スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京2歳優駿牝馬&排他的思想の根源

2017-12-31 19:30:59 | 地方競馬
 北海道から2頭が遠征してきた第41回東京2歳優駿牝馬。そのうちの1頭だったビジネスライクがゲートの中で暴れて左の後ろ脚を挫創してしまったため競走除外となり15頭。
 ベニアカリが発馬で立ち上がってしまい大きく遅れました。先手を奪ったのはヴィブラビ。2番手にシングンレガシイ。3番手はストロングハートとエターナルモール。5番手がグラヴィオーラで6番手がポッドジゼル。7番手はゴールドパテックとクレイジーアクセル。9番手にラヴバインド。10番手にカシノランサムとオールパスレルで12番手がリンノストーン。ここまでが一団。水が開いてフライトゥザムーン,ベニアカリ,サラヒメの順で追走。最初の800mは50秒1のハイペース。
 3コーナーの手前から外をグラヴィオーラが進出。コーナーはヴィブラビとグラヴィオーラが雁行で回り,この後ろにストロングハートとシングンレガシイ。ゴールドパテックがこの2頭の後ろに。直線に入るところで逃げたヴィブラビがやや外に膨らみました。この影響でグラヴィオーラも少し外を回らされましたが,あまり関係なくヴィブラビを抜いて先頭に立つと,そのまま抜け出して優勝。内が開いたので最内に進路を選択したストロングハートが1馬身2分の1差で2着。ストロングハートとシングンレガシイの後ろから,ストロングハートとヴィブラビの間に進路を選択したゴールドパテックがクビ差の3着。グラヴィオーラの外に回ったシングンレガシイが1馬身差の4着でヴィブラビが半馬身差で5着。
 優勝したグラヴィオーラは前走までは北海道所属で7戦2勝2着2回。2回の2着が北海道重賞と重賞で,どちらもストロングハートと0.1秒差でしたから,逆転が可能な差。ですからこの馬が勝つというケースも十分にあり得ると考えていました。おそらく上位3頭の能力がほかの馬より上であったと思われ,きわめて順当な結果であったといえると思います。この3頭は少なくとも桜花賞までは来年の南関東3歳牝馬路線の中心を担っていくことになるのではないでしょうか。父はサウスヴィグラス。母の父はタニノギムレット。5代母がマジックゴディスで3代母がダイナアクトレス。母のひとつ上の半兄がスクリーンヒーロー。Graviolaはポルトガル語で植物の一種。サワーソップとかトゲパンレイシとも呼ばれるようです。
 騎乗した川崎の今野忠成騎手は一昨年の東京ダービー以来の南関東重賞制覇で南関東重賞限定では34勝目。第26回以来15年ぶりの東京2歳優駿牝馬2勝目。前走後に管理することになった船橋の佐藤賢二調教師はハイセイコー記念以来の南関東重賞制覇。東京2歳優駿牝馬は初勝利。

 受動passioによって喜びlaetitiaを感じる場合はそれを否定するどころか肯定し,喜びも悲しみtristitiaも感じない場合は肯定はしないかもしれないけれど否定することはないのですから,現実的に存在するある人間が他の人間を否定するのは,その人間が悲しみを感じた場合であることになります。
                                
 このことも論理的に示しておきましょう。第三部諸感情の定義三により,悲しみはある人間の完全性perfectioがより大なる状態からより小なる状態に移行することです。したがってある人間が悲しみを感じているときには,その人間の現実的本性actualis essentiaは阻害されていることになります。ところが第三部定理七第三部定理九によって,この受動状態にあるときも現実的に存在する人間は自己の有に固執するという現実的本性を有し,かつそのことを意識しています。よってある人間が自身に悲しみを与えると表象するimaginariなら,他面からいえばある人間が自身の現実的本性を阻害すると表象するなら,その人間は悲しみを与えると表象する人間のことを否定するでしょう。よって第三部定理一三により,その人間は自分に悲しみを与えると表象する人間のことを排除しようするでしょう。
 ここに排他的思想の根源があります。したがって排他的思想を有する人間は,悲しみという感情affectusに隷属している人間であることになります。
 これはその通りですが,ひとつだけ注意しておかなくてはならない点もあります。そもそも第四部定理四によって,この種の受動は現実的に存在する人間にとっては避けようがないことです。したがってこの規準に従う限り,現実的に存在する人間は多かれ少なかれ排他的思想の持ち主です。ですが喜びであれ悲しみであれ,感情というのは自分がそれを感じたということを認識する場合には,要するに自身の感情を反省的に認識した場合には,それとは別の感情の要因となるという場合があります。ですから,たとえばAという人間がBという人間あるいはBという人間の何らかの行いを表象することによって悲しみを感じたとしても,一律的にAはBに対して排他的思想を有するというようにはいえません。逆に喜びを感じたから排他的思想をもたないと断定できるわけでもないのです。
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東京シンデレラマイル&否定しない場合

2017-12-30 19:04:21 | 地方競馬
 第11回東京シンデレラマイル
 僕はアップトゥユーが逃げるとみていたのですが,躓くような発馬。その影響もあったかもしれませんがその間に外からニシノラピートが楽にハナを奪いました。立て直したアップトゥユーが2番手で3番手にトゥルームーンとステップオブダンス。5番手はトーセンラークとシルキークィーン。7番手にプリンセスバリューとラインハート。9番手にフジノドラマ,10番手がグラスサファイヤ。ここまでが一団で後方の2列目にマテリアメディカ,シェアハッピー,パーティードレスの3頭。最後尾からクラカルメン,ファイトユアソング,ターフデザイナーの3頭。前半の800mは49秒7のミドルペース。
 3コーナーを回るとニシノラピートとアップトゥユーの差が自然に開いていきました。アップトゥユーは押しながら直線の入口まではついていきましたが直線に入るとギブアップ。そのままニシノラピートが楽に逃げ切って優勝。ニシノラピート以外の先行勢は総崩れになり,2着は追い込み馬による争い。外から3頭目のパーティードレスが5馬身差の2着で大外のグラスサファイヤが半馬身差で3着。
 優勝したニシノラピートしらさぎ賞以来の南関東重賞2勝目。1200mや1400mで良績を残していた馬で,このメンバーの中ではスピード能力は上位の部類。ここは200mを12秒台の一貫したペースで逃げ,その能力が最大限に発揮されたということでしょう。こういうタイプですので,展開次第では大きく崩れることもあれば快勝ということもあるという馬だと考えておくのがいいのではないでしょうか。父はサウスヴィグラス。Rapidはドイツ語で速い。
 騎乗した大井の的場文男騎手はスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞制覇。第4回以来7年ぶりの東京シンデレラマイル2勝目。管理している大井の市村誠調教師は南関東重賞3勝目。東京シンデレラマイルは初勝利。

 第三部定理七により,現実的に存在する各々の人間は,自身の有に固執しますsuo esse perseverare conatur。あるいはその固執する力potentiaであるコナトゥスConatusがその人間の現実的本性actualem essentiamです。そして第三部定理九により,現実的に存在する各々の人間は事物を十全に認識しようと混乱して認識しようとそれを意識しています。他面からいうと各々の人間が能動的である場合も受動的である場合もそれを意識しています。ただしここでは能動actioの場合は考察の対象から外れているので,受動passioの場合だけ理解しておけば十分です。要するに現実的に存在する人間は受動的であるときも自己の有に固執するという現実的本性を有しているのであり,かつそれを意識しているのです。
                                
