スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ALSOK杯王将戦&真理の産出

2023-02-28 20:11:24 | 将棋
 25日と26日に大田市で指された第72期王将戦七番勝負第五局。
 藤井聡太王将の先手で羽生善治九段の横歩取り。序盤早々から激しい戦いに突入したので短手数での決着もあり得る展開でしたが,それなりの手数になりました。なのでその間にはいくつかの分岐点があったことになります。
 25日の午後,先手は長考の末に桂馬を跳ねていきました。これに対して桂馬が跳ねて空いた地点に歩を打って直線的な攻め合いにいけば後手有望とAIは指摘。ただ後手は歩を成り捨てて銀と桂馬の両取りに飛車を打つ手順に進めました。先手が長考の末に桂馬を跳ねたのは,直線的な攻め合いは大丈夫との判断があったからであり,後手も長考してその手順を断念していますので,それは無理と判断したものです。つまり攻め合いでは後手が無理ということで両者の判断が一致したのですから,これを逸機とみるのはできないと僕は考えます。
 後手の両取りに対して玉頭に桂馬を成り捨てたのが先手の素晴らしい判断で,ここで先手が優位に立ちました。ただし26日に入り,飛車を8筋に成り込む代償に遊んでいた後手の桂馬を働かせる手順となり,後手が挽回。とはいえそれは互角に近くなったというだけなので,これも先手にとってミスといえるほどのミスではなかったと僕には思えます。
 ここから激しく攻め込んでいった先手が,いくつかの攻め筋があるところで桂馬に当てて銀を打ちました。これを契機に後手が優勢に。ただ,この将棋は後手が角を打って王手龍取りとか詰めろ龍取りを掛ける変化があり,ここに銀を打っておけば単に攻めるだけでなく,龍にヒモがつくので,仮にそういう順に進んでもタダで龍を取られることはなくなる手です。先の見通しが立っていない限りそのような策を講じるのは普通なので,これもミスらしいミスとは僕には思えません。むしろその直前に金を打って受けた後手の粘りが好手だったということだと思います。
 逆転した後手は,先手の玉頭に銀を打って詰めろ龍取りの順に進めるか,単に受けに回るかの選択の局面まで進んだところで受けを選択。ただこの受けた手が実は受けになっていなかったので,すぐに先手の勝ちで終わりました。詰めろ龍取りの手順は先手玉が上部に脱出することになり,勝ち負けの見通しが立たなかったために受けに回ったのですが,それが受けになっていなかったということは,その後の先手の攻め筋を見落としていたからだと推測されます。受けが難しいということが分かっていれば,見通しが立っていない方に進めるのが普通でしょうから,ここで受けに回ったのは敗着だったと僕は思いますし,少なくともそうであった可能性が高いだろうと考えます。
                                        
 藤井王将が勝って3勝2敗。第六局は来月11日と12日に指される予定です。

 平面上に作図された三角形の内角の和は二直角です。このことはスピノザの哲学では永遠のaeternus真理veritasであるとされます。これは三角形の本性essentiaではなく,三角形の特質proprietasですので,思惟の様態cogitandi modiとしてみるなら,三角形が十全に認識されたときに含まれる意志作用volitioです。つまり三角形に対してその内角の和が二直角であることを肯定するaffirmare意志作用であることになります。ただしスピノザの哲学では,第二部定理四九により,意志作用は観念ideaに含まれているものであり,かつ観念には意志作用が必ず含まれているのですから,この意志作用が含まれている知性intellectusのうちには三角形の十全な観念idea adaequataがあります。ある図形について内角の和が二直角であることを肯定する意志作用は,平面上に描かれた三角形だけを肯定する意志作用であり,ほかのものを肯定する意志作用ではあり得ないからです。
 このことが,スピノザの哲学では永遠の真理とされるわけです。しかしもし神Deusが自由意志voluntas liberaによって,平面上の三角形の内角の和が二直角ではないようにすることができる,たとえば三直角にすることができるのであれば,少なくともこの意志作用が平面上の三角形を永遠に肯定する意志作用であることはできなくなります。つまりそれは,その知性がそのことを肯定する意志作用を含むことによって有しているとされる三角形の観念が,永遠に十全な観念であることはできないということです。
 僕は単にこのことだけで,神の本性に自由意志が含まれていては,その神を最高に完全summe perfectumであるとみなすことはできないと考えます。この意志作用と観念の関係はあらゆる個々の観念と個々の意志作用に妥当するのであり,そのためにスピノザの哲学では第二部定理四九系にあるように,個々の観念の総体である知性と個々の意志作用の総体である意志voluntasが同一であるとされるのです。よって神が自由意志によって真理を虚偽falsitasにしたり有esseを無にしたりできるなら,あるいは逆に虚偽を真理にまた無を有にすることができるのであれば,永遠の真理といわれる事柄は何もないことになります。つまりこの神は真理を創造したり産出したりすることはできません。対してスピノザの神は,真理だけ創造あるいは産出するのです。
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読売新聞社杯全日本選抜競輪&真理の原理

2023-02-27 19:37:23 | 競輪
 高知競輪場で行われた昨日の第38回全日本選抜競輪の決勝。並びは新田‐守沢‐成田の北日本,吉沢に香川,脇本‐古性‐三谷の近畿で浅井は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。4番手に浅井,5番手に吉沢,7番手に脇本で周回。残り2周のバックで浅井と吉沢,香川と脇本の車間がそれぞれ開いて打鐘。コーナーに差し掛かったところから脇本が発進。ホームで新田を叩くと,新田は古性のインで粘りました。しかしこの競りは古性が守り,バックに入って新田は内を後退。外から浅井が捲りその後ろに吉沢が続きましたが,これは前まで届かずに不発の形。直線は車間を少し開けていた脇本の番手から古性が踏み込んで優勝。新田の後ろからうまくすり抜け,古性と三谷の間を割った守沢が1車輪差で2着。古性マークの三谷が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は昨年6月の高松宮記念杯以来の優勝。ビッグ5勝目でGⅠは4勝目。全日本選抜競輪は昨年からの連覇で2勝目。このレースは新田がいつものように前受け。それに対して脇本が残り1周半の段階から捲っていったので,脚を残すだけの余裕がありませんでした。古性も新田に競られましたので楽ではなかったのですが,わりとあっさり決着をつけることができたので,脚力をひどく消耗するまでには至りませんでした。記念競輪よりもビッグで結果を残しがちなのは,脇本の番手を周ることが多いからで,ビッグになると脇本も記念競輪レベルよりも脚を使わなければならないために,差しやすくなるということでしょう。

 円の十全な観念idea adaequataが持続duratioのうちに存在するのでないなら,それは永遠aeternumから永遠にわたって存在することになります。第二部定理八系のいい方に倣えば,それはDeusの無限な観念が存在する限りにおいて存在する観念です。つまり現実的に存在する人間は,円を十全に認識するcognoscere限りでは,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在する円の観念を認識しているといわなければなりません。そしてもちろん,円の観念というのは一例にすぎないので,どんな観念対象ideatumであれ,それを十全に認識するのであれば,その観念対象についての永遠のaeternus真理veritasを認識していることになります。これは神の無限な観念が永遠から永遠にわたって存在する思惟の様態cogitandi modiであるからで,このゆえに真理が思惟の様態であったとしても,持続のうちに存在する人間の精神mens humanaが,永遠の真理を認識するということが可能になっているのです。
                                   
