しい先行争いになりました。このために神奈川勢と近畿勢が共倒れのようなレースになり,その争いを虎視眈々とみていた真杉によい展開となったということでしょう。北井はレースのパターンが限られていますから,相手が対応しようとするのはそれほど難しいことではありません。その対応がどのようなものになるかによって,レースの展開は変わり,その変化に応じて結果も変わってくることになるでしょう。各選手がどのようなレースをするつもりであるのかということを読み切ることは,車券を的中させるための重要な要素のひとつですが,その比重が大きくなりつつあるように感じます。

 ここでもう一度,第四部定義七の文言に注目してみましょう。そこでいわれているのは,我々をしてあることをなさしめる目的finisが衝動appetitusであるということです。ところが,実際には衝動いうものが先にあるのであって,目的が先にあるのではありません。つまりこの定理Propositioでいわれているのは,僕たちに何かをする目的というものがあって,それを衝動というという意味ではないのです。そうではなく,僕たちが何かをなすときに,それをなす目的があるというように意識したら,その目的が衝動であるということです。つまり僕たちは衝動を意識するとそれを目的と認識するcognoscereようになるから,もしも目的が意識されるならそれは衝動のことであるといわれているのです。つまりこの衝動の定義Definitioは,國分のいい方に倣うなら,僕たちの意識conscientiaの転倒を利用したような定義であることになります。なので,この意味において目的は元来は衝動であるということになるのですが,衝動は本来的には目的ではありません。単に目的であると意識される,もっといえば目的であると錯覚されているだけなのです。そしてそうした意味がこの定義に中に含まれている限り,この定義は確かに國分が指摘している通り,目的論批判の文脈が含まれているといえるでしょう。ここでいわれている目的というのは,意識化された衝動そのものであって,それが目的という別の概念notioに錯覚されているだけだからです。よって僕たちは何らかの目的があるからそれに向かって衝動を感じるのではありません。それはこの定義の解釈としてははっきり誤謬errorであるといわなければなりません。僕たちはある事物に衝動を感じるから,その事物を自身にとっての目的であると思うようになるのです。
                                   
 この部分の考察はここまでです。また次の課題の探求に移ります。
 やはり第六章において,スピノザの道徳論に類することが説明されています。これは,『はじめてのスピノザ』の中でも語られていた,第四部定理五九の殴打という行為についての考察と重複する部分があるのですが,入門書の『はじめてのスピノザ』よりも当然ながら詳しくまた深く検討されていますから,ここでまたより詳しく探求し直すことにします。
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農林水産大臣賞典マーキュリーカップ&目的の定義

2024-07-15 18:59:34 | 地方競馬
 メイセイオペラ記念の第28回マーキュリーカップ
 先手を奪いにいったのはメイショウフンジンとヒロシクン。メイショウフンジンは行き脚がつかず,ヒロシクンの逃げに。外から上がってきたクラウンプライドが2番手になり3番手にもグランコージー。メイショウフンジンはインの4番手となりました。2馬身差でアラジンバローズ。6番手にパワーブローキング。7番手にロードアヴニール。8番手にケイアイパープル。9番手にギガキング。2馬身差でグローリグローリとテンカハル。2馬身差でスワーヴアラミス。ビヨンドザファザーとフレイムウィングスが最後尾を追走。超ハイペースでした。
 3コーナーからヒロシクンとクラウンプライドで3番手以下を離していき,コーナーの途中でヒロシクンも一杯になりクラウンプライドが単独の先頭に。直線の入口ではリードが3馬身くらいになり,追い上げてきたのはロードアヴニールとテンカハル。2番手の競り合いから抜け出したのは内のロードアヴニールで,そのまま内からクラウンプライドに接近。さらに外からビヨンドザファザーが追い込んできて3頭の優勝争い。きわどく残したクラウンプライドが優勝。最後尾からの追い込みになった外のビヨンドザファザーがハナ差で2着。ロードアヴニールはクビ差の3着。
 優勝したクラウンプライドコリアカップ以来の優勝で重賞3勝目。国内の重賞は初制覇となりました。実績と近況を踏まえると負けられないといっていいくらいのメンバー構成。超ハイペースを2番手で追走し,最終コーナーで先頭に立って追い上げを凌いだという内容は強かったですが,2着馬も3着馬も上昇馬だったことを考えると,斤量差があったとはいえあまり着差をつけられなかったことをむしろ不満に感じます。たぶんもう少し短い距離の方が本質的には適しているのだろうとは思うのですが,今日の内容では大レースに手が届くところまでいくのは難しいかもしれないと思わされました。父は2009年のきさらぎ賞と2010年のマイラーズカップを勝ったリーチザクラウンでその父がスペシャルウィーク。母の父はキングカメハメハ。祖母の父はアグネスタキオン。母の3つ上の半姉が2012年にロジータ記念を勝ったエミーズパラダイスで5つ下の半妹が昨年の福島記念を勝ったホウオウエミーズ
 騎乗した横山武史騎手と管理している新谷功一調教師はマーキュリーカップ初勝利。

 第三部定理九備考では,僕たちは善bonumであるがゆえにそのものに衝動appetitusを有するのではなく,あるものに対して衝動を有するがゆえにそのものを善と判断するといわれています。國分は衝動についてはこのことによって理解し,第四部定義七でいわれているのは,衝動によって善と判断されるものが目的finisとして意識されるということだといっています。僕たちが個々の衝動を感じるのは,何らかの原因causaに依拠するわけですが,それがどのようなものであれ,諸々の原因によって僕たちのうちに何らかの事物を希求する衝動が現れると,そのように希求された事物が自分自身にとって善なる目的として意識されるようになるというのが國分の見解opinioということです。したがって,第四部定義七というのは,衝動についての定義Definitioといわなければならないのですが,國分にとっては衝動の定義というよりは目的の定義なのであって,実際に國分はこの定義のことを,目的の定義であるといっています。
                                   