 第三部要請一の意味により,現実的に存在する人間は,受動によって喜びlaetitiaを感じる場合もあれば悲しみtristitiaを感じる場合もあり,また喜びも悲しみも感じない場合もあります。このとき,もしあるものに刺激されることによって喜びを感じるのであれば,その人間は自身に喜びを与えていると表象するimaginariそのもののことを否定することはありません。なぜなら,第三部諸感情の定義二により,ある人間の喜びとは,その人間の完全性perfectioがより小なるものからより大なるものに移行することであるからです。いってみればこれは,その人間が自己の有に固執する力を促進しているのであり,その人間の現実的本性によく適合したものを表象しているといっているのと同じであるからです。よって人間はそのものを否定するどころかむしろ肯定します。このことは,第四部定理八により善bonumが喜びの認識cognitioであるということからも明らかですし,第四部定義一により,その人間にとって有益であると確知されるものがその人間にとっての善であるということからも明らかでしょう。ここでは善なるものを肯定し,悪malumなるものを否定するということが前提となっているからです。
 また,喜びも悲しみも感じない場合は,表象されたものは肯定はされないでしょうが否定もされません。確かにそれはその人間のコナトゥスにとって有益ではありませんが不利益も齎さないからです。少なくとも,その人間が自己の有に固執することを阻害するようなものではないからです。
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農林水産大臣賞典東京大賞典&第三部要請一の意味

2017-12-29 19:05:28 | 地方競馬
 第63回東京大賞典
 ケイティブレイブとコパノリッキーが先行する構えをみせ,外のコパノリッキーの方がハナへ。ケイティブレイブが1コーナーの入口では外に切り返すような形で2番手。一時的に3番手と差が開いていましたが,前の2頭の並びが決まるとペースも緩み,掛かり気味にインカンテーションが3番手に上がり4番手にミツバ,5番手にロンドンタウン。この後ろは4馬身くらい開いてヒガシウィルウィンとバルダッサーレ。また差が開いてタービランスがぽつんと追走。少し開いてサブノクロヒョウ,サウンドトゥルーの順に続き,この後ろにコスモカットとアポロケンタッキー。サンドプラチナが後方4番手でシャドウパーティーとハーキュリーズとセイファルコンが集団で隊列の最後尾。前半の1000mは61秒3のハイペース。
 3コーナーを回るとケイティブレイブがコパノリッキーとの差を詰め始め,直線の入口では雁行に。しかし直線ではコパノリッキーが突き放し,そのまま鋭く逃げ切って優勝。負かしにいったケイティブレイブが苦しくなったところを,後方からよい脚を使って追い込んだサウンドトゥルーが捕まえて3馬身差の2着。ケイティブレイブも2馬身半差の3着に粘り込みました。
                                
 優勝したコパノリッキー南部杯以来の勝利で大レース11勝目。この馬の場合は展開が最大のポイント。今日は気持ちよく逃げることができた上に,早めにつつかれたり絡まれたりすることがなかったので,直線まで余力を残すことができ,能力を十全に発揮しての勝利となりました。これで引退して種牡馬になる予定ですが,自身の能力をどのような形で産駒に伝えていくのかは楽しみなところ。ある程度の数の繁殖相手は確保することができるものと思います。父は第48回を制したゴールドアリュールで父仔制覇。祖母の従弟に2002年に大阪杯,2005年に大阪杯と毎日王冠を勝ったサンライズペガサス
 騎乗した田辺裕信騎手は南部杯以来の大レース7勝目。東京大賞典は初勝利。管理している村山明調教師は南部杯以来の大レース15勝目。東京大賞典は初勝利。

 基本的な部分から歩みを始めます。
 第三部要請一は,現実的に存在する人間が多様な様式で刺激を受け得ることを示しています。刺激を受けることは当然ながら受動passioですので,これは現実的に存在する人間は多様な仕方で働きを受けるpatiということを意味します。また,この文言は,現実的に存在する人間の身体corpusが外部の物体corpusから刺激を受けることを想定しているように読むことができ,そのゆえにこれは人間の身体の受動様式について述べていると思われるかもしれません。しかし人間の能動と受動は,身体にあっても精神mensにあっても一律なので,これが単に現実的に存在する人間の身体だけに限ったことをいっているというものでもありません。ある人間の身体の受動はその人間の精神の受動でもあるので,こうした受動様式が多様であるということは,身体の場合でも精神の場合でも同じように妥当します。他面からいえば身体に妥当する分だけ精神にも妥当するということになります。
 次に,活動能力agendi potentiaが増大するというのは,現実的本性actualis essentiaを力という観点からみたとき,つまり実在性realitasすなわち第二部定義六により完全性perfectioという観点からみたとき,それがより大なる状態に変じているということです。したがってそれは第三部諸感情の定義二によって,その活動能力が増大している当の人間が喜びlaetitiaを感じているということです。逆に活動能力が減少するとは,完全性が小なる状態に変ずることですから,この場合には第三部諸感情の定義三によって,その活動能力が減少している当の人間が悲しみtristitiaを感じているという意味になります。
 したがって,第三部要請一が『エチカ』の全体の中で有している意味は,現実的に存在する人間は喜びを感じるように刺激されることがあるし,悲しみを感じるように刺激されることもあり,また喜びも悲しみも感じないように刺激されることもあるということです。あるいは人間は何らかの受動によって喜びを感じる場合もあれば悲しみを感じる場合もあり,また喜びも悲しみも感じない場合もあるということです。第三部定義三により,感情Affectumは身体にも精神にも適用されますので,受動が身体にも精神にも一律であることと調和します。
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ホープフルステークス&否定と憎しみ

2017-12-28 19:08:14 | 中央競馬
 第34回ホープフルステークス
 ナスノシンフォニーは外によれる発馬。先頭に立ったトラインが1コーナー手前で外にふらつくようなところがありました。そのトライン,サンリヴァル,ジュンヴァルロの3頭が雁行で向正面に。向正面の中間ではジュンヴァルロが単独の先頭に立ちました。この3頭の後ろは3馬身ほど開いてトーセンクリーガーとウォーターパルフェ。1馬身半ほどでシャルルマーニュ。1馬身差でリュヌルージュ,ロードアクシス,ルーカスの3頭。1馬身半差でマイハートビート,フラットレー,ジャンダルムの3頭。1馬身差でナスノシンフォニー,ステイフーリッシュ,シャフトオブライトの3頭。1馬身差でタイムフライヤーが後方2番手。ワークアンドラブはまったくついていくことができず,大きく引き離されました。前半の1000mは59秒6のハイペース。
 途中から逃げる形になったジュンヴァルロが先頭のまま3コーナーを回り,外にサンリヴァルとウォーターパルフェ。内にロードアクシス。さらに外からルーカスとジャンダルムが追い上げる形で直線に。サンリヴァル,ルーカス,ジャンダルムの競り合いからジャンダルムが抜け出しましたが,3コーナー手前あたりから動いたタイムフライヤーがその外を伸び,ジャンダルムを捕まえると抜け出して優勝。ジャンダルムが1馬身4分の1差で2着。大外を鋭く伸びたステイフーリッシュがクビ差まで迫って3着。
 優勝したタイムフライヤーは8月の新馬は2着。9月に未勝利を勝ち上がって10月のオープンを連勝。先月は重賞を使ってタイム差なしの2着。ここは連対を外していない馬が多く,そうした馬たちの争いになるだろうとみていました。当然ながらそうした馬たちはここで初対戦となるので,能力の比較は難しいところがありましたが,成績からは優勝候補の1頭。やや差をつけましたが,2着馬をマークするようなレースぶりになった分の有利さはあったかもしれず,はっきりと能力上位と評価することはできないかもしれません。とはいえ来年のクラシックの有力候補の1頭になったということは間違いないでしょう。父はハーツクライ。母の全兄にタイムパラドックス
 騎乗したフランスを中心に騎乗しているクリスチャン・デムーロ騎手は2013年の桜花賞以来となる日本馬に騎乗しての大レース2勝目で日本における大レース2勝目。管理している松田国英調教師は2013年のジャパンカップダート以来となる大レース15勝目。このレースは今年から大レースとなり,それまでも施行条件の変動が大きいのですが,記録上は第23回以来11年ぶりのホープフルステークス2勝目。