 これが基本的なスピノザの哲学における真理の認識の原理です。このために,真理が虚偽falsitasになるということはありません。よって,虚偽が真理になるということもあり得ないのです。また,十全な観念と混乱した観念idea inadaequataの関係は,有esseと無の関係をも意味するのですから,有であるものが無になるということもないし,無であるものが有になるということもないのです。よって,スピノザの哲学における神は,真理を虚偽にすること,また虚偽を真理にするということは不可能だし,同じことですが有を無にすることと無を有にすることは不可能です。
 そこで,そうしたことを自由意志voluntas liberaによってなし得る神が存在するとしましょう。一見するとそういう神は,確かにスピノザがいう神にはなし得ないことをなし得ることになりますから,スピノザが示している神よりも完全であるようにみえるかもしれません。ところが,スピノザの哲学における真理の原理からすると,神がそれをなし得ると主張するならば,真理は永遠であることはできないことになります。真理を虚偽にすることができるのなら,今日は真理であったことが明日には虚偽になるということも想定しなければなりませんし,逆に今日は虚偽であったことが明日には真理とされるということも想定しなければなりません。
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サウジアラビア諸競走&円の観念

2023-02-26 20:24:58 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜から今日の未明にかけてサウジアラビアのキングアブドゥルアジーズ競馬場で行われた国際競走に,20頭の日本馬が遠征しました。頭数が多いので,各馬がどのようなレースをしたのかは省略します。
 1351ターフスプリントGⅢ芝1351m。このレースはバスラットレオンが逃げ,直線に入って一旦は2番手以下との差を広げました。そこに離れた外からアメリカのCasa Creedが追い込んできました。しかし届かず,一杯に逃げ切ったバスラットレオンが優勝しました。レシステンシアが5着,ラウダシオンが9着,ソングラインが10着。
 優勝したバスラットレオンは昨年のゴドルフィンマイル以来の勝利で重賞3勝目。父はキズナ。従兄に2018年の福島記念,2019年の小倉大賞典とオールカマーを勝ったスティッフェリオ。日本馬による海外重賞制覇は香港ヴァーズ以来。サウジアラビアでは昨年のリヤドダートスプリント以来。1351ターフスプリントは昨年からの連覇で2勝目。騎乗した坂井瑠星騎手は昨年のゴドルフィンマイル以来の海外重賞2勝目。管理している矢作芳人調教師は昨年のドバイターフ以来となる海外重賞11勝目。
 レッドシーターフハンデキャップGⅢ芝3000m。このレースは3番手の内を追走していたシルヴァーソニックが直線の入口で逃げ馬と2番手の馬の間を割って先頭に立ち抜け出すと,一旦は2着馬との差が縮まりましたが再び突き放し,完勝しました。エヒトは7着。
 優勝したシルヴァーソニックはステイヤーズステークスから連勝で重賞2勝目。父はオルフェーヴル。母が2001年に阪神牝馬ステークスを勝ったエアトゥーレで祖母が1990年に京王杯スプリングカップを勝ったスキーパラダイス。11歳上の半兄にキャプテントゥーレ。日本馬は昨年からの連覇でこのレース2勝目。騎乗したオーストラリアのダミアン・レーン騎手は香港ヴァーズ以来の日本馬に騎乗しての海外重賞5勝目。管理している池江泰寿調教師は2013年のフォワ賞以来の海外重賞3勝目。
 サウジダービーGⅢダート1600m。このレースは逃げた馬と2番手の馬が直線の入口で後続を5馬身ほど離し,そこからフィニッシュまで競り合っての優勝争い。外の馬が競り勝って優勝。デルマソトガケが3着,コンティノアールが5着,フロムダスクが9着,エコロアレスが12着。
 リヤドダートスプリントGⅢダート1200m。このレースは前の5頭が一団でのレース。少し離れた6番手を追走した昨年のブリーダーズカップスプリントの勝ち馬が外から一気に突き抜けて快勝しました。リメイクが3着,ジャスティンが4着,ダンシングプリンスが5着,リュウノユキナが6着。
 サウジカップGⅠダート1800m。このレースはパンサラッサが後ろをそれほど引き離すことなく逃げました。直線に入って追っていたジオグリフとカフェファラオを突き放すと大外から追い込んできた昨年のドバイワールドカップの勝ち馬のCountry Grammerの差し脚も封じて逃げ切りました。カフェファラオが3着,ジオグリフが4着,クラウンプライドが5着,ジュンライトボルトが7着,ヴァンドギャルドが11着。
                                        
 優勝したパンサラッサは昨年のドバイターフ以来の勝利で大レース2勝目。父はロードカナロア。Panthalassaはかつて地球上に存在した唯一の海。日本馬による海外GⅠ制覇は香港ヴァーズ以来。サウジアラビアでは初勝利。騎乗した吉田豊騎手は昨年のドバイターフ以来の大レース13勝目。海外GⅠは2勝目。管理している矢作芳人調教師は1351ターフスプリントに続く海外重賞12勝目。昨年のドバイターフ以来の大レース24勝目。海外GⅠは8勝目。

 Xは何でもいいわけですから,ここでは円と仮定してみましょう。
 現実的にAという人間が存在して,Aの精神mensのうちに円の十全な観念idea adaequataがあるとします。この円の観念は,Aの精神という様態的変状modificatioに様態化した限りでの神Deusのうちで十全です。ですが,円の十全な観念は,必ずこの様式で神に帰せられなければならないわけではありません。現実的にBという人間が存在して,Bの精神のうちに円の十全な観念がある場合は,Bの精神という様態的変状に様態化した限りで神のうちに円の十全な観念があるという様式で神に帰せられなければならないからです。円の十全な観念は,Aの精神のうちにもBの精神のうちにも現実的に存在し得るので,このことは現実的に成立しなければなりません。ただ,どう帰せられようと神のうちに円の十全な観念があるという点では同一ですから,Aの精神のうちにあろうとBの精神のうちにあろうと,円の十全な観念の形相formaは同一です。いい換えれば,Aが認識するcognoscere円の十全な観念とBが認識する円の十全な観念は,同一の観念であって,区別することはできません。よって,Aが認識する円の真理veritasとBが認識する円の真理が異なることはないのです。
 Aは現実的に存在するとされていますから,存在しないと考えるconcipereこともできます。ここでは分かりやすく,Aが死ぬという例を用います。Aの精神は現実的に存在する精神なので,それ自体はAが死ぬことによって存在することをやめます。よってAの精神のうちにある円の観念も存在することをやめるといわなければなりません。しかし,だからといってそれは,円の十全な観念が存在することをやめるとか,円の十全な観念が十全であることをやめて混乱した観念idea inadaequataになることを意味するのではありません。Aが死んだからといって,Bの精神のうちにある円の十全な観念が存在しなくなるというのは不条理ですし,Bの精神のうちにある円の十全な観念が混乱した観念になるということもまた不条理です。よって円の十全な観念は,Aの精神のうちにあるとみられる限りでは持続duratioのうちに存在するのですが,Aの精神のうちにもBの精神のうちにもあるとみられるなら,そうではないのです。
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岡田美術館杯女流名人戦&永遠性の理由

2023-02-25 19:25:08 | 将棋
 昨日の第49期女流名人戦五番勝負第四局。
 西山朋佳女王・女流王将の先手でノーマル三間飛車。先手の美濃囲いに対して後手の伊藤沙恵女流名人がやや挑発的とも感じられるような手順で銀冠穴熊に組み,対して先手から仕掛けていく将棋に。そこからは両者が致命的な悪手を指さないまま一進一退の攻防が延々と続く大変な名局となりました。
                                        