 第四部定義七をそれ自体で目的の定義であるということには無理があると僕は考えます。解するintelligereというのはスピノザによる事物の定義の仕方のひとつなのであって,これはXであるところのものをYというという命題がYについての定義であるといわれるのと同じ意味で,XをYと解するというのはYの定義であると僕は考えるからです。スピノザが書簡九でいっているところによれば,十分に理解することができればよい定義といわれる意味で,事物のよい定義ということになるでしょう。そしてこの定義で解するといわれているのは衝動なのですから,この定義は衝動の定義というほかないと僕は考えます。
 ただしこの定義が,スピノザが目的という場合の,僕たちにとっての目的というものがいかに発生するのかということを示しているということについては,僕は同意します。そして事物の発生を含むということは事物がよい定義であるための条件のひとつを構成するのですから,その意味でこの定義を目的の定義,とりわけ僕たちの知性intellectusのうちに目的という概念notioがいかにして発生するのかということを意味で目的の定義であるということが,絶対にできないというようには僕は考えません。
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印象的な将棋⑲-11&第一部定理三三備考二

2024-07-14 19:19:25 | 将棋
 ⑲-10の第1図の☗3一角は,40分の考慮で指された手です。そこから☗5四金まではおそらく先手の読み筋通りの進行。その後の後手の攻め方は絶対とはいえません。おそらく絶対手の☗8八同金に最後の1分を使っていますので,第2図は想定のひとつではあったかもしれませんが,本命ではなかったのではないかと推測します。
 まず考えなければならないのは,第2図で後手玉が詰むか否かということ。詰ましにいくなら☗5三金です。
                                        
 ☖同飛☗同角成☖同王☗5二飛☖4三王☗4四銀☖同王☗4二飛成と進めます。
 この局面で合駒を打つと後手玉は詰みます。なので後手は☖4三銀と引くのが最善。
 先手にはふたつの手段がありますが,☗4五銀と取るのは☖同王☗4三龍☖4四金でこれは明らかに詰みません。なので☗3五銀打とします。これには☖5四王☗5五銀☖同王☗5三龍まで必然の手順。
 これで絶体絶命に思えるのですが,☖5四角という合駒があります。☗4四銀☖5六王で第2図。
                                        
 ☗5七歩は打ち歩詰めですから打てません。しかし角を取っても5七に打つのは王手になりません。つまりこれで後手玉は詰みを逃れています。よって⑱-10の第2図の後手玉に即詰みはありません。

 Deusを善bonumという目的finisに従属させてしまうことを,スピノザは第一部定理三三備考二の中で次のようにいっています。
 「これはまったく神を運命に従属させるのにほかならぬのであって,我々が示したように万物の本質ならびに存在の第一にして唯一の自由原因たる神についてこれ以上不条理な主張はあり得ない」。
 このいい方から,神が自由意志voluntas liberaによって働くagereという主張が,神が善意によってすべてのことをなすという主張ほど間違っていないとスピノザがいう理由が分かるでしょう。神が自由意志によって働くのであれば,神は唯一の自由原因causa liberaではあり得るでしょうし,万物の本性essentiaならびに存在existentiaの原因でもあり得るでしょう。しかし神が善意によってすべてのことをなすというのであれば,神は善である事柄の原因ではあり得ても悪malumである事柄の原因ではあり得ないというか,そうでなければ全体的に最善であるものだけを選択し,それ以外は選択し得ないといわなければならないかのどちらかであって,どちらの場合も神が自由原因であるということはできなくなってしまうからです。
 このように,スピノザは『エチカ』の中で,目的というのを概念conceptusとして神のうちから排除しようとしています。そしてこの神は自然Naturaと変わらないものなのですから,それは自然のうちから目的の概念を排除しようとしているというのと同じことです。いい換えれば目的なるものは自然のうちに存在するのではなくて,僕たちが思惟の様態cogitandi modiとして,しかも混乱した観念idea inadaequataとして作出するものであるとスピノザはいっているのです。
 このことを踏まえて第四部定義七をみてみると,そこでは衝動appetitusを定義するにあたって,目的という語が使用されています。なぜここで衝動を定義するにあたって,それを我々をしてあることをなさしめる目的というようにスピノザはいっているのかということを,『スピノザー読む人の肖像』の中で國分が検討しているのです。そしてこれを國分は,ここまで説明してきたスピノザによる目的論批判の観点から説明しています。これが僕には斬新な視点でした。この定義の中にも目的論に対する批判が含まれているというようには,僕は考えたことがなかったからです。
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続・谷津の雑感⑥&目的論の排除

2024-07-13 19:03:53 | NOAH
 続・谷津の雑感⑤の最後でいった馳浩のエピソードというのは次のようなものです。
 あるとき,ジャパンプロレスの主催興行が佐賀でありました。そのときに馳のウェルカムパーティーが催されました。馳は,酒が入っていたこともあり,本当はプロレス界に入ってくるつもりはなかったと言ったそうです。これはプロレス界が馳には低能の社会にみえたからのようです。もともとは馳は高校の教師だったこともあり,プロレスラーが思っていたよりも低能だったために,そのような社会に入ってくるつもりではなかったという意味の発言でした。馳は実際にそのように口に出したので,それを聞いていたある先輩レスラーから怒られたと谷津は言っています。谷津は見ていただけのようですが,いくら酔った上でのこととはいえ,そんなことを先輩に聞こえるように口に出すので,大丈夫かなと思ったそうです。
 馳は実際に高校で教師をしていました。当然ながらそれは大学を卒業したということを意味します。また学生時代にはアマレスでオリンピックにも出場しています。ですから新弟子としてプロレス界に入った選手たちとは,かなり異なった考え方をもっていたというのは事実だと推測されます。ただし,アマレスに関する谷津の馳に対する評価はかなり低いです。オリンピックにも出た選手なのでどれくらい強いのかと思って実際にやってみたことがあるそうなので,これは体験として谷津にはそう感じられたのでしょう。アマレスを経てプロレスラーになった選手の中で,アマレスが最も強かったのは谷津であるという主旨の,アマレス界の重鎮のことばがありますから,プロレスラーの中でのアマレスの強さでは谷津は傑出していたかもしれません。ただかつて谷津は谷津の雑感④でいったように,三沢光晴川田利明を指導したことがあり,その頃はスパーリングもできないほどふたりとも小さかったと言ってはいますが,弱かったとは発言していません。もちろん三沢も川田もオリンピックに出るような選手ではありませんでしたから,強さに対する事前の思い込みは馳に対するものの方が大きかったのは間違いないと思いますが,それでも谷津からみると拍子抜けするほどのものだったようです。馳はグレコローマンの重量級でオリンピックに出場していますが,他にいい選手がいなかったから馳が出場することができたのだろうというのが,実際に馳と戦ってみての谷津の結論です。