 憎しみodiumの連鎖を産出しないことが自由の人homo liberにとって重要であるのは,現状の考察との関連でいえば,多様性の否定negatioと憎しみという感情affectusに深い結びつきがあるからです。単純にいえば,たとえばAという人間が別のBという人間の存在を否定したいあるいは否定しているとき,Bが喜んでいると表象するimaginariなら,第三部定理二三によってAは悲しみtristitiaを感じることになります。この悲しみはBの喜びlaetitia,他面からいえば喜んでいるBの観念ideaを伴った悲しみであるのですから,第三部諸感情の定義七によってBに対する憎しみそのものです。このようにして人間の多様性を否定することは,そこで否定されている人間に対する憎しみと一体化します。というより,これはこのように示さずとも,後に説明するように,否定している人間に対する何らかの表象imaginatioを伴わずとも,否定するというその段階ですでに憎しみと一体化しているのです。したがって,憎しみの連鎖を産出するというのと多様性の否定の連鎖を産出するというのはほぼ同じ意味をもっていることになります。なので連鎖を含まずとも,憎しみを産出するということは否定を産出するということと同じなのですから,人間の多様性を肯定する自由の人は,多様性の否定を産出しないように心掛けなければなりません。ある具体的な事象について言及している第四部定理七〇が何か一般的な意味を有するとしたら,それは上述のようなことになるのだと僕は考えています。
                                
 そこで今度は,このような多様性の否定がいかにして産出されるのかということを検討してみましょう。すでに明らかになっているように,人間は理性ratioに従う限りでは,すなわち精神の能動actio Mentisに従う限りでは人間の多様性を絶対的に肯定し,部分的にすら否定することはありません。そしてこの限りでは現実的に存在する人間の本性naturaが一致するのですから,人間の能動によって多様性の否定は全面的にはもちろん部分的にも生じないことになります。すなわち人間全体を否定するということはありませんし,ある特定の人,ないしはある特定の人間集団,国民とか民族とか教徒とかいった集団を否定するということもありません。よってそれは人間の受動passioから生じます。
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農林水産大臣賞典兵庫ゴールドトロフィー&憎しみの回避

2017-12-27 19:21:16 | 地方競馬
 第17回兵庫ゴールドトロフィー。北海道のオヤコダカとストーンリバーは悪天候により輸送が困難になり出走取消。同じく北海道のタイセイバンデットは故障のため出走取消で9頭。
 トウケイタイガーが鞭を入れてハナを奪いにいきましたが叶わず,外から抜いたサイタスリーレッドの逃げになり,グレイスフルリープが2番手に。トウケイタイガーは3番手となり4番手にエイシンヴァラー。この後ろはラブバレット,ドリームコンサート,ドリームバレンチノ,レーザーバレットの4頭の集団で最後尾にバズーカ。ハイペースでしたがついていかれない馬はいませんでした。
 向正面でラブバレットが動いて単独の3番手に。これを見てグレイスフルリープも動き出し,3コーナーではサイタスリーレッドを捕えて先頭に。サイタスリーレッドはコーナーで内を後退していく形になり,ラブバレットが2番手になって直線に。直線ではラブバレットがグレイスフルリープに並ぼうかというシーンもありましたがそこで一杯。ラストは引き離す形でグレイスフルリープの優勝。ラブバレットが1馬身半差の2着。コーナーではずるずると後退して最後尾近くになったものの,直線で最内からまた盛り返してきたサイタスリーレッドがクビ差まで迫って3着。
 優勝したグレイスフルリープは韓国に遠征した9月のコリアスプリント以来の勝利。重賞は昨年のサマーチャンピオン以来となる2勝目。そのときはあまりメンバーが強かったとはいえず,その後の戦績からみるにここでは苦戦するのではないかと見立てていました。少ない頭数のレースになり大外枠からスムーズなレースができたことが勝因という印象はありますが,今日のメンバーを相手に勝ったということになれば,僕自身のこの馬に対する評価は改めなければならないようです。父はゴールドアリュール
                                     
 騎乗した武豊騎手は第2回,4回に続く13年ぶりの兵庫ゴールドトロフィー2勝目。管理している橋口慎介調教師は兵庫ゴールドトロフィー初勝利。

 無知な人間も人間である以上,人間以外のものより自由の人homo liberと本性naturaの上で一致する部分は相対的に大きくなります。よって第四部定理三一系により,自由の人にとって有益であることがそれだけ大きくなります。ですから自由の人は無知の人間を絶対的に避ければそれでよいというわけでなく,できる限りの範囲で避けるべきであるということが帰結するのです。
 しかし,このことは自由の人が危急の危機に瀕した場合に有効なのであって,実践の指針としての意味合いは弱いと僕は考えています。むしろ,できる限りで避けるべきであるというのは,自由の人によって避けられる無知の人間が,自身を避けようとする自由の人に対してどのような感情affectusを抱くかという観点の方に重きを置くべきではないでしょうか。
 第三部定理四〇は,ある人間が自分を憎んでいると表象するimaginariとき,そう表象した人が憎まれる原因を何も与えていないと思うなら,その人のことを憎み返すということを示しています。第三部定理二六は,現実的に存在する人間は憎んでいる人間を悲しませるものを憎んでいる人間に対しては肯定するとしています。ですがこの場合は予め自分がその人を憎んでいることを前提としているわけですから,相手が自分を憎む原因を与えているということを承知しているということになるので,第三部定理四〇は適用されません。しかしそうでない場合には第三部定理二五により,相手を悲しませるものについては否定するので,第三部定理四〇が適用し得ることになります。このために僕たちは,憎まれていると表象したときには,憎まれる原因を与えていないと認識する場合が多数を占めるので,第三部定理四〇による憎しみodiumの連鎖は,これと逆の場合である第三部定理四一の愛amorの連鎖より頻繁に生じるということになります。実践の指針として重要であるのはこの部分にあって,端的にいえば自由の人は,憎しみの連鎖を産出するようなことは避けるべきなのです。より強くいえば,これは指針として絶対的なものになり得ます。すなわち,人間の多様性を肯定するためには,憎しみの連鎖を産出しないこと,自分が憎まれるようなことをなしてはならないのです。
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オルフェーヴル&第四部定理三一系

2017-12-26 19:32:30 | 名馬
 10日の阪神ジュベナイルフィリーズを勝ったラッキーライラックの父はGCカレンダーで第2位,JRA賞で2011年の年度代表馬,2012年2013年の最優秀4歳以上牡馬に選出されたオルフェーヴルです。父がステイゴールドで母の父がメジロマックイーン。3代母がグランマスティーヴンスで4つ上の全兄にJRA賞で2006年の最優秀2歳牡馬,2009年の最優秀4歳以上牡馬に選出されたドリームジャーニー。Orfevreはフランス語で金細工師。
                                