 第1図から入玉を目指して☖4五王と上がったのですが,これが敗着となったようです。☖6七歩☗同飛☖3三桂と打つべきだったとのことです。これは次の☗3三歩が厳しい一手だったため。
 この手に対して☖4七歩成は入玉を目指す継続手ですが,この局面は一旦は☖6二歩と打って先手の応手を打診しておいた方がよかったのではないかと思います。実戦の手順は金を引いて龍を取りにいく形になりましたが,これは効率が悪くなってしまったように感じられます。
 3勝1敗で西山女王・女流王将が女流名人を奪取。女流名人は初の獲得です。

 十全な観念idea adaequataが存在することをやめる要因がないのであれば,十全な観念は永遠aeternumであることになります。僕は真理veritasは思惟の様態cogitandi modiであるといいました。それは真理は認識されるもので,知性intellectusの外にある事物に,いわば形相的有esse formaleとしてあるのではないということです。それなのに.持続duratioのうちに存在する知性の一部を構成する十全な観念が永遠であるということは,不思議に感じる人は不思議に感じるだろうと思います。なぜこのようなことが生じるのかということは,ふたつの観点から説明することができます。
 ひとつはスピノザは観念の存在existentia,これは観念に限らずすべての事物の存在といってもいいのですが,その事物の存在を,永遠のものと持続のもののふたつに分けて考えているからです。これは第二部定理八系にいわれている通りで,ある観念はDeusの無限な観念が存在する限りにおいて存在すると同時に,持続するdurareといわれる存在も含むのです。よって持続するといわれる観念が同時に神の無限な観念が存在する限りにおいて存在する観念であるという場合があるのであって,その場合には持続する精神のうちに永遠なaeternus観念があることになります。
 しかしこのことは,たぶん次のように考える方が分かりやすいでしょう。たとえば現実的に存在するAの精神mensのうちにXの十全な観念があるとき,Aの精神という様態的変状modificatioに様態化した限りで神のうちにXの十全な観念があると説明されるのです。しかしこれは,Xの十全な観念が神に帰せられる場合のすべての仕方を意味するわけではありません。Aの精神のうちにXの十全な観念があるからこのように神に帰せられるのであって,Bの精神のうちにある場合にはBの精神という様態的変状に様態化した神のうちにXの十全な観念があるという仕方で神に帰せられることになります。このとき,帰せられ方は異なっても,神のうちにあることに変わりはありませんから,形相formaが異なるわけではありません。このことがどのような精神であっても成立するのです。
 簡単にいえば,Xの真理は形相的有としてあるわけではないのですが,Xはどのような知性にとっても観念対象ideatumにはなるのであって,そのとき真理になり得るのです。
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朝日杯将棋オープン&観念の永遠性

2023-02-24 19:53:44 | 将棋
 有楽町朝日ホールで指された昨日の第16回朝日杯将棋オープンの決勝。対戦成績は藤井聡太竜王が14勝,渡辺明名人が2勝。
 振駒で藤井竜王が先手となり,渡辺名人の雁木。先手の棒銀という戦型になりました。
                                        
 第1図から☖7五歩と攻めていったのですが,これが拙速であったようです。
 ☗5五歩☖7六歩☗8六角☖5五歩☗7四歩☖8五桂☗6四角☖同銀という手順で角交換に進み,その瞬間に☗7三角と打たれました。
                                        
 これは取るほかありませんが,先手は駒損ながらと金を作ることに成功。このと金がすぐに後手玉を寄せるのに役立つわけではないのですが,後手の飛車を押さえ込んで先手の上部が厚くなったのが大きく,後手が攻めることが難しくなりました。なので第2図は先手が焦らずに着実に攻めていけば勝ちが近づいてくるという局面となっているようです。第1図では後手は何か手を渡すような手を指さなければいけなかったようです。
 藤井竜王が優勝。第11回.12回,14回に続き2年ぶり4度目の朝日杯将棋オープン優勝です。

 主体の排除との関係で何度かいっていることですが,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるという場合は,この観念の形相formaは神DeusのうちにあるXの十全な観念と同一です。このことは汎神論と関係しているのであって,現実的に存在するAという人間の精神のうちにXの十全な観念があるということは,Aの精神の本性essentiaを構成する限りで神のうちにXの十全な観念があるということなのです。いい換えれば,神がAという様態的変状modificatioに様態化した限りで,神のうちにXの十全な観念があるということなのです。
 この様式で説明される限りでのXの十全な観念は持続するdurareといわれる存在existentiaと解さなければなりません。なぜならAは現実的に存在する人間と仮定されていて,その存在の継続は限定されるからです。要するにAが死んでしまえばAの精神は現実的に存在することを停止するのであって,したがってその一部を構成するXの十全な観念も存在することをやめます。よってXの十全な観念は持続するものであって,永遠aeternumであるわけではありません。ただ,これはこの様式で説明される限りでのことです。確かにAが存在することをやめればAの精神のうちにあるXの十全な観念は存在することをやめるでしょうが,だからといってそれは,Aの精神のうちにあったXの観念が十全な観念であることをやめて混乱した観念idea inadaequataになることを意味しているわけではありません。たとえAが死んでも,Xの十全な観念はXの十全な観念なのであって,この限りではXの十全な観念は永遠です。つまり,現実的に存在するAがXを十全に認識するcognoscereというのは,Xを永遠のものとして認識するというのと同じ意味でなければなりません。これは現実的に存在する人間が事物を十全に認識するすべての場合に該当するのであって,共通概念notiones communesそのものを認識するときも,共通概念に基づいて理性ratioによる推論を行うときも,また第三種の認識cognitio tertii generisによって個物res singularisを認識するときにも妥当します。このことは第二部定理四四系二第五部定理二九から明らかだといわなければなりません。一方,十全な観念が存在することをやめるような要因としては,ここで説明したこと以外には考えられません。
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雲取賞&観念の実在性

2023-02-23 19:19:30 | 地方競馬
 第5回雲取賞
 ヒーローコールが逃げるのかと思っていましたが,トワシュトラールが逃げてヒーローコールは2番手に。3番手以下はマンダリンヒーロー,ナイトオブバンド,ウインドフレイバー,エスプリボクチャン,リアルガーの順でその後ろはタイガーチャージとグロリオサ。キャッスルバジオウは4馬身ほど離された最後尾で発馬後の正面を通過。向正面に入るところでトワシュトラールの外,半馬身差くらいにヒーローコールが続き,2馬身差でマンダリンヒーローとナイトオブバンドが併走という隊列に。最初の800mは51秒9の超スローペース。
 3コーナーを回ってヒーローコールはさらにトワシュトラールとの差を詰めていきました。その後ろは外のナイトオブバンドの方が前に出て,内のマンダリンヒーローは一旦は4番手に。直線に入るとヒーローコールが後ろを確かめてから追い出され,トワシュトラールを差して先頭に。そのまま抜け出すと後続の追い上げを許さずに優勝。一旦は4番手になりましたが,直線ではヒーローコールの外に出されて伸びたマンダリンヒーローが1馬身差で2着。逃げ粘ったトワシュトラールが2馬身半差で3着。
 優勝したヒーローコール鎌倉記念以来の勝利で南関東重賞2勝目。このレースはわりと力関係がはっきりとしていましたので,大きな波乱は起こらないだろうとみていましたが,上位人気に推された2頭による決着になりました。超スローペースで前にいたという点がヒーローコールにとって有利であったこともありますし,2着馬は追い上げを開始してから真直ぐに走れないようなところもありました。まだ現時点での完成度や仕上がり具合にも差があったかもしれないので,2頭の間ではっきりとした決着がついたとは断定しない方がよいかもしれません。よほど強力な転入馬がない限り,クラシックはこの2頭が中心に回っていくこととなるでしょう。父はホッコータルマエフロリースカップサンマリノの分枝。母のふたつ上の半兄に2001年の函館2歳ステークスを勝ったサダムブルースカイ
 騎乗した船橋の森泰斗騎手黒潮盃以来の南関東重賞51勝目。雲取賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞60勝目。第3回以来となる2年ぶりの雲取賞2勝目。