 スピノザがいうDeusの本性の必然性とは,第一部公理三でいわれていることにほかなりません。すなわち,一定の原因causaが与えられるならそこから必然的にnecessario何らかの結果effectusが生じなければならず,一切の原因が与えられないのであれば結果が生じることはないということです。よって第一部定理一六でいわれていることは,神という原因が与えられれば,無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものが結果として生じるという意味です。そして神の本性の必然性necessitate divinae naturaeとして含まれているのはこのことだけであって,ほかに何かが含まれていることはありません。
                                   
 このことは,スピノザが目的論を排除することと関係します。神の本性の必然性には因果律だけが含まれているのであって,目的finisは含まれていないからです。このことは,自然Naturaを神と変わらないものとして考える,あるいは同じことですが神の本性の必然性を自然法則と同じものとして考えるスピノザの立場からは,当然の帰結といえます。第一部付録でいわれているように,自然が何かの目的を立てるということはあり得ません。同様に,自然法則が何かの目的を達成するために組まれる法則であることもあり得ないからです。そしてこのことが神にも適用されるのですから,神が何かの目的を立てて働くagereということもあり得ないのです。
 スピノザのこの考え方は,第一部定理三三備考二でいわれていることからより明瞭に理解することができます。そこではスピノザは,神が自由意志voluntas liberaによって働くというのは誤りerrorであるけれど,神が善意によって働くというほどには誤っていないという意味のことをいっています。何度もいっているように,これは哲学史の中では,デカルトRené DescartesはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizほどには誤っていないということですが,このことは今は考慮しなくて構いません。現在の考察との関連で重要なのは,なぜデカルトはライプニッツほどには誤っていないといえるのかという点です。それは,デカルトの場合は神は自由意志によって何事をもなすので何か目的が含まれているわけではないけれども,ライプニッツの場合は神が善bonumという目的のために働くということになってしまい,神を善という目的に従属させてしまうからなのです。
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大成建設杯清麗戦&第四部定義七

2024-07-12 19:03:01 | 将棋
 10日に虎ノ門で指された第6期清麗戦五番勝負第一局。対戦成績は福間香奈清麗が44勝,加藤桃子女流四段が13勝。
 大成建設の執行役員による振駒で福間清麗が先手となり5筋位取り中飛車。後手の加藤女流四段が超速銀を採用して6筋で銀が向かい合う形に進みました。終盤で先手に大きな誤算があったため,後手が優位に立って最終盤に。
                                        
 これは☗3二銀までの一手詰めを狙っていますから対応しなければなりません。☖同桂と取りましたが☖同金も有力で,その方がよかったかもしれません。
 後手が桂馬で取ったのは開いた地点に☗2一飛と打たれても大丈夫とみたからのようです。ところが先手は☗2二銀と打ちました。これが後手の読み筋にはなかったようです。
 この手自体は詰めろになっていないので☖4九角成としましたが,これが危険な一手。☖3一金と受けておくべきでした。
 先手は☗2一飛の王手。これに対して☖3一香と受けましたがこれが最終的な敗着とのこと。
                                        
 第2図で手の余裕を得た先手が☗4九銀と馬を取り,これが詰めろとなって逆転しました。
 第2図の☖3一香では☖3一金と打つべきだったとのこと。これは飛車取りになっていますのですぐに馬を取るわけにはいかず,☗同銀成☖同銀☗5一成桂☖4二玉と進みます。そこで☗4九銀と馬を取ることになりますが,その局面は先手玉が詰みなので後手の勝ちです。ただこの手順が難しいということであれば,☖4九角成が実質的な敗着で,先に☖3一金と受けておくべきだったということになるでしょう。
 福間清麗が先勝。第二局は24日に指される予定です。