 2歳8月にデビュー。このレースは勝ったもののレース後に暴走して騎手が落馬。この気性面が災いして以降の4戦は勝利をあげることができませんでした。レースを使いながらの教えが実を結んだのが3月のスプリングステークス。東日本大震災の影響で阪神で行われたこのレースで重賞制覇を達成すると,通常より1週遅れて東京で行われた皐月賞で大レースも制覇。そのままダービーも勝ちました。
 秋は復帰戦の神戸新聞杯を勝ち,菊花賞で三冠制覇を達成。さらに古馬との初対戦となった有馬記念も勝って年度代表馬に。
 4歳になり3月の阪神大賞典で復帰。また気性の難しさを出し,レース中に逸走してしまい巻き返すも2着。このために調教試験が必要となり,調整に順調さを欠いた天皇賞(春)は惨敗。しかし宝塚記念は普通に走り,ルーラーシップを2着に斥けて大レース5勝目。
 秋はフランスへ。叩き台のフォワ賞を勝って挑んだ凱旋門賞は楽勝となる筈が自ら勝利を放棄するような形で2着。帰国して出走したジャパンカップは直線で勝ち馬にぶつけられたのを跳ね返せずに2着。これで4歳のキャンペーンを終えました。最優秀4歳以上牡馬に。
 これだけの馬なので引退もあり得ましたが現役を続行。3月に大阪杯を勝ちましたが,これ以降は順調さを欠き春はこの1戦のみ。
 秋は再度フランスへ。この年もフォワ賞は勝ちましたが凱旋門賞はどこかこの馬らしくない優等生的なレースをし,勝ち馬に及ばないという形のレースで2着。この年は帰国後に引退レースとして有馬記念を選択。2着に8馬身差をつけるという圧巻のレースで大レース6勝目をあげ,有終の美を飾りました。
 産駒の勝ち上がり率は現時点ではあまりよくありません。ただ血統的には晩成傾向なので,これから巻き返すこともあり得るでしょう。一方で,凡庸な産駒を多く出す代わりに超一流馬を何頭か出すというタイプの種牡馬になる可能性も否定はできず,産駒の今後の走りに注目です。

 第四部定理七〇備考は,実践を行う者の立場,すなわち自由の人homo liberの立場から記述されていますので,僕もこの観点から説明します。
 自由の人が無知の人を絶対に避けるのではなく,できる限り避けるのは,無知の人間は無知であっても人間であるからでした。それが絶対的な指針ではなくできる限りでの指針と結び付く規準は第四部定理三一にあります。ただし,この定理Propositioは,人間が現実的に存在するという場合だけを想定するならば,単に論理的に真verumであるというだけです。他面からいえば現実的に存在する人間だけを想定していうのであれば,机上の空論であるとさえいっていいでしょう。なぜなら現実的に存在する人間は第四部定理四の意味によって受動passioを免れるということは不可能で,第三部定理五一によって異なった人間は同一のものから異なった働きを受けるpatiことができるのですから,ある人間の現実的本性actualis essentiaと別の人間の現実的本性が完全に一致するということは不可能であるからです。このことはまた第四部定理三三からも明白であるといわなければなりません。ですから現実的に存在するある人間にとって,同様に現実的に存在する別の人間が必然的にnecessario善bonumであるということはあり得ないのです。
 ただし次のことはいえます。もし本性が一致する限りで必然的に善であるなら,本性に一致する部分が大きければ大きいほどより大なる善でしょうし,逆に少なければ少ないほどより大なる悪malumでしょう。それを示しているのが第四部定理三一系です。
 「この帰結として,物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ我々にとって有益あるいは善であり,また逆に物は我々にとってより有益であるに従って我々の本性とそれだけ多く一致する,ということになる」。
 帰結事項なので証明Demonstratioはありません。どう帰結するかは僕が示した通りです。また,スピノザはここでは善あるいは有益であることについてしか記述していませんが,善悪は相対的なものなので,善についてこのようないい方が可能であるなら,悪についても僕がいったようないい方が可能であることも明白でしょう。実際にスピノザもこの系Corollariumの後半部分ではそのような言及をしています。
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ひろしまピースカップ&第四部定理七〇備考

2017-12-25 19:03:43 | 競輪
 昨日の広島記念の決勝。並びは吉沢‐萩原‐川崎の東日本,稲垣‐村上‐北野の近畿中部,原田‐河端‐池田の四国中国。
 河端がスタートを取って原田の前受け。4番手に吉沢,7番手に稲垣という周回。残り3周のバックから稲垣が上昇。コーナーは原田ラインと併走の形。ホームに入って原田が引き,稲垣が先頭に。この隊列になるとすぐに吉沢が発進して稲垣を叩いてバックに。後方になった原田がすぐに巻き返し,吉沢を叩いて打鐘。周回中と同じ隊列の一列棒状に。稲垣は自身がコーナーに入る前から発進。コーナーからホームの入口にかけては吉沢と併走し,ここから前を叩きに出ましたが,1コーナーで早くも河端が番手から発進。稲垣はバックで一杯となってしまいましたが,マークの村上はうまく池田の後ろにスイッチしました。直線に入ってから踏み込んだ池田は,外を伸びてきた村上を厳しく牽制したものの,フィニッシュ寸前で村上が捕えて優勝。池田が4分の1車輪差で2着。池田の牽制によって大きく開いた河端と池田の間に進路を取った北野が差し込んだもののこちらは届かず8分の1車輪差で3着。
                                     
 優勝した京都の村上博幸選手は先月の大垣記念に続いての優勝で記念競輪6勝目。広島記念は初優勝。このレースは自力の3選手がそれぞれ勝つようなレースをすれば原田は優勝候補のひとりであったと思われますが,3番手が地元の池田ということもあり,後ろを引き出す競走に徹しました。それでも稲垣が早めに巻き返してきたために,河端が早い段階で番手捲りを敢行。池田には悪くない展開だったと思いますが,稲垣が力を出した分だけ村上も池田の後ろに簡単にスイッチできました。そういう意味では村上の優勝には稲垣の貢献が大きかったといえるでしょう。前のふたりがいいお膳立てをしてくれた池田にとっては無念のレースであったろうと思います。

 第四部定理七〇を実践の指針として活用するとき,自由の人homo liberとして実践しなければならないということは明確な指針となり得るのに対して,ある具体的な行動に関して,できる限りその行動をとるというのは,あまり明確な指針であるとはいえないかもしれません。というのは,自由の人でなければならないということ,すなわち理性ratioの指図に従わなければならない,あるいは同じことですが能動的に実践しなければならないということは,そうでなければならないという点で絶対的な意味を有します。ところができる限りある実践をするというのは,絶対にそのように実践しなければならないという意味を有するわけではなく,そこには例外が生じるということを同時に意味しているからです。したがってこの部分は,むしろ絶対的にそうであるといえるような指針は存在しないのであるということをいっているのと同じであると考えられることになります。ただ,具体的な行動に関していうなら,すでに示したようにその状況に応じて実践しなければならないのであり,したがって絶対的な意味での指針はないのです。逆にいえば,絶対的な指針はないということがひとつの指針であって,できる限りである実践を行うということは,消極的な意味では指針のひとつであるといえるでしょう。
 この定理Propositioの後の備考Scholiumの冒頭で,スピノザはなぜできる限りであるのかということの理由,すなわちこの点では絶対的な指針が存在しないことの理由を示しています。
 「私は「できるだけ」という。なぜなら彼らは無知な人間であってもやはり人間であって,危急な場合には,何より貴重な人間的援助をなし得る」。
 この定理は無知な人間の親切を避けることという具体的な行動について言及しているので,備考もまたそうした観点から書かれています。しかしここでは具体的な行動そのものについて検討しているわけではありません。そしてそうした観点から読めば,ここでは無知な人間でもやはり人間であるという点が最も重要であるということは分かるでしょう。要するに人間が人間に対してある実践をする場合には,絶対的な指針となり得るようなものは存在しないのです。
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有馬記念&自由の人

2017-12-24 19:05:10 | 中央競馬
 グランプリの第62回有馬記念
 2番枠も利してキタサンブラックが難なくハナへ。2番手にはヤマカツエースとシャケトラ。その後ろにクイーンズリングとカレンミロティック。その後ろにサトノクロニクルとトーセンビクトリー。8番手にサクラアンプルール。9番手にシュヴァルグラン。10番手にブレスジャーニー。11番手がサトノクラウン。12番手はスワーヴリチャード。13番手にレインボーラインで,ルージュバック,ミッキークイーン,サウンズオブアースの3頭が集団で最後尾を追走。一団といってもいいくらいの隊列の短いレースになりました。ペースはスロー。
 3コーナーを回るとシャケトラがキタサンブラックに接近してきましたが,コーナーワークで直線に入るところで再びリードを取ったキタサンブラックには,道中で楽をできていた分の余裕が残っていて,ここから後ろを離していき楽に逃げ切って優勝。1馬身半差の2着争いはシャケトラの外を伸びたクイーンズリングとその外を通ったシュヴァルグラン,3コーナー過ぎから外を捲り上げ,直線でそれら2頭に寄せていったスワーヴリチャードの3頭による接戦。結果的に道中の位置取りが最も前だったクイーンズリングが制し,ハナ差の3着にシュヴァルグラン。スワーヴリチャードがクビ差で4着。
                                     