 スピノザの哲学で真理veritasといわれるのは,真の観念idea veraあるいは同じことですが十全な観念idea adaequataの総体です。したがって,たとえばXの真の観念というのはXについての個別の真理を意味します。同様にYの真の観念はYの個別の真理を意味しまたZの真の観念はZの個別の真理を意味するという具合に個別の真理が積み重ねられ,そうして積み重ねられた個別の真理の総体が,一般的に真理といわれることになります。つまり真理は観念ideaとしてあるいは客観的有esse objectivumとしてみられるべきであって,それは思惟の様態cogitandi modiです。このことにも反論はあり得るでしょうが,その反論についても深く追求する必要はありません。
                                   
 第二部定理七系の意味は,Deusのうちにある観念はすべて十全な観念であるということです。また,第二部定理三二がいっているのは,どのような観念も神に正しく帰せられさえすれば真の観念であるということです。一方,第二部定理七系自然Naturaのうちにあるあらゆる形相的有esse formaleの十全な観念が神のうちにはあるということをも意味するので,神のうちには十全な観念の総体があるということになります。いい換えれば神のうちには一般的な真理があるのです。これは他面からいうなら,神のうちには真理だけがあって,虚偽falsitasは存在しないということです。さらにスピノザの哲学では,十全な観念と混乱した観念idea inadaequataの関係が,真理と虚偽だけを意味するのではなく有と無という関係も同時に意味するのですから,神のうちにあるものはすべて有であり,無といわれるいかなるものも神のうちには存在しないということになります。このことはおそらく真理と虚偽の関係よりも,有と無の関係で理解する方が容易でしょう。神のうちにある観念は何らかの形相的有を観念対象ideatumとした観念であって,その形相的有というのは有であるか無であるかといえば,それ自体で明らかなように有です。よって有を観念対象とした観念は客観的有ideatumなのであって,無ではあり得ません。このときに注意するべきことがあるとしたら,十全な観念あるいは真の観念は,思惟の属性Cogitationis attributumの実在的有entia realiaであるとスピノザはいっているということだけでしょう。
 こうした客観的有,実在的有としての観念が,永遠aeternumなのです。
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東京中日スポーツ賞金盃&反論

2023-02-22 19:40:35 | 地方競馬
 第67回金盃
 発馬でドスハーツは1馬身,マンガンは3馬身の不利。外の方からランリョウオーが先手を奪いましたが,タイサイが絡んでいくような形になり,2頭で4馬身くらいの差をつけていきました。3番手にはメイショウワザシ。2馬身差でウラノメトリア。5番手にサンピュートとコバルトウィング。2馬身差でカイルとパストーソとセイカメテオポリス。3馬身差でコスモポポラリタ。11番手にサトノディード。12番手にブラヴールとトーセンブルとドスハーツ。5馬身差でサトノプライム。最後尾にマンガン。最初の1000mは63秒4のミドルペース。
 向正面で馬群が凝縮。3コーナーからはランリョウオー,コバルトウィング,サンピュート,ドスハーツの4頭が雁行。コバルトウィングは後退し,直線に入ってサンピュートが2番手に。さらに前をいく馬たちの間をトーセンブルが伸びてきて大外からセイカメテオポリス。トーセンブルが先頭に立ちましたが,トーセンブルとセイカメテオポリスの間からカイルが伸び,トーセンブルを差し切って優勝。トーセンブルがアタマ差で2着。セイカメテオポリスが半馬身差の3着。
                                   
 優勝したカイル東京ダービー以来の勝利で南関東重賞2勝目。東京ダービーも伏兵としての優勝で,さらにその後の4戦はいずれも1秒以上の差をつけられていましたので,ここも厳しいのではないかとみていました。このレースはペースアップをするのが早かったために,後方から脚を使うのを遅らせた馬たちが上位を独占する結果に。ですから長距離が向くということはあったにしても,展開面の恩恵を大きく受けての優勝だったという気がします。父は2004年にサラブレッドチャレンジカップ,2009年に黒船賞兵庫ゴールドトロフィー,2010年に兵庫ゴールドトロフィーを勝ったトーセンブライト。母の父はクロフネ。3つ上の半姉に2019年のNARグランプリで3歳最優秀牝馬に選出されたトーセンガーネット
 騎乗した大井の御神本訓史騎手はユングフラウ賞に続いての南関東重賞59勝目。第59回,63回,66回に続く連覇で金盃4勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞59勝目。金盃は初勝利。

 Deusは自由意志voluntas liberaによって,無を有esseにすること,あるいは虚偽falsitasを真理veritasにすることができるという主張があると仮定してみましょう。すると,スピノザが示している神はそうしたことが不可能であるのに対し,その本性essentiaに自由意志が属する神はそれが可能であることになります。したがって本性に自由意志が属する神は,スピノザが示している絶対に無限な神より多くのことをなし得ることになります。より多くのことをなし得る神は,その中になし得ないことが含まれている神より完全だということができます。よって,スピノザは神の本性に自由意志が属すると,神はなし得る事柄のすべてをなし得ないということになり,なし得ることのすべてをなし得る神より不完全であるというけれども,なし得る事柄のすべてをなし得ない神は,なし得る事柄のすべてをなす神よりも,なし得る事柄は多岐にわたるので,より完全な神であるということになり,なし得る事柄をすべてなす神が最高に完全summe perfectumであるというスピノザの主張は誤っているという反論が生じ得ます。
 僕はこの反論には誤謬errorが含まれていると考えます。スピノザも当然そのように考えると思いますが,この種の反論に対して詳しい解答を与えていません。もしかしたらスピノザは,このような反論があり得るということをあまり考慮に入れていなかったので,それについて詳述していないのかもしれません。そこで僕がスピノザ主義の立場から,この種の反論に対する解答がどのようなものになるのかということを考察していきます。
 まず最初に踏まえておかなければならないのは,スピノザは真理veritasというのは永遠のaeternusものであって,持続するdurareものであるとは考えていない点です。たとえば,平面上に描かれた三角形の内角の和が二直角であるということは真理です。この真理というのは永遠であるとスピノザは考えます。つまり,このことは昨日も真理であり今日も真理でありまた明日も真理であるだろうというように規定されるわけではなく,永遠から永遠にわたって真理であると規定されなければならないのです。このこと自体は否定するnegareことも可能ですが,その否定negatioのあり方についてはここでは考える必要はありません。
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棋王戦コナミグループ杯&なし得ないこと