 良心conscientiaと意識conscientiaに関する考察はこれだけです。次の探求に移ります。
 同じ第六章の中で,國分は第四部定義七に言及しています。これは次の定義Definitioです。
 「我々をしてあることをなさしめる目的なるものを私は衝動と解する」。
 この定義は,ある事柄を衝動appetitusと解するintelligereといわれていることから分かる通り,衝動に関する定義です。ところが國分は,この定義に別の解釈を施しています。これが僕にとっては大いに頷ける解釈でした。ただここではすぐ國分の解釈に入るのではなく,前もって僕の方から前提となることを詳しく説明していきます。それを説明しないと僕が國分の解釈になぜ頷いたかということが理解されなくなってしまうからです。
 『エチカ』では,第一部定理一六にある通り,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で生じることになっています。したがって,自然Naturaのうちに存在するあらゆるもの,ここでいうものというのは物体corpusだけでなく思惟の様態cogitandi modiも含むのですが,そうしたものが無限に多くのものの一つひとつを構成するのですから,どのような物体もどのような思惟の様態も,神を直接的な原因causaとして生じるといわれなければなりません。これは具体的には第一部定理二八第二部定理九で示されていることです。
 このとき,神の本性の必然性というのは,僕たちが自然法則といっている事柄と同じです。というか,自然法則というのはもしも物体の世界だけに適用されるのであれば,神の本性の必然性は自然法則よりも広くわたるということになるのですが,スピノザがいわんとすることを正しく理解しようとするなら,神の本性の必然性と自然法則は同じことを意味し,自然法則は僕たちの精神mensの世界にも適用されると解する方が安全です。だから第四部序言ではスピノザは神と自然を等置しているのですし,第三部序言では自然の働く力agendi potentiaは至るところで同一であるといういい方をすることで,それが物体的自然に適用されるわけではなく,知性的世界,あるいは同じことですが思惟の世界にも適用されなければならないということをいっているのです。
 では神の本性の必然性とは,具体的には何を意味するのでしょうか。
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サンケイスポーツ盃優駿スプリント&宗教心と良心

2024-07-11 19:05:32 | 地方競馬
 昨晩の第14回優駿スプリント。トーセンヴィオラは町田騎手から藤本騎手に変更。張田昂騎手は手足口病を罹患したためスマイルナウは内田博幸騎手に変更。
 好発はポッドレオでしたが,内から3頭が追い掛けていき,オーソレリカ,モントーク,ティントレット,ポッドレオの4頭で先行。5番手にミモレフレイバー,6番手にギガース,7番手にエドノフェニックス。8番手はタケシとカヌレフレイバーとザイデルバスト。11番手にトーセンヴィオラとスマイルナウ。3馬身差でヘリアンフォラとビッグショータイムとパペッティア。最後尾にチャダルクンという隊列。前半の600mは34秒9のハイペース。
 3コーナーではオーソレリカとモントークとティントレットの3頭の併走となり,4番手にはエドノフェニックスが進出。カヌレフレイバーとポッドレオが並んで5番手。直線の入口では前の3頭からティントレットが前に出て先頭。そのまま抜け出して後ろも寄せ付けずに圧勝。大外から追い込んできたギガースが2馬身半差で2着。前の4頭を追っていたカヌレフレイバーが1馬身半差で3着。
 優勝したティントレットは南関東重賞初制覇。昨年5月に北海道でデビュー。シーズン一杯を北海道で走り,休む間もなく南関東に転入。今春はクラシックを走りました。北海道でのデビューから一貫して1700m以上を走っていた馬で,1200mに対応できるかどうかが心配だったのですが,結果をみるとむしろスプリントの適性が高かったようです。タイムも優秀なので,この距離であれば古馬が相手でもすぐに通用しそうです。父がホッコータルマエで母の父がゼンノロブロイ。母は2011年に東京プリンセス賞を勝ったマニエリスム。Tintorettoはイタリアの画家。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手はフジノウェーブ記念以来の南関東重賞39勝目。第6回以来8年ぶりの優駿スプリント2勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は南関東重賞27勝目。第13回に続く連覇で優駿スプリント2勝目。

 第四部定理三七備考一を,Deusを認識するcognoscere限りにおける我々から起こる欲望cupiditasを良心conscientiaに関係させ,その欲望から生じる行動を良心的行動に関係させると訳すのは,ひとつの方法であると僕は思います。少なくともここでいわれている宗教心religioは,僕たちが使用している語でいえば宗教心よりも良心に近いですから,この部分だけでいえば,このように訳すことは適切であると思われるからです。
                                   
 しかしこの訳し方は木を見て森を見ずとでもいうべき訳であるといわなければなりません。スピノザが良心を意識conscientiaと関連させないで考えていたとは思われないからです。第二部公理三からして,スピノザは感情affectusを伴わない観念idea,とりわけ喜びlaetitiaへの方向性も悲しみtristitiaへの方向性も伴わない観念があるということを認めていたと思われるので,それを強く自覚していたかどうかは別として,意識を観念の観念idea ideaeとみる限り,意識は良心よりも広くわたるということには気付いていたと僕は解します。いい換えれば意識という概念notioと良心という概念を分けなければならないということには気付いていたと思います。それでも,良心を意識とは別の思惟の様態cogitandi modi,意識された喜びおよび意識された悲しみと関連付けずに理解していたということはあり得ないと思います。したがって,『エチカ』の中では良心について積極的に言及している部分は存在しませんが,もしも良心という概念を『エチカ』の中に発見しようとするならば,國分もそうしているように第四部定理八をまずは参照しなければならないと思います。なのでそのような意識化された喜びおよび意識化された悲しみというのを,神を認識する限りにおいて僕たちから生じる欲望と同列に論じることはできません。なので,宗教心と訳されているその語を,良心と意訳することは,たとえその方が僕たちが使用している語のニュアンスには近いのだとしても,不適切であるということになるのです。
 ですから,第四部定理三七備考一でいわれている事柄については,僕はこれからも宗教心と直訳することにします。ただ,この宗教心は僕たちが宗教心とか信心という語に与えているニュアンスとは異なるという点に,いつでも留意する必要があります。
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夏目漱石『こころ』をどう読むか&中立的な良心

2024-07-10 19:03:16 | 歌・小説
 先月のことになりますが『夏目漱石『こころ』をどう読むか』という本を読み終えました。2014年5月に河出書房新社から発売された本が,2022年12月に増補版として出版され,僕が読んだのはその増補版の初版です。増補版には2本のエッセーと1本の評論,そして三者対談がひとつ,新しく収録されています。
                                        
