スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&理性の一般性

2023-06-09 19:05:16 | 将棋
 7日に徳島市で指された第34期女流王位戦五番勝負第四局。
 里見香奈女流王位の先手で5筋位取り中飛車。伊藤沙恵女流四段が向飛車にしたので,先手は左玉から飛車を2筋に戻しました。
                                        
 後手が中央を手厚くしながら木村美濃を目指した局面。ここで金が離れたのをみて先手が☗4五歩と仕掛けました。結果的にこの仕掛けが機敏だったようです。大捌きになって先手の桂損となりましたがその代償として龍を作る展開になり,優位に立ちました。この形で中央を手厚くするのは有力な作戦だと思うのですが,この局面で銀を上がるのは危険で,もう少し工夫が必要なようです。
 里見女流王位が勝って3勝1敗で防衛第23期,26期,27期,28期,30期,31期,32期,33期に続く五連覇で9期目の女流王位です。

 愛amorは人間を他者への親切に駆る感情affectusであるがゆえに合倫理的であるといわれます。このとき,愛も親切も個別のことを意味するわけではなく,愛一般また親切一般を意味します。よって,個別の愛が抑制されたり除去されたりする事象が生じたからといって,一般的に愛が合倫理的であるということが否定されるわけではありません。個別の愛はそれ自体でみられるなら他人に対する親切にその人間を駆る感情であるということは事実なのであって,それが個別の感情のすべてに適用されるからです。よって受動的な愛,これは個別の愛としての受動的な愛ですが,それは理性ratioによって抑制されるあるいは除去されるということがあり得ますが,だからといって抑制されたり除去されたりしたその個別の愛は,合倫理的な感情ではなかったと解する必要はありません。
 一方,理性はそれ自体で有徳的であり,かつ合倫理的であるとみられなければなりません。これは理性を個別的なものとみるか一般的なものとみるかは関係がありません。というのは第四部定理三五にあるように,理性に従う限りでは人間の現実的本性actualis essentiaは一致するので,たとえば現実的にある人間が個別の理性に従うということが生じるとしても,生じたその現象はその人間に特有の事象ではなく,現実的に存在する人間であればだれにでも同じように生じる事象であるからです。ですから理性が一般的に有徳的であるといわれることと,現実的に存在するある人間が理性に従う限りでは有徳的であるといわれることは,異なったことをいっていると解する必要はありません。というか,同じことをいっていると解するべきだと僕は考えます。
 よって,現実的に存在する人間は理性に従っている限りでは有徳的であり,かつ合倫理的であることになります。ですから理性に従って愛を抑制したり除去したりしたとしても,合倫理的なのです。つまり,理性によって受動的な愛が抑制されたり除去されたりすることは現にあるのですが,だからといってそれは愛が一般的に合倫理的な感情であるということとは矛盾しませんし,現実的に存在する人間は有徳的である限りでは合倫理的であるということとも矛盾しません。
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