2023-02-21 19:29:22 | 将棋
 18日に北國新聞会館で指された第48期棋王戦五番勝負第二局。
 渡辺明棋王の先手で角換わり相腰掛銀。先手が右の金の位置の工夫をした上で仕掛けたのですが,すぐに長考に入りました。後手の藤井聡太竜王の対応が,本命とみていたものと違っていたというのが最もありそうな理由です。とはいえ仮にそうであったとしても,いくらかの準備はあった筈だと思います。
 この将棋は互角の形勢が長々と続いていたのですが,両対局者の判断は,一時的に後手がよくなったものの,その後に後手が間違えたために,先手が指しやすくなったということで一致していました。トップ棋士の判断ですから,人間的にはそういう将棋であったと解釈してよいものと思います。先手はよくなったと思ったところで攻め急いでしまったと反省していましたが,そこまで悪くなったというわけでもなかったように思います。
                                        
 第1図で☗1一飛と打ちましたが,☖2四角打と受けられ,この2枚の角が最終的に先手玉を仕留めることになりました。たぶんここが最後の分岐で,先手は第1図では☗4一飛と打った方がよかったということになりそうです。
 藤井竜王が連勝。第三局は来月5日に指される予定です。

 Deusは善意によってあらゆることをなすとか,神の本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属するといったことは,哲学に詳しくない人でも,有していることがあり得る見解opinioではないかと僕は想定します。そうしたことは神が最高に完全summe perfectumであるということから帰結されているといえますから,それが真verumであったら神は最高に完全ではあり得ないという結論は,まさに神が最高に完全であるということを逆手に取ったものだといえるでしょう。よって『はじめてのスピノザ』の読者にとっても,それは逆手に取られたと感じる場合があり得ると僕は思います。
 この点に関連する考察はこれだけなのですが,この考察に関連して僕の方からいっておきたいことがあります。スピノザは神が最高に完全であるために,神はなし得る事柄のすべてをなすべきであって,なし得ることのすべてをなさないようなものは最高に完全ではない,いい換えれば不完全であると主張しています。したがってスピノザが定義する神は,なし得ることのすべてをなす神になるのですが,このことは,神はどんなことでもなすことができるということを意味するのではありません。少なくともことばの上では,このふたつのことの間には差異があるのであって,その差異に注目するなら,スピノザがいっている神にはなし得ないことというのがあると解さなければなりません。たとえば虚偽falsitasを真理veritasにすることとか,無を有esseにするということは,神にはなし得ないのです。いい換えればこれらのことは神のなし得ることのうちに入っていません。
 スピノザの哲学で厳密に考えると,実は虚偽を真理にすることと,無を有にすることというのは同じことを意味します。なぜなら,スピノザの哲学における真理というのは十全な観念idea adaequataあるいは真の観念idea veraの総体を意味し,虚偽というのは混乱した観念idea inadaequataあるいは誤った観念idea falsaの総体を意味します。このとき,十全な観念と混乱した観念の関係,同じことですが真の観念と誤った観念の関係というのは,単に真理と虚偽の関係だけを意味するというわけではなく,それと同時に有と無の関係をも意味するということにスピノザの哲学ではなっているからです。つまりそのひとつのことを神はなし得ません。
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施設整備等協賛競輪in伊東温泉&自由意志の観点

2023-02-20 19:16:31 | 競輪
 昨日の施設整備等協賛競輪in伊東温泉の決勝。並びは青野‐竹内‐佐藤の東日本,山口‐川口の岐阜,阿部‐隅田‐久保田の西国で石塚は単騎。
 山口と久保田がスタートを取りにいきました。内の山口が誘導の後ろに入って前受け。3番手に阿部,6番手に青野,最後尾に石塚で周回。石塚は結果的に東日本ラインを追走するレースになりました。残り4周のバックから青野が上昇開始。前を抑えにいくのではなく,阿部の外で併走を続けました。このまま残り3周のバックへ。その後のコーナーで青野はさらに上昇し,山口を叩きました。山口はすぐには引かず,このラインを追走した石塚の内で一旦は粘りました。打鐘前のバックから阿部が発進。ここから青野と阿部の先行争いに。この先行争いは最終周回のバックまで決着がつかず,阿部がいききれないとみた隅田が番手から発進。青野を捲り切りました。久保田の後ろに山口が続いて3人の優勝争い。外から伸びた山口が内のふたりを差し切って優勝。隅田が半車輪差の2着。久保田が4分の1車輪差の3着。
 優勝した岐阜の山口拳矢選手は昨年11月の大垣のFⅠ以来の優勝。グレードレースは一昨年の共同通信社杯以来の2勝目でGⅢは初勝利。この開催は全日本選抜競輪に出走しないメンバーでの争い。そういったメンバー構成では山口の脚力は他を圧倒していて,優勝候補の筆頭。初日の特選は失敗しましたがその後は3連勝でその期待に応えました。隅田が阿部の番手を回るレースになり,阿部はいききれなかったものの番手捲りのような形にはなりましたので,山口にとってよい展開であったわけではありません。直線の伸びは目立つもので,それがほかのメンバーとの力の差だったということでしょう。青野がよく頑張っただけに,竹内はもう少し何かできたのではないかとは思います。

 なし得ることのいくつかをなさないようなものは最高に完全summe perfectumとはいい難いので,神Deusが最高に完全であるためには,神はなし得ることのすべてをなさなければならないということから帰結するのは,神は自由意志voluntas liberaによって働くagereことはないということです。なぜなら,たとえばAとBの両方を神はなし得ると仮定して,自由意志によってAをなし,Bはなさないとするなら,神はBはなし得るのになさないということになります。つまり神はなし得ることのうちのいくつかはなさないということになります。よって神がこの種の自由意志によって働くと仮定すれば,神はなし得ることのすべてはなさないといわなければならず,したがって神は最高に完全であることができなくなるのです。
                                   
 神が善意によって何事かをなすということはないということがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに向けられた批判であるとすれば,神は自由意志によって働くものではないという批判は,デカルトRené Descartesに向けられたものといえます。デカルトが規定する神は,自由意志によって働く神であり,しかしこの神はなし得ることのいくつかはなさない神なので,最高に完全ではないというようにスピノザはいっているのです。ただ,これは哲学的な観点のみに向けられた意味であって,キリスト教神学における神も,自由意志によって働く神なので,そうした方面に対する批判にもなっていると解しておかなければなりません。スピノザが無神論者といわれるようになったのは,神が自由意志によって働くということを否定したからだという面が最も大きく影響したのであって,そのことはデカルトの哲学よりキリスト教の方が強く重視したといえるからです。とはいえ,確かになし得ることのすべてをなす者と,なし得ることのいくつかはなさない者とを比較すれば,なし得ることのすべてをなす者の方が完全であるというべきであって,なし得ることのすべてをなさない神,つまり自由意志によって神は働くと規定しているキリスト教にとってもデカルトにとっても,これはその規定を逆手に取られているといえるでしょう。
 たぶんこれらのことは,『はじめてのスピノザ』の読者にも適用することが可能だと僕は考えています。
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フェブラリーステークス&ライプニッツへの批判