 新しく収録されたものから分かるように,この本は多くのエッセーおよび評論から構成されています。編者は石原千秋です。もちろん本の題名から理解できるように,すべての評論とエッセー,そして対談はすべて『こころ』と関係しています。ただし関連の度合はきわめて高いものあればそうでないものも含まれます。評論はともかくエッセーの方はその割合が高く,『こころ』について語られているけれども,その主題は必ずしも『こころ』にあるわけではないというものも含まれています。
 三者対談も含めた対談が4本。エッセーは10本。評論は8本。このほかに柄谷行人および吉本隆明の講演が2本。これ以外に冒頭と末尾に編者である石原の文章が掲載されています。これだけのものを1冊の本に収録したわけですから,評論もそれほど長いものが含まれているわけではありません。
 なお,評論の中には,すでに僕が読んでいたものもあります。石原千秋の「眼差しとしての他者」は初出は「東横国文学」ですが,『反転する漱石』の中に収録されています。また小森陽一の「『こころ』を生成する心臓」は,初出が「成城国文学」で,ちくま文庫版の『こころ』の解説として掲載されています。
 エッセーの中にも評論の中にも,僕にとって興味深いものが多く含まれていました。それらについては徐々に紹介していくことにします。

 このことからスピノザが何を主張しているのかといえば,意識conscientiaが良心conscientiaを参照して自身の行動を決定するdeterminareというわけではないということです。あるいは同じことですが,僕たちをして善bonumにも悪malumにも舵を取らせることができる中立的な意識があるわけではないということです。むしろこの場合の意識は,僕たちの感情affectusを参照する限り,常に善か悪かの認識cognitioに至っているのです。ですからその感情の対象を善と認識するcognoscereか悪と認識するのかということは,僕たちが自身の感情を参照したときにはすでに決定されているのです。
 國分はこの部分では触れていませんが,このことは人間には自由意志voluntas liberaがないということと関連しているといえます。僕たちが善の方向にも悪の方向にも舵を取ることができないということは,僕たちは僕たち自身の自由意志によって善を選択したり悪を選択したりすることはできないということと同じだからです。ただここでは良心と意識の関係でこのことがいわれているのですから,そのことに注視する必要はありません。中立的な良心というものがないということが重要です。むしろ語源的な観点から,良心と意識が同じものであるとするならば,良心によって何事かを善であるとか悪であるというように判断するのではなくて,良心が悲しみを齎すなら僕たちはそのことを悪と判断し,逆に良心が喜びを齎すなら僕たちはそのことを善と判断するだけなのです。
 國分はこの後で,意識と良心の関係についての考察を続けていますが,そのことはすでに探求してありますからここでは省略します。ただ僕はここでひとつだけいっておきたいことがあります。それは,第四部定理三七備考一との関係です。かつて僕は,そこでいわれている宗教心religioというのが,僕たちが宗教心とか信心といった語で表そうとすることとはかなり隔たりがあるのであり,だからそこで畠中が,神を認識する限りにおいてすべての欲望cupiditasと行動を宗教心と関係させるとは訳さずに,宗教心に帰すると訳したのは適切だったといいました。ただ本来であれば,宗教心に変わる適切な日本語があるのなら,宗教心に変えてそちらの訳語を用いる方がなお適切であるだろうと僕は考えているのです。
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書簡七十五&中立的な意識

2024-07-09 19:30:28 | 哲学
 ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizがオルデンブルクHeinrich Ordenburgから見せてもらった書簡として,書簡七十三のほかにあげられているのが書簡七十五です。
                                        
 これは書簡七十四への返信。1675年12月となっていますが,書簡七十四が1675年12月16日付となっていますから,その書簡がスピノザの手許に届くまでの期間を考慮すれば,1675年もかなり押し詰まった時期に書かれたものと思われます。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。この書簡はライプニッツが筆写したものが現在も残されていますので,ライプニッツがオルデンブルクから見せてもらったことは確定できます。
 まずスピノザがいっているのは,すべてが神Deusの本性naturaの必然性necessitasから生じるということは,神を運命に従属させることとは異なるということです。
 次に,あらゆることが神の本性の必然性から発生するとしても,神の法や人間の法を廃棄する,いい換えれば無意味に帰することにはならないということです。これは善悪と関連しているのであって,すべてが必然的にnecessario生じるとしても,善bonumや悪malumはなくならないという意味です。
 書簡七十三において奇蹟miraculumと無知を同意語とみなしたのは,神や宗教religioを奇蹟の下に築こうとする宗教家は,自身に不明瞭な事柄をさらに不明瞭な事柄で説明しようとしているにすぎないからです。これはすべてを自身の無知に帰するという意味で帰無知法というべき方法論であって,この方法論を採用すること自体がその宗教家の無知の証明Demonstratioだとスピノザはいっています。
 キリストが死者たちの間から復活したというのは,精神的なものであり,信者の把握力に応じて示されました。要するにこれは寓話で,知的能力が低い信者がキリストを信仰することを目指して物語られたとスピノザはいっています。これは書簡七十八に続いていくことになります。
 最後に,オルデンブルクがスピノザの主張に矛盾を感じるのは,東方言語の表現をヨーロッパ話法の尺度で解そうとするからだという指摘があります。これは聖書の文章を研究する際にはだれにでも適用できそうな興味深い指摘だといえそうです。