 優勝したキタサンブラック天皇賞(秋)以来の勝利で大レース7勝目。この馬はもう少し厳しいペースで先行しても十分に粘り込めるだけの力がある馬で,今日のレースはいかにも楽。スローペースでの1馬身半差は大きな差といっても差し支えなく,完勝といっていい内容でしょう。これで現役を引退し,種牡馬となるわけですが,この馬がどのようなタイプの種牡馬となるのかということは個人的に興味津々です。父は2004年にスプリングステークスを勝ったブラックタイド。母の父はサクラバクシンオー
 騎乗した武豊騎手は天皇賞(秋)以来の大レース制覇。第35回,51回に続く11年ぶりの有馬記念3勝目。管理している清水久詞調教師は天皇賞(秋)以来の大レース7勝目。有馬記念は初勝利。

 実践の指針のひとつとして,自由の人homo liberとして実践するということが重要であるということの理由を説明します。なおここでいわれている自由というのは,人間的自由のうち能動的自由に該当するものです。原則的にスピノザが自由の人といういい方をする場合は,理性ratioの指図に従って生活する人,というのと同じ意味を有していると考えてください。
 スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』において,聖書とりわけ新約聖書のことを肯定的に評価しています。なぜなら聖書は神Deusに服従することを教え,人は神に服従することによって敬虔なpius生活を送ることができるようになるからです。ではなぜ敬虔な生活を送るようになることをスピノザが肯定するのかといえば,そのような生活態度は理性の指図に従って生活する人の態度と同じであるからです。いい換えれば,理性の指図に従って生活する人は,その指図によって能動的に敬虔な生活を送ります。しかしたとえ理性の指図に従うことができない人でも,神に服従するならば,理性の指図に従う人と同じように敬虔な生活を送ることができるようになるのです。
 これでみれば分かるように,スピノザはここでは実践として敬虔pietasであるということを重要視しているのであって,どういう理由によって敬虔な生活を送るのかということは二の次になっています。このゆえにスピノザは,理性が聖書に貢献するべきであると主張する懐疑論者scepticiを批判するだけでなく,聖書が理性に貢献するべきであるとする独断論者dogmaticiのことも批判するのです。
 ところが,第四部定理七〇が実践の指針のひとつになる場合には,上の例でいえば,単に敬虔な生活を送るということだけが重視されているのではありません。むしろ自由の人として敬虔であるということを重視しているのです。スピノザ主義と関連付ければ,スピノザ主義なしに敬虔であるのではなく,スピノザ主義とともに敬虔であるのでなければならないのです。こうしたわけで,自由の人として行動するということが,実践の指針のひとつとしてきわめて重要であるといえるのです。
 ある具体的な実践をするときに,まず自由の人として理性の指図に従うのでなければならないのです。
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農林水産省賞典中山大障害&第四部定理七〇

2017-12-23 19:05:56 | 中央競馬
 第140回中山大障害
 発走してしばらくの間はスズカプレストが先頭に立っていましたが,1周目の正面に入ったところでアップトゥデイトが交わしてハナへ。そこから大竹柵にかけてリードを広げていき,2番手に15馬身ほどの差をつける大逃げに。2番手はスズカプレスト,クランモンタナ,オジュウチョウサンの3頭で集団。この後ろにミヤジタイガ,マイネルフィエスタと続きました。
 大生垣を飛越してもアップトゥデイトのリードは変わらず。2番手集団はクランモンタナ,スズカプレストの順に脱落。大生垣後の1コーナーを回ると2番手にオジュウチョウサン,3番手がミヤジタイガ,4番手にマイネルフィエスタという順に。向正面に入るとリードが縮まり出し,10馬身くらいに。3コーナーを回るとオジュウチョウサンがさらに差を詰めていって4コーナーでは3馬身差。アップトゥデイトも一杯になっていたわけではなく,ここからもうひと頑張りしましたが,残り100mを過ぎてから追ってきたオジュウチョウサンが差してレコードタイムで優勝。外連味のない逃げでレコードを演出したアップトゥデイトが半馬身差で2着。この2頭が強すぎたため大差の3着は後方から差し込んだ馬たちの争いに。一旦は3番手に上がっていたシンキングダンサーをフィニッシュ寸前で外から捕えたルペールノエルが3着でシンキングダンサーはクビ差の4着。
 優勝したオジュウチョウサンはこれで障害重賞8連勝。大レースは中山グランドジャンプ以来の4勝目。第139回に続いて連覇で中山大障害2勝目。中山グランドジャンプを勝った後,剥離骨折があって休養。復帰戦となった前走の東京ハイジャンプは直線に入ったところで前とはかなり差があったものの,そこから差し切って2着に2秒差をつけるという圧巻の勝利。能力の衰えはないということが確かめられましたので,ここもよほどのことがない限り負けることはないだろうとみていました。2着馬の乾坤一擲のレースぶりで着差はつけられませんでしたが,それでもきちんと差し切るのがこの馬の能力。16年ぶりのレコードタイム更新を含め,この馬は将来の殿堂入りの候補ではないでしょうか。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。ひとつ上の全兄に2013年にラジオNIKKEI賞を勝ったケイアイチョウサン
 騎乗した石神深一騎手と管理している和田正一郎調教師は,中山グランドジャンプ以来の大レース制覇で共に大レース4勝目。

 スピノザの哲学の信奉者が,スピノザ主義の名の下に排他主義者を否定することは,偶像崇拝を禁止するという教えを偶像化することによって自らが偶像崇拝者となってしまっている似非イスラム主義者が,数多くの宗教的遺産を破壊してしまうという行為に匹敵する行為です。それはスピノザ主義の信奉者がスピノザ主義とともに狂ってしまっているという証左なのであり,スピノザ主義の実践としては避けて通らなければならない道であると僕は考えます。
                                
 では具体的にどのような行動を実践として採用するべきなのであるかといえば,これは一般的な仕方で示すことはできません。なぜならそれは各々の場面に応じた実践が必要とされるからです。最も単純にいえば,第四部定理三二により,一口に排他主義者といっても,それぞれの現実的本性actualis essentiaは異なるわけですから,それぞれに応じた対処が必要とされるのは明らかですし,第四部定理三三により,同一の排他主義者であってもその現実的本性は変じるのですから,同じ人間に対して常に同じ実践を採用すればよいというものでもないからです。
 ただ,実践の指針となるべき事柄は示すことができます。あるいは原則的な規準は示すことができるというべきでしょうか。僕の考えではそれは大きく分けてふたつありますので,その両者が示されている定理Propositioとして,第四部定理七〇をここでは示しておきましょう。
 「無知の人々の間に生活する自由の人はできるだけ彼らの親切を避けようとつとめる」。
 ここではまず無知の人びとというのを,たとえば排他主義者のような受動passioによって行動する人びとのことと考えてください。それに対して自由の人homo liberが採用する行為のひとつが示されているわけですが,実践の指針のひとつはこの自由の人という点であり,つまり自由の人として実践を決定しなければならないということです。このことは現状の考察とはあまり関係ないかもしれませんが,指針のひとつとしてはきわめて重要です。もうひとつは,親切を避けるというのはある具体的行動であって,できる限りそうするという点が指針となります。絶対にそうするのではありません。できるだけそうするのです。
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リコー杯女流王座戦&タリバーンの偶像崇拝