2023-02-19 19:16:43 | 中央競馬
 カナダから1頭,浦和から1頭が遠征してきた第40回フェブラリーステークス
 メイショウハリオは発馬後に躓いて騎手がバランスを崩してしまい7馬身の不利。好発のレモンポップを外から追い抜いたショウナンナデシコの逃げ。2番手にジャスパープリンスとヘリオス。4番手にケイアイターコイズ。5番手はシャールズスパイト,ドライスタウト,レモンポップ,テイエムサウスダン,セキフウの集団。その後ろにアドマイヤルプス。11番手にオーヴェルニュ。12番手にソリストサンダー。13番手にケンシンコウ。3馬身差でスピーディキック。15番手にレッドルゼル。2馬身差の最後尾にメイショウハリオという隊列。前半の800mは46秒6のハイペース。
 直線の入口ではショウナンナデシコ,ヘリオス,ケイアイターコイズの3頭が併走。この中からはヘリオスが前に出ましたが,3頭の外に出されたレモンポップの手応えは楽で,ほどなく単独の先頭に。内目の馬群がごった返す中,後方2番手から外を回ったレッドルゼルが追い込んできたものの届くところまでいかず,楽に抜け出したレモンポップが優勝。レッドルゼルが1馬身半差で2着。発馬で致命的な不利があったメイショウハリオが2馬身半差の3着まで追い込みました。
 優勝したレモンポップは根岸ステークスからの連勝で大レース初制覇。今年はメンバーのレベルが低調でした。このレースはチャンピオンズカップから直行してきた実績馬が勝つというパターンが最も多く,そうでないなら根岸ステークスか東海ステークスの優勝馬がそのまま勝つという傾向。今年はこの傾向に該当するのがこの馬だけだったので最有力候補とはみていましたが,1600mより1400mの方がよさそうでしたし,主戦騎手が別の馬に乗ったこともあり,あくまでも相対的に押し出されての評価で,不安は感じていました。快勝ではありましたが,後方から追い込んだ馬が2着と3着に食い込むようなレースでしたので,ハイペースだったとはいえ全体のレベルは高かったとは思えず,どこまで評価してよいのかは僕にはまだ分からないところがあります。
 騎乗した坂井瑠星騎手は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース4勝目。フェブラリーステークスは初勝利。管理している田中博康調教師は開業から5年弱で大レース初勝利。

 これは何度かいっていることですが,このことは基本的にライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの哲学に向けられる批判です。いい換えれば,ライプニッツが神Deusは最高に完全summe perfectumであるということを肯定していると仮定して,そのライプニッツの見解opinioを逆手に取ったものだといえます。ライプニッツのモナド論では,無限に多くのinfinitaモナドMonadeの中から最善のモナドを選択した結果effectusが現にある世界であるということが基本路線となっていて,これは神が善意によってモナドの選択を行うといっているのに等しいからです。したがってライプニッツがいっている神は,善bonumによって駆られるような存在者であることとなり,最高に完全であるということにはなりません。つまりライプニッツの哲学では,神は存在するけれども善という目的finisのために働くagere,最高に完全な存在者ではないということになるのです。
                                   
 ライプニッツはヤコービFriedrich Heinrich Jaobiとは異なり,キリスト教への深い信仰心があったと断定することができるわけではありません。ただ自身の立場上,キリスト教的な神を保守しなければならなかったので,神が最高に完全であるということを否定するnegareわけにはいきませんでした。もっともこのことは,ライプニッツがそれを無視して,哲学的に神を考えたとしても,同じことではあったでしょう。もしもライプニッツが自身の立場を無視して神について考えるconcipereことができたのであれば,スピノザと同じように,善にによってすべてのことをなす神が最高に完全ではないということを肯定するaffirmareことができたかもしれません。要するにライプニッツのモナド論というのは,ライプニッツというひとりの哲学者が編み出した論理であったわけではなく,社会的な立場から便宜的に編み出したものという可能性がないわけではありません。スピノザがライプニッツのモナド論で示されているような神を批判することができたのは,スピノザは守るべき社会的立場をもたない在野の哲学者であったことも大きかったと僕は思います。
 もうひとつは,神が最高に完全であるならば,神はなし得ることのすべてを現になさなければならないということです。もしも神がなし得ることのいくつかをなさないとすれば,最高に完全であるとはいい難いからです。
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作意&目的の観点

2023-02-18 19:06:32 | 歌・小説
 小説という作品に入ることと出ることというのは,小説の作者についてもいえますし,読者についてもいえます。いい換えればふたつの観点から考えることができます。しかしこれだけではなく,もう少し複雑な観点があります。というのは小説の構造として,作品の登場人物がそれを書いているという形式,登場人物のひとりが作品内作者になっているものがあるからです。夏目漱石でいえば『彼岸過迄』や『こころ』,ドストエフスキーなら『虐げられた人びと』や『悪霊』がこれに該当します。この場合はその作品内作者が中に入っているわけですから,その作者が外に出るという観点が含まれることになります。
                                           
 しかしこのような小説は形式がそうなっているというだけであり,実際には作品内作者を設定している作者がいるわけです。すると,作品内作者の作意と,作品内作者を設定している作者の作意が異なってしまう可能性があります。なのでこのような作品の場合は,中立的な外界ということの意味も多重になってきます。
 『虐げられた人びと』は作品内作者が明らかに無能な作家になっています。これはそれを書いているドストエフスキーの作意が大きく影響しているのであって,作家が鋭敏な推理力や想像力をもっていない方が,物語としてはダイナミックになるだろうと考えているわけです。いい換えればその作意が僕がいうこの作品の失敗の原点になっています。したがって,『虐げられた人びと』を書くにあたって,ドストエフスキーは小説の世界に入り込みすぎてしまったという見方ができるでしょう。
 『悪霊』も僕には明らかな失敗が含まれているとみています。それは作品内作者である記者が知り得ないことまで知っているという前提で書かれている部分が含まれているからです。この場合は作意とは別の問題といえるかもしれませんが,やはりドストエフスキーが物語の中に入りすぎてしまっているといえるでしょうし,逆に作品内作者という設定を重視するなら,登場人物としての記者が,物語の外に出すぎてしまっているともいえるでしょう。

 『はじめてのスピノザ』の読者として想定されるような人に対する意義は,僕にはふたつあると思いますので,順に説明していきます。
 まず,神Deusが最高に完全summe perfectumであるのであれば,神の外から神を駆って神に何かをさせるようなものは何も存在しません。これは神の外には何もないということを同時に意味していて,したがって神は内在的であるという結論とも関係するのですが,そのことは想定される読者にとっての意義とはいえないと僕は解していますから,ここでは詳しく説明しません。ここではこのことを神の側からみてみます。すると,神は何かのために何事かをなすことはないということが出てきます。なぜなら,たとえば神がある事柄のために何かをなすなら,神はその事柄のために存在することになりますから,その事柄は事実上は神の外から神を駆って神に何かをさせるものであるといわなければならないからです。よって,神の外に何か目的finisがあって,その目的に合致するように神が何かをなすことはないのです。
 このことは根本的には目的というものは神のうちにあるものではなく,人間が想像の下に拵えたものであるということになります。これはこれで重要です。スピノザが原因causaというのは起成原因causa efficiensであって,目的原因causa finalisではないということなどはこのことから帰結するといえるからです。しかしここで僕がいいたいのはそのことではなく,神が何かの目的のために働くagereということはないということ自体です。つまり,神が完全であるためには神が何らかの目的のために働いてはならないのであって,このことは『はじめてのスピノザ』の読者にとっても,逆手に取られたと感じる場合があると思うのです。
 たとえば,神は善意をもってすべてのことをなすと仮定してみましょう。この考え方は,善bonumという目的がまずあって,その善のために神が働くといっているのと同じです。つまり神の外に善があって,その善が神を駆って神に善をなさせるといっているのと同じなのです。ですからこういう主張をするなら,最高に完全なものとしての神は存在しないというか,神は存在するけれども最高に完全ではないというかのどちらかでなければならないのです。
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印象的な将棋⑱-6&読者への意義