 良心の呵責conscientiae morsusを感情affectusとしてみたとき,基本感情affectus primariiのうちのどれに該当するかといえば,悲しみtristitiaであるということはいうまでもないでしょう。僕たちがいう良心の呵責は,僕たちがなした事柄に対して発生する感情ですから,ここでは良心の呵責を,自分がなした事柄の観念ideaを伴った悲しみと規定しておきます。
 第四部定理八がいっているのは,僕たちのmalumの認識cognitioは,意識化された悲しみであるということです。したがって僕たちは,悪である事柄をなしたから良心の呵責を意識するのではありません。むしろ良心の呵責を意識するがゆえに,自分がなしたことを悪と認識するcognoscereのです。悪の認識が前もってあるがゆえにそれに良心の呵責を感じるというように思っているかもしれませんが,それは思い込み,あるいは同じことですが錯覚なのであって,良心の呵責を意識することによって,自分のなしたことを悪であると認識するのです。
 基本感情は喜びlaetitiaと悲しみ,そして欲望cupiditasの三種類に分類されるのですが,欲望というのは第三部諸感情の定義一にあるように,僕たちの現実的本性actualis essentiaを構成します。僕たちの現実的本性は喜びを希求し悲しみを忌避するのですから,欲望というのは喜びを希求する欲望と悲しみを忌避する欲望の二種類に大別することができます。よってあらゆる感情は,喜びというベクトルをもつか,悲しみというベクトルをもつかのどちらかであるということができます。しかるに僕たちは喜びを意識するならそれを善と認識し,悲しみを意識するならそれを悪と認識するのです。このことから理解できるように,僕たちは自身に生じる感情を意識するなら,その途端にそれを善と認識するか,そうでないならそれを悪と認識するのです。前もっていっておいたように,僕たちが意識するのは感情だけではないのですが,少なくとも僕たちの感情を意識する限り,僕たちはすでに善と悪の判断を下してしまっているのですから,善悪の判断にその感情の意識とは別の,いわば中立的な意識が介在する余地はありません。このことからも,中立的な良心が前もってあって.その良心が善なり悪なりを判断するということが,僕たちの錯覚にすぎないことが理解できるでしょう。
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伊藤園お~いお茶杯王位戦&良心

2024-07-08 19:08:26 | 将棋
 6日と7日に徳川園で指された第65期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王位が20勝,渡辺明九段が4勝。
 振駒で藤井王位が先手となり,力戦相居飛車。先手が右四間飛車にして仕掛けを窺いましたが,仕掛けることができず,7日の午後に千日手が成立しました。時間で優位に立った上で後手番で千日手に持ち込みましたので,この将棋は後手の渡辺九段がうまくやったものと思います。
 指し直し局は渡辺九段の先手で相掛り。終盤に入って局面は先手がリードしました。
                                        
 最初のポイントが第1図。後手は☖6一歩と打つ予定でした。これは☗同角成なら先手玉が詰みという読みだったのですが,☖3七銀☗1七玉でぎりぎりですが逃れていることを発見。1分将棋まで考え,王手の連続から受けて,8三の角と9二の龍を抜く手順に進めました。
 終局後の先手の第一声は,ここで☖6一歩なら負けだったのではないかというものだったので,先手も☖6一歩☗同玉は自分の玉が詰みと判断していたと思われます。指されれば詰まないことに気付いたかもしれませんが,☖6一歩には☗同角成とはできなかったかもしれません。なのでそのまま後手が勝ったという可能性もあり,どのように勝負のあやを求めるのかというのは難しいところがあります。
 実戦は9二の龍を抜かれたところで先手の手番となり,後手玉を詰ましにいくことに。
                                        
 ここで☗4一同龍と取ってしまい,☖同金は☗2二銀で簡単な詰み。☖同王も5二で清算して☗6四桂と打てば詰みでした。しかし☗3二銀と打って詰ましにいったために逆転。第2図は実戦の☗3二銀や☗2二銀から詰ましにいくことを考えそうですが,どちらも詰まず,詰む手順が☗同龍だけだったことが逆転を呼んだといえそうです。この後,正確には後手に一失あったのですが,それは先手が9二の馬を抜いて受けに回った後,☗3一角と打てるかどうかの差となる手で,先手は後手玉を詰ましにいっているわけですから,この将棋の勝負には大きく影響しませんでした。
 藤井王位が先勝。第二局は渡辺九段の先手で17日と18日に指される予定です。

 現実的に存在する諸個人が認識するcognoscere善bonumと悪malumが,それを認識する人間の良心conscientiaと関係するということについてはとくに説明する必要はないでしょう。このために,良心と意識conscientiaについて前に考察したときには,『エチカ』の中でそれと最も関連する定理Propositioとして僕は第四部定理八をあげておいたのです。
 善と悪の認識cognitioが一般に良心といわれるのであれば,意識と良心は同じではないかと國分はいっていますが,僕はこの点については同意しません。この定理は意識と良心を関連付けているのは間違いありませんが,もしこの定理が意識と良心が同じであるということをいっているとすれば,一般的に意識されるのは喜びlaetitiaか悲しみtristitiaだけであってそれ以外のものではないといわなければならないでしょう。しかしそれをいうのは無理があるのであって,僕たちは喜びでも悲しみでもない事柄を意識します。このことは経験的に明らかだといわなければならないのではないでしょうか。ですからこの定理が意識と良心の関係について何かをいっているとすれば,良心は意識にほかならないけれど,意識は良心とは限らないということです。つまり意識というのは良心よりも広くわたる思惟の様態cogitandi modiであって,良心はその意識という思惟の様態の一部であるということになると思います。もっともこれは,この定理の文言の解釈はそうでなければならないということであって,実際にスピノザがそのように考えていたということを僕がいいたいというわけではありません。
 良心がどのように形成されるのかといえば,幼い頃から培われてきた善と悪についての認識だということになるでしょう。たとえばそうして培われてきた悪に属することを僕たちがなしたとき,良心の呵責conscientiae morsusが生じるとか良心が咎めるといういい方を僕たちはするのであって,そのような良心の働きactioによって僕たちはある種の苦しみを感じることになるのです。なお,ここで良心の呵責といっているのは僕たちが通常そのようにいうということであって,第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusのことではありません。
 ところが第四部定理八は,良心をこのようなものとして理解することを否定しています。それは錯覚だといっているのです。
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阿波おどり杯争覇戦&感情の意識