2017-12-22 19:51:01 | 将棋
 第7期女流王座戦五番勝負第五局。
 振駒で里見香奈女流王座の先手になり5筋位取り中飛車。加藤桃子女王は超速銀で対抗し6筋で銀が向い合う形。先手から仕掛けて中央で華々しい戦いに。後手の対応にわずかな誤りがあったようで,途中からは先手が優位に立っていたものと思います。
                                     
 先手が手厚く銀を打ち込んだ局面。ここで後手は☖7九飛と打ちました。これは攻めの手というよりも☗5九歩と打たせて先手が5筋で歩を使って攻めるのを緩和するという受けの意味合いが強い手であったと思います。ただここにしか飛車の打ち場所がなかったのが後から響いてくることに。
 歩を使わせたので後手は☖4三銀と取って☗同銀成に☖9二飛と逃げました。ただ最も遠くに逃げたことで後に直接的に狙われることになります。
 先手は☗4四銀と進出して後手は☖5五歩と受けました。そこで☗8三銀が飛車を端に逃げたために生じた手。以下☖9三飛☗8二銀不成☖8三飛☗7三銀成☖同飛で後手の飛車は働きが弱い駒に。さらに入手した桂馬を☗3三桂と打ちました。
 ここから☖同桂☗同銀成☖3二銀と進めたのはおそらく後手としては最善の頑張り。ですが☗2二成銀☖同玉のときに,後手が7九に飛車を打たざるを得なかったために☗8八角打という手が生じてしまいました。
                                     
 これは☖8九飛車成と逃げると☗5五角☖同金☗同角の王手飛車で,後手が受けて先手が飛車を取ったときに先手を上回る早い攻めが後手にはありません。なので☖7七飛成と取るほかなかったのですが☗同桂と取り返すのが,一時的に角筋を止めても金取りの先手で,後に☗8五桂と飛車取りにも跳ね出せる一手。こううまい手順が続いては先手がはっきりとよくなりました。
 3勝2敗で里見女流王座が防衛第3期,6期に続く連覇で通算3期目の女流王座です。

 スピノザ主義者がスピノザの思想とともに狂ってしまうのは,理性への過信の一種とみることができます。理性ratioはそれ自体では感情affectusを抑制することはできません。自分の感情を抑制することができないのですから,排他的思想を有する人びとの排他的感情を抑制することはなおのことできないことを踏まえておかなければなりません。ただ,現実的に存在する人間は,往々にしてこの種の過ち,すなわち自身の信じているものを過信してそれととともに狂ってしまうという過ちを犯します。一例をあげておきましょう。
 タリバーンという似非イスラム主義者たち,僕はあのような思想をイスラム思想とは認めませんので,似非イスラム主義者といっておきますが,かれらは数々の宗教的遺産を破壊するという行動に出ました。かれらによればそれは,イスラムが偶像崇拝を禁じているからだそうです。
 しかし僕の考えでいえば,かれらはかれらが信ずる偶像崇拝の禁止という思想ないしは教えとともに狂っているのです。そして彼らが具体的にどのように狂っているかといえば,かれらが偶像というものを形あるものだと思い込んでいる点にあります。つまり偶像とは知性intellectusの外にある形相的有esse formaleであるとかれらは思い込んでいるのです。ですがそれはあり得ないです。偶像というのは精神mensのうちにもある,もっといえば知性の外により知性のうちに客観的有esse objectivumとしてあるものなのです。実際,何らかの形あるもの,たとえば宗教的偶像を形成してそれを拝むことは,確かに偶像崇拝であるといえるでしょう。しかしそれは,その崇拝者たちが,その宗教的偶像が信仰fidesの対象になるというように思い込んでいるから成立しているのであって,この意味では偶像はむしろ崇拝者の精神のうちにあるのです。
 そこでこの崇拝をやめさせるために宗教的偶像を破壊するという行為は,宗教的偶像を内面的に偶像化している崇拝者たちとはちょうど逆の形で偶像を内面化させていることになります。端的にいえばタリバーンにとっては,かれらの信じている偶像崇拝を禁止するという教え自体が精神のうちで偶像となっているのです。つまりタリバーンはその教えとともに狂っているのです。
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棋王戦&実践の規準

2017-12-21 19:14:27 | 将棋
 15日に指された第43期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は1勝すれば挑戦者の永瀬拓矢七段が1勝,連勝で挑戦者の黒沢怜生五段が0勝。
 振駒で黒沢五段の5筋位取り中飛車から相穴熊。後手の永瀬七段から仕掛けました。玉型は先手と比べて不備がありましたが,よいタイミングの仕掛けであったように思います。
                                     
 後手が角を打って駒得を目指すとともに先手の狙いの☗4四銀を阻止した局面。先手は両方を受けるために☗6六角と打ち☖同角成☗同歩と進みました。
 ここでは☖4五角と打てばまた駒得を目指しつつ銀の進出も防げましたが☖6七角と打ちました。この後の後手の読み筋からすると☖4五角が優ったと思いますが,これも悪い手ではありません。先手は☗7八角と打って☖4五角成を防ぎました。
 後手は☖7七歩成☗同桂と捨ててから☖7六角成と反対側に馬を作ったのですがこれが緩手。6七に打ったのを生かして☖4九角成☗同金☖8七歩成と攻めれば,☗7八角を咎めることができたようです。実戦は角を切らなかったので☗7四飛と馬取りに回られ☖3二馬の撤退を余儀なくされました。
                                     
 第2図となって後手玉は堅いのですが☗8六歩と取られて攻める場所を失うことに。ここからは先手がよくなっているようです。
 黒沢五段の勝利で第二局が実現。27日に指されます。

 スピノザの哲学では自然の多様性が肯定されていて,人間も自然の一部であるからには,人間の多様性も同じように肯定されなければならないということは理解できたと思います。そしてこのことが,スピノザの哲学の実践の上では,最重要な規準となります。なぜなら,人間の多様性が肯定されるべきものであるなら,ある特定の人間あるいは人間の集団を悪malumとみなし,あるいはそうでなくとも異質とみなし,それを排除するような主義や思想,またアジテーションやデモンストレーションといった言動のすべては,スピノザの思想と相反するものであることになるからです。
 民族主義や国家主義,あるいは優性思想とか異教徒や異端者の排斥といったように,こうした思想や言動は多岐にわたります。そうしたもののすべてが,人間の多様性を否定しているという共通の観点から,スピノザの哲学と全面的に対峙することになります。他面からいえばスピノザの思想は,そのような排他的思想とは鋭く対立するような思想としてあるのです。そしてこのような意味において,スピノザの思想は現在的にも大きな意義をもっているということができるでしょう。
 ただし,実践として重要であるのは,単にそのような排他的思想と対峙するなら,いい換えれば排他的思想を有する人びとの虚偽falsitasあるいは誤謬errorを非難すれば事足りるというわけではないということです。実際,もしスピノザの思想に従ってそのような言動を採用するということになれば,これは排他的な人びとを悪とみなすすなわち否定しているも同然であって,これではスピノザの思想に従うことによって人間の多様性を否定する,すなわちスピノザの思想を否定しているのと同じことです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第十五章の冒頭において,理性ratioが聖書に奉仕すべきと主張する懐疑論者scepticiは理性なしに狂っていて,聖書が理性に奉仕すべきであると主張する独断論者dogmaticiは理性とともに狂っているという意味のことをいっています。それと同じように,排他思想の持ち主はスピノザ主義なしに狂っているのですが,スピノザの哲学に従って排他思想の持ち主を否定する者は,スピノザ主義とともに狂っているのです。
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ゴールドカップ&第四部定理三五系一