2023-02-17 19:14:09 | ポカと妙手etc
 ⑱-4で示したふたつの疑問のうち,その第1図ですぐに☗2七銀と打ってはいけない理由は⑱-5で説明しました。そこでもうひとつの疑問の,なぜ玉のそばに銀を打つのではなく,離れた位置に☗2七銀と打たなければならない理由を説明していきます。
 ⑱-4の第1図から☗2一飛☖3一歩に,たとえば☖3八金を防ぐために☗4九銀と打ったとすると第1図になります。
                                         
 この図で先手がなぜまずいのかということは,すぐに☗2七銀と打ってはいけない理由から何となく想像できるのではないでしょうか。第1図では後手から☖3六金ないしは☖2七金と打つ手があって,これは⑱-5の第1図より難しいところがあるものの,詰めろを続けて先手が勝つということが難しいのです。つまり銀を2七に打たなければいけないのは,☖3六金や☖2七金を防がなければならないからなのです。
 もちろん⑱-4の第1図から☗2一飛☖3一歩に☗2七銀と正しい手順で受ければ,先手は勝ちとはいえないものの優位を維持することはできます。ただこの手順がきわめて難しかったがために,ここで妙手が発生することになったといえるのではないでしょうか。

 國分が指摘しているように,確かにスピノザは,最高に完全summe perfectumという神Deusの評価を逆手にとって,神は超越的ではなく内在的であるということを帰結させたのです。ただ,このことが『はじめてのスピノザ』の読者,現代の日本人のスピノザの入門者にとって,どれほどの意味があるのかということは疑問が残ります。というのは,このことはたとえばヤコービFriedrich Heinrich Jaobiのように,キリスト教に深い信仰fidesを有している人間にとって大いに意義があることであって,逆手に取られたというように感じることでしょうが,僕が想定している『はじめてのスピノザ』の読者は,そのような信仰は有していない人が大多数であろうと思うからです。
 神が最高に完全であることは,おそらく僕が規定している読者もイメージとしては有していると思います。そしてそのような人の大部分は,おそらく意識はしていないだろうけれど,超越的なものとして神をイメージしているだろうと僕は推測します。しかしそうした人びとが,そのことを意識しているかどうかといえばたぶん意識はしていないのであって,神が超越的なものであるか内在的なものであるのかということについて,はっきりとした見解opinioを有していない,正確にいれば自分がそのことについて見解を有してることをよく知らないという場合がほとんどでしょう。
 スピノザが神を絶対に無限absolute infinitumと定義することによって,そうしたイメージを覆すということ自体は有意義です。神は最高に完全であるというイメージはもっていたけれども,スピノザが示している神は自分がもっていたイメージとは違うものだということ知ることによって,自身がイメージしていた神がどのようなものであったのかということを知ることができるからです。しかしだからといって,ヤコービがそう感じたようには,それで自分のイメージを逆手に取られたというようには感じないでしょう。ただ単に違っていたというように感じるだけです。
 僕は最高に完全であるという神に対する評価を逆手に取ったということは,『はじめてのスピノザ』の読者にも成立すると思います。これは國分が指摘している,スピノザの神は自然科学的なものであるということと関連します。
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悪の確知&成功

2023-02-16 19:25:42 | 哲学
 第四部序言と第四部定義一でいわれていることについて,善の確知については僕がこのブログで確知するcerto scimusということの意味の通りに解釈してよいですし,むしろそのように解釈するのが適切であるといえます。一方,悪malumの確知についても,基本的にはこの路線で解釈して大丈夫です。というのも,第四部序言でも第四部定義二でも,善bonumの否定negatioというような形で規定されているのですから,善についての解釈がそのまま悪についても適用されるといわなければならないからです。とくに,善の妨げになるという点に着目するなら,なおのことそういえるかと思います。
                                    
 ただし,第四部定理八は,悲しみtristitiaの認識cognitioが悪であるといっていますので,こちらに注目する場合は注意が必要になります。とくに僕は,この定理Propositioを利用することによって,善の確知を僕が確知するという意味で解釈してよいとしていますので,この注意はとくに必要であるといえます。
 第三部定理五九から理解することができるように,能動的な喜びlaetitiaというのはあるのですが,能動的な悲しみというのはありません。いい換えれば,善の認識というのは能動actioではあり得るのですが,悪の認識というのは能動ではあり得ず,常に受動passioです。したがって,僕が善を確知するというときは,能動的である限りでは疑い得ないから確知するのであり,また受動的である限りでは単に疑わないというだけです。ところが,悪の認識は常に受動的な認識ということになるので,疑い得ないからそれが悪であると確知するというケースはありません。単に疑わないという意味でそれを確知するのです。喜びと同じように,ある人間が自分の悲しみを意識しているというときにはその人間は事実として悲しんでいるといわなければなりませんが,だからといってそれを悪と認識するとき,それが悪であることを疑い得ないという意味で確知するのではありません。単に疑わないというだけなのです。
 これは不自然に思われるかもしれませんので,なぜそのようなことが生じるのかを後に詳しく説明することにします。

 第一部定理一五は,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estといっています。また,第一部定理一八は,神は内在的原因causa immanensであって超越的原因causa transiensではないといっています。これらふたつは,スピノザの哲学が内在の哲学であることを根本から支える定理Propositioであるといえるでしょう。ただこれらの定理は,第一部定義六のように,神を絶対に無限absolute infinitumと定義さえしてしまえば,必然的にnecessario流出してくる,絶対に無限である神の本性essentiaから必然的に流出してくるような定理です。そしてスピノザが第一部定義六のように神を定義したのは,世間的には神は最高に完全summe perfectumとみなされていて,あるものが最高に完全であるためにはそのものの本性が絶対に無限でなければならないからでした。したがって,それが最高に完全な存在者であるという世間的な神の評価から,内在の哲学が導かれているのであって,これは世間的な神の見方を逆手に取ったものであるといえるのです。なぜならこれは,神に対して一切の超越性を否定するnegareような結論であるからです。
 近藤和敬が『〈内在の哲学〉へ』という著書を出版したように,これはこれで重要な要素です。とくにキリスト教神学との関連においては重要です。というのも,先述したようにこの考え方は,神が超越的であるということを否定する思想だからです。もちろんキリスト教においても,神が最高に完全であるということは否定されません。しかしもしもそれを否定しないのであれば,神が超越的であるということも肯定するaffirmareことはできないのだとスピノザは主張したのであって,スピノザの主張をこのような観点から把握する限り,確かにスピノザは世間的な神の評判を逆手に取ったのだし,また逆手に取ることに成功したのだとさえいえます。後に神学的な観点からスピノザを否定しようとしたヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが,スピノザの論理自体は完全であるから,それは超越論的な視点からしか否定することができないという主旨のことを認めたのは,まさにスピノザの論法が,神学的観点を重視しようとするヤコービに対して説得力をもっていたからであり,そのこと自体が,神は最高に完全であるということを逆手に取ったスピノザの成功であるといえることになるのです。
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ユングフラウ賞&神の定義