2024-07-07 19:09:14 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは新田‐佐藤の福島,犬伏‐小倉の徳島,嘉永‐山田‐山口の九州で深谷と清水は単騎。
 深谷がスタートを取って前受け。2番手に新田,4番手に犬伏,6番手に嘉永,最後尾に清水で周回。残り3周のバックから嘉永が上昇。コーナーでは犬伏に蓋をしましたが,ホームに戻って再上昇。深谷を叩きました。山口の後ろで深谷と清水が併走。車間が開いて新田。また車間が開いて犬伏という隊列になって打鐘。ここから深谷は内を進出。山口の位置を奪いにいきました。バックに入って新田が発進。この勢いがよかったのですが,最終コーナーで山田が大きく牽制。外に浮いた新田は失速。後方からの捲り追い込みになった犬伏は新田のさらに外を回らなければならなくなりましたが,直線で大外から豪快に差し切って優勝。新田は浮いてしまいましたが山田の内から差し込んだ佐藤が1車身半差で2着。犬伏マークの小倉が山田の外から追い込んで8分の1車輪差で3着。山田は4分の1車輪差の4着。
 優勝した徳島の犬伏湧也選手は1月に久留米のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は昨年3月の大垣記念以来の優勝で2勝目。このレースは脚力上位の深谷と清水が単騎になりましたので,展開が重要でした。深谷はわざわざ山口に競っていく必要はなかったと思いますが,いかないと清水と競りになる可能性があったために,そうなったのでしょう。清水はその後ろになったので悪くありませんでしたが,新田が仕掛けてきたことでスパートのタイミングを逸しました。新田にとって最もよい展開だったのですが,山田に審議となるほどの牽制されては失速も致し方ありません。そのさらに外を回らされることにはなったものの,勢いは削がれずに済んだ後方の犬伏に順番が回ってきたという印象のレースです。

 この部分の國分の指摘は有益であることは間違いないのですが,僕自身はそれに全面的に賛同しているわけではありません。この関係から僕自身の考察が錯綜してしまった感はありますが,僕がいっておきたかったことはすべていうことができました。そちらを主眼に置いたために,國分の議論の展開については端折ってしまった面がありますので,そちらの方に興味があるのであれば,ぜひ『スピノザー読む人の肖像』の該当部分をお読みになってください。これでこの部分の考察は終了して,次の部分に移ることにします。
                                        
 第六章で,第四部定理八が探求されているのですが,そこで良心conscientiaと意識conscientiaの関係が説明されています。これは今回の考察の中ですでにみておいたところではありますが,ここでは別の観点から改めて探求します。
 第四部定理八が意味しているところは広大で,そこには思想史的な背景が含まれていると國分はいっています。そこでまず,この定理Propositioに関して最低限のことを確認しておきます。
 感情affectusは何度もいっているように,スピノザの哲学では特徴的な意味をもつ語句で,身体corpusのある状態と,その状態の観念ideaの両方を意味します。つまり感情というのは,身体のある運動motusであると同時に,その精神mensのある思惟作用の両方を意味することになります。この定理ではその感情が意識されるといわれていますが,僕は意識というのを観念の観念idea ideaeと解しますので,その路線でここも解釈します。したがってある感情が意識されるというのを,ある感情の観念の観念がその感情を有する人間の精神mens humanaのうちに発生するという意味に解します。これは感情というのを,延長の様態modiとみた場合にも思惟の様態cogitandi modiとみた場合にも成立すると僕は考えますが,身体のある状態の観念の観念と解するのが,ここでスピノザがいっていることが何を意味しているのかを正しく理解するという観点からは分かりやすいと思います。要するに現実的に存在するある人間の身体が喜びlaetitiaなり悲しみtristitiaなりを感じているときはその人間の精神も喜びや悲しみを感じているのであり,その状態の観念が同じ人間の精神のうちにあるとき,その人間は自身の悲しみや喜びを意識するといわれるのです。
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印象的な将棋⑲-10&乖離

2024-07-06 19:18:32 | ポカと妙手etc
 ⑲-9の第1図で先手の予定は☗6四角だったのですが,読みを入れてみると後手玉が寄らず,負けになるということを理解しました。そこで予定を変更して別の手を指しました。それが40分の考慮で指された☗3一角です。
                                        
 この時点で残り時間は先手が4分で後手が3分。ここから最善の手順が続きます。長いので今回は実戦の手順だけを追います。
 飛車取りなのでこれは☖5三歩と受ける一手。
 ☗4四金と☗6四金のふたつの手が有力ですが☗6四金は☖4六歩☗5三金☖6一王☗2二角成と進むのですが,これは後手が受け切れます。なので☗4四金。
 同じようですがこれは後で☗6四桂と打つことができますので,☖4六歩は後手の負け。なので☖7三飛と引いて5三の地点を受けました。
 これにも先手は☗6四桂。5三の地点を受けておかなければならないので☖6二王はこの一手。先手は☗5四金と銀を取りました。
 ここで後手は反撃に出ます。☖8九飛の王手。合駒するほかないのですが,銀を打ってしまうと後手玉が寄らないので☖4六歩で先手の負けです。なのでここも☗7九桂の一手。
 後手が☖7七歩成と成り捨てるのはタイミングで,もし☗2二角成の後だと☗同馬の余地を与えてしまいます。
 ☗同金は☖8八銀がありますから☗同歩もこの一手。そこで後手は1分将棋なるまで考え,☖8八銀と打っていきました。
 先手もここで1分将棋まで考えます。とはいえ詰めろなのですから指す手は☗8八同金しかありません。後手の☖同飛成もこれ以外にないところ。
                                        