2017-12-20 19:24:45 | 地方競馬
 第55回ゴールドカップ
 短距離で実績を残しているフラットライナーズがハナへ。1馬身半ほどでソルテが2番手。また1馬身半差でケイアイレオーネが3番手。同じくらいの差でキタサンミカヅキが4番手で半馬身差の5番手にサニーデイズ。その後ろはカオスモス,キスミープリンス,テムジン,サブノジュニアの4頭で集団。この後ろは差が開いてアンサンブルライフ。また差が開いてハーキュリーズ。さらに差が開いてヴァーゲンザイルという隊列になりました。最初の600mは36秒6のミドルペース。
 最初に動いたのはキタサンミカヅキで,3コーナーを回るとケイアイレオーネを外から交わして3番手に。この動きに気付いたソルテも動き,直線の入口ではフラットライナーズを交わして先頭。直線ではソルテの外からキタサンミカヅキが追い,先を越されたものの立て直されたケイアイレオーネがキタサンミカヅキの外を伸びて3頭による熾烈な優勝争い。制したのは内のソルテ。外のケイアイレオーネがアタマ差の2着で中のキタサンミカヅキがハナ差で3着。
                             
 優勝したソルテは昨年のさきたま杯以来の勝利。南関東重賞は昨年2月のフジノウェーブ記念以来の勝利で9勝目。第53回以来2年ぶりのゴールドカップ2勝目。このレースは接戦を演じた3頭の能力が明らかに上位でしたが,それぞれに課題を抱えていたので近走の好調馬が逆転というケースもあり得るとは思っていました。しかしそれぞれが課題を克服したのできわめて順当な結果に。ソルテの場合,このコースと距離で重賞を勝ったくらいですから,その部分の適性は最上位。ただここが9ヶ月の休み明けという点が克服すべき課題でした。故障後の長期休養明けでの復活は立派ですが,さすがに年齢的なこともあり,昨年夏くらいまでの活躍を期待するのはやや酷ではないかと思います。父はタイムパラドックス。ひとつ下の全弟に今年のかきつばた記念を勝っている現役のトウケイタイガー。Sorteはイタリア語で運命。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手は南関東重賞はクラウンカップ以来の勝利で通算22勝目。第53回以来2年ぶりのゴールドカップ2勝目。管理している大井の寺田新太郎調教師も第53回以来2年ぶりののゴールカップ2勝目。南関東重賞はこれが17勝目。アラブ重賞を除くと11勝目。

 より積極的な側面,すなわち人間は理性ratioに従っている限りでは人間の多様性を肯定する,いい換えれば多様な人間が存在することを善bonumとみなすということについては,第四部定理三一を援用することができます。人間は理性に従う限りではその本性naturaが一致するのであり,本性が一致する限りでは必然的にnecessario善ですから,理性に従う限りで人間を善とみなすつまり肯定することになるからです。このことから一般的に理解できるように,現実的に存在するある人間が理性に従っている場合,その人間にとって最も善であるものすなわち肯定することができるものは,理性に従っている別の人間であることになります。これは第四部定理三五系一で示されています。
 「人間にとっては,理性の導きに従って生活する人間ほど有益ないかなる個物も自然の中に存しない」。
 この系Corollariumは理性に従う人間が,人間にとって最も有益な個物res singularisであるといっていて,理性に従う人間が理性に従う人間にとって最も有益な個物であるとはいわれていません。つまり理性に従う場合でも従っていない場合でも,人間にとって最も有益な個物は理性に従う人間であるといっているのです。このとき,もしその人間もまた理性に従っているなら,理性に従う相手側の人間が自分にとって最も有益であるということを確実に認識するでしょう。しかしそうでない場合には,そのように認識しない場合もあり得ます。たとえば第四部定理五七は,高慢superbiaな人間は理性に従う人間を憎むといっているようなものであり,実際にそのようなことが生じ得ることをスピノザは認めているといえます。しかしたとえ高慢な人間にとっても,理性に従う人間が最も有益な個物であり,それは阿諛追従の徒ではないということがこの系でいわれていると解してよいでしょう。
 逆に,理性に従っている人間は,理性に従っている人間を最も有益な個物と認識するでしょうが,たとえ理性に従っていない人間のことも有益であるとは認識します。それでも人間以外の個物よりは本性の一致をみる筈だからです。よって理性に従う限りでも,人間は人間の多様性,すなわち多種多様な人間が現実的に存在することを肯定するのです。
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南三条①&悪の条件

2017-12-19 19:15:25 | 歌・小説
 「親愛なる者へ」というドラマが放映されたとき,登場人物の台詞の中に中島みゆきの楽曲の歌詞がそのまま使われるという例がありました。僕の記憶に残っているものとして,「それ以上言わないで」や「タクシー ドライバー」のほかに,もうひとつあります。それが「南三条」という曲の中の一部です。
                                     
 台詞に用いられたのは以下の一節の一部でした。

     どこまでゆくのと
     背中で眠る赤子を揺りあげながら
     私ふけたでしょう あなたより年上みたいねと


 この一節は状況を説明しないと意味が飲み込めないでしょう。
 ある女が,地下鉄の駅へ向って人通りの多い通路を歩いていると,だれかが駆け寄って袖を引きました。振り返って見ると,それはかつて愛した男を自分から奪い去った女でした。その女が,赤ん坊をおんぶして,袖を引かれた女に向けて発したのがこのことばです。ただ,ドラマの中では赤ん坊はいなかったと思います。袖を引かれた方が浅野ゆう子さんで,台詞を言ったのが斉藤慶子さんだったのではないかと思うのですが,これは間違っているかもしれません。
 この歌詞はひとつのことを表しています。それは,袖を引いた方の女は少なくとも袖を引かれた方の女よりも年上ではない,つまり同い年か年下であるということです。ドラマでもこれをそのまま使うことによって,そうした関係性を表現できたといえるでしょう。
 楽曲の全体がダイナミズムに溢れた面白いものなので,いずれの機会に詳しく紹介します。

 第四部定理三五がいっているのは,どんな人間でも理性ratioに従っている限りでは本性naturaの上で一致するということです。これは各々の本性が相反する条件を満たしていません。よって人間は理性に従う限りでは,人間の多様性を肯定するということ,少なくとも否定negatioはしないということが出てきます。
 ただ,今回の考察では,肯定と否定を,善悪の関係から示してきました。すなわち第四部定理一九で示されていることを規準として,善bonumを肯定し悪malumを否定するのが人間の現実的本性actualis essentiaであると規定してきたのです。人間は理性に従う限りでは互いに相反することがないので,人間の多様性を否定しないということ,他面からいえばどんな他人のことも否定しないということは明らかではありますが,これを善悪の関係からもみておく必要もあるでしょう。
 まず消極的な側面,すなわち悪の否定の方から示します。このためには第四部定理三〇を援用することができます。ここではあるものは僕たちの本性と共通する要素によって悪であることはなく,対立的なものによって悪であるといわれています。つまり相反するとはいわれずに対立的といわれているのですが,このふたつは同じ意味と考えて間違いありません。なぜなら,スピノザはこの定理Propositioの証明Demonstratioにあたって,最後の部分で,相反するといっている第三部定理五に訴求し,対立的であると結論づけているからです。よって相反する本性と本性が対立的であるというのは同じ意味であって,第三部定理五で相反する条件が示されているとすれば,第四部定理三〇では,その相反する条件は,僕たちがものを悪とみなす条件にそっくりそのまま適用することができるということが示されているのです。
 しかるにすでにみたように,理性に従う限りでは人間は本性の上で一致するのです。いい換えればある人間の現実的本性と別の人間の現実的本性は,理性に従う限りでは相反することはありませんし対立的でもありません。よってこの限りでは現実的に存在する人間が他者を悪とみなすことはなく,そのゆえに否定することもないのです。このようにして,第四部定理六四に訴えずとも,このことを論証することができるのです。
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九十九島賞争奪戦&相反する条件