2023-02-15 19:10:02 | 地方競馬
 桜花賞トライアルの第15回ユングフラウ賞
 好発はクラティアラでしたが,外から勢いよくエイシンエイトとハーンドルフが競り合いながら追い抜いていきました。2頭の先行争いは内のエイシンエイトが制し,向正面に入るあたりで6馬身くらいのリードとなりました。控えたハーンドルフが2番手で3番手以下はアトカラツイテクル,クラティアラ,ポーチュラカの順。6番手にデザートウインドとワイズゴールドで8番手にサーフズアップ。4馬身差でマカゼ。6馬身差でボルドーグリフォン。エイシンレアが11番手で最後尾にマインドユアミモザという隊列。最初の600mは35秒6の超ハイペース。
 逃げたエイシンエイトは3コーナーで一杯。ハーンドルフとアトカラツイテクルが並んで前に出ましたが,コーナーの途中ではアトカラツイテクルが単独の先頭に。デザートウインド,クラティアラ,サーフズアップの3頭が追い上げてきました。アトカラツイテクルが単独先頭で直線に。外からデザートウインドが2番手に上がると,さらに外からサーフズアップ。デザートウインドは伸びを欠きましたがサーフズアップはアトカラツイテクルを追い詰め,内と外で離れて並んでフィニッシュ。差し切っていたサーフズアップが優勝。アトカラツイテクルがアタマ差で2着。デザートウインドが1馬身差で3着。
 優勝したサーフズアップはこれが2勝目で南関東重賞初制覇。ローレル賞が2着,東京2歳優駿牝馬は3着と,2歳の牝馬路線で堅実な成績を残していましたので,今日のメンバーでは実績上位の1頭。ですので優勝自体は順当といえるでしょう。桜花賞に進むものと思いますが,これまでの成績からは有力候補の1頭という評価になりそうです。距離は延びた方がいいのではないでしょうか。母の父はゴールドアリュール
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は東京シンデレラマイル以来の南関東重賞58勝目。ユングフラウ賞は初勝利。管理している船橋の山下貴之調教師は南関東重賞は6勝目。ユングフラウ賞は初勝利。

 第一部定義六を読めば分かる通り,スピノザが神Deumの定義Definitioとして採用したのは,最高に完全summe perfectumということでなく,絶対に無限absolute infinitumであることでした。要するにスピノザにとっての神の本性essentiaは絶対に無限であって,神が最高に完全ということは,この絶対に無限という神の本性から必然的にnecessario流出してくる特質proprietasのひとつであったのです。他面からいえば,あるものが最高に完全であるのであれば,そのものの本性は絶対に無限でなければならないとスピノザは考えていたと理解することができます。そして実際に,ひとたびあるものが絶対に無限と定義されてしまえば,そのものが最高に完全であるということを否定するnegareことはできないでしょう。
                                   
 この部分でもスピノザは世間の評価を逆手に取っているとみなすことができます。なぜならスピノザのこの論法は,神が最高に完全であるということを出発点としているわけではないからです。むしろ出発点といえるのは,もし何らかのものたとえばXが最高に完全であるなら,Xの本性は絶対に無限でなければならないというテーゼの方なのです。そこで世の中では神は最高に完全であるとみなされているので,神の定義としては絶対に無限であるということが相応しいとされ,第一部定義六のように神が定義されることになります。つまりスピノザにとって重要なのは,神が最高に完全であるということなのではなくて,神は最高に完全であるとみなされているという点なのであって,そのことをスピノザの論法のレールに乗せると,神は絶対に無限であるということが帰結するのです。したがって,神が最高に完全であるというようにみなしている側からみれば,スピノザ敷いたレールの上を走って.神の本性は絶対に無限であるという地点に到着するほかないのであって,これは自身の見解opinioを逆手に取られているとみることができるのです。
 『はじめてのスピノザ』では,このことが内在性との関連で説明されています。すなわち,あるものが絶対に無限であるならそのものを超越する何ものも存在し得ないので,すべてはそのものに内在する,第一部定義六を重視していえば,すべてのものは神に内在することになるという観点です。
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戸口の雑感⑭&歴史的事実

2023-02-14 19:39:36 | NOAH
 戸口の雑感⑬の最後のところで示した馬場流のやり方というのは,ジャンボ・鶴田と戸口の関係についても妥当していたようです。鶴田は全日本プロレスに入団してデビューした選手で,戸口は大木金太郎に請われる形で全日本プロレスで仕事をするようになったので,全日本プロレス内における出自は異なります。ただ,戸口は馬場は自分のことを外様扱いはしなかったと語っています。少なくとも戸口が日本陣営で試合をするようになってからは,馬場の鶴田と戸口に対する扱いは,不平等なものではなかった,戸口はそのように感じていたということでしょう。馬場,鶴田,戸口という序列だったけれども,将棋でいえば馬場が玉なら鶴田と戸口は飛車と角で,それほど差がない形だったと戸口は語っています。
 ただし,鶴田と戸口のタッグで暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦に出場することはありませんでした。馬場のパートナーは鶴田で,戸口は適したパートナーがいなかったので,入団後は世界最強タッグ決定リーグ戦には出場していません。同様にインタータッグの王者も馬場と鶴田のままで,戸口が鶴田と組んで王者になることはありませんでした。これについて戸口は,馬場は別のパートナーでもよかったと思うけれども,一歩引こうとしなかったとしています。この部分には戸口の馬場に対する不満が含まれているといえるでしょう。馬場が鶴田をパートナーとするのをやめたのはもっと後,テリー・ファンクの引退に伴ってドリー・ファンク・ジュニアと組むことにして,鶴田の正式なパートナーが天龍源一郎になったときです。たぶん馬場はこのときと同じような仕方でパートナーをチェンジすることが不可能だったとは思いません。馬場が何を考えていたのかまでは分かりませんが,馬場の気持ちが,戸口および天龍というふたりのレスラーの人生にいくらかの影響を与えた可能性はありそうです。
 もしもこのとき,鶴田が馬場に,自分は戸口を正式なパートナーにした方がいいのではないかと進言していたら,あるいは変化が起こったのかもしれません。ただ,鶴田はそうしたことをする選手ではなかったし,また,それができないのも仕方がない面もあったと戸口はみています。

 一般的にはDeusは最高に完全summe perfectumでなければならないと解されています。これは神を宗教的なものと解しても,そうではなく哲学的なものと解したとしても同じです。もしそれより完全性perfectioにおいて優る何者かがあるとすれば,そうしたものについてそれを神というには相応しくありません。他面からいえば,人びとは最高に完全な存在者についてそれを神といってきたのであり,また神と解してきたのです。これは歴史的なものであって,覆すことができない厳然たる事実であるといってよいでしょう。したがって,たとえばデカルトRené Descartesの哲学でも,神の定義Definitioは,基本的に最高の存在者ということになっています。
 スピノザは最高に完全ということを神の定義とすることを拒否しました。ただし,それは神が最高に完全であるということを否定したという意味ではありません。スピノザの哲学は原則的に唯名論で成り立っていますので,そうしたものを神といわなければならない理由はないのですが,一般的に神は最高に完全であるといわれ,またそのように解されているのであれば,神についてそれを否定するnegareところから哲学を始めるならば,國分が指摘しているような,そうした一般的な解釈を逆手に取るということもできなくなります。したがって,スピノザの哲学でも神は最高に完全な存在者ですし,最高に完全な存在者のことを神ということはスピノザの哲学の中でも成立しています。スピノザがいっているのは,ただそれは神の定義ではないということです。
                                   
 スピノザの哲学における定義は,定義されるものの本性essentiaを示し,かつ定義されたものの発生を示すということが求められています。これはすべての場合に成立するというわけではないのですが,ここでは定義論の考察を繰り返すことはしません。それはそれで別に考察しましたので,この点についての詳しいことは該当部分を参照してください。スピノザがいわんとしているのは,最高に完全であるということは,神の本性には属さないということです。一方でスピノザが神が最高に完全であるということを肯定するaffirmareというのは,神の特質proprietasとしてそれを肯定するということです。この特質は神の本性から必然的にnecessario流出します。
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