 第2図がこの将棋のクライマックスとなりました。

 理性的に結論付けられる政治理論と,現実的に存在する人間が行う政治的実践の間には乖離があります。國分がいう社会契約の弁証法的展開が,その乖離を埋めることに役立っていることも僕は認めます。具体化は,現に契約pactumが履行されている場合に社会契約が成立しているとみなすのですが,それは逆にいえば,社会契約が履行されなくなったらその社会契約は消滅したという意味です。したがってそこでいわれる社会契約は,絶対的なもの,國分のいい方に倣えば神話的なものではないのであって,履行されたり履行されなかったりすることで,締結と解除を繰り返していくものです。これは政治を実践していくにあたっては根幹をなすべき事柄であって,社会societasがあるいは国家Imperiumが市民Civesに対して絶対的な権限を有することを否定するnegareことに役立つでしょう。
 一方,二重化は,社会契約と別の価値の内面化を個人に託すものですが,その別の価値,たとえば神Deusとの契約を内面化することによって,諸個人は社会に有益な道義心pietasをもつことになります。ここでいう道義心とは,敬虔pietasのことです。すなわちそれはある思想信条を意味するのではなく,その思想信条から発生する行為行動を意味します。この契約によって諸個人は,自然権jus naturaeを全面的に行使することを受動的に抑制することになるのですから,その結果effectusはその諸個人が理性ratioに従っているのと同じことになるでしょう。よって社会はそれにより,諸個人が社会契約を履行している状態になることになるのであって,政治的実践が政治理論に合致していくことになります。
 ただこれはあくまでも,理論と実践との間にある乖離を埋めるのに役立っているということであって,社会契約を概念notioとして用いる政治理論そのものに限界があるというのが僕の考えです。つまり,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においても,スピノザは理論と実践との間にある乖離を埋めることを目指していて,それは成功していると思うのですが,そもそもこの政治理論には無理があるのであって,その無理を埋めるためにスピノザは苦労していると僕はみます。人間が常に理性に従うわけではないということを前提に,政治理論も組み立てられるべきだと僕は考えます。
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天龍の雑感⑳&理論と現実

2024-07-05 19:18:31 | NOAH
 天龍の雑感⑲として,馬場の指導についての補足をしましたが,ジャンボ・鶴田は身体が大きい選手でしたから,身体が大きな選手としての指導を馬場から受けていたのは間違いないものと思います。そうした指導のひとつとして天龍があげているのが,大技を無闇に使うなというもので,鶴田はそれを実践していたのだと天龍はいっています。それは鶴田にとっては損だったのではないかというのが天龍の見方であって,少なくとも一面の真理をついているのではないでしょうか。鶴田の人気が最も高まったのは,天龍が全日本プロレスを離脱した後,三沢光晴と戦うようになってからのことですが,三沢は身体が大きい選手ではありませんでしたから,沸点が高い状態が続くプロレスで鶴田に対抗するほかありませんでした。このときは鶴田もそれに合わせるような試合をするようになり,それが鶴田の人気を上昇させたという一面があったと思います。したがって,たとえば鶴田がもっと早い段階,たとえば長州力と戦っている頃にそのような試合をしていれば,その時点で鶴田の人気も上昇した可能性もあったのではないかと思います。
 天龍は逆に,鶴田が,あるいは不沈艦の名前も出していますが,必殺技を最後まで出さないスタイルの試合はファンには飽きられてしまうのではないかと思ったので,ゴングが鳴ったらすぐにスパートし,必殺技も出し惜しみしないようなプロレスを心掛けたそうです。ハンセンも確かにゴングと共にスパートをかけるタイプではあったのですが,必殺技のウエスタンラリアットを頻発するような試合は好まず,それを出したら必ず勝負が決着するという場面でしか使いませんでした。それが,鶴田のバックドロップの出し方とよく似ているように天龍には感じられたので,ふたりのスタイルを同列に語っているわけです。ただ逆にいえばそれは,そういう必殺技をもっている選手の宿命のようなものであって,たとえばハンセンがラリアットを頻発することによってより大きなファンからの支持を得られたのかといえば,僕には疑問が残ります。

 第三部定理六で自己の有suo esseに固執するperseverareといわれるとき,有というのは存在existentiaだけを意味するわけでなく,力potentiaのことも意味します。したがって,自然法lex naturalisによって与えられた力を自然権jus naturaeというのであれば,僕たちは自己の自然権に固執するコナトゥスconatusを有するのであって,よって自然権が拡大されることはこのコナトゥス,第三部定理七によれば現実的本性actualis essentiaに合致することになります。なので,多くの人びとが協力することによって自然権が拡大されるなら,僕たちの現実的本性はそれを選択することになるでしょう。そして,第四部定理三五にあるように,理性ratioに従う限りでは僕たちの本性は一致するのですから,この限りでは僕たちは必然的にnecessario自然権の拡大のために協働するということが帰結します。いい換えればこの限りにおいては社会契約が常に履行される状態となるでしょう。ですから僕たちは理性に従っている限りでは,なるべく多くの人が,極端にいえば全人類が協働することを目指すことになります。第四部定理七三は,こうした論理の下に導出されるといえます。ここで自由libertasといわれるのは,人間の能動actioのことを意味しますが,理性に従っている限りでは僕たちは自由であり,かつすべての人間の本性が一致するのであれば,ここでいわれる共同の決定determinatioは,すべての人間の現実的本性に一致します。したがって僕たちは単に自身の理性に従っている限りでも自由ではありますが,共同の決定に従って自由であるときほどに多くの事柄をなし得るわけではありません。ですから多くの人間の共同の決定に従っている場合の方が,より自由であるということになるのです。
                                   
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で示されていることも,理論的にはこれに則しています。ただこれはあくまでも理論であって,現実的な世界にそのまま適用できるわけではありません。それはいうまでもなく僕たちは常に受動passioに隷属しているからです。他面からいえば常に理性的であるというわけではないからです。『神学・政治論』が国家Imperiumの形成のために宗教religioのようなそれとは異なる概念notioを必要とすることになったのは,そうした観点から受動状態にあっても理性に従っているのと同じ結果effectusを産出する必要があったからです。
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