2017-12-18 19:00:51 | 競輪
 昨日の佐世保記念の決勝。並びは坂本‐成田‐和田の北日本,山田‐椎木尾の近畿,北津留‐井上‐園田の九州で吉田は単騎。
 井上がスタートを取って北津留の前受け。4番手に坂本,7番手に山田,最後尾に吉田の周回。残り3周のバックの出口から山田が上昇開始。ホームで北津留は引いて山田が誘導の後ろに入りました。坂本は北津留に蓋をするようにバックまで併走し,ここから発進。山田を叩いて打鐘。4番手に山田,6番手に北津留,最後尾に吉田の一列棒状でホームに入ると,吉田はインから上昇し,椎木尾の後ろに入って北津留が7番手に。好位置になった山田が捲って優勝。追って捲った吉田の外から直線で差し込んだ井上が半車身差で2着。吉田が半車輪差で3着。
 優勝した京都の山田久徳選手は記念競輪初優勝。このレースは地元の井上に前を任された北津留がどういう競走をするのかということと,単騎の吉田がどう動くのかということがポイントだと思っていました。井上が前を取って前受けして,山田が斬りにきたときにあっさりと引きましたから,引いてから巻き返すというのは九州の作戦としてあったのではないかと思います。吉田がこのラインを追わなかったのは,おそらく前を斬っても山田がそのまま先行するということはないとみていたからでしょうし,坂本ラインに続かなかったのも,北津留がすぐに巻き返していくからだと思っていたからだと推測されます。坂本の先行はあり得る展開のひとつだとは思われますが,こんなに単調なレースになるとは予想外。どこか拍子抜けしてしまうような競走でした。山田だけがうまく立ち回って自分の力を十分に出せたがゆえの優勝ではないでしょうか。

 ひとつ注意しておかなくてはならないのは,スピノザはあまり主体といういい方は用いないのであって,それが用いられる場合には用心して解釈しなければならないということです。
                                
 第一部定理三二から分かるように,スピノザは意志voluntasの自由liberaを認めません。これは想像ないしは表象imaginatioの産物です。ところが主体という語は,まずはこのような自由な意志の主体としてイメージされます。実際,人間には自由な意志があると思い込んでいる人は,主体というのを自由な意志の主体と思い込むのは当然のことでしょう。このふたつはほぼ同じことを意味していると解することができるからです。
 しかしスピノザは自由な意志を認めないのですから,スピノザが主体という語を用いたとしても,それは上述のような意味ではあり得ません。このことは常に注意しておかなければならないことのひとつです。第三部定理五で主体といわれる場合についていえば,これはたとえばAというのをひとつの個物res singularisとみなし得るならば,そのAのうちにはAの本性naturaと相反する本性は存在し得ないということです。いい換えればAの本性を滅ぼし得るような本性はAのうちには存在し得ない,いい換えればそうしたものはAの本性を構成し得ないということです。
 しかしAとは別の個物,たとえばBという個物の本性はAの個物と相反する本性すなわちAあるいはAの本性を滅ぼし得るような本性であり得るのです。もし自然のうちに個物がAとBのふたつだけしかないと仮定するなら,第四部公理四により,Aの本性とBの本性は必然的にnecessario相反する本性である,いい換えればAの本性はBの本性を滅ぼし得るし,Bの本性はAの本性を滅ぼし得るということが帰結しなければなりません。これはきわめて非現実的な論理ではありますが,ここから重要なことが分かります。それはすなわち,この例でいえば,Aの本性とBの本性に相違がある限りにおいて,Aの本性とBの本性は相反するのだということです。他面からいえば,Aの本性にもBの本性にも共通する要素によっては,ふたつの本性が相反するとはいわれ得ないということです。つまり本性が一致するなら,相反することもないのです。
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朝日杯フューチュリティステークス&相反する本性

2017-12-17 19:09:12 | 中央競馬
 第69回朝日杯フューチュリティステークス
 好発はダノンプレミアム。これを外からかなり押して交わしていったケイティクレバーの逃げ。ファストアプローチも2番手に上がり控えたダノンプレミアムは3番手。その後ろにアサクサゲンキとカシアス。そしてアイアンクローとダブルシャープ。さらにフロンティアとタワーオブロンドンが続き,ムスコローソ,ケイアイノーテック。後方2列目にダノンスマッシュとステルヴィオ。最後列にヒシコスマーとイシマツとライトオンキューの3頭。前半の800mは47秒2のスローペース。
 直線に入るところで逃げたケイティクレバーと2番手のファストアプローチの外に進路を選んだのがカシアス。ダノンプレミアムは前2頭の間を突いて先頭に立つとそこから後続との差を広げる一方になり,3馬身半の差をつける圧勝。ダノンプレミアムと同様に2頭の間に進路を取ったタワーオブロンドンが一旦は2番手。これに外からケイアイノーテックとステルヴィオが並んで追い込み,2着争いはこの3頭。大外のステルヴィオが2着。タワーオブロンドンがクビ差の3着。ケイアイノーテックはハナ差で4着。
 優勝したダノンプレミアムは6月の新馬戦を4馬身差で勝利。10月にサウジアラビアロイヤルカップに出走してレコードタイムで優勝。連勝でここに臨んでいました。未対戦の馬もいましたから能力を完全に比較できていたわけではありませんが,優勝候補の筆頭ではあるだろうと思われた馬。それでもこれだけの差をつけることができるとまでは考えていませんでした。この距離でこんなに強いレースをすると距離の延長には一抹の不安はありますが,絶対能力は非常に高い馬で,相当の活躍を期待してもいいのではないかと思います。父はディープインパクト
                                     
 騎乗した川田将雅騎手は安田記念以来の大レース14勝目。朝日杯フューチュリティステークスは初勝利。管理している中内田充正調教師は開業から3年9ヶ月で大レース初勝利。

 第四部定理三五が理性ratioに従う限りではすべての人間の本性humana natura,natura humanaが一致するということを述べていて,それが一致するなら人間の多様性を否定する要素が何もないというのは,自明のことではないかもしれません。なのでこのことを論証しておきましょう。
 まず,人間の多様性を否定する要素がないというのは,たとえば現実的に存在する人間が,同様に現実的に存在するほかの人間を否定する要素がないということを具体的に意味します。要するに他者を否定する要素が何もないということです。これは他者がどれだけ存在するのだとしても同じことです。つまりどれほど多くの人間が存在したとしても,否定される人間はひとりも存在しないということです。このことを僕は人間の多様性の肯定といっています。この置き換えに異論はないでしょう。というより,人間の多様性を肯定するということは,現実的にはこのような意味を有していなければならないと僕は考えます。
 第三部定理五は,何をいおうとしているのかということとは別に,相反する本性とは何であるかを教えてくれます。あるものが別のものを滅ぼし得る限りで,そのあるものと別のものとは相反する本性を有するといわれているのです。
 この本性は,現実的に存在する人間にあってはその現実的本性actualis essentiaでなければなりません。したがって第三部定理七により,それはコナトゥスConatusです。よって,たとえばAのコナトゥスがBのコナトゥスを滅ぼし得るなら,あるいは逆にBのコナトゥスがAのコナトゥスを滅ぼし得るなら,AのコナトゥスとBのコナトゥスは相反するといわれなければなりません。そしてコナトゥスは自己の有suo esseには固執するので,もし相反するコナトゥスを有するようなものと出会う場合には,その力が弱小化し得ます。これは逆に考えた方がいいでしょう。相反する本性を有するなら一方が他方を滅ぼし得るから,それは同じ主体の中にあり得ないということは,現実的に存在する個物res singularisが自己の有に固執する傾向に相反するからだと考えられるからです。ただ,同じ主体の中ではあり得なくても,異なった主体の間では相反する本性を有するという場合はあり得ますし,実際にあるのです。
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